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『竜門雑誌』第315号(竜門社, 1914.08)p.23-28
◎支那漫遊見聞録
青淵先生
本篇は青淵先生を顧問とせる雑誌向上記者の訪問に対し青淵先生が語られたる支那視察談にして特に青淵先生の検閲を経たるものなり掲げて参考に資す(編者識)
私が支那漫遊の希望を抱いて居つたのは、一朝一夕のことではない。機会があつたら、あちらの古蹟文物を探つて見たいと思つて居たのである。殊に浅薄ながらも、幼少の時より漢学を好み詩文を作るやうな事もあり、四書、五経、八大家文、古文真宝等の或部分は暗じて居るので、彼の洞庭湖、西湖、赤壁抔も、詩文の上で、斯うでもあらうかと想像して見ることもあり、一度は其実地を見たいと思つて居つた。又、修身上の学問としては、少年の時分から論語を親に教はり、先輩も指導誘掖して呉れたから、遂に習ひ性をなして、孔孟の書は一身の憲法と心得て居たのである。勿論私も欠点の無い者ではない。自分も之あるを承知して居る。然し、正義と人道とに外づれる行為は無いと信じて居る。左様な訳であるから、是非一度は曲阜にある聖廟に参拝したいと思つて居つたけれども世事多忙日も亦足らずといふやうな次第で、日一日と延び遂に今日に至つたのである。処が昨年の春、偶然中国興業会社を組織すること〻なつた。是れは私が昨年の春来遊した孫逸仙氏と相談して設立したのであるが、其後彼が第二革命を起すに及んで、此の会社は支那政府より、多少の疑惑を受け、或は水泡に帰するの恐なき能はざる情况であつた。然し是れは非常の誤解であつて私が中国興業会社を創立したのは単に日支間の実業の聯絡と其発展を期したるまでにして固より経済に国境のあるべき筈なく况や南北抔は問ふ所でなかつた[、]去りながら是等の疑は何とかして解きたいものであると思うて居つた。其後支那政府の大官中にも両国合弁会社の設立に就いて、私の北京旅行を望まれた人もあつたので自分は益〻渡支の念を高むるに至つた。然るに当時は折悪しく病気に罹り、医師の注意に従つて見合すことにしたが漸く時を得て本年五月二日に出発して、多年の望を果すことになつた訳であります。
旅行の順序は、上海へ着後、長江を溯つて漢口まで行き、それより湖南、湖北の地にも入る目算であつたが、出発前に変更して、漢口から北京に出で、天津、済南、曲阜、膠州湾を経て、満洲に入り朝鮮を経過して帰朝する予定であつたが天津に着いてから、偶ま発熱があつて少しく疲労を覚えて来た。夫も私自身は、左までに思はなかつたけれども、馬越君及一行中の人々が大層心配され、殊に其際、山座、水野の両氏薨去の報がありて風声鶴唳と云ふやうな有様で一行から大層な病人扱ひにされた。天津に着いたのは、五月二十七日であつたが、其三十日に独逸汽船の大連に行くのがあり。[、]六月二日には大阪商船会社の船が、大連を発して門司へ行くといふので、此の便によれば、六月四日には門司に着かれることになる。殊に北京に於る用事は一通り済んだ事であるから帰国するが好からう。[、]との事で、如何にも残念であつたが、親友同行者の忠告でもあり、他郷に於て発病せし事でもあり殊に馬越君の如きは、必ず将来共に曲阜に再遊するから、今回は帰国せよと懇切に勧告して呉れたので、自分も思ひ止ることにした。支那政庁では、私が曲阜の聖廟に参拝し泰山に登ると云ふことを聞いて、特に鉄道の便を設け、テントなどをも用意して呉れたのであるから老年のことでもあり、病気の為め止むなく見合せたいといふことを丁寧に諸方に電報をして申訳を為し、三十日に天津を発し、三十一日に大連に着し、六月一日は旅順を一覧して、大連に帰り、二日大連を発して四日に下関に着し、それから九州に入つて、知人の案内により、戸畑の明治専門学校[、]大分、別府、中津等の各都邑に遊び滞在中、数回の会合で支那談を試みた。殊に戸畑の専門学校は親友安川敬一郎氏の創設にして一覧して其注意の周到なると百事の整備せるに感服した[、]又大分には私の古く世話した銀行があり、中津は故福沢先生の出生地であるから此等各地の会合はなかなかの盛会であつた。
馬関では商業学校や経済会に出席して講演を試み馬関出立後も広島に立寄りて一塲の講演を為し夜汽車で神戸に行き、それから大阪、京都等で、現時の経済観、支那談等を試み、十五日無事東京に帰つたのである。此旅行は五月二日から六月十五日まで約一ケ月半の日数を費した。此れが旅行の大要であります。尚旅行中の見聞を二三お話ししませう。
私が上海に参つたのは、今回で三度になりますが、最初は維新以前其次は明治十年それから今回と[、]行く度に面目の改まるのに驚かざるを得ぬ[、]昔の面影は川の形を残して居る位であつて曾ては葦のみ茂つて居た土地が、今では立派な町となつて大厦高楼が建築されて居る。其繁華は実に東洋の一大要港と称すべきである。当地では中日実業会社支店の関係者と懇談するの機会を得た。官憲の向へも、我より訪ね彼からも来訪せられた。殊に総督丁如成といふ人抔は武人ではあるが実業振興の必要を語り、私に充分の助力を頼むとの話もありて二回程会談した。当地も支那全体の風習として多少官尊民卑の風はあるが、全体に官民の間は親しく見受けられた。
此地には有力者を集めた商務総会といふのがあり其主催で私の為めに官民合同の大宴会が開かれた。会衆は百八十人程あつて、夕方から古書画を展覧し、文人連も来られて、詩を作り席畵を為すといふやうなこともあり、それから余興として、支那劇を観せられたが、鳴物の音の高いので、大低[大抵]聾になりさうであつた。観るといふよりも聴く方が主のやうに思はれる位で大体から言ふと、日本の能楽に似て居る。脚本は三国誌[三国史]又は春秋の故事に採つたものであつたが、狂言の区切がわからぬ程、次へ次へと遷つて行くから見馴れぬ人には殆んど要領を得ない。それが了つて宴会になつたが、私は其席上で先方の挨拶に対して、答辞を述べて其厚遇を感謝し、それから自分の持論である論語算盤主義を演説した。
論語算盤主義とは平易に言ふた言葉で、つまり仁義道徳と生産殖利とは决して矛盾すべきものでなく、寧ろ大に一致するものであるとの意味で、即生産殖利は、仁義道徳によつて一層完全に維持さるべきものである。私は此の意味に於て、新聞紙にて報道する[、]商業は平時の戦争なりとの説に反対するのである[、]戦争は相互に他を害するを目的とし、其結果一方が益すれば必ず一方の不利を来すのであるが、商売は决して其様なものではない、相互の利益を謀るのが目的であつて、一方の利益にのみ偏すべき筈のものではない。商業と戦争とは全く違ふ、其れであるから大学にも財を生すに大道あり、之を生す者は衆く、之を食む物は寡く、之を為る者は疾かに、之を用ふる者舒かなるときは則ち財恒に足る。と申して生産殖利と仁義道徳とは一致すべきものであることを示して居る[、]其他論、孟等にも之に関する適切なる教訓が示されてある。是れが私の論語算盤主義の大要で、上海の宴会でも此意味を敷衍して述べたのである。
上海に着いたのは五月六日であつたが、其翌日は鉄道で杭州に行つた。杭州には西湖と云ふ有名な景勝の湖水があり、其の辺りに岳飛の石碑がある。その碑から四五間程離れた所に、当時の権臣秦檜の鉄像があつて相対して居る。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間には屡戦ひがあつて金の為に宋は燕京を掠奪され南宋と称して南方に偏安した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破つて、将に燕京を恢復しやうとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄賂を得て岳飛を召還した、岳飛は其の奸を知つて[、]臣が十年の功一日にして廃る[、]臣職に称はざるにあらず実に秦檜、君を誤るなり。と言つたが彼は遂に讒によりて殺された。此の誠忠なる岳飛と、奸侫なる秦檜とは、今数歩を隔て〻相対して居るのだ。如何にも皮肉ではあるが、対照また妙である。今日岳飛の碑を覧に行つた人々は殆んど慣例のやうに岳飛の碑に向つて涙を濺ぐと共に秦檜の像に放尿して帰るとの事である[、]死後に於て忠奸判然たるは実に痛快である[、]今日支那人中にも岳飛の如な人もあらう。又秦檜に似たる人がないとも言はれぬげ[け]れども岳飛の碑を拝して秦檜に放尿するといふのは是れ実に孟子の所謂人性善なるに因るのではあるまいか。天に通ずる赤誠は、深く人心に沁み込んで、千年の下猶ほ其の徳を慕はしむるのである。是を以ても人の成敗といふのは葢棺の後に非れば、得て知る事が出来ない。我国に於ける。[、]楠正成と、足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も皆然りと言ふべきである。此の碑を覧るに及んで感慨殊に深きを覚えた。
西湖に五山といふのがあり。之に登れば、西湖を瞰し銭塘江を臨み、又遥かに浙江を望むことが出来る。此浙江は浙江省の海で、海潮が高く観瀾の名所としてある。又此山から一方を望むと、市街が白壁を囲らしたる処、頗る美観である。杭州を去りて小蒸汽船で運河を通じ翌暁蘇州に着した、此地は養蚕の名所で我邦に最も注意を要すること〻思ひ、詳細なる調査を為したく企望した。杭州も蘇州も其周囲は一つの城をなして居る。城と言ふても我国のものとは違ふ。城廓を廻らして、其の中に宮殿もあり、商店もあり、農村もあり幾多の住民が其業を営んで居る。つまり城といふは一の大きな煉瓦塀の垣根であつて、其塀の上は幅四五間もあり、人の往来の出来るやうになつて居る、其高さ五十尺程もあらうと思はれる。杭蘇ばかりでは無く、支那の城と言へば、大低此の様なもので、北京でも、南京でも、唯大小が違ふといふ丈で皆同じ様なものである。
楓橋夜泊で有名な寒山寺へ行つて見たが、話す程のものではない。殊に鐘も叩いても見たが夜半の声は聞くことを得なかつた。蘇州から汽車にて再び上海に還り五月十日の夜汽車で南京に行つた。南京は六朝時代の都で明の大祖[太祖]の考陵[孝陵]のある処、規模は大きいが、今日では見る影もなく荒れ果て〻五六年も経つたら殆んど廃滅しはすまいかと思はれる。其他種々の古跡もあるが同様に見えるから馮都督に会つた時、古い物を粗略にするのは革命当時の常であるが、必ず後悔される時期があらうと思ふから、今の中保存に注意されたらよからうと申した[、]然るに馮都督はこれに耳を借さずして[、]貴下は国の富を増すことに就て心配して呉れ、古跡保存などは百も承知だといふ風であつた。其翌日南京を去り、下関から蒸汽船で長江を遡ることにした。下関は南京の近傍にあつて、長江に接し江の北岸なる浦口には英独両国の経営に成る津浦鉄道があるが、是れが完全に聯絡するやうになつたなら、南京は勿論其沿岸も余程繁華になる事であらう。此下関より愈〻長江を遡る事になつたが、江の輻は一里余もあつて、汪洋として広く、海であるか河であるか判からぬ程である。進むに随つて山岳現はれ、洲渚来り奇勝応接に閑あらざる程である。船は九江に寄つて碇泊し一行は領事館に休んで地方の人士に会見し附近の勝を探ぐつた。尋陽江は此附近にある。尋陽江は此辺だと聞いて、琵琶行を懐ひ浮んだに過ぎぬ。それから進むで大冶鉱山である。採鉱の塲処は江岸から鉄道で十八哩もあるさうであるが、盛に鉱石を運搬して居る。此鉄山の規模は実に壮観を極めたものである。先年亜米利加の大鉄山を見て居るから、左までに驚かない積であつたが、実に其の盛大にして採掘の簡便なるに一驚を喫した。更に設備の改善をしたらば、一層の産額を増すであらうと思ふ。我が枝光製鉄所の原料は過半此鉱山に仰ぐのである。大冶鉱山の一覧は朝より夜に入るまでにして終了し其夜西沢氏の宅にて宴会あり畢りて更に乗船して一昼夜にて漢口に着いたが、漢口は上海から海路六百哩上流であるといふが川幅は中中広大なものである。江は上流にゆく程、水流が急になるが我国の川とは余程趣きが変つて居る。日本の川は冬分は水が减つて、石が出るのであるが長江は决してそんなことはない、恰も利根川の関宿附近のやうにして更に広大なるのである、東坡が江流声あり。断岸千尺、山高く月小に水落ち石出づ、曾ち日月も幾何ぞ、江山も復た識るべからずと言ふた後赤壁の賦は聊さか不思議に思はれた。之れは我耶馬渓辺りで見らる〻光景だらうと思ふ。然し前赤壁の賦に、白露江に横り、水光天に接す。一葦の如く所を縦にして、万頃の茫然たるを凌ぐ、浩々乎として虚に馮り、風に御して、其止る所を知らざるが如く、世を遺れ独立羽化登仙するが如し、と言ふたのは真に近いやうに思はれた。
漢江[漢口]からは、汽車で北京に赴いたが、乗合でなかつたので便宜であつた。其の間名勝もあり古蹟も多い、黄河を渡つたのは夜分で、眠つて居つたから知らす[ず]に過ぎて了つた。北京には一週間滞在して、袁総統以下の大官に会ふことが出来たが商人の少い所であるから、大商人に会ふことは出来なかつた。到る処、論語算盤を説き、日支実業の提携を談じて、王侯貴人より商工業者に到るまで、手を換へ品を代へて之を説いて来た。二十四日は御大喪に付て終日外出を見合せ、謹慎して居たが、外交、教育、農工商部の閣員四五輩が順次に訪ねて来られ種々意見を交換し、胸襟を開いて談論した。
旅行談も諸方の新聞雑誌にも、其大要を話して置いたことであるから、帰途は略してこれ丈にしやう。要するに今回の旅行は、中日実業の聯絡機関を造りしことを紹介し、其の機能を充分に働かしむるやう説明して参つたのであつて、何等利権獲得とか、政略的意味のあつた訳ではない。従つて此等の事は政治上の力を藉りてやるべきではなく、民間の経営として永久の持続を願ふのである。詰り私の平日談論して居る論語算盤主義を説明して来たまで〻゙ ある。自分の考へでは其の目的も幾分は達しられたこと〻思ふ。尚支那の現状に就て一言を添へれば支那一般の有様は貧富の懸隔余りに甚しく、殊に北方には中流階級が無いと申してもよい位である、加之彼国民は、個人性のみ発達して居るから、国家の前途は中々困難であらう。又財政なども余程考へぬと危殆に陥らぬとも限らぬ。是等は彼の大官にも、充分注意を促して置いた。