デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
4款 大日本紡績聯合会
■綱文

第10巻 p.394-400(DK100035k) ページ画像

明治26年5月(1893年)

明治二十二年孟買綿業視察ノ結果印度棉花輸入ノ道開ケ、爾来大ニ其量ヲ増加シタルモ、当時日印航路ハ英国彼阿会社ノ独占ニシテ運賃甚ダ高価ナリ。明治二十四年印度ノ綿商タタ・アンド・サンス商会ノ一員アール・デ・タタ来朝シ、栄一ヲ訪
 - 第10巻 p.395 -ページ画像 
ヒ印度棉花輪入ノ事ヲ談ジ、議船腹問題ニ及ビシモ纏マラズシテ帰印ス。是月同商会ノ首領ゼー・エヌ・タタ来朝シ、栄一ヲ訪ヒ同問題ニツキ熟議ス。栄一乃チ当聯合会並ニ日本郵船会社トタヽ商会ノ間ヲ斡旋シ、七月十三日タタヲ同道シテ日本郵船会社ヲ訪ヒ、重役ト会シテ孟買航路開設ノ事ヲ決ス。


■資料

本邦綿糸紡績史 (絹川太一編) 第四巻・第四一八―四二三頁 〔昭和一四年二月〕(DK100035k-0001)
第10巻 p.395-396 ページ画像

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綿業時報 第一巻・第九号 〔昭和八年一二月〕 我国綿業と印棉輸送孟買航路開設経緯(一)(DK100035k-0002)
第10巻 p.396-398 ページ画像

綿業時報 第一巻・第九号 〔昭和八年一二月〕
   我国綿業と印棉輸送孟買航路開設経緯(一)
 回顧すれば明治二十四年、印度孟買の棉花商アール・デイ・タタ氏が我国に渡来し、先づ当時新進航路拡張企業熱に燃へてゐた本邦随一
 - 第10巻 p.397 -ページ画像 
の滊船会社日本郵船会社を訪ね、本航路開設の重大決意の下に同社重役間に力説大に努め、早急に日本―孟買間に新なる一航路を開設することの緊急なる所以を強調し、慫慂したのである。然し当時の環境は之が実行の好期としては未だ成熟するに至らず、従つて何事決定的回答を約する迄には進展しなかつた。とは云へこれは我国が印度航路に手を染むるに至り、同航路の発生を見るに至らしめた端緒となつたものである。
 而してこの話があつてから翌々年、即ち明治二十六年五月、さきに来朝したアール・デイ・タタ氏の従兄弟にてゼー・ヱヌ・タタ氏が新たに渡来し、日本―孟買間航路の新設問題を携げて、これ亦大に運動する所あつた。就中当時東京市外王子にあつた渋沢栄一氏別邸に於て日本郵船会社々長森岡昌純氏と会見したが、此際氏は、当時棉花の輸送に当つては英国ピー・オー汽船外二社が航路同盟を締結し、以つて印度―支那―日本間に於ける航権を独占し、高率の運賃を課徴して暴利を貪り、其影響する所独り我国紡績業の発達を極度に阻止するのみならず、孟買の印度棉花商をも等しく苦しめてゐる苦況を述べ、如此其何れに向つても不利不便の絶大なるものがある以上、此際進んで日本孟買間に航路の新設を完成し、彼我共に外国汽船同盟専断の弊風を矯正し、これが重圧より脱することこそ緊急適切の事柄であり、且綿業助成の途であらうとて声を大にして力説した。
 然しながらこれが計画の実行に関しては素より当時にあつては大事業中の大事業であり、氏の切言せるが如く、例令それが至当のことであるとは何人も寸毫疑を容れる余地なきにも不拘、一朝一夕只一回の会見に於て纏め得べき性質のものでないのは勿論であつて、同日は何等の決定的事項も無く、単に一片社交的の会合として話の一端だけを披歴し、各自の意見を交換したに止まり、改めて後日の会見を約して散会した。
 爾来タタ氏は日本郵船会社当事者並に紡績業者の間に廻訪して、所期の目的貫徹のため極力奔走努力する所があつた。
 超えて明治二十六年六月一日、東京本所錦糸堀にあつた日本郵船会社々長森岡昌純氏別邸に左記の諸氏相会し、一夕宴席の裡に談主として日本―孟買航路開設計劃に傾注された。即ち
     渋沢栄一氏
     木村正幹氏    (三井物産会社)
     朝吹英二氏    (鐘淵紡績会社)
     内田耕作氏    (日本郵船会社理事)
     浅田正文氏    (同)
     近藤廉平氏    (同)
     加藤正義氏    (同)
     ゼー・ヱヌ・タタ氏(孟買棉花商)
 然も席は偶杯盃献酬《(盂)》の間にあつた為め同夜は所謂単に顔つなぎ的の会合に過ぎなかつた。翌二日兜町の渋沢邸に於て再び木村、朝吹、内田、近藤諸氏とタタ氏との会見を見るに及び、更に商議を進めたが、会議は容易に纏まらず、何等の成案を見ずして散会他日の会合を約す
 - 第10巻 p.398 -ページ画像 
るのみにて散会した。
 然も同年七月十三日に至り渋沢、朝吹の両氏はタタ氏と同道して日本郵船会社を訪ね、重役と会見して商議を遂げ、遂に左紀要頃を決するに至つた。即其趣旨は、抑現下の状勢は日本―孟買間に一新航路を必要とする時代に直面してゐることは、一般関係業者の等しく認めてゐる所であるが、同航路には既記の通り、元来英国ピー・オー汽船会社、墺国ロイド汽船及伊太利郵船会社の三社が同盟を組織し、数年来益々其地歩を堅実にして絶対に他の割込の機会を与へず、厳然本航路を独占してゐる状態であつたから、仮令かくの如き航路に侵入し一旦乗り出したとしても、到底円満なる航業を経営して行くことは難事とする所にて、必ずや他を打倒せずば止まさる程劇甚の大競争を現出するは疑なく、万一敗者とならんか、日本郵船会社の基礎根底を危態ならしめるは必定とする所で、何人と雖も想像に難くない所であつた。
果して然らばかゝる環境にゐて漫然何等具体的の企劃をなさず、営業の根拠をも案出せずして、軽々に日本―孟買間の航業に手を染めることは結局一大冒険的の事業にすぎない事となるから、これが他日の我功を期せんとするに於ては、必ずや当時日本各地に工場を有してゐる紡績会社の後援を得ること肝要なりとし、よつて以つて本航路船に対しては印棉積荷数量の最低保証を設け、これによつて先づ本航路経営の確実性を樹立するが、結局新航路開設の促進策なりとし、紡績聯合会に対してこれが策動を開始するに至つた。此間タタ氏は一先づ孟買に帰り、印棉輸出荷主間に説いて、同じく棉花積出の保証を纏めることに努力し、彼我両々相俟つて航路維持の最低採算がとれた暁には、日本郵船会社は試験的に日本より汽船一隻を配船し、翻つてタタ商会は孟買より同様一汽船を用ひ、合計二隻の汽船を以て玆に始めて毎六週間一回の日本―孟買間定期航路を開航せんことゝしたいとの打合せとなり、愈航路新設は確定的に表面化して来た。
 タタ氏は又代理店業務の引受方に関しても話題を進めた。即ち孟買に於ける日本郵船会社の代理店はこれをタタ・ヱンド・サンス商会に全部を委任し、翻つて日本に於けるタタ・ヱンド・サンス商会の代理店は日本郵船会社これが引受をなし、相互業務上の取極大項を定め、かくてタタ氏は同年七月十四日本邦を辞し孟買に帰り、棉花荷主間に日本に於ける交渉経緯を述べ、他方航路開設の暁には絶大の援助を与へられたい旨依頼する所あつた後、タタ側の孟買―日本間航路に就航の傭船物色の目的を以つて英京倫敦に渡り大いに奔走する所あつた。
 因にタタ氏出発後日本に於ける諸般の事務は神戸タタ商会支店長ラルカ氏これを統轄して策動を継続した。
  ○右ノ筆者ハ綿業時報編輯者ノ談ニヨレバ、日本郵船株式会社々員長田束ノ由ナレドモ、筆者ヨリ資料借覧ノ便宜ヲ得ズ、ヨツテ今同誌ヨリ引用ス。



〔参考〕東京商業雑誌 第二巻第二三号・第三九頁 〔明治二四年七月五日〕 本邦の紡績業に関し孟買紡績業者タタ氏の演説(DK100035k-0003)
第10巻 p.398-400 ページ画像

東京商業雑誌 第二巻第二三号・第三九頁 〔明治二四年七月五日〕
    本邦の紡績業に関し孟買紡績業者タタ氏の演説
先月中旬全国の紡績及ひ綿業者十八名か大坂に於て開ける全国紡績業聯合会にて、孟買の紡績業者タタ氏か渡航以来目撃したる事実に付き
 - 第10巻 p.399 -ページ画像 
述へたる意見の大要ハ左の如し
日本の紡績事業は僅々の歳月に著しき進歩を為せしハ予の感服する処なり、而して日本の紡績糸は海外より輸入の綿糸と競争せざるを得ざる地位に立り、海外輸入糸に競争するハ第一製糸高の多数ならざるを得ず、余の大坂に来るや照会を得て二三工場を拝見したるに、紡績器械は我孟買より遥かの上にあり、然るに紡績聯合事務所発兌の月報を見るに其製糸高却て僅少なるは遺憾なり、現今日本の各紡績工場が廿手糸を十二時間に五ヲンス宛製出せり、孟買にある予の工場ハ十二時間に七ヲンスを製造す、其原綿他の物品も皆印度物を使用し或ハ十ヲンスをも製造す可く、斯くの如き製造高の多寡あるにも拘らず海外品に競争するは至難と云ふ可し、由て予の考へにてハ、日本今日の紡績事業家の第一努むべきは製糸の増加法に在り、工場内部の事情は容易に知る能はざるも、之を改良せんには、先つ、学識経験者を傭聘するにあり、孟買の工場の如き已に二三十年の経験あれば、最早何一つの欠点不自由なし、然れども学識経験あるの技師を聘するにハ随分高給なる英米人を雇ひ入れざるを得すと思量す、日本現今の機械は多くブラツト会社より買求めたるものなれば、此機械に依り製造する糸の少なきハ兎角に、機械製造元其使用方法は宜しく伝習せざるを得す、左れは予が書面を送り製造人を招くハ容易なるも、聯合会の理事たる岡田令高氏より書を送り聘するに如かずと思量す、又斯く実行せんには多少の費用を要するは勿論なるも、其費用の如きハ各工場にて分担するには左程の困難はあらざる可し、予の考にては大概一箇月四百円計にて相済むならん、以上述るが如く日本の製糸法を改良せんには第一学識経験ある技師を聘するにあり、第二はブラツト会社より機械師を招くにあり、又第三には若し之をも実行し難しとすれは日本紡績同業者中より二三名を我孟買に派出し、孟買の工場に就て研究せられなは子ハ其手引に尽力すへし
次に一言致し度は綿花の輸入にあり、現今日本に輸入する綿ハ支那印度米国産の各種あるも、近頃使用の大部分は印度綿に在り、斯く輸入綿を以て製造する日本紡績糸と予の如き孟買にて孟買綿を使用する者と競争せんとするも、日本品は甚た不利益なり、故に輸入綿は可成的安価に購入せさるを得す、之を購入するハ運賃保険料の安価を計るにあり、予は孟買に於て数個所の紡績所を所有すれは又綿田も所有せり左れば是迄他の会社に販売せしより充分安価に日本へ輸送すへし、又運賃の如き是迄日本に輸送せし綿は多くピーヲ会社の滊船に塔載したるも、兎角運賃の高直なるより是迄幾度となく同会社へ掛合ひたる事あるも、搭載荷物少数なるが故に同会社に於ても中々直段を引下げざりしなり、左れば今後日本の同業が共同して荷物引取り、運賃保険料の如きも成るへく丈安価に綿糸の価額も充分安価に買入れなば、海外輸入糸に向て充分の競争を為し得らる可し云々
    我紡績業の未来
は如何と問ふ者あらハ、余は充分に望ありと云ふに憚からさるなり、たとひ今日一般の不景気に伴ひ且つ稍生産過超の患ありて一時危急存亡の災難に出遇ひたりと雖も、其不景気も今已にやゝ愁眉を開き得る
 - 第10巻 p.400 -ページ画像 
に至り、織物に対する需要は日に拡り、加之生産過超も需要の減却したる者所謂プライス氏かヲヴアー・コントラクシヨン(需用の俄に減したるにより為めに産出の過超となりたるを云)にあらすして、真正のヲヴアー・プロダクション(世の必用なる高より多く産出せしを云)にあれは、後来勿論需要のあるへき者なり、日本は職工の賃銀安けれは熟練さへ達し得て産出額の大なるを得は、充分に印度と競争し得へし、唯に日本内地のみに止らす、支那四百州四億万の人民は好得意となすを得へきなり、原料の如き印度より輸入をのみ依頼するは不得策にして、如何となれは印度ハ重に日本へ輸入するのみにて日本より輸出すること少なけれは、相互主義の貿易には不適当の土地なり、去れはとて本邦より印度へ売付くへき物品ハ至て稀なるか如し、然るに支那は我より輸入することの多き国なれハ之に換へて広東等東方地方の綿原料を購入するに最も利益ある者なり、兎に角原料の購入を廉価になし得る道を勉め、職工の熟練を加へなは、需要地は広大なる事故未来の望なしと云ふへき者にあらす