デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
7款 北海道炭礦鉄道株式会社
■綱文

第8巻 p.669-671(DK080059k) ページ画像

明治22年11月20日(1889年)

栄一同会社常議員ト為ル。爾後明治二十六年九月マデ重任ス。


■資料

北海道炭礦鉄道会社第一回実際報告 明治二三年五月(DK080059k-0001)
第8巻 p.669 ページ画像

北海道炭礦鉄道会社第一回実際報告 明治二三年五月
    ○役員進退
一十一月十九日堀基氏官撰ヲ以テ社長ニ上任、同月二十一日園田実徳氏同シク官撰ヲ以テ理事ニ上任、同月二十日発起人会ヲ開キ、創立規約第七条ニヨリ侯爵徳川義礼・渋沢栄一・高島嘉右衛門・吉川泰二郎・田中平八ノ五氏ヲ常議員ニ、北村英一郎・金井信之ノ二氏ヲ撿査役ニ撰定セリ
   ○爾後重任左ノ如シ
      明治二五年一一月二五日再選
      〃 二六年五月一五日再選
   ○常議員辞任ハ明治二六年九月二七日ナリ。同日ノ項参照。


北海道炭礦汽船株式会社沿革資料 一(DK080059k-0002)
第8巻 p.669-670 ページ画像

北海道炭礦汽船株式会社沿革資料 一
              (北海道炭礦汽船株式会社所蔵)
    発記人会決議
明治二十二年十一月廿日精養軒に於て発起人会を開き、其出席せられたる各員左の如し
 侯爵 徳川義礼    奈良原繁   渋沢栄一
    高島嘉右衛門  原六郎    田中平八
    園用実徳    北村英一郎  下村広畝
 - 第8巻 p.670 -ページ画像 
    堀基
一、常議員の撰定左の如し
    徳川義札   渋沢栄一   高島嘉右衛門
    吉川泰次郎《(吉川泰二郎)》 田中平八
一、検査員《(マヽ)》の選定左の如し
    北村英一郎 金井信之
一、議案要領次の如し
一、鉄道及炭礦事業に属する資本収益会計区別方認可を乞ふ事
  本件は別冊炭礦営業願を以て曩に出願せし処、炭礦営業に属する事項は別冊幌内炭山所属物件払下願に対する命令書第十三条に於て公認せられ、別に営業願書の必要なき趣を以て返戻せられたり仍て更に別紙資本収益会計区分方認可願書の如く出願せんとす、連続の事項に付各発起人の共賛せられん事を望む
   規約第十二条を改正し、新設及既成鉄道部並炭礦部共元資金を置き、而して三部合計内訳の部積立金は総益金の百分の五以上十まで、但総資本額の半額に至り之を止むとし、役員賞与金は総益金の百分の五以上十までと修正す
一、創立委員の報酬
  本月七日発起人会に於て重役の俸給を議定し、正副社長及理事の俸給は別紙の通り上下二等級に区別せられたり、右二等級の内不肖堀基の社長給及理事の俸給も総て初期の給額は下等級を定められん事を望む
    原案通過
一、空知夕張二炭山試掘権譲受に対する報酬の件
  本件報酬は吉川、園田、村田の諸氏に於ても素より之を受くるの意なく断して固辞すへしとの趣なりし、然るに本年八月三日星ケ岡に於て発起人会を開きたる際本件は他人の厚意のみを甘受して其功労に向ひ之か値を償はさる事亦屑からさる所なれは、炭山の試掘権譲受に対し金六万円の報酬を以て至当なりと議決せり、且同会合に於ては渋沢氏欠席せられたりしを以て、本件議決の趣は堀基より同氏に通報すへく嘱せられ即ち同氏に協議せし処亦異存の存らさりし、仍て創立中の事務として創立規約第八条により此際吉川、園田、村田の三氏に対し各別に弐万円宛の報酬証を贈与し以て本件の結了を望む
    原案通過


植村澄三郎氏談話(DK080059k-0003)
第8巻 p.670-671 ページ画像

植村澄三郎氏談話               (竜門社所蔵)
    北海道炭礦鉄道に関聯しての青淵先生と私
○中略
 その後会社が開業してから第一の難関は、此事業にいよいよ着手して見ると、決して予想通りに収支計算が出来ないと云ふことであつた、此様な風では八朱の配当は到底難しいと云ふ訳であつた。鉄道の方には五朱の補給が政府からあるが、炭山の採掘販売と鉄道の利益を以て、資本に対する平均八朱の配当は容易ならぬことであつた。従つ
 - 第8巻 p.671 -ページ画像 
て社中大改革の議が重役会で決せられたのである。此の重役会で定められた節約方法たる使用人俸給の三割減に対しては、甚だ不満であつたから、私共が先に立つて直ちに会社にそれを訴へたが黙して答へなかつた。重役も相手になつてくれぬ。そこで僭越ではあるが渋沢青淵先生を第一銀行に訪ねて不平を訴へ、且つ又「社員の給料を減ずるならば先づ重役の無報酬を発表せられるのが順序であらう、その後に於て社員の給料を減ぜられたい、閣下は会社の常議委員(取締役と云はなかつた)として総てを御承知であらうから訴へるのである」と申した処、非常に立腹されて「重役の報酬云々の如き指図は受けぬ。それに就ては重役に考へがある。社長にも相当の考へがあらう。お前が社員全体の不平として云うて来るのは心得違ひである」と叱られ、一言の下にはねつけられてしまつた。従つて私は頗る不平を懐いて帰つて来た。処が程なく、常務に従事する重役は半額、高級社員は三割、其他一割乃至五分まで給与の減額をすると云ふことになり、一同最初の如き不平もなく、此の整理対策が成就した、思ふに青淵先生が其後社長と協議して斯様にせられたのであらう。これが私の青淵先生から叱られた第一回であつた、○以下明治二五年三月二四日ノ項所引二続ク