デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

4章 鉱業
3節 石油
2款 宝田石油株式会社
■綱文

第15巻 p.462-467(DK150056k) ページ画像

明治35年2月(1902年)

是月当会社、北越石油株式会社外数十ノ石油会社ヲ合併ス。是ニ於テ越後地方石油業ノ合同成ル。大隈・松方両伯爵並ビニ栄一ノ勧告斡旋スル所ナリ。


■資料

渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三四年)一〇月一二日(DK150056k-0001)
第15巻 p.462 ページ画像

渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三四年)一〇月一二日
                     (松井三郎氏所蔵)
貴方本月七日附御状拝見仕候、然者長岡地方石油業ニ付金融相望候義者先日来浅野総一郎氏より種々申聞有之候得共、其手続何分確実とも難認候間程能相断置候、然るニ貴方之状況ハ御細書ニて稍了解致候も矢張進て相応し可申事柄とハ相見不申候間、去ル十日之重役会ニ於ても御遣之一書ハ一同へ披露致し候も、取引ニ応し候事ハ見合候積ニ打合置申候、然処昨日右件ニ付岸宇吉氏本店へ被参色々相談有之、詰り同氏ハ是非本店より資金貸出相望候趣書ニて、其責任ハ六十九銀行ニて引受金高ハ凡弐拾万円入用ニ付、半高ハ日本石油会社之株式を時価之半額位ニて担保として差入可申ニ付、半高ハ無担保ニて融通致呉候様と申意味ニ候、尤も昨日之処ハ決定之義ニハ無之もしも本店ニて相応し候様なれハ其手配相試可申旨被申居候、依而佐々木氏とも打合せ共に岸氏ニ面話之上単ニ六十九より之一時融通と申義ニ候ハヽ、是迄之行掛とハ問題も異り候義ニ付精々行届候様尚重役会ニて協議可致と申意味ニて相答置申候、但岸氏ハ此際是非取纏メ合併之義挙行致度と申居候、又本店重役会ハ追而如何決定候哉ハ難計候得共、六九より抵当差入候取引に候ハヽ金高拾四・五万位なれハ勿論差支無之と存候、右様之話合ニ付其中岸氏よりも可申出と存候得共当方之真情一応御含まてニ申上度御答旁一書申上候 匆々不一
  十月十二日
                       渋沢栄一
    松井吉太郎様


渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三四年)一二月三一日(DK150056k-0002)
第15巻 p.462 ページ画像

渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三四年)一二月三一日(松井三郎氏所蔵)
○上略
石油合併談ハ其後如何之成行ニ相成候哉、浅野氏被申候ニハ追々小合同出来候由ニ候、御心添被下度候
○中略
  十二月三十一日
                       渋沢栄一
    松井吉太郎様
 - 第15巻 p.463 -ページ画像 


渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三五年)二月二四日(DK150056k-0003)
第15巻 p.463 ページ画像

渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治三五年)二月二四日
                    (松井三郎氏所蔵)
本月三日附貴翰拝誦仕候、然者長岡地方石油事業之合同ニ付而ハ意外ニ捗取候様子ニて、先頃岸氏・山田氏抔出京老生へも金杯送与之事被申越、一夕浅野氏之催ニて宴会相開き松方伯も参席談話いたし候
右合同会社ハ其中多少金融之請求も可有之哉ニ候得共、右様基礎も固く相成候上ハ相応之融通も致候而可然と存候、其場合ニハ尚本店へ御申出可被下候、但先頃岸氏と口約之拾五万円取引之事ハ勿論取消候ものと相考可然事と存候
浅野工場も其後略相談相纏候由同人より承り申候、又同人経営之鑿井も近頃ハ少々出油有之候由ニ候、右等之実況御聞糺被下相分り候ハヽ御申越可被下候
  二月廿四日
                       渋沢栄一
    松井吉太郎様
  尚々岸・山田其外之人々も既ニ帰国御面会之事と存候也


竜門雑誌 第一六五号・第四七―四八頁 明治三五年二月 ○越後石油会社の大合同(DK150056k-0004)
第15巻 p.463-464 ページ画像

竜門雑誌 第一六五号・第四七―四八頁 明治三五年二月
    ○越後石油会社の大合同
越後地方に於ける幾十百を以て算する小石油会社の分立は、経済上互に不利益なるを以て、大隈・松方両伯・青淵先生等に於ては屡々其不得策なるを論し、重もなる会社に向て合同の忠告を与え、諸会社も亦た其尤もなる事と諒し、二回迄も委員を設けて合同の協議を為したるも、種々の事情は此合同を許さゞりし、然るに昨年来宝田会社が中心と為りて遂に左の廿一会社を買収し、玆に合同の一段落を告げたるを以て、同社の重役山田又七・渡辺藤吉・倉田久三郎の三氏は此程上京し、其顛末を社会に報道せんが為め、一昨日午後四時より各新聞雑誌記者を芝紅葉館に招待し、山田・渡辺の両氏より詳細なる報告ありたるが、今其合同の会社と出油高・利益等を聞くに左の如くなりと云ふ
 宝田石油株式会社・大手石油株式会社・五菱組・北陸石油株式会社・帝国鉱業石油株式会社・高津谷石油株式会社・地獄谷石油株式会社・長岡石油株式会社・東田石油株式会社・京越石油株式会社・長東組・油多嘉組・宝栄組・北明石油株式会社・長岡鉄管株式会社・株式会社長岡送油所・株式会社長岡製油所・長峯鉄管株式会社・蔵王石油株式会社・北越石油株式会社・日東石油株式会社の十七会社、四組、合計廿一にして、此の総株数三万二千二百五十株なり、又出油量其他の計算は現在一日の出油量西山一日の採油高八百八十石、東山同七百五十石
計千六百三十石、一ケ年の原油売上金高百五十七万〇三百二十円、一ケ年の事業費及諸経費として十分の四を控除するもの金六十二万八千百二十八円、差引純益金九十四万二千百九十二円、外に鉄管部純益五万七千円、製油部純益一万五千円、純益合計百〇一万四千百九十二円是を三万二千二百五十株に割当れば、一株に付三十一円四十三銭とな
 - 第15巻 p.464 -ページ画像 
る、依て一ケ年四割の配当をなすものとして金六十四万五千円、但し一株金二十円宛を配当し、残額金卅六万九千百九十二円を積立其他に充つべき筈なりと



〔参考〕中外商業新報 第六一二六号 明治三五年六月二四日 宝田石油会社沿革概要(DK150056k-0005)
第15巻 p.464-465 ページ画像

中外商業新報 第六一二六号 明治三五年六月二四日
    宝田石油会社沿革概要
越後長岡の宝田石油株式会社は同業小会社製油所及鉄管会社等を合併せし結果、其勢力殆ど全国の石油会社中一二を争ふものとなりたることは本紙に於て数々記せしが、合同社創立は明治二十六年二月にして同社合同の由来は左の如くなりと云ふ
 抑も石油会社の合同は昨年五月大隈伯が北越に漫遊せられし時に基因せり、当時伯は日本石油会社及宝田石油会社に向ひ石油界に於ける小資本の分立は決して事業の進歩革新を計る能はず、故に今回の来越を期とし鉱業家の重なる人々に向て之を勧告したしと、依て二十余名の有力者を常盤楼に集め其演説を聴きたるに何れも趣旨を賛したるが、宝田石油会社は先づ第一着に日本石油会社に合同を申込み出来得る丈の譲歩を以て之を交渉したり、現在社長山田・専務渡辺等首唱して重役会を開き之を可決したるも、日本石油会社は時機尚早として之を否決し玆に第一回合同は挫折を見るに至れり、於是不得止長岡鉱業会議所内に合同期成同盟会を設け、十二名の委員を挙げて諸般の調査等を委托し毎月二回之を開き徐々に歩を進むることとせり、然るに合同の議たる何人も之を賛成するに拘はらず事実は容易に捗らず、即ち評定価格等の関係より成立を見る可らざるに依り漸進主義を執りて時機を待ちたり、当時宝田石油会社は上下両期を通じ其純益一株に付四十一円平均なりしも、他の会社は一株に付二十四五円より三十二円位にして平均三十一円余、即ち会社と比較して十円の差ありしなり、然れども区々目前の利害は之を排し斯界の為めに自ら犠牲となり利益少き小会社なりとも之を合同せんと決心し、合同期成同盟会の外更に六十九銀行内に頭取岸宇吉氏を初め、山田・渡辺其他会合し同月第一回を開き、先づ合同希望の会社より現在資産を調査して之を提出せり、然るに之が価格を評定せるに到底纏らず不得止一大決心を以て山田・渡辺・岸・鷲尾等秘密に各会社に向て交渉せん為め各自単独行動を試み、十月四日委員会を開き蔵王石油会社は幸ひ六日重役会開会なるを以て之に交渉したるも時機尚早として拒絶せられたるが、他の方面は着々好果を得先づ七会社の交渉成り、昨年十二月十三日に至りては総計十三会社と締約し得るに至れり、越て翌三十五年即ち本年一月に至り公然価格及合同を発表せるに、他会社も之を賛するもの多きを加へ同月上旬迄に二十一の会社及組合の合同会を開き、而して各社は臨時総会を開設し任意解散の上同社の買収に応ずることゝなれり、於是創立当初より合併せし会社は実に三十有余なり、尚ほ同社創立以後の経過左の如し

  年次       資本金      採油量       純益      同利当
                円       円       円      割
 廿六{上半期    一五・〇〇〇   一、一一六   二、三八〇・八〇二 三・〇〇
    下半期             三、二九八   二、六一一・四七一 三・〇〇
 - 第15巻 p.465 -ページ画像 
 廿七 上      三〇・〇〇〇   五、三五〇   二、八一六・〇三九 三・二〇
    下               四、〇〇〇   一、六一九・二五〇 一・〇四
 廿八 上               七、八七七  一〇、五四一・七四三 六・〇〇
    下      五〇・〇〇〇   九、三九一  一一、八二〇・一一四 四・〇〇
 廿九 上     二五〇・〇〇〇  一三、一六九  二〇、二八六・四三八 四・八〇
    下              一二、八九三  一九、三〇三・八〇九 三・六〇
 三十 上     三〇〇・〇〇〇  二六、一七七  三四、九三九・三六九 三・二〇
    下              三一、九三四  三三、一二五・八八四 二・八〇
 卅一 上              三一、九〇三  二九、〇八五・七八五 一・二〇
    下              二七、五四二  三七、一四七・六四二 一・二〇
 卅二 上     六〇〇・〇〇〇  六九、〇一九 一一〇、三四五・四五四 四・四〇
    下              五八、六七三 一三三、五四五・八三九 四・八〇
 卅三 上              八〇、六二二 一二三、四四四・一七九 三・二〇
    下             一〇二、〇〇九 一四二、二二七・五六一 四・〇〇
 卅四 上             一一四、二七六 一七四、三二二・五七二 四・八〇
    下   一、五〇〇・〇〇〇 一二三、九七六 三四八・八六七・一四〇 四・〇〇




〔参考〕宝田二十五年史 第五四―五六頁 大正九年五月刊(DK150056k-0006)
第15巻 p.465-466 ページ画像

宝田二十五年史 第五四―五六頁 大正九年五月刊
 ○第二章 合同期
    第一節 第一回大合同
○上略
 抑も第一回大合同てふ名は聊か妥当を欠くの嫌ひなきに非ず、如何となれば、すでに三十五年以前に於て、十二会社三組合の合同を決行したる事実あればなり。然れども右は漸次に行はれたるものにして、本年に於けるが如く之れを一時にせるに非ざれば、世人の目して第一回大合同を本年となすものまた無理ならず、乃ち本史も亦世人の称するところに従ふ。
 合同の理由に就いては前節すでに述べたるが如く、小資本の分立は決して事業を大成する所以に非ず。会社合同の利益は之を経済の原理に鑑み、之を鉱業の実際に徴して瞭然たるものあり。本社は、殊に斯界当時の趨勢に視て益々其の急務なるを感じたり。よつて三十四年十二月廿一日、臨時総会を開いて本件を附議す、決議に曰く、合同すべき会社組合その他の撰択、買収、合併に関する契約の締結及び之に要する資本の増加、株式の募集等は別に総会を開かず総べて取締役・監査役及び株主中より選任せる委員三名の賛同に依つて決行すべしと。越えて三十五年三月二十七日、資本金を百五十万円とする事に決定し着々議を進めて遂に第一回の合同を完成するに至れり。即ち任意解散の上、買収に応じたるもの左の如し
 太平石油株式会社  日東石油株式会社  高津谷石油株式会社
 北明石油株式会社  地獄谷石油株式会社 京越石油株式会社
 長岡石油株式会社  北越石油株式会社  北陸石油株式会社
 帝国鉱業株式会社  東田石油株式会社  五菱組合
 長東組合      宝栄組合      油多加組合
 長岡鉄管株式会社  長岡油送株式会社  長嶺鉄管株式会社
 株式会社長岡製油所 浅野製油所     日本製油株式会社
 日本送油株式会社  東明石油株式会社  三号組千代田組
 此の合同による当然の結果として、出油量の増加、汽機汽鑵の廃合より生ずる燃料及び消耗品の節約、製油の改良、流送鉄管の拡張等、経費に比して其の便益、極めて大なるものあり、鉱区に於いては、試
 - 第15巻 p.466 -ページ画像 
掘二千〇六十五万坪、採掘五百〇五万坪、坑井に在つては、出油井百四十六坑、休止中二十七坑、掘鑿中十坑となり、当半期採油量十二万五百石、此の売上代金三十二万一千円、株主総数九百五十八名にして此の半期配当一株拾円すなはち年四割なり。
○下略



〔参考〕日本石油史 (日本石油株式会社編)第三五四―三五五頁大正三年八月刊(DK150056k-0007)
第15巻 p.466-467 ページ画像

日本石油史 (日本石油株式会社編)第三五四―三五五頁大正三年八月刊
 ○第三篇 現代の石油業 明治三十五年
    宝田会社合同策成る
三十会社を買収す 宝田会社にては、前年来、石油会社組合の併合に就て力を用ひたる甲斐ありて、之に応ずるもの多く、三十五年の早春に於て十二会社五組合の買収を発表した。而して其買収の方法たる、自社の株券を時価に見積り、売買価格に相当する丈けの宝田株を交附するもので、之に現金を附したるは、極めて少数である。即ち高津谷会社は千五百株にて、北越石油会社は千九百五十株にて、五菱組は千五百株にて、太平石油会社は千四百株にて、長岡鉄管会社は千三百株にて、日東石油会社は千二百株と現金五千円とを以て買収されたるが如きは其一例で、当時宝田株の時価は、百円を維持して居たのであるから、千株は即ち十万円に相当するのである。同社は尚ほ着々併合の歩武を進め、此一ケ年に於て会社組合及び個人経営を買収するもの三十に及び、其被買収側の払込総資本額は、四百弐拾参万弐百八拾参円と註せられた。其会社組合名左の如し。
 太平石油株式会社 日東石油株式会社  高津谷石油株式会社
 北明石油株式会社 地獄谷石油株式会社 京越石油株式会社
 長岡石油株式会社 北越石油株式会社  北陸石油株式会社
 帝国鉱業株式会社 東田石油株式会社  長岡鉄管株式会社
 長岡送油株式会社 長嶺鉄管株式会社  株式会社長岡製油所
 五菱組      長東組       宝栄組
 油多加組     浅野製油所     日本製油株式会社
 日本送油株式会社 東明石油株式会社  長岡興業株式会社
 矢島参号組合   千代田組合     平野製油所
 小倉中島油槽所  井口庄蔵      山屋製油所
同社にては同年中に於ける第一期の合同完了の後、即ち三月廿七日、臨時株主総会を開き其顛末を報告し、資本金を六拾五万円より百五拾万円に増額することに決し。六月十五日本社落成式を兼ね、合同祝賀会を開き、合同に関し勧告若くは声援を与へたる大隈・松方両伯及び渋沢栄一・浅野総一郎の両氏へ、謝意を表する為め、金盃一組宛を贈つた。
   ○当会社ハ明治二十六年二月、山田又七・殖栗順平等ノ設立スル処ニシテ本社ハ長岡ニアリ。設立当時ノ資本金ハ十五万円ニシテ、ソノ後数年間ニ大小十数ノ石油会社ヲ合併シタリシガ、ココニ更ニ同地方石油業ノ合同ヲ図リタルモノナリ。合同ノ理由ハ渡辺藤吉ノ談(石油時報第三百三十一号所載)ニヨレバ、当時ハ越後石油業ノ全盛期ニシテ、群小会社ハ何レモ一時ノ僥倖ヲ求メテ経営スルニスギズ、永遠ノ計ヲ期スルニハ合同ニヨリ事業ノ強化ヲ図ル要アリ、ヨツテ明治三十二年中上京シテ、栄一ノ紹介ニヨリ
 - 第15巻 p.467 -ページ画像 
テ第一銀行ヨリ十五万円、松方正義ノ紹介ニヨリテ浪花銀行ヨリ二十万円ノ融通ラ受ケ、以テ地獄谷・高津谷等七社ヲ合併シタリシガ、三十四年五月大隈重信、同地方ヲ視察シテ更ニ大合同ヲ勧メタルヲ以テ、マヅ当時宝田ト相並ンデ最有力ナリシ日本石油株式会社ト合併セントシタルニ同社ハ時期尚早トシテ応ゼザリシカバ、他ノ群小会社ヲ合併シタルナリ。当会社ハソノ後モ企業合同ノ方針ヲ持続シ、明治四十年三月ニハ新ニ十三社ヲ合併シ資本金四百六十万円トナレリ。
   ○「竜門雑誌」「宝田二十五年史」「日本石油史」各異説ヲ為セドモ今此処ニハ三者ヲ掲グルニ止ム。



〔参考〕渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)五月二四日(DK150056k-0008)
第15巻 p.467 ページ画像

渋沢栄一 書翰 松井吉太郎宛(明治四三年)五月二四日
                    (松井三郎氏所蔵)
拝読其後益御清適奉賀候、老生も四月中ハ名古屋より伊勢山田又ハ芳野高野を経、更ニ大阪西京へも立寄帰京仕候、廿日間之旅行ニて随分各処見物いたし愉快ニ奔走仕候
其後貴地石油界之概況御申越被下拝承仕候、宝田之方ハ此度池田と申人新任之由、是ハ相応ニ能力ある者と存候、阪谷之世話せし人之由ニ御坐候、向後御懇親可被下候、渡辺式ニて只々利益配当のミ相増候経営ハ大会社之将来ニハ不完全且不安心ニ候、是非配当之減少ニ習慣を付候様いたし度事ニ候、日本石油も他之事業と分離之工夫有之候由尤之事と存候、兎角近来新進之大会社ニ種々之出来事相生候為経済界擾乱せられ候恐有之候、何卒貴方抔ニ感染せさる様仕度ものニ御坐候、右拝答旁如此御坐候 不宣
  五月廿四日               渋沢栄一
    松井吉太郎様
         拝答

「越後長岡六十九銀行」 松井吉太郎様 拝答親展 「東京日本橋区」 渋沢栄一
五月廿四日