デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

6章 対外事業
1節 韓国
11款 日韓通商保護要請
■綱文

第16巻 p.639-642(DK160108k) ページ画像

明治10年8月2日(1877年)

是日栄一、大倉喜八郎ト連名ニテ韓国トノ貿易ヲ拡張セン為メ、政府ヨリ資金十万円ヲ貸下ゲ且ツ毎月二三回ノ定期航路ヲ開カレンコトヲ、大蔵卿大隈重信ニ請願ス。許サレズ。


■資料

松方家文書 第二号之二三 【韓地貿易ニ付拝借金之儀願書】(DK160108k-0001)
第16巻 p.639-640 ページ画像

松方家文書 第二号之二三          (大蔵省所蔵)
    韓地貿易ニ付拝借金之儀願書
韓地互市之儀ハ御修好已降管理館ニ於テ深ク御世話被為在候得共、固ヨリ未開ノ地方ニシテ其民人モ頑蒙ナレハ容易ニ進歩ノ効ヲ期シ難キ事ニハ候得共、既ニ牛皮牛骨等ノ如キ実用ノ物産モ有之、且瑣少ナカラ砂金ノ通用モ致シ居候程ニ而、往々其地質ヲ験シ得候場合ニモ相成候ハヽ相応ノ礦坑モ可有之カ、加之海産ノ利ハ従前相開ケ居、現ニ陸路ヲ運搬シテ清国ニ通商致来候ニ付、徐々其緒ニ就キ候様仕度ト奉存候ニ付、喜八郎儀ハ昨年六月ヨリ代員ヲ彼地ニ派出シ、且米穀其他ノ雑品ヲモ輸送シテ先ツ其販売ヲ試ミ、尋テ本年六月自身釜山浦ニ渡リ商業ノ景状ヲ親験仕候処、其貿易ノ実況ハ真ニ寥々タル事ニハ候得共従前交通ノ国柄ニモ有之且其土地ノ接近ナルヨリ本邦ヨリ居留通商ノ小賈ハ追々其人員ヲ増シ、現ニ釜山浦ニ滞在スル人員ハ四五百名ノ多ニ至リ候、然リ而シテ其販売スル物品ノ如キハ金帛海気ノ類ヲ㝡トシ其他ノ雑貨ニ於テモ彼レノ求需ハ相応ニ有之候様相見候、只釜山浦ノ地タル韓地東南ノ一隅ニシテ物産ノ利少ナク廻運ノ便ニ乏キヲ以テ我レノ購取スヘキ物品ハ土地平常価格ヨリハ必ス幾層ノ昂貴ニ出テ、加之常々滊船ノ来往無之ニ付、其物貨運輸ノ如キハ纔カニ日本形ノ危脆ナル商船ニ依ラザルヲ得ス、而シテ其通商ノ媒介タル者ハ彼レカ銅銭ヲ用ルヨリ自ラ交換ノ便利ヲ失シ、居留商賈ハ常々此両件ニ困却罷在候、尤モ其貿易ノ拡伸ヲ謀リ候ハ、以テ止ムヘカラサルノ事柄タルニ付、本邦ノ物品ヲ将テ広ク彼人民ノ縦覧ニ備ヘ、其求需ノ念ヲ増サシメンカ為メ、従来彼レカ毎年両度二月十月慶尚道大邱ニ於テ大市ヲ開キ八道ノ衆民輻湊スルノ時ヲ以テ我カ商估モ亦釜山浦ノ居留地ニ於テ市貿ヲ起シ、以テ彼レノ脚踵ヲ誘ヒテ我目的ヲ達セント居留商賈一同協議ノ上管理館ニ頼請シ其許可ヲ得候ニ付テハ、来季ノ一回ヲ相試ミ候ハハ幾分ノ進歩ヲ得ヘキ事トハ奉存候得共、私共ノ愚案ニ而ハ前陳ノ滊船ノ幸便ト貨幣ノ兌換法トニ至リテハ、到底特別ノ御保護無之而ハ目下行商ノ自力ニ於テ其便ヲ開キ候儀ハ出来難キ事業ニシテ、此方法ノ宜ヲ得ルニ至ラサレハ、韓地ノ貿易モ亦其歩ヲ進メ候事ハ無覚束奉存候、就而ハ右回運ノ方法ハ其御筋ヘ御熟議ノ上何卒毎月両次又ハ三次ノ常便船御開設被成下、而シテ兌換ノ事務ニ於テハ私共両店ノ組合ヲ以テ交換所相開キ、目下小商賈ノ便宜ヲ資ケ終ニハ御国銀銅貨幣ヲ以
 - 第16巻 p.640 -ページ画像 
テ広ク彼国貿易ノ媒介ト相成候様仕度奉存候、尤モ現今互市ノ景状ハ前ニモ申上候通実ニ瑣少ノ事ニ有之、而シテ其交換ノ事務ニ於テハ却而平常ノ通貨兌換トモ異リ、或ハ彼レノ銅銭ヲ以テ本邦ノ貨幣ニ交換シ、又ハ其購取ノ物品ニ荷為替貸金之方法ヲ開キ、本邦ニ愉送《(輸)》シテ其売却ノ代価ヲ以テ貸金ヲ返収スル等ノ取扱モ無之而ハ其便益ヲ見サル儀ニ付、其要地各所ニ於テハ支店ヲ設ケ、又多少人員ヲ置キ以テ其事務ヲ調理不仕候而ハ、全体ノ目途ヲ達セスシテ利国ノ方法モ相行レ難ク、然ル時差向僅カノ収利ヲ得テ其失費ヲ償ヒ兼候事ト奉存候間、何卒出格之御特典ヲ以テ御国銀銅貨ニテ金拾万円ヲ年三分即百分ノ三分利子ノ割合ニテ五ケ年間据置拝借被仰付度候、尤モ其抵当品ハ秩禄新旧ノ諸公債ヲ以テ御制限ノ価格ニ準シ上納可仕候、此段奉懇願候也
  明治十年八月二日
                      渋沢栄一
                      大倉喜八郎
    大隈大蔵卿殿


渋沢子爵家所蔵文書 【韓地貿易開設ニ付郵便滊船御差向被下度儀願書】(DK160108k-0002)
第16巻 p.640 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
  韓地貿易開設ニ付郵便滊船御差向被下度儀願書
    本文略ス
(朱書)
書面朝鮮釜山浦江一ケ月両回ツゝ郵船往復之儀は即今難聞届、尤モ一ケ月一回ツゝ之航海は既ニ開設有之候条西南之擾乱粗鎮定船繰之都合相整次第定規之如ク通航可相成儀ト可心得事
 但本月之儀も上海郵船江結ヒ付浪華丸ニ積換通航之筈ニ候条其旨可相心得事
  明治十年九月廿一日
                      内務卿 大久保利通 



〔参考〕(中央朝鮮協会)会報 第一号・第四―八頁 大正一五年八月 大倉評議員謝辞(DK160108k-0003)
第16巻 p.640-642 ページ画像

(中央朝鮮協会)会報 第一号・第四―八頁 大正一五年八月
    大倉評議員謝辞
 閣下諸君、……今日諸大家の御集まりの所へ、老生が代表を勤めまするのは如何にも失礼と思ひますが、年輩であるから貴公からやれといふことで御座いますので、不肖ながら一言御礼を申述べます。
 一体朝鮮のことにつきましては、何か因縁がありまするか、昔から老生は心配をしたり、気をもんだり、いろ々々の事を尽して居りまするが、まあ力乏しく何事も思ふやうに出来ませぬが、此の席で御礼を申上げると共に一言申述べたいと思ひますのは、確か明治八年……七年か八年に当つて、朝鮮と日本との間に修好条約といふものが結ばれました。之を結ぶために黒田さんと井上馨さんの二人が朝鮮へ行かれさうして大院君と御相談なされ、何でも其頃の朝鮮はなかなか威張つて居つて、京城へ来て貰つては困るといふやうな有様であつた。たしか京城まで御出でにならない所で条約が結ばれましたといふことを承はつて居ります。お互に仲よくして商売をする、所謂貿易をやらなければいけない、国民のために其の途を開くが必要であるといふので、修好条約……物品の売買がお互に出来るやうに、と斯ういふことを勧めてお帰りになつた。それから政府が、朝鮮に何とかしなければならぬ、何でも一年かそこら経つと此の修好条約は無効になる、気を付け
 - 第16巻 p.641 -ページ画像 
ないといけないと云つて、大ぶん政府から貿易を開く段取りを付けろといふことで御奨励がありましたが、誰れも行く者がない、其の頃はやつぱり三井組・島田組・小野組などもありましたことゝ思ひますが大きな商人は勿論小さな商人も奮発する人がなかつた。さうするともう折角結んだ条約がフイになつてしまふと云ふので、大ぶん外務省で気をもんで御奨励になりました。併し何人も行かない。それで率先して行く奴はもう外にあるまいから大倉を呼んで一つ聞いたらよからうといふことを大久保内務卿といふ方が仰しやつた。それから私は招かれまして、内務卿から、当時の外交掛りの花房義質、それから近藤真鋤、此の二人が朝鮮へ行く、お前が行けば二人も行く、朝鮮の貿易、修好条約の途開きをして呉れろ、と、斯ういふ御申出でゞございました。大切のことで身に余る光栄でありますが、どうもむずかしい。さりながら大勢の人が御寄りになつて御命令になることであるから、承諾致しますといふことで、私は朝鮮へいろいろの品物をどつさり持つて行きました。自ら手代を連れて釜山へ上りました。其の当時釜山浦に日本人が何人居たかと云ふと、婆々や子供まで入れて九十人、皆対州人である。対州以外の日本人としては私が一人、御役人としては花房・近藤の二人、それで其の頃朝鮮でドーナンと云ふ市長よりもつとよい御役人へ段々相談をして大きな大寺を借りまして、さうして品物を並べて朝鮮人に修好条約といふものは、斯ういふものだといふことを教へるのですね。所がこの金巾や天笠木綿、或は甲斐絹のやうなもの、総て正札付でやつた。所で朝鮮人は承知しない。日本の商売のやりかたがわからない不思議だと云つて居つた。それで直ちにあちらの主立つた商売人を集めて、こゝに並べてあるのは正札付、これは誰れでも買つて宜しい、通り掛りの御客様でも、来て買へばこの値で売つてやる、商人が沢山買ふ時は割引といふものをするから、其の割引が商人の利益になる。例へば百円の品を買へば一割五分、十五円だけは商売人が儲ける外の人が買へばまけない、是は世界の法だからと云つて、噛んで含めるやうに言ひました。所が、それならばわかつたと云ふことで、俺等も買ふと云つて買つた。買つたのは宜しいが勘定をする時は何にもない。一文銭より外に、通用貨幣と云ふものはないのでございますから、五両も商売すると是位の部屋はみんな塞がつてしまう。一文づつ並べる、是はどうもたまるものではない。第一之を改革しなければならない。―御若い方々には一文銭と云ふものを御覧なさつた方がないかと思ひますが―。それから斯んなことではいけない。是は何とか百文だとか、是は千文だとか云ふやうなものゝ立て方と云ふものを拵へて置かなければ、とてもたまるものではないと考へました。しかし立て方を拵へても取扱ふのに因《(困)》る。そうすると銀行と云ふものがなければいかぬ。誰も銀行を知つて居る人はない。朝鮮人には何よりか一番先に銀行が必要である。そうして小さな立て方でも拵へて商売しなければならなぬ。然る所銀行を拵へてもただでは出来ませぬ。やつぱり大蔵省の御認可を受けなければならず、私は銀行の方は余り詳しくございませぬから、銀行だけを残して、外のことは兎も角も修好条約の基礎を築いて帰りました。それから銀行を拵へるに付て
 - 第16巻 p.642 -ページ画像 
友達の渋沢君に諮つて、斯う云ふ具合で朝鮮へ行つて見たがあすこへ銀行を開くと云ふことは大変よいと思ふ。お前さん一つ働いて呉れないかと話しました。そうすると第一銀行が其の当時に出来て居りまして、第一銀行の重役に渋沢君から相談した。所が此の重役殿は考へて朝鮮辺りへ銀行を拵へるのは不賛成だ。不賛成を言つた奴は誰かと云ふと三井組の永田真一《(永田甚七)》と云ふ人、小野組の雪岡譲此《(行岡譲此カ)》の二人が年番と云つて一年代りにやる、此の人々等が渋沢君の提案に承知しない。それだから困つた。朝鮮にはなければならぬものである。それをわからない奴が重役に居るから困る。お前と私と二人でやらう。仕方がなからう。それでは幾らの銀行を拵へるか、私はどうも金持でないからたんとは出せない。まあ五万円位の資本で銀行を拵へて行けば段々融通も出来たりするから、お互に二万五千円宛出して銀行を設立することにしやう。宜からうと云ふので五万円の資本で朝鮮釜山浦へ銀行を拵へました。是が始まりであります。所が、家がない。銀行をする家がない。長崎に私が持つて居つたのが西洋造りの小さな家であるけれ共、之を譲つてやらう。之を先づ第一銀行の支店としてやつて貰ふと云ふことに致しました。私は覚えて居りますが、長崎で私が持つて居つたと云ふのは西洋館のペンキ塗りの二階造り家で、之を朝鮮へ持つて建てゝ見たのであります。是が第一銀行の朝鮮に支店の出来た抑々の初めであります。それから第一銀行になつてから何や彼や銀行も随分苦しみました。品物を抵当に取つて居るのが焼けて損をしてしまつたと云ふやうな色々の事を経過して、第一銀行も大分長い間朝鮮でやつて居つて、其の結果がです今日の朝鮮銀行となりました。初め五万円で拵へたのが今では八千万円、余程発展したものでございます。成るほど考へて見ると朝鮮のことは我々にはどうも何だか趣味がある。朝鮮をよくしたい。又日本の古い所には余程関係があつたらしく見えまする。どうだか分りませんけれ共、そんなことを彼是考へて見ますると朝鮮の今日日本と同盟して一緒になつて、是から此の朝鮮を発展させやうと云ふことは大変に是は趣味のある、道理のある立派なる御考へと思ひますから、此の会をお拵へになつて朝鮮の前途の発展を望むと云ふことに就ては私共は満腔の賛成でございます。不肖ながら朝鮮には私は学校なんか拵へて居ります。是までも色々小さなことではありますが仕事も致して居ります。どうか皆さんと共に今日の御催しのことは飽くまで発展することを望みます。まだ今日は色々ありまするけれども、長くなりますから、山県さんの御言葉で御祝し下すつたのに対しまして、我々からも一同に代つて今日の御催しの御礼を申上げます。老生を御招ぎ下すつて有難く思ひます。玆に盃を挙げまして諸君の健康を祝しますと共に会の万歳を唱へたいと思ひます(万歳三唱)
   ○「大倉鶴彦翁」第四章四朝鮮貿易の先駆(第一〇一頁)ニ右ト同様ノ記述アリ。