デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.249-317(DK250009k) ページ画像

明治35年7月2日(1902年)

是日栄一、ニューヨークヲ発シテイギリスニ向フ。十日リヴァプールニ着シ、即日ロンドンニ入ル。二十五日ロンドン商業会議所ニ抵ル。同会議所ハ栄一ノ為メ特ニ臨時総会ヲ開ク。栄一我国経済界発達ノ状ヲ述べ、且ツ漸次清・韓両国ニ向ツテ事業ヲ拡張セントスルヲ以テ、イギリスノ協同戮力ヲ求ムル旨ヲ演説ス。夜、ロンドン市長サー・ダムズ・デール主催晩餐会ニ臨ム。三十日ロンドンヲ発シテスコットランド周遊ノ途ニ上ル。八月七日再ビロンドンニ入リ、十九日ロンドンヲ発シテ大陸ニ渡ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250009k-0001)
第25巻 p.249-263 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年       (渋沢子爵家所蔵)
七月二日 晴
午前七時ヨリ旅装ヲ整ヒ告別ノ為メニ来会スル各人ニ接待シ、十時旅宿ヲ発シ海岸ニ抵リ、マゼスチツク号ニ乗組ム、此汽船ハホワイトスター会社ノ客船ニシテ、噸数壱万〇百噸《蒸気ノ馬力》ナリト云フ、船室及食堂・書籍室其他各部ノ設備装置極テ高尚ナリ、正午出帆シテ紐育府ヲ煙霧ノ中ニ残シテ大西洋ニ出ツ、此日天気快晴風ナク船聊モ動揺セス、一行共ニ快ヲ呼フ、蓋シ十数日紐育府車馬熱閙ノ地ニ在テ、種々ノ調査又ハ訪問・饗宴等実ニ寸暇ナカリシガ、今日此清浄安寧ノ旅行ヲ為スニ至リテ殊ニ心神ヲ安静スルヲ得タリ、夜ニ入ルモ船ノ動揺ナク一同相集テ快談セリ
七月三日 晴
此日モ風ナクシテ船安静ナリ、読書ニ消閑スルノ外一ノ記スヘキコトナシ夕方ヨリ曇リテ夜ニ入リテ微雨来ル
七月四日
朝来小雨且冷甚シ、船少シク動揺ス、午後船室ニ在リテ平臥ス、然レトモ食事ヲ廃スル迄ニハ至ラサリキ
七月五日 曇
朝ヨリ雨歇ミ風モ減シタレハ船ノ動揺モ亦減ス、依テ甲板上ニ出テ散歩シ、又ハ書籍室ニ於テ読書ス
七月六日 曇
昨日ト同シク天気朗晴ナラス、然レトモ風少ク船穏ナリ、読書ト散歩ニ終日消光セリ
七月七日 雨
昨夜ヨリ小雨来レトモ、風ナキヲ以テ船ハ動揺セス、終日読書又ハ談話又ハ散歩シテ閑ヲ消ス、時々風帆船ノ本船ニ近ク〓行スルヲ見ル
七月八日 曇
 - 第25巻 p.250 -ページ画像 
雨歇ミタレトモ雲多シ、殊ニ米国出立ノ頃ヨリ冷気更ニ増シテ寧ロ寒冷ヲ覚フ、航行ハ安静ナルヲ以テ、終日読書ト散歩トニ勉ム
 八日夜船中《(欄外)》ニ於テ乗客中ノ催シニ係ル音楽会アリ、兼子・梅浦及西河嬢等皆出席シテ演技ス
七月九日 曇又雨
天候昨日ト同シク時々微雨ノ来ルアリ、午前十一時頃ヨリ船室ニテ御国行書状五通(篤二・佐々木・大橋・阪谷・添田)米国行(高平・内田・長崎・堀越)四通ヲ裁ス、午後一時英国アイルランド中ノクエンスランド島ニ着船ス、船客此地ニ下ル者上中乗客ニテ概略弐百名余アリ、暫時碇舶ノ後〓行ヲ始ム、海上波ナクシテ船平穏ナリ
リバフール港名誉領事英人某ヨリ書状ニテ、同地着ノ後其家ニ一泊ノ事ヲ申来ル、依テ電報ニテ其厚意ヲ謝シ、且同港ヘハ一泊セサル旨ヲ答ヘ遣ス、倫敦渡辺専次郎氏ヨリ電報来ル
七月十日 曇
午前四時頃リバプール港ニ着ス、七時朝飧ヲ為シ尋テ埠頭ノ桟橋ヨリ上陸ス、日本郵船会社支社長ゼイムス、根岸練次郎、ブラオン、三井物産会社関其他数名来リ迎フ、午前八時半発ノ汽車ニテ直ニ倫敦ニ向ケ出発ス、倫敦ヨリ迎ノ為メ来港セシ諸氏皆同車ス、時ニ天候稍晴ニ近クシテ、冷気大ニ減スルヲ覚フ、汽車中両沿ノ田園ヲ一覧スルニ米国ト其趣ヲ異ニス、殊ニ汽車ノ装飾及取扱向モ全ク相違スル所アリ、軌道布設工事堅牢ニシテ整頓セル実ニ驚クニ堪ヘタリ、午後一時倫敦着、ホテルコーボルグニ投宿ス、一行中市原・八十島及西河嬢ノ三人ハ同宿シ他ハ別ニ旅宿スル事ト定ム、着後暫時休息シテ、直ニ林公使ヲ公使館ニ訪ヒ面会シテ種々ノ用談ヲ為シ、午後六時帰宿ス、本邦ヨリ来状数十通ヲ落手ス
七月十一日 晴
午前九時渡辺専次郎氏来ル、市原盛宏ヲ伴フテ、渡辺氏ノ嚮道ニヨリ市中ニ出テ郵船会社・三井物産会社・大倉組・高田商会・領事館等ヲ歴訪シ種々ノ事務ヲ弁ス、郵船会社ニ於テハゼイムス氏誘引シテ各事務室ヲ案内シ、其執務ノ順序ヲ説明セラル、午後一時市中ニ於テ午飧シ、更ニジヨンボルチ会社ヲ訪ヒ、四時頃帰宿ス、此日ホテルヨリ市中ニ往復スルニ地下電気鉄道ニ搭ス、其設備極テ完全シテ乗客賃ノ低廉ナル感スルニ堪ヘタリ、午後ステツト氏夫妻来ル、明夕慈善会ノ出品陳列アルニ付、兼子ニ同伴ヲ勧ム、午後三時ヲ約シテ去ル、根岸練次郎氏来ル、夜公使館一等書記官松井氏来話ス
今朝サミユールサミユール、シヤンド、ケスウエツキ、ジオレー、倫敦商業会議所会頭等ヘ名刺ヲ送リテ来着ノ事ヲ通ス、又英国公使ヨリ本邦ニテ受取タル外務大臣・市長・商業会議所会頭及ロードレブルストツク氏ヘノ添書ヲ送付ス
 [此日本邦留守宅《(欄外)》、及横山徳次郎ヘ書状ヲ発ス
七月十二日 晴
午前根岸練次郎来リ、衣服新調ノ為メ同行シテ仕立屋ニ抵ル、十時ジヨンボルチ会社ホーナー氏来ル、九州鉄道・北越鉄道ノ社債ニ関スル要務ヲ談ス、午後シヤンド氏来ル、久濶会見ノ悦ヲ述フ、更ニ来二十
 - 第25巻 p.251 -ページ画像 
三日ノ会見ヲ約ス、サミユールサミユール氏来ル、来ル十六日夜招宴
ノ事ヲ約ス、午後三時ステツト夫人母子来リ、兼子・西河嬢共ニ慈善会ニ赴ク、午後仏国本野公使・林・井上二氏・白耳義加藤公使・諸井六郎・独乙鍋島桂次郎氏等ヘ同国巡遊ノ事ニ関シ書状ヲ発ス、午後七時小室三吉氏来ル、此日高等商業学校出身ノ人ニテ倫敦在留ノ諸氏、余カ為メニ一会ヲ催フシ招宴スル旨曾テ渡辺専次郎氏総代ニテ申出ラレシカ、今日七時半ヨリカツフヘー〔   〕《(欠字)》ニ於テ開宴スルニ付、迎ノ為メ来訪ス、依テ萩原源太郎・八十島親徳二氏ト共ニ其宴ニ赴キ食後渡辺氏ヨリ挨拶アリ、畢テ余ハ、我邦経済上ノ将来ニ関スル意見ト、学問ト事業トノ関係ニ付テノ意見、又米国漫遊ニ付観察ノ概要ヲ述ヘ、終ニ高等商業学校ニ関スル近況ヲ縷述ス、一同大ニ満足ノ由ニテ種々ノ雑談ニ渉リ、夜十二時散会、帰宿ス
七月十三日 晴
午前九時セントポール寺院ニ抵リ、日曜日ノ例祭ヲ見ル、此日ハ伝教師任命ノ事アル由ニテ別段ノ儀式アリ、十二時帰宿、暫時休息シテ午飧ヲ為シ、午後二時ヨリハイデパークヲ馬車ニテ巡遊シテ、後ブリチスミユゼームニ抵リ、宇宙各国ノ古器物ヲ見ル、此博物館ハ英国政府ノ管理ニ属シ、其家屋ノ構造壮大ナルノミナラス、器物ノ収集・陳列ニ至ルマテ頗ル博ク且整頓セリ、別ニ書籍室アリテ万巻ノ書ヲ貯フ、実ニ其設備ノ壮大ニシテ具備スル只敬服ノ外ナキナリ、一覧後リゼントパークニ抵リ動物園ヲ一覧ス、園中ノ花卉紅白各妍ヲ呈ス、鳥獣各種ノ動物中獅子・虎・象・海象・海馬一名《(河)》ヒポボタムス・麒麟・縞ノ斑紋アル馬、又ハ蛇・鰐ノ類頗ル珍奇ノ観アリ、一覧畢テ午後五時過旅宿ニ帰ル、此日同行セシハ兼子・市原・萩原・八十島及西河女ノ五名ナリキ
七月十四日 晴
午前二・三ノ本邦人来訪セラル、印度人ゼーエンタタ氏及ホマンジー氏来話ス、十二時過陸海軍人会合スル倶楽部ニ抵リ、サーウエリヤムビセツト氏ニ会見ス、共ニ午飧ヲ為シテ九州・北越両会社々債ノ事ヲ談話シ、午後二時シチイニ抵リ、ベヤリング銀行ニ於テロードレブルストツク氏ニ会見ス、談話数刻ニシテ更ニ廿四日ヲ約シテ去ル、午後四時過リゼントパークニ抵、日本協会ニ於テ催シタル園遊会ニ出席ス林公使、英人デオシーシヤンド、ミツチヨル等凡ソ我邦ニ在住セシ人士悉ク来集シ、頗ル盛会ナリキ、庭園ノ中央ニテ日本楽隊アリテ終始奏楽ス、午後六時過帰宿ス、此夜公使館一等書記官松井氏来話ス
七月十五日 晴
午前林公使来ル、種々ノ要務ヲ談話ス、此日ハ風邪気ナルヲ以テ旅宿ニ在テ休養ス、倫敦商業会議書記長《(所脱)》モーレー氏来ル、来ル廿五日会議所ニ於テ会頭其他会見ノ事ヲ約ス
 十五日午後六時《(欄外)》マダムツーソーニ於テ蝋細工ノ人形ヲ見ル、古代帝王及政事家等悉ク具備ス、尤モ精工ナリ
七月十六日 晴
午後二時ケスウエツキ氏来ル、支那鉄道ノ事ヲ談話ス、更ニ午後三時荒川総領事来話ス、来ル廿一日来会ノ旨ヲ約ス、午後八時サミユール
 - 第25巻 p.252 -ページ画像 
サミユール氏ノ招宴ニヨリテ、サヴエート称スル料理店ニ抵ル、林公使夫妻来会ス、外ニ英人男女六・七名、食卓上ノ設備割烹共極テ美善ヲ尽セリ、夜十一時宴散シテ帰宿ス
七月十七日 晴
午前二・三ノ来人アリ、午後一時シチーニ抵リサミユールサミユール商会ヲ訪問シ、マークスサミユール、サミユールサミユール及ミツチヨルノ三氏ニ面会シ、京釜鉄道社債ノ事ヲ談ス、来廿二日ミツチョル更ニ来リテ詳細ニ談話スヘキ事ヲ約ス、午後三時過帰宿シ、直ニ同氏ニ書類ヲ送付ス、午後五時正金銀行支店長青木鉄太郎氏ヲ其家ニ訪フ一行ノ者皆同行ス、青木宅ニ於テ日本料理ノ饗応アリ、畢テキリスタルハレース、所謂水晶宮ニ抵ル、此夜同地ニテ花火打揚ノ事アリ、九時頃ヨリ場内種々ノ細工火ニテ粧点シ、且打揚花火・仕掛花火等頗ル壮観ナリ、観客来集スル者無慮二・三万人ナルヘシ、実ニ広大ノ場内モ立錐ノ地ナキニ至レリ、倫敦都府人口ノ稠密以テ知ルヘキナリ、夜十一時帰途ニ就キ、汽車ニ搭セシモ多人数ニテ汽車ノ進行自由ナラス夜一時過帰宿ス
七月十八日 晴
午前九時過旅宿ヲ発シ、ビクトリヤ停車場ニ抵ル、蓋シ此日ハ日本郵船会社ヨリ案内ニテ、テイムス河ノ下流、船艦碇泊所一覧ノ為ナリ、先ツ汽車ニテ一ノ停車場ニ抵リテ車ヲ下リ、碇泊所内ヲ一覧ス、畢テ此日倫敦ヲ出帆スル鎌倉丸ニ乗組ミ、更ニ下流ニ航行シテ一ノ大碇泊所ニ抵リ、鎌倉丸ヲ下リ再ヒ一昨日此地ニ来着セル常陸丸ニ搭シテ午飧ス、畢テ汽車ニ乗組ミ午後四時帰宿ス、午後七時林公使ノ招宴ニヨリテ公使館ニ抵ル、兼子・市原同行ス、渡辺子爵父子来会ス、夜飧畢テ種々ノ談話ヲ為シ、夜十一時帰宿ス
七月十九日 曇
午前十時林公使ヲ其館ニ訪ヒ要務ヲ談ス、帰途渡辺子爵ヲ其旅宿ニ訪ヒシモ不在ナリキ、午前十一時印度人ゼーエンタタ氏ヲ其寓居ニ訪ヒ款談数刻ニシテ帰宿ス、午飧後ライシアム劇場ニ抵リ、人肉売買ト称スルセツキスヒーヤ著作ノ演劇ヲ観ル、俳優中ノ首坐ハアービント云フ人ニテ、極テ堪能ナリト云フ、アービンニ亜ク女優ヲテイレート云フ、男女二個ノ老優此劇場ニ於テ著名ナリキ、午後五時過曲畢テ帰宿シ、夜食後更ニヒポドロムト称スル曲芸場ニ抵ル、軽技・手品・自転車・楽隊等種々ノ演芸アリテ、最終ニ伊国ノ強盗ト題スル曲ヲ演ス、其男子ノ衣服ハ古代ノ野武士トモ云フヘキ風采ニテ、女子ハ舞踏ノ衣服ナリ、其数六・七十人、相集リテ舞踏スルアリ、又馬車ニテ良家ノ女子婚儀アルヲ強盗等之ヲ掠奪スルノ体ヲ為シ、最後ニ場中ニ一面ノ水ヲ注入シ人馬其水中ニ没スル等、実ニ目ヲ驚カスモノ多シ、曲畢テ午後十二時帰宿ス
七月二十日 曇
午前九時三十分旅宿ヲ発シパーチントン停車場ニ抵リ汽車ニ搭ス、蓋シ此日ハ在倫敦我邦各商店ノ人々ヨリ、テームス上流ニ於テ川遊ノ興ヲ催フシ、余等ヲ饗スル為メナリ、来客ハ林公使夫妻・渡辺国武子父子・余等一行ナリ、又主人トシテハ渡辺専次郎・青木鉄太郎・門野重
 - 第25巻 p.253 -ページ画像 
九郎(根岸練次郎ハ病気ニテ欠席ス)・柳谷某、及郵船会社雇外国人等合計二十四・五人ナリ、汽車一時間計ニシテテームス河辺ニ達ス、夫ヨリ馬車ヲ僦フテ数丁許ニシテ河岸ニ抵リ遊船ニ乗組ム、遊船ハ電気ニテ航行スルモノニシテ極テ美麗且愉快ナリ、河ノ両岸ハ倫敦人士ノ別荘多ク、種々ノ草花妍ヲ競フ、河ノ上流ニ従ヒ処々ニ閘門アリテ船ヲ通ス、蓋シ水流充分ナラサルカ為メ閘ヲ以テ水ヲ高メテ船ヲ通スルナリ、船上流ニ遡ルコト凡弐十哩計ニシテ転シテ下流ニ就キ、再ヒ汽車ニ搭シテ倫敦ニ帰リシハ午後六時ナリ、此日船中ニテ午飧シ、時々甲板ニ上リテ四方ヲ眺望シ、又ハ船中ニ在テ放談スル等頗ル豪遊ナリキ、倫敦帰着ノ後林・渡辺両人ト別レ、渡辺専次郎氏ノ案内ニテ三井倶楽部ニ抵リ、日本料理ノ夜飧ヲ饗セラル、夜十時過帰宿ス
七月廿一日 曇
午前十時ステツト氏来話ス、八十島親徳通訳ス、午飧後三時市原盛宏氏ヲ従ヒ外務省ニ抵リ、外務大臣ランスダウン卿ニ面話ス、四時テームス河岸ナル議会一覧ノ為メパーリメントニ抵ル、兼子及他ノ一行モ来会ス、上下両院ヲ一覧シテ六時過帰宿ス、此日サミユールサミユール商会員ミツチヨル来話ノ筈ナリシモ、差支アル由ニテ明後日来話ノ旨電話ニテ来報セラル、夜食後兼子・西河・八十島等ト市中ヲ遊歩ス
七月廿二日 曇
午前十時ケスウエツキ氏来ル、支那鉄道合同ノ事ヲ協議ス、益田氏ヨリ上海ニ於テ英国シンヂケートノ代人タルエングリス氏ヘ申込タル書面ノ写ヲ交付スルノ約束ヲ為ス、ケスウエツキ氏ハ来ル廿四日ヲ以テ会議ヲ開キ、本邦人加入ノ事ヲ議決シテ後確答スヘキ旨ヲ答フ、十一時モリス来ル、氏ハ明治ノ初年ニ本邦工部省ニ雇ハレタリシ人ナリト云フ、来ル廿五日ヲ約シテ去ル、十二時サーウエリヤムビセツト氏来リ、鉄道抵当会社債ノ事ヲ協議ス、市原盛宏通訳シテ将来制定セラルヘキ法律案ノ逐条ヲ調査シ、九州鉄道ニ関スル手続ト北越鉄道ニ於ルノ手続トハ、鉄道会社ノ信用上多少ノ差違アルニ付、種々ノ説明ヲ為ス、同氏充分之ヲ領意ス、談話中共ニ午飧シテ午後三時過辞シ去ル、三時二十分旅宿ヲ出テ地下電車ニテシチーニ抵リ、三井物産会社渡辺氏ヲ訪ヒ、共ニチアターバンクニ抵リグワイサー氏ニ面会ス、本邦財政上・経済上ノ既往・将来ニ対シテ同氏ヨリ種々ノ質問アリ、依テ二十七・八年以来ノ経過ヲ陳述シ、且将来ノ企望ヲ述フ、更ニ談柄ヲ転シテ、銀貨問題ニ関シ余ヨリ質問ヲ試ム、又倫敦銀行者間貸借取引ニ付抵当貸ト無抵当貸トノ区別ニ関シ種々ノ質問ヲ為シ、株券抵当ノ取扱方及支店監督ノ方法ヲ諮問ス、同氏ハ諄々之ヲ説明セラル、其意見頗ル実着ニシテ、傾聴スヘキモノアリ、畢テ午後六時辞シ去ル
市原盛宏ヲシテ領事館ヲ訪ヒ、来ル廿五日倫敦商業会議所ニ於テ演説スヘキ趣旨ニ関シ、領事ト協議セシム
午後八時ロヤルオペラヲ一覧ス、此夜ノ演芸ハ埃及古代ノ王ト王妃トニ関スル曲ノ由ナレトモ、歌曲ハ了解スルヲ得ス、只舞台ノ壮麗ナルト演芸ノ高尚ナルトヲ認メタルノミ
七月二十三日 晴
午前十時ステレー氏来話ス、氏ハ先年篤二・穂積等来遊ノ時篤二ニ英
 - 第25巻 p.254 -ページ画像 
語ヲ教ヘシ因故アル人ナリ、閑談一時間計ニシテ去ル、十一時ミツチヨル氏来ル、過日内話セシ京釜鉄道会社々債ノ事ニ関シ種々ノ談話ヲ為シ、明日中ニ同氏ヨリ必要条件ヲ記載シテ送付スヘキ事ヲ約シテ帰ル、十二時前旅館ヲ出テ兼子・市原・西河嬢ヲ伴ヒ、シヤンド氏ノ宅ヲ訪問ス、氏ハ倫敦在ニアルクリスタルハレースノ近傍ニ居住ス、ビクトリヤ停車場ニ於テ汽車ニ搭シ行程七・八哩ニシテ達ス、シヤンド氏停車場ニ迎ヘテ共ニ其家ニ抵ル、午飧後銀行業務ニ関シ、種々ノ質問ヲ為シ、午後四時過ヨリ更ニシヤンド氏ト共ニ徒歩クリストルハレースニ抵リ、曩ニ兼子等馬車ニテ市街ヲ遊歩シテ後ハレース中ノ一室ニ休憩スルニ会シ、是ニ於テシヤンド氏夫妻ト分袂シ、五時半発ノ汽車ニ搭シ六時半頃帰宿ス
此夜、来ル廿五日倫敦市長ノ宴会及商業会議所会員ノ集会席ニ於テ演説スヘキ趣旨ノ筆記ヲ調査ス、外国事務宰相ランスタウン侯ヨリ、各地商業会議所ヘノ添書ヲ寄送セラル
七月廿四日 曇
午前九時半ボルチ会社ホーナー氏来ル、鉄道会社社債ニ関スル要件ヲ談話ス、午後更ニベヤリング銀行ニ於テ面会ノ事ヲ約シ、去ル十時過前ノ長崎在留領事ロングホール氏来ル、明日商業会議所ニ於テ集会ノ事ヲ申聞ケラル、且長崎港ヲシテ、自由貿易場タラシムルノ意見ヲ述フ、又税関倉庫ノ不便ニシテ其保管料ノ不廉ナルニハ、商業者ノ苦情アル事ヲ告レ《(ケカ)》ラル、大倉喜七郎来ル、明日ヲ約シテ去ル、松尾鶴太郎来ル、アルムストロング造船所ヨリ余ヲ招待云々ノ事ヲ告ク、午後一時前市原盛宏ヲ伴ヒ日本郵船会社ニ抵リ、根岸練次郎ニ面話ス、一時英蘭銀行ニ抵リ総裁ニ面会ス、且行員ノ案内ニテ紙幣製造局印刷ノ順序、交換紙幣ノ保管方法、金庫内地金保存ノ景況及出納局一日ノ小出シ貨紙幣取扱ノ順序等ヲ一覧ス、此日一覧セシ金庫ニ保存スル金塊ハ概略三千万円以上ノ高ナレトモ、只一個ノ金庫中ニ在ルモノヲ示セルノミト云フ、又一日ノ小出シ貨幣ノ高ハ弐千万磅ヲ要スト云、以テ如何ニ其出納合計ノ大高ナルヤヲ推知スヘキナリ、畢テ行内ノ書籍室ニ於テ午飧ス、総裁・副総裁及ベヤリンク社長ロードブルストツク、ビセツト諸氏来会ス、食後更ニ営業局・簿記局等ヲ巡覧シ、最後ニ公債株券類ノ利札渡シニ供スル一室ヲ一覧ス、英蘭銀行ヲ辞シテ直ニベヤリングニ抵リ、ビセツト及ホーナー氏ト共ニ、鉄道抵当社債ノ談ヲ開ク、然レトモロードレブルストツクハ余カ九州・山陽両鉄道会社ヨリ正式ノ委任状ナキヲ以テ、電報ニテ之ヲ受クルノ手続ヲ注意セラル、蓋シベヤリンク銀行ニ於テ爾来顧問法律家ニ再三ノ調査ヲ為サシメ、法律ノ点ニハ概略同意セシニヨリ、以テ社債ニ関シテ予約セント思惟セシ為メナリト云フ、依テ両会社ヘ発電シ其回電ヲ得テ後談判スヘキ事トシテ辞シ帰ル、旅宿ニ帰リテ後林公使来ル、是レ今朝人ヲ以テ面会ヲ請求セシ為ナリ、会談暫時ニシテ我外務省ニ発電ノ手続ヲ協議ス午後六時ホーナー氏来ル、今日ベヤリングニ於テ談話セシ社債ノ事ニ関シ、利率ト発行価格ノ事ヲ詳話ス、是レ此問題中最以テ重要ノ件ニシテ、縦令法律上ノ事ハ妥議スルモ、利率折合ハサレハ電報往復ノ手数モ其要ヲ見サルニヨリ、切ニホーナー氏ニ之ヲ示諭シ、明日ベヤリ
 - 第25巻 p.255 -ページ画像 
ングニ抵リ内話セシムル事ト定ム、此夜兼子・西河嬢・市原・八十島等トアルスコードト称スル覧観場ニ抵ル、海軍士宮松尾其他ノ諸氏ニ邂逅ス、場内種々ノ遊戯アリ、又古代衣服ノ変化ヲ示ス為メ生人形ニ類スルモノヲ作リ、歴史的ニ人文ノ発達ヲ示スモノアリ、又庭中ニ大池アリテ其側ニ船ヲ捲上クル器械ヲ装置シ、上辺ニ至レル船ハ直下シテ水中ニ浮フノ仕掛アリ、士女争フテ之ニ乗ル、頗ル活溌ノ遊戯ナリ其他種々ノ絵画又ハ玩具ノ売品等多ク陳列セリ、一覧畢テ夜十二時頃帰宿ス
七月廿五日 曇
午前十時モリス氏来ル、氏ハモーニンクポストト称スル新聞紙ニ関係アル由ニテ、余カ英国観察ノ意見ヲ問ハル、依テ本日午後当地商業会議所ニ於テ陳述スヘキ意見書ノ英訳ヲ送付スル事ヲ約ス、午後二時過市原同行、倫敦商業会議所ニ抵リ、当日ノ会頭ケスウエツク氏・書記長モーレー氏ニ面会シ、誘レテ会場ニ抵ル、会員参会スル約四十人余席定リテ会頭ヨリ余ヲ会員ニ紹介ス、依テ一揖シテ後一場ノ演説ヲ為ス、畢テ会頭・会員等種々ノ意見ヲ述ヘ四時頃散会ス、当日ノ手続ハ記録シテ別ニ存ス、散会後サミユール商会ニ抵リ、ミツチヨルニ面会シテ京釜鉄道会社々債ノ件ヲ談ス、然レトモ妥議ニ至ラス、再会ヲ約シテ去ル、午後四時三十分帰宿、五時ホーナー氏来ル、ベヤリング銀行談判ノ事ヲ協議ス、明日内談シテ其摸様ヲ通知スル筈ニテ分袂ス、午後七時兼子・市原同行、倫敦市長ノ案内ニ係ル宴会ニ出席ス、来会スル者三百十八人ナリト云フ、市長来客接待ノ手続、食事中酒盃献酬ノ方法等頗ル古風ヲ存ス、而シテ割烹ハ美善ヲ尽セリ、夜十一時散会帰宿ス、此夜重ナル来賓トシテ大蔵事務宰相ヒツクスビーチ氏及ゴーシヨン子爵・英蘭銀行総裁其他二・三ノ演説アリ
七月廿六日 晴
午前十時ステツト氏来リ、明後日午飧ヲ饗スル事ヲ告ケ、且韓国財政上ノ意見ヲ談ス、京釜鉄道会社々債ノ件ニ関シ、日本外務省ヘ電報ノ件ニ関シ、公使館ニ托シテ之ヲ発送ス、午後元治・萩原等来ル、五時根岸練次郎氏ヲ訪ヒ日本料理ノ饗応ヲ受ク、昨日同氏来リテ今夕ノ会ヲ約セシニヨル、夜深マテ雑談シテ帰宿ス
七月廿七日 雨夕晴
午前八時四十五分、倫敦ビクトリヤ停車場ノ汽車ニテ、メーストンナル、サーマーカスサミユールノ別業ヲ訪フ、十一時頃同地停車場着、サミユール氏ハ其男児ト女子トヲ以テ余等ヲ迎ヘ、馬車ニテ其別業ニ案内ス、兼子・市原・西河嬢同行ス、別業ノ結構頗ル壮大ニシテ、庭園ノ広キコト驚ニ堪ヘタリ、総坪数六百ヱーカーアリト云フ、而シテ種々ノ喬木多ク、庭園ノ路傍ニハ美麗ノ草花妍ヲ争フ、湖水アリ魚多ク潜ムト云フ、樹木ノ間ニ牛・馬・鹿・羊数百頭ヲ畜フ、芝生中ヲ徘徊シテ尤モ風情アリ、温室数棟アリ、百花競フテ開ク、又多ク菓物ヲ培養スル所アリ、室内ノ粧飾至テ古色アリ、馬車小屋ニ抵レハ馬車・馬匹多ク具備ス、総テ美麗ト壮大ナルニ一驚ヲ喫シタリ、主人夫妻及サミユールサミユール其他男女児一同相会シテ款待ス、午後二時午飧シ、三時四十五分発ノ汽車ニ搭スル予定ナリシモ、四時十五分ノ汽車
 - 第25巻 p.256 -ページ画像 
ニテ帰宿ス、夜書類ヲ調査シ、且ボルツ会社ニ出状ス、渡辺専次郎氏三井高清氏来話ス、明後日スコツトランド行ノ事ニ関シテ協議シ、且ツケスウエツク氏ト往復ノ事ヲ談話ス、元治来ル、スコツトランド行ノ事ヲ談ス
七月廿八日 曇
午前十時ゼーケスウエツク氏来ル、久濶ノ情ヲ談話セシ後、其兄ケスウエツクト相談セシ支那鉄道ノ事ヲ依頼ス、今夕ウエイリング倶楽部ニ於テ夜飧ノ事ヲ約シテ去ル、午後一時サヴイレストランニ抵ル、ステツト氏ノ招宴ニ応スルナリ、食事中老ステツト氏モ来会シ、政事上社会問題等種々ノ談話ヲ為ス、午後三時帰宿ス、サーウエリヤムビセツト氏来リ、ベヤリング会社ロードレブルストツク氏ト談話ノ顛末ヲ報ス、明日会社ニ抵リ会談ノ事ト定ム、午後五時スヘンサー伯来ル、一別以来ノ交情ヲ話ス、午後八時ウエイリングトンクラブニ抵リゼーケスウエツク氏ノ招宴ニ出席ス、兄ダブリユーケスウエツク及オルター氏モ来会ス、食事中支那条約ニ関スル事ヲ談話ス、十時過帰宿ス
七月廿九日 晴
午前九時半公使館ヲ訪ヒ、浮田書記生ニ面会シテ、公使ヘノ伝言ヲ托ス、又松方正作氏来英ノ際加藤公使ヨリ来書ノ事ヲ伝言セラレン事ヲ托シ、電報回答アリタル時ノ手続ヲ依頼ス、午前本邦発ノ書状数通ヲ裁ス、午後二時市原盛宏ヲ伴ヒ三井物産会社ニ抵リ、東京益田孝氏ニ井上伯支那行ノ如何ヲ問合セノ発電ヲ依頼ス、市原氏ヲシテベヤリンクニ抵リ、ロードレフルストツク氏ニ談話セシム、午後四時過帰宿、書状ヲ裁ス、五時染谷成章来ル、慈善ニ関スル事柄ノ調査ヲ依托ス、九州鉄道会社仙石氏ニ電報ヲ発ス、此日本邦ヘノ書状ヲ裁ス、佐々木勇之助・篤二・阪谷・小村外務大臣・尾崎・日下両氏、仙石貢・渡辺嘉一・大川平三郎・平沢道次・斎藤峰三郎・益田孝等ヘ発送ス
七月三十日 晴
午前九時半倫敦ノ旅宿ヲ発シ、ユーストン停車場ニ抵リ英国北部行ノ汽車ニ搭ス、汽車中ニテ午飧シ、午後二時半リバフール港ニ着ス、一行中清水泰吉ハ事務調査ノ為倫敦ニ止リ、三井物産会社渡辺専次郎氏同行ス、リバフール着ノ後穀物取引所及一般商業者集会所ヲ一覧ス、畢テ電気鉄道ニ搭シテ繋船所及倉庫ノ概況ヲ一覧ス、又穀物ノ倉庫ヲ一覧ス、此倉庫ニ入荷スルハ都テ俵装セサル小麦・大豆ノ類ニシテ、其取扱方極テ壮大ノ仕掛ナリ、畢テ又電気鉄道ニテ市街ニ抵リ、工業学校ヲ一覧ス、午後七時発ノ汽車ニテリバプールヲ発シテ八時過マンチスター着、クエンスホテルニ投宿ス
七月三十一日 晴
午前九時旅宿ヲ発シボルトンニ抵リ、ヂヨンマスグレーブ造機工場ニ抵リ、主人ノ案内ニテ各部ノ工場ヲ一覧シ、畢テ一紡績工場ヲ一覧ス午後一時再ヒ汽車ニテオルドハムニ抵リ、プラツト紡績器械製造工場ヲ一覧ス、同工場ハ二十年前ヨリ我邦ニ於テ紡績事業創始ヨリ、其製造ノ器械ヲ多ク購入スルヲ以テ頗ル款待セラル、渡辺専次郎氏案内ニテ同工場ノ人々数人、余等一行ヲ誘導ス、地金鋳造場ヨリ鋳物鍛冶・木工其他各部ノ工場ヲ一覧ス、午飧モ工場内ニテ饗応シ、其食卓上ニ
 - 第25巻 p.257 -ページ画像 
於テ、渡辺氏日本ニ帰ルヲ送ル為メ一ノ銀器大盃ヲ造リ、此日之ヲ渡辺氏ニ披露ス、且会社重役ヨリ一場ノ謝辞演説アリ、渡辺ヨリモ答辞アリテ各其盃ヲ以テ一巡ノ献酬ヲ為ス
プラツト工場一覧畢テ、同地ニ於テ木綿ビロード工場ヲ一覧ス、畢テ又紡績工場ヲ一覧ス、紡錘拾万七千個アリト云フ、棉花ハ多ク埃及産ニ米国産ヲ混用スト云フ、製糸ノ番数ハ六十手位ナリ、工女ハ極テ少ク、操業ノ順序頗ル熟練セリ、一覧畢テ再ビプラツト工場ニ抵リ、喫茶シテ暫ク休憩シ、午後七時旅宿ニ帰ル、此日第一銀行佐々木勇之助釜山出張足立太郎ヨリ書状来ル
八月一日 曇
午前九時馬車ヲ僦フテ旅宿ヲ出テ、マンチターカナールヲ一覧ス、蓋シ此カナールハ十数年前ヨリ経画セシ事業ニシテ、其組織ハ株式会社ナレトモ、得失不引合ナルヨリマンチター市ヨリ数千万円ノ金額ヲ低利ニテ貸付シ、殆ント一市ノ事業トモ云フヘキ姿トナレリト云フ、此運河ハリバプールノ河口ヨリ堀鑿シテ、大船ヲ通スル迄ノ幅員ト深サトヲ保チ、運河ノ両沿ニハ倉庫アリ、繋船所アリ、起重器アリ、総テ各種ノ設備整頓ス、然レトモ運河ハ死水ナレハ不清潔ナリ、且船舶ノ往復未タ充分ノ便ヲ得サルニヨリ、船ノ出入少クシテ斯ク巨額ノ資ヲ投セシ工事ニ相当スル収入ナシト云フ、一覧畢テ市街ニ抵リ、木綿荷造問屋ノ一店ニ入リテ其営業ノ景況ヲ一覧シ、更ニ其主人ノ案内ニテ商人取引所ニ抵リ、各種ノ商業者群集シテ各其取引ヲ為スノ順序ヲ覧ル、此取引所ニ加入スル者ハ数千人ニシテ、一人壱ケ年三拾円余ヲ会費トシテ醵出スト云フ、而シテ其建築ハ別ニ所持人アリテ、群集スル各商人ハ借家ニテ集会スルモノナリト云フ、一覧畢テ旅宿ニ抵リテ午飧シ、午後二時十五分発ノ汽車ニテグラスゴーニ向テ発ス、渡辺専次郎氏ハ停車場ニテ別レテ倫敦ニ帰ル、汽車中各製造所等ヲ遠見ス
マンチスター附近ハ地下到ル所石炭ニ富ムヲ以テ大小ノエ場処々ニ多ク、煙突林立シテ天気朗晴ノ日モ尚四方ヲ弁スル能ハサル有様ナリ
夕方ヨリ汽車ノ窓ヨリ青山ヲ見ル、頗ル快ヲ覚フ、午後九時グラスゴー市着、センタラルホテルニ投宿ス
八月二日 曇又雨
午前九時プロヘツソールダイヤ氏来ル、氏ハ三十年前本邦工部大学設立ノ際其教師トシテ雇傭セラレ、爾来十年余本邦工科大学ニ教授タリシ人ナリ、又曾テ逓信省ニ奉仕シテ二十一年ヲ経過セルカヒテインブラオン氏来ル、ブラオン氏ニハ曩ニ郵船会社ヨリ余ノ此地ニ来遊ノ際各所ノ案内セラレン事ヲ依頼シ置キタル人ナリ、依テブラオン氏ト共ニ先ツヒヤヒールド造船工場ヲ一覧ス、時恰モ一汽船ノ進水式アルニ際ス、其進水ヲ一覧シ、畢テ一事務員ノ案内ニテ各部ノ工場ヲ巡覧ス其設備整頓シテ職工ノ熟練セル感スルニ堪ヘタリ、畢テブラオン氏ト共ニ旅宿ニ帰リテ午飧ス、此日ヒヤヒルド造船所ノ社長ハ、進水式畢テ後、余等一行其他会スル各員ヲ一堂ニ延テ立食ノ饗応ヲ為シ、且一場ノ演説アリタリ
午後二時プロヘツソールダイヤ氏来リ、一行ヲ誘引シテグラスゴー市ヲ中断スルクライド河ニ抵リ、川蒸気船ニ搭シテ流ニ従テ下ル、両岸
 - 第25巻 p.258 -ページ画像 
ニ繋船所又ハ造船所等頗ル多シ、其造船所ノ大ナルモノハヘンデルソン会社、又ハクライド〔   〕《(字欠)》ト称ス、流ヲ下ル凡ソ十数哩ニシテ河幅稍大ナリ、グリノツクト云フ所ニ抵リテ河口海ニ接ス、此ニ於テ一行上陸シテ、同所ヨリ汽車ニ搭シテグラスゴー旅宿ニ帰ル、此夜ダイヤ氏来話ス、グラスゴー市政ノ組織ヨリ、各造営物ニ関スル処務ノ順序ヲ談シ、又本邦学制ニ関スル種々ノ意見、及女子教育ニ就テ余ノ意見ヲ述ヘ、ダイヤノ論説ヲ聴ク、談話佳境ニ入リテ更ノ深キニ《(ヲ)》忘ルルニ至レリ、夜十一時帰リ去ル
八月三日 曇
午前八時半旅舎ヲ出テクインストリート停車場ニ抵リ、エデンボロ行ノ汽車ニ搭ス、十一時エデンボロニ抵ル、停車場ノ近傍ニ於テ四頭馬ヲ駕スル乗合馬車ニテフオースブリヂニ抵ル、此途中ノ風景本邦京摂辺ニ似テ、一行ヲシテ郷思ヲ催サシム、午後一時フオールブリヂニ達ス、英国北海ニ沿フタル河口ニ架スル大橋ナリ、其長サ壱哩半、高サ橋台ニ於テ百五十尺、最高キ所ハ三百尺余アリト云フ、実ニ阿房宮賦ニ所謂複道行空モノナリ、此構造ハ英国四ケノ鉄道会社協力シテ各会社ノ線路ヲ通スル為メニ設クルモノニシテ、其費額三千弐百万円余ナリト云フ、以テ英国鉄道ノ諸設備如何ニ完全ニシテ且豊富ナルヲ知ルニ足ル、橋辺ノ小亭ニ於テ午飧シ、帰路モ同シ馬車ニテエデンボロニ抵リ、時間余リアルヲ以テ各所ヲ巡覧シ、午後五時半発ノ汽車ニ搭シテ午後七時半グラスゴーニ帰宿ス
八月四日 曇
午前十時ブラオン氏来リ、鉄管製造工場一覧ノ事ヲ告ケ、案内者トシテ同行ノヂッキン氏ヲ留メテ去ル、依テヂッキン氏ト共ニグラスゴー市ノ北部ニ抵リ、鉄管製造所ヲ一覧ス、管ハ総テ鋼鉄ニテ、大サ壱尺余ノモノヨリ其細ナルハ小指ヨリモ猶微小ナリ、管ノ製造三様ニシテ最モ堅牢ナルハ地金ノ儘ニ継目ナクシテ之ヲ打延ハスモノナリ、其次ハ鉄板ノ両端ヲ削リテ、電気ヲ以テ之ヲ焼キテ継キ合ハスモノナリ、更ニ他ノ一法ハ電気ヲ以テ鉄板ノ小口ヲ継合ハセテ管トナスナリ、蓋シ最高圧力ヲ要スル鉄管ハ地金ノ儘打延ハスモノヲ用ヒ、他ノ二様モ各其必要ニ応シテ供給スト云フ、一覧畢テ旅宿ニ帰リテ午飧シ、午後市庁ヲ一覧ス、此構造ハ八ケ年前ナリト云フ、建築ノ堅牢ニシテ美麗ナルコト真ニ目ヲ驚カスニ堪ヘタリ、其費額ハ六百万円ナリト云フ、市庁ヨリ帰途馬車ニテ公園ヲ散歩シ、グラスゴー大学ノ建築ヲ一覧シ畢テ旅宿ニ帰リテ旅装ヲ理シ、午後五時グラスゴーヲ発シ、エデンボロヲ経テ夜九時四十分ニユーカスソルニ着シ、ステーシヨンホテルニ投宿ス
八月五日 晴
午前十時アルムストロング会社ニ抵リ、先ツ鉄工場ヲ一覧シ、次ニ大砲製造所・軍艦製造所及附属ノ各工場ヲ巡覧ス、其規模ノ宏大ニシテ設備ノ整頓スル感歎ノ外ナキナリ、此会社ノ工場ハ当地ノ外ニマンチスター・伊太里・倫敦等ニモ種々ノ設備アリト云フ、アルムストロング会社ノ創立ハ今ヲ距ルコト六十年許ニシテ、其初ハ僅ニ百人ノ職工ヲ使役セシモ、現今ハ各工場ニ於テ使役スル職工ヲ合計スレハ三万人
 - 第25巻 p.259 -ページ画像 
以上ニ上リ、工場ノ地坪其長サ弐哩余ニ至ルト云フ、一覧後工場内ニテ午飧シ、午後電気鉄道ニテ旅宿ニ帰リ、更ニ大石鍈吉氏ノ案内ニテニユーカスソル市中ニ流ルヽタエン河ニ抵リ、小蒸気船ニ搭シテ河口ニ至ル、舟行凡七里哩許リニシテ、両岸ノ造船工場十ヲ以テ数フルニ至ル、就中パーマーナルモノ、及アルムストロング会社ノ分工場ナル商船製造工場等尤モ壮大ナリ、左顧右眄河ノ下流ニ抵リテ上陸シ、海岸ニ抵リテ風景ヲ一覧シ、途ヲ転シテ汽車ニ搭シニユーカスソル市近傍ニ於テ、アルムストロング氏ノ市ニ寄附シタル公園ヲ一覧ス、公園ノ構造本邦風ニシテ頗ル風致アリ、遊覧久クシテ夕八時帰宿ス
八月六日 雨
午前九時半旅宿ヲ発シ、直ニ汽車ニ搭シ午後一時過、セヒルドニ着シビクトリヤホテルニ投宿ス、午飧後オーカー会社ノ銀細工製造所ヲ一覧ス、其地金切断工場ヨリ、各種ノ細工ヲ経テ之ヲ鍍金スルニ至ルマテ工事ノ順序、緻密ニシテ巧妙ナル驚クニ堪ヘタリ、一覧畢テ種々ノ買入物ヲ為シ、午後六時過帰宿ス
此日ニユーカツソルニ於テ汽車ニ搭スル際、停車場ニ備ヘ置ケル古式ノ機関車ヲ一覧ス、此機関車ハ当市ニ於テ、著名ナルスチビンソン氏ナルモノ始メテ製造セシモノニテ、実ニ機関車ノ嚆矢ナリト云フ
八月七日 雨
午前十時旅宿ヲ出テビカース会社ニ抵リ、軍艦ニ装置スヘキ大砲ノ製造及其防衛ニ充ツル鋼鉄板等ノ工場ヲ覧ル、大砲ノ大ナルモノ口径十四吋ナリト云フ、又鉄板ハ凡長二十尺・幅十五尺程ニシテ、厚サ尺以上ノモノアリ、其重力ノ多クシテ取扱ヒ困難ナルニモ拘ハラス、電気仕掛ノクレンヲ以テ自由ニ之ヲ焼キ、之ヲ鍛ヒ又ハ切断スル等、サナガラ切餅ヲ為ス如クナリ、鎔鉱・鋳造・鍛練・琢磨・切断等、種々ノ工場ヲ一覧シ、畢テ午後一時帰宿シ、午飧後三時十八分ノ汽車ニテセヒルドヲ発シ、七時過倫敦帰着、曾テ止宿セシユーホルグホテルニ投宿ス
此夜、本邦ヨリノ来状、及米国内田領事其他ノ来状ヲ一覧ス
八月八日 曇
午前八時半朝飧ヲ為ス、畢テ書類ヲ整頓シ、郷書ヲ一読ス、午後渡辺専次郎・根岸練次郎等来ル、梅浦精一・萩原源太郎来ル、清水泰吉来ル、旅行中ノ事ヲ談話ス、夕方八十島親徳ヲ伴フテハイデパークヲ散歩ス
 此夜《(欄外)》、明日ノ礼典ヲ祝スル為メ市街ニ点灯多キヲ以テ、一覧ノ為散歩ヲ試ム、兼子・元治・八十島・西河嬢同伴ス、王城近傍ニ抵リテ帰宿ス
八月九日 曇
午前七時朝飧ヲ為シ、八時ヨリ兼子・市原・八十島・西河嬢ヲ伴ヒ、戴冠式行列拝観ノ為メサントゼームスストリートニ抵ル、拝観場ハ曾テ三井物産会社小室三吉氏ニ托シテ各員相当ノ座席ヲ買置キタルヲ以テ、其家屋ニ於テ一覧スルヲ得タリ、午前九時頃ヨリ、式場ニ参列スルタメ美麗ナル馬車ニテ王宮ニ参内スルモノ多シ、十時頃ヨリ市街ノ両側ハ兵隊整列シテ道路ヲ警衛ス、兵隊ニ属スル楽隊ハ途中行軍ノ楽
 - 第25巻 p.260 -ページ画像 
ヲ奏シテ拝観人ノ為メニ興ヲ添フ、楽隊ニ二種アリテ、スコツトランドヨリ来レル楽隊尤モ奏楽ニ巧ナリ、市街ハ点灯又ハ花飾等ニテ美観ヲ添フ、午後一時半王車ノ通御アリ、前後騎兵ノ護衛アリ、王車ニ先ツテ親王家ノ馬車二輌通行シ、又王車ノ次ニ太子ノ馬車通行ス、王車ハ八馬ヲ駕シ、太子及妃ノ馬車ハ四馬ヲ駕ス、何レモ金糸ノ粧飾粲然タリ、王車ハ普通ノ馬車ニ比スレハ異形ニシテ、金色ニ彫刻セル天人車ノ前後ニ立テリ、王車通御ノ前後ハ騎兵又ハ徒歩ノ宮人等多クシテ諦視スルヲ得サリキ、王車ヨリ少シク前後ニハ閣臣、又ハロバートキツチネル等ノ将軍モ随従セリ、午後三時行列畢テ、一行徒歩シテ旅宿ニ帰ル、午後五時公使館ヲ訪ヒ、林公使及鍋島書記官ニ面話ス
夜植村俊平来ル
八月十日 曇又雨
午前八時半朝飧ヲ畢リ、九時過兼子・市原・元治・八十島・西河嬢等ト共ニ旅宿ヲ出テ、地中ノ電気車ニテハンチントン停車場ニ抵リ、汽車ニ搭シテウエンゾルカツソルニ抵リ、王城外ヲ一覧シ、途ヲ転シテ王城ニ属スル庭園ヲ一覧シ、十二時過一レストランニ於テ午飧ス、午飧後同所ノ汽車場ニ於テリツチモンド行ノ汽車ニ搭シ、午後二時過リツチモンドニ抵リ、馬車ヲ僦フテ同地ノ公園ヲ遊歩ス、公園ノ構造頗ル雅致ニシテ、自然ノ風景ヲ存ス、花卉ノ美観ナキモ、鹿・兎等ノ芝生ニ群集スルアリ、且樹木老大ニシテ古色掬スヘク、所々高低アリテ一面ニ蕨ヲ生セリ、公園ノ一覧畢リテ更ニキユーガーデンニ抵ル、此公園ハ王家ニ属スル一庭園ニシテ、日曜ニハ公衆ニ縦覧セシムルモノナリ、園中掃除行届キテ一塵ヲ見ル能ハス、草木ニハ皆其産地ヲ附記シテ、来所ノ遠ク且広キヲ示ス、花卉ヲ養フ温室アリ、其構造極メテ盛大ナリ、室中ニハ種々ノ熱帯地方ノ草花アリテ、香気多キモノアリ園中都人士群集シテ或ハ一家相伴フアリ、又ハ夫婦手ヲ携フルアリ、其間才子佳人相提携スルモノ多クシテ、実ニ文王ノ郁方百里《(囿)》ニシテ芻蕘ノ者モ行キ雉兎ノ者モ行クト云ヒシ、孟軻ノ言モ思ヘ起スヘキナリ一覧畢テ園ノ出口ヨリ電気車ニテ地中電気車ノ停車場ニ抵リ、再ヒ地中電気車ニ搭シテ午後六時帰宿ス
十日夜七時植村俊平氏来ル、鉄道抵当法案ニ関シ種々ノ談話ヲ為シ、且同氏ノ米国行ヲ延引セシメ、当方ノ助力タラン事ヲ依頼ス
八月十一日 晴
午前八時半朝飧ヲ畢リ、九時過元治・八十島ヲ伴ヒ瓦斯製造工場一覧ノ為市外東隅ノ地ニ抵ル、先ツ地中電気車ニテバンクニ抵リ、夫ヨリ普通ノ汽車停車場ニ於テ汽車ニ搭シ、ベクトント云フ停車場ニテ汽車ヲ下リ、瓦斯工場ニ抵ル、総支配人及各部ノ技術長等出テ迎ヒ、場内ニ使用スル汽車ニテ案内ス、此工場ニテ日々製造スル瓦斯ノ量ハ石炭瓦斯五千弐百万立方尺・水性瓦斯千三百万立方尺ニシテ、瓦斯溜器ハ工場内ニ五個アリト云トモ、尚各需用先ノ土地ニ設備スト云フ、副製物ハコークスノ外、タール、アンモニヤ、ヒツチ其他染料ヲモ精製シ各部局ニ適当ノ技術長アリ、石炭ハニユーカツソル地方ヨリ海路ヲ輸送シ、工場附近ニ接続スルテームス河岸ニ於テ起重機ニヨリテ桟橋様ノ汽車ニ移シ、夫ヨリレトルト場ニ運輸ス、レトルト場ハ拾四棟アリ
 - 第25巻 p.261 -ページ画像 
テ一棟ニ百弐十個乃至百四十四個ノレトルトヲ粧置《(装)》ス、工場敷地ノ総坪数ハ三百ヱヽクルアリト云フ、其株金ノ高及毎年営業利益ノ模様等ハ追テ報告書ヲ寄送スヘキ筈ナレハ、之ニ依テ調査スヘキナリ、一覧畢テ午後三時過帰宿、此日工場ノ案内ハ高田商会ナル柳谷氏同伴シテ百事周旋ヲ為シタリ、午後七時ステレー氏来訪ス、同氏ハ曾テ篤二来遊ノ時英学ヲ修ムル為メ雇用セシ人ナリ、此夜兼子・元治等ト共ニ夜餐ヲ供シ、種々ノ談話ヲ為ス
八月十二日 曇
午前八時半朝飧ヲ畢ル、植村俊平氏来リ、鉄道抵当法案ノ事ヲ談ス、十一時市原盛宏ヲ伴ヒ、地中電気車ニテシチーニ抵リ、三井物産会社ニ於テ渡辺専次郎氏ヲ訪ヒ、同伴シテウエルスヘーバー保険組合店ニ抵リ、スヘンサー氏ニ面会シ、東京海上保険会社ヨリノ伝言ヲ述ヘ、且保険ニ関スル事ヲ談ス、次テロヤルエキスチンジニ於テ、ロイド保険同盟ノ事務取扱方ヲ一覧ス、畢テ一レストランニ於テ午飧ス、松方正作氏ト途中邂逅ス、正金銀行青木氏モ来リ会ス、共ニ午飧ヲ為シテ松方氏ト白耳義滞在中ノ手続ニ関シ、種々打合ヲ為ス、畢テ領事館ニ抵リ、植村氏ノ来会ヲ俟テ、相共ニベヤリンブラソルニ抵リ、法案ニ関スル談話ヲ為ス、会スル者ベヤリン会社ヨリハ法律顧問ナルオルトン氏及ベヤリン銀行員ハーラー氏、ホルツ会社ヨリホーナー氏、植村市原、都合六名ナリ、午後三時頃ヨリ逐条ノ審議ヲ始メ、午後五時半ニ至リ更ニ明日ヲ約シテ散会ス、六時旅宿ニ帰リ、八時ダブリユー・ケスウエツク氏ノ招宴ニ応シテ〔   〕《(欠字)》クラブニ抵ル、林公使・阿部書記官モ来会ス、渡辺専次郎・市原盛宏ト共ニ本邦人五名ナリ、此日ノ来客ハ多ク支那・日本ニ因故アル人々ニテ、賓主合計十七人ナリキ、食事後ケスウエツキ氏ヨリ余ニ対スル丁寧ナル演説アリタルニヨリ、余モ答詞トシテ一場ノ演説ヲ為シ、畢テ喫煙室ニテ種々ノ雑談ヲ試ミ、夜十一時帰宿ス、此夜ヒーオー会社員ジヨーゼフ氏来会セラレ《(シ脱)》ヲ以テ、先年日本郵船会社ニ於テ印度ニ新航路ヲ開キタル時、同氏ハ遊説ノ為メ日本ニ来リテ兜町宅ニテ余ト激論セシコトアリシ人ナリシカバ、共ニ往時ヲ談シテ洪笑セリ
八月十三日 曇
午前八時半朝飧ヲ畢リ日記ヲ整理ス、十時公債仲買商ゴルドン氏来ル氏ハ従来我政府ノ公債募集ニ付テ尽力セシヲ以テ勲章ヲ授与セラレシ人ナリ、面会ノ上種々財務ニ関スル談話ヲ為シ、十一時過辞シ去ル、午後二時半市原盛宏ト共ニベヤリング商会ニ抵リ、昨日逐条審議セシ鉄道抵当法案ニ関スル条項ヲ討議ス、植村俊平氏来会ス、午後五時討議畢テ帰宿ス、夕方根岸練次郎来ル
八月十四日 曇
午前梅浦精一氏来ル、午後二時半市原盛宏・清水泰吉二氏ヲ伴ヒ、郵便貯金取扱方法ヲ問合ハス為メ其局ニ抵ル、蓋シ曩ニ貯蓄銀行ノ事務ヲ調査スル為メ、シヤンド氏ヨリノ注意ヲ以テポストオヒスニ紹介セラレ、今日ノ会見ニ及ヒタルナリ、其局ノ次長ニ面会ノ後種々ノ手続ヲ説明セラル、畢テ午後五時帰宿、六時シヤンド氏来ル、是レ過日招宴セラレタル答礼トシテ今夕同氏夫妻ヲ案内シタルヲ以テナリ、会見
 - 第25巻 p.262 -ページ画像 
ノ上種々ノ経済談ヲ為シ、午後七時半ヨリ食卓ニ就キ、食後モ亦既往ノ談話ヲ為シ、夜十時過帰リ去ル
 [清水泰吉来会《(欄外)》ス
八月十五日 晴
午前九時過朝飧ヲ畢リ、十時半シチーニ抵ル、市原盛宏・八十島親徳同伴ス、先ツロンバルトストリートニ於テジヤージンマチソン商会ニ抵リ、ケスウエツク氏ニ面会シ過夕饗宴ノ答辞ヲ述ヘ、次テ支那鉄道ニ関スル事ヲ談話ス、同氏ハ頗ル厚意ヲ以テ之ニ答ヘ、南京・上海間ノ鉄道布設ニ関シ日本ノ資本家ヲ加入スルハ聊モ異議ナシト雖モ、該線路ハ目下英国シンジゲイトニ於テ支那政府ト其線路ノ設定及布設方法等ニ関シ協議中ナルニ付、其決定ヲ待テ当方ヘモ案内スヘキ旨ヲ答ヘラル、依テ他日再ヒ相談スヘキ事ヲ約ス、畢テ英国商工業ノ現況ニ付二・三ノ談話ヲ為シ、同商会ヲ去テ三井物産会社ニ抵リ渡辺・小室二氏ニ面会ス、畢テ亦路ヲ転シ日本郵船会社ニ抵リ、セームス氏ニ面会シテ余等一行ノ帰国ニ付テノ船繰ヲ問フ、依テ種々ノ談話ヲ為シ、来ル九月初旬大陸旅行ヲ為シテ帰英ノ後ニ確定スル事ヲ約シテ同会社ヲ辞シ、馬車ヲ僦フテ倫敦古城趾ニ抵リ城内ヲ一覧ス、王室ニ属スル宝物ノ陳列所ヲモ見ル、更ニ上部ノ室ニ於テ古代ノ武器陳列シアルヲ見ル、一覧後倫敦ブリチニ抵ル、此橋ハ千八百八十年頃ニ建築セシモノニシテ、其構造頗ル堅牢ナリ、テイムス河ニ架セシ大橋ニテ中間ニ開閉機アリ、蓋シテイムス河ヲ溯ル大船ノ出入ニ便スル為ナリト云フ然レトモ其開閉頗ル時間ヲ費シ、且開橋ノ際ニハ橋上ヲ往返スル人ハ更ニ橋ノ上部ニアル人道ニ依ルノ仕掛ニシテ、其取扱方モ簡便ナラスト云フ、蓋シ二十年前ノ結構トシテハ聊カ研究ヲ欠ク所アルニ似タリ一覧久クシテ午後二時旅宿ニ帰リ、午飧後セントセームスストリートニテ、スヘンサー伯ノ家ヲ訪ヒ、不在ナルヲ以テ名刺ヲ止メテ去リ、更ニ白耳義公使ダヌタン男爵ノ寓居ヲ訪フモ不在ナルヲ以テ午後四時帰宿ス、此夜大陸旅行ノ時日ヲ決定シ、旅行ニ関スル手続ヲ協議ス、梅浦精一・萩原源太郎来ル
元治カージフ炭坑一覧ノ旅行畢テ、此日午後帰宿ス
八月十六日 晴
此日ハポルツムースニ於テ観艦式アルヲ以テ、我カ軍艦タル浅間艦ニ於テ拝観セラルヘキ旨伊集院司令官ヨリ案内状アリタレハ、午前六時二十分ビクトリヤ停車場ノ汽車ニ搭シ、一行悉ク相伴フテポルツムースニ抵ル、同地ノホテルニ於テ暫時休足シ、十時半同港ノ埠頭ヨリ小蒸汽船ニ搭シテ浅間艦ニ抵ル、軍艦ノ人々懇切ニ接待セラル、林公使後藤新平氏其他本邦ノ人多ク来観ス、午飧ハ艦中ニテ立食ヲ饗セラル午後二時頃ヨリ各艦ニ発砲ノ挙アリ、此日英国ノ軍艦ノ来会セル数、百八〓《(マヽ)》ナリト云フ、発砲ノ際ハ所謂百雷ノ一時ニ雲間ヨリ降下スルカト疑ハル、須叟ニシテ煙散シ声歇シテ海面旧ニ復セシトキ英王ノ船ハ各軍艦ノ列ヲ縫フテ進行ス、王ノ御座船ノ外ニ陪従ノ船前後ニ四〓何《(マヽ)》レモ速度ヲ同フシテ雁行ス、御座船各軍艦ノ側ニ来レルトキ軍艦ハ悉ク万歳ヲ祝ス、午後四時頃式畢テ後浅間艦ノ小蒸気船ヲ以テ上陸シホルツムース港ノホテルニ於テ夜飧ヲ為シ、夜十一時過帰宿ス、此夜汽
 - 第25巻 p.263 -ページ画像 
車中ヨリ風雨甚シ、夜中雨降ル
八月十七日 雨未タ晴レス
朝来郷書ヲ裁ス、篤二・佐々木・小村外務・尾崎・日下・仙石・渡辺其他拾弐通ノ書状ヲ裁シテ郵便ニ付ス、又明後日白耳義・独乙ヘ旅行ノ事ニ関シ諸井六郎・井上公使等ヘ書状ヲ発シ、行程ノ順序ヲ鍋島氏ニ聞合ハス、夕方梅浦精一・萩原源太郎来ル
八月十八日 曇又雨
明日大陸旅行ヲ為スニ付行李ヲ整理ス、過日来ベヤリング銀行ト協議セシ鉄道抵当法案ノ事ニ付、市原ヲシテ同行ニ照会ヲナサシメシモ、同行顧問法律家ヨリ草案ノ浄写未成ナル旨ヲ申来ル、夜植村俊平来ル明日大陸行ヲ為スニ付、頃日来ノ手続ニヨリテベヤリングトノ協議調成ノ事ヲ托ス、梅浦氏今夕ヨリ出発、露国旅行ヲ為スニヨリ、告別ノ為メ来訪セラル
   ○明治三十五年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩・和歌・狂歌ヲ記ス。左ハソノ中ノ三首ナリ。
     ヱデンホロにてホールブリヂを見るとて馬車を僦ひたるに、案内の人の片足にしてよく歩行し、しかもうそまこととりませて言こまやかに土地の古事を説き示すさまの、いとおかしかりけれハ
夷人原案内ハ四頭馬車にしてミちかき足になかきしたかな
    梅浦ぬしの露国に行くを送りて
ふるさとハなみちはるけきたひのそらにふたゝひきみを送る今日かな
    倫敦の客舎にて一夜月の清く照りて窓にさしいりたりけれハ
かたもにハわか故郷もうつすらむかゝみにまがふまとの夕月


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 (明治三五年)七月二日(DK250009k-0002)
第25巻 p.263-264 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 (明治三五年)七月二日   (阪谷子爵家所蔵)
益御清適拝賀、老生無事米国見物も相済、七月二日紐育出発之マゼスチツク号ニて只今航海中、明夕ハ英京倫敦到着之予定ニ候、米国滞在中ハ日々匆忙ニ相暮し何たる効果も無之、只広大之家屋を見、美麗之室内ニ起臥し、豊富之食事ニ飽き、経済家・事業家又ハ政事社会之人人に談論せしまてにして、夫とても多くハ所謂隣の宝を数ふる之空談ニ日を送り候義ニ御坐候、其中聊留意すへきハ紐育シチーナシヨナルバンク頭取スチルマン氏と数回会見し、殊ニ一夕同氏宅之夜餐之際抔ニハ色々と事実問題も出候処、ス氏ハ我邦之公債を米国市場ニ売買候様企望之由ニて、我第一銀行ニて之を尽力致候事を勧告せられ候、尤も其一手段として支那公債を相試申度と申居候、併夫とても目下直ニ履行と申まてニハ無之、老生帰国後其直段等も打合せ、追々書信往復も相開申度といふ意見ニ相見へ候、右者敢而用談として約束的ニ引合候義ニハ無之候得共、同人ハ中々之人物ニて勢力も有之、資産も米国ニて相応之位地ニ居候よしニ付、幸ニ此等之人物充分ニ踏込候ハヽ、将来之好都合此上も無之と存候
斎藤修一郎氏帰国之途次ホノルヽニて行違申候、同人ハモルトン社中之人より出候意見書、及前書スチルマン之副頭取ニ相立候ウワンデリツプ氏之米国之経済ニ関する誇張之談論抔ニ心酔し、頻ニ米資之流入
 - 第25巻 p.264 -ページ画像 
を喋々候哉と存候得共、真想ハ夫程ニハ無之候ニ付、御含可被成候、併前々申上候スチルマンとの会談ハ一朝之空話ニハ無之様被存候ニ付他日御相談之為ニ一応申上置候、内々大臣へ此段御申上置被下度候、尚英京着之上其模様申上候様可仕候 匆々不一
  七月二日大西洋航海中
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎殿
 尚々米国滞在中ハ、日夜招宴ニ出席と市中雑沓之声ニ忙殺せられ、韵事掃地申候、船中ハと相期し候処、少々腹部を損し不愉快ニ航海せし故、詩歌共ニ胸中ニ相生し不申候
 阪谷芳郎様     渋沢栄一
            御直展


渋沢栄一書翰 穂積陳重・同歌子宛 (明治三五年)七月一六日(DK250009k-0003)
第25巻 p.264-265 ページ画像

渋沢栄一書翰  穂積陳重・同歌子宛 (明治三五年)七月一六日   (穂積男爵家所蔵)
再度之御状ハ米国と倫敦とニて落手、貴地一同健全之模様承知いたし候、留守宅へ之通信者篤二へ宛百事書送候ニ付、御伝聞之事と存候、米国も案外手間取れ、丁度壱ケ月を費し申候、瓦斯会社合併と申一問題、出立之際より相生し居候間、可成行届候様と種々心配せしも、米国人之方ニ考案違有之、成功を得す残念ニ存候、乍去銀行事務ニ付而ハ、他日幾分之手掛リも出来可申歟と存候、何分同国物質的之発達ハ可驚有様ニて、終ニ欧洲をも凌駕候哉と被存候、併進退急激之土地と存候ニ付、将来農事之不作とか又ハ職工之同盟罷工とか腫々之出来事より俄然頓挫を来し候義無之とも難申候、随分向後観察ニ注意を要する国柄と存候
英国之方ハ老成人之風有之候間、或ル点ニ付而ハ米国抔之侵害を受候義も可有之候得共、中々実力ハ比較ニハ相成間敷、詰り世界之中心ハ今日も尚相保居候様被存候、併両三年之軍事費支出等ニて商工業も不振之様子ニ候、南阿之戦争相止ミ平和克復之為幾分か引立可申も、容易ニ景気回復と申場合ニハ相成兼候哉ニ申居候
戴冠式之延引ハ如何ニも恐れ多き次第ニて倫敦人も一同残念と申居候併其後御病気ハ快方ニて昨今ハ転地御療養中ニ有之、来ル八月九日ニ御儀式挙行之由ニ御坐候、但極而御手軽ニ執行之様子ニ申唱候夫故か小松宮殿下も御帰英ハ無之、各国之大使抔も皆帰国せし様子ニ御坐候着英後種々之人物ニも面会いたし候得共、米国と異り新規訪問之新聞屋抔ハ極而少く、大概日本ニて之知人ニ御坐候、鉄道会社々債之談判ハ目下引合中ニ御坐候、ベヤリング之社長ニも面会し、色々相談相試申候、模様ハあしき方ニハ無之候
一昨日ハリゼントパークニ日本協会之園遊会有之、老生夫婦も出席し多数之内外人ニ面会いたし候、公使も深切ニ世話いたし呉申候、又来ル廿五日ニハ例之市長之晩餐会有之、案内を受申候、依而迷惑なから夫妻ともニ参席之筈ニ御坐候、商業会議所之方も厚く相迎候様子、英蘭銀行よりも昼食之案内を受申候
当地之滞在ハ本月末まてといたし、月末ニ地方巡回を始め、来月中旬
 - 第25巻 p.265 -ページ画像 
ニ白耳義ヘ罷越、独乙をも歴遊し、再ひ帰英、九月上旬ニ出立、仏国伊太里を経てポルトサイドニて郵船会社之船ニ乗組、帰国之途ニ就き候予定ニ御坐候、然時ハ十月中旬ニハ香港到着ニ可相成歟と存候、尚決定之上ハ更ニ篤二ヘ通信可仕候、留守宅ニ別条無之、各家とも平安之由、老生も別ニ病気と申ニハ無之候得共、腹潟とか風邪とか時ニ少少之故障ハ有之候、併其為事務を廃し候程ニハ無之候、御省念可被下候、歌子より再度之詠歌被相送候得共、当方ハ不風流ニ相成、韵事ハ頓と心ニ生し不申候、文明と風雅とハ並馳せさるものと昨年王子別荘ニて演説せしハ物質的之関係ニ有之候処、霊心ニも同様之事相生し候ハ、偖々心外千万ニ御坐候、御一笑可被下候
此度之旅行ハ七情相生候とも可申次第ニて、憤慨すへき事、愉快ニ感すへき事、面白きこと、いやなこと、羡むへきこと等時ニ胸裏ニ出没いたし候、其詳細ハ帰国之上可申上と存候
右等再三之尊書拝答旁寸暇を得候儘一事申上候 匆々不一
  七月十六日倫敦ニ於て
                      渋沢栄一
    穂積陳重殿
    同歌子殿
 尚々篤二も勉強之由尚御心添可被下候、老生留守中百事自任候ハ幾分之為筋と存候、併可成妄断等無之様尾高抔へも時々御心附可被下候、旅中之経費意外ニ相増し可申と懸念仕候、夫ニ付而も留守宅ハ万事節約候様御申合可被下候
    三浦郡浦賀町大津
   勝男館ニ而
      穂積陳重殿      渋沢栄一
            親督


渋沢栄一書翰 井上馨宛 (明治三五年)七月二八日(DK250009k-0004)
第25巻 p.265-266 ページ画像

渋沢栄一書翰  井上馨宛 (明治三五年)七月二八日   (井上侯爵家所蔵)
益御清適奉賀候、小生出立之際ニハ色々御配意被下、御懇篤之御送別被成下万謝之至ニ候、旅行之都合も別ニ差支候事無之、米国ハ一ケ月間ニて相済、本月十日着英、引続き滞在罷在候
九州鉄道・北越鉄道両会社之社債ニ関しベヤリングとの引合向も、着後両三回相談いたし候得共、抵当法律成立之上ハ多くハ成功可致歟と存候、即今交渉中ニ付尚決定候ハヽ模様可申上と存候
益田氏より被申聞候支那地方之鉄道布設権利之義ニ付、ジヤルヂンマチソンと引合之義者、先方何分ニ同意せす、或ハ充分之都合ニ不相成歟と存候、併英国も米国も大体之感情ニ於てハ余程面白き様子ニ候間、何か事実上協同之仕事相始候様致度ものと心配罷在候
閣下支那地方御出立之事ハ如何之御都合ニ候哉、定而来月中ニハ電報被下候義と御待申上候、小生ハ何様取急候とも九月十二日倫敦発之神奈川丸便ニて香港迄罷越、同地ニて他船ニ移り広東ヘ一巡し十月中ニ上海着之心組ニ御坐候、併もしも閣下御出張無之と申様なれハ或ハ一ト先帰国して拝眉之上、支那旅行ハ来春ニ可致歟とも相考申候
英米両国ニ対する観察も幾分之愚案有之候得共、書中ニ一言致候程単純ニも尽し兼候様被存候間、其中拝眉縷陳可仕候、詰り米国之近況ハ
 - 第25巻 p.266 -ページ画像 
実ニ駸々として奔馬之如く、英国ハ之ニ反して牛之徐歩ニも及不申様相見へ候得共、事物ニよりてハ英国之堅固真摯なるニ感服候事も不少様被存候、右一書奉得芳意度 匆々拝具
  七月廿八日
                      渋沢栄一
    井上老閣侍史
 尚々斎藤修一郎氏帰国之際小生ハ行違ニ相成候得共、@一書を桑港ニ残し米人ウハンデリツプと申人之経済意見書被相示候処、小生ハ其本人ニも面会し種々談話相試申候、其他英米ニて色々之人物ニ会見し問答も致候得共、格別之議論とても無之、詰り平生御談話申上且常々御示諭之事共ニ過不申様被存候、世間ハ広くして又狭きものと相考申候
井上伯閣下 渋沢栄一 侍史
封 七月廿八日 倫敦ニ於テ


渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編 第三三―四三頁 明治三五年一二月刊(DK250009k-0005)
第25巻 p.266-270 ページ画像

渋沢男爵欧米漫遊報告 全国商業会議所聯合会編  第三三―四三頁 明治三五年一二月刊
  ○欧米各地商業会議所訪問顛末
○上略
    倫敦
同年七月二十五日、渋沢男爵ハ梅浦精一・市原盛宏及萩原源太郎ノ三氏ヲ随ヘ倫敦商業会議所ニ於テ特ニ開カレタル会議ニ臨ミタルカ、当日ノ来会者ハ同会議所会員中極東ノ商業ニ最モ密接ノ関係ヲ有スル人人、即チジヤーデン・マジソン商会主人代議士ダブルユー・ケスウイック(Mr.W.Keswick.M.P.)、マグナス・モワット(Mr.Magnus.Mowat.)、長崎駐在英国領事ヂヱー・ヱッチ・ロンフホルド(Mr.J.H.Longford.)、ヂー・ダブルユー・ロース(Mr.G.W.Rouse.)、サミユール商会ダブルユー・ヱフ・ミッチヱル(Mr.W.F.Mitchell.)デイ・テイ・キーマル(Mr.D.T.Keymer.)、ジヱー・ピー・レード(Mr.J.P.Reid.)、マンチヱスタル商業会議所オスカル・ヱッチ・ビーレンス(Mr.Osker H.Behrens.)、ブラヲン・ヱンド・ポルソン(Messers.Brown & Polson.)、ブルークス・ヱンド・グリーン(Messers.Brookes & Green.)、在長崎英国商人ヱフ・リンガル(Mr.F.Ringer.)、香港銀行タウンセンド(Mr.Townsend.)ノ諸氏其他数十名ニシテ、ケスウイック氏会長ヲ勤メタリ、此会ニ於テ渋沢男爵ハ左ノ趣旨ヲ以テ一場ノ演説ヲ為シタリ
 会長及会員諸君、余カ欧米漫遊就中貴国ニ来遊スルノ希望ヲ懐キタルコトハ決シテ一日ニアラス、然ルニ今回漸ク其素志ヲ達シテ貴国ニ到着シ、其百事進歩ノ実況ヲ目撃スルヲ得タルハ余ノ大ニ欣喜スル所ニシテ、余ハ現ニ東京商業会議所創立以来会頭ノ職ニ在ルカ故
 - 第25巻 p.267 -ページ画像 
ニ、此機会ヲ以テ貴会議所会頭及会員諸君ニ会談センコトヲ希望シタルニ、貴会議所ノ厚意ヲ以テ之ヲ諒諾セラレ、本日此席ニ於テ諸君ノ面前ニ卑見ヲ吐露スルノ光栄ヲ得タルハ余ノ感謝スル所ナリ
 従来我日本カ、政治上ニ商工業上ニ貴国ノ誘導ヲ受ケタルコトハ一朝一夕ニアラス、其今日ノ地位ニ達シタルモノハ実ニ貴国ノ幇助ニ依ルモノ少シトセス、是我国民ノ永ク感銘シテ忘ルヽコト能ハサル所ナリ、而シテ余ハ身親シク実業ニ従事セルヲ以テ、政治上ノ事ハ暫ク措キ商工業ニ就テ一言センニ、我日本ノ商工業ハ三百年来武断政治ノ為メ圧迫セラレ自然ノ発達ヲ遂クルコト能ハサリシカ、維新後ニ至リ時ノ政治家ハ玆ニ見ル所アリテ漸ク実業ヲ重ンスルノ傾向ヲ呈シ、余ノ如キモ専ラ身ヲ実業界ニ投シテ聊カ貢献スル所アリタルニ、爾来今日ニ至ル迄漸ク発達進歩ノ気運ニ向フヲ得タリ、今試ニ其進歩ノ一端ヲ示セハ左ノ如シ
 銀行 我日本ノ銀行業ハ一千八百七十二年国立銀行条例ノ公布ニ始マリ、爾来国立銀行ハ各地ニ創立セラレ、一千八百七十九年ニハ其行数百五十三行トナレリ、当時政府ハ新ニ国立銀行ヲ創立スルコトヲ停止セシモ、一方ニ私立銀行漸次増加セシ為メ、一千八百九十年ニハ行数三百五十三行・払込資本金額八千二百十二万一千二百七十八円ニ上リ、最近数年間殊ニ顕著ナル増加ヲ示シ、一千九百年ニハ行数二千五百三十四行、払込資本額三億四千七百七十一万七千六百八円トナレリ
 会社 明治維新後泰西ノ学術技芸ヲ輸入セシ以来、我日本ノ商工業ハ著シク進歩シ、殊ニ会社事業ハ一千八百八十八年以来非常ノ発達ヲ為シ、一千八百九十四年ニハ会社ノ数(銀行ヲ除キ)二千百〇四、其払込資本額一億四千八百三十五万三千百十八円ニ際シ、日清戦役後ハ殊ニ増加シ、一千九百年ニハ其数六千百七十八、其払込資本額四億四千四十七万六千二百十八円ニ上レリ
 外国貿易 我日本ノ外国貿易ハ明治維新以来長足ノ進歩ヲ為シ、即チ一千八百七十七年ニハ諸外国トノ貿易額ハ輸出入合計僅ニ五千万円ニ過キサリシカ、一千八百九十年ニハ一億三千八百三十三万円ニ増進シ、一千九百一年ニハ更ニ増加シテ五億八百十六万円ニ上レリ
 斯ノ如ク我日本ノ商工業カ維新以来一時ノ発達ヲ為シタルモノハ、是多年ノ拘束ヲ解キタル結果ニシテ、之ヲ貴国商工業ノ宏大堅固ニシテ且数百年来秩序的ノ進歩ヲ為シタルモノニ比スレハ、固ヨリ見ルニ足ラサルヲ信ス、然リト雖トモ現在我日本ニ於テハ鉱山業ノ如キ、鉄道業ノ如キ、将タ各種ノ工業ノ如キ、拡張改良ヲ規画スヘキモノ一ニシテ足ラス、故ニ余ハ今後内外協同ノ力ニ依リ、此等ノ事業ヲシテ益々完全ノ域ニ達セシメンコトヲ希望ス
 蓋シ貴国ト我国トハ風俗慣習ヲ異ニスルヲ以テ、之ヲ一団ニ融化スルカ如キハ固ヨリ難事ニ属スト雖トモ、熟ラ従来ノ実験ニ徴スルニ既ニ是迄種々ノ点ニ於テ稍々近接セルモノアリ、殊ニ経済界ニハ彼我ノ畛域ナキヲ原則トスルモノナレハ、今後日本ノ事業ハ世界的進歩ノ方針ニ依リ経営スルモノトシ、之ニ要スル智識経験等ハ貴国ノ
 - 第25巻 p.268 -ページ画像 
如キ先進国ニ待ツ所ナクンハアラス、是余カ抱負スル経済主義ニシテ、将来我日本ノ事業ヲ経営スルニ当リ之ヲ応用セント欲スル所以ナリ、然リ而シテ我日本ハ自国ノ事業ノミヲ以テ満足スルモノニアラス、例ヘハ清国ノ如キ、韓国ノ如キ、我日本ト土地相近接スルノミナラス同文同種ノ邦土ナレハ、此等ノ邦土ニ向テ大ニ其事業ヲ拡張セント欲スルモノナリ、此際我日本カ従来東洋ニ於テ利害ヲ共通セル貴国ニ向テ協同戮力ヲ求メントスルハ、決シテ不当ノ希望ニアラサルヲ信ス、況ンヤ日英協約ノ成立シタル今日ニ於テオヤ、惟フニ此日英協約ハ人道ノ大本ニ基ク所ニシテ、其目的タル明文ニ示スカ如ク清・韓両国ノ独立ヲ保障シテ東洋ノ平和ヲ維持シ、以テ列国ヲシテ均等ノ機会ヲ得セシムルニ在リ、是世界各国ノ同情ヲ表スル所以ニシテ、又我日本ノ商工業者カ特ニ之ヲ慶賀スル所ナリ、是ヲ以テ東京商業会議所ハ曩ニ協約ノ発表セラルヽヤ貴会議所ニ向テ其意思ヲ発電シタルニ、貴会議所モ亦之ニ対シテ懇篤ナル返電ヲ送付セラレタリ、是レ恰モ相互ノ意思合同シタルモノニシテ、余ノ最モ満足ヲ表スル所ナリ
 余ハ此機会ヲ以テ、更ニ日本全国商業会議所聯合会ヲ代表シテ諸君ニ一言スヘキモノアリ、何ソヤ、余カ日本ヲ出発スルニ当リ、当時東京ニ開設中ノ日本全国商業会議所聯合会ハ我日本商工業者ト欧米商工業者トノ間ニ於ケル関係ヲ一層親密ニスルノ必要ヲ確認シ、特ニ其決議ヲ以テ余ニ附託スルニ此事ヲ以テセリ、蓋シ此趣旨タル極テ漠然ナルカ如シト雖トモ、帰スル所ハ前ニ述ヘタルカ如ク内外協同ノ力ニ依リテ東洋ノ事業ヲ経営セントスルニ在リ、然リ而シテ此結合ヲ決行スル上ニ於テ障碍ノ存スルアラハ、我商工業者ハ必ス之カ改良ニ躊躇セサルヘキヲ信ス、此事ハ独リ貴会議所ノミナラス、貴国各地ノ商業会議所及貴国商工業者ニ対シテモ、其趣旨ノ貫徹ニ尽力セラレンコトヲ望ム
 余ハ当地ニ来着以来日尚浅ク、商工業ノ実況ニ至リテハ未タ之ヲ詳悉スルヲ得スト雖トモ、一見其規模ノ宏大ニシテ而カモ秩序ノ整然タルニ敬服セリ、嘗テ三十余年前当地ニ来遊シタルコトヲ回想スレハ、殆ント今昔ノ感ナクンハアラサルナリ、今ヤ南阿征討ノ軍事モ終局シテ玆ニ平和ノ克復ヲ告ク、貴国商工業ノ将来益々昌盛ナルヘキハ余ノ確信スル所ナリ、然リト雖トモ諸君ハ決シテ之ヲ以テ満足セラルヽモノニアラスシテ、猶進ンテ大ニ力ヲ東洋ノ発達ニ致スヲ辞セラレサルヘシ、是決シテ我日本ノ為メノミニアラサルナリ
 嗚呼日英協約ハ既ニ成レリ、之ヲシテ政事上ノ規画ニ止メシムルコトナク、以テ実業上ノ効果ヲ収ムルニ至ラシムルコトハ両国商工業者ノ任務ト言フヘシ、此事タル我商工業者ノ熱望スルノミナラス、貴国商工業者ニ於テモ亦其希望ヲ一ニスル所ナラン、是余カ卑見ヲ開陳シテ諸君ノ同情ヲ請ハント欲スル所以ナリ
於是、会長ケスウイック氏ハ来会者ヲ代表シ渋沢男爵演説ノ趣旨ハ全会一致ヲ以テ之ヲ領承セル旨ヲ述ヘ、夫ヨリ会議ニ移リ来会者ノ間ニ商業取引ニ関スル徳義問題等ニ就キ二・三ノ討議アリタリ
同年八月十二日、渋沢男爵ハ市原盛宏氏ヲ随ヘジヤーデン・マジソン
 - 第25巻 p.269 -ページ画像 
商会主人ダブルユー・ケスウイック(Mr.W.Keswick.M.P.)ノ招待ニ依リ、デボンシヤー・クラツブニ於テ催サレタル歓迎会ニ臨ミタルカ、当日相客ハ林公使・阿部書記官・三井物産会社渡辺専次郎氏其他東洋貿易ニ関係アル英国ノ豪商十七・八名ニシテ、席定マルヤ主人ケスウイック氏ハ左ノ趣旨ヲ以テ歓迎ノ辞ヲ述ヘタリ
 今回渋沢男爵ノ我国ニ来遊セラルヽニ当リ、玆ニ小宴ヲ設ケ男爵ヲ歓迎スルヲ得タルハ余ノ大ニ光栄トスル所ナリ、本日来会ノ同志者ハ多ク東洋ノ貿易ニ密接ノ関係ヲ有スル人々ニシテ、又男爵ハ日本商工界ニ最高ノ地位ヲ占メ、其商工業ヲ代表セラルヽノ人ナリ、今ヤ日英協約締結セラレ、今後東洋ニ於テ彼我共同事業ノ経営ヲ必要トスルノ時ニ際シ、我々同志者カ男爵ヲ迎ヘ、一堂ノ中ニ男爵ト親シク所見ヲ交換スルノ機会ヲ得タルハ余ノ特ニ歓喜スル所ナリ、願ハクハ将来日英両国ノ商工業者ハ互ニ相提携シテ、共ニ東洋ニ於ケル富源ノ開発ニ努力スル所アランコトヲ
渋沢男爵ハ之ニ対シ、左ノ趣旨ヲ以テ答辞ヲ述ヘタリ
 本日ハケスウイック君ノ懇篤ナル招待ニ依リ、玆ニ諸君ト面識ノ機会ヲ得タルハ余ノ最モ光栄トスル処ナリ、従来日英両国間ノ交誼ハ親厚ナリシト雖トモ、今ヤ日英協約締結セラレタル以上ハ今後其交誼ヲシテ一層親厚ナラシメ、彼我相提携シテ以テ東洋ニ於ケル事業ヲ経営セサルヘカラス、是過日倫敦商業会議所ニ於テ余ノ陳述シタル所以ニシテ、曩ニ余カ日本ヲ出発スルニ当リ日本全国商業会議所聯合会カ余ニ附託シタルノ趣旨モ亦蓋シ此ニ外ナラサルナリ、然リ而シテ向後相互ノ間ニ此目的ヲ達スルニ就テハ、余ハ特ニ諸君ニ向テ一事ノ注意ヲ請フヘキモノアリ、凡何レノ国民ヲ問ハス各其事業ヲ経営スルニ当リテハ、先ツ自己ノ利益ヲ主トシテ打算セサルヘカラス、然ルニ東西洋言語風俗ノ相違スル土地ニ在リテハ、各其利益ヲ保護スルノ点ニ付テ、時ニ或ハ些末ノ誤解ヲ生スルコトナキヲ保シ難シ、而シテ其誤解ヨリ相互ノ感情ヲ疎隔シ、其極遂ニ相互ノ間ニ反目疾視スルニ至ルコト往々ニシテ其例アリ、是畢竟互ニ其真想ヲ詳ニセサルヨリ致ス所ノ結果タラスンハアラス、思フニ本日玆ニ来会セラレタル諸君ノ如キハ何レモ東洋ノ事情ニ精通セラルヽカ故ニ、今後日英相提携シテ東洋ニ於ケル事業ヲ経営セントスルニハ、諸君ハ貴国商工業者ヲシテ我日本ノ真想ヲ知ラシメ、可成前述ノ誤解ナカラシムルコトニ尽力セラレンコトヲ希望ス、是実ニ相互ノ意思ヲ疏通スルニ極メテ必要ナル手段ナリト信ス、今ヤ歓迎ニ対シテ謝辞ヲ述フルニ当リ、一言以テ諸君ノ注意ヲ請ハント欲ス
又倫敦滞在中、萩原源太郎氏ハ渋沢男爵ノ命ニ依リ屡々同地商業会議所ヲ訪問シ、書記長モーレー氏(Mr.Kenric B.Murry.)及書記長補マスグレーブ氏(Mr.Charles E.Musgrave.)ト会談スル所アリタリ ○中略
    マンチヱスタル
同年八月一日、渋沢男爵ハ差閊アリタルニ付、梅浦精一及萩原源太郎ノ両氏ハ同男爵ノ代理トシテマンチヱスタル商業会議所ヲ訪問シ、書記長エリジヤー・ヘルム氏(Mr.Elijah Helm.)ニ面会シテ全国商
 - 第25巻 p.270 -ページ画像 
業会議所聯合会附託ノ趣旨ヲ陳述シ、会頭及会員ヘノ伝達方ヲ依頼シタリ○中略
    グラスゴー
同年八月一日、渋沢男爵ハ差閊アリタルニ付、梅浦精一及萩原源太郎ノ両氏ハ同男爵ノ代理トシテグラスゴー商業会議所ヲ訪問シ、書記長法学博士ヒル氏(Mr.William H.Hill.)ニ面会シテ前段両様ノ手続ヲ為シタリ ○中略
○下略


中外商業新報 第六二三七号 明治三五年一一月二日 ○渋沢男爵の談片(二)(DK250009k-0006)
第25巻 p.270-271 ページ画像

中外商業新報  第六二三七号 明治三五年一一月二日
    ○渋沢男爵の談片(二)
○上略
次に英吉利に渉つて見ると之は又亜米利加と比べるとスツカリ変つて居て古風が実に多く、旧体を改めんと云ふ風です、勿論長い間には漸次変つて往くことは往くやうですが、殆と此ことが斯ふ非常に進化したと云ふ風なこともなく、矢張古いことを宜いとして居る、併し夫と同時に人は随分高尚である、唯頑固なことはどうも争へぬやうです、世界の人を見るにチヤンと自分から高く止つて、マア一寸云へば「お前でも商売をすることか出来るか」「お前でも銀行の仕事をすることか出来るか」と云ふ風に見くびつて居る所があるらしく見へるです、そんならさふ云ふ当人はどう云ふ人かと云つて見れば、アノ大きなヱライ仕事をする銀行会社の頭取、若くは社長であつても、左程高く止まる人間とも思はれぬやうなヨボヨボした老人が多いのです、さふ云ふ人間が仕事をして居るからどうも目覚しい亜米利加若くは独逸の如き盛な大仕掛なものを見ることが出来ないやうです、併しながら何と云つても古い進取の国丈あつて、商品の集散する実況抔を見ると其商売が広く且大きいと云ふことは分るので、今尚世界に冠たる位地を占めて居ることは十分認めることか出来るです、けれども凡ての商工業が著しく進歩すると云ふことはどうも亜米利加・独逸に比べて稍々後れて居りはせぬかと感ぜらるゝ点が往々あるやうに思はれるです、マア譬へて云つて見ると一国の商売に大関係を持つて居る港に就て見ても、亜米加利又は独逸の港の如くに進んで居らぬ所が中々多いやうに思はれるです、元来港の設計に付ては近年各国共に競つて船の大きいのを造り、従来は六千噸とか八千噸とか云ふ船は最も大きい者とせられて居つたのであるが、今は中々そうでない、一万噸・一万五千噸と云ふやうな非常に大きな船がズンズン出来る、従つて古い設計の港ではさう云ふ大きな船を入れることが出来ないと云ふことになるのです夫故各国共に競つて港の改築をして、可成さふ云ふ大きな船を自分の港に引付けやうやうと汲々として努めて居る有様です、然るに英吉利の港はどうも後れて居るので、特に倫敦の港の如き既に独逸の漢堡若くは白耳義のアントワープの港の如くに進んで居らぬのみならす、英吉利内地の他の港に比しても遜色あると云ふ訳で、我々か倫敦の港を見ても之では往かぬ、改築を要する必要に迫つて居ると云ふ状況が見へる位であるです、夫故自国の人は一層其必要を感する訳であります
 - 第25巻 p.271 -ページ画像 
が、今年になつて漸く其改築の調査委員会を設けて調査をさせると云ふことになつたのです、丁度東京湾の築港が急務であるに拘らず調査に調査を重ねて何だかグズゲズして居る如くに、矢張グズグズして居ると云ふ有様で、之を以て見ても非常に進んで往くと云ふ力を持つて居ないことが一寸想像するに足ると思はれます


中外商業新報 第六二三九号 明治三五年一一月五日 ○渋沢男爵の談片(四)(DK250009k-0007)
第25巻 p.271 ページ画像

中外商業新報  第六二三九号 明治三五年一一月五日
    ○渋沢男爵の談片(四)
○上略
亜米利加の進歩は前にお話したやうに実に非常であるが、英吉利の方はそう往かない、けれども自分が見る所では、若し日本辺りで資本の相談でもしやうと思ふには矢張流石は英吉利です、どうも金の点に至ると、依然として英吉利が世界第一でしよう、米国人は己の資本で英吉利の地下鉄道をやつたので、頻に金融の中心が紐育に移ると云ふやうな考を持つて居るやうなものもあるが、自分はさうは思へぬやうです、夫に兎に角日本の事情を能く知つて居るものは矢張英吉利であります、従つて現在及将来に於て日本が資本の共通を計らうと思ふには英吉利に持つて往くが一番近途で成功が早いと思ふ、随分貸したがつて居るものも少なくないやうに見受けました……マア欧米を親しく歩いて来ると何分其盛なるには唯驚くの外ない訳ですが、自分の如き老人でも何だか若くなるやうな心持がして、日本へ帰つて来ても一日もジツトしては居られぬ、どうかしなければならぬと云ふ観念が去りませぬ、去迚ない袖は振れぬ訳ですが、兎に角結局は人であります、日本も人物を拵へて、其人の智識を連合して組織的にやつて往くことが肝要だと深く感じました
   ○右ハ「竜門雑誌」第一七五号(明治三五年一二)ニ転載サル。


欧米紀行 大田彪次郎編 第二〇六―二八九頁 明治三六年六月刊(DK250009k-0008)
第25巻 p.271-291 ページ画像

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竜門雑誌 第一七一号・第三六頁 明治三五年八月 ○和歌(穂積歌子)(DK250009k-0009)
第25巻 p.291 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第三六頁 明治三五年八月
  ○和歌 (穂積歌子)
    ○米国をへて英吉利につかせ給ひたる家尊大人の御許へ奉りける文のうちに
出る日に向ひて去にし君をいま
      入るさの月の空にこそしのへ
    ○御旅行中大人には常にいとまなくおはしますよしうけたまはりて
機の杼の行きかへるさまのいそしみに
      をるや錦の君か家つと
    ○出まし給ひし後はや二月あまりになりにたれと東京は常に雨のふる日のみ多けれは
別れにし袖のなこりかはれ間なく
      雨ふるさとの宿そわひしき
    ○八月九日 英国皇帝戴冠式をほきまつりて
かうふりの玉にこそ照れしろしめす
      御くにのきはみ入らぬ日影は


竜門雑誌 第一七一号・第四九頁 明治三五年八月 ○倫敦に於ける青淵先生(DK250009k-0010)
第25巻 p.291-292 ページ画像

竜門雑誌  第一七一号・第四九頁 明治三五年八月
    ○倫敦に於ける青淵先生
青淵先生には去七月十日倫敦に着せられて以来、朝野の名士、銀行・会社・公共団体等の訪問、接客、招待に応する等非常なる多忙を極め且商工業上各種の調査を為されつゝある由なるが、其招待を受けたる
 - 第25巻 p.292 -ページ画像 
重なる箇所は倫敦市長(ロードメアー)・英蘭銀行・倫敦商業会議所等にして、先生が倫敦商業会議所に於て為されたる演説の要旨は、左の如き旨の電報ありたり
 男爵渋沢栄一氏は、昨日倫敦商業会議所に於て演説し、ウイリアムケスウイツク氏之が会長の席に就けり、同男は日英両国相互の商業利益は同盟に依りて益々発達す可きことを切言し、尚日本の開発を進めんが為めに、泰西国民の知識経験及び資本を一併に輸入せんことを望めり、右の演説終るや、引続き日英貿易の減退に関して議論あり、渋沢男は善く考慮を致すべき旨を約したり


竜門雑誌 第一七二号・第四―一五頁 明治三五年九月 ○青淵先生漫遊紀行(其四)(八十島親徳)(DK250009k-0011)
第25巻 p.292-300 ページ画像

竜門雑誌  第一七二号・第四―一五頁 明治三五年九月
  ○青淵先生漫遊紀行(其四)(八十島親徳)
    △大西洋上の光景(第十一信続)
              (愛蘭クインスタウン七月九日発)
七月二日 晴、青淵先生一行は此日を以て、英国渡航の途に就かんとし、午前十時を以て紐育市内ホワイト・スター桟橋に到り「マゼスチツク」号に乗組む、桟橋は全面屋根を以て覆はれ、一万噸の大船も容易に横付けとなすを得べし、搭乗の旅客は馬車にて桟橋に到り直に本船に入る、其無雑作なること恰も鉄道停車場にて列車に乗込むに異ならす、内田総領事・同夫人・田中領事官補・高峰・堀越・和田守・瀬古・中窪・山田・村井其他の諸氏数十名見送らる
正午解纜、先生一行は玆に本国出発以来第二次の大航海に上る、船は「ホワイトスター」会社に属し、大西洋航海船中の第一位に列するものなり、速力十八哩、上等船客定員三百人にして今回は殆と満員の盛況なりし、乗組日本人は先生一行の外専門学校派遣の田中穂積・倉場富三郎の二氏なりし
船内は各種の設備善美を尽くし、食堂は広くして三百人同時に食卓に就くを得べく、喫煙室・読書室共に完備せざるなし、此日海上平穏、先生一行は或時は参々伍々甲板に運動を試み、或時は喫煙室に一団を為して米国の所見談に花を咲かせ、又は読書室に入りて適意の新刊書冊を繙き、知ら識らすの間に半日を消し夜に及ぶ
七月三日 晴、海上平穏、前日正午より此日正午に至る満一日の航海程三百十五浬、外に記すべき事なし
七月四日 雨、払暁より雨降り風亦加はる、船体の動揺大なる為め、先生を始め一行中自己の室に引籠るもの過半なり、此日の航程四百二十五浬
七月五日 曇、波やゝ収りしも食卓上尚ほ框を用ゆ、されと先生以下の一行悉く食堂に列す、他に記事なし、航程四百三十五浬
七月六日 晴、海上波やゝ高し、されど大西洋としては寧ろ尋常の事なりとなり、先生は甲板又は読書室にて読書に耽らる、船、東北に進むに従ふて冷気加はり、此日より甲板に出づる時は外套を用ゆ、航程四百三十浬、亜米利加出帆以来乗客中の有志が毎夜喫煙室にて翌日の航程を賭すること亜米利加丸に同じ、但売買の標準は太平洋よりも高く彼に在りては普通の糶直三弗より四弗位にして高きも七弗に過ぎざ
 - 第25巻 p.293 -ページ画像 
りしに、今回は二磅・三磅より上りて七磅・十磅に至ること珍らしとせず、此夜は先生以下其盛況を観覧せり
七月七日 雨、終日記するに足るの出来事なし、航程四百二十浬
七月八日 曇、午後より濃霧到る、汽笛を連吹して進む、黄昏に至りて霧霽る、航程四百三十四浬、此夜英米海員慈善会へ寄付の為め音楽会の催あり、会場は大食堂、入場券は一志以上随意にして上等船客悉く入場す、此収入百数十磅は皆な慈善会に寄付するものなりといふ、晩餐会後八時四十五分を以て開会し、夜十一時に至りて止む、乗客中の出演者男女合せて十五名、ピアノ独奏其他名手少からず、日本人の出演者中先生夫人の越後獅子は最も聴衆の喝采を博し、次で吉原雀を演ぜられしに、是亦非常の喝采なりし、唯だ聴衆中始て三味線を見たるものあり、頗る珍奇の感をなせるものゝ如かりし、次に梅浦氏の三味線無しの追分節、是亦拍手を以て迎へられ、西川嬢はピアノを奏せしが共に好評を以て終れり、最後に会員総起立し、米英両国の国歌を唱和して散会したり
七月九日 曇、此日正午愛蘭のクインスタウンに寄港し、翌十日午前七時を以てリヴアープールに到着の筈なり
    △倫敦到着(第十二信)
                  (英国倫敦七月十八日発)
七月十日 微雨にて寒し、午後三時本船「マゼスチツク」号はリヴアープール港外に着し、七時桟橋に入る、汽車は桟橋に留まり煙を吐て上陸の客を待てり、先生一行は日本郵船会社の根岸練次郎・ゼームス氏、三井物産会社の関周助氏・伊東祐穀氏等に出迎へられ八時卅分発車、汽車は最急行にして一回も中途に停車することなく、二百五十哩の長途を疾風の如く僅々四時十五分間にて奔馳し、零時半倫敦市中ユーストン駅に到着す、玆には渡辺専次郎・松井慶四郎・青木鉄太郎、ステット、デオシー、門野重九郎・柳谷・志保井の諸氏其他日本人数名出迎へらる、今回は旅館の都合に依り先生一行二組に分れ、先生及同夫人・市原氏・西川嬢及八十島親徳氏は「コーバーグ・ホテル」へ又梅浦・萩原・清水・渋沢元治の四氏は「ランガム・ホテル」に投宿す、倫敦市中は酷暑の季節なるにも拘らず、正午寒暖計八十度許、盛夏のこととて煙霧閉さず、連日快晴、気候極めて人体に適せり、此日先生を訪問するもの頗る多し、午後先生は本邦公使館に林公使を往訪せられたり
七月十一日 午前先生は市原・八十島両氏を随へ、渡辺専次郎氏の案内にて「チユーブ」(地下電気鉄道)に試乗し、日本郵船会社・三井物産会社・正金銀行・領事館・大倉組・高田商会及「ジヨン・バーチ」会社等を歴訪す、而して先生夫人にはステッド氏及同夫人・渡辺専次郎氏夫人・根岸練次郎氏夫人・松井慶四郎氏・児玉秀雄氏・「デーリーメール」記者・門野氏夫人等の来訪を受らる
七月十二日 晴、当日はサミウル、ホーアナ、根岸・門野の諸氏、其他ステッド夫人及同若夫人、シヤンド氏等先生を訪問せり
    △高等商業学校出身者の招宴
七月十二日午後七時、先生には高等商業学校出身者の招待に応じ「カ
 - 第25巻 p.294 -ページ画像 
フヱ・ベレー」に赴かる、萩原氏は嘗て商法講習所講師たりし縁故を以て、又八十島氏は同校出身者たるの関係を以て共に其席に陪せり、主人の氏名は左の如し
 △三井物産会社 渡辺専次郎 小室三吉 加地利夫 友常和中 中村藤一 平山虎二郎
 △日本郵船会社 大谷登 三本重祇 神成季吉
 △横浜正金銀行 相沢坦 菊地幹太郎 太田保一郎
 △高田商会 柳谷巳之吉 志保井重要
 △公使館 浮田郷次
 △領事館 有吉明 染谷成章
 △帝国商業銀行留学生 杉浦寿太郎
 △文部省留学生 下野直太郎 石川文吉
饗応頗厚く、宴中夜光撮影をなす、次に渡辺専次郎氏は招待者一同を代表し鄭重に歓迎の辞を陳べ、先生は左の如き答辞をなしたり
   ○答辞前掲ニツキ略ス。
とて厚く謝意を表し、且つ今夕は一家一族の団欒と見做し、自分の胸中に浮べる四問題に関し胸襟を披いて吐露する所あるべしとて、凡そ二時間に亘れる大演説をなせり、其趣旨は
   ○演説前掲ニツキ略ス。
右演説終り主客歓談、相互年来の関係上同窓諸氏の先生に対すること恰も子女の慈母に対する如く、子弟の恩師に対するが如く、閑話滾々として尽る所を知らず、十二時退散せり、曩に紐育にても同様の招待あり、今又倫敦に於て此会あり、先生は衷心愉快の情禁ぜざるものゝ如くなりき
    △市中遊覧
七月十三日 晴、此日は日曜にして他と会合の約束もなかりしかば、全く市中遊覧の為に一日を消せり、先生及夫人には市原・西川・八十島・萩原等諸氏を随へ先つ有名なる「セント・ポール」寺院に臨みて日曜の法式を見る、此日「ビシヨツプ」三名の新任式あり、典儀壮厳来衆の静粛なる実に英人の気風を顕はせり、午後馬車をハイド公園に駆りケンシントン離宮の庭園を見、次に大英博物館を縦覧す、其規模の宏壮なる、其組織の完備せる、博く古代及近代の珍奇なる物品を網羅して漏す所なきに至ては誠に一驚を喫するの外なかりき、夫よりレゼント公園を過き動物園に入らんとす、此日々曜なりし為め一般公衆の縦覧を謝絶す、只会員及其紹介者の出入を許すのみ、男爵一行は会員ならず、又会員の紹介を有せるにも非す、然るに動物園は日本の渋沢男爵なるを知つて特に其入場を許可せり、日本人の近来米国に於て優遇せらるゝは今更謂ふ迄もなきことながら、今や英国に於て斯くも日本人を厚遇するかを看て殆んと意外の感に打たれたり、園内の弘濶なる、動物分類法の整頓せる、蒐集せる種類の無数なる皆以て注目の料たらさるなく、就中各種の獅子・鰐・班馬・海馬・麒麟・海象等は日本に於て容易に見ること能はさるの動物なりとす
    △ビセツト氏との会合
七月十四日 午前先生には林公使、ウオルター、阿部書記官・根岸氏
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及同夫人・深谷・杉浦諸氏の来訪を受け会談せらる、午後一時「ジヨン・パーチ」会社より過般日本に派出せられ、此程倫敦へ帰れるコロネル・ビセツト氏の招待にて、ポールモールの「ユーナイテツド・サービス」倶楽部の午餐会に赴き、次に「ベーリング・ブラザー」会社を訪ひ、ビセツト氏の紹介に依り社長サー・レベルストーク卿と会談せらる
    △日本協会の園遊会
同日午後五時、レゼント公園内植物園に於て日本協会の催に係る英国派遣日本艦隊伊集院少将以下将校の歓迎園遊会に招待せられ、男爵・同夫人以下随行員一同打揃ふて之に出席す、同日の来会員は日本人百五十名・英人三百余名・倫敦市長・夫人・以下有名なる貴紳淑女の出席頗る多かりき、公園の入口には日英両国の国旗を交叉し、園内の装飾亦華美を極む、会長林公使・評議員デオシー氏其他名誉書記等来衆を接待し、日本海軍々楽隊の奏楽嚠喨たる間に於て茶菓の饗応あり、日英両国人互に握手して歓談し、和気頗る靄然たるものありき、翌日発刊の倫敦「タイムス」は当日の模様を記すること左の如し
 去る七月十四日倫敦レゼント・パーク帝室動物学協会庭園に於て、伊集院少将の為めに盛大なる園遊会は開催せられたり、会場には特に日本司令官の送られたる旗艦浅間艦の楽隊あり、絶えず嚠喨の曲を奏し、庭園は絶間なきまてに花を以て装飾せられ、加ふるに極東より来れる海軍の花は何れも大礼服に包まれて彼方此方に逍遥せるなど壮観云はん方なかりき、而して園遊会の主催者たる日本協会の林公使(会長)、デオシー(評議員)、ベバン(会計)、ヒユシ(参事)、ホルムス(名誉書記)・浮田(同公使館書記官)の諸氏は懇ろに来客を接待したり、来客の重なるものは主賓伊集院少将を初めとし、男爵渋沢氏夫妻、オンスー卿夫妻、ガスリー大将、マセンハツチ、ビータツチの各男爵夫妻等其他貴族、陸海の諸将軍等数多く、何れも歓を尽して散会せり、云々
    △蝋人形見物
七月十四日夜に入り、先生一行はマダム・ツーソードの蝋人形を見物す、陳列種類三百余、手工の精妙天工を奪ひ、殆んと実物との区別に苦む、別室の入口に当り記帳室に模擬せる一室あり、一婦人あつて新聞を閲読す、先生一行中右婦人を以て陳列場の掛員なりと認め、縦覧の順序如何を問掛けたるものあり、婦人黙して答へす、豈図らんや是れ一箇の人形なりとは、以て如何に人形の状貌真に迫れるかを察す可らすや、目下先皇ヴヰクトリヤ陛下か御居間に於て書状を認めらるゝの御姿、及ひ現皇帝陛下一家団欒の景等、新規の呼物として大に評判高し
    △内外人の招待
七月十五日 本日は最暑くして凌き難しと称せらる、去れど先生一行には誠に凌易き気候にして、寒暖計は八十度を示せり、午前倫敦商業会議所書記長マーレー氏来訪せり、先生には右の外数人に応接し、又書類の調査書状の発送等の為め全日を消せらる
七月十六日 曇、午前より午後に亘り先生は渡辺専次郎氏其他二・三
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の来客に接し、其他の時間は前日に引続き書信を認むる為に費されたり、午後八時「サミユール」商会主人サミユール氏の招待にてテームス河畔「サボイ・ホテル」へ赴く、同氏一族及友人十六名同席し頗る盛宴なりき
七月十七日 曇、先生は午前「サミユール」商会を訪問、午後五時先生及夫人を始め一行打揃ひ市内ストンダムの青木鉄太郎氏方に赴く、特に同氏の招待を得て日本食の饗応を受けんが為なり、宴終て青木氏は一同を水晶宮に案内せらる、当日は木曜日に当り花火打揚の催あり揚花火・仕掛花火等精巧にして壮快なるは殆んと喫驚の外なし
    △テームス河畔繋船所
七月十八日 曇、午前九時、倫敦市内なるフヱンチヤーチ停車場を発しテームス河畔の繋船場を視察す、日本郵船会社のジエームス、根岸両氏及渡辺専次郎氏等案内せらる、先づ「ローヤル・アルバート」船渠に至り、鉄道と船舶との接続する実況を見たり、船渠水深三十尺、現に大船三十艘を繋留せり、聞くが如くんば倫敦市内数十の船渠主は合同して「ロンドン・エンド・インヂヤ・ヂヨイント・ドツクス」会社を組織したるに依り、競争を防ぎ各船渠共一様に繁昌するに至れりと云ふ、当日は日本郵船会社鎌倉丸が本国に向け出帆する為め、一行は上記船渠に於て同船に乗じテームスの本流に進み流に従て下ること数哩、更に小蒸汽船にて上陸、尋てチルベリー船渠を視察し、繋留中の常陸丸にて昼餐を饗せられ、夕刻帰宿したり、同夜先生には林公使の招に応じ公使館の晩餐会に臨めり
    △演劇と演芸(第十三信)
                  (英国倫敦七月廿五日発)
七月十九日 曇、先生は此日午前を以て林公使を公使館に、渡辺国武子を「クロブナー・ホテル」に訪問し、午後二時より「ライシヤム」劇場に到り演劇を観覧せり、狂言は有名なる「マーチヤント・オヴ・ヴエニス」俳優は当国第一の名優ヘンリー・アービング及女優ミステレーにして、此日は土曜なりし為め昼芝居なりし、名にし負ふ名優の演劇程有りて満場立錐の地もなかりしが、別して此日の出演は本年の最終にして、優一行は是より英国各地を巡業すべく、倫敦にては来年の春ならでは再演せざるべしとの揚言を為したることとて、此日は一層の盛況を呈したるものゝ如かりし、此夜「ヒツポドローム」に到る同所は日本に於ける寄席の宏大なるものにして日本手品・皿廻し・馬芸・道化・茶番・芝居等あり、最後の演劇は水中の戦争を演じたるものにて、舞台一面を水となし水中に於ての戦争演劇、日本にては容易に見るを得ざる大仕掛なり
    △テームス河上の舟遊
七月二十日 少雨、此日渡辺専次郎氏夫妻・根岸練次郎氏夫妻・青木鉄太郎氏夫妻・門野重九郎氏夫妻・小室三吉氏夫妻並柳谷巳之吉氏等の案内によりテームス河の舟遊を試む、一行は午前十時を以てパツチントン停車場より乗車しタブロー停車場に向ふ、林公使・同夫人・渡辺子爵・同千冬・塩川法学士等亦同行せり、行程四十五分にしてタブロー停車場に達し夫より小蒸汽二艘を仕立てテームス川を遡る、行く
 - 第25巻 p.297 -ページ画像 
こと十二・三哩、流緩かに水清く両岸には青樹鬱蒼たり、四辺の風物宛ら大公園に似て、男女相語らひつゝ短艇を漕ぐもの、さては白鳥の游泳せるなと真個西洋画中の風色にして、遠く塵環を逸脱して仙舟に棹さすの思ひあり、船には醇酒佳肴残りなく用意せられ、終日を優遊して午後七時帰館す、此夜先生一行は渡辺・小室両氏の案内によりプロンズベリーの三井倶楽部に招待せられ、日本食の饗応を受く
    △会談と傍聴
七月二十一日 曇、頃日来冷気勝にして此日は寒暖計六十度内外、恰も晩秋の気候なり、本年は当国に在りても例年に見ざる冷気なりと伝ふ、先生には午前中ステツド氏其他の訪客に接し、午後外務大臣ランスダウン卿を外務省に訪ひて会談せり、退出後貴族院及衆議院を傍聴し、日暮て帰館す
    △「オペラ」見物
七月二十二日 曇、先生は午前ケセツキ、サー・ビセツト及「モーニングボスト」新聞のモーリス氏等の来訪に接し、午後「チヤータード」銀行の頭取グワイサー氏を訪へり、夜先生には同夫人以下と「ローヤル・オペラ」を観る、劇場の建築壮大を極め装飾亦善美を尽くし、舞台の道具立は固より、演劇に至る迄孰も目を驚かす許りなりし、狂言は「アイーダ」にして、俳優は女優リツトピンス一座なりき
七月二十三日 曇、先生は午前ケセツキ氏、ステレー氏其他の訪客に接し、正午シヤンド氏邸に招待せられ昼餐の饗応を受けたり
    △英蘭銀行
七月二十四日 曇、午前先生はホーナー氏其他の来訪に接し、正午英蘭銀行総裁プレボース卿の招待により市原氏を随へて同行に到り、総裁に面会し、卿の案内により各局・各課・兌換券印刷部・金庫等を巡覧せり、行内の観覧は一般に対しては決して許されざる内規の由なれども、先生に対しては特別の好意を以て取扱はれたるものなりといふ巡覧終て後行内に於て昼餐の饗応あり、同行正副総裁主人となり、サー・レベルストク卿、サー・ピセツト卿亦同席せられたり
事の序なれば、英蘭銀行の兌換券に関する統計を左に掲ぐ
 既往五年間に発行したる兌換券総数七千八百万枚、此金額七億五千万磅にして
  之を容るゝ箱の数一万三千四百個、之を並ぶるときは二哩三分の一に達すべく、此兌換券を一枚一枚に積重ぬるときは五哩三分の二の高きに達し、一枚一枚繋き合はすときは一万二千四百五十五哩の長さとなり、又之を平地に並べ敷く時はハイド・パーク大公園の全面を蔽ふへし
  此兌換券の重量は九十一噸に上る
英蘭銀行退出後「ベーリング」兄弟商会其他を訪問し、夕刻より林公使、ロングフオール、ホーナー諸氏の来訪に応接せり、夜「アールス・コート」の見世物場に到る、先生以下一行中代る代る赤竜の汽車、水中の辷舟、護謨坂等を試む
    △倫敦商業会議所招待会
七月二十五日 晴 此日先生は午前中モーリス、根岸其他諸氏の来訪
 - 第25巻 p.298 -ページ画像 
を受け、午後二時三十分を以て倫敦商業会議所に赴けり、同商業会議所にては青淵先生を招請し其談話を請はんが為め、特に此日を以て総集会を召集したるものにして、総集会開会に関し各会員に発したる通知状左の如し
 此度当地に来遊せられたる東京商業会議所会頭にして又其代表者たる渋沢男爵の要求により、来金曜日(七月二十五日)午後二時三十分、本会議所に於て代議士ケスウイツク氏司令の下に臨時会を開くことに相成候間、此段御通知申上候
 渋沢男は遊覧の途次当倫敦に来着せられしを機として、日本と英国とか一層親密なる商業関係に入らんことの希望を述んことを望まれ特に日本法律中変更を要する件其他如何なる点に於ても、諸君の忠告を受けんことの御希望に御座候
 右に就き万障御繰合せ御出席相成度、若し御演説の御希望も有之候へバ其旨一寸私迄御通知被下度、此段得貴意度候 不備
                書記 ケネリツク・モーレー
斯くて来会するもの廿余名、ウヰリアム・ケセツキ氏会長席に着き、総集会開会に関して簡単なる挨拶を為し、次で先生の挨拶あり、終て市原氏をして一篇の意見書(本号社説欄参照)を朗読せしめ、市原氏の朗読終や会員中我国の法制及慣習上に就て意見を吐露するものあり又は質問を為すものあり、男爵は之に対して一々叮寧に答弁せしが、結局此種の質問・意見に就ては逐て同会議所より書面に認めて先生まで提出することとなりて、先生は会議所を退出せり、之を要するに此日の会見は、我商業者の意思を英国商工業者に疏通するの上に於て非常なる効果ありたるものゝ如く、市原氏の朗読せる一篇に対しては会員一同最も熱心に傾聴したりといふ
会議所退出後先生はミツチエル氏を往訪し、帰館後ホーナー氏の来訪に接し、午後七時より倫敦市長官邸の晩餐会に臨席せり
    △倫敦市長の晩餐会
青淵先生は、七月二十五日午後七時より「マンシヨン・ハウス」(市長官邸)に於けるロード・メーヤー・サー・ダムスデール卿の晩餐会に臨まる、夫人並に市原氏同行す
抑も当夜の晩餐会はサー・ダムスデール卿並同夫人の催に係り、大蔵大臣・英蘭銀行総裁及理事、倫敦市の重立ちたる銀行家及豪商・新聞記者・大僧正等三百十五人を招待せる大宴会にして、特に此日を以て渋沢男爵を招待したるは、先生及同夫人を殊遇するの趣旨に出でたるものなりといふ、世人の知れる如く倫敦市長は英国交際界の中心にして毎任期中屡々大宴会を開く、就中定式の大宴会は
 一、オルダーメン(即ち市長被選挙者)の招待会
 二、裁判官の招待
 三、大僧正の招待
 四、財政家の招待
 五、衆議院議員の招待
当夜の宴会は即ち第四種の財政家の招待会にして、最も盛大なるものの一なりといふ、市長の宴会は非常に名誉あるものとせられ、総理大
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臣の如きも其席上に於て施政の方針を発表する習慣ある程なれば、世人の之を重要視するも偶然にあらず、先生が斯る盛宴に招待せられしは誠に名誉の事といふべし
来賓の大半来集せる頃、市長ダムスデール卿は職服を着け、従者数名市長の剣其他を捧げて扈従し、威儀堂々として入来るや、来賓は代る代る卿の傍に至りて握手を為す、終て七時三十分食堂を開く、食堂は三百余人を容れて尚ほ綽々の余裕あり、四辺の装飾善を尽し美を極め金色燦爛殆と人目を眩する許りなりし、ダムスデール卿は正面特別の椅子に倚り、来賓は各々指定の席に着く、酒宴中卿は来賓中の重立ちたる人々の姓氏を挙げて其健康を祝し、且つ儀式として大盃の呑み回はしを為せしが、其姓氏の中には正しく青淵先生の名もありしといふ卿の挨拶に続て演説を為したるは大蔵大臣フヒツクスビーチ卿・英蘭銀行総裁ブレボース卿・前大蔵大臣ゴツシエン子及英蘭銀行副総裁等にして、先生は十一時を以て帰館せり
七月二十六日 曇、先生は午前マーレー氏、ステツド氏其他の来客に接し、夕刻よりブロンスベリーの根岸練次郎氏邸に招れ日本食の饗応を受け、閑談深夜に及ぶ、筆の序なれば倫敦に於ける新聞の状況に関し、「モーニングポスト」に関係あるモーリス氏の直話を挙ぐれば左の如し
 最も勢力あるはタイムスにして一日の発行高十二万枚、所有者はロード・ウヲーター氏一個人なり
 次に勢力あるはモーニング・ポストにして一日の発行高十五万枚、所有者はロード・グレネスク一個人なり
 発行紙数最も多きはデーリー・テレグラフにして、一日の発行紙数二十五万枚なるも勢力なし、所有者は会社なり
 其他デーリー・メールの如きあれども左程の勢力なし、所有者は会社なり
    △英国富豪の生活(第十四信)
                  (英国倫敦七月廿九日発)
七月二十二日 曇、此日先生にはマーカース・サミユル氏の招待により、午前八時五十分発の汽車にて、メヂストーンに於ける同氏の別墅に赴けり、此間の行程二時間、別墅は英国富豪の生活を代表せる一標本にして、建築宏壮、庭園亦之に適ふ、其広袤方一哩、此坪数七十余万坪、即六百「エーカー」と称す、園内森林あり、芝生あり、花園あり、果樹園あり、狩猟場あり、馬数十頭・馬車数十輛を備ふ、以て園内を優遊すべく、又狩猟を試むべく、規模の大、殆想像の外に在り、先生は此処にて盛なる午餐の饗応を受け、午後七時帰館せり、夜渡辺専次郎氏・三井高保氏の令息高精氏其他の来訪に接せり
    △来訪と往訪
七月二十八日 曇、先生は午前ゼー・ゼー・ケセツキ氏其他の来訪に接し、午後一時アルフレツド・ステツド氏の招きに応じ「サボイ・ホテル」に赴きしに、ステツド氏父子夫妻の歓遇到らざる所なく、殊に老ステツド氏は論客にして、市原氏の通訳により先生と語らひ、談緒尽きざること縷の如し、午後四時帰館、サー・スペンサー氏其他の来
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客に応接し、同八時ゼー・ゼー・ケセツキ氏の招に応じ「ワエリントン」倶楽部に赴けり
七月二十九日 曇、午前中来客数名に応接の後、我公使館を訪問し、午後より三井物産会社及「ジヨン・パーチ」会社を訪問せり
先生一行が倫敦着以来玆に三週日、此間の気候は我邦の晩春若くは初夏に於けるが如く、風気甚だ人に佳なり、されば先生以下頗ぶる健在特に先生は日々応接・往訪・招待若くは観光に忙はしく、其間書類の調査並通信往復の事に従ひ毫も倦怠の容あるなし、唯夫れ以往三週間の滞留中に於て先生の接見せられたる名士固より尠からずと雖も、時偶々夏季旅行期に際会せるを以て、今尚ほ会見の機を得られざるもの尠しとせす、依て此時より八月九日の英皇帝戴冠式に至る間の八・九日を利用して英の北部及蘇格蘭を週遊するに決し、一行は七月三十日を以て倫敦を出発の筈、其再び倫敦に帰着するの期は戴冠式に先つこと両三日、即八月六・七日の交に在るべし


竜門雑誌 第一七二号第三九―四一頁 明治三五年九月 欧米漫遊中之青淵先生(DK250009k-0012)
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竜門雑誌  第一七二号第三九―四一頁 明治三五年九月
  欧米漫遊中之青淵先生
    ○青淵先生に対する欧米諸新聞の論評及記事(其三)
      △七月十二日倫敦「デーリー・メール」
青淵先生の一行が世界観光の途上米国に到るや極東の大財政家・大富豪とし東洋のモルガンと評し、欧米に其名を最も古く知られたる我伊藤侯、支那の故李鴻章伯にも劣らさる名誉と声名とを与へて歓迎せしことは本誌の前々号以来報したる処なるが、去月十日無事倫敦に着するや先生の一行は英国に於ても米国と同じく朝野の歓迎を受け、或は市長の饗応に或は商業会議所の優待に日も之れ足らざる計なりと云ふ右に就き去七月十二日の「デーリー・メール」は逸早くも先生に日本のモルガンの称号を附し先生を訪ふて其談片を掲けたり、而して其談片の中最も面白きは先生が英国と米国を比較して東洋に於ける英国商業上の地位を論したるものなり、今其大要を抄訳すれば左の如し
   ○前掲ニツキ略ス。
      △伯林「ポスト」新聞
東洋のピーアポント・モルガン来れりとは、目下欧洲諸新聞雑誌が盛に報道せる所なるが、東洋モルガンとは別人ならず、即ち青淵先生を指すものにして、或は日本の大経済家、或は東洋のモルガンと、如何に先生が欧米諸国に歓迎せらるゝかを推知すべし、伯林のポスト新聞は英米独の商人に就てなる題目の下に、先生の意見なりとて記せり、其大意に曰く
 米国商人は、二十五歳前後の壮年の如し、生意活気勃々として満てり、事を為すや勇壮敢進して畏避する所なく、好んで大事業を企画す、然れとも往々向ふ見ずの弊に陥る、英国人は四十以上の中年に似たり、一挙一動軽卒ならずして思慮周密用意渾到なり、然れども往々守旧因循の風あり、此間に立ちて最も恐るべきは独逸商人なり彼は日本に於て商工業に従事せんとするや、本国に於て既に日本語を習熟せり、日本に至るも毫も番頭の媒介を要せずして日本人と直
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接取引を行へり、英米商人が数年の久き日本に在るも日本語に通ぜず、一に番頭を要する者とは霄壌の差あり、将来東洋の商権を掌握せん者は夫れ独逸人ならんか、云々
    ○青淵先生支那漫遊の見合
青淵先生一行が出発当初の予定に拠れば、欧洲よりの帰途支那に立寄り、同国内地をも漫遊すべき筈なりしも、今回都合ありて之を中止し欧洲より直行帰朝することとなりたる由なり
    ○青淵先生の帰朝期
青淵先生は去月七日倫敦を発して欧洲大陸巡遊の途に上りたるが、今先生一行帰朝の予定日取なりと云ふを聞くに、先つ仏・伊其他大陸各所を観覧の上、九月十二日を以て倫敦を解纜する神奈川丸のポートセツドに到着する日取り、即ち九月二十四日迄にポートセツドに赴き、同地にて神奈川丸に乗込み、二十五日を以て出帆帰途に着く筈なりと云へは、来十月二十九日頃には神戸港に到着すべき予定なりと云ふ


竜門雑誌 第一七三号・第一―九頁 明治三五年一〇月 ○青淵先生漫遊紀行(其五)(八十島親徳)(DK250009k-0013)
第25巻 p.301-307 ページ画像

竜門雑誌  第一七三号・第一―九頁 明治三五年一〇月
  ○青淵先生漫遊紀行(其五)(八十島親徳)
    △英国北部の周遊(第十五信)
                   英国倫敦八月十一日発
青淵先生の一行は七月三十日倫敦を出発して大英国の北部に向ひ、リバプール、マンチエスター、グラスゴー、ヱヂンボロウ、ニユーカツスル、シエツフヒールド等を周遊し、八月七日を以て倫敦に帰着したるが、言ふ迄もなく以上の各地は執れも英国に於ける最主要の工業地なるを以て、先生の此行は英国富強の原因、少くも其原因の一面を窺知するに於て尠からざる稗益ありたるべきを信す、尚ほ此等の地方は英国の中に在りても北方に偏し居れることとて気候倫敦よりも寒く、冬服に外套を着重ねての夏季旅行は、日本にては見るを得ざるの奇観にてありし、以下北部周遊中の日誌を掲ぐ
    △リバプール
七月三十日 曇、先生一行は午前十時四十分倫敦市ニユーストン停車場発の汽車にて北部漫遊の途に上る、一行は青淵先生・同夫人・市原梅浦・萩原・八十島・西川諸氏にして、外に三井物産会社理事渡辺専次郎氏も特に厚意を以て同行せらる、尚渋沢元治氏は前日を以て先発し、清水泰吉氏は当初より倫敦に於ける銀行の景況を視察調査するの目的を以て来遊せることゝて、独り倫敦に止まり此行中に在らず
午後二時三十分リバプールに着す、三井物産会社の取引先たる棉花商ウオルセス氏外一名出迎へ、一行を案内して棉花取引所及一般商品取引所に到る、仲買人数百名群集し盛んに売買を為しつゝあり、此両取引所とも取引所は単に集会席を供給するに止まり、取引は全く仲買人間の相対的関係に過ぎずといふ、此の如く取引所の組織は極て簡易にして又極て自由なるも、仲買人の員数には自ら制限ありて漫に加入するを許さず、仲買人に欠員を生ずる時は多数の加入希望者の中より投票を以て加入を許るす方法なり、是を以て仲買人は孰も身元正しく信用厚く、取引に失態を現はすが如きは殆ど絶無の事なりといふ
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次にリバプール穀物倉庫を観る、此倉庫に出入する穀物は小麦なり、豆類なり、総て米国より大汽船にバラ積となして来着するものにして其穀物は一切人手を仮らず「サクシヨン・パイプ」と称する吸上げ器械にて穀物倉庫に導かれ、夫より護謨製の「コンベヤー」にて地上二百五十呎なる十階の高処に送り上げ、夫より各貯蔵室に落下し貯蔵するの方法にして、其貯蔵室は「ヴオルト」と称し其数三百五十個あり何れも二百噸宛を入ると云ふ、次に貯蔵室より外部に搬出する際は、其時々の必要により下部の孔より出し、之を衡器にかけて袋に入るゝものなるが、由来リバプール港は英国三千余万人の食料たる小麦の輸入港たるを以て、穀物倉庫の設備は実に壮大を極めつゝあるなり
次で「アレキサンドラ・ドツク」に至り海陸運輸連絡の実況を観る、言ふまでもなくリパプール港は英国対外貿易の第一関門なるを以て大船巨舶の出入織るが如く、船渠の如きも四十以上あり、悉く港内に並列す、近年に至り各船渠は皆な合併して一会社に帰したる由なるが、各船渠には必らず上屋又は倉庫の附属するありて輸出入貨物の揚卸に便ず、各船渠は各汽船会社にて夫々船渠会社より借受けたる上、上屋及倉庫をも専用するの方法を取り居れる由
最後に工業学校を一覧し、終て午後七時発の汽車に搭じ、同四十分マンチヱスターに着し「クインス・ホテル」に投ず
    △マンチエスター
七月三十一日 曇、此日先生一行は渡辺専次郎氏の案内にてマンチエスター近傍の工場を視察せんとし、先づ午前九時半の汽車にてボルトンに到り「マスグレープ・エンド・ソンス」の器械製造場を観る、専務理事マスグレープ氏丁寧に一行を導て工場を巡覧せしむ、工場は之を米国の大工場に比すれば規模聊か小なりと雖も、作業組織の整頓せると作業に親切なるの点に於ては、遥に米国の上に在り、一行は夫より「ボルトン」紡績会社の工場を観、正午マンチエスターに帰り、更に汽車にてオルダムに到り、世界最大の紡績器械製造会社たる「プラツト・ブラザース」会社を訪ふ、専務理事ドツト氏以下の重役数名一行を出迎ひ工場に案内せらる、同工場は三井物産会社の取引先にして我邦紡績会社の使用せる紡績器械の大部分は、同社の製造に係るといふ、同社は我日本に対し此の如き利害の関係を有するを以て、時々社員を日本に派出すと云ふ、同社にて昼餐の饗応を受け、其れより「オルダム」天鵞絨会社、「パイン」紡績会社等を巡覧し、七時汽車にてマンチエスターに帰着す
八月一日 晴、渡辺専次郎氏の案内にてマンチエスター運河を視、次で三井物産会社の取引先なる「キヤラコ」問屋に到り、重役の案内にて東洋向「キヤラコ」更紗類荷造の実況を見る
夫よりマンチエスター一般商品取引所に到る、同取引所は他と異り言はゞ有らゆる商人の集会所にして、各種の商人は各自一定の出金をなして会員となり、毎日一定の時刻を期して玆に集会し各種の商談を為すの機関にして、定期取引は一切之を行はざるも、商人相互の往来通信の手数を省くを以て其利便尠からずといふ、此の如き取引所組織は他に見ざる所にして、場内甚だ広く優に千人を容るべしとなり
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取引所の観覧終りて一行は午後二時十五分発の汽車にてグラスゴーに向ふ、渡辺専次郎氏は此処にて一行に別れ倫敦に帰る
汽車北行蘇格蘭に入るや、地勢日本に似て山水の眺望頗る佳、山腹には牧場多く、牧羊点々として青草の上に起臥するなど一種の好風景なりし
午後九時グラスゴー着、「セントラル・ステーシヨンホテル」に投宿す
    △グラスゴー
八月二日 雨、先生一行は此日午前中領事ブロウン氏の案内にて「フヱーヤフイルド」会社の造船工場に到る、同社はグラスゴー四十有余の造船所中最大なるものゝ一にして、我郵船会社の熊野丸は此造船所に於て製造せられしものなりといふ、同社は毎年平均軍艦・商船の壮大なるもの五・六艘以上を新造する由にて、此日午前十一時には濠洲航路船「ヴイクトリヤ」号(四千噸)の進水式あり、一行も特に列席せしめらる、社長の夫人命名をなし、斧を把て纜を断ち三鞭酒を注げば船は徐ろに動て水中に進み、玆に進水式を終はる、同造船所はクライド河に沿ひ河幅広からざるも、船の操縦巧妙なるを以て聊も支障あるなし、式終て所内の一室にて三鞭酒及茶菓の饗応ありたり
午後よりは元我工部大学校御雇たりしダイヤース氏の案内により、グラスゴーより小蒸汽にてクライド河を下ること二十哩、河の両岸に設立せられつゝある幾十の造船所を概観す、「フエンヂルツン」以下の大造船所同河の両岸に並列し壮観を極む、河口に近きグリノツクに至りて上陸し、汽車にてグラスゴーに帰へりしは午後五時なりし
    △エヂンボロウ
八月三日 雨、此日は日曜なるを以て工場の観覧・買物其他要談めきたる行動を為すこと能はざるにより、蘇国の主都なるエジンボロウを遊覧するに決し、午前八時三十分の汽車にてグラスゴーを発す
日曜といへば倫敦其他の都市にても商家の大部分は休業し、要談にて来往する訪客もなく、汽車並郵便の如きも其回数を減じ、演劇其他の興行物すら休業するを例とすれども、グラスゴー地方にては此風習一層厳格にして大小商店は悉く休業し煙草一個を購ふことすら能はず、汽車も唯申訳的に朝夕二・三回の発車を為すに止まり、街路も停車場も寂寥を極め恰も深夜を往くの思ひあり
汽車の沿道は流石に蘇国ほどありて丘陵・畑・森林等風色凡ならず、十時半エヂンボロウに着す、同市は蘇国の主都にして有名の古城あり街衢の状況亦甚だ古雅にして、渡英以来此処に至りて始めて煙突なき都市に入ることを得たり、唯々此日は日曜なりし為め市内各戸皆な戸を鎖し、街道寂として人影甚だ疎なり、此の如き実況なるを以て一行は馬車を雇はんとするも得ず、斡旋百方したる後漸く四頭立の乗合馬車を得て郊外十一哩のフオースブリツヂといへる有名なる鉄道橋梁を観る、沿道には貴族の采地多く風景掬すべし、橋梁の観覧終りて後昼餐を喫し、三時エヂンボロウに帰り、カルトン・ヒルに登りて古蹟を尋ぬ、終て市中を巡遊し、七時三十分グラスゴーに帰る
因に記す、フオース・ブリツヂは有名なる大鉄橋にして全長二哩、今より十二年前の竣工に係り、建築費三千万円、鋼鉄塔の高さ三百六十
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呎あり、橋下水清く、両岸の丘陵には樹木鬱茂し、天為と人工と相須て一種の好風景を為す、人の遊覧に来る者甚だ多しといふ
    △グラスゴー(其二)
八月四日 曇り、此日午前十時名誉領事ブラウン氏来訪あり、其配下某氏の案内にて「ステリート・エンド・メンジース」鉄管製造所に到り、同社長の先導により工場を縦覧す、工場は中以下の各種鉄管を製造する大工場にして、鉄板を熱して鉄管を鍛成する各種の作業より、之に亜鉛鍍を施す方法に至るまで悉く大仕掛の器械を以て作業しつゝあり、一方には熟練なる職工が手細工を以て異形管を鍛成するもありて、其設備の完全なる、作業の迅速敏活なる、真に驚くに堪へたり
午後ブラウン氏の案内にて市役所に到る、グラスゴーは市制の完備せるの点に於て世界第一を以て称せられ、水道・瓦斯・市街電気鉄道其他の公共事業は、近年に至りて悉く市の直営となし、最も巧みに之を経営しつゝあり、市役所は八年前の建築にして宏壮稀に見る処、内部は柱と壁と床とを問はず悉く大理石の一種にして、伊太利及英国産の「アナバスタ」石材を以て造られ、特に宴会室の如きは壁間の絵画及彫刻等悉く美を極む、市会議事堂又此建築中に在り、時、恰も会議中なりしを以て一行は暫時傍聴せり、次で公園を遊覧し帰宿す
午後五時発の汽車にてグラスゴーを発し、ニウカツスルに向ふ、沿道の風色甚だ佳、敢て我邦に劣らず、特に汽車は東海岸に出で海に沿ひ絶壁を伝ふて駛る時の如きは、風景の雄大筆舌の得て形容すべき所にあらず、九時三十分ニウカツスルに着す、元来英国は緯度甚だ北に偏し恰も樺太島の北端位に相当するを以て、夏季は日甚だ永く、日没して全く夜に入るは午後九時を過ぐる頃なり、ニウカツスルに着し「ステーシヨン・ホテル」に投す
    △ニウカツスル
八月五日 晴、午前十一時ニウカツスル市内ウエルシツクの「アームストロング・エンド・ウイツトウオース」会社に至り、取締役ハンナー氏以下諸氏の案内にて兵器工場・造船工場等を見る、同工場は海陸の大砲・軍艦の製造を以て全世界に其名を知られたる大工場にして、規摸の宏大なる、作業組織の整頓せる、転々驚嘆に堪へたり、我海軍省よりも断へず兵器並軍艦の注文あるを以て、常に海軍技術官を派して之を監督しつゝあり、午後一時同社にて昼餐の饗応を受く
昼餐後海軍技師大石鍈吉氏の案内により小蒸汽船にてタイン河を下ること七哩、河口に近きタインマウスに到りて上陸す、此七哩の間、河の両岸には百数十の造船所相連り、何れも船艦の新造中にして壮観遥にグラスゴーの上に在り、全世界造船の六割は英国各造船所の製造に係り、英国造船の六割はニウカツスルを始め此タイン河の両岸に於て製造せらる、唯だ最優最大なる船艦の製造はグラスゴーの方寧ろ一歩を抜くと雖も、其製造数に至りては此タイン地方の方遥に前者に勝るといふ
タインマウス上陸後海岸の絶壁に登りて四辺の風景を眺め、有名なるタインマウス海水浴場を観たる上、電汽車及汽車にてニウカツスルに帰り、ゼスモンド公園を散策す、同公園は渓間の小流と四辺の風景と
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を利用して築設せられしものにして、老樹鬱蒼翠緑滴らんとし其間池あり、滝あり、一体の風趣我邦の庭園に酷似す、此公園はアームストロング氏の寄附にかゝるといふ、七時帰宿
    △シエツフイルド
八月六日 雨、午前九時三十分の汽車にてニウカツスルを発し、シエツフイルドに向ふ、丘陵と平野、牧場と畑との間を通過し、午後一時シエツフイルドに着し「ビクトリヤ・ホテル」に投ず
午後三時「ウオルカー・エンド・ホーク」会社の銀器製造工場を観るシエツフイルド市は刃物と銀器の製造に於て世界に第一位を占むるの地にして、同工場の如きも巧に器械を利用し、之に熟練なる手工を加味して精巧なる食器・装飾器等を製造しつゝあり、次で製品陳列館を観、夕刻帰宿す
    △「ヴイツカース」製鋼所
八月七日 雨、ヴイツカースの製鋼所を見る、同所は規摸の大なる点に於て英国第一たり、之を米の製鋼所に比すれば尚ほ多少の遜色あるを免かれずと雖も、作業の精密・丁寧なると諸般組織の整頓せるとに於ては、遥に之を凌駕せるものゝ如し
午後三時過シエツフイルド発の汽車に搭じ、同六時四十分倫敦マーリーボン停車場に帰着し、玆に英国北部及蘇蘭各都市の漫遊を畢はる
八月八日 曇、此日先生は終日旅館に在り、渡辺・根岸・長尾(三十郎)・大丸・梅浦・萩原・清水・伊東、サー・ビセツト諸氏の来訪に接せらる
夜先生・同夫人以下ピカデリー、サーカス、チエアリング・クロツスの辺に散策し、戴冠式前宵の夜景を観る、市中特に皇帝御通御の御道筋なる前記の町々に在りては、戸々彩色せる布・造花等を用ゐて軒といはず柱といはず、悉く装飾を加へて其間に五色の電灯を点ずる抔、中々の壮観にてありき
    △英皇戴冠式
八月九日 曇、時々少雨、嚮に御病気の故を以て延期せられし英国皇帝陛下の戴冠式は、愈此日を以て挙行あらせられたり、当日は其当初の計画に比すれば諸事略式となりしが為め、親族関係の各国皇族並外国公使の外、条約国皇室の特使も列席せず、戴冠式翌日の市中御巡幸もなく、一切の儀式共に極て簡略なるものにてありし
戴冠式の御次第は、午前十時と申すに皇帝・皇后両陛下はバツキンガムの宮殿を御出門あらせられ、「セントゼームス」公園と「グリーン」公園との間なるモール街よりパリメント街を経て「ウエストミンスター」寺院に臨御、此処にてアーチビシヨツプより王冠を進め奉るものにして、御還幸の次第は午後一時半と申すに同寺院御発輦、パリメント街、ホワイト・ホール街、チヱアリング・クロス街、ポール・モール街、セント・ゼームス街、ピカデリー街よりパリーン公園内のコンスチチユーシヨン・ヒルを通御あらせられ、宮殿へ御還幸相成るべき御予定にてありし
青淵先生・同夫人以下の一行は御還幸の鹵簿拝観の為め、セント・セームス街東側の洋服店に設けたる桟敷を借入れしか、午前九時よりは
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御道筋往来止となるにより、一行は午前八時半より同処に到りて御還幸の時間を待つこととはなれり
御道筋の状況を挙ぐれば、戸々国旗を翻へし且つ生花・造花・色布・花瓦斯・花電灯等を以て装飾を加へ、中には日本の国旗・日本の球灯を以て装飾したるもありし、街道は人馬の来往織るか如く、辻々には警官佇立して叮嚀に群衆を指導しつゝあり、沿道の家々は店舗を閉ちて之に数段の桟敷を設け、一人前の座席を数磅に売りて拝観者に便じ二階・三階は一窓若干の価を定めて拝観人に貸与ふ、特に甚しきは屋上まで軒端に沿ふて椅子を列らべ俯して鹵簿を拝観するもあり、此辺の状況は大に我国と趣を異にするものあり
先生一行は八時過より定めの桟敷に座すること数時間、人道の群衆を瞰下して僅に無聊を遣る、人道には拝観の老幼溢るゝが如く、車道には赤服の軍隊並列す、或は黒毛の深帽を戴くあり、或は真鍮の兜然たる軍帽を冠むるあり、其他スコツトランドの兵士は縞の毛布を畳みて肩に掛くる等、隊により軍装を異にする所、宛ら一幅の歴史画を見るが如く、其間軍楽隊は時々楽を奏しつゝ街道を来往す、這は拝観人の退屈を慰するが為めなりと称せらる、異邦国の風習とはいひながら、邦人の目よりすれば頗る奇異の感なき能はず、状況此の如くなれば拝観者は宛ら劇場に坐するが如く、左までの退屈を覚へずして一時間と過ぎ二時間と去り、兎角する中午後二時半の予定時刻となれば、両陛下には此時既に戴冠の御式を済ませられ、御還幸の行列は粛々としてセント・ゼームス街に差懸れり、前駆は警部之を承はり、歩兵・騎兵之に次ぎ、楽隊亦之に次ぐ、兵員の中印度兵・濠洲兵・亜非利加兵は各彩色せる軍絨を纏ひ、異形の帽を冠むり、鎧の如き軍服を着せるものあり、若くは加奈陀兵の如く柿色の簡略なる軍服を纏へるもありて宛然たる歴史画中の一物たり、将校中には南阿事件にて有名なるキツチネル、ロパート等の将軍あり、群衆喝采して之を迎ふ、夫より数台の馬車に次ぎて鳳輦来る、鳳輦は「ステート・コーチ」と称し純金を以て蔽はれたる輿の如き馬車にして、四面は精細なる彫刻を以て之を飾り、黒鹿毛の馬八頭にて之を曳く、両陛下には沿道の群衆に対し断へず御会釈を施され、皇太子・皇族・外国皇族・大官・貴族之に次ぐ行列は延長一哩に連り、鹵簿の壮厳なる筆舌の得て形容すべき所にあらず、路傍の男女は孰れも静粛にして、朝より佇立しながら絶へて姿勢を乱さず、又喧噪の態なく、人々個々自ら規律を格守して曾て懈怠の状あるを見す、流石に文明国の民なりけり、夕刻市中大に賑へり
先生には夕刻より公使館に林公使及鍋島一等書記官を訪問し、夜は植村其他諸氏の来訪に接せり
    △ウインゾル城
八月十日 曇、此日は日曜なるを以て終日を遊覧に費すことゝし、先生・同夫人以下市原・西川・渋沢元治・八十島の諸氏、汽車にてウインゾルに到り馬車を離宮の構内に駆る、同城は今より八百余年前ウヰリアム・コンケロルの築造に係り、高丘に拠てテームス一帯の平地を扼し、要害無双と称せらる、昼餐後更に汽車にてリツチモンドに到り馬車を公園に駆ること二時間、転じてキユウ・ガーデンの植物苑に到
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る、苑はテームス河に沿ひ、広漠たる地積を劃して之に世界各国の植物を集め、科学的に整理栽培す、外に数個の大温室を設けて熱帯の竹木・花卉を養ふ、其規摸の大なる驚嘆に堪へたり、黄昏帰宿
    △瓦斯会社
八月十一日 晴、午前十時高田商会支配人柳谷巳之吉氏の案内によりフエンチヤーチ停車場発の汽車にて、テームスの下流北岸ベクトンに於ける瓦斯会社に到り、総支配人フヒルド氏の案内にて石炭の陸揚・「レトルト・ハウス」・水性ガス工場・副産物精製所等を視る、構内三百「エーカー」(我百三十町歩)、自用鉄道三十五哩、河岸に二個の大「ビーア」を設け、大「クレーン」を以て船より石炭を汽車に積載し直に「レトルト・ハウス」に運ぶ、規摸の大実に世界第一と称す、英は瓦斯事業に於て世界第一の位地を占め、米は遥かに之に劣れり、倫敦には三個の大瓦斯会社あり、同会社は其第一に位し、資本金一億三千万円、「レトルト・ハウス」十四棟、外に水性瓦斯工場一棟を有し、一日の製造高平均普通ガス五千五百万立方呎、水性ガス千五百万立方呎、市の中央・北部及西部に供給しつゝあり、「サウス・メトロポリタン」瓦斯会社はテームス河南に供給し、「イースト・エンド」会社は東部を限りて供給しつゝありといふ
会社にて昼餐の饗応を受け、午後四時帰宿、夜ステルー氏来訪せられ晩餐を共にす


滝門雑誌 第一七四号・第一一―一四頁 明治三五年一一月 ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)(DK250009k-0014)
第25巻 p.307-309 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第一一―一四頁 明治三五年一一月
   ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)
 ○第十六信(英国倫敦八月十九日発)
    △往訪・来訪・饗応
八月十二日 曇、先生は此日午前「コムマース」雑誌記者ヘンリー・バルトン氏、植村俊平氏其他の来客に接したる後、三井物産会社に渡辺専次郎氏を訪ひ、同氏と共に東京海上保険会社の代理店「ウイルス・フエーバー」会社に到り、副支配役スベンサア氏と霎時会談の後、共に「ロイド」の海上保険会社に到り、執務の実況を視察せり、次で午後八時より「ジヤーデン・マゼソン」商会の主人ダブルユ・ケセキ氏の招待により「デボンシヤー・クラブに」参会せり、相客は林公使・阿部書記官・渡辺専次郎氏・若ケセキ氏、其他東洋貿易に関係ある英国の豪商十七・八名にして、最も鄭重なる饗応にてありき
八月十三日 少雨、先生は午前中手形仲買ゴルトン氏等の来訪に接し午後二時より市中に出でゝ二・三の要件を弁じ、夕刻根岸練次郎氏其他の来客に応接せり
八月十四日 曇 此日先生は午前中梅浦・根岸諸氏の来訪に接せり、此間一行中の市原君及予等、ウエストミンスター寺院に到り、英国皇帝・皇后両陛下の戴冠式場を観る、場は式後日を限りて公衆の縦覧を許し、縦覧人よりは一人前二志六片(一円二十五銭)を徴し寺院保存の資に充つ、同寺は今より九百余年前ウイリアム・コンケロル時代の建築に係り、古色蒼然、建築亦宏壮を極む、式場には戴冠式に於ける皇帝・皇后両陛下の玉座、皇太子及皇太子妃殿下の御座、及戴冠式の
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椅子、其他皇族・貴族・各国貴賓・公使等の席次に至るまで式当日の儘に存置せらる、縦覧人は到着順にて門前に整列し敢て先後を争はず又喧噪の態なく、最も静粛に入場順番の到るを待ち、場の内外を警戒せる警官の如きも丁寧親切に公衆を世話し、絶へて叱咜の声を聞かず英人が常に称して公徳に富めりといふも、強ち誇張の言にはあらず
午後二時、先生は市原氏を伴ひ当国郵便電信本局に貯金部長イー・ヱチ・プール氏を訪ひ、当国に於ける貯金の実況、郵便貯金と銀行預金の関係等に付会談の後、執務の実況を視察せり
夜七時、「パース」銀行市内支店支配人エー・エー・シヤンド氏及同夫人を旅館に招待し饗応を為す、氏は維新前より我横浜に来り「チヤーター」銀行の役員となり、後第一銀行創立せらるゝに及び、一時同行の顧問たりし人にして、先生とは親交あるの人なり、晩餐の前後に於て銀行行政・小切手納税・外国為換等の諸問題に就て談話し、深更に及ぶ
    △ロンドン・タワー
八月十五日 晴、午前先生は市原君及予両人を随へ「ジヤーデン・マゼソン」商会にケセキ氏を訪ひ、霎時経済談を為し、次に三井物産会社に渡辺専次郎氏、郵船会社にジエームス氏を訪ひ、夫よりロンドンタワーに到る、タワーは九百年前ウイリアム・コンケロルの建築に係り、テームス河の北畔に在り、建築の当時は王城にして外濠及壁を以て之を囲めり、タワー内にレガリアと称する王室の宝物陳列所あり、王冠・王剣其他光輝燦爛人目を眩する許りなる歴代の宝物山の如く、過日の戴冠式に於ける王冠も此に陳列せられて普く人民の観覧を許るし、式日に限り宮内省に移送せらるるものなりといふ、外にアーモリーと称する一室あり、此には古今内外の武器を陳列せられ、古代の兜鎧・馬具・刀剣等珍奇なるもの多し、我邦及支那・印度に於ける古代の武器亦陳列せらる、アーモリーの観覧終はりてタワーブリツヂを観午後帰館す
    △観艦式
八月十六日 晴、此日はボルツ・マウス港頭スピツツヘツト軍港に於て戴冠式に伴ひたる観艦式(ローヤル・ナバル・レヴユー)挙行の当日なり、先生一行は我特派艦隊司令長官伊集院少将の招待を受けたるを以て、先生及夫人以下、市原・西川・渋沢元治・八十島親徳の六名は午前六時ビクトリア停車場発の汽車にて出発し、九時半ボルツマウス着、少憩の後十時半ガンオワーフといへる波止場より迎ひの小蒸汽船に搭ず、我林公使及数日前着英の後藤民政長官を始め、我官民の招待せられしもの数十名、数艘の小蒸汽船に分乗しスビツツヘツドに向ふ参列の英国軍艦は海峡艦隊及沿岸防備艦隊総数百三艘より成り、分て五列となる、我小蒸汽船が日章旗を翻しつゝ艦隊の間を通過するや英国艦隊より拍手喝采盛んに起る、行程四・五十分にして我旗艦浅間に達す、同艦は排水九千噸の甲鉄艦にして最新式の構造に係るを以て参列の英国艦隊に比すれば自ら優色あり、高砂は浅間と並ひ英国艦隊五列の外に在りて、伊国及葡国派遣艦と並列せり、伊集院司令官・中尾艦長を始め小笠原子爵其他の乗組将校は熱心に来賓の優待に力め、
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先づ艦内を案内し、次で茶菓及昼餐の饗応ありたり
遠く港内を眺むればさしもに広きスピツツヘツト軍港も百余艘の軍艦を以て塡充せられ、各艦孰れも満艦飾を施こせる様盛観言はん方なし其間見物船の観客を満載して徘徊するもの無数、満眸船を見て殆ど水を見ざるの盛況なり
外国軍艦は儀式延引の為め何れも帰国し、残るは日本・伊太利・葡萄牙の三国のみ、殊に我軍艦は最新式の大艦にして、艦頭高く日章旗を翻しつゝ一方に雄視する様勇壮真に極まりなし
斯て午後二時三十分、皇帝・皇后両陛下の御召艦たるヨツト形の汽船「ビクトリア・アルベルト」号の纜を解くや、百余艘の参列艦隊一斉に二十一発の祝砲を発す、轟然たる響音海波を圧して起り、天地も為めに崩るゝ許り壮絶快絶譬ふるにものなし、御召艦は前後各二隻の扈従艇に擁せられ、順次各艦列の間を徐行せられ、各艦上よりは一斉にヒプ・ヒプ・フラーを以て奉祝す、午後三時半には第五の艦列と我艦隊との間を通御せられしが、我艦隊にては将校は前頭甲板に、水兵は舷側に、来賓は艦橋上に整列し、艦長号令の下に奉賀を連唱すること三回、軍楽隊亦之に和して楽を奏す、両陛下は御召艦の艦橋より我艦隊に向ひ叮嚀に会釈せられしが、竜顔殊に麗しく、莞爾として打笑ませ給ひし御姿は望遠鏡ながら歴々邦人の眸底に映じ、孰れも一種の感に打たれ、粛然たるものやゝ久し
観艦の式終はり、御召艦は再び我艦隊の附近を通御あらせられしが、此時も奉祝の状前に異なるなし、尋て御召艦は我浅間と伊国軍艦の中間に碇泊し、玆に御少憩の後夜間の満艦祝灯を御覧あらせられ、当夜は艦内に御宿泊あらせられたり
既にして日没するや港内百余艘の軍艦は悉く満艦祝灯を点じ、檣といはず煙筒といはず舷側といはず悉く用意の電灯を点じ、之に交ゆるに探海灯を以てす、万灯水に映する所、明昼を欺き壮観比するものなし夜半倫敦に帰着す
    △発程準備
八月十七日 雨、大陸発程期迫れる為め、先生は終日在宿、本国宛書状の執筆其他雑務に鞅掌せられ、一行は行李の整頓に急はし
八月十八日 雨、先生は此日も在宿せられ二・三の来客に接し、且つ雑務を弁ぜり、梅浦氏は此日夕刻を以て一行と別れ、単身独乙・露西亜等諸国に向け出発す
八月十九日 此日午前十時を以てチヤーリング・クロス停車場を発し第一回大陸旅行の途に上る


東京日日新聞 第九二七八号 明治三五年九月四日 ○倫敦に於ける渋沢男(DK250009k-0015)
第25巻 p.309-310 ページ画像

東京日日新聞  第九二七八号 明治三五年九月四日
    ○倫敦に於ける渋沢男
男爵渋沢栄一氏は、七月廿五日極東商業に関係ある倫敦商業会議所会員集会の席上に於て一場の演説をなしたり、ケスウイツク氏会長席に着き、マグナス・モワツト氏、ロングフオード氏(長崎駐在英国領事)等の諸氏も亦此に列したり、渋沢男演説の要旨なりとて倫敦新聞に記す所に拠るに曰く、日本の現在は英国の指導に待つもの多く、日本は
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地理上清韓両国と相近ければ、両国を識ること英国人よりも精しく、然れども資本と知識と近世科学の応用とに至ては則ち日本人及ばざるなり、日英両国は此の点に於て宜しく相助けて双互の利益を相謀るべく、況んや今日は同盟を相作せるをや、日英同盟は国際道徳に基き人倫の大道に発し、而して其の目的は清韓両国の自主独立を維持し、商工業上各条約国に平等の機会を会しむるに在り、両国々民殊に商業社会の之を歓迎したるは、之に由て日英両国民の商業関係及び友好を鞏固ならしむるに至るべきを信じたるに由る、己れ東京を発するの前聯合商業会議所は己れに託して、欧米各国と益々商業関係を厚うし、併せて彼我商業界の実情を相明かにするに至るを望むの意を致さしむ、願くは倫敦商業会議所は日本が外国資本家と相待て極東の商工業を発達するを望むの意を諒とし、併せて此の意を国内の各商業会議所並びに海外諸国に伝へんことを、若し日本の取引方法及び商習慣にして此の目的を達するを妨碍するものあらば、己等之を改むるに吝ならず、英国の商工業大に極東に興りて東洋諸国の平和的発達を助け、而して日英同盟は此の目的を達するの手段たらんは己の望む所なりと云々


竜門雑誌 第一七五号・第一三―一八頁 明治三五年一二月 ○洋行日誌(其六)(梅浦精一)(DK250009k-0016)
第25巻 p.310-315 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第一三―一八頁 明治三五年一二月
    ○洋行日誌(其六)(梅浦精一)
拝啓、益々御多祥奉賀候、然ば去る七月二日正午紐育解纜、海上無事今九日正午アイルランドのクエンスタウンに寄港、凡そ三十分間滞船直ちに出帆、今夕リヴアプールに着、明朝上陸可仕筈に御座候、今日正午クヱンスタウンに寄港の節同所に於て郵便物は悉皆積み卸し、日本行の郵便は丁度今夜の締切りと承知致候に付、船中にて相認め御通信申上候、扨今日迄の航海日誌は
 二日 乗船の時より天気清朗、風なく波なく極めて静穏なり
 三日 微風波なく快晴なり
     正午迄航海哩数 三百七十五海哩
       経度四十度十九 緯度六十五度四十
 四日 西南の風強く高波船を衝て来る、殊に時々強雨ありて甲板を洗ひ去る、船客の船室に閉居するもの多く、萩原君の如きは前日来出で来らず
     正午迄航海四百二十海哩
       経度四十度四十一 緯度五十六度二十八
 五日 前日来風雨時に起り時に止む、然れども船の動揺に敢て異なることなし
     正午迄航海四百四十三海哩
       経度四十一度〇八 緯度四十六度四十三
 六日 風波漸く静にして雨亦止む
     正午迄航海四百三十海哩
       経度四十四度五十三 緯度三十八度廿五
 七日 微風あり海上霧深くして太陽を見ず
     正午迄航海四百二十海哩
       経度四十七度五十三 緯度二十九度十六
 - 第25巻 p.311 -ページ画像 
 八日 前日来引続き曇天、海上霧深くして咫尺を弁ずること能はず時々笛声を発して進行す
     正午迄航海四百三十四海哩
       経度五十度十五 緯度十八度五十
 九日 曇天風なく浪なく海上極めて静穏なり
昨夜は午後八時三十分より船中に於て海員掖済会の為め慈善音楽会有之、前日来会長・幹事頻りに周旋の結果貴女紳士の出場演芸者頗る多く、一行中より渋沢男爵夫人と小生其撰に当り出演仕候、当夜夫人は越後獅子を演ぜられ候処、例の通り美妙なる音声と三味線の鍛錬なるには流石の外国貴女紳士も亦敬服したるにや、演曲の了ると同時に拍手して其再演を促されければ、夫人も亦其意を了し今度は又彼の美妙なる声を一段張り上げて鶴亀を演ぜられたり、拍手喝采暫く鳴り止まざりし、前年大倉君がアトランチツク航海中一中節を以て外客を驚かし、近藤廉平君が謡曲を以て彼を辟易せしめたりと聞く、今又夫人の長歌を以て其胆を寒からしむ、演芸に於て日本人の名誉此に於て極まれりと云ふべし
此船は「オシヤニツク・スチイム・ネビゲーシヨン・コンパニイ」の所属船「マゼスチツク」号にして、始終紐育とリヴアブール間を航港するものに有之候
 本船は千八百九十年の建造に係り、其総数九千九百六十五噸、登簿噸数四千二百六十九噸にして、上等船客三百人・二等百六十八人・三等九百人を容れ、乗込員三百人を加ふれば総員千六百六十八人を搭載するを得べきなり
船中の構造設備は万般行届き居候に付、一として不自由無之、渋沢男爵始め一行無事航海罷在候間御休心被下度候、紐育に於て最後三日間に於て見聞致候事柄中殊に申上度儀は、同市の孤児院・新聞紙売捌小僧養育所・貧民育児院等にして、此等は多く有志義捐金を以て設立し而して其経費の足らざるものは之を市費に仰くものありと云ふ、其規則の詳細は更に報道する所あるべし
右は航海中経過の次第御報告まで、書外は倫敦到着の上重て細報可仕候也
  七月九日          於マゼスチウク号書籍室
                      梅浦精一
小生儀去る九日「マゼスチツク」号にてアイルランドのクヱンスタウンに正午寄港、同所より乗船又は同所に上陸の船客及郵便物等の積卸の為め約卅分間計沖掛り致し、二隻の三百五・六十噸位の外車の汽船にて我等を運搬仕候、而してクヱンスタウン出帆以来は海上殊に静穏にして萩原君の如きも勇気平生に百倍し、此夜に限り大気焔を吐き散らし候位に御座候、要するに今回太平洋《(大西カ)》の航海は、全く気候の宜敷き為めか存外穏かにて一同喜び入候、紐育出発以来船中の景況は九日午前に船中にて相認め、クヱンスタウンに於て御郵送致置候に付(パンクウバ便)、右にて御承知可被下候
扨て翌十日は午前四時頃にリバプールに安着致し、六時頃より上陸の仕度に取掛り、此日は上陸の為めとて平常より朝食の時間八時半なる
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を七時に繰上げたれば、一同食堂に入り船中最後の朝餐を喫し、軈て食事の了る頃本船は次第に沖合よりリバプールの鉄道停車場に横付けとなり、船客に上陸すべき準備整ひたりと報ぜり、男爵一行出迎の為め同所迄被参候諸君は

図表を画像で表示--

 日本郵船会社倫敦支配人      根岸練次郎君 三井物産会社           関週助君 日本郵船会社顧問         ゼイムス君                  ブロオン君 内閣官吏 統計に関する取調の為  伊東祐穀君      め出張の由承知致候 



右の諸氏にして、リバプール停車場には一行の為に貸切汽車の準備ありたるが為め、直に出迎諸氏に導かれて汽車に搭じ、同所を発したるは午前九時二十分にして、午後一時倫敦に着せり
此日は早朝より微雨寒気甚しかりしが、十一時頃より漸く晴れ渡りて寒気も緩みたり、実は本船より上陸の折には余り寒気の強かりしが為め、如此気候にては病体如何あらんと気支ひたりしが、段々承り候処倫敦の気候は例年五月より十月頃迄はシイゾンと申し先づ愉快の気候と称し居候位の由に付、男爵一行は丁度気候の宜敷時節に参着致したる訳にて、誠に好都合と窃に喜び居候
倫敦に到着候処、同停車場には三井物産会社の渡辺専次郎君・同夫人高田商会の柳谷巳之吉君・大倉組の門野重九郎君を始めとし、其他数人の日本人諸氏出迎はれ、予て男爵一行の為めに準備せられたるホテルに向て案内の儘投宿仕候
 但し当倫敦は目下季節の宜敷き為め外国より来遊人多きと、例の戴冠式延引の為め滞留の外人も不少との為め、各ホテル共頗る混雑の折柄にて、一行悉く一軒のホテルに宿泊すること能はず、為めにホテルを二軒に分ち左の通り分宿仕候
          コウバルグホテルには  渋沢男爵及夫人
                      市原盛宏君
                      八十島親徳君
                      西川令嬢
此ホテルは格別宏大ならざるも、部屋の装置を始めとし飲食等上等なるを以て、倫敦にては有数のホテルと称し、岩崎男爵及其一行も此ホテルに投宿せられ、同男は一行が倫敦に到着の朝大陸へ出発せられたる趣に承知せり
会社の根岸君・大倉組の門野君其他日本人諸氏の来訪に接し、此日は碌々要向も弁し兼ね、夕刻に至り門野君の案内を得て市中を見物旁同氏と晩餐を共にし、此二時間計りの間に於て翌日弁ずべき要向を定めて同氏に分袂し、午後十一時帰宿致し候
七月十一日 晴天午前十時より市中に到り大倉組・三井物産会社・高田商会・日本領事館・日本郵船会社等を訪問し、正金銀行青木支配人に向て其神戸支店に発電を託し、又根岸君の案内を得て必要の諸品を購買し、更にロンドンブリッヂ及ロンドンタワア等を見る
七月十二日 快晴暑気稍強し、午前十時ホテルを出で蝋細工を以て有名なる「マダムチウツウズ」を見て、其精巧緻密殆んど真に迫るに驚き、又「ズオロジカルガアデン」(動物園)に入りて其動物の奇形異体
 - 第25巻 p.313 -ページ画像 
曾て見ざるものあるを見て、其の名を聞けば曰く何、曰く何と殆んど筆記し且つ記臆するに遑あらず、依て他日の参考に資せんが為め案内書を購ふて帰る、晩餐の後馬車を雇ふて友人二名を問ふ
七月十三日 快晴、午前九時、萩原君と共にホテルを出て渋沢男爵を其ホテルに問ひ、男爵夫婦・市原・八十島・西川嬢と共にセントポール・カセドラルに到り、数千の善男善女が日曜の礼拝を目撃せり、此日は新にビシヨッブの位爵を拝受する者二名ありたるが為めに、僧侶礼拝の儀式尋常他の日曜日の礼拝よりも厳粛なりしと云へり、一行は約二時間此儀式を見て拝して帰る、倫敦の日曜日は恰も日本の正月元日の如く市中一般戸を鎖して休息するが故に、市中人の往来、車馬の通行も甚だ稀にして、殊に劇場・オペラ、其他遊芸見世物等は全く日曜には休業するが故に、我々日本の習慣が脱せざる者には甚だ面白からざる感を生ぜりと雖も、爾来今日迄数日間実際の有様を見るに、此倫敦に在留する人は総て月曜日より土曜日迄は熱心に精勤するが為め日曜日は丸るで仕事を打忘れて休養するの最も必要を感する訳にて、畢竟日本は日曜も尋常日も差別なく不極りに働くが故に、却て日曜日に至れば他の日よりも多くの人の訪問等に向て煩忙を感ずるの嫌あり願くは平日に於て精勤し日曜日に於て休養するの習慣を養成し、又約束の時間を互に違はざる様、責めては重なる商業社会丈けにても申合せ度きものとの感じを強めたり
七月十四日 快晴、此日は前日来商業会議所書記長の紹介に依り面会したる各重なる諸会社を訪問し、種々の要務を弁じ、又正金銀行に到り青木支配人と会見す、此日午後三時より当地日本協会が催主となり伊集院中将の為めに公園に於て園遊会を催ほし、男爵一行は林公使の案内に依り一同臨席す、頗る盛会なりし
夜八時萩原氏と共にヱンバイアと称する寄席興行場を見る
七月十五日 快晴、渋沢男爵をコウバルグホテルに訪れ用談の後、市中に同行種々の要務を弁じてホテルに帰る
七月十六日 快晴、此日ランガムホテルより三井物産会社の小室三吉君の寓所に転ず、此家の老婦は其年齢七十歳前後、其名をベイシンと云ひ、其の娘二人は四十四・五より五十に近き年輩にて、終身未婚以て其親に奉仕せんことを約せりと云へり、一家挙て耶蘇教徒にして、我々無宗教者には窮窟限りなし、第一家に在りて飲酒すること能はず喫煙すること能はず、此一事を以て他は御推考被下度候
此日午後七時根岸君の邸宅に於て日本料理の饗応を受く、其招に応じて参会したるは渋沢男爵夫人・萩原君小生の三名なり、午後十二時旅寓に帰る
七月十七日 快晴、此日午後五時正金銀行青木支配人は男爵一行の為めに日本料理を其家に設け、晩食了るの後馬車を駆りてクリスタアルパレス所謂水晶宮に到り花火を見る、其雑沓名状すべからず、蓋し花火の壮観は世界第一と称するも、決して過賞にあらざるなり
七月十八日 曇天冷気、此の日テイムス河の船渠を見物せんとて兼て約束ありたるが為め、午前八時四十分旅宿を出て九時三十分停車場に到りたるに、渋沢男爵及随行者は已に発車の跡にて、不得止十時五分
 - 第25巻 p.314 -ページ画像 
の汽車に搭じ根岸君に導かれて先づアルバルトドツクに到り、此ドツクより将さに日本に向て発航せんとする鎌倉丸に乗りドツクを出でテイムス河を下だり、チルバリイドツクに至り鎌倉丸に分かる、此の鎌倉丸には英国公使館一等書記官松井慶四郎氏外一名帰朝便乗せり、右のチルバリイドツクには常陸丸繋留中にて、本船は去る五月十七日横浜を発し本月十六日此に到着したる由にて、今回の航海は極めて平穏なりと云へり、男爵一行及渡辺専次郎君夫婦は郵船会社テイムス氏及根岸氏より本船に於て昼餐を饗せられ、食後尚ドツクの実況を視察し午後四時汽車に搭じて倫敦に帰る
七月十九日 此日日本軍艦に於て大饗応を催され、其余興には水兵の演劇及遊芸ありとて、艦長より案内を受けたるに依り、午後十二時十五分旅寓を出て「ポルトビクーリヤ」に向て出発す、此地は倫敦より南東約五十五哩の海岸にして、此に着するや直ちに小蒸汽に移りて本艦に至り、艦内各種装飾及舞踏・演劇等を見、六時十五分発汽車に搭じて倫敦に帰る
本艦に至りたるは一行中小生のみにして、他は皆倫敦在留日本人諸氏なり
七月二十日 此日は在倫敦渡辺専次郎君・同夫人・小室三吉君・同夫人・青木鉄太郎君・同夫人・門野重九郎君・同夫人・根岸練二郎君・同夫人・柳谷巳之吉君諸氏が主として、男爵一行の為めにテイムス河の舟遊を企てられたり、其招きに応じて来会したる諸氏は、一行の外林公使・同夫人・子爵渡辺国武君・同令息外一名・荒川領事なり、午前九時バツチントンステイシヨンより約四十二哩なるタツプロウステーシヨンに至り、夫れより二隻の小汽船に乗り移り「テイムス」河を遡る、約三十哩にして復た跡に引返し、両岸の景色を往返舟中に於て望見する趣向にて、河を舟の上下するに便するが為め途中所々にロツクと称するものありて、舟の上ぼらんとするときは先づ其扉を開き、其閘門に入るや其の扉を鎖して更に前面の扉を開くときは水は次第に閘門内に平均して舟の上るに便す、其下らんとするときは其手続を反対するのみ、即ち京都の疏水閘門の如し
此日は正午頃より降雨、頗る冷気を覚えたれども、帰路には雨晴れ珍敷天気となりたり、一同充分の興を尽して午後五時パツチントンステイシヨンに帰着す、此夜渡辺専次郎君は男爵一行に三井倶楽部に於て日本料理を饗せられたり
七月二十一日 微雨、冷気前日に異らず、此日午後二時三十分より渋沢男爵と上院・下院の議事を傍聴す
七月二十二日 降雨、午前十一時萩原君と共に商業会議所を問ひ、書記長モーレイ氏は我等に会議所内各課の縦覧を許し、又其事務取扱ひ方に就き説明を与へられたり、他日報告する所あるべし
七月二十三日 曇天、午前九時馬車を駆りて渡辺・門野・根岸等の諸氏を訪問し、午後シチイに出て所用を弁ず
七月二十四日 快晴、此日午前十一時より渋沢男爵・夫人及萩原君と共に、門野君の案内に依り倫敦第一の宝石金銀細工商なるペンフン商店、其他四・五の商店を歴観す
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  明治卅五年七月廿四日      在倫敦 梅浦精一


銀行通信録 第七九巻第四六九号・第一三二―一三四頁 大正一四年二月 ○思想界の趨勢を憂ひて(子爵渋沢栄一)(DK250009k-0017)
第25巻 p.315-317 ページ画像

銀行通信録  第七九巻第四六九号・第一三二―一三四頁 大正一四年二月
     ○思想界の趨勢を憂ひて (子爵 渋沢栄一)
○上略 丁度二十年余り前、私が東京商業会議所の会頭をして居る時分に欧羅巴に行くに就て全国商業会議所の聯合会が開かれて、どうしてももう少し欧米殊に英吉利と親みを厚くして取引をしなければいかぬと云ふ意見が多数の実業家にあつたので、其事を徹底せしめたい、幸に渋沢は東京商業会議所の会頭であり又大銀行の頭取でもあり、経済界のことを能く知つて居るから、商業会議所聯合会の意見を齎らして海外各国に意思疏通のことを託したいと云ふことを決議され、私は其代表の資格で先づ亜米利加に、続いて英仏其他欧羅巴の各国に宣伝をして歩いた事がありました。其時に私は英吉利で大に面目を損したことがあります。それは明治三十五年だから今から二十四年の昔の事である。殊に日英同盟が締結された年であるから英吉利に向つては成べく親切に取引を進めるやうにしたいと思つた。其頃もさう思つたが今は其時よりも尚疎遠になつて居りますから、是等を実業界の友人に頻に勧誘して一昨年も団体を組織して英吉利訪問の事があつた。団・大橋串田・中島其他十数人が行かれたのは即ち経済上の訪英使節でありました。私が訪英の時は単に私一人であつたけれども前述の趣意を齎して参つたのです。其時の倫敦の商業会議所の会頭は旅行不在中でありましたが、副会頭は日本に度々渡来したケスウェッキと云ふ人で、横浜では英一番と称して居りました。其副会頭と私は知合の間柄でありましたから、打解けた話をした、殊に英吉利に対しては日本が海外と貿易を始めるに当りて一番初めに取引をした国であつて又金融上の援助を受けたのも英吉利が一番初めである、例へば京浜鉄道抔も英吉利から借款を起して明治四年頃に手が著いたと云ふやうな事である。爾来其取引は親密であつたけれども、近頃は段々減少して来るやうな傾があるから、成べくさうで無いやうにしたいものだ、就ては御互に腹蔵のない意志を交換して善いこと悪いこと、充分に話合がしたいものだと此方の注文を申込んだに依て先方も大変喜んで、倫敦なる商業会議所では部局が幾つもにも分れて居りますが、其中の貿易部局の会員が其日にどの位参つたか概略四・五十人も居りましたらう、そこで副会頭のケスウェッキ氏が前記の趣意を述べて私を紹介した。別に私からも大層な演説ではなかつたけれど、貿易の開けて以来は国と国との政治上の親善も必要であるけれども、相互の商売関係が密接に進んで行くのが両国の国交に重要な基礎を為すのである、英国の同業者も其考を持たれるであらうが、日本にも商業会議所と云ふものが各都市に出来て居つて、此事に就て深く注意して私が此度の欧洲旅行に就て特に聯合会を開いて斯う云ふ議決をしたのである、即ち私は其意思を疏通する為めに代表の意味で参つたのである、而して其事は既に書面も貴会議所に出して居るのだから、是より諸君の御注文を御遠慮なく話して貰ひ、お互に胸襟を披いて話合つてこそ意思も疏通する訳になるからと云ふやうな趣意を述べた。当然の事であるから、各位意見があ
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つたらお述べなさいと其日の議長から会合の連中に伝へた。すると其会員の一人が起つて、私は日本と始終取引をして居る何の某と云ふ者だ、日本に向つて大に注意して貰ひたいと思ふ事がある。今日代表的に来られた渋沢と云ふ人は立派な位置に居る人で、主なる銀行の頭取でもあり、永く東京商業会議所の会頭も勤め政府の役人もした人だと聞く。斯かる名誉ある人より今のやうな報告を受けたのは実に喜ばしい。それに就て斯く申すのは甚だ失礼の如くであるけれども、遠慮なく言はなければ実情が分らないからと云ふ前置きで、二つの箇条を提議した。其一つは、どうも日本人は他に対しての約束が甚だ堅くない所謂信用が堅固でない。例へば景気が好くて売れさうだと思ふと注文品を早く引取るが、之に反して売れさうもないと注文品を中々引取らない。日常の取引であるから、一々契約書を以てする訳にはいかない予め手紙の上或は電報の引合に依つて送つてやる。品物を自分に都合が好いと引取るが都合の悪いときは愚図々々言うて引取らない。是は殆ど日本人の習慣と言つて宜い。私ばかりではない何処の商人も皆困つて居る。一体日本人は信用と云ふものを重んじて居らない。之を直して呉れぬと従来の取引を更に進めると云ふことは六かしいやうに思ふ。次には少し言ふを憚る事であるが、「エンボイス」を二重に書けと言はれる、事実の「エンボイス」と、それよりもつと安価なる「エンボイス」とを書かせる、其原因は税を免れやうと云ふのである。そんな偽を言ふのはいやだと云ふと、取引を断ると云ふので、余儀なく其要求に応ずる人も間々あるけれども、是等の行為は誠に心苦しい。斯かる悪弊は是非渋沢などの力に依つて矯正して貰いたいものだ、さすれば貿易は益々繁昌すると言はれました。私は此提議には少し迷惑した。直に之を是認して恐入つたと云ふのも厭だし、さればと云ふてそんな事は嘘だと駁撃する訳にもいかない。意思を疏通する為めに遠慮なく言うて呉れと此方から誘出した訳だから、大に困つた事になつたと思つて、即答に躊躇して居つたら、丁度「サミユル・サミユル」商会のミッチエルと云ふ人が其会員中に居つて、此人は前から横浜にも滞在して私の知人であつたが、単に私の為めに弁解したでもなからうが、提議者の言分が余り露骨すぎたと考へたものと見えて、直ぐさま起つて只今の某氏の述べられた日本との貿易上に対する非難の二点は兎角売買の取引上に間々あることで、それが日本の商人のみにあるやうに某氏は考へて居るやうであるが、若しそれならば穏当でない、英吉利の商売人にも矢張ある、誰々とは今言ふ必要もないけれど、何処の国にもあることだ、勿論将来之を矯正したいけれども現下日本だけにあると云ふて直ちに其匡救策を要求するのは甚だ穏当でない、私は決して渋沢君に遠慮して申す訳ではないが、今の発言は少し言過ぎであらうと思ふ、それ故に要求として申出されたことは取消されて向後相互の注意を要することにしたいと斯う言つて極く仲裁的の親切なる説を述べて呉れた。私はそれを聴いて大に仕合せと思つたから、却て之を打消して今お答せんとするときにミッチエル君のお説があつたから暫く控えて居つたが、只今の御注文は御尤である、商売人は免角自己の都合を図る為に、甚しきは其処にまで弊害が及んで行くのだけれ
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ども、それは独り日本人ばかりではない、欧羅巴・亜米利加にもさう云ふ人が無いとは言はれぬ、それが商業道徳の頽廃と云ふものである商業道徳を進めて行くには、日本であれ、英吉利であれ、亜米利加であれ、成るべく只今のやうな陋習を矯正して行かねばならぬ、今ミッチエル君の言はれた言葉は誠に穏当である、日本も直しますが余所の国も直すが好い。詰り国際上の取引に商業道徳の向上を図ると云ふ趣意を御互に考究したら宜からうと云ふ弁解で其時の意思疏通談は済みました。蓋しこれは唯々一例を挙げたのであるけれども二十幾年経つた今日でも前陳の弊害は進むとも退かないと云ふのは免角に人は自己の都合を先きにする所から信義とか道理とか云ふものを段々に疎外するやうになるからだと思ひます。
○下略