公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第6巻 p.480-496(DK060140k) ページ画像
明治33年2月27日(1900年)
銀行倶楽部第四回晩餐会開カル、伯爵井上馨一場ノ演説ヲナス。栄一謝詞ヲ述ブ。
渋沢栄一 日記 明治三三年(DK060140k-0001)
第6巻 p.480 ページ画像
渋沢栄一 日記 明治三三年
二月二十七日晴
午後五時銀行集会所ニ開キタル銀行倶楽部ノ宴会ニ列ス、井上伯来リテ経済上ノ意見ヲ演説セラル、畢テ会員ヲ代表シテ一言ヲ《(ノ)》謝詞ヲ述ヘ後立食ノ宴アリテ夜九時頃散会ス
銀行通信録 ○第一七二号・第四〇八頁〔明治三三年三月一五日〕 銀行倶楽部第四回晩餐会(DK060140k-0002)
第6巻 p.480 ページ画像
銀行通信録
○第一七二号・第四〇八頁〔明治三三年三月一五日〕
○銀行倶楽部第四回晩餐会
銀行倶楽部にては二月廿七日午後四時三十分より第四回晩餐会を開きたるに会する者二百名に垂とし、当日は井上伯招請に応じて来会し一場の演説を為したり、演説後は例の如く各員会食の上歓を罄して午後九時頃散会せり、井上伯の演説筆記は伯の検閲を乞ひし上次号に掲載して読者の瀏覧に供すべし
銀行通信録 ○第一七三号・第五三九―五四八頁〔明治三三年四月一五日〕 銀行倶楽部に於ける井上伯の演説(二月二十七日)(DK060140k-0003)
第6巻 p.480-490 ページ画像
○第一七三号・第五三九―五四八頁〔明治三三年四月一五日〕
○銀行倶楽部に於ける井上伯の演説(二月二十七日)
諸君に申上げますが昨年来園田君、渋沢君より切に私の経済上の考を銀行倶楽部に於て陳述する様にといふ御懇望がありました、一月には園田君抔にも御約束をして置きましたが遂私も旅行を致して居て其機会を外して甚だ遺憾に存じました、然るに迚も私の如き老朽ではあるし、且つ又決して経済学者でもなし、そう実験上に富んで居ると云ふ自分の感覚もなしする処のものが、経済上に最も直接なる関係のある当局者の御方に向つて述ぶる程の説はない、又良しんばあつた処が謂はゞ私の説は兎角言へば世に違ひ言はされば心に違ふといふやうな有様で動もすれば此経済社会の趨勢と私の考へる処とは違ふ所がある己の良心に問ふて見て只此趨勢に向つて気に入るやうなことを言へといへば私の良心に愧る、又言へば趨勢に向つて行く人の考とは差異を生ずる、又言つた処が人に満足も与へず自分も夫程に満足もしないと
- 第6巻 p.481 -ページ画像
いふやうなことである、故に私は余り公衆の場所に向つて色々自分の説を吐くことは好まぬと云ふことを申上げて再三御断を致したが、是非意見を吐けといふ殆んど厳命のやうな有様でありましたから、遂に今日此処に出席を致しましたが、勿論諸君に対して私の陳述した所のものが御利益にならうとも思ひませぬ、加ふるに私が過去の事に就き現在の有様を見、未来に之を徴して申すといふことになれば或は恐る諸君の耳に逆ふことが多くありはせぬかと、左様に自分にも考へて居ますから是丈はどうか御免を蒙つて置きます
私は当局者たる処の資本家、或は融通の局に当つて御座る諸君に於てどうぞ深く御注意があつて過去現在よりして此日本は日本丈の未来の経済の方法手段を講ずるが必要であらう、世界の経済主義の軌道を外れて脱線をするが如きことがあつてはならぬ、今日開明の日本の現状に於て未来に進行して行く上に就て余程是は注意をせねばならぬ、其脱線をせぬ様に其範囲内に於て経済上日本の国の自衛、即ち自ら守る処の主意が立たぬ以上は、今日の複雑して居る処の経済上の整理をしよう、或は未来に好結果を得やうといふことは六ケ敷事であると信じて居りまする、古語にも『夫れ功の成るは成るの日に成るにあらず、蓋し必ず由て起る処あり、禍の起るは起るの日に起るにあらず亦必ず萌す所あり』といふことがありますが今日日本の経済社会といふものは順境に進んで行く様に見ゆるけれども、未来を想像すれば或は甚だ憂ふべきことがあるや否やといふことになりますると、私は憂ふべきことがあると信じて居ます、而して禍といふことは必ず其禍の起つたときに起るのではない必ず其起るといふものは盛んなる時に起るものである、其時に埋伏して居つて夫が段々と成長して参つて其禍が事実に現はれて来る、是は余程戒むべき事であると私は信じます、日本の経済社会の未来に対して私が杞憂を抱くといふことはどふいふことから萌したかといふと、抑も日清戦争後其盛なる時に経済社会の困難は生じたものであろふと私は信じて居る、戦争前に於ては諸君も御承知の通に何億何千万といふ数を以て貿易の上に於ても、或は政府の歳入の上に於ても数へると云ふ程の必要はなかつた有様で有つた、然るに幸なる哉戦勝の結果支那より償金といふものを取つた、換算すれば三億何千万になるが、サー此声といふものが即ち上下共に禍の萌す処の種であつたと考へる、夫迄といふものは歳入に於ても億を以て数へるといふことがなかつたのが、扨非常の金が日本に入つて来たといふ想像が即ち上下の人心に起つた、其処で政府に於ても又民間に於ても諸君の御承知の通に戦勝以後の勃興といふものは仲々劇しい勢であつた而して其劇しい勢は今日も未だ進行しつゝあると私は見做して居る、其間に時々或は多少の恐慌とか或は金融の必迫とか、種々な事がありましたらうが、未だ其弊は今日も私は生じて居り、又進行しつゝあると見做して居る、其時から禍が段々醸して来て居ますが最早今日は余程注意する時機に後れて居りまする、けれども後れて居ると雖も注意をせぬければ未来日本の国と云ふものがどうなるかと云ふ事の一つ玆に懸念がある、夫は勿論唯一の事物を以て勘定は出来ぬ、種々な物が集つてそふして此過去、現在、未来と云ふものに徴して見るより外に
- 第6巻 p.482 -ページ画像
致方がありませぬから先ず銀行の事は後に廻して置きまして、一つ一つの廉々に就て私が此事はこうなつて居る、此事はこうなつて居ると過去と現在とに徴した所の事を箇条を立て一つ諸君の耳を煩はしたいと存じます
第一に此最近の日本の人口の増殖の割合を見まするに、其統計は左の如くであります
累年人口比較表
此統計を見ますと、廿一年の人口は三千九百六十万七千余でありましたが卅年の統計に依れば四千三百廿二万八千余と云ふ人口になつて居る、斯の如く鼠算の様になつて人口が増しますが日本の人口の増す度合に応じて日本の生産力が発達をするや否や、又人口の増すに従つて耕作地が増すや否や、決して私は増しはしないと思ふ、又生産中の農業の事に就ても未だ其改良は他の商工業に比較すれば劣つて居ると私は見て居る、私は此農事を打ち置けと云ふ論ではない、勿論是も改良が出来なくてはならぬが如何せん人口の数の増す割合に此生産力は発達はしない、又食料の様な物にしても其他の消費物にしても年一年増に其需要高が増して来る傾があります、現に生活の度に就ても日清戦争以来上下争ふて以て生活の度と云ふものを自ら上げて来て居ると云ふ有様である、加ふるに又止むを得ぬ必要の点から起りまして戦争後に於ては従来廿万の兵であつたのが即ち四十万になつた、扨此徴兵なるものは中等以上の人種が余計に徴兵に当るであろうか中等以下の下級労働者の方に向て之が当るであろうかゝどふしても中等以上の人は体格が其れ程に善くない、ない以上は即ち下等の方に余計に当ると云ふ事は是は免かるべからざる数でありませう、そうして見ると第一に此労働賃などの非常に騰貴すると云ふ事も銀貨本位が金貨本位に移つたと云ふ所の為もありませうが併しながら先ず凡そ廿万人と云ふ此徴兵と云ふものはどうなるかと云へば、即ち年令に於て労働の最も屈強なる時に於て三箇年間は不生産的の地位に置かねばならぬ、そうすると人口の割合からして先づ女或は老幼の人を除いて見た所で、廿万と云ふものは兎に角労働を三年間は止めねばならぬと云ふ結果になります、して見れば労働賃の上ると云ふ事も自然の趨勢である、所が是は直接なる事実でありますが、間接に来る事は誠に恐はい、又余程考へて見ぬと云ふと間接なる事と云ふものは分り憎いと私は信じて居ります、日清戦争の時に於ても諸君も御承知の通りヤレ兵が出る又帰つたと云へば此村中の者が集つて之を送迎する、寒村僻地に至つたならば是まで何か神様の祭抔でなければ一村挙つて集まると云ふ様な機会は
- 第6巻 p.483 -ページ画像
なかつたのが、一村も二村も互に集まると云ふ機会が度々出来た、扨機会が出来て人が集て見れば人の競争心が起る競争心と云ふものは物を比較すると云ふ事から起ると信じて居りますが、此比較をすると云ふ所の機会が度々出来て、隣の村の権兵衛の息子或は女の子がこう云ふ着物を着て居る、あれの身代位ですることなれば己も之をせぬければならぬ、此比較的の事から競争心が直様生じて来る、又互に集て飲食をすると云ふことも出来た、何処其処の村の何某が支那に向て出た時はこふ云ふ盛な宴会をした、何でも己の処の村の何兵衛が出たならは此位の事はせぬければならぬといふ如く、競争心が寒村僻地に至る迄起つて来た、是は即ち間接の事であります、又同時に中等以上の方に向つても屡々さう云ふ機会と云ふものが起つて生活の度を上げ、或は飲食を盛にすると云ふ事も起つて来た、其処で現に近頃輸入品を見ましてもが、瓦斯糸と云ふ様なものであろうとも多少日本で製造するにも拘らず、殆んど四百万円許り這入る、此瓦斯糸は太い糸で織つた着物では満足をせぬと云ふ結果から其需要が生ずる之が何よりの証拠であろうと思ふ、マア双子見た様な見場の善いものてなければ満足をせぬと云ふことであります、又モー一つの間接なる事と云ふものは例せば寒村僻地にあつても全体に日清戦争後多少生活の度は進んでは参りましたが、是迄マー一箇月に平均十たびと云ふ肴を喰いをつたかどうだか、私の想像する処では其位のものであつたろうと思ふ、然るに扨其地方の人が入営をして見れば勿論悪ひ肉、悪ひ肴ではあろうが少なくも一日に一度の肴位はある、扨今度是が再び田舎に帰つた時はどうである、主なる食物の飯にも馬鈴薯もあれば薩摩芋もある、菜ツ葉もある、処が三箇年間此処に習慣が附いて帰つて見た以上其は旨くないと云ふ感じが起る、是亦即ち間接に生活の度を上げざるを得ぬ、又モ一ツ私の驚いた事がある、即ち此一月に興津に行つて居つたが、此別荘の番人に其近処の百姓を一人常に置て居た、此息子なるものが徴兵に当つて居て十一月に帰つたと云ふ事である、処が私の別荘の傍に小山見た様な物があつて密柑を植て居る、其兵営から帰つた処の百姓の息子は廿五六になる男と思ひますが、是に其密柑に肥を与へろ、担いで是を掛けろといふた、処が其を担いて参れは二町位は歩かねばならぬがどうしても担げませぬ、百姓の息子であつて是が担げないとはどうしたことだ、肩が痛くて仕方がありませぬ、三年間肩を休めましたから担げませぬ、此奴怠けるなと私は思ふた、処が扨或日村長が来た、其処で扨こう云ふ事があるがどうも彼奴怠ける奴だ、三年肩を休ましたから担げぬといふがさふ云ふ訳はない筈だろうと云ふた、処がイヤ夫は貴所の留守番の息子に限りて担げぬといふ訳ではない、皆兵に行つて帰つたものは三年間肩を休めるから担ぐことが六ケ敷ございます、マア少くとも三四箇月は慣らさなければならぬといふ事であつた、是又一の間接なる事であろうと私は思ふ、マア此の如く段々小さい事に至つては色々な事柄もあります、其処で労働賃は高くなる、生産物は輸入の額に超過した丈のものを急激に製して行くといふことは随分是は困難な仕事で、又出来得べからざる事であるかと思ふ、ソウして見れば農を打捨てるといふ意味ではありませぬが、昔の習慣で云
- 第6巻 p.484 -ページ画像
へば士農工商であるがどうしても商工農士といふ工合の有様に是からは進歩して行かなければ私は日本の経済を維持して行く事が六ケ敷いであろうと云ふ事を思ふのである、此の如く人口の増すに随つて三十二年抔には塩をした魚が百何十万といふものを輸入して居る、又卵が八十何万円輸入して居る、日本は環海の国であつて又寒村僻地でも鶏も沢山に飼ひましようが、卵を八十何万円も買つて喰はなければならぬと云ふ様になつた、又塩も随分将来は六ケ敷なると云ふ有様になつて消費物―僅の日数に於て消散する処の物も外国品を仰がねばならぬといふ趨勢が大体上人口の増す結果として起るのである、余り老婆心で先を気遣ひ過ぎるか知らぬが是も随分考へものであらうと思ひます、是はマア人口の増すに従つて労働賃の高くなると云ふ事と農事許を以て国の本とすると云ふことは今日は六ケ敷い世の中になつたと云ふ事の大体を御話した訳であります、夫からモー一つ御話致しまするは鉄道である、統計を見まするに左の如くであります
既成官私鉄道哩数及建設費表 (三十二年九年調[九月調])
即ち三十二年九月の現在の調に依れば官線に於て八百十九哩と云ふものが出来て居ります、又其建設費と云ふものが六千百五十三万七千円余もかゝつて居て此平均一哩の建設費が七万五千円余掛ツて居る、又私設鉄道の哩数が二千七百六十六哩延長して居ります、此建設費か一億六千四百十万二千余円掛つて居ります、之を平均して見ますると一哩の建設費が五万九千三百廿八円に付いて居る、成程一寸官設の方は七万五千円、夫から民間の方になると五万九千と云ふものであるから余程其間に差がある、一寸諸君の御考に於て鉄道は民設の方が安い官設の方が高いと思はれるか知らぬが成程官であるから手数が余計掛つて高いかも知れませぬが、併しながら扨此民設の鉄道なるものは充分金を使はぬ主義からして殆ど仮の工事と云ふ様な有様である、勿論ドノ鉄道会社の鉄道と雖も一様であると迄は私は断言しませぬが、九州鉄道の有様などから見ると成丈金を使はぬ様に成丈配当の余計ある様に鉄道其物はドーなろうとも構ふ人はありはしない、其重役と云ふ者も株主に制せらるゝ所から如何とも仕様がない、ソーして之を固定資本と考へる、此固定資本と云ふものは堅固なる資本であるや否や、決して堅固なるものとは言へぬ、修繕も怠たり或は無暗に金を惜む結果はドーなるか、九州鉄道の如きは余程古い又其丈の働く力のない様な滊缶車が沢山あつたり、又レールの様な物にしても余程薄弱のものが使つてある、然るに荷物は段々増す、其処で滊缶車も虐使せねばならぬと云ふ有様になつて居る、して見れば果して之が固定資本と云はれるや否や、成程固定はして居るが不鞏固なる資本になつて来る、故に修繕費は始終余計掛ると云ふ事で是亦私は不経済なる仕方であるとしか思へない、故に夫から考へると堅固なるものにして此一哩が五万九千円で出来たと云へば結構であるが、之は善く調べると何とも言へな
- 第6巻 p.485 -ページ画像
いと云ふ事になる夫で又官私合計の哩数を勘定して見れば前表の如く哩数が三千五百八十五哩になり其建設費に二億二千五百六十三万九千円余と云ふ金が費してある、而して官私合計した所の平均を見ると一哩の建設費が六万二千九百卅九円と云ふものになつて居りまする、併しながら此既成線路に於ては官設の方には最も多い事でありまするが其建設費の中には複線の工費もあれば又停車場を増築したとか、或は之を改良したとか云ふ様な費用も加はつて居ります、処で未来官設の鉄道にして敷設すべき所の線路、即ち諸君が御承知の通りに、第一期線と唱へる処の哩数は左表の如く千二百五十二哩(此内に北海道線と云ふものが五百卅三哩あります)で此建設費と云ふものが七千八百七十二万六千円余と云ふものを費さねばならぬ、此内で北海道のは千六百六十一万九千余円で、其他のものは六千二百十万七千円になります
官設鉄道未成線哩数建設費及竣工期限表
(三十二年九月末日調)
備考 建設費は予算残額を示す、但し市街線の分は決算額なり
鉄道建設に要する外国購入品は測量器械類、橋梁の鉄桁、軌条及附属品汽関車及客車貨車の輪軸其他の原料器械場及建築用の諸器械器具、電信線にして全国各線路を通して平均一哩に付金一万九千四百円(内橋梁費三千二百円、軌道費八千六百円、車輛費五千六百五十円、其他千九百五十円)を是等外国購入品に充つべき代価として算出せり、以下諸表皆之に傚ふ、又線路区間の上に△印を施せるは第一期線にして工事着手線路と認むべきもの、其他は工事未着手線路と認むべきものなり
所が是は政府の予算であつて、即ち此建設費と云ふものは廿六年以来の予算でありまして、廿六年から段々と廿六年も廿七年も廿八年も廿九年もありますが、モー廿六年頃から見ると、非常なる物価或は賃銀の騰貴であるから斯様な事を勘定すると云ふと、此費用と云ふものは非常なる差額を生じて来る、余程の増額をせねば之を建設し了る事は出来ないものであると私は思ふ、其一例を挙げて言ひますならば、奥羽線の如きは廿六年の予算で見ると一千一百万円余で、三十三年度に於て此計画が完成をすると云ふ予定でありましたが、其予算額一千一百万円と云ふものは最早皆使つて仕まつて、既定の工事は最早進行する事は出来ぬと云ふ有様になつて居る、故に諸君御承知の通りに本年の議会に於て追加予算が出て来た、此追加予算に依れは前申した一千
- 第6巻 p.486 -ページ画像
百万円の総額に対して一千九百五十二万九千八百八十六円の追加を要することになつて、殆んど倍以上のものになつて居ります、而して其年限は即ち三十八年度迄に継続すると云ふ事になつて居ります、して見れは中央線の如き若くは其他の線路に就て見るも、三十年度か三十一年度かに定まつた所の線路は此割合に増すとは言はぬが、併し乍ら中央線路の如きは廿八年に定まつて居る、シテ見れば是も多分奥羽線の如き位の増加なくしては出来る気遣はないと、私は信用して居ります、故に此前にいふた処の予算額でもつて是を完成すると云ふ事は到底出来ない、殆んど倍額を要するであらうと私は推測して居ります、夫から是はまだ政府の方でも予算に上つて居ない、又議会の協賛も経て居ないが諸君も御承知の通に第二期線といふものが左の如くあります
第二期線哩数建設費表 (三十二年九月末日調)
備考 本表の外北海道第二期線二百九十六哩あり
是等の予算額は孰も未だ定めては居りませぬが、併し乍ら是丈の鉄道を作らねば運搬の便利も出来ぬものであるといふ事は逓信省の見込が附いて居る、此見込の附いて居る即ち第二期線と唱へるものが右の如く千百五十七哩で建設費が一億六千六百万円余であります、勿論是はまだ政府の予算があるのではない、先づコウせねばなるまいといふ意向があると云ふ事に御勘考を願います、其処で又私設線路の既設の方は前に申したから申しませぬが将来の未成線と云ふものがある、此未成線は誠に区別に困りますが着手中のものもあり、未着手のものもあり、或は一部分着手して居るものもある、此哩数が九百四十一哩で建設費が五千六百二十九万一千円といふ事になつて居る
私設鉄道未成線哩数建設費及竣工期限表
(三十二年九月末日調)
備考 建設費は認可資本額より既成線建設費を控除したるもの、又は上段区間に対する資本金額なり、又各区間哩数及建設費の欄に於て右傍に記せるは鉄道局線路調査員の調査したるものにして、左傍に記せるもの若くは二様に記せざるものは会社の調査に係るものなり、又線路区間の上に△印を施せるは免許状下附の線路にして、工事着手線路と認むべきもの、其他は工事未着手線路と認むべきものなり
是は会社が自ら積もつた処のもので斯うなつて居ります、尤も右の表に就て逓信省で調べた処のものを見ますると、此哩数に少しく差があつて九百二十九哩となつて居ります、又建設費に就て逓信省の見る処では七千五百十一万五千円余掛るであらうと云ふ事である、又仮免状下付の線路が左表の如く千七百七十九哩ありまして其建設費が九千二百六十四万五千円余になつて居ります
私設鉄道仮免状下付線哩数建設費表 (卅二年九月末日調)
備考 各区間哩数及建設費の欄に於て右傍に記せるもの若くは二様に記せざるものは会社の調査したるものにして左傍に記せるものは鉄道局調査員の調査に係るものなり (未完)
銀行通信録 第一七四号・第六九七―七〇三頁〔明治三三年五月一五日〕 銀行倶楽部に於ける井上伯の演説(承前)(DK060140k-0004)
第6巻 p.490-496 ページ画像
銀行通信録 第一七四号・第六九七―七〇三頁〔明治三三年五月一五日〕
銀行倶楽部に於ける井上伯の演説 (承前)
鉄道会社が仮免状を受けるといふ場合に於ては往々此株式を募集する処の便宜として最初は成可く資本金を余大きくせずして是を減少すると云ふ方に傾く弊がある、其建設費と称するものは実際の額とはどうも違つて居る事が多い、後に至て之を増資すると云ふことがあります故迚も是亦九千弐百万円で此仮免状を得た処のものを成効することは六ケ敷いであろうと思ふ、又建設費の内で材料の供給を外国に仰がねばならぬ所の必要の品物があります、近頃の計算で逓信省の調べに依りますれば此外国から供給を仰がねばならぬ品物の代価か一哩に付先づ一万九千四百円許であると云ふ推算であります、そこで之を将来に布設する官私の線路の総哩数の五千四百三十六哩に乗じて見ますると云ふと、一億五百四十五万八千四百円といふものは外国品を仰がねばならぬ処のものになります、処が段々近頃の鉄の上り方を見ますると云ふと驚くべき有様である、実は技師等とも話をして見ましたが、一哩に付一万九千円位では今日の趨勢に於て此鉄の材料を外国から仰ぐ事は六ケ敷いと云ふ技師が多い、夫で先づドーした処が此頃の相場に依て見てもが一哩に付て二万二千円位のものは外国品を仰ぐより外は仕方があるまい、そうすると建設費総額の百に対する卅四五は外国品を仰かなければならぬ、百に対する卅四五のものは外国に正金を推し出さねばならぬ、推し出して以て外国の材料を買はねばならぬと云ふ事であります、一哩付て二万二千円と仮定すれば、将来敷設すべき官私の鉄道に於て外国品を買て此支払に要する所のものは一億千九百八十一万二千円となる、即ち是丈の正金を外国に出さねば此鉄道は出来ませぬと云ふ事になります、又此鉄道の事に就て若しも諸君が細い勘定まで聞きたいと仰しやるなれば、実は今晩逓信省の書記官藤田虎力
- 第6巻 p.491 -ページ画像
君と云ふ人にも来て貰つて居りますから御望ならは後でどうぞ御聞を願ひます、で此鉄の上つたことに就て申しますなれば、英吉利の市場に於ける鉄の直段は倫敦「エコノミスト」といふ雑誌の十二月二日の相場付にありました処に依れば三十年には「スコツチ」の「ピツグ」といふものが二磅五志二片二分の一であつたのが卅一年には二磅九志四片になつた、それから三十二年には三磅九志七片二分の一になつて居ります、夫から外に鉄の種類は色々ありますが一番必要の「スチール、レール」は三十(一)年は四磅十志して居つたのか、卅一年には四磅十二志六片になつた、処で卅二年に於ては七傍[七磅]に上つて居る、右は倫敦の市場の話で是を日本に持つて来ると運賃も掛る、保険料も掛れば手数料も取られる、今朝も技師が来て言ひましたがドウしても既に十磅であらう、今日の有様は是より又上つて居らうといふことでありました、処で是が唯一時の騰貴に止まるか将た長く続くであらうか若し一時の騰貴で元の直段の四磅か若くは三傍[三磅]半位にも下るといふ見込があれば私は夫程の杞憂は抱かない、去り乍ら是は原因のある話であつて諸君の御承知の通りに第一支那の開放といふ事があり、此開放主義で露西亜も、独逸も、英吉利も、仏蘭西も、亜米利加も、白耳義も大概此支那に向つて鉄道とか其他の事業を起さうといふ企があり、或は又段々今日の趨勢露西亜も軍艦を増加し、独逸も増加すれば仏蘭西も増加し、英吉利も増加するといふ様な有様になつて居る、又其他陸軍に用ひる大砲や何かにしても最早日清戦争の時と今日用ひる大砲とは非常に違つて来て居る、兵器に用ゐる一種の鋼鉄も非常な需要を起し、又大砲の弾丸にしても日清戦争前の届き工合と今日の弾の届き工合といふものは非常に違つて来て居る、ソウ云ふ様に進んで来るに随ひ鉄の需要は益々増加して来て居る、故に支那の開放主義が完結する迄は私は此鉄の下るといふ事は一寸見られぬだらう(慥にはいはんが)と思ふ、ソウシテ見れば此鉄の高いにも拘らず―勿論未成線もドンドン出来第二期線も第三期線も出来る方が善いが―ドンドン其事業の進行して行くといふ事は結構であるが、亦其裏面にはドウ云ふ弊害が起るかといふ事を考へて、此秩序的の進行といふものを余程考へる必要が私はあるであらうと思はれる、又是も私の申す迄もなく諸君が御承知でありますが、卅三年の輸入超過といふものは千百六十万円余でありますから、昨年迄は償金があつたり借財の金があつたりして日本に引入れる金もありましたが、是が段々無くなつて最早正金がドンドン出る様になつた、正金が一月から二月の十五日迄に五百四十三万円余出て行つた、是から先日本の輸出品と云ふものが此正金の流出した所のものを取返す丈残つて居るや否やと云ふに、充分ソー残つて居らうとも私は思へない、此趨勢で見るも扨当年の輸入超過はドーなるであらうか、勿論未来の事であるから慥には言へませんが、四千万円の輸入超過位で済めば結構であるが、ドーであらーかと推考致します、去年迄の処は御承知であるから申す必要もありませんが、兎に角貿易の有様は此の如き様になつて居ります
夫からモ又一つは日本銀行の卅二年十二月末日の現状を総会に報告した所の有様を見ますると、丁度兌換券の発行高は二億五千五十六万円
- 第6巻 p.492 -ページ画像
余になつて居ります、夫で之に対する兌換の準備といふものはドレ丈あるかといふと、引換準備といふものは之も皆さん御承知の通り一億千十四万円余の正金がある、加ふるに此外国の公債証書といふものを日本銀行の所持して居る高が一千七百二十六万円余あります、勿論是は必要の時分には倫敦の市場に於て何時でも正金に代はるべきものであります、又此輸出品に向ての為換といふものが千六百四十七万円余ある、此等を合計すれば一億四千三百八十七万円余といふものがありますが、若しも仮に今年不幸にも四千万円の正金が輸入超過の為に流出するといふ事とならば、先づ残る所は一億円しかないものであると云ふことを見ねばならぬ、又唯今の此趨勢で見れば来年になつたらば余程輸出が超過して輸入が減ずるであらうといふ事は、ドーも私の考に於ては六ケ敷い、加ふるに先刻御話した鉄道といふものも未成線或は第二期線又は仮免状を取つて居るものが、之を完成するものであると仮定せば是は十年たつか十二年たつか知れませぬが、一億円以上の正金が是から又出て行かねばならぬといふ事になる、又其他随分日用の消費品に於ても段々輸入を押込まねばならぬ、其結果は正金が出て行かねばならぬ、又若しも不幸にして三年か五年かの内饑饉といふものがあつたならは米も亦押込まれるであらう、玆に未来を想像すると或は杞憂に過ぎるかも知れず、亦私の老婆心かも知れませぬが、是も余程考へねはならぬ、サアソーいふ趨勢に行つた時分にはドーして此日本の今日の現状が保つて行かれるや否や、ドーしても札に傷を付けざるを得ぬといふ現象が見はれて来るかも知れぬ、最早日清戦争の時からして此禍が萌して以て今日も段々進行しつゝあるといふのは其弊を指して意味する言葉であります
又動もすれば何時でも内で金融逼迫になれば外国債、丁度一昨年も金融が逼迫すれば直様外国債、其節は御承知の通り私は大蔵省の局に当つて居りましたが、各商業会議所其他方々から建白書を受取て見ましたが其建白書には、大抵此外資輸入の事があつて、詰り借財をしろといふ事である、して見ると是から先困つた事が起つたら其外資輸入の論は囂々と起るだらうと思ふ、其論の起るは善いが貸人があるや否やといふことを考へねばならぬ、一寸御互に困れば借財をするといへば誠に単純なる話であるが、借財をするには其丈の信用があればよいが若し其が無いといふ時分には仲々六ケ敷い、又勿論慥なる抵当物を出さずに借りることは六ケ敷い、昨年借財の結果に於ても諸君が御考になつても容易にソウ見易いものでないといふことは御承知でありましよう、加るに扨借財といへば孰れの国でも倫敦の市場に持つて行つて借財といふことをする、是は日本許りではない、何処でも倫敦の市場に持つて行くのが多い、が此先に行つて借財といふことは甚だ難いといふ想像が一つある、其想像は英国とトランスバアールの戦争である此戦争に就て今日迄凡英吉利の政府は二千六百万磅許りのものを使ふといふ事の決議になつて居る、去り乍ら英吉利政府が公債を発行するといふ事はまだありませぬ、ドウせ此結局は夫は致しましよう、処がマア戦争は御承知の通に最初は英吉利の兵は二万二千人のものを発してあつたが、遂に今日は全躰の兵では十五万からに増して居る、其外
- 第6巻 p.493 -ページ画像
濠太利、加奈陀、亜弗利加の殖民地の兵といふ様なものを加へますと殆ど廿万以上の兵を出して居ります、之も推算でありますから慥に私は言へないが、クリミヤの戦争の時が六千万磅余の費用で、此戦争は大分長ひ間続いて居たが、ドーしても今度の英吉利の戦争はクリミヤの戦争の様なものではない、兵員もクリミヤ戦争の数倍から出して居る、して見るとドンナ事にしても一億磅からの金を出さねば此結局は付かぬであらうと思ふ、扨ソーなつて見ると英吉利人といふものは最も其国を愛することの強い人民であるから、其政府の発行する公債に応ずるは当然の話であるが、夫に応ずるといふ事になると今迄他国の公債などを英吉利人の応じて居る金額といふものも数字を出して見れば、相応な額になつて居る、今度一億磅以上の高を英吉利政府の公債に応ずるといふ事になると、他国の公債に応ずる力といふものが余程減少して来る、他国の政府の公債に応ずる余力は六ケ敷くなるであらうと思ふ、加ふるに仲々此英吉利人の頭などゝいふものは余程堅い、随分算盤づくに出来て居る人間であるから食物或は衣服の様な物に至る迄も節倹といふことを行ふことが起るであらう、故に間接には余計な事もないかも知れぬが、或は日本の生産物にも生糸の如き先づ言はば贅沢品に属するものは多少消費を減ずる傾を生ずるは免がるべからざる数ではないかと思ふ、夫れでコツチが困るからと言つて公債を募る、縦令抵当物があつても之に応ずることが出来るや否や、是も未来に考へべき事柄であらうと思ふ、成程英吉利許ではない、亜米利加に行つても借りられるだらう、仏蘭西に行つても借りられるだらうといふ考があるかも知れませぬが、去り乍ら亜米利加が貸して呉れて公債の募集に応ずる事と云ふことは今日まで仲々六ケ敷ひ有様であります故にドーしても他国に借りに行くといふ事は困難な事に陥ゐりはせぬかと私は考へる、是も私は慥には言へませぬが英吉利人に聞て見た所が英吉利人にして外国の公債其他外国に卸して居る処の資本といふ者がどれ丈あるかといふに、其英吉利人も慥には言はないが先づ十三億磅であらう、是は併し乍ら廿年前の推測であるからドーセ是よりか増して居るであろう。此内には鉱山などに卸して居るのもありませうが其内で他国の公債に応じて居る所のものが先づ五億磅許りのものであらう、是は慥にも英人も言はないが先づソウいふ様な事に想像するとコーいふ話であります、夫で遂に是は昨今の趨勢で見ると、ドーも日本で英吉利に行つて金を借りるといふ事は、困難な事実だといふ事は一つ参考にせねばならぬ所の事柄でありましやう
只今色々人口の増加或は鉄道事業の今迄の予算よりは金のゐる事、又輸出入の不平均其等の箇条を夫れ夫れ御話しましたが、扨ソンならはドーするが善いかといふことに就きましては、兎に角日本の経済の過去と今日の現状とを見まするといふと甚だ未来に困難が多い、又現に亜米利加が比律賓島を取つて最早亜米利加と同じものを殆んど支那の傍に持つて居ることになり、丁度亜米利加の支店が出来たといふてよい有様である、又煙草といふ様なものにしても近処に生産するものが非常にある、又日本にしても排外主義の盛になる場合になれば、比律賓抔といふものは随分種々の工場も起されてアスコでは亜米利加で土
- 第6巻 p.494 -ページ画像
地を貸せば他国の人も亜米利加の人の仕事を起すといふ事が起りはしないかといふこともある、夫で遂にドウした処か余程是は未来を推測して秩序的に行かねはならぬ、例へて申せば此の鉄の材料にしても、ドウしても日本で出来得べからざる者であるか、出来得べき者であるか出来得べき者といふことになれば、成丈日本で之を造つて日本の国の正金を留めるといふ工風をすると云ふ秩序を踏むことが必要であらう、又其他鉄類のみならず此輸入する所の品を見ても、日本て出来ないと云ふ品物もありますが、随分出来る品物も沢山あります、兎に角此の経済上に於ては日本の国は自ら衛るといふ精神を此処で一つ起すの必要がある、夫で是が日本の国かモツト勢力が強くて所謂露西亜、仏蘭西、独逸、亜米利加といふ様な国と互角の力を持つて居るといふならば、或は亜米利加の如き保護税を行ふことが出来るかも知れませぬが、併し乍ら是は望んでも六ケ敷い事で、又当時の条約といふものがある限は―勿論年限もありますが、其後に自由な税法が出来る様に至れば誠に幸でありますか、是は出来るか出来んか仲々勢力の如何に関係をするものであるから其は六ケ敷いと仮定するシテ見た処で税法で以てコチラで生産力を増すことが出来ぬと云ふならば、最早所作で行くより外に仕方かない、其所作は自衛の道で出来る限りのものは即ち内で拵へる、官民共に其精神を主として行かなければ遂にドー云ふ結果を来すかも分らぬ、是は甚だ懸念せらるゝ、デ秩序と云ふものは例へて申しますれば、鉄にした所が日本では出来ない、軍艦用とか大砲に用ゆる鉄とかは其は政府で企て居る製鉄所では出来ませぬ、去乍ら其他の鋼鉄と云ふものになると是は出来る、アレ丈の一千四百万円の金を投じて以て彼処で製作に取り掛て居る、段々承つて見ますると遅くとも来年の十月頃は「レール」等は出来る様になると云ふことであります、シテ見れば此「レール」の如きもコチラで是が生産されて出来ると云ふのを、此高い鉄をドシドシ買つて造ると云ふことは私に言はするならば、不秩序なる進方と言はざるを得ぬ、夫でドーしても所作に於て自衛の道を講ずると云ふより外に策はないと思ふ、扨又夫をしようと云ふならば余程緩急秩序と云ふ事を社会の商業家、工業家をして履ませねばならぬ、所が誰が之をさせれば宜いかと云ふならば私は資本家或は融通やなどを司る当局者諸君の主たる任務ではないかと思ふ然るに扨此銀行の有様を見ますとドーなつて居るかと云ふに、是も勿論諸君の御承知の事でありますから私から言ふ必要がありませんが、統計を見ると左○次頁の如くであります即ち一万円未満の銀行といふものが行数でドレ程あるかといへば、株式会社に於て十九ある、合資会社於て八つある、各人銀行に於て八つある、其の行数が合計卅五で其資本が十九万四千余円である、夫から一万円以上三万円未満の銀行の行数が株式会社に於て百四十八ある、合名銀行に於て九ある、合資銀行に於て卅七ある、各人銀行に於て廿五ある、此合計が二百十九である、又此資本の高は三百七十五万三千余円になる、又三万円以上五万円未満の銀行の行数が貯蓄と云ふものが百九、株式銀行が百廿二、合名銀行が六、合資銀行が二十五、各人銀行が十四あつて之が総計二百七十六あります、此資本額と云ふものが一千三百十八万三千円許
- 第6巻 p.495 -ページ画像
全国各銀行々数及資本金表 (三十一年十二月末日調)
りのものであります、又五万円以上十万円未満と云ふものゝ行数は全躰で五百十三、資本金高が三千五十万九千円許りである、十万円以上卅万円未満の行数が五百六、資本金が七千四百廿七万円である、卅万円以上五十万円未満の行数が八十一あつて資本金が二千七百五十八万円であります、五十万円以上百万円未満の行数が百五、此資本金が六千二百四十一万五千円程あります、百万円以上の資本の行数が七十一あつて此資本額が一億七千二百五十二万円である、合計銀行の数は千八百六、資本金が三億八千四百九十九万五千円余になつて居りますが実に此十万以下のものゝ如きは何といふて善いやら或は質物を取つて金貸をするといふて善いかも知れぬ、マア銀行といふ名は六ケ敷い様に私は思ふ、松方大蔵大臣に於ても頻りに此銀行の合併と云ふ論を度度なさる様であるが、成丈此小さいものは合せる様な趣向を取らんと六ケ敷ひと思ふ、而して成丈之を合して且つドウゾ此銀行当局者の諸君に於て余程商工業の発達に就て秩序を得せしむる様にし、余程制裁力を銀行当局者が協議をなさつて附けると云ふ事がなければ、此社会の今日の趨勢を秩序的にしてソシテ自営《(衛)》の道を講ずるといふ様な有様に引き返すと云ふことは私は六ケ敷いと思ふ是が小さくなれば小くなるほど此矯正を附けると云ふことが六ケ敷い、又如何にも交換所の発達抔といふものは私は先刻表を見て驚いたが、是抔は非常に発達したには違いない、此銀行の手形交換高の十一億近くなつたのは非常の
- 第6巻 p.496 -ページ画像
発達ではありますが、其発達と私か只今種々な事を述べた正金の流出をしてしまつて、遂に札に傷が付きはしないかと云ふことゝは、是は違ふ問題として私は今日を以て発達許りを見て喜ぶ時機ではないと考へる、ドウゾ一つ諸君は此聯絡といふことをお認めになつて、制裁力といふものを資本家、銀行当局者といふものが立て其手段方法を講じて、兎に角此自衛の道―日本国を自衛して自分で出来得らるゝ丈のものを内で作つて以て是を当嵌めるといふ方の精神を発達して、之を事実の上に能く効力のある様にして行きませぬと、ドウモ只今の趨勢で行くと、ドウいふ変動を来して遂には社会の人の財産もドウなるやら今日の百万円は翌月の九十万円になるやうなことがあるかも知れぬ、丁度明治十四五年頃には一円の銀貨に対して札を一円八十銭から払はねばならぬと云ふ事があつた、そう云ふ事が出来ると其時は物価は非常に騰貴する、世間では物価騰貴と云ふがそう云ふより寧ろ通用貨幣の購買力がなくなつたと云ふ方がもつと近い、寸尺が丸で違つて来るまだ十四五年の時ならば回復の道がしよくて、其れ程困難がありませぬで回復も出来ましたが、今度札に傷か付くと云ふことかあつたならは此回復と云ふことは容易ならぬ困難である、又政府の歳入にした所が何億と云ふ歳入があると云つた所で、購買力がない貨幣が幾ら這入つても行かぬ、処で幾ら租税を増しても政府の財政を整理することはとても覚束ないことになると思ふ、夫で唯私は此資本家融通の局に当つて居らるゝ諸君に望むのはどうぞ資本を合し、合同力を以て制裁力を御講究なすつて、経済社会の困難に陥ゐらぬことを今日より御講究なさるのが必要ではないかと考へます、余り長くなりますから是で置きますが、甚だ諸君の御耳に逆ふことも多いし、一向夫程の功能も有りませんでしたが、最初に申しました通りに、若し此禍が萌して居れは此禍をどうぞ防禦すると云ふ事は御互に努め得らるゝ限りは努めて見るが、此国家に対して務むべき御互の義務ではないかと信じますが故に、唯諸君の耳に逆ふと逆はぬに拘らず、私の平素信じて居る処を今晩申上げた訳であります、是丈で御免を蒙ります
猶私は一寸先刻の演説を補ふて置きますが、私の演説は消極的許りの事を云ふた様な御感じがあるかも知れませぬが、決して私は消極の考を持つて居るものではない、実は今日支那開放の時機に於ては内は凡て自衛の道を取り日本で必要の物品を製造して其需要に充てると同時に、どうしても支那地方に向つて其開放に仲間入をする時機が後れると云ふことがあつては先に至つて甚だ困難を生じまする故に、内を整理すると同時に、外に向ふ心は余程強く御持ち下さつて其事を御講究なさるが必要であると考へます、先刻から申した事が消極許りの事であつた様であるが、どうか是は御講究があつて其外に向ふ事に就ては今迄よりか更に一歩を進めて其方の進行をなす様にありたいものと云ふ希望を述べて置きますからどうぞ宜敷願ひます (完)