デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
10款 筑豊興業鉄道[株式]会社(筑豊鉄道株式会社)
■綱文

第9巻 p.5-10(DK090001k) ページ画像

明治24年7月(1891年)

是ヨリ先、二十二年七月設立ヲ免許サレタル筑豊興業鉄道会社ノ発起人ノ請ヲ容レ、栄一当会社株主トナリシガ、是月相談役ニ就任シ、指導ト援助トヲ与ヘタリ。


■資料

日本鉄道史 上篇・第八七九―八八五頁〔大正一〇年八月〕(DK090001k-0001)
第9巻 p.5 ページ画像

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日本鉄道史 中篇・第四二五―四二七頁〔大正一〇年八月〕(DK090001k-0002)
第9巻 p.5 ページ画像

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青淵先生公私履歴台帳 明治二十五年五月十日調(DK090001k-0003)
第9巻 p.5 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳 明治二十五年五月十日調
                    (渋沢子爵家所蔵)
明治廿二年
八月 筑豊興業鉄道会社ヲ創立ス
  筑豊各地ヨリ産出スル石炭運搬ノ事業ヲ経営スル目的ヲ以テ、地方ノ人士之レヲ計画シ、其賛成ヲ請求セラルヽニヨリ、終ニ之ニ応シテ其相談役トナル
   ○二十二年八月ハ会社創立ノ年月ニシテ、栄一相談役トナレルハ二十四年七月トス。当初ハ株主タルニ止ル。後掲時事新報及青淵先生伝初稿ヲ参照。


青淵先生伝初稿 第二四章・第四九―五一頁〔大正八年―一二年〕(DK090001k-0004)
第9巻 p.5-6 ページ画像

青淵先生伝初稿 第二四章・第四九―五一頁〔大正八年―一二年〕
    私設鉄道と先生
筑豊興業鉄道会社は村田吉景等の発起に係り、明治二十二年七月十二日設立免許を得て、筑豊二州の炭礦と若松港との間を連絡し、豊富なる九州炭の輸送を便利ならしむる目的なりき。此時先生田川採炭会社若松築港会社の経営に参与したれば、此鉄道が両会社の事業と密接の関係を有するを以て、発起人等の懇請に応じて其大株主となり、且つ種々なる援助と指導とを与へ、二十四年七月以来は相談役として力を
 - 第9巻 p.6 -ページ画像 
添へたり。会社の資本額は初め百万円なりしが、後次第に増加して四百八十五万円となり、其線路も拡張して、商工業其他の発達に資する所尠からざりしが、明治三十年に至り九州鉄道と合併せり。


時事新報 第五六五三号〔明治三二年八月二四日〕 九州鉄道に関する渋沢氏の意見(DK090001k-0005)
第9巻 p.6 ページ画像

時事新報 第五六五三号〔明治三二年八月二四日〕
    ○九州鉄道に関する渋沢氏の意見
○上略 而して筑豊鉄道、是も最初の発起には関係致しませぬが、一時堀田正養さんの重役の時分に、御懇意から少々第一銀行から金融をしました、其関係よりして、遂に三菱会社の荘田君と共に、相談役を引受け、而して筑豊礦業鉄道《(興)》の改革に聊か尽力しました、初めの間は廃滅に帰しさうな有様で、会社は余程困難の位置に陥つたです、けれども種々工夫して遂に優先株などを発行して漸く維持の道を立てた、それから段々事業拡張の末、終に、彼の会社は専ら礦山に関係する鉄道であつた為めに、支線の整理、石炭の積取り其他技術上に属することが多いので、ドウしても仙石氏の如き技術家が必要であると云ふので、小山改蔵さんが辞して、彼の人が社長に這入ることになつた、入れる時は私共も相談に預つて入れたのであるです


中外商業新報 第二九六八号〔明治二五年二月五日〕 筑豊興業鉄道会社増株募集の協議(DK090001k-0006)
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中外商業新報 第三〇一七号〔明治二五年四月三日〕 社債を増株とす(DK090001k-0007)
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渋沢栄一 書翰 伊藤博文宛(明治二六年)三月一八日(DK090001k-0008)
第9巻 p.6-7 ページ画像

渋沢栄一 書翰 伊藤博文宛(明治二六年)三月一八日 (伊藤公爵家所蔵)
奉啓、然は筑豊興業鉄道会社定款御認可願之義ニ付、今日昇堂拝謁之上、爾来之手続具陳いたし、別段之御配慮懇願仕度と存候処、御他出之由下執事より御申聞ニ付、一応書中其次第申上候
前陳筑豊鉄道会社と申ハ筑前若松港を起点とし、赤池・飯塚等へ延長
 - 第9巻 p.7 -ページ画像 
し、専ら石炭運搬を目的とせし業務ニ従事し、現ニ弐百五拾万円之株高(内八拾万円ハ社債)を払込、其営業も追々拡張し、利益も相応ニ有之候運ニ相成候、然ルニ去ル明治廿四年頃ニハ、起業必要ニ際し資金欠乏し、維持之見込難相立、終ニ旧百万円之株高へ加ひ、更ニ八朱先取株之約束を付し、増株百五拾万円を募集いたし、会社定款も其際修正之上、逓信省之御認可を得て其事を実施し、前書百五拾万円之中七拾万円ハ募集相成、残八拾万円ハ更ニ方法を変更し、社債を募り候次第ニ御坐候、然処、尚又事業拡張を要し候ニ付、此際更ニ百弐拾万円之資本増額を企図仕候得共、兎ニ角商法之規定ニ従ひ、定款改正致候筈ニ付、昨年十月中㝡前御認可済之趣旨ニて、右政正定款草案逓信省へ差出置候処、其後商法弐百廿一条之法文ニ抵触とか申事ニて、御認可遷延し、前後数十回同省次官又ハ掛官ヘ申上候得共、今以御指令無之、為メニ増株之総会も相開候義出来兼、殆ント会社ハ進退維谷と申境遇ニ相成候義ニ候、殊ニ右先取株七拾万円ハ、昨年来会社毎季之計算ニて定款之約束ニ従ひ、八分之利益を配当いたし居候ニ付、随而普通株とハ市価も騰上し、現ニ売買罷在候義ニ候間、縦令其後御発布之商法明条ニ抵触候とて、之を引直し候義は難出来と奉存候、況や、小生等二三之法律家へ質問せし処ニてハ、異口同音ニ抵触せさる旨意見書を以回答いたし来、仄聞候処ニてハ、法制局ニても同様之御断案と申事ニ候、然ルニ右様半歳余も会社之定款を御認可無之、其為メニ会社ハ其営業之進歩を謀候事さへ支障せられ候ハ、真ニ歎息之極と奉存候、何卒前陳之事情御洞察被成下、至急其御筋ヘ御下命之上、速ニ相運候様奉願候 匆々謹言
  三月十八日
                      渋沢栄一
    伊藤総理大臣殿
           閣下



〔参考〕日本鉄道史 上篇・第八七九―八八五頁〔大正一〇年八月〕(DK090001k-0009)
第9巻 p.7-9 ページ画像

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〔参考〕麻生太吉伝 (大田黒重五郎監修) 第三四四―三四九頁〔昭和九年一二月〕(DK090001k-0010)
第9巻 p.9-10 ページ画像

麻生太吉伝 (大田黒重五郎監修) 第三四四―三四九頁〔昭和九年一二月〕
○上略 明治初年以来、石炭の輸送機関は炭田地方を貫流する遠賀川の川艜であつた。所謂川筋者の、強壮にして気を負ふ若者の群が、地方風土の一特色を為したほどである。明治二十四年筑豊興業鉄道が若松・直方間に開通し、九鉄本線も亦折尾に通じて之に連絡するに至つて、鉄道の利便は俄然送炭を支配し、其の後鉄道の延長されるに随ふて、全盛期には六千五百隻と言はれた川艜は漸次減少し、今日では全く跡を絶つた。○中略
筑豊線は、炭田地の奥に向つて年々延長せられ、明治二十九年から複線工事が竣成し初めた。三十年に至つて九州鉄道に合併して其の機能を愈々充実した。一方、明治廿八年には豊州鉄道の小倉・伊田間が開通して、田川炭の搬出に一期を劃した。同三十四年に至つて、豊州鉄道も亦九州鉄道に合併し、炭田地方の鉄道幹線は一体の経営となつ
 - 第9巻 p.10 -ページ画像 
た。○中略
 抑々、九州の地に初めて鉄道が開通したのは明治二十二年である。此の年九州鉄道の第一期線、博多と千歳川間の竣成を見た。陸蒸汽の名に依つて、東京・大阪間を走る文明の利器を伝へ聞いてゐた人々が其の愈々九州に出現したのを見て、今更の如くに科学の利便に感嘆した。中にも、其の示唆を最も鋭く受けたものは、炭坑業者であつた。俄然、炭田地方の鉄道敷設を要望する声が起り、幾何もなく筑豊興業鉄道株式会社が、遠賀・鞍手・嘉穂・田川四郡の有志者に依つて発起されるに至つた。○中略
 筑豊興業鉄道が創立を告げた。資本金百万円。筑豊四郡の有志者の発起にかかることとて、四郡の要地を連絡する為めのものではあつたが、第一期計画は直方・若松間の十哩である。会社創立と同時に起工し、明治二十四年四月に竣成した。九州鉄道も亦此の年、門司・博多間を完成し、両線は折尾で十文字に交叉した。直方方面からは、同時に若松・門司の両港に通路を得たわけである。
 かくして、筑豊線の第一期計画は達成した。更に第二期計画たる直方・飯塚間、更に直方・金田間の延長に着手する予定である。会社成立の抑々の動機から見て、其の間に遅滞があつてはならぬ。しかも会社の経済状態は、新線の建設に着手する余裕がない。そこで、一方では増資を断行すると共に、当時めきめき筑豊の石炭運輸に進出せる三菱の財的援助を仰ぐ手筈を決した。○中略
 筑豊興業鉄道は、かくの如く次から次ぎへ新線の建設に着手したので、常に資金の不足に悩まされてゐた。併し其の背後から、三菱財閥が後援してゐたので、新設線の度毎に増資を重ねるを得た。資本金は当初の五倍に達し、四百九十九万円となつてゐた。併し、初めから三菱の意図は筑鉄の支配権を手中に収め、石炭の陸上運輸を掌握するにあつた。それで、三菱側から社長を出すことが主張せられ、仙石貢氏の就任を見るに至つた。