デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 養育院其他
4款 岡山孤児院
■綱文

第24巻 p.270-288(DK240034k) ページ画像

明治32年5月14日(1899年)

岡山孤児院院長石井十次、孤児音楽隊ヲ率ヰテ上京ス。是日栄一、其ノ一行ヲ兜町ノ邸ニ招キ、幻灯会ヲ催ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三二年(DK240034k-0001)
第24巻 p.270 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三二年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十一日 曇
午前 ○中略 原胤昭・石井十次氏等来話ス ○下略
   ○中略。
五月十四日 晴
○上略 午後四時兜町ニ帰宿ス、石井十次・原胤昭氏等来ル、岡山孤児院ノ為幻灯会ヲ開ク、来会者数十名、石井氏孤児ヲ以テ組織セシ楽隊ヲ引連レ来リ、幻灯中孤児院ノ経歴ヲ説話ス、夜十一時散会ス
   ○中略。
五月廿三日 晴
午前石井十次・留岡幸助二氏来ル ○下略


竜門雑誌 第一三二号・第四〇―四一頁 明治三二年五月 ○同先生(DK240034k-0002)
第24巻 p.270 ページ画像

竜門雑誌  第一三二号・第四〇―四一頁 明治三二年五月
○同先生 ○栄一邸に於ける岡山孤児院の幻灯音楽会 青淵先生の百事繁務の傍教育慈善の事業に力を尽さるゝは、普ねく人の敬称する処なるが、此程岡山孤児院主石井十治氏の孤児音楽隊を率て上京せしに際し同先生は去る十四日夕刻其一行を兜町の邸に招かれ、親戚及知友を集め幻灯によりて同院の由来及ひ成蹟を聴聞せられたり、当日の来賓は清浦奎吾・小川滋次郎・三好退蔵・原胤昭・浦田治平・穂積陳重・阪谷芳郎其他数十名の諸氏にして、終て立食を饗応せられたり、席上来賓中同院の義挙に感して忽ち嚢を開きて喜捨せられしもの廿余円、又青淵先生には外に金百円を義捐せられしといふ


社会 第一巻第四号・第七七―八一頁 明治三二年五月 岡山孤児院(DK240034k-0003)
第24巻 p.270-273 ページ画像

社会  第一巻第四号・第七七―八一頁 明治三二年五月
    岡山孤児院
岡山ステーシヨンを東に去る三十余町、檀山の麓偕楽園に接する処、通称門田屋敷といふ、此れ岡山孤児院のある処となす。敷地三千余坪建物二十二棟、明治二十年の創立に係る、殆んど今に十二年、其間全国より孤児を之に収めて救済せる其数実に五百六名に至る、現員二百七十名・男百八十五名・女八十五名、此等を養育教化するの家庭と学校と実業部と其設備整頓、宛然一個の小社会大家族たり。嗚呼父なく母なく一家離散恃む所なき憐れむべき幾百の孤児は、此処に温かき家を得て教養せられつゝあるなり
憐れむべきかな孤児、彼等は父母の恃むべきなく、家庭の寄るべきなし。彼等を収めて教養せずんば彼等の運命は如何なるべき乎、頑是な
 - 第24巻 p.271 -ページ画像 
き可憐児は残冷なる社会に放浪するの止むを得ざるに至り、朝に本家の門に立ちて食を乞ひ、夕べに西隣の檐下に冷やかなる眠を結ぶ、遂には社会の暗黒界に沈淪し、不良の徒に交はり、罪悪の渦旋中に翻弄せられ、純潔真に罪なきの小児は、化して恐るべき罪人となり了せんのみ。盗賊殺人あらゆる犯罪は依て以て世に行なはる。嗚呼あはれむべきかな孤児、此等を教養する豈に社会の義務ならずとせむや。所謂天下無告の孤児、其未だ全く悪色に染まざるの幼時に於て、之を収めて家庭と教育とを与へ、社会の一箇人として必要欠くべからざる品性と智識とを供へしめ、各職業に就き家を為さしむ、実に此れ国家に於ける一大生産的事業といふべく。無告の民を変して国家の良民たらしむる、実に此れ一大美事と言はざるべからず。此れ即ち孤児院の設けある所以、而して我邦指を孤児院に屈する、先づ岡山孤児院を以て第一に置かざるべからず
養育部 岡山孤児院の家庭は先づ男子部・女子部に大別せられ、又幼年組(自六歳至十歳)・少年組(自十歳至十五歳)・青年組(自十五歳至二十歳)に小別せらる。而して此等各粗は又小部分に区分せられ、各々一個の家族を作り、凡て普通の家族と毫も異なる処なからしむ。入院の幼児は十中の九は薄倖を極めたる悲しむべき境遇中に生育せるものなるを以て、其身体概ね尩弱不活溌、従つて其精神状態畏縮し性質は偏癖なるを多しとす。又偸盗の習慣あり、之れ殊に注意すべき事に属す、此の悪癖や身体健康・精神活溌なる児女には見ることなく、必す身体の尩弱なるに伴なふものなり、蓋し其原因たる食物の欠亡に存す。孤児院に於て幼年を養なふ唯一の方法は、実に彼等の食欲を満足せしむるにあり、彼等の食慾を充たし又た不足を訴ふることなからしめんか、身体は漸々健康体に復し、従つて偸盗の悪癖も消え去らんのみ。偸盗の習慣は決して悪意あるに非ず、実に食慾を満足せしめんが為めの出来心に胚胎するものなり、去れば先づ彼等の食慾を充たすを以て第一となすべく、若し唯だ言辞を以てのみ之を訓戒せんとするが如きは、幼年教育に於ては甚だ其道を得ざるものといふべく、反へつて畏縮と偏癖とを増長せしむるに過ぎざるのみ。又た百中数名は最も恐るべき遺伝的偸盗の性質を有す、之に対する匡正法は口舌の上の説教何の効あるなし、唯だ児童間相互の共和的制裁力に由り、知らず知らず誘掖せらるゝを待つの外あらざるなり、同院多年の経験に由るに此れ決して難事にあらず只だ注意すべきは、此の如き悪児の新に入院するや、之を良好なる童児中に編入し制裁を受けしめ、悪児数人を同組に編入せざらん事を努めざるべからず、悪児数名相集まる、必ず党を為し、良好の童児に反抗し、制裁を無にするの恐れあり。之を要するに、孤児養育問題は簡単なる胃袋主義を以て解釈することを得べく、之に加へて自由放任主義を取り保護と干渉其当を失せず、畏縮と偏癖を去らしめ、彼等に欠損せる天真爛熳・放縦伸暢なる性質を勉めて発揮することに意を留めざるべからず。先づ体格の改良を以て始まる、其欲するに従ひ食はしめ、意に充つる限り遊ばしめ、十分に睡眠を貪ぼらしめ、何等の干渉を試みる所なく、此の如くして彼等の活溌なる身体と活溌なる精神とを与へざるべからず。此の如くして生育せる幼児は幼年組より少年組
 - 第24巻 p.272 -ページ画像 
に遷りて玆に始めて一定の教育を受くる時代に達せり、是に於て「学びし暇には学びて」といふ方針を取り、学校教育と労働教育を受けしめ、其の進歩発達に応じて家庭に於ける教養に注意し、以て彼等出院後、世に出づるの準備を作らしむ。少年組以上生徒の家庭に於ける時間表左の如し
 起床   五時
 朝飯   五時半
 朝集会  六時より七時迄(一時間)
 学校   七時より十二時迄(五時間)
 昼食   十二時
 労働   一時より五時迄(四時間)
 夕飯   五時
 着床   九時
 睡眠時間 九時より五時迄(八時間)
   以上の時刻は凡て喇叭を以て之を報ず
学校教育としては岡山孤児院(尋常高等)小学校及び夜学校あり、教師四名・助教三名、専ら教訓の任に当る。孤児院設立後三・四年間は六・七歳より小学校に入学せしめたるに、種々経験の上十歳以下の就学は大に身体の発育を害するものあることを発見し、然かのみならず学問上よりするも却つて十一・二歳より始めしむる方良結果(十五・六歳に至りて其学力を験するに)あることを見、是に於て幼年時代は全く遊戯に放任し、十一・二歳に至り身体の健全を待ちて就学せしむることはなせりといふ、小学教育を終はり其抜群なるものは、進んで之を高等なる学校に入学せしむ
実業教育――彼等をして労働の神聖なることを知らしめんが為めに実業教育は設けられ、毎日午後彼等はマツチ製造・活版・理髪・機業等種々の労働に従事す、女子の為めには裁縫科あり、「学びし暇には働きて」とは彼等の日常唱歌する処、而して彼等は実際之を行ひつゝあるなり、小学卒業は即ち孤児院卒業なり、是に於て彼等は各々確実なる農工商家に托せられ、適宜の職業を修得す、自活独立の道依て以て立つ
精神教育――幼年児を除き全院一同毎朝公会堂に会し、天父を拝し聖経の講話を聴講す、教師詢々或は偉人傑士の性行、古聖名賢の跡を談じ、敬天愛人の道を説く。各土曜には或は演説会或は音楽会の催しあり、彼等を慰め喜ばしむるの途を設く。小学校現在人員は尋常科一年生二十八名・二年生二十一名・三年生二十五名・高等科一年生二十九名・二年生二十四名・三年生十九名なりといふ
既に他の学校に入学せるものを挙ぐれば
 神戸女学院     三名
 名古屋金城女学校  一名
 東京女子学院    一名
 岡山尋常中学校   一名
 米国桑港      一名
尚来る九月他学校に入学の撰に当り居るもの、男子青年組に於て五名
 - 第24巻 p.273 -ページ画像 
ありとか
小学校の他に夜学校あり、既に高等科を卒はりたるものゝ為めに設けられたるものにして、将来に目的を抱けるもの、昼は実業部に労働し夜は此処に英学を研究す
維持法――院の経費は、一に内外有志者の臨時寄附金及物品と賛助員の収むる所の賛助金とに憑るものなり、賛助員とは一ケ年一円二十銭寄附するものをいふ、目下一ケ月の経費凡そ一千円、一ケ年実に一万二千円の多額を要す
孤児院と社会――社会の安寧幸福は教育の普及に依つて始めて持立す総ての社会問題、要するに教育普及によりて之を決することをうべきのみ。彼の出獄人保護事業に就き其当路者の言ふ処に由るに、犯罪の原因固より複雑過多なれども、其大部は無教育なことに帰着すること明なり。孤児院と貧民之を教育するの道を講ぜざらんか、必然彼等は悲惨なる生活を送らざるべからず、其結果罪悪を社会に流さんとす、嗚呼無告の孤児、社会は之を放擲顧みる処なくして可ならんや、彼等をして暗流中に空しく溺没せしむるに忍びんや。本邦に於ける貧児孤児其数詳細を調査し難きも大略六万以上にあらん。此等多数の児童は独り教育の恩沢に預からず、社会は彼等を追つて貧窶に沈溺せしめ、彼等を駆つて罪悪を醸成せしむ、嗚呼皆な此れ社会の罪ならずとせんや、今日全国の監獄署に繋留せる犯罪者実に八万を以て数ふ、余輩日本国民は此等犯罪者の為め年々四百五十万円の義務を負担しつゝあるなり、此に考へ至らば誰か誰れか貧民孤児教育の焼眉の急なることを言はざるものあらん。犯罪者を未発に防ぐと共に幾万の薄倖児をして幸福なる生活を遂げしむるは、実に此れ吾人の一大義務、社会の一大責任にして、這般の慈善的事業は尤も貴重せらるべき価値を有す。方今社会問題の声は起り来りぬ、然れども献身社会事業に尽砕するの勇あるもの寥々晨星も啻ならず。天下滔々理に走りて実に背き、利を見て義を顧みず、同情の冷やかなる氷の如し。社会事業は実に真率熱誠の士を待つて始めて全し、岡山孤児院長石井十次氏の如き十年一日其労其苦心実に又多とすべきなり、余輩は実に此の如き人を敬す
貴婦人と慈善事業――我が国の貴婦人が、社会事業に慈善事業に奮励せらるゝことの乏しきは既に大方の遺憾とする所なりしが、頃来岡山孤児院事業拡張の運動に貴婦人方の奮励せられしは、余輩の最も賞賛する処なり、聞く神田の青年会館に孤児院幻灯音楽会の催ふさるゝや貴顕紳士参観せるもの極めて多く、其切符料約千円を超過せりとぞ、発起人としては鳩山和夫令夫人・山脇玄令夫人・小崎弘道令夫人・松本荻江女史・下田歌子女史・渡辺筆子女史・女子学院長矢島楫子・東京婦人矯風会長瀬田千勢子等の名あり、賛成者には樺山令夫人・原六郎令夫人・板垣令夫人・片岡健吉令夫人・徳富猪一郎令夫人等の名あり、閨秀の此等事業に尽力奔走する、余輩は実に社会の為めに之を慶せんとす、岡山孤児院の事業は、江湖の賛成益広く其聘に応して着々其歩を進め、十四日の夜は渋沢栄一君の宅に、十六頃日には大隈伯爵邸に幻灯音楽会を催ほしたりとぞ

 - 第24巻 p.274 -ページ画像 



〔参考〕報知新聞 第七九三五号 明治三二年四月一六日 岡山孤児院(DK240034k-0004)
第24巻 p.274-275 ページ画像

報知新聞  第七九三五号 明治三二年四月一六日
    岡山孤児院
一昨十四日午後十時半新橋着の汽車にて、一隊の音楽士岡山より来れり、然れとも其服装の粗末なる到底今を盛りの府下少年音楽隊の粧ひに比すべくもあらず、且つ其身長・年齢さへ長幼相混じて風采区々なりしより、此や如何なる種類の音楽隊ならんかとて近所界隈見る人々の目を惹けり、是別人ならず岡山孤児院の院児の中にて予て組織の噂ありたる音楽隊なりしが、此より彼等は其音楽を都人の前に奏し、併せて其孤児院の状況をも説明せんとて来れるなり、固より横浜にも上州にも赴くべければ、日取には先後の別ある筈なれど
偖其岡山孤児院とは如何なる所ぞや、此には永き話あれば、先づ其創立以来に収容したる孤児の府県別並びに其総数を掲げんに
 岡山県  一三五      和歌山県   四
 広島県   二一      徳島県    一
 山口県    五      香川県   二三
 鳥取県   一一      愛媛県   一四
 島根県    四      高知県    四
 京都府   一三      福岡県    二
 大阪府   一三      佐賀県    二
 兵庫県   三〇      大分県    二
 熊本県    四      岐阜県   六六
 宮崎県   一〇      福井県    五
 三重県    七      新潟県    二
 愛知県   一一      北海道    一
 神奈川県   二      長崎県    二
 東京府    六      原籍不詳  六九
 群馬県    二
 滋賀県    五      合計   四七五
なり、我子一人を育つるさへ両親の辛苦は得も言はれず、子を育て始めて知る親の恩とぞ謂ふなる、然るに此大勢の幼児を引き取り来りて寒からず凍じからざる苦心の程如何ぞや、六才以上なれば乳添へ乳育む要は無けれと、謂はんも父を知らず母を知らず、将た郷党親戚にさへ棄てられて流れ流れて此の院に落ちん程の者は、其間に又其れ相応の悪僻に染み、罪過を侵し、何れ邪なる智慧にも長けたるべし、然るを正しき道に引き返さん教養の業難儀ならざるべきや、岡山孤児院は其無き父や無き母に代り、又は有る郷党の友親戚の人々に代りて此至難の労に服する所なり、岡山の名あるがために中に岡山一地の孤児を収むる所と思ふ勿れ、前表の示す如く広く広く天下の孤児を収むること是れ岡山孤児院の本領として、現に実行しつゝある所なり
然らば此孤児院の設立したる発起者、現に此院務を総理しある担当者は誰ぞや、石井十次とて慶応元年生れの日向高鍋の人是なり、然らば氏は如何にして此仁善なる事業に従はんと思ひ立ちたるや、又日頃富めりとも聞えざる氏は如何にして右多数の幼児を養育しつゝありや、
 - 第24巻 p.275 -ページ画像 
次の日に之を説明せん
 因に記す、右音楽隊の到着するや大日本婦人教育会は昨日午後一時より華族女学校にて其総集会を催ほせるを幸ひ、直に招聘して其奏楽を聞き、且つ席上にて戸川残花氏・正富寿氏より同孤児院の現状並に其歴史等の談話を聴きたりと



〔参考〕報知新聞 第七九三六号 明治三二年四月一八日 岡山孤児院(二)其手始め(DK240034k-0005)
第24巻 p.275-276 ページ画像

報知新聞  第七九三六号 明治三二年四月一八日
    岡山孤児院
    (二) 其手始め
先づ石井氏の孤児院事業に於る其天性に発すとや謂はん、去る二十年四月、氏は其脳病療養の傍ら実地医術研究のため岡山を距る五里、邑久郡上河知村太田氏の診察所に在り、其隣り太師堂の巡礼や乞食の宿泊する者少からざるより、氏は毎朝彼等を見舞ふを常の習ひと為し、同月二十日の朝に至り、此までに見も習れざる小供の浅間しき姿せるは何れ乞食にやあらん、兄妹二人相擁して打臥し居たるにぞ、徐かに憐憫の情を起し若干の食料を与へて帰れり、兄は八歳にして妹は五歳なりしと云ふ、然るに帰りて間もなく容貌窶れ身装いと賤しげなる四十前後の婦人、氏の許に訪ね来りて自ら太師堂に在りし兄妹の母なりと名乗り、先には御飯を恵み下されて有り難かりしと礼を述べ、尚ほ「私はもと備後の国葺田郡藤尾村で前原ツネと申す者なるが、家貧しきに子供多く、負債に責められ、故郷にも居られずなりしより、一昨年四国巡礼に参ると称し夫婦五人一家中伴れ立ちて四国に渡り、所々を流浪せし半ば夫と姉娘とは小豆島にて身逝り、残るは私共三人と為りて益々たよりなく、到頭落ち落ちて乞食までする今日の悲しき有様と為り、漸くに露命を繋げども今は又故郷を指して帰らんとする途中なり、若し私が身一人なら、又は小供も一人位なら随分人様の内に雇はれ、洗濯など致しても暮して行けますが、何を言ふにも小供二人となりては誰も嫌ふて雇ふて下さりません、去りとて子供を棄つる訳にも往かず、恥を忍んで乞食を致しまする訳ですが、特に兄の定一は強情ものにて言ふことを聴かず、妹は生れながらのイザリで碌に歩くことも出来ませんで、実に難渋致します」と涙乍らに語り、且つ「御情に甘へる様なれど、若し出来ますなら、此定一をお世話下さるまじくや」と訴へたるより、氏は日頃の感慨一時に発して快く之を諾したるこそ、是れ其此業に従事するの初めなりし、偖其日頃の感慨と謂ふは去る十九年の末より二十年の始めにかけ、英国ブリストルの孤児院長ミユラー氏が本邦に来りしことは今尚記憶する人あるべし、当時氏の演説中左の語ありたり
 一余は孤児一万人を救ひ現に二千余人を養育し
 二七十五の学校を維持し
 三内外国に向つて百四十人の宣教師を派遣し
 四今日に至るまでに合計六百六十万の大金を神より得たり、現に今回迄世界を漫遊すること五回なるが、其旅費も亦神に求めて獲たり、云々
是亦之を記憶する人少からざるべし、石井氏の感慨は著るしく此人の
 - 第24巻 p.276 -ページ画像 
此等の演説に刺激せられしなり、但し更に其初めに遡れば其前十八年の夏、氏は偶まスマイルス氏の西国立志編を読み、靴の破れ修繕師バウンスなる者靴の仕繕ひの間にも資用なき貧児を集めて教育するの項に至り、慨然志を発して己も此くならんとの誓ひを立てしなりと、天性に非ずと謂ふべけんや



〔参考〕報知新聞 第七九三七号 明治三二年四月一九日 岡山孤児院(三)悲惨の事実(DK240034k-0006)
第24巻 p.276-277 ページ画像

報知新聞  第七九三七号 明治三二年四月一九日
    岡山孤児院
    (三) 悲惨の事実
既にして氏の日誌に左の如き記事あり
余が上河知に於て定一を救ふや、或人来り告げて曰く、上河知より二里、南宝田と云ふ処に藤原嘉市と云ふ者あり、夫婦共甚だ慈悲心に富み、已に昨年のことなり、或巡礼の孤児二人を救ひ上げて自ら養育せり、君若し彼孤児を救ひ玉はゞ彼等の喜び如何ならんと、時に七月八日、余は一友人と共に藤原夫婦を宝田村に訪ひ、救済当時の事情を問ふ、細君泣て曰く
 昨年六月某日癩者の巡礼来りて、私は昨日讃州志度津浦より村人に逐はれ、小舟に乗せ田壷に送られたる十余人の四国巡礼者の一人なり空腹にて一歩も行く能はず、何卒一椀の飯を恵み玉はれと申すにぞ、妾は喜んで残飯を与へしに、癩者は殊の外に喜ひ且つ泣き且つ語りて私は此で生命を助かりまして難有う御座いますが、不憫なは同じ舟にて逐ひ払はれました夫婦づれの巡礼です、其の身は悪疫に侵されて一方ならぬ苦悶のうへに、マダ年少き二人の小供を伴れて居ましたが、今頃は如何に致して居りますかと涙さめざめ悄然として去りました、スルと二三日を経て夫嘉市大島より帰りて今日は実に悲惨らしい話を聞いた、讃岐から田壷に逐はれし巡礼の中に児連の病人ありしに、着港早々其夫は悪疫のために死し、其一日を隔てゝ妻も亦死に、当年二才の乳飲児と五才の兄と残されて何れも途方も着かぬ所から、乳飲児は成長の見込なければとて母親の棺につまみ入れたさへ無残極まる話であるのに、其乳飲児が棺の中でヅツガリ泣くのがうるさいと、軈て墓番が再びつまみ出し二人とも一所に浜の藁屋に棄てゝ仕舞つた、何でも今頃は九死一生の場合であらう、迚も助かるまいとの話であつたとのことに、妾は二・三日前の癩者の物語りを想ひ起してヒシと胸に感ずると共に不憫の念抑へ難く、今から田壷に行て其兄を救ひ上げやうと殆ど狂気の如くなりましたを、夫に止められ明旦にせよとの説諭に、暁くるを待ち兼ね急ぎ駆け付て見れば果して藁小屋ありて、中には兄なる小供が飢にもだゆる声も哀れの妹の腹を静かに撫でゝ居る時でした、妾は跳び入りて抱き上げしに、体は痩せて骨と皮とのみ、親の死虱此子に集まりしか、黒胡麻を撒きたる如く一面にはひつき、地の色見えざる程なりしが、妾伴れ帰らんとするや近所の人々出で来りたる中に、おときさんが其子を救ふなら、兄の方は拙者が助けて遣らうとて、富める某伴れ帰りたり
 後三十日妾此妹(名はやす)を伴れて兄なる加次郎の救はれし内に尋ね行きしに、加次郎は涙を流し喜びて「おやす、お前も月代を剃て
 - 第24巻 p.277 -ページ画像 
貰ふて立派に為つた、わしも此様に月代を剃て貰ふたよ」と何も分らざる小供に、亡き両親にでも物語りする様に語り聞かせる状のいぢらしさに一座皆涙に咽べり、暫くして妾がおやすを伴れて帰らんとするや、加次郎は今更おやすに別るゝに忍びず一所に伴れて行てと泣き叫ぶにぞ、妾も詮方なく伴れ帰りてより今は既に一年余りに為るなり
余は目に二人の孤児を視、耳に此物語りを聞き、一種言ふべからざるの感に打たれたりと



〔参考〕報知新聞 第七九三八号 明治三二年四月二〇日 岡山孤児院(四)食物の欠乏、断食(DK240034k-0007)
第24巻 p.277-278 ページ画像

報知新聞  第七九三八号 明治三二年四月二〇日
    岡山孤児院
    (四) 食物の欠乏、断食
石井氏又記して曰く
設立の当時より此日(明治二十二年九月廿四日)に至る迄満二年間、未だ曾て食物欠乏のことなかりしが、此日に至り遂に金つき米つきんとし麦も亦乏しくなれり、余(石井氏)は朝より独り裏なる墓場に赴き沈思黙祷、只管神の冥助を待てり、午後四時に至れども一厘の寄附金なし、於是余は鐘を鳴らし児童を呼集め、児童に対してお詫を述ぶ曰く「今夕は米も麦も乏しきにより粥を供す、ドウかそれにて辛坊しくれよ、是余が君等に謝する所なり」と、一人の児童をして童蒙道しるべ第三章を読ましめ、且つ曰く「今聞たる通り天の父様は児供の祈りを聞き鳥をして必要の物を与へられたり、吾等若し此信仰あらば神は必らず与へ玉ふべし、食後は一同心を合せて祈らるべし」と、食事已に済み日已に暮る、児等先づ出でゝ裏の墓場に在り、余も之に加はりて先づ祷れり、衆児次々に祷りて何れも至誠の間涙を灑ぎける半ばに、米国婦人二名門を叩きて来り、金三十一円を渡して曰く、此金は米国より孤児院のために送り来りし者なり、本日神戸より持参致せりと、一同之を聞き、驚いて且つ泣き且つ喜び、覚えず異口同音に神様は本当に活きて居ませりと叫びしが、是れ実に孤児院設立後の第一の困難なりし、偖此三十一円は米国紐育州カナンテグワの少年会より送り来れる者なり、該会の少年は概ね十歳前後なるが、平生其父母より与へらるゝ小遣ひの幾分を貯へ外国伝道の為に寄附するを此上なき快楽としけるが、一日岡山孤児院の事を聞くに及び、己等と年齢略同じ位の少年が此くも不幸の境遇に沈淪せる事を想ひやりては同情に堪へず、折柄已に外国伝道のために出金して嚢中の貯へ尽きたる際の事とて、或は父母の許に馳せ付て多少の金を請ひ受くるやら、或は玉蜀黍を貰ひ又は買ひ、之を煎り停車場に持ち行きて売るやら色々の苦心の上漸くにして集め得、時刻を移さず人に托して寄附したる者なりし
此る苦しき経験は一回に止まらず、遂に食つきて断食せしこと一日或は三日、最も長きは十二日の久しきに亘りたることも亦之ありしなり氏が此際の感慨、並びに其決心を述ぶるの辞に曰く
 非負債主義、即ち如何なる困難に遭遇するも負債せずとは是岡山孤児院財政上の主義にして、神は我等人類の天父にして、之に信頼する時は必らず天下の義人をして孤児院を助けしめ玉ふべしとの信仰に基く、是故に若し全力を尽して働き祈るも尚ほ必要の糧を与へ玉
 - 第24巻 p.278 -ページ画像 
はざる時は、我等は天父の懲戒と信じ断食以て此困難を忍び、仮令終に餓死するも不義の糧即ち借金或ひは懸にて得たる食を喰はざるの決心なり、故に之を一名断食主義或は決死主義と云ふ
と、用心の在る所を見るべし



〔参考〕報知新聞 第七九三九号 明治三二年四月二一日 岡山孤児院(五)信仰の歌(DK240034k-0008)
第24巻 p.278-279 ページ画像

報知新聞  第七九三九号 明治三二年四月二一日
    岡山孤児院
    (五) 信仰の歌
然りとて頑是なき幼童を相手に此困難に処す、孰れか堪へ難き迄の悲み歎きのあらざるべきに、氏が泰然として此主義を貫き進むの勇気、宗教上の信仰ある者に非ずんば如何んぞ能くせん「左の歌は予が信仰を告白せるもの、殊に困難に遭遇する時衆児と共に誦する所なり」と題する其信仰の歌に曰く
 嗚呼同胞よ兄弟よ   決して絶望すべからず
 罪の曇に蔽はれて   肉の眼に見えざれど
 我等を無より造りたる 天つ御父は永遠に
 限りつきせぬ愛を以て 汝さへ捨ずば何時迄も
 恵みの海に洗ひつゝ  千々の患難の中よりも
 唯信仰と祈祷とに   忍と云ふ字を加へつゝ
 奮ひ励みて進むべし  奮ひ励みて進むべし
           ※
 嗚呼同胞よ兄弟よ   如何に位は高くとも
 如何に財は多くとも  如何に知識は深くとも
 鼻より息の出入する  人を頼みとする勿れ
 広き宇宙の其中に   我等が力と頼むべき
 者は神より外ぞなき  神の言を楯として
 生命惜まず心より   神に従ふ人々は
 水の辺りの木の如く  仮令暑さは来るとも
 如何に旱りは続くとも 何の恐れも憂もなく
 其葉は青く枝繁り   時に至りて果を結び
 神の栄を千代八千代  後の世迄も顕さん
 後の世迄も顕さん
氏が晏如として断食の途に入る、其信仰堅しと謂ふべし、然ればこそ其業務は逐々捗取りて、十一年の歳月今や已に三千の敷地、二十有余の建物を有し、毎月一千円余の経費を投ずるを得るまで広大の組織と為り、孤児の中よりも海外留学者さへ出づるに至りしが、今其組織の一なる実業部の状況を示せば左の如し
 活版印刷部 岡山に在る者を本部とし、日向高鍋に支部あり、岡山のは活字凡百万・鋳造器械大小二台・ステロタイプ一式を有し、和英両文の印刷の求めに応ず、建物は巾七間長九間総二階の洋館なり
  共励館と称す支部のは、手引器械二台・活字十万
 理髪部 明治二十四年八月の創立にて、院内児童の理髪の外、外来者の求めに応ず
 - 第24巻 p.279 -ページ画像 
 機織部 巾四間長十七間の工場を有す、初めは木綿機一台(明治二十七年五月)なりしも、今は紋ネル織機三十台を据付
 茶臼原農業部 日向に在り、広さ五十町余、明治二十七年四月初めて青年六十余名を移し開拓に着手せしが、目下桑園五町・耕地五町・松林五町を作り、別に牛馬五頭を有す
 荻原精米所 同じく日向に在り、敷地三反三畝・建物四棟・精米器四台を据付け、蒸汽にて運転、一日玄米六十俵を仕上ぐるを得
  精米所に属する和船一隻あり、先日掲げし図の如し、八十石積なり、孤児院に必要なる薪炭・米麦等の運送を為し、第一孤児院丸と名づく



〔参考〕報知新聞 第七九四〇号 明治三二年四月二二日 岡山孤児院(六)院内の教育並に義務(DK240034k-0009)
第24巻 p.279-280 ページ画像

報知新聞  第七九四〇号 明治三二年四月二二日
    岡山孤児院
    (六) 院内の教育並に義務
然れど生命ばかり助くるが孤児院の目的にあらず、教育なき者の末始終こそ危ふくも又懼しけれ、親身も及ばぬ程慈愛の情を有する石井氏の赤誠は、決して此等の務めを等閑にする能はざるなり、教育部の組織を聞くに左の如し
一、小学校 院内に尋常高等小学校を設け、小学教育を施す、尋常科高等科とも各三年
 年齢は十才にして始めて就学し、十五才にして終る
 (此く十才を待て始めて就学せしむるは、経験上氏の是なりとする意見あるに本づく)
 時間は午前七時より正午十二時迄とし、十二・三才以上の児は午後一時より五時迄(四時間)男児は活版或は理髪或は燐寸或は麦藁真田製造等に、女子は裁縫或は洗濯・機織等に従事せしむ
一、夜学校 已に小学校を卒業して、尚ほ本院に留まり昼間専ら活版或は理髪或は裁縫・機織等に従事する者の為めに設け、午後六時より八時まで二時間づゝ適当の学校を教授す
一、毎朝の集会 毎朝六時より七時迄の一時間、孤児院公会堂に全院の集会を開き、礼拝・説教・報告等を為し、家族的親交を温め、専ら精神を修養す
一、演説会 毎土曜日の夕同じく会堂に集まりて演説会或は音楽会を開く
  (此時の彼等の愉色得も言はれざる状ありとは如何にも然もありぬべし、想ひやるだに床しく楽しき感じの躍るを覚ゆるなり)
一、遊学生 百人中一人或は二・三人抜群の学才ある児女あり、為に学費を別に求め他の高等学校に入学せしむ、現今遊学生六名あり
以て其大要を察知すべし、尚ほ此外に音楽教習の一科あり、現に此度来京せる音楽隊の一行の如き其卒業生なり、明治二十六年の創立にかかり、二十九年八月陸軍々楽師三谷種吉氏教鞭を執られしより、一際の整々発達を見るに至りしと云ふ
シテ其入院の手続は如何、真に無告の孤児又は事情之に均しき貧困の児女あらば(六才以上十二才以下)早速同院宛問合さるべし、承諾を
 - 第24巻 p.280 -ページ画像 
経たらば原籍写及び市町村役場の証明書を付して(原籍不明ならば其由を認めて)同院宛送附するのみ
退院の手続は、尋常高等小学校を卒業したる時原籍地へ帰すか、又は本人の希望により院内の実業部又は他の農工商家に預くるとのこと
退院後の義務は、何も契約上の義務なし、但し道徳上の関係は何日の年にか消えん
右の如き者は内部の組織を窺ふべき津梁なり、簡単と謂ふべく周到と謂ふべく、一道親切の意気始終を貫通するに至ては、記し来つて唯感服の次第なり



〔参考〕報知新聞 第七九四一号 明治三二年四月二三日 岡山孤児院(七)其維持並に賛助員法(DK240034k-0010)
第24巻 p.280-281 ページ画像

報知新聞  第七九四一号 明治三二年四月二三日
    岡山孤児院
    (七) 其維持並に賛助員法
とは云へ十年の維持何ぞ容易ならん、今日あるを得せしめたる者之を要するに臨時寄附金の力なり、今其創立以来昨年末迄の収入計上を聞くに左の如し
 一金五万三千四百七十六円四十八銭一厘    総収入
    内訳
  金四万三千八百五十一円六十二銭三厘    寄附金
  金九千二百四十一円六十八銭四厘      各実業部収入
  金三百八十三円十七銭四厘         雑収入
即ち其総収入の中凡そ十分の九は内外人の寄附に俟てる者なり、寄附此の如し、寄附多からずや、且つ已に四百七十五人の生命も活かして之をして人と為り略ぼ物の道理を弁へしむ、其力も亦大ならずや、然も其内訳を聞くに左の如し
  金三万三千四百三十四円四十七銭九厘    外国人寄附
  金一万四百十七円十四銭四厘        本邦人寄附
即ち其四分の三は全く外国人の寄附に成る者なり、此内訳を聞く者誰か外国人の慈善の志に敦きを喜ぶと共に、併せて本邦人の間に此る公共的観念の未だ甚だ盛ならざるを恨みとせざるべき
同院の記録に書して「此莫大なる外国有志者の寄附金の大部分は、米国宣教師ペテー氏の手を経て来りしものなり、ペテー氏岡山に在ること殆ど二十年、其後半十年間は多く其時間を吾が岡山孤児院のために費せり、吾が岡山孤児院の今日あるペテー氏の功多きに居る」とあるは、争ふべからざるの事実余儀なき次第なり
偖、既往は此の如し、今後は之を如何にせん、今後も亦内外国有志者の臨時寄附金品に多く依頼すべきは同院成立の性質上自然なるべきことなれど、既に土地を有し財産を有し又事業を有すること前述の如くなる同院が、寄附金の外又自ら助けて自ら活きんとするもの至当の事なり、今後は実業部の収入金と基本金の利息金と、並びに賛助員の賛助金とに頼らんとすること亦其既定の維持法なりと云ふ
又其賛助員の賛助金とは如何なる者なりや、事の序に説明し置かん
    岡山孤児院賛助員法(一名三厘三毛法)
 一、本院の目的を賛成し毎月金十銭ヅヽ寄附する人を賛助員と称す
 - 第24巻 p.281 -ページ画像 
 一、寄附金は毎月本部或は支部或は各地の地方委員より集金者を巡廻せしめて領収す 一、賛助員には毎月発行の岡山孤児院新報を進呈し、院況を報告す
  賛助員は左の書式の申込ありたし
 拙者儀貴院の目的を賛成し賛助員と為り、自今毎月金十銭ヅヽ寄附可致候也
  年月日                 住所姓名
    岡山市門田屋敷岡山孤児院御中
毎月一人につき十銭、三十日に割当つれば一日三厘三毛づゝに当る、故に此別名あり、夫れ一日僅に三厘三毛余なれども賛助員若し一万人に達すれば一ケ月三千円と為り、以て三百人の孤児を養成するを得べく、若し若は十万人の多きに達せば以て三千人の多きを養ふを得べし其効大ならずや
あはれ此記事を読む者の中に、一人にても賛助者の起らんことは報知記者の願ひとする所なり、読者の慈仁なる、其人必らず一人に止まらざらん(完)



〔参考〕慈善 第三編第一号・第二一―三〇頁 明治四四年七月 岡山孤児院経営談(院長石井十次)(DK240034k-0011)
第24巻 p.281-287 ページ画像

慈善  第三編第一号・第二一―三〇頁 明治四四年七月
    岡山孤児院経営談 (院長 石井十次)
 岡山孤児院長石井十次氏は、感化救済事業講習会に於て二十余年間の長き経験に基き、孤児教養に関し、各種の方面より極めて趣味ある講演を試みられたるが、今其中より同氏が目下実施しつゝある数項を摘録することゝなせり。
岡山孤児院は、明治廿年の四月二日に一人の順礼の子供を拾ひましたが本でありまして、今日まで二十三年六ケ月の間に丁度二千五十五名収容致しました、只今岡山と日向の茶臼原と、そして大阪の三ケ所でやつて居りまして、現在の生徒は合せて六百六十二名、毎月の経費が約二千円程掛ります(中略)
△義務教育後の始末 私の考では、義務教育が済んだならば一日も孤児院に置くのは宜くない、長く孤児院に置くのは利益でないのでありますから十三・四才になると農家に徴兵検査まで預けます、商売の方の者は京都・神戸・大阪の間に連れて出まして、自分で田舎から大阪に出て来て自分の腕で仕上げました様な実業家を選びまして、其な方の家に預けるのであります、して或は職工或は商売人さういう風にやつて居りますが、併ながら百人の卒業生の中で八十人は百姓に適当な者が多いのでありまして、あと二十人は商店或は工業職工家に預けるということに今日までの比例はなつて居りますが、成るべく私の方針は百姓にした方が宜いといふことを考へて居ります、只今二百三十人の者を農家に奉公さして居ります、それから京阪神に三十人、其外段段東京辺にも来て居りますが、唯今六十人程商工業家に奉公して居ります、中等以上の教育を施すといふことをやつて見ましたが、どうも是は私の実験では、孤児に中等以上の教育を施すといふことは早過ぎると思ひます、普通の者が中学校を卒業しても何でもないのでありますが、孤児院の子供に中学校を卒業させると、博士にでもなつた如く
 - 第24巻 p.282 -ページ画像 
になり易いといふ傾嚮があります。それで
△三代教育 私は三代教育といふことを主張するのです、自分一代で出精するとかいふことはいかぬ、矢張り天地間に住んで居る間は、春夏の気候の如く順序を追ふて自分の孫の時代に理想の収獲をする、お父さんやお祖父さんが商売人であつたならば商売人になつたら宜からう、或は大工とか何とか手の利くやうな者は工業家に宜からう、親は働け、子は学べ、三代目には小作人が地主になるといふことを聴かせまして、成るべく学問といふことは身を誤るの本である、学問してはいけないといふのではありませぬが、さういふやうな風に実地自分が働いて子供を教育して孫の時代に本当の人間を造るといふことを始終勧めて居るのであります、なぜさういふことになつたかと言ひますと私は孤児院を始めました頃には貧賤豪傑を出すといふ言葉がありますから、天下の孤児貧児を集めて教育したならば余程えらい者が出来るであらうと、実は教育万能主義を信仰して居つたのでして、教育さへすればどんな者でもえらい者になると考へて、十年の間教育しましたが、第一回に卒業生を出した時に、同じ部屋に住まつて同じ物を喰ふて同じ学校に通ふて、さうしてどうなつたかといふと十人が十人皆顔の違ふが如く皆違つた人間になつて来て、教育の力は決して全能ぢやなくして僅か二分位の力しかない、さうすると大部分は何であるかといふと遺伝である、代々の遺伝力といふ蓄積力が出来て居るのであつて、其事を根本にして将来の子供の方針を考へてやらぬと大失敗するといふ事を感じました、中には子供のお祖父さんが或藩の家老であつたといふやうな子供も居りますが、さういふ子供は字を書かせましても立派に書きます、書物を読ませましても立派に読みます、ちつとも骨折らずして勉強が出来る、又お父さんが石屋であつたといふ子供は小さい金釘を以て旨い具合に石に穴を明ける、百姓の子供が牛馬を飼ふと馬があとについて来るといふ様に、どうしても遺伝を研究して其子供が持つて来て居る性質を土台にしてやらないと本当の教育が出来ないといふことが分りまして、それから子供の遺伝研究、親は何をして居つたか、お祖父さんは何をして居つたか、出来る限り町役場とか村役場とかに手紙を出したり色々して、子供に付いて十分研究してそれから子供の傾向を調べて、さうしてお前は百姓が嗜きぢやから百姓が宜からう、又其親なりお祖父さんなりが学問に関係があつたといふ人は、矢張り中等の学校に入れて教育をしてやる、さういふ具合に何でも自己発展といひますか、嗜きてこそ物の上手なれで、嗜いたことをやるが宜いといふことにして、其子供の前途に付いて一々一人々々顔の違ふやうに個人研究を家庭でも学校でも又私の所でも致しまして成るべくさういふやうな方針を以てやる、で岡山孤児院では、学校教育といふことはそれでありますから段々実験上重きを置かずして、矢張り成るべく実業で自分の腕で額に汗して、正直に働く人間を造るといふ方針でやつて居るのであります、明治三十八年に朝鮮に行つて見ましたが、西洋人の方々が段々朝鮮人の教育に付いては、其実験談をしたのを聴きましたが、朝鮮人を教育するとどうも生意気になつて薩張り詰らぬ者になつて来る、余り中等以上の教育をさせずして、乃ち
 - 第24巻 p.283 -ページ画像 
労働を本位にしてぼつぼつ教育をするといふことにしないと朝鮮人を誤る、是は果して其説が正当であるか不正当であるか申しませぬが、矢張りさういふやうな実験談をして居る人がありました、其時は私は教育万能主義を以て孤児を教育してはいけないと思ふて居りました時で、さういふことを聴きまして大に自ら感じたのでありました。どうしても段々一代二代三代と順序を踏んで進化しなければならぬ、それでありますからして今日の岡山孤児院で採つて居ります方針は、十三で義務教育を終えまして、同時に女の子は成るべく奥さんの善い良家庭を平生から調べて置きましてこちらから頼んで預ける、さうして嫁入するまで使つて戴きまして、其給金を溜めて置きまして嫁入の仕度をさせる、さうして一方には家庭見習をさせるといふことを致して居ります、男の子は曩に申しましたやうに農業的の者は農家、工業的の者は工業家、商売人の方は商家に預ける、徴兵検査が来ますと徴兵検査を受けて入営する者は入営する、不合格の者は其処に止まつて居るなり、外に転じて金を溜める、廿五ぐらゐで百姓は農業の独立をする商売人は商売の独立をする、或は活版屋とか靴屋とか廿五・卅位で、矢張り孤児院で成長しまして家庭見習に行つて居ります嫁入仕度の出来て居ります者と結婚させて家庭を造る、さうでない者もありますが大体さういふ方針でやつて居りますのであります、唯今九州の茶臼原の原野に十二軒独立農村が出来まして、子供も廿人程孤児院の孫に当るのが出来ましたが、其処に行つて見ますと始めて長い間の苦心が玆に実現して居るかと、私共始め皆孤児院に関係のある者は非常に愉快に感ずるのであります、畑を一町、水田を五反、桑畑を一段乃至二段馬を一匹乃至二匹持つて、朝から親は働け、子は学べ、三代目には地主になるといふことを言ふて働いて居るのでありますが、唯今農家に二百卅人程預けて居りますから、五年乃至十年の後には少なくも百戸の農村が出来るのであります、それが出来上りましたならば、始めて私は理想点に達したと言つて宜からう、それまでは是非十分やつて見たいと思ふて居ります、百戸の農村が出来ますると、始終話して居るのでありますが、あなた方は孤児院で一人前にして貰ふに十年掛つたとして、一年に六十円掛つたとすると六百円の費用を負ふて居る者であなた方夫婦が独立が出来る様になつて、もう少し生活に余裕が出来る様になつたならば、自分の子は勿論、一人宛孤児院の子を預かつて貰ひたい、さうするとあなた方の御恩報じも出来るし、養はれる子供も幸ひである、今は十二軒の農家でも、百戸になつた時に二人づゝ預かれば二百人である、二百人位の孤児を百戸の独立農村で養育する様になつたならば、岡山孤児院が無くなつても天下の孤児は理想的に養はれ教育されて行くやうになる、と言ふて話して居るのでありますが教育上の方針は是までの実験と、現在やつて居りますことゝ、将来何処までもやつて行かうといふ考のあることは、唯今御話申しましたやうな訳であります。
△主婦の撰択 主婦を得るのにどういふ人が宜いかと云ふと、是は皆さんも御実験の方がありませうが、是まで私の経験致して居りますのでは、どういふ人を選ぶかと云ふと、第一に年齢が三十才以上四十才
 - 第24巻 p.284 -ページ画像 
前後、二十五才以上位でも宜いやうではありますが、一番宜いのは三十から四十前後の人が宜いと思ひます、身体の丈夫な方で、余り難儀をした事のない人が宜いやうであります、ちよつと普通から考へると反対のやうでありますが、理想から言へばお父さんもお母さんもあり兄弟もあり、家庭も裕かで円満であり、何も自分は此世の難儀に逢ふたことがないといふ人が、孤児院のお母さんとしては極適当であることを実験して居ります、なぜかといふと、ちよつと考へますと小さい時から両親を失つて非常に難儀をした方は孤児に同情があるかと思ふと、実際余り難儀に逢ふた人は同情心は麻痺するかどうか、温かくない、何もあなた方は斯ういふ孤児院があつたから仕合せだが、私共の難儀した時はなかなかこんな者ではなかつたといふやうになつて、同情が反対になるやうでありますから、私は主婦の候補者が出ますと、お父さんやお母さんはありますか、是までの経歴はありますかと段々御尋ねして、身体の丈夫な、さういふ経験もない、本当に親が亡くなつたらどんなに辛らからうかといふ同情心を持つて居る人に注意して居ります、また其理想を言へば結婚したこともあれば子供も出来たけれども、不幸にして良人も死亡くなり、一人の息子も亡くなつたといふやうな方であつて、さうして両親があつて、お前はもう一遍再縁せいと両親から言はれるけれども、自分は何処までも孤児の為めに尽したいといふ特別の考を持つて居る方がありますが、さういふ方が一番理想的の方であります、けれどもさういふことは余程むづかしうございます、必ず難儀した人が悪いといふのではありませぬが、大体から言へば非常に難儀した人でも、唯其人々の性質に依るので、非常に温かな美質を持つて居る方であればそれは何も申分はないのでありますそれから主婦の方には斯ういふ印刷物を渡すのであります。
   児童中心 不変不動 早眠早起 共炊共食
岡山孤児院の主婦の職に就きます時に、謄写版で刷りました印刷物を免状でもありませぬが、渡すのであります、真四角でありまして斯う書いてあります、此何れか一つの角が欠けると三角になるのでありまして、主婦の四角(資格)を失ふといふ意味であります、早眠早起の反対は晩くまで起きて居つて朝寝をすること、それから一諸に御飯を炊いて一緒に御飯を喰べる、それを子供に炊せて、後とでうまい物を喰ふということになると三角になります、不変不動、孤児院の庭に松の木が植えてあります、是は主婦の方に始終言ひますが、松の木は不変不動である、お母さんも出這入りするやうなことがあつてはならぬ何事も児童中心でなくてはならぬ、それで段々一年二年三年と子供と一緒に勤める中に、晩くまで起きて居つて朝寝をするとか、子供に飯を炊かしてうまい物を喰ふとか、始終出て歩いて自分の結婚のことばかりを考へて居るといふやうな人には、之を三角にして渡すのです、
 - 第24巻 p.285 -ページ画像 
さうすると其時に孤児院との関係が絶つ、此四角を守つて居りますれば孤児の世話は立派に出来ますし、満三年位経ちますと親子の情が深くなります、満三年までは名は表面には書いてありませぬが、主婦の候補者でありまして、三年経つた者は、本当の主婦と致すのであります、何事も岩の上にも三年と言ひますが、満三年経ちませぬと、どんな教育のある人でも孤児院の主婦としての熟練がありませぬのみならず、三年の間には弱くて帰る人もあり、何かの事情で辞する人もあつて、大低三年で一段落を告げるのであります、幸ひにして今日孤児院に居りまする方々は大抵満三年以上経過した方々でありまして、近来は何も申しませぬでも、大抵自然に行けるやうになりまして、非常に喜んで居るのであります。
 それから食事などの経済はどういふ風になつて居るかといふと、岡山では一人前三円であります、茶臼原の方では一人前二円、是が児童一人前に付いての養育料と雑費であります、此金をどうするかといふと、此金はお母さんに渡すのであります、主婦は之を受取つて孤児が十人でありますから三十円、それを以て衣食住は勿論、十人の者の頭の先から足の先きまで髪油・揚子・歯磨までも含むのであります、それから各家庭の周囲に一家庭に付いた菜園畑があります、菜園を作ることの上手な人は野菜を買はずにすみますから、其野菜代は女の子ならばかみ油を買ふてやるとか或は着物を買ふてやるとかするのであります、十人預かつて居つて三十円の金で足らなかつたならば、一箇月に一人の主婦に対して五円の手当金を払つて居りますが、其五円の金の中で腹を切らなければならぬ、経済の下手な方は、始終沢山もない中から腹を切つて困つて居る方もあります、其中には熟練して、うまい具合に経済の繰廻しが出来るやうになります、今頃は米が高くなりまして随分主婦の連中が困つて増税問題が出て居るのでありますが、其中には又米が廉くなりますから、問題も無くなるであらうと思ひます、それから学校の費用は三円の外に、月に五銭づゝ一人前として渡すのであります、それで総て学校に必要な文具をお母さんから買ふて貰つて使ふのであります、或は石筆が無くなつたから石筆を買つて貰ふとか、或は手帳が無くなつたから手帳を買つて貰ふとか、家庭で買つて子供に与へるやうにして居ります、初めは学校の方で文具だけは供給するやうに致して居りましたが、どうも物を粗末にする習慣が起る、余程孤児院の子供は物を粗末にすると一般に言はれますから、さういふ弊を矯める為めに家庭に於て主婦が買ふてやるといふことにして居ります、病気の時には今は子供が少なくなりましたが、多い時分には医者も看護婦も薬局も院内にありましたが、病人も減りましたから病院に入れるということもありませぬので、開業医者の所に連れて参つて施療して下さる所は施療を願ひ、施療をして下さらぬ所は薬価を払ひまして、余り足らぬ所は臨時に会計の方から補給することになつて居ります、是でそれならば孤児の養育といふことは理想に達したかといふと、どうもまだ理想には達しないのであります、三十八年の五月以来入院児童の年齢を変へました、それまでは入院児童の年齢の制限は六才以上といふことにして居りましたが、三十八年からは六才
 - 第24巻 p.286 -ページ画像 
以上といふ字を削りまして、十二才以下とし、近来は十才以下として居りますが、乳飲児より十才までの子供ならば入院を許すといふことに致しまして、それから里児制を実行したのであります。
△里児制度の採用 丁度三十八年の八月に孤児院の門の前に一人の棄児がありまして、之を収容した後どうしたならば宜いかといふことを考へました、英国のバーナード孤児院のバーナード氏などは里児制を主張して居られますのですが、遂に岡山県の農家を探しまして里児制度を実行致しました、丁度三十八年の五月以来、五月四十五名里児に預けまして、現在は丁度八十名里児に預けてありますが、是は一人に付いて衣食費共金四円づゝ金を出して、農村に預けることにして居ります、さうして一ケ月に一遍養育料を払ふ時に事務員が参りまして、其家庭を訪問して健康の状態を能く見て、目方を掛けるのであります例へば十一月は体量七貫五百、十二月は七貫六百といふ風に、体量を掛けて参ります、それを持つて帰つてずつと見て行く中に、段々体量が殖えて行けば宜いでありますが、減つて行くならば何か、子供に本来の病気があるか、或は里親の方で不注意であるか、それを研究して地方の学校へ校長とか、お医者さんとか、村長とか、助役といふ方に地方委員を頼んで置きまして、其人々に監督を依頼して置きます、さうしてあの家は子供を虐待していかないと言へばそれを変へるといふ風に注意して居ります、其結果はどうであるかといふと非常に宜いのであります、而して一年に一回里児大会を致しまして、里親を孤児院に招きます、朝参りまして晩に戻りますが、色々御馳走したりして帰へすやうになつて居ります、それから学齢に達すると、昨年までは孤児院に連れて帰りまして、孤児院で教育することにして居つたのですが、どうも里親から孤児院に帰つた時の活き活きした子供の状態が、孤児院の家族制度の中に引取つて世話することになりますと、里親の愛護の下に成長して居つたやうな活き活きした、色艶の宜い、無邪気な、実に子供らしい点が段々無くなるのみならず、其里児から帰りました孤児が里親を慕ふて、小さいながら一里も二里も逃げて行くのもあります、又里親が返しました後に、非常に別れが悪くて夜も寝ずしてどうも眠られませぬから、養育料は要りませぬからと言つて連れて行くのもある、又さういふ訳に行かぬ、引取ることは引取りたいが貧乏で養はれないが、どうも子供が見たい、子供が見たいと言つても勝手に見ることも出来ぬから、塾舎の前の方の森の中の木の蔭に隠れてさうして向ふの方で自分の預つて居た子供を蔭ながら拝んで帰るといふ親もあります、それで本年からは里親に預けて置いて、其里親の膝元から所在の学校に通はせることに致しましたが、里親も喜び、其子供も喜んで居ります、私は玆に至つて始めて救児事業の理想点に達したと感じて居るのであります、田舎に行つて見ますと金は有つても何があつても、どうも自分の実子が無いといふやうな家庭も沢山ありますが、両親を失ふた子供がこの子供の無い家庭に預けられるといふことに達して、本当の自然ではありませぬが、殆ど自然に近い理想に達するのである、此間内務大臣が孤児院に御出になつた時に、私は内務大臣に御話致しました、日本に於ける救児制度の理想は里児制度であ
 - 第24巻 p.287 -ページ画像 
る、どうしても段々やつて見ましたが、現在の孤児院の制度がすつかり廃止されて、さうして親の無い子供は子供の無い家庭に預けられて殆ど自然に近い養育を受けるやうになりますれば、本当の理想に達したのである、私は此処まで是非達しさせたいと思ふ、丁度病院の目的は病院が無くなるのが目的であるが如くに、孤児院の目的は孤児院が無くなつた時に始めて其理想に達するのである、もう一つ保育事業の問題に付いて申上けたいと思ふて居りましたけれども、時間が参りましたから是だけに致して置きます。           (完)



〔参考〕社会主義者となるまで 安部磯雄著 第一四八―一四九頁 昭和七年二月刊(DK240034k-0012)
第24巻 p.287-288 ページ画像

社会主義者となるまで 安部磯雄著  第一四八―一四九頁 昭和七年二月刊
    第十二章 岡山時代
 岡山孤児院  我国に於ける社会事業として最も古きものゝ一つは岡山孤児院であると思ふ。其創立は私が岡山に赴任して間もなきことであつた。岡山孤児院の創立者は石井十次であつて、私は其創立当時から関係して居た。石井は岡山医学校の学生であつたが、熱烈なる基督教信者であつた。博愛とか同胞兄弟とかいふことには殊に感激したものと見へ、学生の身でありながら、乞食の子供三人までも拾ひ上げてこれを養育して居た。其以前には自分の学資を貧乏なる学生に与へ自分は毎晩按摩をやつて学資を得たといふ逸話もある。一たび三人の孤児を世話するやうになつてから、彼はこれが天より与へられた自分の使命であると感じた。彼は医学の研究を恰も古靴の如く脱ぎ捨て、孤児院の設立に一路邁進した。私の住居せる家の附近に一の寺院があつたので、石井は其一部を借りて孤児院を創立することになつた。私も援助者の一人で、機会ある毎に各地に於て岡山孤児院の宣伝をするのみでなく、寄附金の募集をもなした。私の日誌によれば、明治廿一年一月には愛媛県地方に旅行し、各基督教会に訴へて寄附金の募集をなした。孤児院の収容人員は著しく増加し、従つて其名も広く国内に知れ渡るやうになつた。従つて多くの経費を要することになつた。石井の経営法は幾たびか変更されたのであるが、初めて斯る事業を企てた彼に取りては実に已むを得ぬことであつたかも知れぬ。其当時英国のブリストル市にあつたシユーラーの孤児院は、可なり有名なものであつた。彼シユーラーは唯神の助けを祈るのみで、一切人々に向つて寄附を仰ぐことをしなかつた。石井は此話に感動され、一時寄附金募集を中止して熱心に神に祈つた。後には又一切寄附金を謝絶することになつた。其理由は次の如きであつた。孤児が寄附金で生活するといふことは彼等の品性を傷つくるものであるから、各自何等かの労働によりて生活の途を求めなければならぬといふのであつた。此思想の結果として後年日向の茶臼原に於て農園を設け、年長の孤児を其処に送ることにした。私は昭和六年五月初旬九州遊説の途次宮崎県にも立寄り、宮崎から妻町に赴く際自動車の窓から僅に茶臼原農園の一部を見た。今は農園も衰微して昔の面影なしといふことを聞き、寂寞の感に堪へなかつた。石井は更に次の如きことを考へ出した。如何程親切に孤児を養育しても、彼等が孤児院に居る限り、彼等に家庭の温味を与
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へることは出来ない。此欠点を除くためには、幼児を信用ある家庭に里子として依託する外はないといふことで、孤児院が養育料を負担することになつた。斯の如く石井は種々独創的考案によりて孤児院を経営したのであるが、不幸にして彼は遂に大志を懐きながら此世を去つた。其後経営難に陥り、已むなくてこれを閉鎖するに至つたことは遺憾に堪へない。 ○下略