デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.629-637(DK030138k) ページ画像

明治五年壬申十一月二十八日(1872年)

是ヨリ先、司法・文部両省経費定額ノ要求アリ。

大蔵大輔井上馨之ニ反対シ、疾ト称シテ登庁セズ。是日栄一モ亦辞表ヲ呈出ス。然レドモ、太政大臣三条実美ノ慰諭ニ依リテ事漸ク止ム。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五 第二八―二九丁(明治二〇年)(DK030138k-0001)
第3巻 p.629 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五 第二八―二九丁(明治二〇年)
此の歳の冬、又もや司法文部の定額論が起つて、大蔵省では何処までも其増額を不可として政府に上申したけれども、政府は言を左右にして、司法文部の請求を擯斥せぬに依て、井上は断然辞職の意を決し、年末に際して出勤せぬから、大蔵省の諸職員は執務の張合が抜けて、其方向を失ふ程であつたから、政府に於ても大にこれを憂慮しられて、三条公は再三自分の宅へ来られて、井上の出勤を勧誘すると共に、自分にも辞職の考へなどを起さぬやうに、と懇ろに説諭を受けましたが、此の定額論は僅に一時の弥縫によつて、先づ其歳は折合が附たけれども、翌年に引続いて各省と大蔵省との紛議は絶えなかつた。


渋沢子爵家所蔵文書 【辞表】(DK030138k-0002)
第3巻 p.629-630 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
     辞表
                    私義向後奉事に堪兼候次
第ハ別紙に申上候通ニ候間、今日より出仕被免候様仕度、尤も爾来省務之手続取調方ニ於てハ、放免後ニ候とも聊御差支無之様順序詳明ニ具状可仕心得ニ候間、何卒微意御諒察被成下置、出格之御仁恕を以速ニ願之通被仰付度、此段奉懇願候也
  明治五年十一月廿八日
                  大蔵省三等出仕
                    渋沢栄一(印)
    正院御中
(別紙)
本月七日井上大蔵大輔義、大臣公江上表仕、爾来大蔵省事務担任之際に於て、困苦之情状委詳具陳之末、向来奉務仕兼候旨切ニ申上置、其後出勤不致ニ付、於私も勿論一日も奉務出来兼候義ニ候間、其次第ハ即日大臣公ヘ陳白仕、速ニ御処置奉願候処、不日御沙汰之品も可被為在ニ付即今之現勢差支無之様代理可致旨、御懇諭も御坐候ニ付、拙劣
 - 第3巻 p.630 -ページ画像 
も不顧、偏ニ大輔之慣法ニ遵ひ、今日まて担当仕候得共、既に本年之公務時間も一日に相迫り、今以何等之御処置も無之、此上明年に至り更ニ事務ニ処し候義ハ、私ニ於てハ目途も無之候ニ付、委細之情況ハ昨廿七日具陳仕候次第ニ御坐候、尤も大輔閉居以来、不能短才之身を以て至緊切要之地位ニ相立、当務ニ補任候義ハ如何にも恐悚之至にハ候得共、月迫御多事之央、強而退身奉願候而も、或ハ公務御不都合可相生も難測、殊ニ大蔵之事務ハ一日を曠し候而ハ、他方万般に渉り其障碍も不少、政治上御不体裁にも可相成哉と、夫是苦念之余り、僅ニ二旬余之送光も日夜戦競、実ニ百年之思想ニ御坐候、就而ハ明廿九日より一般公務退休之際にも有之候間、爾後奉事之次第と即今省務之景状ハ、其梗概を採摘いたし、明年政始まてにハ悉皆具状奉還可仕心得ニ御坐候間、兼而御聴納被下置、何分之御詮議相成、各寮局ニ至迄、向来之事務凝滞支吾無之様御指揮之程奉懇願候也
  明治五年十一月廿八日
                  大蔵省三等出仕
                    渋沢栄一(印)
    正院御中


渋沢栄一書翰 大隈重信宛(明治六年)一月五日(DK030138k-0003)
第3巻 p.630-631 ページ画像

渋沢栄一書翰 大隈重信宛(明治六年)一月五日 (大隈侯爵家所蔵)
奉稟、然は此程中尊厳を冒涜仕候井上大輔紛紜之一事、去二日橋場にて御面話にも相成、稍了局之運ニ付、昨日小生御呼出にて、兼而御決意之如く工部其他之定額論ハ確乎御沙汰も有之、随而小生身処之御指揮も可成下と存之外、条公之御口達ハ全く主要相反《(マヽ)》し、殊ニ西郷参議帰京迄との義ハ、実ニ案外之次第ニ御坐候、畢竟条公事理御領掌無之より、言辞齟齬有之候哉ニ奉存候得共、或ハ閣下御胸算ニ於て、聊行届兼候次第とも有之候事にハ無之哉と深く懸念仕候、尤も昨日拝謁にて相伺候処にてハ、廟上御別議ハ無之との御事にハ候得共、夫とても小生輩可伺知義にハ無之、唯々閣下ニ御迫り申上、不可為を強るの恐有之候間、若其辺御懸念も被為在候ハヽ、兎ニ角小生義ハ願之通辞職御聞届被下度候、実ニ是迄彼是と申上候も只管事之敗頽を憂ひ、一身之所望ハ先以不顧義ニ有之、不才なから条理順序に於て小生尽すへき丈ハ欠漏無之心得ニ御坐候、併夫と申も今日之処先井上之苦情を解、正院にも聊御反求被為遊候様之御処為有之度、将大蔵之事も此際瓦解いたし候様之義無之を懇祈之外他意無御坐候、乍去余り何事も違却候得は、小生輩之無能不徳にも、諺ニ言ふ猫之面も三度撫れハと申如く真ニいやニ相成候間、少しハ御諒察被下度候、殊更申上候も恐入候得共、条公昨日之御口論之如くにてハ、向後御沙汰之品も御引当にハ相成兼唯歎息仕候、就而ハ是迄申上候義ハ先以御聴流被成下小生ハ是非一ト先辞表御聞届被下度奉懇願候、右ハ昨日来種々愚考も仕、閣下之御胸臆も乍恐奉推察候処、何分小生ハ一ト先放免を得候方、却而御都合之方と奉存候、呉々も御垂憐之程奉祈候 頓首
  一月五日
                    渋沢栄一 敬白
    大隈参議閣下
 - 第3巻 p.631 -ページ画像 
  尚々本文之次第ニ付七日出頭之義も先差扣候間宜御海涵奉祈候


渋沢栄一書翰 大久保利通・伊藤博文宛(明治六年)一月一五日(DK030138k-0004)
第3巻 p.631-633 ページ画像

渋沢栄一書翰 大久保利通・伊藤博文宛(明治六年)一月一五日
                   (伊藤公爵家所蔵文書)
  明治六年一月十五日            従東京
爾来杳濶御起居も不奉伺候得共、定而不相替御清穆鋭意交際事務御鞅掌と奉遥賀候、御一行御平寧は担当之公事も追々御行届、即今ハ仏国辺御巡回にも候哉と奉想像候、客歳十月中浣御発之公信にてハ、尚英府御滞在之由、然時ハ一歳ニ漸二国之御巡歴ニ而、此末之御摸様如何可有之哉と、頗瀰久之御事と存候へとも、他之諸邦は此二国之如く御長滞も有之間敷ニ付、何れにも本年中にハ御帰朝と翹足御待申上候、御国内も異情無之、兎角藩札交換租税改正其外旧観を改め候ニ付、民心不安、小動揺ハ有之候得共、敢而関心すへき程にも無之、地方官も拮据努力、一昨年廃藩之発令已後僅一歳半之時間にハ出来過候程之勢にて、大概政治も一般ニ帰し、法制禁令ハ勿論ミンシバル之雑務まて先ハ一軌に出候様相成、租税会計抔も稍条理観るへきに立至り申候、此上両年も無事ニ進歩候ハヽ実ニ三年余之光陰ハ一紀之星霜を過候様之景状ニ変し、何事も今昔之歎可有之と被存候
併爰ニ一事最以大関心之義有之候、夫ハ先いつも同病同患にて、政府之体裁其宜を得さるニ有之候、既に十一月初旬より井上も之を憂ひ、辞職の帰国のと抛擲論を出し、生憎大隈も灯台見分とて旅行中、西郷ハ帰国「《(割注)》島津故隅州ニ異説有之ニ付、説得上京之為メ相赴候なり」条公と板垣のミにて中々折合も付兼可申と、生之身処ハ別而苦難いたし候、其原由ハ先頃暫時御帰京之際ニ相生せし控訴ニ比しく《(マヽ)》候得共、何分井上之断念強く、決而生輩之言を容れす、又条公とて山県抔も時ニ相論し候得共、確乎承引も無之、井上既に然れハ生之微力素より一日を維持いたし兼、去り迚両人籠居候而は、大蔵省之繁忙なる、忽他方へ繋累し、先ハ百事瓦解ニ属し、折角一歳余之勉力も水泡ニ帰し可申もし又生而已安然当務ニ処し候とも、大体之齟齬右之如くなれハ、是も目途ハ難相付、如何可致哉と百方焦思之上、先大隈之帰京を相待候外無之候間、夫迄之処ハ唯正院へ公然と御処置をせり立、現務ニ於てハ調理いたし居、延て十一月廿八日「《(割註)》御改暦ニ付、此日御用仕舞、旧十二月三日より新年と相成、洋暦同様相成申候」に至り、緊しく正院へ上言いたし、条公板垣之面前ニ於て、爾来正院之挙措允当ならさると、各省を視る猶東周之七国に於る如く、一時遁れ之御申訳而已にて立法も行政も都而各省之任と相成、而して正院ハ其乞ふに任せて之を許可し、一方之を拒み、若しくハ之を討議すれハ、之を一方に下し、摸稜䠖跙《(趦趄)》、豈唯政府之体を玷蔑するのミならす、凡庸之人士も其行を為すを恥る処にして、実ニ将来ハさて置、目前之事務如何御統理被成候哉、もし栄一此不敬之言を正院に呈するニ御憤怒も御坐候ハヽ、邦家之幸福此事にして、決而一身ニ顧慮ハ不致候間、相当之御譴責被下度、尤も本日より大蔵之事務ハ担任相成兼候旨を以、不念大声感泣相迫り候処、条公板垣ももて余し、今日即刻之指揮ハいたし兼候ニ付、一月四日迄と「《(割註)》政始之恒例ニ付四日迄の命あり」御日延ニ相成候「《(割註)》各
 - 第3巻 p.632 -ページ画像 
寮頭と《(マヽ)》右等之情実を憂ひ、其上生辞表を奉上いたし候ニ付、首領を失ひ候筋ニ付、一同申合、向後之御指揮を伺出候次第ニ立至り候、」其翌日大隈帰京ニ付不取敢罷越、爾来之紛紜を詳明ニ演述し、将諸省にも内々其情況を承知いたし、悉く正院へ相迫り、漸自反之御処置有之、其上井上へハ条理情実を以てせめ立候ニ付、同人も昨日より出勤いたし、先一段落相済候
「《(小書)》此紛議之原因ハ兼而伊藤閣下之御持論之如く、即今各省とも其委任之事務重に過き、殊ニ行政官ニ立法を兼務せしむるの姿ニ付、第一理財之事抔、正院にハ茫乎漠然に附し、敢而御懸念も無之、本年歳入之概算四千万円程ニ付、願くハ歳出も同額位に御定め有之度と、時々申立候得共、今日之処俄ニ各省之事務減省不相成との事にて、預メ四千六百万円之目的ニ相定め、不足六百万円ハ追而補給之工夫可致との事にて、井上も目下之形勢不得已と稍承服いたし、其通公達相成候筈之処、其後正院にて各省之物議と抗論を恐れ、或ハ之を発せす、其発するも忽ち之を取消し、妄意ニ之を裁制し、尤も工部省抔ハ昨年之定額ニ五十万も遣過有之候処、尚又本年之額御定之後之を変し、先其申請ニ任せ渡方可致との事ニ而、十一月四日井上正院にて之を抗論いたし候へとも、発輝とハ論弁無之所謂朽木に鎸する如くニ付、此事ニ及候義ニ御坐候、其他之件々も有之、之を縷述すれハ枚挙に遑あらす、先頃台湾生蕃問罪之事抔も実ニ妄意偏断ニ属し可申之処、先稍其事ハ寛緩ニ相成候得共、都而依頼之力無之、兎角彼より建議すれハ之ニ応し、是より議すれハ之を可とし、一妾白毛を抜き、一妻黒毛を抜き、終に其良人ハ無毛之人と相成候との古諺之如き有様にて、唯々杞憂此事ニ御坐候、要するニ各省布置之体未タ宜を得す、其任重に過き、其責明かならす、加之立法も行政も各省之を兼持して、而して正院ハ唯空権を握り、虚位を頼て其中間ニ居候姿故、いつも此弊を生し、而して大蔵省ハ尤其甚しきものなれハ其弊之感するも亦尤速にして、今日之事ある所以と存候、因而ハ、是非其事を減し、其任を軽くし、聊議事と施政との分界を設立するを以て矯弊之当務と奉存、大隈ヘハ愚考をも申立置候義ニ御坐候」
前書之次第ニ付、先大蔵之病気ハ平癒之姿ニ候へとも、又他之省へ伝染いたし、同様之苦情相起り可申と、矢張関心ハ免れす、到底此姿にてハ如何可有之哉と被存候間、願くハ閣下各位之内御帰朝御調理之処渇望之至ニ候、生之卑職素より是等之言を以て政府を誹り、殊ニ御帰朝抔奉促候ハ頗位置を失ひ、越爼之極とハ奉存候得共、実ニ向後之事共関心ニ不堪次第ニ付、唯愚考之儘申上候次第ニ候間、宜御諒察被下度候、是迄も時々懸念ハ有之候得共、是等之事遠く万里外ニ申上、御多忙中却而奉煩高慮候義と、都而差扣候得共、即今之景況にてハ甚苦念之至ニ付、敢而申上候義ニ御坐候、尚此混雑ニ付而ハ各方より御通達も可有之と奉存候間、夫是御参考被下度、併大蔵ニ相生し候紛紜ハ、生実ニ其事を尽し候義ニ候間、其説も亦確たるものと御承認被下度候
吉田之募債一件も唯遷延而已、即今之模様にてハ利足引上り、六ケ敷事と被存候就而ハ同人ハ御帰国被成候方、却而御都合にハ有之間敷殊ニ全省右様之勢ニ候処、大久保閣下吉田とも御不在にてハ、井上の苦
 - 第3巻 p.633 -ページ画像 
心可想之至ニ候、何卒其辺御推意被下度候
大蔵省ハ百事先相運候、旧藩負債も略ホンド之処置に掛り、紙幣之如きハ即今引換最中ニ有之、銀行も追々創立之勢、租税も順を追て改革いたし、駅逓ハ頻ニ歩を進め、外国郵便をも相開候積、其他省中之体裁も無用之事ハ先無之、実務勉励にて打揃ひ面白く相勤候姿ニ御坐候出納規則省中処務順序抔ハ余程手続相立、都合よろしく候、乍去前文申上候通之次第故、一省之事務進歩候とて偏廻りの車輪にして其効之無之而已ならは《(すカ)》、或ハ他方ニ繋累し、終ニ紛議を来し候様相成候まてにて、真ニ長大息之至ニ御坐候、生ハ素と一介之書生にして人之触望もなけれハ随而其所任も少く、決して建国之功臣ニ歯して、麒麟閣の捨扶持に余生を楽むの存念ハ無之候間、詰り食禄に奉事する給金取一様之看を受け、又自らも之に甘し、敢而邦国を我物らしく心得候様之間違ハ不仕候得共、実ニ前々申上候通之有様にてハ、此末如何可有之哉、所詮現在之廟上諸賢哲にも御困難と奉恐察候間、右等之情状遠く奉脳尊聴候次第ニ候間、何とか御熟慮御方策御坐候様奉渇望候
時下通常之景況にも申上度事多端ニ候へも、其尊聴を怡はすへき事ハ他人之報知又ハ新聞紙等に譲り玆ニ唯奉煩高慮候事而已申上度、匆々
                          頓首敬白
  第一月十五日夜
                        (朱印)
                 渋沢栄一拝具 
    大久保大蔵卿 閣下
    伊藤工部大輔 閣下
辰下凛寒。徹骨灯火明滅。硯水将凍。屡呵禿筆。遠寄万里之外。以乞春風和融万枯皆生之恩賚。
  伊藤閣下御骨折之繰糸場も漸其功を竣メ、新糸出来いたし候ニ付
  博覧会へ差出候積ニ御坐候
  (行間小書)
  「陸奥同行近日発程、一覧之心得ニ御坐候」
  両閣下御留守宅御平寧之由、御降心可被成候


渋沢栄一書翰 吉田清成宛(明治六年)一月十七日(DK030138k-0005)
第3巻 p.633-635 ページ画像

渋沢栄一書翰 吉田清成宛(明治六年)一月十七日
                    (京都帝国大学 文学部国史研究室 所蔵)
                     「六年三月十一日達す」
  明治六年一月十七日                    従東京
奉稟爾来絶而御音聞《(問カ)》も拝承不仕候得共、愈御清暢之義と奉遥頌候、御担当之公務ニ付而ハ時々公信又ハ電報等にて貴境之景状も詳悉仕候得共、兎角毎事齟齬多く何分御目的相違候哉之趣、嘸御苦心之事と奉察候、当地にても日夜御消息渇望いたし居、唯々隔靴掻痒之想而已ニ御坐候、十月初旬御発之公文まてハ先月中到手逐次御模様も拝承いたし候、即今之処にてハ西洋一般之利足引上り候哉之由ニ而、兼而之リミツトにて募債候義ハ先御目途も無之哉之由、因而大隈井上抔打合之上井上横浜に罷越委細公報仕候間、既ニ御了承被下候事と奉存候、生之愚考にハ、右様唯瀰久候而も事々差支有之上ハ却而一先御帰朝之方上策にハ有之間敷哉と奉存候、併御国之ケレヂツトにも関係いたし候事件故、全通債之目的不行届《(マヽ)》より中廃御帰朝之形跡判然たるハ、実ニ声
 - 第3巻 p.634 -ページ画像 
聞も不宜次第ニ付、何と歟御考案ニ而御工夫も可有之と奉存候 定而井上より申上候事とハ存候へとも、横浜辺之洋商ハ頻ニ日本政府へ金調之義申出、実ニ手堅き聞有之候、英一 ヂヤルヂンマチソン 仏五十七 コントワルヂスコント 其外亜米一 ワルスホールコンペニー 和蘭商会抔時々申来候利足ハ、大概年八九朱、其高ハ千万円より弐千万位ハ容易ニ出来可致との事ニ候間、今日之処にてハ他に請求候よりハ、寧ロ内にして相対借入之方入費も無之上策と奉存候、御参考まて目下之景況申上候、時々公信にて申上候通、大蔵省ハ不相替繁忙を究候得共、各寮共手揃にて百事先更張いたし、別ニ不都合之事も無之、折合ハ至而宜敷租税も地券法取調中ニ有之、紙幣ハ御藩札引換ニ取掛、バンク之事も規則相定り追々創立之勢ニ有之公債証書も近々出来いたし、御藩負債調も大概出来、駅逓抔も追々進歩いたし、運輸之方法抔も大ニ便利ニ相成、出納規則も手順整粛と相成、大体之処務稍順ニ帰し候間、空論を為す人ハ稀にして日々刻限を以て実務勉力之姿ニ相成候、是ハ実ニ井上之勉力と才識にて一同も甘服従事候故之事と奉存候間、御降心被下度候、然処之に反して大に苦念可致ハ正院之御体裁其当を得さる故にか、既に大久保伊藤両副使暫時帰朝之際一時井上正院への苦情論差起り候得共、其時ハ先両副使抔之調理にて和解いたし候へとも、其後何か不穏内情有之、既に昨十一月四日より井上ハ断然辞退之心得ニ相成、何様相迫り候而も少しも不相動、生憎大隈ハ灯台見分とて旅行中、実ニ苦難を究メ候、殊ニ上野ハ先頃より外務へ転し、唯小生ハ方向に迷ひ、井上へ相すがり候へとも是も道理ある怨言而已にて、強而論破も難致、さり迚井上退けハ忽ち大蔵ハ瓦解ニ至り可申、其上賢台抔大事御抱負にて外国へ御出張之央右様之事ニ立至り候而ハ、終ニ全国之大病とも可相成哉と日夜焦思いたし、先一月計ハ小生代理にて日々之事務を取扱ひ、其間諸方を奔走いたし、其中大隈帰京ニ付当月上旬に至り漸事々理解いたし、一昨日より井上も出勤候間、一ト先安堵仕候、夫と申も正院に於て大蔵之事疎外ニ被成、各省之請求次第金穀之事ハ唯大蔵へ御任せにて其責にも関与せさるの姿ニ有之、甚しきハ之を嫌ひ之を疑ふの御処置より相生し候事にて、之を縷述すれハ件々枚挙に不遑候間、先閣筆候得共、僅其一二を申上候ハヽ、先日も公信中申上候如く、台湾討伐抔之空論而已ニ御坐候、殊ニ歳入出を定め、各省之定額相立候義ハ素より政府之権、政府之本務ニ候処、先ハ之に遁れ、其責任を大蔵に委し、甚しきハ既に之を定めて亦之を破り、毎事定操少き御処置にて、尤も工部之事共頗る御不都合故、井上も夫是と胸中ニ包羅もいたし兼、寧ロ退身之方可然と断念候次第ニ御坐候、併他方之尽力も有之小生も時々正院にて其非を抗言し、大隈帰着後ハ別而相迫り、漸正院御自反之効相立、井上も出勤候様相成候義ニ御坐候
大蔵ハ右之手続にて稍平静ニ至り候へとも、所詮正院ニ充分之力無之候間、亦他方ニ此病症伝染可致と懸念不少候間、閣下にハ兎も角も一ト先御帰朝之方と奉懇祈候、何様外にて御都合宜候とも、内地右様にてハ其効験ハ有之間敷と存候間、願くハ其辺御諒察相成、早々御帰国御坐候様奉懇願候、小生も力可及丈ハ井上を補助いたし候へとも、所詮微力不才、殊更人之信用ハ乏しく、其故井上之苦難も多き様可相成
 - 第3巻 p.635 -ページ画像 
と別而苦心之至ニ候、因而小生ハ是非引退き、誰か井上之補助ニ足り候者ニいたし度候へとも、此際小生彼是申出候も又如何可有之と井上へ内話候へは先是迄之通勉力有之度と申居、敢而退身之事ニ承引ハいたし呉不申候間、先一身を論し候場合にも無之と唯今日を維持候事ニ注意奉事耐忍いたし候、御垂憐被下度候、是迄ハ右等之事情も敢而不申上候得共、何分即今之処苦心に堪兼候次第、且ハ将来之安心も無之ニ付、不得已万里外奉脳尊聴候次第ニ候間、深く御推意之程奉祈候
尋常之事件又ハ御国即今之景況にも色々申上度候へとも、大概ハ新聞紙日誌等ニて御分り可相と《(成脱)》閣筆仕候
御改暦ニ付新年ニ成候而も春めき候事も無之、併旧臘より火災ハ少なく府下之人気ハ平穏にて商売も稍繁昌之姿ニ候、各県も至極折合、事務も追々相挙り、廃藩後一年余之間にハ存外整頓いたし候、租税紙幣抔にて小動揺も有之候へとも懸念と申程之事ハ無之候
右近況申上度 匆々頓首敬白
  明治六年一月十六日
                       (朱印)
                   渋沢栄一
   吉田少輔 閣下
(欄外)
御留守宅御平寧之由御安意可被成候
上野之老人死去今日出棺ニ御坐候
井上も十月中老母を失ひ申候
西郷先生ハ即今帰国近々帰京之筈ニ御坐候
  ○大蔵少輔吉田清成ハ維新以後第二回ノ外債タル七分利付外国公債募集ノ為メ理事官ニ任命セラレ、明治五年二月出発、先ヅ北米合衆国ニ渡リ、同年五月渡英、同六年六月帰朝ノ途ニ着キタリ。


世外井上公伝 第一巻・第五一九―五二四頁 〔昭和八年一一月〕(DK030138k-0006)
第3巻 p.635-637 ページ画像

世外井上公伝 第一巻・第五一九―五二四頁〔昭和八年一一月〕
    第八節 廟議波瀾
 民部省廃止後の大蔵省は、特り財政の枢機を掌握したのみならず、一般民政にも関係したことは前にも屡々述べた如くで、その勢力が優に他省を圧してゐた。而して公は大輔であつて卿を代理してゐたので、その権力の大なるはいふ迄もなく、遂には衆議の焼点とならざるを得なかつた。殊に公は岩倉大使以下出発後は、留守政府を預ることの責任を痛烈に感じてゐたので、一行の帰朝までに出来得る限の廃藩置県後の革正をしようと、鋭意各方面に手腕を振つて、文部司法等に至るまでも革正に手を拡げ、到る所に衝突を起して、大蔵省対他省との確執を生じたことも屡々であつた。併しそれは只一時の感情問題からのもあり、又嫉妬心から起つたものもあり、頗る複雑な関係ではあつたが、要するに公の心算では、使節一行の帰朝までを目標として政費の緊縮主義を執り、財政統一の実を挙げようとしたのに外ならなかつたのである。それは兎に角、留守政府に於ける公の立場は非常に困難のものであつたことは、五年六月十日附で公から洋行中の木戸に送つた書翰中にも次の如く見えてゐる。
   昨年袂別来ハ可也ニ調子モ合候得《(共脱カ)》、大蔵省ハ従来之病痕モ有之候事時々発起シ、困窮罷在候、実ニ置県来外国之債払方、或ハ内
 - 第3巻 p.636 -ページ画像 
地人民え藩々ヨリ之払方所置、地方請取渡混雑、昨年九月来之精勘定等ニ而苦心ノミ、微力ニハ候得共力ヲ尽シ候積ニハ御座候、併左院或ハ正院辺、隠ニ生ガ再威権掌握セシ抔、世間ヨリハ過酷之風説、実ニ不幸不知所訴、元来国力ヲ不計事業創立スルハ日本人之弊風ニテ、其理ヲ論ズレバ人情悖戻シ、黙従スレバ会計之目的不達ノミナラズ、邦家衰滅ニ関シ、如何程開化スルトモ用ユル所無之様相考ヘ申候、一事ヲ起スモ、只今之形様ニテ不得已トカ、或ハ格段ト歟云様成行、今日之進歩神速ニテ冗足候而ハ、中々生等之及ブ所ニ無之、廃藩已前ハ生等之類駈歩ト云様世人ヨリ誹謗ヲ受候得共、今日ハ其勢ヲ倒ニ致シ候姿ニテ、何分御者エ従ヒ千里ヲ致スコト不能、実ニ此形容ニテハ三四年之内、会計之窮迫自今懸念至極ニ御座候、併公債利足其他年々借銀等ニ関スル払方遅延スル様有之候ハバ、政府之信ハ最早地墜再不可救ニ至リ可申候、会計之困難ハ不可言事ニ御座候、御憐察奉頼候、大久保ト伊藤ハ為改正滞在候而、先醒ハ一先御帰朝相成候様、呉々モ奉祈候、何分正院ニ威権無之候故、成丈正院ヘ威権ヲ附シ候之外策無之候、又今日如何程条約改正ハ御尽力ヲ以、充分全備可申候得共、内務今日之都合ニテハ、内外平均ヲ失シ可申候様相考ヘ申候、何分世間開化之ナマキヽノ人多人数ニ相成、実以生等之見込トハ相違候事多ク、遺憾至極ニ御座候、此辺ハ過日之御書中ニモ御教誨有之実ニ御同意ニ御座候、木戸侯爵家文書
而して九月末に及んで各省予算の議論の起るや、兵部省は一千万円・海軍・文部・司法の三省は各々二百万円を要求し、大蔵省は旧知事士卒族禄・宮旧堂上方家禄・地方救恤水利堤防費・米穀運輸費等に二千九百万円を要する外に、宮内・外務・大使入費等を合算する時は優に五千万円を下らざることとなり、歳入予算約四千一万円を以てして他に支出の方法が無かつた。こゝに於て正院は一先づ陸軍に八百万円、海軍に百八十万円、宮内に六十万円、司法に四十五万円、文部に百三十万円、工部に二百九十万円と内決したが、十一月四日に至つて、海陸軍両省以外に於ても皆各々公に迫つて増額を要請し、公は全く敵の重囲に陥つた形であつた。それで公も居たまらず一時は辞職しようとし、疾に託して帰県したこともあつたが、また思ひ直して今日事を決するは正院であり、正院の命なれば金穀の有らん限りは支出すべしと夫々答弁して来たのである、併し各省は決して予算の増額運動を中止したわけではなく、正院ヘ対して建言する所猛烈で、公も屡々正院の力なきことを痛嘆した。かくして翌六年一月二十二日附を以て、公はこの間の消息を木戸に申送つた。その書翰中に、
   抑昨年大使一行解纜已来《(一脱カ)》、尚今日迄大蔵之事務ニ従事シ、只大蔵前途之目的ヲ達セント欲スルノ基礎ヲ開カントス。然ト雖、劣生不才不能不学にシテ、日用之事務尚不能挙、況ヤ基礎ニ於テヲヤ。且壱人以テ費用ヲ制セント欲ルモ、他省ニ至テハ只方今欧羅巴ト対立ノ主意歟、拡張スルノ策ノミ。又恐レナガラ正院モ此説ヘ附加シ、終ニ大蔵省ノ責ニ帰シ不得止抗論セザルヲ得ズ。屡之ヲナス、他省ハ申ニ及バス、正院よりモ忌諱ヲ蒙リ、且廃藩立県
 - 第3巻 p.637 -ページ画像 
ノ事タルヤ、其事務十ニ八九ハ大蔵省え関係シ、且従来藩々自儘ノ租税、自由ノ出納ヲナセシ官員ヲシテ新地ノ令官トナス。故ニ一銭ノ事タリトモ大蔵省伺ナシニ出スヲ得ズ。一人ノ使部門番ト雖、制限ヲ付、又県庁畳ノ表ニ至ル迄伺ハセ候迄ニ束縛ヲ極メ申候。是モ一時止ヲ不得、只金穀ノ濫出スル恐レ《(ヲ脱カ)》、或は旧藩ニ貸借ノ不始末等ノ起ランコトヲ予防スルノ策ナリ。然ルニ県官ヨリ劣生ノ酷ヲ訴ル者多シ。実ニ八方敵中ニ坐スルノ思ヲナセリ。然ルニ昨年大久保・伊藤中帰之節モ、於正院モ劣生ノ威権強盛ノ説起リ遂ニ板垣・大隈モ金穀ノ権ハ大蔵え仰ノ外他ナシト渋沢ヘ向テ答ルニ至ル。之ヲ聞驚歎ノ余、直大蔵卿代理ノ権返上セリ。大久保ヘモ其事情厚く申出レドモ終ニ代埋ノ権ヲ辞ス能ズ。大久保・伊藤ノ説諭ヲ蒙リ又戦々競々従事《(マヽ)》スルニ至ル。故ニ同両氏解纜後ハ心中不快ナガラモ或ハ己ノ異見モ曲従シ、務テ抗論ハ大異同ノ外ハ致サザル様注意候テ只々使節一行ト御留主中番人相勤候事之約言ヲ踏迄ヲ目途トシ、日々御帰朝企望スルノ外豈他アランヤ。
  木戸公爵家文書 ○下略



〔参考〕(三条実美) 書翰 渋沢栄一宛(明治五年)一一月二二日(DK030138k-0007)
第3巻 p.637 ページ画像

(三条実美) 書翰 渋沢栄一宛(明治五年)一一月二二日 (須永一郎氏所蔵)
寒威相募候処益清雅大賀候、扨毎々労配慮候義気毒存候得共、工部省当今渡方金之義、過日縷々細書之趣無拠義と存候間、佐野五位江も申諭大隈山尾帰京迄差延候様申聞、是非不得止ハ調金取替候而も可然申談候処、於同人も彼是不得止都合ハ承諾仕候得共、何分明廿三日払方ニ端迫差閊当惑仕候趣調金之義ハ如何様共可相成候得共、利金等無用之失費も有之候得は、三万円丈御渡相願度、左候ハヽ残之分ハ兎も角廿八日迄差延、長官帰京之上何分之御処分相待可申、唯々明廿三日渡方充分無拠分三万円無之而は差支候趣ニ候間、猶一応此旨申入候、過日来示之通右之事件大輔紛紜之原因ニ而足下ニ於而も取計苦敷事情は相察申居候義ニ付、於拙者も右様之義足下江相迫候は甚以申兼候義ニ候得共工部之事情不得止尚亦申入候、此上於足下取計御請も難相成義は乃掛合候迄も無之推察可仕義ニ候得共、佐野よりも段々訴出候間申入候、併於足下御請難仕事情ニ候ハヽ、調金之方ニ可取計、工部江は下命可致候得共、先以内々以書面申入候、一筆回報有之度候、仍草々如此候也
  十一月廿二日
二伸、先日来内談仕候未彼是心配仕候得共、少々情実も有之、定額一条も相運兼候、何分大隈を帰朝相待候方上策と相決候間、今六七日は延引ニ可及も任序此旨内々申入候
    渋沢大蔵少輔殿               実美