デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.324-331(DK010022k) ページ画像

元治元年甲子九月(1864年)

是ヨリ先、本年六月平岡円四郎暗殺セラル。黒川嘉兵衛之ニ代リテ用人タリ。栄一等ノ帰京スルニ及ビ、嘉兵衛之ヲ遇スルコト円四郎ノ時ノ如シ。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第三六―三七丁〔明治二〇年〕(DK010022k-0001)
第1巻 p.324-325 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第三六―三七丁〔明治二〇年〕
○上略 平岡の死むだ後は、黒川嘉兵衛といふ人が同じく用人で、一橋の政事を取つて居る、是人は、平岡の存生中から、平岡に亜いで権力のあつた人だから、平岡が死むだ後は、重もに此の黒川が政事を掌る様になつたのであります、全体一橋家では、用人が政務を執ることになつて居て、家老といふものは幕府の大目附とか町奉行とかを勤めた人が、老年になつて三卿の家老となる例で、中には禁裏附などが転役す
 - 第1巻 p.325 -ページ画像 
ることもあり又は小普請から出ることもあるが、大抵は老後の勤場所で、無事一ト通りの人が家老になるから、申さば家老は床の置物のやうな姿である、其次が用人で、用人の人員は総体六人あつて、其内京都に三人、江戸に三人の割合になつて居る、其京都詰の重立つたものが平岡で、次が黒川、其他の一人は成田といふ人で、シカモ三人の内の筆頭であつたが、此の人は尋常一ト通りの老人だから、平岡が一番の全権であつた、処が平岡が不慮の事で死むだから、差詰め黒川が全権になつたのであります、
此の黒川といふ人は、幕府の御小人目附から段々出精して、一橋の用人になつた人で、其終りを全くしないから、純良の人ではないといふものゝ、兎も角も下僚から抜擢された位だから、一寸用に足る人には相違ない、自分等は素より平岡に引立られて其世話で仕官することになつたのだから、平岡の死むだ跡へ俄かに帰つた処が、丸で黒川を知らぬではないけれども、何となく附きの悪い様な有様があつた、併し黒川も、当時の時勢は余程六つかしいといふことは能く理会して、事の善悪、人の賢愚位は見分る力を具へて居るから、自分等が人を集めて京都へ復命した時には、厚く待遇して呉れて、足下等は全く覊旅の臣で、従来幕府の家来でもなく、又一橋家にも縁故のない人だから、懇意の平岡が斯うなつたら、定めて望みを失つたであらう、併し及ばずながら、拙者も玆に職を奉ずる以上は、足下等の志も立つやうに、使へる丈けは使つて遣るから、必ず力を落さずに勉強したがよい、と甚だ深切にいつて呉れたから、一旦は望みを失つたが、又大きに望みを得る様な姿になつた、


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一〇四―一〇八頁〔大正八―一二年〕(DK010022k-0002)
第1巻 p.325-326 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一〇四―一〇八頁〔大正八―一二年〕
先生の関東下向中、京都に於て政事上の大事変起る、所謂蛤門の戦これなり。抑も長藩は去年八月十八日の政変以来失墜せる勢力を恢復せんが為に、今年七月兵を京都に進めて会津・薩州の二藩を駆逐せんとしければ十九日慶喜公は禁裏御守衛総督として宮門を衛り、諸藩の兵を督して長兵を撃攘せり。これが為に諸藩の討幕派は一時其鋒鋩を収め、朝廷の公武合体派は尚優勢にして、薩州・越前・土州・宇和島の諸藩之に力を添へたれば、慶喜公の勢力洛の内外に重んぜらる。されば形勢は幕府に有利なるのみならず、朝廷及び諸藩との応接折衝の任に当れる橋府の御用談所は、亦諸藩の重んずる所となり、吏員の交際日々繁劇なりしが、先生の関東より帰京せるは、方に此際にあり。従つて集会・招宴に寸暇を得ざる有様なりしが、さるにても第一の庇護者たる平岡円四郎を失へることは誠に一大打撃なりき。円四郎は慶喜公の左右に侍すること前後十余年、献替の功頗る多く、真に帷幄の謀臣なりき。去歳公に従ひて上洛せる後は、公を助けて朝野の間に周旋し、名声籍甚なれば、時人の評に「天下の権朝廷にあるべくして幕府にあり幕府にあるべくして一橋にあり、一橋にあるべくして平岡にあり」といへるをもて、其勢力の大なりしを察すべし。 史談会速記録所載岡谷繁実談 此年五月円四郎は家老並に陞進して勢力の加はるまゝに、他の猜忌も亦加はり、特に外間には其頃までも慶喜公の開国論者なるを知らず、一向攘
 - 第1巻 p.326 -ページ画像 
夷論者なりとみ信じたりしに、公の局に当れる後も、攘夷の実行せられざるを見て望を失ひ、其謀臣たる円四郎に対する謗議荐りに起り、円四郎は開国論を以て橋公を誘惑する者、実に獅子身中の虫なりなど言ひ、奸物と指目せられたれば、攘夷党の為に忌まるゝこと大方ならず。是より先文久三年夏秋の交、先生江戸にありて平岡の家に出入せる頃、藤田小四郎 東湖の第三子 等数名の水戸藩士と酒楼に会飲せることあり、先生いたく同藩が内訌のみを事として統一せず、尊攘の大義に尽すことの薄きを罵り、「今日は議論の時にあらず、実行の時なるに、足下等何事をも為さゞるは何ぞや」と極論せしことありしが、後重ねて水藩士三橋某等と会飲せることありし時 此時小四郎は加はらざりき、彼等は前日の言にや激励せられけん「平岡円四郎の如き洋癖の徒を橋公に侍せしむるは、公の進退を誤るものなり、除かざるべからず、今より直に手を下さん」とて、先生の嚮導を促せり、これ先生が円四郎の居所を知れるを以てなり。先生心に驚きしが、さりげなく同意して共に立出で、巧に彼等を遊里に誘ひて、其日の暴挙をば中止せしめたり 後之を円四郎に告げて警戒せしむ。其頃渋沢喜作も亦同様の事に遭遇せりといふ。 然るに今年に至り、六月十六日の夜、円四郎は川村恵十郎と共に一橋家家老渡辺孝綱を其旅宿に訪ひての帰途、水藩士林忠五郎・江幡貞七郎の要撃する所となり、円四郎は即死し、恵十郎は傷けり、暴徒二人亦重傷を負ひて斃る、円四郎資性聡明にして才気煥発、舌鋒いと鋭かりしかば、人の怨を受くることも尠からず、先生嘗て其傍に侍せる時、人の公事を談ずる者あり、談話の末に、「追て又相談申さん」といへるを、円四郎聞き咎めて、「余は判断の役なり、相談とは何事ぞ」といへることありき、以て其一斑を知るべし。然れども能く人を識るの明あり、又其才を伸べしむるの量あり、而して今や其人亡し、先生の心中落寞に堪へざるもの宜なりといふべし。
されども幸に円四郎の後を承けて用人の筆頭たる黒川嘉兵衛雅敬は、温良の循吏にして、深く先生等に同情し、一日先生等を其邸に招きて曰く、「足下等両人は全く覊旅の身にして、幕府は勿論一橋家にも縁故なかりしを、平岡氏の推挙によりて出仕せる者なり、然るに一朝の凶変によりて忽ち其依る所を失へること足下等の落胆察するに余りあり。然れども余が職に在る上は、必ず足下等の驥足を伸べしむべし。此度徴募の人員の如きも、足下等の意見を聴き、なほ諸役人とも議して、それぞれ部署に就かしむべければ、心を労することなく、一意奉公せられよ。いづれ近日示達する所あるべきも、依然御用談所に出勤して事務を執るべし」とて、或は慰め或は励ましたれば、先生等始めて心を安んじたり。此時嘉兵衛は関東の形勢、志士の状態等につきて問ふ所ありしかば、先生等は詳に視察する所を陳述して退出せり。


雨夜譚会談話筆記 下・第八三四―八三五頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010022k-0003)
第1巻 p.326-327 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第八三四―八三五頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
篤「平岡さんは、どの位の年配で、どんな恰幅の方でございましたか。」
先生「そうだネ、私より二十位は年上だつたやうに思ふ。背恰好は別に取り立てて云ふ程の変つた処はないヨ。私よりは丈は高かつた、それから猪飼正雄氏のお父さんで勝三郎と云ふ人があつた。この人
 - 第1巻 p.327 -ページ画像 
は一ツ橋家のお物頭を勤めて、平岡氏の配下である。黒川嘉兵衛、松浦作十郎、猪飼勝三郎など云つた人は皆平岡氏一派の人々であつたが、御一新になつて名を成した人はなかつた。」



〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第八三三―八三四頁 〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010022k-0004)
第1巻 p.327 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第八三三―八三四頁 昭和二年一一月―昭和五年七月〕
小田又蔵氏との御関係に就て
○上略
高田「一ツ橋家時代に子爵の上役であつた人で、明治御一新以後に、子爵の方からお世話なさつたと云ふのは、どんな人々でございますか。」
先生「黒川嘉兵衛氏は何でも落魄して、深川に大黒屋と云ふ鰻屋があつたネ、そこのそばに米屋を出した事があるヨ。その店を出す時、私を訪ねて来たので、古い縁故もあるから助ける積りで五百円か出してやつた。その内にそこも失敗して沙汰なくなつて仕舞ったが、何でも京都で死んだとか耳にした。それから榎木享造と云ふ人は、これは一ツ橋で平岡氏や黒川氏と用人をやつて居つたが、これも後では零落して、二、三度私が世話した事がある。平岡円四郎氏は一ツ橋家時代に殺されたが、その息子さんが二人あつた、その総領の方は道具屋をやつて居つて、次男は信州の方で裁判官を勤めて居つた。明治二十年頃と思ふが、私は本所の何とか云ふ法華宗の寺で平岡円四郎氏の法事を行つた事を覚えてゐる。その後二人の息子さんの消息もわからなくなつて仕舞つた。」



〔参考〕徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著)巻四・第四八〇―四八五頁〔大正六年七月〕(DK010022k-0005)
第1巻 p.327-329 ページ画像

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著)巻四・第四八〇―四八五頁〔大正六年七月〕
平岡円四郎、名は方中《ケタチ》、字は円外、旗本の士岡本近江守 成、通称は忠次郎花亭と号す の四男にして、文政五年十月七日下谷練塀小路の宅に生る。 年譜。○名、字、通称皆父近江守の命名なり 生れて重瞳なり 猪飼正為談話。天保九年三月四日、出でて平岡文次郎 御裏門切手番之頭 の養子となり、四月二十一日将軍家斉公に竭す、十二年閏正月十九日学問所寄宿中頭取を命ぜられしも、十四年八月武術練習の為、辞して学問所を退く 年譜。円四郎もと世俗と交はるを好まざりしかば、衆人目して変物といへり。されども川路左衛門尉 聖謨 近江守と親交ありしを以て、夙に其異材を知り、之を水戸の藤田誠之進 彪、東湖 戸田忠太夫 忠敞 に薦む 昨夢記事。川路聖謨之生涯。 たまたま公より諍臣を得んことを求め給ふに及び、烈公は誠之進の言を容れ、円四郎をして公の近侍たらしむ。水上昌言談話 此に於て円四郎は嘉永六年十二月十三日、始めて一橋家の雇小姓を拝命し百俵十人扶持を賜はりぬ 一橋家日記、年譜。初め円四郎は評定所留役などを経て勘定方に立身の途を述めんと、町方与力中村次郎八に就きて公事訴訟の事など習ひ居たれば、一橋家の小姓を勧めらるゝに及びて、近侍は長袖者流の事にして素志にあらずと固く辞せしも、強ひらるゝまゝに出仕しけるが、習はぬ事とて動止頗る粗野なれども、公はそれをも厭はせられず、親しく教へ示し給ふ、円四郎も亦公が英邁非凡なるを知りて、遂に心を傾けて奉仕するに至れり。遺老談話
 - 第1巻 p.328 -ページ画像 
将軍の継嗣問題起りし時には、私に越前の中根雪江 師質 橋本左内 綱紀 水戸の安島弥次郎 帯刀信立 等と謀り、公を西丸に推戴せんとて、斡旋甚だ力む。此時左内は世界の大勢を察して、開国交易の止むべからざるを説きしに、円四郎之と意見合はず、互に議論を上下せしことを、雪江の記せるものに、「円四郎は智弁俊逸、難詰万般を極め、左内は才識高邁明弁意表に出づ、師質傍に在りて酔へるが如く醒むるが如し」といへり。昨夢紀事。○此後円四郎が左内の議論に開誘せられし事亦同書に見えたり 井伊掃部頭出づるに及び、安政五年九月二十二日小十人組に徙され、公の隠居謹慎を命ぜられし時、小普請入差控を命ぜられ、やがて甲府勝手小普請に遷さる、是れ六年十二月二十九日の事なり。安政録 文久二年七月、公将軍の後見職になり給ひしかば、十二月江戸に召返され 小普請組安藤与十郎支配。三年四月四日御勘定評定所留役当分助となりぬ、此時は公上京中なりしが、公東帰の前日五月八日一橋家用人を命ぜられ、二百俵、外に合力金 尋で公の請により、幕府より本高百俵を賜はる、是より再び公の左右を離れず、大小の事献替至らざるなし。一橋家日記、年譜 此時世人は皆公を以て攘夷論者と信じ、其輩亦泰斗と仰ぎたるに、公局に当り給ひても攘夷の実行せられざるを見て、是れ円四郎が開国論を以て公を誘惑するものなりと思惟し、謗議荐に起り、目して一橋公身中の虫なりとさへいひき。著者は是より先円四郎と相識り、屡其邸に出入せしが、一日水藩の激徒三橋某等と柳原の一旗亭に会飲せし時、彼等は円四郎を憤りて之を斬らんと叫び、余が其家を知れるを以て嚮導を迫る、円四郎は根岸御行の松附近に住せり 余困じ果てたれども已むことを得ず共に出で、途にて辞を設けて酒楼に誘ひ去りしことありき。文久三年八月十八日の政変の後、公上京せられんとし、十月二十一日、円四郎等を布衣の班に進めて随行を命ぜられしに、二十三日思ひもかけず側用人兼番頭中根長十郎横死の事あり、是れ円四郎が浪士に答へて、攘夷因循の責を長十郎に嫁したるによると伝へたれども、其真偽は明かならず。鈴木大日記明治前記 二十六日円四郎公に随ひて海路江戸を発す、此時公に属せる従兵の中には、円四郎及成田藤次郎等が経営組織せる床机廻の親兵も加はれり。一橋家日記昔夢会筆記 公は入京の後、公武合体派の諸大名を匡合して、京都の重鎮たりしが、円四郎は黒川嘉兵衛等と共に、公の股肱として周旋し、名声朝野に轟けり、時人の評に、天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在りと言ひき。史談会速記録所岡谷繁実談話収 元治元年二月九日 年譜に朔日とあり 用人として側用人番頭を兼ね、一橋家日記 五月十五日一橋家家老並となりて、六月十一日諸大夫仰付けられ、近江守と称す。年譜、川路聖謨之生涯 然るに程もなく十六日夜、川村恵十郎 正平 と共に、一橋家家老渡辺甲斐守 孝綱 を其旅宿に訪ひての帰途、暴徒に要撃せられ、右の肩先より左の肋に切り下げられて即死し 年四十三 従者二人之を防ぎて亦殺さる、恵十郎は傷を負ひながら賊を追ひしが、遂に及ばざりき。谷邦楼叢書一橋家日記 暴徒は水戸藩士林忠五郎・江幡貞七郎 忠五郎は一橋家日記による、同書に貞七郎を定彦とあり の両人にて、亦重傷を負ひ、千本に至りて斃る。事の起りは、去年より一橋中納言を因循に陥るゝ者は、円四郎なりと江戸にて言触らし、或は詩を作りて、「出没明山暝色遥、前途日落更蕭条、平岡十里痴雲合、望断江門第一橋」明山は小笠原長行、平岡は円四郎、痴雲は水野忠
 - 第1巻 p.329 -ページ画像 
徳、第一橋は公を斥せるなり など誹謗しけるが、文久癸亥筆記 此に至り円四郎を除きて、公に攘夷を促さんとしたるなるべし。或は水戸藩士数人、公が攘夷の因循を憤りて原市之進に迫れるに、市之進巧弁を以て責を円四郎に帰したるが故にて、猶円四郎の中根長十郎に於けるが如しといふ者あれども、確ならず。明治前記 円四郎資性聡明にして才気煥発、舌鋒いと鋭かりしかば、人の怨を受くることも少からず。著者嘗て円四郎に侍せる時、人の来りて公事を談ずる者あり、談話の末に「追つて又御相談申さん」と言へるに、円四郎聞き咎めて「余は判断の役なり、相談とは何事ぞ」と言へることありき。後年陸奥宗光伯に会せし時、其弁舌の鋭利、よくも円四郎に似たるものかなと思ひし事あり。円四郎横死の時、著者は募兵の為、関東にあり、やがて募集の壮士数十人を率ゐて帰京せしは其年の九月上旬なりしが、此時は黒川嘉兵衛既に円四郎に代りて用人の筆頭たりき。


〔参考〕徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻四・第四八五―四八六頁〔大正六年七月〕(DK010022k-0006)
第1巻 p.329 ページ画像

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻四・第四八五―四八六頁〔大正六年七月〕
黒川嘉兵衛名を雅敬といふ、安政元年米使ペリー再渡の時、浦賀奉行支配組頭として彼の艦に往復し、名を米人に知らる。ペリー日本紀行 尋で吉田寅次郎 矩方松陰 が米艦に投ぜんとして成らず自首せし時は下田奉行支配組頭として之を訊問せし事あり。松陰先生遺著 安政の大獄起りし時には一旦廃黜せらしも文久三年七月二十七日、代官より一橋家用人見習に転じ、柳営補任 始めて公に昵近せり。八月成田藤次郎・平岡円四郎と共に陸軍取立掛を命ぜられ、十月二十一日公上洛の時、用人格となり、布衣の班に進められて先発す。此後は京都にありて常に公の左右に侍し、元治元年二月二日番頭兼用人となり、平岡円四郎と共に盛名あり、円四郎横死の後は用人の筆頭たり。公海津出陣の時、著者は嘉兵衛の手に属して軍中の秘書を掌りき。慶応元年の春は京都やゝ小康を得たれば、一橋家と各藩との交際繁く、嘉兵衛専ら其衝に当りて周旋せり。十一月十九日、幕府より禄加へられて三百俵となる。一橋家日記 然るに嘉兵衛に如何なる事やありけん、公之を斥くるの志ありて、本家相続の前に其職を免じ、若年寄支配になさる、是れ慶応二年八月三日の事なり。一橋家日記。続昨夢紀事 嘉兵衛は平岡・原の如き才略あるにあらず、器宇も亦大ならざれども、さすがに能く人の材を知り、人の言を納れたるは、其長ずる所なり。明治元年二月、目付に登用せられ、柳営補任 公救解の為に津藩に赴き、また入京して斡旋せし事ありき。復古記 其後京都に住みしが末路は甚だ振はざりきと聞く。



〔参考〕渋沢栄一書翰 (尾高惇忠宛) (元治元年)十月五日(DK010022k-0007)
第1巻 p.329-330 ページ画像

渋沢栄一書翰 (尾高惇忠宛)             (元治元年)十月五日
                          (尾高定四郎氏所蔵)
深谷御分袂以後益御清逸可有之奉南山候随而小生無事途中無羨十八日京地着直様一同弊館江引移申候乍憚貴意易思召可被下候其時《(恙)》ニ岡邸下通行之節ハ彼是騒擾定而御配慮被下候義と奉存候先は格別之義も無之よし幸甚之事と奉存候実ハ小生等忘意より出候事誠以汗顔之至県令之被申候義逸々御尤至極詰り小生等之不敬父母之国を心意さるより生候
 - 第1巻 p.330 -ページ画像 
事呉々悔悟仕候此後右次第取掛御心頭宜御取斗之品も被為在候様奉希候京地着後も一同無事文武励磨致居候書生もあり撃剣家も十分実ニ好場合と一同歓楽致候其上小生両人郷里之者并㒒《(僕)》共上下七人水いらすの同居無此上楽事他郷之愁情は絶て打忘申候呉々御安意可被下候且又尊大慈母君えも右場合被仰上決而御心配被下間敷候様奉希候
天下之事も日陥於一日段々一層ツヽ重り候勢所詮尽力《(マヽ)》も無之候且は今更切迫致死力を用候も大に裨候事も有之間敷乍然傍観は固より難相成候間兼而申上候 水 時情抔并当今之幕府逐一書取建言仕候 上にも格別御配慮も被為在候場合右之書取抔ニは格別御厚き被仰聞も有之其上黒川始有志輩も精々配慮被致候旁先少々意を安し候乍然勢之所使然卑見には㝡早近々瓦解之極に至り可申奉存候
建白書時勢書取当今之模様逐一申上度存候得共何分嫌疑之時勢大機密に関係致候儀旁何れ確便次第奉呈と存候間右御頷置可被下候《(マヽ)》
大兄之御決意も至極適当之義黄口申上候義も有之間敷候得共只今之処ニ而は左程切迫致候とも尽方も無之場合就而は登京之義能々御勘考有之度奉存候御同様尽力致度は小生等元来之宿望乍去兎角跡々之場合懸念之事も有之且又小生之義ニ而さへ右様執拗之県令所詮大兄御脱家も有之候ハゝ惨毒を極メ可申詰り跡に残り候人江責を残し候迄実に難忍御同様之事因而は先々御勘校之上跡々之御処置御取究之上御脱候様被成候方可然奉存候何れ御高慮に有之候義には候得共先小生見込右之通申上候平子事ハ是非御登被成候様致度候実に勉励可致時節空々歳月を為送候而は相成間敷奉存候是非共御作略御登候様呉々奉申上候尚時情之義追々可申述候 右は不取敢無事着御報迄如斯御座候匆々頓首不一
(元治元)十月五日認
                        渋沢篤太夫
      尾高賢兄
        虎皮下
二白大慈母君えは別而書状も奉呈不仕候間宜御鶴声是祈外々何方へもよろしく御致声之程伏而奉祈候須永福田も誠ニ無事両家江も別に一書差越候得共大兄にも宜御願申上候
留守宅之義何分御配慮と奉存候間偏ニ御願申上候荊妻へは一書差遣候間大兄より御投し被下度候品より上京と可相成義申越候是ハ極秘し候方可然又々奸計可有之哉も難計候殊ニ右之義は先小鮮を煮候策と奉存候間兎角安心致候様丁寧ニ被仰聞度奉希候余は在高慮不備


〔参考〕渋沢栄一 書翰(尾高惇忠宛)(元治元年)十月廿日(DK010022k-0008)
第1巻 p.330-331 ページ画像

渋沢栄一 書翰(尾高惇忠宛)(元治元年)十月廿日
              (尾高定四郎氏所蔵)
十月廿日認再白 尾高新五郎様 尊下要用 渋沢篤太夫
日々多忙本月十五日漸得寸暇郷書相認大人江差送申候別而認差上申度存候得共因より別論説も無之因而大人江差送之書御披見被下度一言申上候処右書状差出方彼是遅緩之中十九日夕尊書到来依之尚又増付呈差
 - 第1巻 p.331 -ページ画像 
送申候前件之次第ハ総而申上候通大人江差送中ニ而御推覧可被下候時勢之義委細申上度存候得共別而異説も無之候間先は其中可申上候建白も大人江申越候丈尽し申候総而御採用ニ而近々御処置可被下候其中書取さし上可申候」大兄之御身処も進退共好御都合之よし大慶ニ奉存候出処之義は前々申上候通任御高慮候平子ハ是非急速御登之方可然奉存候依之別ニ印鑑相添申上候是ハ大切ニ可被成候万一登り候事不相成候ハヽ極密ニ御仕舞置可被下候御登に相成候ハヽ右申上候通ニ処置被成候ハヽ容易ニ上京可相成候
宇場之婦人より書状送来慥落手可愛之烈婦ニ候則返翰差送申候御送被下度候
御母堂様始総而御致声之処呉々も御願申上候何れ後便可申上候匆々白
(元治元)十月廿日認
                        篤拝
     藍大兄