デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
28節 貿易
4款 日露貿易株式会社
■綱文

第14巻 p.437-446(DK140051k) ページ画像

明治39年11月(1906年)

栄一、大蔵大臣阪谷芳郎・農商務大臣松岡康毅・商工局長森田茂吉・通商局長石井菊次郎他数名ト共ニ料亭常磐屋ニ招カレ、下村房次郎ヨリ日露貿易株式会社設立計画ヲ聞ク。後コレガ発起人タルコトヲ承諾シ、馬越恭平・村井吉兵衛等ト共ニ創立事務ヲ援助セシモ、彼地代表ソロモン・ミンコフスキー歿シ、尋イデ大正二年下村房次郎マタ歿スルニ及ビ、事遂ニ止ム。


■資料

自知下村房次郎君追懐録 (多田正雄編) 第九頁〔大正四年七月〕(DK140051k-0001)
第14巻 p.437 ページ画像

自知下村房次郎君追懐録 (多田正雄編)  第九頁〔大正四年七月〕
    下村房次郎君年譜
同○明治三十九年 ○上略
        次で又露国より日露貿易に関する公報頻々たるを以て此十一月大蔵・農商務両相及商工・通商両局長並に渋沢男爵外数氏を常磐屋に請待して日露貿易計画の経過及将来の目的を披陳して同意を得、其の事に著手す。
        ○下略


竜門雑誌 第二二六号・第四七頁〔明治四〇年三月二五日〕 ○日露貿易会社の発起(DK140051k-0002)
第14巻 p.437 ページ画像

竜門雑誌  第二二六号・第四七頁〔明治四〇年三月二五日〕
○日露貿易会社の発起 下村房次郎氏の主唱に係る日露貿易会社は創立の準備中にて先生は馬越恭平・村井吉兵衛諸氏と共に其事に尽力せられ居れり


竜門雑誌 第二二七号・第三一頁〔明治四〇年四月二五日〕 青淵先生と新会社(DK140051k-0003)
第14巻 p.437 ページ画像

竜門雑誌  第二二七号・第三一頁〔明治四〇年四月二五日〕
○青淵先生と新会社 青淵先生が其後発起人たることを承諾せられたる会社左の如し
 一、日露貿易株式会社 発起人
○下略


(アウグスト・ミンコフスキー)書翰 訳文 下村房次郎宛一九〇七年六月二一日(DK140051k-0004)
第14巻 p.437-439 ページ画像

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渋沢栄一 日記 明治四〇年(DK140051k-0005)
第14巻 p.439 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四〇年
十月九日 雨 冷                 起床六時三十分就蓐十二時
○上略 九時過出雲町日清火災保険会社ニ抵リ、創立委員会ヲ開キ要務ヲ談ス、畢テ下村・梅浦二氏《(杉浦カ)》ト日露貿易会社創立ノコトヲ談ス○下略


自知下村房次郎君追懐録 (多田正雄編) 第六六頁〔大正四年七月〕(DK140051k-0006)
第14巻 p.439 ページ画像

自知下村房次郎君追懐録 (多田正雄編)  第六六頁〔大正四年七月〕
○第一編 遺稿
    第一 日記抄
二月○明治四一年八日 快晴。六時半起、九時出館、十時杉浦氏と渋沢男往訪不在書を貽して辞す。十時半出社、三時半帰宅。此夜、日比翁答訪、社業に深き同情を表し五百株の申込を誓ふ。彼れ曰く相戦ひたる両国知名の志士が更に平和の握手を以て貿易を発展せんとする実に君子の行と云ふべし。


下村家文書(DK140051k-0007)
第14巻 p.439-441 ページ画像

下村家文書                (下村宏氏所蔵)
現時日露両国ニ於ケル直輸出入額ハ尚ホ未タ小額ニ過キスト雖トモ、其主トシテ独逸・英吉利及仏蘭西等第三者ノ手ニ由リテ再輸出入セラルルモノハ頗ル巨額ニ上リ、本邦品ノ欧露ニ輸入セラルヽモノヽミニ就テ見ルモ正ニ五千万円ニ達セリト称セラル、今露国政府ノ調査セル統計ニ徴スルニ其重ナル品目及其金額ハ左ニ掲クルカ如シ
                      円
  生糸及真綿      一二、二四四、〇〇〇
  絹織物及製品      四、八〇七、〇〇〇
  生銅         一五、八七六、〇〇〇
  硫黄          一、二五〇、〇〇〇
  安質母尼          一五八、〇〇〇
  樟脳          二、五〇八、〇〇〇
  薄荷            三七六、〇〇〇
  寒天            二六四、〇〇〇
  白蝋            一一六、〇〇〇
  魚油及魚蝋       三、三一六、〇〇〇
  麦稈真田        五、三四〇、〇〇〇
  日本紙           三九七、〇〇〇
  陶器          五、二一三、〇〇〇
  漆器          一、一七九、〇〇〇
  花莚          四、九〇〇、〇〇〇
    計        五七、九四四、〇〇〇
   外ニ諸雑貨      三、〇〇〇、〇〇〇
  合計         六〇、九四四、〇〇〇
 - 第14巻 p.440 -ページ画像 
乃チ其総額ハ六千万円ノ巨額ニ上ルヲ見ルベク、今後対露貿易ノ発展ニ伴ヒ品目ニ於テ数量ニ於テ多大ノ膨張ヲ見ルハ言ヲ俟タサル処ナリ仮令バ彼ノ紅磚茶ノ如キ現ニ漢口及錫蘭ヨリ露国ヘ輸入スルモノ毎年五千万円ヲ下ラズ、我製茶モ又将来有望ナル輸出品ノ一タルベク、殊ニ西比利亜一帯ニ於ケル我製産品需用ノ増加ハ急劇ニシテ、四十年ニ於テ既ニ一千万円以上ニ昂騰セルヲ見ルモ、又其将来ヲ予測スルニ難カラザルベシ
露国品ノ我邦ニ輸入セラルヽモノニ至リテハ統計ノ由リテ徴スベキモノナキモ、其前途有望ナリト認メラルヽモノヲ掲クレハ概ネ左ニ記スルカ如シ
  更紗及綿布
  麻布
  大麻及亜麻
  麦酒原料用ホープス
  同裸麦
  葉莨
  クルイム産葡萄酒
  生皮
  製革品
  沓類
  擬革及リノリユーム
  毛皮
  獣毛
  牛酪
右諸品目ハ大ニ輸入ノ望ミアルモノニシテ、猶石油及原油類ハ好箇ノ輸入品トナリ得ベク、殊ニ第三者ノ手ニ由リテ輸入セラルヽ麦酒原料ノ如キ実ニ巨額ニ上ルモノアルヲ見ル、且又東部西比利亜及北満州地方ノ農産物中浦港ヲ経テ本邦ニ輸入セラルヽモノ小麦・大豆・豆粕等其多キヲ占ム、単ニ豆粕ニ就テ見ルモ、之ヲ前年来ノ趨勢ニ徴スレハ本年度ニ於テハ優ニ五百万円ニ上ルヘキハ疑ヲ容レサル所トス、従ツテ此等輸入品ヲ合計スルトキハ、輸出品ニ対シ約其半額ト算定スルモ大過ナカルベシト信ズ
別冊目論見書ノ収支予算中収入ノ部ハ其輸出入額ヲ消極ニ見積リテ輸出五千万円輸入二千五百万円トシ、其二十分ノ一乃チ五分ヲ本社ノ取扱高ト算定シタルナリ
由来日露両国ハ地勢上ヨリ見ルモ其取引額ヨリ見ルモ、第三者ノ仲介ニ由リ其間ニ巨利ヲ壟断セラルヽ現状ハ早晩之ヲ除却スベキ運命ヲ有スルモノトス、仮令然ラストスルモ、又進ンテ之レカ除却ニ勉メサル可ラサルハ国際貿易ノ発展上刻下ノ急務ニ属スルモノト云ハサルヲ得ス、此ノ見地ヨリシテ、従来露国有力家ト発起人トノ間ニ既ニ幾多之ガ進行ノ経路ヲ聞キタルコトハ、趣意書及経過報告書ノ示ス所ニ依リ現実ニ之ガ消息ノ一端ヲ看取セラレン事ヲ希望ス
今会社ガ取扱フベキ取引高ヲ予定ノ二十分ノ一ト算定セハ敢テ過当ナラサルモ、猶事情アリテ資本金ヲ半減シテ五十万円トナシ、一面営業
 - 第14巻 p.441 -ページ画像 
収入ハ之ニ応シテ、仮リニ其取引高ノ半額乃チ輸出高ニ於テ百弐拾五万円、輸入高ニ於テ六拾弐万五千円ノ取扱ヲナスモノトシ、従ツテ其収入金ヲ四万参千七百五拾円ニ半減シ、然カモ一面営業支出ハ資本金百万円ニ対スル予算ノ場合ト同一トナシ何等之カ削減ヲ加ヘサルモ、猶収入四万参千七百五拾円ニ対シ支出参万四千七百円差引九千五拾円ノ純益ヲ見ルベク、法定積立金・準備積立金各五百円計壱千円ヲ差引キ八千余円ノ剰余ヲ有スルガ故ニ、其資本額ノ拾弐万五千円ニ対シテ六分四厘ノ配当ヲ見ルヲ得ベキナリ
終リニ臨ミテ日露貿易将来ノ発達実ニ測ル可ラサル気運ヲ有スルコト並ニ此気運ニ応シテ国際関係ヲ親密ニスルハ協商成立後ニ於ケル両国国民ノ協力尽瘁セサル可ラサル急務ナルコト、次ニ直接取引ニ於テモ他ノ欧米各国ニ対スル直接取引ノ場合ノ如キ競争者ヲ有セサルコト、其他凡テノ関係ヲ通シテ我会社カ特種状態ノ上ニ存スルモノナルコトハ過去ノ事実ト現在ノ情況トニ徴シテ特ニ諒察ヲ仰クモノナリトス


自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編) 第四一五頁〔大正四年七月〕(DK140051k-0008)
第14巻 p.441 ページ画像

自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編)  第四一五頁〔大正四年七月〕
 ○第四編 追悼会記事
    遺墨遺品展覧目録
     ○遺物之部
○上略
十三、日露貿易会社露文定款
○下略
  ○追悼会ハ大正二年十月二十五日、東京郵便電信学校講堂ニ於テ開催サル。階上ニ展覧場アリ。


渋沢栄一 日記 明治四一年(DK140051k-0009)
第14巻 p.441 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四一年
十二月二日 晴 寒
○上略 午後露国人エベルト氏来話ス、日露貿易ニ関シテ種々ノ談話ヲ試ム○下略
  ○中略。
十二月七日 晴 軽寒
○上略 午後一時露国大使館ニ抵リ午飧会ニ出席シ、後エベルト氏ト日露貿易ノコトヲ談ス○下略


竜門雑誌 第三〇八号・第三四頁〔大正三年一月二五日〕 ○故下村氏追悼会に於て(青淵先生)(DK140051k-0010)
第14巻 p.441-442 ページ画像

竜門雑誌  第三〇八号・第三四頁〔大正三年一月二五日〕
    ○故下村氏追悼会に於て(青淵先生)
 本篇は昨年十月廿五日午後二時より東京郵便電信学校講堂に於て催されたる故自知居士下村房次郎先生の追悼会に於ける青淵先生の追懐談なりとす(編者識)
○中略
 日露貿易に関しては嘗て私も居士と屡々談話を致した事がございます、三十九年頃から四十年の初までに幾回も御相談を致しました、私に実際に貿易に従事する智識もございませぬけれども、是非日露両国の親善に努め、交誼を図り、随つて利害関係を進めて行くには貿易会
 - 第14巻 p.442 -ページ画像 
社の組織が必要である、何ぞ好い機会があつたらばと考へて居る折から、自知居士は頻りに日露貿易会社を造りたいと云ふ事で露西亜に行かれて、露都の実業家メンコスキーと云ふ人に遇はれ日露の貿易を進めると云ふ事に就いて談話を交換して帰られ、其会社を成立をさせたいと云ふので私も御同意して斯くしたら宜からう、斯う云ふ方針に進めて行かうと御相談した事がございます、併ながら機会が十分熟して居らなかつたか其会社は成立に至らなかつた、其内にメンコスキーと云ふ人は病ひの為めに死なれまして、終に日露貿易に関する会社組織の事は自知居士の強い希望であられたにも拘らず成立を見るに到らずに仕舞ひました、其事に就いては私は数回居士と御談話もして、居士か極て公平なる、且つ常に誠実なる考へを以て事を謀りて行かれるを深く感じたのでございます、爾来屡々相接触する事もございませず、其企望の達する場合に立到らないのは深く遺憾と致しまする次第であります、実業界から見ますると居士は前に申す如く、交通の事に就いても、若くは他の方面の事に就いても日露貿易会社の創立に就ても今日尚其昔を偲びて若し居士にして存在であつたならば更に評議する事もあらうと深き感情を起すのでございます
○下略


竜門雑誌 第三一三号・第一一頁〔大正三年六月二五日〕 ○竜門社春季総集会に於て(青淵先生)(DK140051k-0011)
第14巻 p.442 ページ画像

竜門雑誌  第三一三号・第一一頁〔大正三年六月二五日〕
    ○竜門社春季総集会に於て(青淵先生)
 本篇四月三日大日本麦酒会社目黒庭園に於て開会せる本社第五十一回春季総会講演会に於ける青淵先生の講演速記にして、青淵先生が五月四日上海航行中地洋丸船室に於て閲覧修正を加へられたるものなり。(編者識)
生憎く悪い日和の総会でございまして諸君の御会合に嘸御困難でございませう、大分時も遷りましたから、例に依て私も一言を述べまするが、極めて簡単にして御免を蒙ります。
前席に堀越君より露西亜の近況を拝聴致しました、戦争後の露西亜の経済状況が今堀越君の御述べになつた如き有様であるといふことは、吾々未だ其事実を詳かにせぬので大に注意を惹起すことゝ思ひます、明治四十年頃に日露の間に一の経済機関を造つたら宜からうと彼の国人も企望せられ、日本に於ても其説を為す人があつて、貿易会社を組織するといふので、故下村房次郎氏が非常に尽力せられ私もそれに賛同して将に成るに垂んとしましたけれども、何分事情を詳にせず組織して見てもどういふ事になるか分りませぬから遂に資本の募集も出来得ず、到頭成るに至らずして止みました、殊に露国における主唱者のメンコスキーといふ人が、大分有力者のやうに評判されて居りましたが、後日に至つて聞いて見るとそれ程の人でもなかつた、亦日本に於かて心配した人も経済界に十分なる信用を持つとまで行かなかつたから、其組立が出来得なかつたのを今も尚遺憾として居ります○下略
  ○日露貿易会社創立計画以前ニ属スル下村房次郎並ニロシア貿易ニ関スル資料ヲ次ニ掲グ。


 - 第14巻 p.443 -ページ画像 

〔参考〕渋沢栄一 書翰 萩原源太郎宛(明治一八年)一一月一〇日(DK140051k-0012)
第14巻 p.443 ページ画像

渋沢栄一 書翰  萩原源太郎宛(明治一八年)一一月一〇日
                    (萩原英一氏所蔵)
○上略
下村房次郎と申人ハ何れ之人物ニて何業従事候ものニ候哉、御聞合置可被下候、尤別紙回答案ハ兎ニ角御差出相成可然と存候
○中略
  十一月十日
                   渋沢栄一
    萩原源太郎様
  ○別紙ヲ欠ク。
  ○下村房次郎ハ安政三年和歌山市ニ生レ、和歌山県準判任御用係ヨリ和歌山日々新聞主幹ニ転ジ、同県会書記長・県議等ニ選バレタルモ、明治十八年上京、当時日本経済会主催ノ不景気救済策点取文ノ募集ニ応ジテ当選、翌十九年逓信属ニ任ゼラレ交通行政並ニ通信事業ニ関与シ、同時ニ露国トノ貿易ヲ鼓吹、大正二月二月五十八歳ニテ歿ス。(「自知下村房次郎追懐録」多田正雄編〔大正四年七月〕ニヨル)


〔参考〕渋沢栄一 書翰 萩原源太郎宛(明治二一年)七月一日(DK140051k-0013)
第14巻 p.443 ページ画像

渋沢栄一 書翰  萩原源太郎宛(明治二一年)七月一日 (萩原英一氏所蔵)
○上略
別紙ハ鳥居と申人より申出候露国貿易ニ関する意見書ニ有之、過日本人被参申出候処ニてハ、此度右視察之為出張候ニ付、もしも出来得るなれハ会議所より幾分之補助被成下間敷との事ニ候得共、何分支出之金額も有之間敷、其上補助之理由も如何と存候ニ付、先以心当ハ無用と答置候、此鳥居と申人ハ小生ハ別ニ其履歴も相心得不申候ニ付御取調被下、もしも誠実之人ニて一意本文之通ニ候ハヽ何とか援助之工夫も致度と被存候、御熟案可被下候
右一書御答旁要件申上候 匆々不一
  七月一日
                   渋沢栄一
    萩原源太郎様
  尚々藤田・藤岡両技師之演説書類落手仕候也


〔参考〕渋沢栄一 書翰 萩原源太郎宛(明治二八年)九月一六日(DK140051k-0014)
第14巻 p.443-444 ページ画像

渋沢栄一 書翰  萩原源太郎宛(明治二八年)九月一六日
                  (萩原英一氏所蔵)
(以下八行萩原源太郎朱書)
 「九月十六日朝雨宮氏ニ面会、翌十七日午前寺見氏ニ面会候処、其模様左ノ通リ
   九月十一日露国公使館書記官ニ面会問合ハセタルニ、本国大蔵省よりハ来年五月ノ博覧会ニハ総テ外国ノ出品ヲ許サヾル旨公文アリ、現ニ仏国政府より出品ノ照会ニ接シタルモ之ヲ拒ミ又其後露国人ノ名義ニテ出品シタキ旨再応ノ照会ニ接シタルモ同様之ヲ拒ミタル程ナレバ、日本ノ出品モ無論許サヾル事口達アリタリ」
其後御清適御坐可被成奉賀候、小生旅行中無事予期之如く今十六日日光迄安着仕候、此地両三日滞在来ル十九日歟廿日ニ帰京可仕候、名古
 - 第14巻 p.444 -ページ画像 
屋行ハ廿三日出立之積ニ御坐候、今村氏も其頃と存候、御聞合置可被下候、又同地持参之問題ニ付而ハ旅行取込等ニて何たる考案も無之候間、貴台ニ於て何か御思考被下度候
此程黒沢尻ニて雨宮氏ニ面会いたし候ニ付、露国ニジニノブゴロツトと申処ニ開設之博覧会ニ寺見機一氏出張致度之処、出品之運賃等ニ付商業会議所より充分之援助相願度と被申候間、其事を出立前申上候筈ニて失念せし故雨宮氏ニ伝言仕候、定而御聞取と存候、小生も其手続ハ承知不仕候ニ付寺見氏ニ御聞合之上ニて外務省其外へ御申出等之義有之候ハヽ夫々御配意被成遣度候、いつれ近日帰京ニて可申上候得共不取敢一書申上度 匆々不一
  九月十六日               渋沢栄一
    萩原源太郎様


〔参考〕渋沢栄一 書翰 下村房次郎宛明治三四年五月三〇日(DK140051k-0015)
第14巻 p.444 ページ画像

渋沢栄一 書翰  下村房次郎宛明治三四年五月三〇日  (下村宏氏所蔵)
(契印)発第七一号

  今般満洲・東清・西比利亜諸鉄道沿線各都市ノ情況ヲ御祝察相成候ニ就テハ、本会議所ヨリ別紙記載ノ要目取調方御嘱託致候間、追テ御調査ノ上可成詳細ニ御報告相成候様致度、此段別紙ヲ添ヘ及御依頼候也
  明治三十四年五月三十日
       東京商業会議所会頭 渋沢栄一東京商業会議所会頭之印
    下村房次郎殿
(別紙)
    調査要目
(一)露国ヨリ本邦ヘ輸入スル商品、即チ鹹魚・肥料・毛皮(以上西比利亜)烟草・織物(以上本部)等ノ生産分配ノ現況及将来
(二)本邦ヨリ露国ヘ輸出スル商品即チ米・麦粉・石炭・セメント・食塩(以上西比利亜)生糸・羽二重・茶(以上本部)等ノ分配消費ノ現況及将来就中磚茶売込ノ方法、ニジノブゴロツド市茶大市場ノ実況生糸・綿糸ニ関スル現況
(三)関税及税関制度ノ実際
(四)沿道各要地ニ於ケル為換ノ方法
  ○「東京商業会議所」ト印刷セル罫紙ヲ用フ。
(封筒)

図表を画像で表示--

  京橋区三十間堀一丁目六番地  交通学館  下村房次郎殿 [img 図]緘 東京商業会議所会頭 渋沢栄一 




〔参考〕渋沢栄一 日記 明治三五年(DK140051k-0016)
第14巻 p.444 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年
四月一日 晴
○上略 午後四時三井集会所ニ於テ有楽会ヲ開ク、井上伯来会ス、夜十時王子別荘ニ帰宿ス○下略

 - 第14巻 p.445 -ページ画像 

〔参考〕自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編) 第七頁〔大正四年七月〕(DK140051k-0017)
第14巻 p.445 ページ画像

自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編)  第七頁〔大正四年七月〕
    下村房次郎君年譜
同○明治三十五年 井上侯爵の紹介に依り内閣諸公及京浜の重なる実業家と三井倶楽部に会し日露貿易談を為す。


〔参考〕自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編) 第四六頁〔大正四年七月〕(DK140051k-0018)
第14巻 p.445 ページ画像

自知下村房次郎君追懐録(多田正雄編)  第四六頁〔大正四年七月〕
 ○第一編 遺稿
    第一 日記抄
十一月○明治三五年廿二日 九時起床、曇、十一時登館。室外五度、口髯氷結、市中橇車を見る。一時半帰寓、栗野、渋沢、浅野、三井諸氏への書按起草。○下略


〔参考〕下村宏氏談話(DK140051k-0019)
第14巻 p.445 ページ画像

下村宏氏談話

                     昭和十六年三月廿七日丸ノ内日本倶楽部にて宇野脩平聴取
    日露貿易株式会社について
資料を捜さうと思つて日をのばしたのだが、田園調布に移つてから古い書類はどこに入つたか一寸みあたらなかつた。
その頃は私も役人をやつてゐたのでよく知らなかつたが、父は銀座に創立事務所をおいて、未だ株式も募集せぬのに三四人の人を雇ひ、自分の金でやつてるものだから、あまりさういふことをされると困るなと思つてゐた、その事務所で二三度子爵にお目にかゝつたことがあるその時子爵と父とはどういふ要談をしてゐたか或はたゞの話であつたか憶えてゐない。
又ある料理屋へその会社のことで人々を招いたとき子爵も見えてゐられた事を憶えてゐる。
創立事務所へ来てゐた三四人の中の一人の中村詳太郎といふ人が今逗子山野根四一一にゐるから訪ねて聞いて御覧。そして股野貫之? といふ人もゐたから、その人は今生きてるかどうかも知らないが、中村といふ人にきいてその人をも訪ねたらいゝ。
日露関係の書類は自分はロシヤ語もよめないし、おいといても仕様ないから、それよりも利用して貰つた方がいゝと思ひ、日露協会に寄附したことがある。それも淡い記憶だが、日露協会へ行つてみて御覧。うちにあるものもみつかつたらお知らせしよう、父の日記の明治四十年のはある。


〔参考〕関根斉一氏談話(DK140051k-0020)
第14巻 p.445-446 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。