出典を読む
『竜門雑誌』第316号(竜門社, 1914.09)p.11-15
講話
◎道徳的覚醒
青淵先生
本篇は「実業之世界」に於て「実業廓清号」を発行するに就さ[き]て同記者が例により青淵先生を訪ひて廓清の意見を求めたるものに係り九月十日発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)
廓清とは、現在既に溷濁に陥つて居るもの若くは将来に腐敗の漸次高まらんとする傾向のあるものを革め清むるの意であつて、文字其物から既に忌しき感じを与へる。而も既に溷濁あり腐敗ある以上、之を革め清むるのは必須の事である[、]処が謂はゆる其の廓清を唱へ、道徳を論じ、忠孝を鼓吹するの時代に於て、其の社会が真に廓清され、真に道徳が行はれ、真に仁義忠孝の精神を振起されるのは甚だ稀である。唯だ徒に其の声のみ高いことが多い。悪い例を取つて他を譏るやうであるが、彼の道徳の本家本元とも云ふべき支那に於てはどうであるか、今日尚ほ孔子教が一般に称へられて居るに拘らず、其の多数の人々――政治家、学者、実業家は勿論其他各人の為す事に就て之を仔細に観察すると、殆んど仁義道徳に適つた行ひが無いではないか。学者は暫らく措く、其の政治の変幻常なく、殆んど譎詐百端の有様なる、実業家の利に唯だ是走る、甚だしきは人を欺き、物を掠めて利のある所に赴く、謂はゆる奪はずんば、饜かずの風を為して居る。而も其の説く所は仁義道徳であるとすれば、寧ろ仁義道徳は禍なる哉と云ふべきである。考へやうに依つては廓清を論ずる程腐敗の度が却つて進みはしないかとさへ危まれるのである。兎に角、啻だ雑誌新聞の上で之を評論するのみでは到底其の目的を達する事は出来ない。各個人が真に社会を廓清するの熱烈なる意志を持ち、多数相誓つて力を尽すのでなければ、謂はゆる『上下交〻征利而国危矣』といふ情態に陥るに至るであらうと思ふ。是は私の年久しく憂慮して居た事である。
元来富は個人から言へば自己の財産を増し、社会から言へば国の生産を豊かならしむる本源であるから、得て相対比するの弊を生じ易い。彼よりは我に其の富の多からんことを欲するのが人情である。例へば此処に同業者が二人ありと仮定する。表面は互に相親しみ相助け合つて居るけれども、それは単に形式に過ぎない。其の実は相競ひ相闘つて居るのである。さうして互に自己の富の彼よりも多からん事に努めて居るのである。是は人間の一の天性と云つてよい。
由来、競争は何物にも伴ふもので、其の最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいふ塲合である。其他、朝起きるにも競争がある、読書するにも競争がある。また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにもそれ〴〵競争がある。けれども是等後の方のものに於ては余り激烈なものを認めない。然るに競馬競漕となると、命を懸けても構はないといふ程になる。自己の財産を増すに就ても是と同様で、激烈なる競争の念を起し、彼よりも我に財産の多からん事を欲する。其の極、道義の観念も打ち忘れて、謂はゆる目的の為には手段を選ばぬといふやうにもなる。即ち同僚を誤り、他人を毀け、或は自ら大に腐敗する。古語に『富をなせば仁ならず』といふのも、畢竟さういふ所から出た言葉であらう。アリストートルは、『総ての商売は罪悪なり』と言つて居るさうであるが、それはまだ人文の開けぬ時代の事で、如何に大哲学者の申分とあつても、真面目には受取れない。併し孟子も『富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず』と言つて居るから、等しく味ふべき言葉である。
思ふに此の如く道理を誤るやうになつたのは、一般の習慣の然らしめた結果と云はなけれど[ば]ならぬ。元和元年に大阪方が亡び徳川家康が天下を統一し、武を偃せて復た之を用ひない時代となつて以来、政治の方針は一に孔子教より出て居つたやうである。その以前、支那或は西洋に相当の接触もしたのであるが、会〻ゼシユイツト教徒が日本に対して恐るべき企を持つて居るかに見えた事があつた。或は宗教に依つて国を取るのを其の趣意として居るなどと云ふ書面が和蘭から来たといふやうな事から、海外との接触をば全く断つて、僅かに長崎の一局部に於てのみ之を許し、内は全く武力を以て之を守り治めた。而して其の武力を以て治める人の遵奉したのは実に孔子教であつた。修身斉家、治国平天下の調子で治めるといふのが幕府の方針であつた。故に武士たる者は謂はゆる仁義孝悌忠信の道を修めた。さうして仁義道徳を以て人を治める者は、生産殖利など関係する者でない、即ち『仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず』を事実に於て行つたのである。人を治める方は消費者であるから生産には従事しない。生産利殖の事をするのは、人を治め、人を教ふる者の職分に反するものとして謂はゆる武士は食はねど高楊子といふ風を保つた。人を治める者は人に養はる〻者也、人を養ふ者は人に治めらる〻者也、故に人の食を喰む者は人の事に死し、人の楽を楽む者は人の憂を憂ふといふのが彼等の本分と考へられて居た。生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携はるものとされて居たから、恰も総ての商業は罪悪なりと言はれた昔と同様の状態であつた。是が殆んど三百年間の風をなした。それも初めの間は極く簡易な方法で宜かつたかも知れないが、次第に知識は减じ、気力は衰へ、形式のみ繁多になり、遂に武士の精神廃り、商人は卑屈になつて、虚偽横行の世の中となつた。
それで徳川の政府は、外国と接触せず諸藩の跋扈を見なくとも、既に破滅の域に達して居たのである。そこへ海外との関係の急迫するものがあつて、明治の維新となつたのである。
一揺ぎ揺いで茲に維新の大改革となつた。治める人治められる人の分界を去り、又商売の範囲も狭い区域にあつたものが、世界を股にかけての大活動を試みなければならぬといふ事になり、又日本内地だけの商売でも、主なる品物の運送、蓄積等は従来大抵政府の力に依つて行はれて居つたものが、それも一切個人の働きでしなければならぬといふ風に遷り変つて来た。商人から言へば全く新天地が開かれたのである。さうして彼等も相当の教育を受けなければならぬことになつた。商であれ工であれ、一の手続を教へ、或は地理、或は物品、品目に[、]或は商業の歴史に、兎に角、商売を繁昌させるに就ての必要な知識だけは世界の粋を抜いて教へるといふ風になつた。けれどもそれは主として実業教育であつて道徳教育ではなかつた。寧ろさういふ事は措いて問題にしなかつた。そこで自分の富を増さうとする人が続々と出て来る。俄分限が出る。僥倖で大富を得た者もある。それが刺激となり誘惑となつて誰でもさういふ事を狙ふやうになる。斯くして益〻富を殖やす方にのみ相挙つて進む。そこで富む人は弥〻富む。貧しい者も富を狙はうとする。仁義道徳は旧世紀の遺物として顧みない。寧ろ殆んど其の何たるかを知らぬ。唯だ知識だけを以て自家の富を増すに汲々乎たる有様である、腐敗に傾き、溷濁に陥り、堕落混乱を来す、固より怪むに足らない。勢ひ廓清を叫ばなければならぬ事にもなるのである。
然らば如何にして其の廓清を計るべきであらう。一般に正当なる利益を進める方法を忘れて徒らに利慾の餓鬼となる結果、此の如き道徳を滅却するやうな状態に陥るといふ事は前に言つた。然し其の行動を憎むの余り、生産殖利の根本をも塞ぐといふまでに立至るのは、甚だ取らない。例へば男女の品行の甚だ猥褻に流れるのを嫌うて、自然の人情までも断つといふ事は、甚だ不条理な事でもあるし、また行はれ難い事でもある。終には生成の理を失つてしまふ事になるのである。実業界の腐敗堕落に対しても、唯だ之に対して攻撃戒飭を加へるといふ方にのみ力を尽すのが適当なる廓清であるか否かは余程注意すべき問題であつて、或は却て為に国家の元気を失ひ、国家の真実の富を毀損するやうな事にならぬとも云はれぬ。廓清といふ事はなか〳〵むつかしい。旧に復つて、治める方の種類の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人は成るたけ制限して極く小さい範囲に棲息せしむるやうにして行つたならば、其の弊害を减ずる事が出来るかも知れないが、それでは国の富の進歩は止つてしまふ。そこで飽くまでも富を進め、富を擁護しつつ、其の間に罪悪の伴はぬ神聖な富を作らうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ。それは即ち私が常に言つて居る所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは决して矛盾しない。だから其の根本の理を明かにし、斯くすれば此位置を失はぬといふ事を我人共に十分に考究して、安んじて其の道を行ふ事が出来たならば、敢て相率ゐて腐敗堕落に陥るといふ事なく、国家的にも個人的にも、正しくして富を増進する事が出来ると信ずる。
其の方法として、日常の事に就き斯かる商売には斯く斯く、斯かる事業には斯く斯くと茲に詳述する訳には行かないが、第一の根本たる道理といふものは必ず生産と一致するものである。而して富を為すの方法手段は、第一に公益を旨とし、人を虐げるとか、人に害を与へるとか、人を欺くとか或は偽るとか云ふ如き事のないやうにしなければならぬ。さうして各〻其の職に従つて尽すべき智慧を尽し、道理を誤らぬやうにして富を増して行くといふ事であるならば、如何に発展して行つても他と相侵すとか相害するといふ事は起らぬと思ふ。神聖なる富は此の如くして初めて得られ続けられるものである。各人各業が此の域に達したならばそこで廓清は遂げられたのである。
処で、実業と言へば総括的な言葉で、其中には金融業者もあれば運送業者もあり、機械製造業者もあれば保険業者も[あ]り、倉庫業者もあれば物を売買する者もある。殆んどあらゆる生産的業務を総称して実業といふのである。而して其の期する所は生産殖利にあるが故に、兎角この方面のみ弊害が現はれるやうに見える傾きがある。けれども腐敗と云ひ堕落といふ現象は、果して実業界にのみ認めらるべきであらうか[、]寧ろ他の方面に於て却つて其の傾向を認める現在の情態ではないか。軍事界にしろ、教育界にしろ、政治界にしろ、この腐敗堕落のバチルスは甚だしく瀰漫して居るではないか。豈に単り実業界の革新をのみ叫むべきであらうぞ。
蓋し今日の如く人心が溷濁して了まつたのは、唯だ徒らに富を増したいといふ念慮の嵩漲した結果であつて、直接にそれが現はれたのは実業界である。併し富を増したいといふ意念は、単り実業に従事する者のみが持つて居るのではない。そこでそれが又各種の方面に現はれて来たのである。要するに責は一般社会人の負ふべきものである。だから根本の問題は人心の覚醒、一般国民の道徳的覚醒に依らなければならぬもので、単に実業界のみに対して覚醒を望むも殆んど不可能の事に属すると思ふ。例へば人類の生存は空気の力に依るものとすれば、この種族に好い空気を与へ、彼の種族に好い空気を与へないでも宜いといふ理は有り能はぬ。故に財産を一の空気と見て、之に強烈なるバクテリアを保たすれば、之が何れの方面にも感染して、腐敗もし、堕落もするのである。単に実業界のみを廓清したといつて、それで満足すべきものではない。また実業界だけ廓清するといふ事が本当な意味に於て行はるべきものでもない。どうしても一般の人心を廓清するのでなければ、真の廓清は期し難いと信ずる。