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『竜門雑誌』第310号(竜門社, 1914.03)p.17-25

演説及談話

◎日米国交と予の関係

青淵先生

本篇は青淵先生が正岡猶一氏の請ひに応じて日米国交に関せる顛末の概略を語られたるものなり正岡氏は尚ほ他の諸名士の説を蒐集し之を英訳して一書と為し他の用向にて渡米の序でに之を米国諸名士の間に配附する考へなりと云ふ。(編者識)

 亜米利加に対する私の感情は妙な縁故から随分古い経歴を有して居る、今を距る六十年の昔嘉永六年の夏コモドル、ペリイが浦賀へ来た時が私の十四の夏である、田舎の百姓であるから海外の事情を詳に知つて居る訳ではなかつたが、丁度其年に私は親に連れられて東京へ出[て]来た、少年時代から聊か漢籍を読んで、「身を修め家を斉へ国を治め天下を平かにする」のが人の務めだと云ふ感じを常に持つて居つた、爾来世の中は頻りに外交問題が起つて日本の国家が如何になるであらうかと、志ある者は上下挙つて憂慮するやうな時態になつた、既に少年の時分に彼のペリイの乗つて居る異国船が渡来したと云つて其頃の市中の混雑した事に就ては子供心にも深い感じを持つて居つたから数年の後に外交問題から日本に動揺を来したと云ふ事は、私には非常に強い印象を与へた、従つて亜米利加と云ふ文字は第一に私の心に深く感じたのである、勿論外交と云ふものは亜米利加ばかりではなく、英吉利も仏蘭西も独逸も露西亜も其他の国々も和親通商を求めて各国から使節も来ると云ふやうな訳であつたから、日本の外交は単に亜米利加ばかりに依て遂行せられたのではないが、私の心には少年の時から特別に印象を与へられて居つたから、亜米利加と云ふ事が余計に自分の頭脳に響が強かつたのである。

 亜米利加の日本に対する国交は第一にコモドル、ペリイ、続いて其時の総領事としてタウンセンド、ハリスと云ふ人が来られたが、下田条約に就ては此ハリスが実に親切に日本の為めに計つて呉れた、其当時は私も此等の事情は素より詳しくは知らなかつたけれども、其後追々に外交の事を調査するに従つて其事実が分つて来たのである、殊に此ハリスに附属して居つた和蘭人のヒユーズケンと云ふ人が日本語を能くして通訳をして居つたが、此人が不幸にして其頃の攘夷論の暴客に殺害せられた、之れが為に各国の公使は皆日本に向つて強圧手段を施して、江戸にあつた公使館を引揚げ、横浜港に碇泊する軍艦から水兵を揚げて公使を警備すると云ふやうな事になつたが、其時にハリスは一人毅然として、夫れでは一国に対する礼儀を失ふものである、左様に日本を野蛮視してはならぬ、何処までも一国の体面を保たしめ尊敬を以て交際をせぬならぬと云つて、暴客の多い中に安んじて江戸の公使館(麻布の善福寺)を維持して横浜港へ引上げなかつた、是れは実に日本の亜米利加を徳とする所である、是れより以前もハリスは日本条約を締結するに就て常に礼儀を重んじて交際の道を尽した、ペリイの行動は或る点には多少圧迫も見えたけれども亜米利加の国の使命たる本分を失はぬやう、礼儀を損ぜぬやうと云ふ主義をばペリイも能く守つたのである、故にペリイの処置も大に喜ぶべき事であるけれども、より以上にハリスの行動は実に親切にして礼儀を重んじた所作であつたと云ふ事は、単り私が深く感服して居るばかりでなく、日本人の苟も外交に心ある者は総て今日も尚ほ忘る〻ことの出来ぬ事柄である、夫れより以降亦[亜]米利加と日本との国交は何時でも親密であつて、彼の文久年間下関砲撃事件の勃発した結果日本から償金を各国に払はなければならぬ塲合に立ち至つた時にも、亜米利加は其償金を日本に戻したと記憶して居る、此等の事より見るも亜米利加は他の国々よりは日本に対する交誼が余程厚かつたと云ふ事を証明して余りありと言ふて宜しい。

 旧幕時代の日本の外国に対する関係は前に申す通り却々攘夷論が多かつた、独り幕府は開国論を持つて居たが、朝廷始め諸藩には鎖国論者が多かつたが、王政復古して明治元年となり、日本政府は其主義を豹変し、従来攘夷論者であつた者も開国を唱ふるやうになり、茲に国論一致して開国となつたのである、続いて明治四年に日本の使節が欧米に派遣せられた時も先づ亜米利加に行つた、其時なども矢張り亜米利加は懇篤な待遇をして呉れたと云ふ事を国民は喜んで居る、其後引続きて両国の間に於ける国交の親善は、啻に文章の上とか、礼典に属する事ばかりでなく、通商と云ふ事に就ても追々進んで来て、両国間の貿易は他の国々に比して輸出も多く輸入も又相当にして頗る満足なる状態に居つたのである、又亜米利加は日本に比して土地の面積が広くして、其住民は稀薄であるから、日本人が追々移住する事になり、殊に西部即ち太平洋沿岸には大分日本よりの移住民が多くなつた、此方は地味も気候も良好にして耕作すべき土地は人を待つて居つたと同時に農業に従事すべき日本人も多く渡つた、此の如く水と魚との如き関係があつたから、其人々は皆西部に於て種々の事業を経営し、中には追々発達した人も出来て来るので貿易上の進歩ばかりでなく、人間の行動に於ても亦其人の稼業に就ても、各其便宜を得て過不及相通ずるものであると自分等は頗る喜んで居つた。

 私が初めて欧羅巴へ旅行したのは旧幕時代であつた、慶応三年に仏蘭西に行つて約一年も居り、其他の国々も巡回して一と当りの事情は知るを得たけれども、不幸にして其時には亜米利加に旅行をしなかつたが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めて亜米利加へ行つた、前に述べた如く仮令其土地は踏まぬでも十四五歳の時から、亜米利加なるものを知り、其外交の関係に就て特に注目し、且つ従来の国交が甚だ適順に進んで居るので、亜米利加と云ふ音は常に自分の耳を楽しましめるのであつた、而して其土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして殆ど我が故郷へでも帰りたるやうな感じを持つた、最初に桑港へ上陸して様々なる事物に接触して深く興味を持つて居つた、所が唯一つ大に私の心を刺戟したのは金門公園の水泳塲へ行つた時に其水泳塲の掛札に、日本人泳ぐべからずと云ふ事が書いてあつた、是は私の如き亜米利加に対して愉快なる感じを持つて居る身には、特に奇異の思ひを為さしめた、当時桑港に居つた日本の領事上野季三郎と云ふ人に何故斯かる掛札があるかと問ふたら、夫れは亜米利加に来て居る移住民の青年等が公園の水泳塲に行つて、亜米利加の婦人が泳いで居るのを、潜行して足を引張る、さう云ふ悪戯が多い為めに右の掛札を掛けられたのである、と説明した、其時に私は大に驚いて夫れは日本の青年の不作法が原因をなして居る、併ながら斯く些細な事でも兎に角差別的の待遇を受けると云ふ事は日本として心苦しい話だ、斯う云ふ事が段々増長して行くと終には両国の間に如何なる憂ふべき事が生ずるかも知れぬ、さなきだに東西洋の人種間には種族の関係、宗教の関係と云ふものは、斯くの如く親んで居るとも、未だ全く融和したとは云へないやうに思ふのに、さう云ふ事が現はれたのは真に憂ふべき事である、領事に職を奉ずる人は充分御注意をして欲しいものだと言つて別れたが、之れが三十五年の六月の初めであつた、尋で市俄古、紐育、ボストン、費府を経て華盛頓に往つた、華盛頓に於て時の大統領ロウズヴエルト氏に謁見する事が出来た、其他にもハリマン。ロックフェラー。スチルマレ[ン]抔の亜米利加で有名なる人々にも面会した、初めロウズヴエルト氏に面会した時に、ロ氏は頻りに日本の軍隊と、美術とに就て賞讃の辞を与へられた、日本の兵の勇敢にして軍略に富み且つ仁愛の情に深く、節制ありて極めて廉潔である、夫れは北清事件の時に亜米利加の軍隊が行動を共にしたによりて、日本の軍隊の善良なるを見て敬服したと云ふ事であつた、又美術も欧米人が如何に羨望しても企て及ばざる一種の妙味を有つて居ると言つて賞めた、私は此時に、自分は銀行家であつて美術家ではない、又軍人でないから、[軍]事も知らない、然るに閣下は私に向つて軍事と美術だけをお賞め下すつたが、次回に私が閣下に御目に掛る時には、日本の商工業に対して御賞讃の御言葉のあるやうに、不肖ながら私は国民を率ゐて努める積りであると答へた、此答に対してロ氏が言ふには、私は日本の商工業が劣つて居ると云ふ意味を以て他を褒めた訳ではなかつた、詰り美術と軍事とが先に自分の目に着いたから、日本の有力なる人に向つては先づ日本の長所を述べるのが宜いと思つたのである、决して日本の商工業を軽蔑したのではない、私の言葉が悪かつたのであるから、悪い感じを持つて下さらぬやうにして欲しい、イヤ决して悪い感じは持ちませぬ、閣下が日本の長所を褒めて下すつたのは有難いけれども、私は商工業が第三の日本の長所たるやうになりたいと頻りに苦心して居るのであると言つて胸襟を披ひて談話した事がある、其後亜米利加の各地に於ていろ〳〵の人にも会い、いろ〳〵の物にも接触して誠に愉快なる旅行を了して帰朝した、[。]

 其翌年の冬から日露の国交が危機に迫つて、終に三十七年に干戈を以て相見ゆるに至つた、其頃の亜米利加の日本に対する感情は、新聞や評判によりて聞く所には亜米利加人は実に非常な厚意を以て日本を見て呉れたと云ふ事を深く喜び、且つ其頃私の友人の金子子爵が亜米利加に行つて居つて、日露戦争の事に関して亜米利加の有力なる人々と話をしても何事も親切にして呉れ、又高橋男爵が欧羅巴に於て有力なる米人に会つて厚意を以て迎へられたと云ふ事は、其当時皆其厚意を感謝したのである、幸に日露の戦役は翌三十八年に至つて亜米利加大統領の力によりて終結し、国交も平和に恢復するやうになつた、此事も日本国民の深く喜ぶ所であつたが、併し其後幾何もなくして案外にも亜米利加の国情が全然反対した有様が聞へるやうになつた、のみならず、其翌年桑港に於て学童問題と云ふものが突発した、夫れから後も次第に日米間の国交が薄くなるやうな傾向を生じた、と云ふのは日本人が薄くするのではなくして、亜米利加の或る方面の人が段々に日本を嫌ふと云ふと云ふ[嫌ふと云ふ]有様を生じた。

 偖てさう云ふ有様が生ずると恰も三十五年に桑港の金門公園に於て見た所の、日本人泳ぐべからずの事柄が段々盛んに進んで来るやうになった、亜米利加に対して特殊の印象を有つて居る私、殊に実業界の一人として又日本全体の実業界に対して深く心神を労して居る身であるから、国交上に大なる憂ひを懐いた、其後桑港に居る日本人間に在米日本人会と云ふものを組織して、其会長の牛島謹爾氏が特に渡辺金蔵と云ふ人を日本に送られて私に請求せらる〻には、カリフォーニア州に於て亜米利加人が兎角日本人を嫌ふと云ふ感情を改善せしむる為めに在米日本人会を企てたのである、就ては本国(日本)に於ても其意味を理解して大に賛同をして呉れるやうにと云ふ事であつた、私は其企画の至極機宜に適するものと思つて、吾々も充分に助力するから在米諸君も大に力めるやうにしたら宜からうと言つて、渡辺金蔵氏に私が明治三十五年に金門公園に於て感ぜし事を話して、会長たる牛島氏を初め其他の会員にも能く注意して呉れと云ふ事を伝言した、夫れが明治四十一年であつたと思ふ。

 其年の秋亜米利加から太平洋沿岸の商業会議所の議員が多数日本へ来遊する事になつた、夫れは我が東京商業会議所及各地の商業会議所が同じ位置なるを以て太平洋沿岸の商業会議所の諸君に団体を組んで日本に旅行して呉れと云ふ事を勧誘したに因るものであるが、一は日米両国間の国際親善に努むる為め総ての誤解を除却したいと云ふ意味を以て成立つたものである、其時に日本に来遊せられたのは、桑港に於てはエフ、ダブリユー、ドールマン。シヤトルではジエー、デイー、ローマンブレーン、或はポートランドのオー、エム、クラーク等の人々で、私は種々の会合に於て此等の諸君に会談して、日米の関係に就いて従来の沿革を詳述し諸君の力で誤解を解くやうにして頂きたいと企望し、又一方には日本から米国に移住して居る人々に就ては、欧米の慣習に慣れぬ為に公徳が修らぬとか、或は風采が鄙劣だとか、或は同化しないとか云ふやうな欠点があれば、其欠点は相共に矯正して勉めて直させるやうにして米国人に嫌はれぬ処の人間たらしむる事を心掛けるが肝要である、今日の塲合人種とか宗教とかの相違から日本人を嫌ふと云ふやうな事は、文明なる亜米利加人としてよもあるまいと思ふ、若しこれありとすればそれは亜米利加人の誤謬である、のみならず、亜米利加の当初の趣意に悖る訳である、我が日本を世界に紹介して呉れたのは亜米利加である、日本は夫れを徳として今日まで国交の親善を勉めて居るのに、其亜米利加が人種的の僻見、宗教差異の偏頗心から日本人を嫌つて差別的待遇をすると云ふのは、亜米利加としてなすべき事でない、果して然らば亜米利加は初は正義にして後は暴戻と言はねばならぬ、と云ふ事を懇々と述べたに付て、当時来遊せられた商業会議所諸君も、誠に道理だと云ふて深く喜んで呉れた、私の王子の家へも来訪せられて、緩々と意見を交換した事もあつた、単り東京ばかりでなく日本の各都市をも巡回せられて、最も愉快なる旅行をなして帰国した、其結果翌年米国の商業会議所から今度は日本人の米国に来遊する事を照会せられた、私は元来日本の商業会議所には明治十一年より三十六年まで会頭を勤めたけれども、三十七年に病気の為めに辞して居つたから、四十一年亜米利加の人々の来遊された時も商業会議所会頭として交際した訳ではなかつた、故に亜米利加からの案内に対しても私は其招に応ぜねばならぬと云ふ責任はなかつたけれども、当時日本の実業界の友人より、是非亜米利加の求めに応じて旅行をするが宜からう、而して其一行中には亜米利加に名の知れて居る人が行つたら宜からう、夫れには渋沢が適当だと云ふ衆議であつた為に、私は老軀困難であつたけれども、其選に入つて団長と云ふ名を与へられて亜米利加の旅行をしたのである、夫れは明治四十二年八月十九日に東京出立し、十一月の三十日桑港から船に乗つて日本に帰つたのは十二月十七日であつた、其間四ケ月で、亜米利加に居る事九十日間、此間に巡回した土地、面会した人数は非常なるもので、訪問した都市は約五十四五であつた、而して各地に於ける亜米利加人の吾々一行に対する懇親の衷情、欵待の方法は実に筆紙に尽し難い、一例を云へば、シヤトルを出発して桑港に帰着するまでの旅行を一の列車で通過して何れの塲所も乗換をせずに済ましたと云ふ事は、如何に鉄道を巧に操縦したか、斯かる旅行は私共に於ては真に空前絶後である、亜米利加の人と雖も决して度々ある事ではなからうと思ふ程の経営と賞讃して宜からうと思ふ、到る処の各都市にては歓迎会を開かれ、或は晩餐会、午餐会、レセプシヨンを開催して饗応せらる〻から、私は各宴会に必ず劈頭第一に、日米親善に関する吾々の情意を、塲所によつては多少の言語も異り感想も違つたけれども、あらゆる我が胸中の熱誠を何れに向つても吐露した、相逢うた人々は何千人であつたか、若くは何万人であつたか、其人々に向つて、日本人の亜米利加に対する感情を忌憚なく申述べた積りである、又亜米利加の諸君から言はれた事も充分耳に入れ、心に納めて帰つて来たのである、十二月十七日日本に帰国するや、早々此等の状况を商業会議所に、又は各地の歓迎会に於て同胞に伝へて、亜米利加の現状は先年にありし忌むべき問題は消滅するのであらう、吾々の旅行中斯くの如き懇親なる待遇を受けた、殊に大統領タフト氏にはミネヤポリス市に於て謁見して、午餐を共にし吾々一行の使命は斯様であると云ふ事を私より演説し、大統領も亦日本に対する感情は斯く々々であると言明せられ、而も公衆の前で互に意見を交換した、其他米国中の重なる商業会議所会頭、若くは州知事、市長、華盛頓にては国務卿ノツクス氏等とも談話を交換した事は一再に止まらなかつたのである、斯くの如く私が政府及び国民に向つて陳述した事は决して無根拠に卒爾なる放言ではない、真に亜米利加の状况を観察したる後の意見であつて、充分なる論拠があつたのである。

 吾々は日米の親善に斯くの如く力を尽して居るが、尚ほ此上の策として相互の国民を訓導啓発する必要があると思ふ故に、学者の交換をすると云ふ事に尽力した、其初めに新渡戸博士が米国に行かれた、是れは一昨々年の秋である、殆ど一年も米国に滞留して、各学校に於て日本の事情を叮嚀に講演した、続いて亜米利加からメビー博士が日本に来られた、現今は佐藤博士が日本から行つて居る、姉崎博士もボストンの学校から招聘せられて行つて居る、単り此等の人々ばかりではない、ジョルダン。エリオツト。ピーボデー。サンダランド其他各種の博士が沢山来るし、又日本からも行かれた、其中には宗教家も多くある、此等の往来に於ては私は必ず其人々に接触して、或は歓迎し送別すると云ふ事を欠いた事はないと申して宜い位である、斯くの如く団体旅行と云ひ、交換教授と云ひ有効に吾々の丹誠が現はれて居り、又往来する人々は私と談話を交換して其意見が全く合致するけれども、唯悲しいかな太平洋沿岸加州に於ける排日運動は何時も不祥の報告を伝へて来る、殊に私の最も不快の感ずるのは、昨年の四月、加州の州議会に於ける土地法案の発生である、此事に就ては予て在米日本人会が憂慮して、若しも左様な塲合には本国に於ても大に力を添えて呉れと頼まれて居つたから、万一の塲合には大に助力すべく覚悟して居つたが、果して其事が勃発したから大に憂へて、直に日米同志会と云ふものを組織して海外移住の同胞に力を添えたのであつた、同時に日本に来られて居つた米国の宗教家、学者、事業家等の人人にも通知すると其人々は决してさう云ふ事はなからうと言ふたが、事実は却つて反対に、土地法案の火の手は益々熾にして日本に対して不利の状况に進んで来るので、終に吾々の日米同志会は、一面には此土地案をして不成立に終らしめたい、又一面には在米同胞を慰問してやりたい為めに、法学博士添田寿一、神谷忠雄と云ふ人を派出した、其他江原素六、服部綾雄、山口熊野等の諸氏も他の方面から出張され、其等の人々が種々尽力したにも拘はらず、土地法案は終に通過して今日はモウ奈何ともすべからざる塲合に至つて居る、のみならず、カリフオーニア州に於ける形勢は、亜米利加の有識者が其不条理を論し[じ]て居るに拘はらず、益々排斥の勢を増して来るが如き有様を呈し、今や米国々会に於ても排日的の議案が提出せられたと云ふ事を聞くのは吾々の憂慮に堪えざる所である。

 私の亜米利加に対する既往の関係は前述の通りであるが、然らば未来は如何であるか、日本よりの移住民に対して差別的の行動の宜くないと云ふ事は、米国の政治家も、学者も、宗教家も、頼むべき有力なる人々は口を揃へて皆明言して居るにも拘はらず、時々斯くの如き排日運動が起ると云ふ事は私は甚だ了解に苦しむ、嘗てジヨーダン博士の日本に居られた時にも、エリオツト博士の来られた時にも、私は懇切に其事を談した事がある、諸氏は親しく談話して見ると私の意見と全く異りがないやうである、所謂差別的待遇は宜くないと云ふ事を明言する、果して然らば現に亜米利加に於て斯かる行動が現はれると云ふは一向解らぬではないか、何故此事を根絶せしめて呉れる事が出来ぬかと問ふと、ジヨーダン博士の答は、亜米利加の国風として一地方に於て生ずる事を他地方から停止すると云ふ事は出来得べき事ではない、自由の思想、自由の権利を以てなす事であるから、吾々共は全く貴下と説を同じうするけれども、反対の考へを持つ人を止めると云ふ訳には行かない、併しながら所謂邪は正に克たず、日本人の道理ある考と、亜米利加で相当の位置を持つ人との考は决して差異はないから、一時の浮雲の為めに快明の天気が侵さる〻事はないと安心して宜いではないか、向後相共に力を尽したならば、終にはさう云ふ浮雲を払ひ除ける事が出来るであらう、と云ふ答であつた、併し此浮雲が次第に長じて一時でも夫れが疾風雷雨と変るまいとは云はれぬからして、ジヨーダン博士が言はる〻如く安心しては居られぬ、况んや日本の国情は仮令私共が何処までも秩序的にのみ考へても多数の国民は悪い感情を惹起さぬとも限らぬ、併し自分は今申す通り、此等瑣細なる浮雲の為めに心を悩ます者ではない、軈て快明になるのであらう、否亜米利加の有力なる人々は必ず吾々と同じ心を以て円満なる結果を見るべく力められるであらうと確信し且つ期待して居るのである。

商業に国境なし(人格と修養)

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金門公園の掛札(算盤と権利)

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