デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

2章 国際親善
1節 外遊
3款 欧米行
■綱文

第25巻 p.371-414(DK250012k) ページ画像

明治35年9月20日(1902年)

是日栄一、ローマヲ発シ、二十一日ブリンヂシヨリ乗船、二十四日ポートサイド着、翌二十五日同港出帆、十月八日コロンボ着、九日同港発、十六日シンガポール着、十八日同港発、二十三日香港着、二十五日同港発、三十日神戸ニ上陸、三十一日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治三五年(DK250012k-0001)
第25巻 p.371-380 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三五年     (渋沢子爵家所蔵)
九月廿日 晴
午前仏国巴里林忠正氏・安達峰一郎・里昂山田領事・小野政吉ノ四氏ニ書状ヲ裁シテ頃日来ノ謝意ヲ述フ、又諸井六郎氏ヨリ我公債証書ニ付テ電報アリタル回答ヲ発ス、午前十一時旅宿ヲ発シテ先ツ公使館ニ抵ルニ、皆在館ナキヲ以テ名刺ヲ止メテ去テ一公園ニ抵リ、四方眺望ノ間各古跡ノ説明ヲ聞ク、畢テパンテオンニ抵リテ堂内ヲ一覧ス、又一公園ノ高所ニ抵リ有名ノ噴水ヲ見ル、更ニ進テ其最高ノ処ニ於テガルバルジーノ銅像ヲ見ル、其製造壮大ニシテ極テ精巧ナリ、一覧後帰
 - 第25巻 p.372 -ページ画像 
宿ス、午飧後日本行ノ書状ヲ作ル、佐々木勇之助・留守宅篤二及仙石貢・長谷川一彦等ノ四通ヲ発送ス、里昂出発ノ際汽車ニ預托セシ荷物一昨夜来各地ニ電報シテ問合ハスト云トモ所在不明ニシテ此行ノ間ニ合ハサルニ付、此日船中用意ノ衣服ヲ調成ス、午後六時旅宿ヲ発シ停車場ニ於テブリンチシ行ノ汽車ニ搭ス、公使館員二名及井上氏来リテ行ヲ送ル、汽車六時五十分羅馬ヲ発ス、夜中月清クシテ涼味多シ
九月廿一日 晴
汽車中ニ於テ夜ヲ徹シ、午前十一時ブリンチシニ着ス、直ニ馬車ヲ僦フテオテルエンタルナシヨナールニ投宿ス、一行客装ヲ掃除シテ後、午後一時午飧ス、此日井上金治郎氏羅馬ヨリ電報シテ、延着荷物未タ羅馬ニ来ラサルニヨリ此便ニ間ニ合ハサル旨ヲ申来ル、依テ承諾ノ事ヲ回電ス、又ホルトセード郵船会社代理店ヘ今夕当地出帆ノ事ヲ電報セシム、但此地ヨリホルトセード行ノ郵船ハ英国ピーオー会社ノ船舶ニシテ今夜十二時発ノ趣ナルニ付、一行ハ船中必要ノ衣服等購入ノ為メ市中ヲ奔走ス、夜七時半ホテルニ於テ夕飧ヲ為シ直ニ乗船ス、船名ハ〔   〕《(欠字)》ト云フ、大凡三千噸許ノ客船ナリ、大体ノ設備敢テ美麗ト云フニアラサレトモ、頗ル完備ナルニ似タリ、夜十二時過、船ブリンチシヲ出帆ス、此夜月清ク風静ニシテ、航行平穏ナリ
九月廿二日 晴
朝来船少シク動揺ス、時々左舷《(右カ)》ニ伊太里地方ヲ観ル、午後希臘ノ一端ヲ見ル、船或時ハ島嶼ノ間ヲ過クル事アリ、終日海波ノ縹緲ヲ見ルノミ
九月廿三日 晴
風静カニシテ航行平穏ナリ、終日希臘地方ノ島嶼ヲ左舷ニ見ル
九月廿四日 晴
午前七時船ホルトセードニ着ス、同地ニ在ル日本郵船会社代理店ノ支配人船中ニ来リテ安着ヲ祝ス、直ニ行李ヲ整頓シテ上陸ス、本船ハ港内ニ入ルモ桟橋ナキヲ以テ、代理店ヨリ出セル艀船ニテ上陸ス、埠頭ニ於テ荷物ノ検査ヲ受ケ、市街ヲ散歩シテ一大旅舎ホテルヱキスチエンヂニ投宿ス、午前八時半旅舎ニテ朝飧ヲ為シ、日本郵船会社神奈川丸ノ来着ヲ問ヘ合ハスモ、未タ着船セザル由ナレハ、暫時旅舎ニ於テ其着帆ヲ待ツ事ト定メ、一行ハ此航海中ノ旅装ヲ整フル為メ衣服其他ヲ購入ス
ホルトセードハ蘇士運河工事落成ノ際ニ於テ新タニ開キタル市街ニシテ、埃及国ニ属スル一港湾ナリ、土地磽确、気候炎熱ナレハ草木少シ只欧人ノ家屋又ハ市街ノ中央ニハ培養上種々ノ樹木ヲ見ルノミ、此日神奈川丸着船ナキヲ以テ、終日旅舎ニ在テ書状ヲ裁シ、又ハ読書ニ消閑ス、此夜旅舎ニ一泊ス
九月廿五日 晴
午前七時神奈川丸入港ス、暫クシテ本船ノ事務長浅野氏旅舎ニ来リテ余等ヲ訪問ス、且云フ、神奈川丸ハ正午出帆ノ筈ナルニ付、九時半ヨリ上船セラルヘシト告ク、依テ一行ハ先ツ朝飧ヲ為シ、畢テ旅装ヲ理シ、市街ヲ散歩シテ代理店ニ抵リ、其店前ノ埠頭ヨリ小舟ニ搭シテ一ノ検査所ニ於テ一行身体ノ検査ヲ受ケ(流行病検疫ノ為メナリ)畢テ
 - 第25巻 p.373 -ページ画像 
神奈川丸ニ上船ス、十二時開帆、直ニ運河ニ入ル、運河中ノ進行ハ極テ緩徐ニシテ、且些ノ風波モナキ一川ヲ航行スルニヨリ、殆ント大船ヲ以テ遊覧ヲ試ムルノ観アリ、其安楽ニシテ愉快ナル譬フルニ物ナシ船中常ニ両岸ノ沙漠又ハ湖水及鉄道等ヲ見ル、又土人ノ駱駄《(駝)》ニ乗リテ旅行スルヲ見ル、時々運河中ニ於テ他ノ船舶ト行逢フトキハ、本船ノ進行ヲ止メテ他船ヲ通スル事アリ、蓋シ此相互航行ノ順序ハ一定ノ規則アリテ、我レ止テ彼ヲ進行セシメ、彼レ又我カ進行ヲ待ツ事アリ、要スルニ其規則ニ従フモノナリト云フ、夜ニ入ルマデ天気朗晴ニシテ且風少ク、而モ炎熱未タ甚タ酷ナラザリキ
九月廿六日 晴
午前七時蘇士ニ達ス、蘇士ハ運河ノ終航ニシテ西紅海ニ接続スル所ナリ、先年余カ旅行セシトキハ此運河未タ竣功セサリシヲ以テ、蘇士ノ市街モ今日ト其地位ヲ異ニス、而シテ新旧蘇士ノ距離ハ約一哩許ナリト覚フ、本船ハ是ヨリ紅海ニ入リテ航行ス、時々亜不利加洲ト亜剌比亜トヲ船ノ左右舷ニ見ル、風追手ナルヲ以テ船中炎熱ヲ覚フ
九月廿七日 晴
昨日ト同シク炎熱甚ク、且朝来少シク感冒ノ気味ナルヲ以テ船中ノ医師ニ診察セシメ、薬ヲ服シ船室ニ平臥ス、夕方粥ト索麺トヲ食ス、病大ニ快方ニ赴ク
九月廿八日 晴
病全ク愈ユルヲ以テ、朝来甲板上ニ散歩ス、此日風少ク、暑熱殊ニ酷甚ナリ、終日読書ニ消閑ス
九月廿九日 晴
暑気昨日ニ比シテ少ク減スルヲ覚フ、蓋シ風ノ方向変シテ船ノ前面ヨリ吹キ来ルヲ以テナリ、然レトモ風暖ニシテ涼味ナシ、此日モ時々亜剌比亜地方ノ山岳ヲ左舷ニ見ル、終日読書ト雑談ノ外他事ナシ、夜ニ入リテ二等船客ノ居所ヲ訪ヒ、深夜マテ談話ス
九月三十日 晴
風強クシテ炎熱大ニ減ス、然レトモ航行平穏ナリ、終日読書ノ外別ニ記スヘキ事ナシ
十月一日 晴
涼味昨日ト同シク、亦炎熱ヲ厭フ事ナシ、此日紅海ヲ出テ印度洋ニ入ル、然レトモ船静寧ニシテ終日読書・談話ニ消閑ス
十月二日 晴
今朝蚤起日光ノ波間ニ出ルヲ見ル、朝来更ニ涼風多ク殆ント暑中ヲ忘ルヽニ至ル、是レ喜望峰ヨリ来ル潮流寒冷ナルヲ以テナリト云フ、午後船長室ニ於テ航行ノ位地ニ関シテ説明ヲ聞ク、終日読書ト談話ニ消閑ス、二等船客ノ作レル船中新聞紙ヲ一覧ス
十月三日 朝晴午後驟雨来ル
涼風昨日ト同ク、船中熱ニ苦ムコトナシ、只湿気多キヲ以テ、甲板上ノ散歩快然ナラサルモノアリ、終日読書ニ閑ヲ消ス
十月四日 曇時々小雨来ル
午後小詩二絶ヲ得ル、風候昨日ト同シク、航行平穏ナリ、終日読書ニ消閑スルノミ
 - 第25巻 p.374 -ページ画像 
十月五日 曇
風候昨日ト同ク、且船少シク動揺スレトモ一行別ニ船暈ニ疾ムモノナシ、終日甲板上ノ散歩ト読書トニ消閑シ、夜ニ入テ浅野事務長等来リテ頻ニ時事ヲ談ス、此夜日本料理ノ夜飧ヲ饗セラル
十月六日 晴
風涼ク船穏カニシテ一行只無事ヲ苦ムノミ、然レトモ日々二等船客中ノ諸氏来リテ談話スルアリテ、無聊ヲ慰スルヲ得ル、此日モ読書ニ消閑ス
十月七日 曇時々小雨来ル
航行平穏ニシテ且苦熱ノ事ナシ、日々読書ニヨリテ遣興スルヲ得ル
十月八日 曇
風候昨日ト同ク航行平寧ナリ、此日ハ午前後ニコロンボ港到着ノ予定ナリシモ、頃日来ノ航行速力充分ナラサルヲ以テ夜ニ入リテ漸ク遠クコロンボノ灯台ヲ見ルヲ得ル、而シテ夕方ヨリ空曇リテ小雨頻リニ来リシモ、コロンボ入港ノ頃ニハ雨歇ミテ風強シ、殊ニコロンボ近傍ハ波濤高クシテ、防波堤外船頗ル動揺ス、夜九時過水先案内来リテ防波堤内ニ入リテ碇舶ス、然レトモ此夜ハ上陸スルヲ得サリキ
夜ニ入リテ倫敦清水泰吉・根岸練次郎・独乙滞在ノ元治ヘ書状ヲ裁ス明朝コロンボヨリ発送スル為メナリ
十月九日 晴夕方ヨリ雨
午前七時東京興業銀行添田氏ヨリノ電報ヲ落手ス、又留守宅篤二及益田孝氏等ノ書状ヲ落手一覧ス、依テ篤二ニ一書ヲ作リ、昨夜ノ書状ト共ニ発送セシム、午前八時朝飧ヲ畢リ、十時上陸ス、但シ在同港ノ日本郵船会社代理店ヨリ案内トシテ手代一名ヲ送ラレ、且小蒸気船ヲ以テ迎ヘラレタルニヨリ一行共ニ同港ノ桟橋ニ上陸シ、馬車ヲ僦フテ市中ヲ通行シ、郊外ナル一博物館ニ抵リ、水陸動物ノ剥制《(製)》ヲ一覧ス、畢テ馬車ヲ駆テ一海岸ノ眺望佳絶ナル土地ニ抵リ、一旅館ニ投シテ午飧ス、午飧後土人ノ戯曲ヲ見、又馬車ニテ帰路一寺院ニ詣ス、蓋シ此地ハ釈尊ニ縁故多キヲ以テ、仏教尚遺存スルヲ以テナリ、然レトモ一覧セシ寺院ノ如キハ極テ近代ノ構造ニシテ、聊モ古色ノ観ルヘキモノナクシテ鄙俗厭フヘキモノノミナリキ、一覧畢テ午後五時埠頭ニ抵リ、直ニ小蒸気船ニテ本船ニ帰ル、本船ニ帰リテ後、更ニ船長ノ好意ヲ以テ小蒸気船ニテ本港内ヲ一巡ス、時ニ風浪高クシテ小蒸気船防波堤ニ接近セシトキハ頗ル動揺セリ、夜ニ入リテ風雨強ク、本船ハ十一時頃出帆セシガ港外ニ出テ頗ル動揺セリ
 三十六年前《(欄外)》ニ余カ此錫蘭島ニ碇泊セシハポワントテゴールト云フ地ナリシガ、其後古侖母ニ港ヲ転シテ未タ三十年ニ過キスト云トモ、而モ市街繁盛ナル、水道又ハ瓦斯灯・電気鉄道等総テ土地ニ必要ナル設備尽ク備ハレリ、以テ英国人ノ殖民地ニ関スル用意ヲ見ルヘシ
十月十日 晴
昨夜ノ風雨ハ夜間ニ歇ミテ、朝来天気晴朗ナリ、時々セイロン本島ヲ船ノ左舷ニ見テ航行ス、船平穏ニシテ又苦熱ノ事ナシ、終日書ヲ読ミ又ハ甲板上ヲ散歩ス
 - 第25巻 p.375 -ページ画像 
十月十一日 曇
航行漸ク南ニシテ熱帯ノ中央ナルモ、風多クシテ苦熱ヲ覚ヘス、船モ亦平穏ナリ、終日読書ニ消光セリ
十月十二日 曇
風少クシテ熱気稍加ハルヲ覚フ、時々汽船ノ〓行ヲ見ル、終日読書・散歩ノ外為スヘキ事ナシ、日没前月ト星トヲ見ル、蓋シ洋中空気清澄ニシテ日光未タ全ク海ニ沈セサルモ、月ト星ト其光ヲ見ルヲ得ル為ナリ
十月十三日 晴
航行昨日ト同ク、涼風稍多キヲ覚フ、夕方スマトラ島中ノゴールドモンテン(金山ノ意)ヲ右舷ニ見ル、終日読書ト散歩ニ消閑ス、此夜亦本船ニテ日本料理ノ夜飧ヲ饗ス
十月十四日 晴
午前船ノ右舷ニ一帯ノ洲渚ヲ見ル、蓋シスマトラ島ノ洲嘴ナリト云フ風少クシテ熱ノ加フルヲ覚フ、航行平穏ニシテ終日読書ス
十月十五日 晴
昨夜ヨリ涼風面ヲ吹テ亦苦熱ナシ、時々スマトラ、マラツカ両島ノ地方ヲ左右ノ舷ニ見ル、又汽船ノ行換フモノアリ、夕方左舷ニ三・四ノ小島嶼ヲ見ル、終日読書ニ閑ヲ消ス
十月十六日 晴
午前四時頃船新嘉埠ニ着ス、然レトモ同港ハ島嶼多キヲ以テ天明ヲ俟テ進行ス、両岸緑樹鬱叢トシテ眺望頗ル佳ナリ、七時過本船桟橋ニ着ス、同地ニ開店スル三井物産会社支店主任河村〔   〕《(欠字)》来リテ安着ヲ祝シ、且本邦ヨリ到着セル書状数通ヲ交付セラル、上陸後ノ止宿ハ同店ノ寄宿舎ヲ以テ充テラレン事ヲ請ハル、又久水領事ノ夫人某・書記生大賀某ト共ニ本船ニ乗リ、領事ハ旅行中ニテ来訪シ難キヲ告ク、午前八時半本船ニテ朝飧シ、九時、河村氏・久水領事夫人等ト共ニ一行ヲ伴ヒ上陸ス、埠頭ヨリ用意ノ馬車ニテ先ツ三井物産会社支店ノ寄宿舎ニ抵ル、舎ハ港ト市街トノ中央ナル小邱ノ上ニアリ、樹木多クシテ清陰人ニ可ナリ、寄宿舎ニ於テ今朝本邦ヨリ到来セル数通ノ書状ヲ閲覧シ、又近来ノ新聞紙等ヲ見ル、十二時寄宿舎ニテ日本料理ノ午飧ヲ饗セラル、畢テ又楼上ニ於テ談話シ、読書シテ日中ノ苦熱ヲ避ク、蓋シ此地ハ航海中尤モ赤道ニ近キ土地ナルヲ以テ炎熱頗ル強ク、朝夕ナラデハ事務ヲ執リ又ハ諸方遊覧ヲモ為シ難キヲ以テナリ、午後四時ヨリ馬車ニテ、一行ハ久水夫人・河村氏等ト共ニ此地ニ設ケアル公園ニ抵リ動物・植物等ヲ一覧シ、夫ヨリ本道ヲ海岸ニ出テ市街ヲ通過シ各国ヨリ開店セル商店ノ景況及支那市街等ヲ見テ、六時過又寄宿舎ニ帰リ、同所ニ於テ夜飧シテ、此夜ハ同寄宿舎ニ一泊ス、夜ニ入ルモ暑熱多ク、且蚊多キヲ以テ安眠スルヲ得サリキ
十月十七日 晴
午前六時過起テ茶ヲ喫シ、一行共ニ河村氏ノ先導ニテジヨホールニ抵ル、ジヨホールハ此地ノ酋長タリシソルタンノ別宮アル地ニシテ、風景ニ富ムヲ以テ曾テ本船船長ヨリモ一遊ヲ慫慂セラレ、且此地ノ日本郵船会社代理店主任オノレーブル〔   〕《(欠字)》氏ヨリ特ニ別宮管理者ヘ宛テタル添書ヲ送ラレタレハ、乃チ此行ヲ試ミタルナリ、行程十四哩
 - 第25巻 p.376 -ページ画像 
ニシテ馬車ハ二時間ニテ達スルヲ得ル、午前八時一行ハ河村氏ト共ニ寄宿舎ヲ発シ、十時ジヨホール対岸ノ地ニ着シ、夫ヨリ別宮ヨリ迎トシテ送ラレタルバツテーラニテ向フ岸ニ抵ル、向フ岸ハ即チ別宮ノ庭園ナリ、別宮ニ抵リテ室内ヲ一覧ス、室ハ洋風ニシテ別ニ異様ノモノナシ、多ク英国皇室ノ油絵ヲ掛ク、又陶器類ニ本邦ノモノアリ、一覧後同地ノ海岸ニ添フタル旅館ニ於テ午飧シ、畢テ午後一時半海峡ヲ超ヘテ対岸ニ抵リ、夫ヨリ馬車ニテ午後三時半寄宿舎ニ帰ル、時ニ本船ヨリノ通知アリテ、出帆ハ明朝五時ト報シ来リシニヨリ、寄宿舎ニ於テ休足シ且夜飧ヲ為シ、八時過久水領事ノ居ヲ訪ヒ、尋テ本船ニ帰ル時ニ夜九時過ナリシ、此夜本船ニ積荷多キヲ以テ夜中喧囂セリ、久水領事夫人・河村氏其他ノ諸氏、本船ニ来リテ送別ス
十月十八日 晴
午前六時船新嘉埠ヲ発ス、風少シト云トモ暑熱大ニ減シテ又苦脳ノ事ナシ、航行平穏ナリ、馬来本島ヲ船ノ左舷ニ見ル終日読書ニ閑ヲ消ス
十月十九日 晴
暑熱昨日ト同シク、時々小雨来ル、風強ク船動揺スレトモ船暈ヲ催スニ至ラサリキ、終日読書ト雑談ニ消閑セリ
十月廿日 曇
暑熱昨日ニ比シテ少ク減スルヲ覚フ、風アリテ船動揺ス、然レトモ甲板上散歩ヲ妨クルニ至ラス、此日モ時々小雨ノ来ルアリ、終日読書ト散歩ニ閑ヲ消ス
十月廿一日 曇
朝来風強ク船動揺ス、幸ニ船暈ヲ催スニ至ラサルヲ以テ、勉テ甲板上ニ出テ散歩シ、且読書ス
十月廿二日 晴
風浪昨日ト同シクシテ、暑気ハ更ニ減却スルヲ覚フ、終日書ヲ読ミ且散歩ス、夜岡倉氏来話ス
十月廿三日 晴
風静ニシテ船平穏ナリ、午前十時二等室船客等催ス処ノ演説会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス、午後読書ニ閑ヲ消ス、此夜十一時頃船香港島附近ニ着ス、然レトモ夜中ナルヲ以テ明朝上陸スヘキ事ト定ム、夜十二時水先案内来リ本船港内ニ入リテ碇泊ス、夜中全島ノ街灯及各船ノ灯光頗ル美麗ナリキ
十月廿四日 晴
午前七時本港在留ノ諸氏続々本船ニ来ル、三井物産会社犬塚氏・日本郵船会社支店長三原氏・逓信省管船局技師福地文一郎氏其他数名来訪セラル、朝飧後三原・犬塚氏等ノ案内ニテ上陸シ、小蒸気船ニテ香港島ニ抵リ、海岸ノ市街ニ於テ郵船会社・物産会社・正金銀行等各支店ヲ訪問シ、更ニ物産会社ノ支店ニ於テ小憩ス、休足後再ヒ支店ヲ出テ公園ニ抵リ、花卉ヲ一覧シ、十二時頃三井物産会社ノ社員寄宿舎ニ抵リ、午飧ノ饗応ヲ受ク、食後三原郵船会社支店長・添田三井店員等ノ案内ニテ、香港島ニ有名ナル太平山ニ登ル、山ハ高サ千八百尺余ニシテ、本島中最高嶺ナリ、且奇巌怪石巍峩トシテ眺望頗ル佳絶ナリ、行程ハ鉄線ヲ連結セル鉄道線路ニ車ヲ架スルモノニテ、凡ソ我壱里余ア
 - 第25巻 p.377 -ページ画像 
ルヘシト思ハル、山ノ巓ニ達シテ後更ニ竹輿ニテ四・五町ニシテ山ノ前面ニ抵リ、港内及市街ヲ一望ス、其壮観実ニ形容シ能ハサルモノアリ、水面ニ浮フ各種ノ艦船ハ恰モ木葉ヲ散スル如ク、群島其間ニ崎崛シ、眼下ニハ香港全市櫛比布置シテ、街頭ノ行人ハサナカラ蟻ノ如シ眺望稍久フシテ帰路ニ就キ、往路ト同シク鉄線架設ノ車ニテ下リテ三原氏ノ宅ニ抵リ小憩ス、午後六時過、八十島ヲ伴ヒ再ヒ三井寄宿所ニ抵リ高等商業学校出身ノ諸氏ニ於テ開設スル同窓会ニ出席シ、来会者ノ歓迎ヲ受ク、此夜会スル者十四名、食卓上総代ヨリ余ノ臨席ヲ謝スル旨ノ挨拶アリテ、余モ一言ノ謝詞ヲ述ヘ、食後更ニ別席ニテ談話会ヲ開キ、商業学校ノ程度ヲ進ムルノ問題ニ関シ詳細ノ談話ヲ為シ、別ニ欧米旅行中ノ観察ニ就テ一場ノ演説ヲ為ス、夜十二時過散会シ此夜ハ寄宿舎ニ一泊ス、此夜三原支店長ヨリハ、支那料理ヲ以テ一行ヲ饗スル旨朝来申越サレシモ、余ハ前約アルヲ以テ之ヲ謝シ、兼子及他ノ随行者同伴ノ事トナセシカ、其宴ハ十時過ニ畢テ、兼子及他ノ諸員モ寄宿舎ニ帰宿セリ
十月廿五日 晴
午前七時起テ書類ヲ整理ス、蓋シ昨日此地ニ来着セシ留守宅又ハ銀行其他ノ書信及ヒ報告書ハ、之ヲ熟読スルノ暇ナカリシニヨリ、今朝之ヲ調査セリ、又上海総領事小田切氏及湖南汽船会社白岩竜平氏ニ書状ヲ認メテ発送ス、午前九時朝飧ヲ畢リ、一行寄宿舎ヲ発シテ領事館ヲ訪問シ、更ニ三井物産会社・日本郵船会社等ヲ訪問シ、又東洋汽船会社事務所ヲ訪ヒ、夫ヨリ小蒸汽船ニテ本船ニ抵ル、在香港ノ各商店ノ人々本船ニ来リテ行ヲ送ル者数十名アリ、十二時過出帆、港湾ヲ迂回シ小島嶼ヲ巡リテ大洋ニ出ツ、風強ク船動揺セリ、午後南清地方ノ諸山ヲ左舷ニ見ル
十月廿六日 晴
朝来風涼ク復暑熱ヲ感セス、浪高クシテ船ノ動揺甚シト云トモ一行別ニ船暈ニ苦ムモノナシ、想フニ航海ニ馴レテ幾分ノ感応ヲ減セシモノナラン、終日左舷ニ南清地方ノ島嶼ヲ見ル、甲板上ニ散歩シ、又ハ読書ニ閑ヲ消ス
十月廿七日 晴
朝早ク厦門地方ノ山ヲ左舷ニ見ル、八時頃台湾島淡水ノ諸山ヲ右舷ニ見ル、時ニ雲靄多クシテ眺望意ノ如クナラサリキ、終日読書又ハ詩作等ニ消閑ス
十月廿八日 晴
昨日ヨリ風穏カニシテ船安静ナリ、終日読書ト散歩ニ時間ヲ費スノミ然レトモ船漸ク本邦ニ近クヲ以テ、旅客皆喜色アルニ似タリ
十月廿九日
昨夜ヨリ大雨頻リニ至ル、朝来煙霧多クシテ、四方弁シ難シ、午前七時頃ヨリ薩摩ノ島嶼伊良武島《(永良部)》ヲ右舷ニ見、尋テ硫黄島・竹島等ヲ同方位ニ見ル、又矢久島・種ケ島・槙島等《(馬毛)》ヲ左舷ニ見ル、鹿児島湾ハ此辺ヨリ右折シテ達スルヲ得ヘシト云フ、午後大隅・日向地方ヲ右舷ニ見ル、時々風雨来リテ甲板上ノ散歩自由ナラザリシガ、夕方ヨリ雨歇ミテ風静カナリ
 - 第25巻 p.378 -ページ画像 
十月三十日 晴
昨日ハ風雨強ク雲靄四方ヲ眺望スル能ハサリシヲ以テ、今日ノ入港ニ当リテモ尚四望ノ不自由ナラン事ヲ恐レタリシカ、午前三時半頃、土佐ノ東方ナル室戸崎島灯台ヲ右舷近方ニ見ル、時ニ雨歇ミテ天色稍明カナリ、午前六時頃ヨリ阿波地方ヲ右舷ニ、紀州地方ヲ左舷ニ見ル、九時過キヨリ淡治島《(路)》ヲ右舷ニ見ル、十二時頃ヨリ遥ニ摩耶連山ヲ見ルヲ得テ、神戸ノ市街雲煙ノ中ニ在リ、一行ノ喜識ルヘキナリ、ヤカテ和田ノ岬ニ着スルヤ、検疫船来リテ満船ノ乗組員ヲ点検シ、同時ニ来着セシ数〓ノ小蒸汽船ハ、余等ヲ迎ノ為来レル多人数ヲ乗セテ本船ニ来リ、船中俄ニ混雑ヲ極ムルニ至レリ、篤二及一・二ノ家僕モ来リ迎フ、第一銀行員及各会社ノ人々又ハ神戸・大坂・西京ヨリ来レル商業会議員等数百人《(所脱カ)》ニ及ヒタリ、午後一時半小蒸気船ニテ上陸シ、諏訪山常盤ニテ暫時休憩ス、此時神戸・大坂・西京ヨリ来シ商業会議所ノ人人ヨリ、寸間ニテモ歓迎ノ宴ニ臨席スル事ヲ乞ハレテ、中常盤ニ抵リテ其宴ニ出席シ、改正条例ニ関シテ農商務省及東京商業会議所ト意見ニ差違アリシ顛末ヲ、大坂・神戸会議所ノ人ヨリ縷述セラル、午後六時神戸停車場ニ於テ汽車ニ搭シ直ニ出発ス、神戸ノ人々多人数来リ送ル、篤二及東京ヨリ迎ノ為メニ来リシ人々ハ同行ス、田中源太郎氏上京ノ由ニテ同車ス、車中大坂・西京・岐阜・名古屋ノ各地停車場ニハ来リテ無事帰京ヲ祝スル人多シ、汽車ハ寝台附ナルヲ以テ車中幸ニ安眠スルヲ得タリ
十月三十一日 曇
払暁、沼津・御殿場ヲ過キ、箱根ノ山脈ヲ超ヘ、国府津ニ抵ル、横山徳次郎氏、武・正両児ヲ同行シテ来リ迎フ、其他新聞記者又ハ縁戚・知人来リ迎フ者頗ル多シ、午前十時過新橋停車場ニ着ス、停車場ニハ各種ノ知人来リ、迎フル者約千人余ナルベシ、群衆雑沓ノ間ニ於テ親友等ニ握手シ、十一時兜町事務所ニ抵リ、直ニ第一銀行ニ出勤シテ旅行中ノ概況ヲ報告シ、午後一時王子別荘ニ抵ル、同所ニハ親戚一同来会セルヲ以テ旅中各地巡遊ノ概略ヲ叙説シ、夜ニ入リテ散会ス
十一月一日 雨
午前七時起テ朝飧ヲ畢リ、二・三ノ来訪人ニ接シ、午前十時第一銀行ニ出勤シテ、佐々木氏ト留守中ノ行務概況及経済界ノ経過ヲ談話シ、且欧米客中銀行事務ニ関セシ調査ノ要領ヲ述ヘ、更ニ各重役及行員一同ト会見ス、午後一時過兜町事務所ニ於テ午飧シ、来訪ノ人ニ接シ、傍ラ書類整理ノ事ヲ事務員等ニ命シ、午後四時三井物産会社・日本郵船会社ヲ訪問シ、桂総理・曾禰大蔵大臣ノ邸ヲ訪ヒ、午後七時王子別荘ニ帰宿ス
十一月二日 雨
午前七時起テ朝飧ヲ畢リ、二・三ノ来人ニ接シ、九時過馬車ニテ麻布内田山井上伯ヲ訪ヘ《(ヒ)》、面会ノ後旅行中ノ概況ヲ述ヘ、支那行ノ延期セシ理由ヲ伯ヨリ説明セラル、工場法ノ事ニ関シ縷説アリ、其他政府ノ事民間ノ業ニ対スル種々ノ意見ヲ示サル、午飧後去テ上野精養軒ニ抵リ同気倶楽部ヨリ案内セラレタル歓迎会ニ出席シ、蜂須賀・板垣其他重立タル会員諸氏ニ会話ス、午後三時兜町ニ抵リ仙石・南二氏ノ来会
 - 第25巻 p.379 -ページ画像 
アリテ、英国ニ於テ取扱フタル鉄道社債ニ関スル顛末ヲ詳話シ、且抵当法案ノ将来ニ付テ種々ノ協議ヲ為ス、午後五時過仙石氏等去テ大倉喜八郎氏来リ、留守中種々ノ要務ヲ詳話セラル、後更ニ二・三ノ来客ニ接シテ ○下略
十一月三日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、直ニ王子別荘ニ抵ル、大川平三郎来話ス、王子製紙会社・麦酒会社等ノ事ヲ詳話ス、佐々木慎思郎・渋沢喜作・同作太郎・細野次郎・諸井時三郎ノ諸氏来話ス、此日ハ天長節夜会アリシモ、途次不便ナルヲ以テ出席セサリキ
十一月四日 曇
午前七時朝飧ヲ畢リ、北垣国道氏来話ス、九時半兜町事務所ニ出勤シテ、京釜鉄道会社竹内 ○綱・日下 ○義雄二氏ノ来話ニ接ス、渡辺嘉一・英人キルビー其他来人頗ル多シ、夕方浅野総一郎氏来リ、鉱山部ノ営業顛末及石油部鑿井事業等ヲ詳話ス、夜七時過王子別荘ニ帰宿ス
十一月五日 曇
午前七時過朝飧ヲ畢ル、八時園田実徳氏来ル、九時桂総理大臣ヲ官舎ニ訪ヒ、旅行中ノ概況及抵当法案・京釜鉄道社債ノ事ヲ詳話ス、山本達雄氏来リ会ス、芳川逓信大臣・一木局長来ル、依テ総理ニ談話セシ事項ヲ談話シテ、他日ノ会見ヲ約ス、十時小村外務ヲ官邸ニ訪ヒ、総理ト談セシ事共ヲ詳話ス、且来ル十一日夜小村氏ヨリ官邸ヘ会合ノ事ヲ請求セラル、十一時過農商務省ニ抵リ、工務局長ニ面会シテ工場法案ニ関スル意見ヲ述ヘ、商業会議所ノ事ヲ談ス、午後一時第一銀行ニ抵リ佐々木氏ト会話シ、直ニ事務所ニ於テ午飧シ、午後二時日本郵船会社重役会ニ出席シ、当日ノ要務ヲ議決ス、六時帝国ホテルニ抵リ、住友氏支店主任交替披露ノ宴会ニ臨ミ、九時去テ大倉氏邸ノ招宴ニ出席ス、小松宮殿下御夫婦・松方伯・岩崎男其他本年洋行ヨリ帰京セシ人々ヲ歓迎スルノ宴ナリキ、夜十二時王子別荘ニ帰宿ス、此夜種々ノ余興アリシ由ナルモ、遅刻セシヲ以テ見ルヲ得サリキ
十一月六日 晴
午前七時朝飧ヲ畢リ、血洗島ヨリ来レル貞子ト、元治ノ学費ニ関スル事共ヲ談シ、庭園ヲ散歩シ、前島密氏・成瀬仁蔵氏等ノ来訪ヲ受ケ、午前十一時過兜町事務所ニ抵ル、時事新報記者来リ視察談ヲ為ス、午飧後第一銀行重役会ニ於テ要務ヲ議決シ、再ヒ事務所ニ於テ事務ヲ指揮シ、五時喜賓会ニ出席シ、議事畢テ七時日本倶楽部晩餐会ニ出席シ会長其他ノ委員一同ニ面話シ ○下略
十一月七日 晴
午前 ○中略 書類ノ整理ヲ為シ、午後一時上野ニ抵リ日本鉄道会社ヲ訪フモ、此日ハ重役会ナキヲ以テ事務員ト面話シ、更ニ神田ニ於テ東京瓦斯会社ヲ訪ヒ、大橋専務・福島支配人ニ面会シ、米国紐克ニ於テブラジ氏トノ談判顛末ヲ報告シ、且将来瓦斯ノ販売拡張ノ事ヲ協議ス、午後三時日本銀行ヲ訪ヒ、高橋是清氏ニ面話ス、兜町事務所ニ抵リ事務ヲ視テ、後四時有楽会ニ出席ス、井上伯其他会員出席頗ル多シ、先ツ工場法案ニ付テ前会以来ノ手続ニヨリテ協議ヲ為シ、各員其意見ヲ陳述ス、討議ノ末本案ハ委員七名ヲ撰テ之ニ附托スル事トナル、食後余
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カ欧米視察談ヲ乞ハルヽニヨリ、各国巡回ノ順序ヨリシテ、商工業ニ付テ欧米各其長所アル点ヲ詳論ス、畢テ夜十一時王子別荘ニ帰宿ス


竜門雑誌 第一七四号・第三五―五〇頁 明治三五年一一月 ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)(DK250012k-0002)
第25巻 p.380-391 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第三五―五〇頁 明治三五年一一月
  ○青淵先生漫遊紀行(其六)(八十島親徳)
○上略
    △羅馬出発
九月二十日 快晴、午前、先生は令夫人其他一行を随え、我公使館を訪問す、大山公使は目下ネーブル港碇泊の我艦隊浅間・高砂両艦長其他上級士官等と共に伊国皇帝に謁見をなす為め、トリノ離宮に赴き不在なりしを以て面会を得ず、転して市中大小の公園を観覧す
午後行李を整へ、六時四十分発の夜行列車に搭し、ブリンヂシ港に向け羅馬を出発す、明夕同港発の便船にてポルトサイドに渡航し、我神奈川丸に邂逅せんが為なり、市来・甘利・愛徳・井上の諸氏停車場迄見送らる、巴里より同行したる井上金次郎氏は、一行を送りてブリンヂシ迄赴く筈なりしが、前に一行の行李中税関手続に行違ありて仏伊の国境に停まり未だ到着せざるものあるを以て、之が処分を委托したれば、同氏と玆に尽きぬ名残を惜むことゝなりたり
今夕の夜行列車亦寝台車の設備なく、先生を始め一行頗る究屈の思をなし辛く一夜を過す、概見する所に依れば伊国の汽車は、米国は素より英・独・仏・白等の各国に比し大に遜色あるものゝ如し、午後十一時カセルタに於て列車の乗替へをなす
    △ブリンヂシ港
九月二十一日 快晴、汽車中一同異情なく、午前十一時ブリンヂシ港に着し、「コツク」店員等の出迎を受け「ホテル・インターナシヨナール」に投す、当港は嘗て東洋航船寄港せし頃に当りては一時頗る繁昌を示せしも、近来は漸次交通減退すると共に港市の光景亦衰廃を呈し、今や僅に漁夫街の稍々出色あるものとなり了せり、但其港は川の如く狭く且つ深く、湾入して二・三千噸の船舶数艘岸に横付せらるゝものあり
午後六時ポルトサイド行英国定期郵船「オサイリス」号(ピーオー会社に属す)に搭す、同船は三千噸内外の客船にして、乗客定員八十名船室を始め図書室・喫煙室・音楽室・食堂等の設備整然たり、今回の乗客三十名許り、多くは英・独人にして夜半十二時出帆す、海上波穏にして涼風袂を吹き、羅馬に比しては暑気甚薄し
    △ポルトサイド行海上
九月二十二日 晴後曇、海上平静、正午前より左方に希臘の陸地を望み、沿岸・諸島との間を進航す、陸上の村浦指呼の間に在り、山は頂点兀として禿げたるも、中腹以下はオリーフ樹茂生せる所尠からず、乗客皆甲板に集りて水陸の好景を賞し飽く所を知らず、夜に入り風漸く強く波浪舷を敲ひて船体の動揺甚し、一行悉く船室に退て休養す
九月二十三日 曇、此日終日地中海上に在り、四方山を見ず、浪高くして船横動を絶たず、一行中一両名食堂に到るを廃するものあり、気候は涼風頗る肌に適す
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九月二十四日 快晴、午前六時船ポルトサイドに安着す、郵船会社代理店ウオーム会社の社員に迎えられて端艇に移り、途次税関吏の撿査を経て上陸し、「イースターン・ヱキスチエンジ・ホテル」に投す、当地某雑貨店員日本人金子誠二氏等来訪す
郵船会社の神奈川丸は、本日入港の筈なりしも終に到着せず、為に一行は已むを得す当地に一泊す
ポルトサイド港は蘇西運河の北端に在り、埃及国の版図に属す、東洋往復の船舶は必ず寄港する所にして碇泊の船舶多く、市街亦意外に繁栄なり、市人の多くは埃及・亜剌比亜等の土人にして、税関・警察・郵電・港務等の実権は主として英国人の手に帰せるものゝ如し、通貨は英仏の貨幣並び行はれ、言語は英語専ら通用す、気候は昼間頗る苦熱を感するも、夜間は海風徐ろに至りて、旅館の楼上廻廊にあれば、爽涼殆ど昼間の苦を忘るゝに足るものあり
    △神奈川丸便乗
九月二十五日 快晴、今朝七時神奈川丸入港す、事務長浅野氏来訪、午前十時撿疫を経て神奈川丸に搭す、同船は郵船会社欧洲航路定期船の一にして、噸数六千百余、船長は蘇国人ゼー・マツケンジー氏、事務長は同志社出身の浅野三郎氏なり、共に乗客の待遇に努め内外人の評判頗る宜し、同船上等室定員二十名中、日本人は先生一行六名の外後藤節蔵氏を合せて七名にして、残余十三名は悉く英国人の男女なり其職業別は船長一名・銀行家一名・商人一名にして、他は多く伝道事業関係の輩なりと云ふ、中等室の定員は十八名にして中九名は日本人孰れも独・英に官費又は私費の留学を卒へ、今将に錦を故郷に飾らんとするの士なり、即ち左の如し

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 法科大学   法学士 美濃部達吉   札幌農学校  農学士 松村松年 高等師範学校 理学士 大幸勇吉    高等師範学校 文学士 吉田静致 高等商業学校     石川文吾    小説家        巌谷季雄 画家         久保田米太郎  医師         田代秋太郎 技師         鈴木四十 



碇泊中ポルトサイドの土人、珊瑚・木地細工・絵葉書・煙草の類を携え本船に来りて売付くるも可笑し
本船は当港に於ては石炭其他の荷役もなく、唯多少の乗客降昇と郵便物の積卸とのみなれば、碇泊時間も至て少なく、午後一時当港を出帆して蘇西運河に入る、抑も運河は延長八十五哩にして、之を通航する船舶は危険を避くる為め一時間五哩の速力を以て駛走するを定規とす且河幅の広からざるを以て、他の船と行違に過ぎんとするに当りては一方は岸辺に寄泊して他の通過を待たざるべからず、旁々運河通過の為め十八・九時間を要すと云ふ
運河の両岸は土質砂礫にして、草木の茂生するものなく、唯十数町毎に停船場あり、其事務所の近傍のみ多少の樹木を見るのみ、右方には大小の湖水に水を湛え、左方は砂漠茫々として際涯なく、土人の駱駝に乗り隊を成して通行するもの多し、黄昏に近くに従ひ、彼等は樹枝と木皮とを以て仮小屋を砂上に作り、以て群居休息するを見る
気候は意外に涼しく、本日正午八十度なり、先生・同令夫人以下一同
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至つて健全にして、甲板の椅子に倚り読書・快談等に時を移せり、今や漸く世界の漫遊を終へ、今日より真の帰路に上り、本船の儘故国に帰ることゝなりたれば、一行の意気更に揚々、連日の疲労俄に恢復したるが如し
    △蘇西港
九月二十六日 快晴、午前九時蘇西運河を出でゝ、其南端なる蘇西港に着し、郵便物積卸しの為め碇泊す、当港には数艘の汽船碇泊す、陸上には店舗・倉庫相連りて街衢をなし、且青樹の茂生せるを見る、但し市街の周囲は山と云はず平地と云はず悉く砂礫にして、一草一木の目に映ずるものなし
碇泊僅に二時間にして午前十一時蘇西港を発し、紅海に向け蘇西湾を南航す、海波静穏、気候意外に涼しく、寒暖計七十度を超ゆること少許、必ずしも夏服を要せざる程なりき
    △古倫母行海上
九月二十七日 快晴、本日は既に蘇西湾を出てゝ紅海に入る、四方陸を見す、海波稍々穏かならずして船体多少の横動をなす、抑も本船は純粋の旅客船にはあらずして貨物の積量多く、殊に今回は呉製鋼所の購入に係る多量の鉄材を積めるを以て船脚頗る重く、随て船体の動揺至て少なきを得たるは、一行の僥倖とせる所なりとす
本日は風向順となり、甲板上に風を感すること少く、気温八十七度、暑気頗る高し、乗客の多くは朝夕浴室に於て海水冷浴をなす、正午本船の位置は北緯二十五度二十九分・東経三十五度三十分、蘇西より三百二十三哩、コロムボに三千八十四哩の点に在り、昨日正午よりの航程三百七哩にして、平均一時間の速力二十哩余なり
九月二十八日 快晴、此日風なく海穏なり、甲板上些も風を感せず、加ふるに炎熱燬くか如くにして、寒暖計は甲板上に於ても終日終夜八十八度を昇降す、乗客皆発汗して其暑熱に苦悶すること昨日に倍せり夜分乗客の甲板上に眠るもの多し
正午本船の位置、北緯二十一度十三分・東経三十八度四分、殆と紅海の中央に在り、航程二百九十二哩
夜先生は二等室に至り、松村・巌谷・久保田其他の諸氏と団座し、快談に時を移せり
九月二十九日 快晴、今朝より正面に風を受け、気温は昨日と異ならさるも之を感すること少なく、甚た凌き易きを覚ゆ、加之海甚だ穏にして船体少しも動揺せず、本日は日曜なれば船客は食堂に集合して礼拝式を行ふ、日本人のみは之に与らず
正午本船の位置は北緯十七度三分・東経四十度三十七分、昨日より航程二百八十九哩
紅海は東西航通の要衝に当り、汽船の往復甚だ多し、昨今本船と相過ぎ又は本船を追越すもの数艘に及ぶ
先生は連日甲板上に読書を以て時間を消し、時に後進の為に快談数刻に亘る事あり、過日来、塚越停春著熊沢蕃山・徳富蘇峰著人物偶評等を読了し、昨今は英国公使オールコツクの奉使日本三年間紀等を愛読せらる
 - 第25巻 p.383 -ページ画像 
九月三十日 晴
本日は昨日に引続き向風ありて涼しく、漸次紅海の南方に近づき島嶼多し、午前十一時亜剌比亜のモツカを遥に左方に望み、午後三時バベルマンデム海峡を通過す、玆に紅海を出で亜丁湾に入れるものなり
正午本船の位置、北緯十三度七分・東経四十三度十二分、航程二百七十三哩
十月一日 晴、昨日に引続きて亜丁湾内を東航す、湾大にして陸を見ず、相変らず向風にして涼気膚に宜しく、寒暖計七十八度を指せり、午前九時北方五哩を隔てゝ郵船会社欧洲航船讃岐丸と行違ふ
正午本船の位置、北緯十二度六分・東経四十七度八分、昨日正午よりの航程二百五十哩
夜、先生は甲板に息ひ、浅野事務長其他一行等を相手に、維新事歴談等に時を移さる
十月二日 晴、午前十一時、阿弗利加東端のガタルフヰー岬を通過し愈々印度洋の大海に出づ、波平かなれどもウネリの為め船体稍々動揺す、本船は構造の宜しきと積荷多きと速力の緩なるとに依り、船脚確固として常に動揺少きは、内外船客の共に喜べる所なり
南極地方より来る寒潮流の影響として気温甚だ涼しく、寒暖計七十度を下る、実に意外の感あり
此日二等室旅客の発起にて、仮名雅話新聞の発行あり、各専門の大家競て筆を執れるを以て、其戯論・画報・笑説・巧告等見るべきもの甚だ多く、団々珍聞の如きは却て三舎を避くるの趣あり、亦旅行中の一興たり
正午本船の位置、北緯十一度四十五分・東経五十一度三十五分に在り航程二百六十八哩
十月三日 快晴、海波甚穏にして気候引続き涼し、此日別に記すべきことなし、正午本船の位置、北緯十度五十六分・東経五十五度五十五分、航程二百五十七哩
十月四日 晴、海穏にして涼し、正午本船の位置、北緯十度六分・東経六十度十六分、航程二百六十一哩
十月五日 晴、海穏にして続て爽涼、甲板に在りては外套を用ゆるも可也、正午の位置、北緯九度三十分・東経六十四度三十五分、航程二百五十九哩
十月六日 曇、本日は始めての曇天にして、午後三時より降雨強く、四囲朦朧として咫尺を弁ぜず、船は汽笛を連吹して進む、浪は比較的静穏にして続て涼気なり、正午の位置、北緯八度四十八分、東経六十九度十一分、航程二百七十四哩
此日先生七言絶句二首を詠ず、左に之を録せん
  火雲映水水浸空。  一路孤帆東復東。
  午夢覚来無個事。  閑移吟榻趁涼風。』
  放浪煙波旬日余。  胡床静座似僧居。
  閑人自有忙機在。  僅倦奕棊又読書。』
十月七日 雨、此日雲低ふして時々雨を来し、温度七十、至て涼気を覚ふ、海波は頗る静穏なり、午前八時左方数町を隔てゝミニコイ島を
 - 第25巻 p.384 -ページ画像 
見る、全島平地より成り、椰子樹繁茂し、灯明台其間に屹立す、渺たる一小島に過きすと雖も、数日間雲煙と海波の外一物をも見ることを得ざりし目には、其翠滴らんとするの光景を見、恰懌の情禁する能はざるものあり、先生狂歌あり曰く
  皆人のミニコイといふ沖の島も
       霧がかゝりてどうもミニクイ
先生は相変らず甲板に出て、多くは読書に耽らる、正午本船の位置、北緯八度五分・東経七十三度四十四分に在り、航程二百七十六哩
十月八日 雨、曇天にして時々雨至る、海上平穏にして気温至て低し今朝八時郵船会社の欧洲航船博多丸と、南方数哩を隔てゝ行違ふ
正午の位置、北緯七度二十分・東経七十八度十七分、航程二百七十四哩、古倫母迄余す所僅に九十六哩、ポルトサイド及蘇西出帆以来二週間の航海も、先以て無事にして、今夜九時過ぎには愈々古倫母に到着せんとす、時々雨至り天気蔭鬱を極め、且つ古倫母に近くに従ひ海波漸く高く、船動揺す
 ○第二十一信 (香港十月二十四日発)
    △古倫母着、古倫母所見
古倫母港外は毎に波浪激しき所なるやに聞きしが、果せる哉船の漸く近くに従ひ愈々船体の動揺甚しきを加ふ、然れども幸に困難を感する程にもあらずして、午後七時後より遥に前程に灯台の火光及港内の灯光を望む、軈て船頭に一発の狼煙を揚ぐるや水先案内は来船し、其指導の許に本船は午後九時過築港(突堤)内に入り投錨す
港内は大小の商船輻輳して帆檣林立す、蓋し此地は印度洋中の要衝に当り、欧・亜・濠諸洲の間を航海する船舶の悉く皆炭水を仰ぐの地となり、其繁盛亦察すべきなり、此夜は船中に留まれり
十月九日 時々雨、早朝より荷揚人夫(黒褐色の土人にして多くは裸体なり)小舟を操りて来集す、其状頗る奇なり
郵船会社代理店「カルソン」商会のウドロフ氏来訪、先生始め一行は特に設けられたる小蒸気船にて上陸し、同氏の先導にて終日を古倫母及附近観光の為めに費すことゝせり、即ち先づ「グランド・オリエンタル・ホテル」に少憩の後、古倫母博物館に到る、同館は数十年前公設するところに係り、当錫蘭島の産出に係る古代及び現時の細工品・天産物・動植物の標本等を陳列せり
夫より市の郊外に出で、馬車を駆りて揶子の類及熱帯植物の繁茂せる間に通ぜる大道を南行すること八哩、モント・ラビニアに至り「グランド・ホテル」に於て午餐を喫す、同「ホテル」は海岸に屹立せる巨巌の上に設けたる旅館にして、古倫母在留外人の来遊に供ふるものなりと云ふ、英人の営業する所に係り、其設備頗る整へるも「ボーイ」其他の雇人は皆錫蘭の土人なり、彼等は白の「ジヤケツト」を着し、腰部以下には金巾を纏ひ、其屋外に在ると客に侍するとに別なく悉く跣足なり、髪は琉球人の如し、其使傭する員数は頗る多く、入口・食堂・庭園・客室・化粧室等悉く皆一・二名宛を備ふ、蓋し個々の働き鈍きと賃銀の廉なるとに依るものなるべし、兎に角一見欧米と其風を異にすること甚しきを感ず、食後土人の手品師来り庭園の砂上に座し
 - 第25巻 p.385 -ページ画像 
て汚穢なる大袋に一切の種を蔵し、千変万化の手品を演す、其外見の不潔なるには驚けるも、其技は意外に巧なるものあり、又能く蛇を使へり、休息の後帰路に着き、途次仏教寺院に詣る、釈迦の入涅槃像及び生涯の閲歴を示せる十二像を始め、壁間には地獄・極楽の図等あるも、皆拙劣にして見るに足らず、又僧侶の門弟に経文を授くるを見たるに、其状如何にも柔惰にして、世尊の降誕地としては唯心外と云ふの外なし、斯くて公園を経、玆に見物を終り、午後五時を以て本船に帰る
今市内に於て瞥見せし所を概記すれば、土人は印度人の一種族にして膚色黒褐色を呈し、容貌・体格は欧米人に酷似するも、其悠柔惰慢にして鷹揚魯鈍なる、殆と人類と日を同ふして語る可らざるものあり、其得る所は悉く飲酒と喫煙とに費し、四時赤裸々として路傍樹間に懶眠を貪るの状、宛も禽獣と選ふ所なきか如し、随て総ての利益は皆英人の占むる所となり、市街枢要の地区皆白人の店舗に係る、気候は二三月の交最も熱く、却て昨今は稍々涼しき方なりと云ふ、而して此地二週間前より西南「モンスーン」は東北「モンスーン」に変するの季に際し、陰霖打続き、已に本日の如き時々降雨あり、寒暖計八十二三度敢て酷暑と云ふに足らず、又日本人の在留する者某商店員一人の外皆無なりと云ふ、神奈川丸は此夜十二時を以て出帆せり、当港より新嘉坡出稼の甲板旅客十数名乗組みたり、彼等は多く印度人・馬来人・支那人等にして、下等甲板上に起伏し自炊をなすものなりと云ふ
    △新嘉坡行海上
十月十日 曇夜雨、午前錫蘭島の沿岸椰子樹繁茂し、風光頗る佳なる所を左方に眺めて通過し、午後は四面陸を見ざるの大海に出づ、浪なきもウネリ大にして、船体稍々動揺す、正午本船の位置、北緯五度五十一分・東経八十一度十三分に在り、古倫母発程後の航程百三十四哩夜に入り大雨、四面暗黒、船は汽笛を連吹して進む
十月十一日 晴、静穏にして微風あり、温度七十八度、頗る膚に適す午後日本人乗客に冷素麺の饗応あり、一行は其好意を謝し、一人にて十数杯を尽すものあり、正午本船の位置は、北緯五度四十五分・東経八十五度三十二分、航程二百五十七哩
十月十二日 晴、終日涼風、至て波平なるも大ウネリの為船体緩く縦横動をなす、但し船暈を感するものなし、先生は例に依りて読書を専とし、昨今は日本政記・幕府衰亡論・外交奇譚等を繙閲せらる、正午の位置、北緯六度三分・東経八十九度五十五分、航程二百六十二哩、夕景驟雨あり、忽にして霽れ、夜に入りては半月中天に懸り、波静にして涼風颯々、清爽云ふべからず
十月十三日 晴、静穏爽涼時々細雨あり、夕刻蘇門多拉島の北端を右に見、右折して媚南海峡に入る、一行無聊に苦み読書・放談し、又時に二等室に入り玉突等の運動に消暇す、正午の位置、北緯五度五十四分・東経九十四度四分、航程二百四十七哩
十月十四日 曇、昨夕媚南海峡に入りて以来、浪一層平となる、気温八十度、微風絶えず至るを以て暑気を感せず、正午の位置、北緯五度東経九十八度八分、航程二百五十七哩
 - 第25巻 p.386 -ページ画像 
十月十五日 曇、此日曇天にて、春の海の如く遠く霞を帯ひ、暖風吹く、昨今二等室に於ける邦人諸氏、各自専攻の学科若くは視察に就きての演説会あり、一行亦傍聴す、耳を傾くべき新説卓論少からず、旅中の消閑法としては蓋し最好方便なり、正午、北緯二度三十二分・東経百一度三十三分、航程二百六十哩
漸次赤道に近き、暑気漸く加はり、本日は寒暖計八十二度に上れり、但し微風絶えす吹き来るを以て、敢て苦熱を感することなし
    △新嘉坡着
十月十六日 晴、午前三時、神奈川丸新嘉坡港外に着し、暫く夜の明くるを待ち、青山緑水の間を縫ふて、午前七時内港の波止場に着す、領事久水三郎氏夫人・三井物産会社支配人河村良平氏及大賀領事代理等、先生一行を本船に訪問せられ、一同導かれて上陸す
新嘉坡は天然の良港湾に加ふるに、波止場の設備整ひ、東洋有数の良港と称す、英国政府力を殖民地経営に注ぐの結果、街衢亦比較的に整ひ、人口二十三万に達す、中二十万人は支那人なり、彼等は皆土着の馬来人と共に半裸体跣足を以て徘徊せり、英国政府は強て彼等の風俗習慣を矯むることをなさず、些々たる外見に拘泥せずして、専ら其実益を挙くることに努むと云ふ
上陸の上市街を通過し、内長外長両性の植物鬱茂して巧に日光を蔽遮するの間を過ぎ、三井物産会社々員諸氏の社宅に到る、同邸は一の丘陵の上に設けられ、普く港市の全景を瞰下するを得へく、眺望頗る絶佳なり、加ふるに建物甚壮大にして、日本の大商社を表する邸宅として外人間に遜色なし、気候は赤道直下を距ること遠からざるを以て、炎熱遉に燬くか如く、朝夕を通して寒暖計八十五六度を下らざるにも拘はらず、同邸の爽涼なる位置に在ると、河村支配人以下の懇切なる待遇とに依り、著しく苦熱を感ずることなく、男爵以下一行去五月日本出発以来始めて日本風の入浴をなし、眺望と清風とに富める広間に於て愉快なる納涼をなし、又近着の新聞紙に依りて日本の事情を知り且つ論し且つ談する間に日光漸く炎威を減したれば、午後四時頃より出でゝ植物園を見、更に市中の状況を視察す、此地紳士は自用の幌馬車を用ゆるも、市中には乗合馬車の外、夥しく人力車あり、多くは二人乗にして背及び両側に武者絵を蒔絵し、悉く我輸出品に係る、車夫は皆支那人にして、十中八・九は裸体跣足なり、余等は欧米に於て常に馬車又は自働車の類のみを見、今東洋に入るに及び古倫母に於ても此地に於ても多数の人力車を見る、本邦の情態と相照合して一種の感に打たれき
午餐には日本食の饗応あり、又晩餐には洋式料理の饗応あり、河村支配人の外社員川村・馬場・横竹・榎並・太田の諸氏、及盂買支店赴任の途次上陸中なりし古郡・市川、日本麦酒会社出張員峠等の諸氏列席せり、此地高等商業学校同窓生六名あり、皆三井物産会社員にして今夕列席せるを以て、特に男爵歓迎の為に特に宴を催すを略せる旨、河村氏より挨拶あり
此夜先生・令夫人並に西川嬢は同邸に宿泊し、他の一行は日本人の経営に係る日進館に一泊せり、夜中も暑気甚しく容易に安眠するを得ず
 - 第25巻 p.387 -ページ画像 
年中昼夜の区別なく斯の如く炎熱を感するを顧へば、進で此地に来り貿易其他に励精せらるゝ同胞諸氏の艱苦察すべきなり
此地日本商店は、三井物産会社を始め三・四店あり、当港出入の商品中最一を占むるは素より石炭にして、其十中の六・七は日本炭なり、其大部分は三井物産会社の取扱に係ると云ふ、又日本醜業婦は八百人に達し、之に附随して生活せる日本男子数百人に達するも、在留本邦人中所謂紳士として接遇し得る者、即領事館の夜会等に招かる可き者は、全体を通して二十名を出ずと云ふ
    △ジヨホール宮殿観覧
十月十七日 晴、午前八時、先生以下一行は河村良平氏に伴はれ、新嘉坡島背後の対岸なるジヨホール国酋長(ソルタンと称す)の宮殿を見る為め、三井物産会社の社宅を出て、馬車を駆りて市外に至り、森林の間の大道を北行すること十四哩(此間二時間)にして島の北端に出て、ソルタン宮殿より特派せられたる端艇に搭し、海峡を渉りて対岸ジヨホールに上陸す、海峡の両岸は熱帯の樹木鬱叢として、翠影水に泛ふの状、宛然画図を開くが如し
直にジヨホールの王宮に到る、抑もジヨホールは馬来半島南端の半独立国にして、ソルタンは英国の保護を受け、且つ新嘉坡島譲与の報酬として、年々英国より支給せらるゝ十万円と、外に博奕公許税とに依り優に内廷の費を支ゆと云ふ、政府各省等其形式を備ふるも、最高顧問官を始め秘書官其他第一級王妃等皆英人にして、国務の実権は其掌裡に在り、秘書官カー氏の案内に依り王宮の内部を見るに、客間・御座間・寝室等悉く洋風にして意外に整備し、殊に先王の嗜好に依り日本の陶磁器等を蔵すること多く、其価格二十万円に及ふと称す、宮中の警手・吏員等は馬来の土人を使用し、彼等は皆洋装をなし洋帽を戴くも、足は孰れも跣足にして殿内に出入せり、ソルタンは起居寝食総て洋式を好み、常に洋風をなせりと云ふ、本日は偶々新嘉坡出遊の不在中なりしを以て面謁を得ざりしも、先生一行に対しては特に優遇を加へ、宮殿附の馬車及端艇を以て送迎せられたり
宮殿の観覧終りて後「ジヨホール・ホテル」に於て午餐を喫し、終て帰路に着き、三時過三井社宅に帰着す、夕餐は同邸に於て河村氏以下社員列席し、一行に日本料理を饗応せらる、偶々回航の途次入港中なりし我水雷駆逐艇朝汐機関長中村大技士以下回航員諸氏同席せらる、此の夜十時一行は同邸を辞し、途次久水領事夫人(領事は目下南亜出張中にて不在)を其邸に訪ひ、夫より神奈川丸に帰る、久水夫人・河村・大賀・市川・古郡の諸氏本船迄見送られ、三鞭の盞を挙げて互に健康を祝して袂を別つ
    △新嘉坡解纜
十月十八日 晴、本船は午前六時新嘉坡を出帆す、静穏波浪挙らず、当地より岡倉覚三氏便乗す、氏は官命を奉し印度古美術取調の為め昨年以降彼地に在り、今其用務を終へ帰朝の途に着くものなりと云ふ、又同氏はカルカツタ土着の豪商マリツク氏の令息を伴へり、氏は日本の文物を視察する為め其途に上りたりと云へり、正午本船の位置、北緯一度三十四分・東経百四度三十六分、新嘉坡よりの航程五十二哩、
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寒暖計七十七度、夜に入り時々驟雨あり
    △香港行海上
十月十九日 快晴、浪平にして漸次涼風を感ず、正午の位置、北緯五度十八分・東経百六度五十一分、航程二百六十二哩
十月二十日 曇、曇天にして東北風吹き、時々驟雨至る、波稍々高し正午の位置、北緯八度四十四分・東経百九十度十七分《(マヽ)》、航程二百五十二哩
十月二十一日 曇、引続き浪高くして時々驟雨到る、船体縦動す、正午、北緯十二度三十六分・東経百十一度三十二分、行程二百六十六哩
十月二十二日 晴、東北の風強く、浪愈々高くして船体縦動す、先生始め数十日の熟練を経来りたれば、毫も苦悶を感ぜず、正午、北緯十六度十五分・東経百十三度二十七分、航程二百四十五哩
十月二十三日 晴、本日は浪稍穏なり、過日来一・二等日本人申合せ時々二等甲板に演説会を催し、大率各人之を試みたるが、昨日は岡倉氏及マリツク氏の印度談あり、今朝は先生も同会に出席し、最後に演壇に上り欧米漫遊の所感より説き起し、我邦の彼に劣る事著しきは物質的の進歩に在り、之をして彼の如く進歩せしめんには、彼の長を採りて我の短を補ふこと素より必要なりと雖も、常に思ひ乍ら左顧右顧して終に目的を達せずして止むは国人の流弊なり、故に之が改良を実行する上に於ては固く一定の方針を立て、仮令ば風俗・習慣・衣食住等の細微の点に至る迄、一旦改良を是としたる以上は決して外来の障害に顧慮する所なく邁往勇進、飽迄其改良の成効を期し、以て之を万般の改良に及ぼし、遂には真に我国物質的の進歩をして彼先進国に劣らざる場合に達するを期せざるべからず、要するに今日の場合最早や世の偏見者流の異議に耳を傾け以て改良に躊躇すべきの時にあらず、社会人事の百般に就て、彼と対等の地を造るに不都合なるものは揮て之を改善するの決心あるにあらずんば、終に彼と対等に物質的の成効を期すること能はざるべしと信ず、是れ既に種々の専門を攻めて、今や正に帰着し各種の方面に向て其抱負を実行せんとする諸君に向て詢る所なり、云々と述べ壇を降る
正午の位置、北緯二十度三十二分・東経百十四度、航程二百五十九哩船漸く陸に近き、支那ジヤンク及漁船を見る、午後九時香港港内に入る、夜間なるを以て桟橋に繋留するは明朝のことゝし、今夜は港内に碇泊す、海陸の灯光星の如く、夜景甚佳なり
    △香港着、香港所見
十月二十四日 晴、夜明けて後、船進行を始め、午前七時を以て香港の対岸九竜の桟橋に着す、左の諸氏本船に来り迎えらる
 三井物産支店長  犬塚信太郎  三井物産店員  津田弘視
 三井物産会社店員 添田歌三   郵船会社支店長 三原繁吉
 正金銀行副支配人 小野英資   東洋汽船社員  松田吉太
 台湾銀行理事   下阪藤太郎  逓信省海事官  福地文一郎
朝食後、先生一行は郵船会社及三井物産会社より特に派遣せられたる小蒸汽船にて港内を横り、対岸香港に上陸し、先つ三井物産会社・郵船会社・正金銀行等を歴訪し、尋て三原・添田両氏に伴はれ、山腹の
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公園に散策を試みたる後、山上の三井社宅に到る、当所は同社の厚意に依り、今夜一行悉くの宿泊処に充てられたり
公園等を散歩する時は日本の暑中の如き熱さなるも、屋内に休息する時は涼風海より吹来り、至て清爽を極む
香港は対岸九竜と相対して天然の良港湾をなし、島内の山腹を拓きて街衢となし、対岸九竜に桟橋及船渠を設く、欧亜交通の関門たる要地を占め、船舶出入の頻繁なる蓋し東洋第一なり、陸上の街衢及建築は悉く皆洋式にして、瓦斯・電力・電話・水道・下水等の設備一として備はらさるなく、我々旅行者に取りては又欧洲に復帰したるにはあらざるかの感を生せしむ、世界到処の要部を占め以て雄を世界に競ふ英国の盛大亦想ふべきなり
此日午餐は右三井物産会社々宅に於て犬塚支店長主人となり、野間領事・三原郵船会社支店長・有馬大坂商船会社支店長・下坂台湾銀行理事等と同席にて、山海の珍を尽したる日本料理を饗せらる
午後一行は三原・添田両氏に伴はれヴヰクトリア・ピークに登り、四周の絶景を賞す、ピークは海抜二千尺、島内に屹立し傾斜甚峻しきも「ケーブル・カー」に投して僅に五分間にして頂上附近に達すべく、更に支那人の輿に乗り十分間を費して絶頂に到るべし、故に官吏・豪商の多くは山巓に別荘を構ふと云ふ
絶頂に到れは、港内港外峰巒蜿蜒として水に映し、殊に遠近に碁布する島嶼其数を知らず、船舶の出入又甚だ頻繁にして、風景の佳絶快哉を呼ふを禁する能はざらしむ、休息すること稍半時にして山を降り、暫く三原氏の邸に憩ひて後帰館す
此夜三井物産の社宅に於て、在香港高等商業学校同窓会の先生歓迎会あり、正賓の外、野間領事陪賓となり、神奈川丸の石川文吾氏及余も亦同窓の故を以て招待せらる、主人側の出席者は左の諸氏にして、外に病痾の為め欠席せられたるもの数名あり


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      犬塚信太郎       小松辰吉 三井物産 津田弘視   郵船会社 窪川真澄      添田歌三        藤山銀造      伊藤寛         木下祐 正金銀行 小野英資   大阪商船 佐藤適 




日本料理の晩餐中、幹事小松辰吉氏の先生歓迎の辞、並に先生の之に対する答辞あり、食後主客一同は広間に卓を囲みて閑談す、席上先生は、明治七年今の高等商業学校が商法講習所の名を以て故森有礼子に依りて木挽町に創設せられし以来、府立となり、後府の決議を以て殆と廃校に帰せんとし、更に農商務省の管轄となり、転じて文部省に移り、終に現今の有様に至りたる間、始終先生自身と学校との関係に対する経歴談より、更に同校の規摸を拡張して商業大学となすにあらずんば自分が商業教育に力を尽すの天職を終らざるものと信ずる旨を述べ、其必要の趣旨及び従来の経過等を談じ、進て今回の漫遊中米国を始め英・独・白・仏等に於ける実業的視察の比較談を試み、時を移して快談尽きず、漸く十二時を報ずるに及て散会す
今夜令夫人其他の一行は三原・松田両氏の招待に依り、支那割烹店に
 - 第25巻 p.390 -ページ画像 
赴かる
 ○第二十二信 (十一月一日於東京認)
    △香港出帆
十月二十五日 晴、朝食後三井物産の社宅を辞し、途上領事館・三井物産会社・郵船会社・正金銀行・東洋汽船会社等の支店を歴訪して本船に帰る、三原氏・同夫人・犬塚・有馬・下坂・福地・小松・松田・津田・小畔・添田・坂田其他の諸氏見送りとして本船に到る、三鞭の盃傾けて互に健康を祝し袂を別つ
正午、神奈川丸は九竜の桟橋より解纜し、軈て港外に出づれば、波稍高く風亦甚だ涼し
乗組の洋客は多く香港より上陸し、甲板寂寥を極む、広東省大官胡令宣氏便乗す、我秋季大演習拝観の途に上りしなり
十月二十六日 快晴、終日福州・台湾間の海峡を北航す、福州に近つき進むを以て台湾の陸を望む能はず、波高からず風清く涼気肌に適す温度六十七度
正午本船の位置、北緯二十三度四十四分・東経百十七度五十二分、航程二百三十七哩
十月二十七日 晴、浪収まりて静穏なり、朝右舷に台湾淡水附近の陸地を眺め、昼沖縄群島の石垣島を右舷遥に望見す
正午の位置、北緯二十五度五十五分・東経百二十二度一分、航程二百六十二哩、気温六十九度、此日先生の詩二絶あり、左に之を録す
  落日沈波海色昏。  牀頭一夢覓無痕。
  火輪行尽南清路。  雲外青螺是厦門。』
  飛鳥倦来既思還。  船馳翠靄紫微間。
  今朝喧噪人争報。  天末先看淡水山。』
十月二十八日 晴、此日終日黄海の南部、即ち沖縄群島の西北部を東北に向て直行し、終に陸地を見す
正午の位置、北緯三十八度二十一分・東経百二十六度十七分、航程二百七十一哩、気温七十度、海波穏なりしが夜に入り風雨となる、但動揺甚しきに至らず
    △帝国領海に入る
十月二十九日 雨、後晴、午前六時屋久島、七時種子島を右に見、更に硫黄島其他の島嶼を左方に見て、十時頃大隅佐多岬を通過す、午後雨晴れ、日向・大隅の国境に湾入せる有明浦の外辺を通過す、海岸の山地近く指呼の間に在り、一同甲板に出てゝ快哉を呼ふ
昼前、先生は船長以下士官十数名及同船の同胞旅客一行を招き、三鞭の盞を挙けて一同の健康を祝す、一同亦先生の万歳を唱ふ
正午の位置、北緯三十一度八分・東経百三十一度四分、航程三百二哩余す所の航程僅に三百十哩なり
    △神戸上陸
十月三十日 晴、今暁三時半、本船は既に土佐の室戸崎沖を通過し、気笛を鳴らして陸上の灯台に信号をなし、本船通過の趣を神戸に電報せしむ
午前七時既に紀伊・阿波間の内海に進めは山水の景色実に明媚にして
 - 第25巻 p.391 -ページ画像 
白帆点々宛然一幅の絵図の如く、加之天気清朗、気候爽涼にして、恰も故国の風色特に盛装を凝して吾人の帰朝を迎ふるが如し、午前十時三十分紀淡海峡を通過し、午後一時愈々神戸港外和田岬に着して規定の検疫を受く、此時特に東京より先生歓迎の為め来着せられたる令嗣篤二君を始め、神戸・大坂・京都等に於る先生と親交ある諸氏数百名数艘の小蒸汽に搭して本船迄出迎はれ、軈て撿疫を終るや皆本船に乗移り先生及令夫人以下一行を歓迎せらる、互に無事を祝し、共に面に怡懌の情を溢らす、午後二時港内に入り、小蒸汽船にて上陸、直ちに諏訪山西常盤に休憩し、其間歓迎の諸氏に応接し、且つ先生には暫時神戸商業会議所の主催に係る歓迎会に臨まれたる後、西川嬢(神戸に居住のため)を除くの外、一行悉く午後六時発急行列車にて帰京の途に着く、見送の諸氏三ノ宮停車場に充てり、斯くて大坂・京都・名古屋・岐阜等の停車場に孰れも其地知人数百名の送迎を受く
    △東京帰着
十月三十一日 曇、昨夜に引続き静岡・国府津の各駅よりは、態々東京より出迎の為め来着せられたる令息武之助・正雄二君、其他数十名の諸氏と同乗し、平沼停車場に到り一行中の市原氏下車す、斯くて午前十時四十八分無事新橋に到着す、停車場に出迎はれたる朝野の紳士千を以て算すべく、先生は一々此等諸氏に挨拶をなし、馬車を駆りて兜町の事務邸に立寄り、少憩且つ来訪諸氏に接したる上、午後二時飛鳥山の自邸に入られたり
去五月十五日発程以来玆に五ケ月半、此間先生始め一行恙なく世界の周遊を終り、玆に漫遊紀行の筆を擱するに至りたるは、余も亦甚だ光栄とする所なり(完)


欧米紀行 大田彪次郎編 第三九二―四二六頁 明治三六年六月刊(DK250012k-0003)
第25巻 p.391-401 ページ画像

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竜門雑誌 第一七三号・第三〇―三一頁 明治三五年一〇月 ○青淵先生及同令夫人和歌(DK250012k-0004)
第25巻 p.401-402 ページ画像

竜門雑誌  第一七三号・第三〇―三一頁 明治三五年一〇月
    ○青淵先生及同令夫人和歌
右は欧米漫遊中の青淵先生及同令夫人が折に触れ事に感してよまれたる玉詠にして先頃八十島親徳君より松平隼太郎君に宛てゝ送られたる私信中にありしかば今之に八十島君の詠藻をも添へて本欄に収めたり
○中略
 - 第25巻 p.402 -ページ画像 
    亜米利加丸の中にて            兼子
とつくにをまた見もやらてかへる日の
      故里おもひわたる海はら
いとまなきわかやとゝもになてしこに
      心のこしてわたるとつくに
    佐々木信綱の君より発途の折、友千鳥といふ歌たまはりしを思ひ出てゝ
うなはらの浪路をこへて友千鳥
      なれぬ都へわたりけるかな
    或人より横浜発途の折の名残おしみて歌よみて賜はりけれは、其返しによめる
立ちのほる煙とゝもに行く船も
      浜の港にこゝろのこして
    或人より文の中に外国にて杜鵑をきゝしやと歌よみて賜はりけれは、其返しによめる
月かけはかはらててらす外国へ
      など渡り来ぬ山ほとゝきす
    或夜帰るさに、市原の君月を見て此月も日本をてらす月なれはなにとか申し度く此程より考へ侍へると申されけれは、其馬車の内にてよめる
千里まててらすこよひの月のかけ
      我故里はいかにありなん
開け行く国の月蔭いかならん
      我故里をてらしてもかな
    渋沢元治子の電気学研究の為め伯林にのこりけれは歌よみてよと申されて
とつくにへのこりてまなひ光をは
      てらして君のはや帰りませ
    梅浦の君、一行に分れて露西亜へ旅立たるゝ折、歌よみてよと申されけれは
故里を諸共出てし我友を
      残して帰り物思ふかな
言葉にもつきぬ都を残りなく
      めくりてかへる君をまちける
    西川愛喜子嬢家路にかへるたひに向ひ、歌よみてよと申されけれは
たらちねは月日かそへて待ちぬらん
      あきのもみちの色そへにけり
    故里の旅路にむかひしうれしさによめる
もみち葉のそめし都へもろともに
      とつ国あとにかへる故里
○下略


竜門雑誌 第一七四号・第五八―六〇頁 明治三五年一一月 ○青淵先生令夫人の和歌(DK250012k-0005)
第25巻 p.402-404 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第五八―六〇頁 明治三五年一一月
 - 第25巻 p.403 -ページ画像 
  ○青淵先生令夫人の和歌
○上略
    ○巴里なる「ボア・デ・ブロン」公園の滝を観て
表よりまわる裏見のたきまより
      「ボァデブロン」にさす夕日かけ
    ○同公園の池の畔にて
ブロンギの池水わたる小舟かな
      茂れるボア(森)に夕月のかけ
    ○せの君の巴里懐旧をおもひて
すきしとし巴里に住みてうきことの
      ありしむかしを君はしのはん
    ○仏国より伊太利に赴く途中夜半「アルプス」山麓をすきて
夢ならて峻しくすくる鉄路の
      アルプス山の夜半の月かけ
    ○徳川従一位の君公爵を授けられたまひしよし承りて
久しくも見へぬ雲井の月の影
      はれてさやかににほひけるかな
治まりし国の礎いまこゝに
      君の功の見ゆるけふかな
    ○伊太利より埃及に渡る海上にて、くもりなき夕日の入を見て
浪の上にありしと見ゆる夕日影
      希臘の山のにほふ海原
    ○仏国より伊太利へ入るとき手荷物国境の税関に滞りて、出帆の砌に間に合わぬことゝなりてけれは
いまさらにのこせし品をいつまても
      事足りぬまゝ日々におもひて
    ○ボルトサイドの港にて神奈川丸に乗組みけれは
数えける月日も過きて埃及の
      みなとをあとに向ふ故さと
    ○運河を過きて蘇士の港に出てけれは
しつかにもカナルを過きて向ふ山
      蘇士のみなと浪間へたてゝ
○中略
    ○コロンボの港に夜つきぬれは
朧夜の月にも見ゆるコロンボの
      みなとに照らす数の電灯
○中略
    ○コロンボにて仏教の寺院に詣てゝ
後の世も尊くつとふ名ところの
      その源も末となるかな
    ○馬来なる新嘉坡に上陸して
 - 第25巻 p.404 -ページ画像 
永き日をわたりてこゝにまれいなる
      しける青葉のそのを見るかな
    ○夜九時香港へ入港して
香港のみなとに向ひ山かけに
      いかりおろしてひと夜あかしぬ
    ○翌日香港へ上陸して
数多く入るや出船のにきわしく
      なをひらけなむ栄ふ港の
○中略
    ○神戸の港に着して端艇の中にて
けふわたる向ふみなとにおのつから
      心もともに浮く舟のうち
○中略
    ○家路に向ふ汽車の中にて
海原をすぎてうれしきまかね路に
      はやくもけふは帰る家つと
    ○同
かへる日の家路をかそへ待ちぬらん
      揃ひし笑顔けふは見るかな


竜門雑誌 第一七五号・第三八頁 明治三五年一一月 ○欧米漫遊中雑詠(八十島親徳)(DK250012k-0006)
第25巻 p.404 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第三八頁 明治三五年一一月
    ○欧米漫遊中雑詠 (八十島親徳)
○上略
    ○台湾海峡にて我青淵先生の作らせ給ひし漢詩の心を
日は浪にしつみて海の色くらく
      厦門のおきに見ゆるいさり火
うみはてゝかへるをいそく友千鳥
      みるもうれしき高さこのしま
○下略
   ○「欧米紀行」及ビ「竜門雑誌」所載青淵先生漫遊紀行(八十島親徳)中ニアルモノハ略セリ。


竜門雑誌 第一七四号・第六五―六六頁 明治三五年一一月 ○青淵先生同令夫人其他一行諸氏帰朝(DK250012k-0007)
第25巻 p.404-405 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第六五―六六頁 明治三五年一一月
    ○青淵先生同令夫人其他一行諸氏帰朝
本誌前号に報じたるが如く、去る五月以来欧米各国を漫遊せられつゝありし青淵先生・同令夫人を始め随行者中先生一行を離れて露国に遊ばれたる梅浦精一氏、英国に留まられたる清水泰吉氏、独逸に留学せられたる渋沢元治氏を除き、其他の人々即ち市原盛宏・萩原源太郎・八十島親徳三氏及西川令嬢には、去月三十日午后二時無事神戸港に上陸せられたり、既に二十九日若くは三十日を以て先生一行着神の予定なりければ、本社々長渋沢篤二君は十月二十八日一番列車にて神戸迄出迎の為め赴かれたるが、其他大阪及京都地方より先生出迎の為め赴かれたる人々も亦尠なからず、其重なるは第一銀行京都支店長長谷川
 - 第25巻 p.405 -ページ画像 
一彦氏其他同行大阪支店員を始め、大阪の浜田健次郎・法橋善作、京都の岩村茂・西村治兵衛、神戸の坪野市長・岸本・杉山商業会議所正副会頭、其他各会社銀行の重役支店長及仙石貢・南清等諸氏にして、此等の人々は十月三十日午前十一時、二隻の小蒸汽船に搭じ、和田岬に於て待つこと二時間余にして、先生一行の乗船神奈川丸は来つて岬頭に投錨せり、軈て検疫官の検疫終るを待ち、数十名の出迎人は我先にと神奈川丸の梯を攀登りければ、先生は入口に立ち一同に向て丁寧に挨拶せられ、迎へらるゝ人も迎ふるものも互に無事の帰朝を祝し、歓声湧くが如く、漸くにして船は米利堅波止場の沖合に至りて停泊し出迎の小蒸汽数隻に分乗して上陸せしかは、先生には県庁差廻の馬車にて諏訪山西常磐に向はれたり、夫れより先生及ひ萩原氏には、同日午后四時同地商業会議所有志者の催に係る諏訪山中常磐の歓迎会に向はれたり、又た先生が神戸港に上陸するや否や、内外朝野の貴紳の来訪するもの織るが如く、非常の多忙を極められたるにも拘はらず、各地の新聞記者に向ても欧米視察の談話を為さるゝ等殆んど寸暇なかりき、而して愈々帰京予定の時刻、即ち同日午后六時となりたれば、先生には東京より出迎の為め赴かれたる本社々長を始め、家族の人々及び一行の市原盛宏・八十島親徳・萩原源太郎諸氏と共に神戸三宮停車場より乗車し帰京の途に着かれ、神戸の紳士紳商、見送るもの二百余名なりしが、大阪・京都・岐阜・名古屋・静岡等の各停車場に於ても何れも盛なる送迎を受け、東京より特に出迎のため静岡若くは国府津に赴き同車したる人々も少からざりし、一行中市原盛宏氏は平沼停車場にて下車し、同地に於ても盛なる送迎を受け、三十一日午前十時四十八分無事新橋停車場に帰着せられたり、之より先き同停車場には先生の近親方を始め、井上伯・岩崎男・三井八郎次郎・山本・高橋日本銀行正副総裁・益田孝・早川千吉郎・大倉喜八郎・朝吹英二・波多野承五郎・園田孝吉・荘田平五郎・浅野総一郎・豊川良平・近藤廉平・加藤正義・木村清四郎・阪谷芳郎・穂積両博士・添田寿一・木内重四郎・加藤高明・中野武営・曾我子・川田男・末延道成・池田謙三・奥田義人・森村市左衛門・雨宮敬二郎・松方巌等諸氏を始め数名の外国人、第一銀行の佐々木勇之助氏外重立たる同行員、各銀行会社の重立ちたる人々無慮一千余名着車を待受け、プラツトホームは殆ど人を以て塡めらるゝ有様なりしが、軈て着車するや先生は令夫人と共に下車し、温顔に笑を堪へて一々来迎者に挨拶し、待合所に少憩の上馬車にて兜町の別邸に入り、休憩の後王子の本邸に帰着せられたり


竜門雑誌 第一七四号・第六一頁 明治三五年一一月 ○穂積令夫人の和歌(DK250012k-0008)
第25巻 p.405-406 ページ画像

竜門雑誌  第一七四号・第六一頁 明治三五年一一月
  ○穂積令夫人の和歌
    ○家尊大人御一行御帰朝の途十月始つかた新嘉坡へつかせたまふへきによりかしこへ送り奉りけるふみのうちに
故郷はさひしき秋の風たちて
      君まつ虫そ月になくなる
    ○十月末つかたには神戸へかへりつかせたまふへきよし
 - 第25巻 p.406 -ページ画像 
うけたまはりて
契りおきし秋をたかへすかへるての
      紅葉のにしきあすそ見るへき


竜門雑誌 第一七五号・第三四―三五頁 明治三五年一二月 ○青淵先生の帰朝を迎へて(DK250012k-0009)
第25巻 p.406-407 ページ画像

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竜門雑誌 第一七五号・第五四頁 明治三五年一二月 ○梅浦精一氏帰朝(DK250012k-0010)
第25巻 p.407 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第五四頁 明治三五年一二月
○梅浦精一氏帰朝 曩に本年五月、青淵先生一行に加はり欧米漫遊中の梅浦精一氏には、九月十八日を以て一行と離れ単身露国漫遊の途に上られたる由は、既に前々号に記載せしが、東欧諸洲の漫遊を終りて去十一月廿七日(夜十時半新橋着)無事帰朝せられたり


中外商業新報 第六二三五号 明治三五年一〇月三一日 神戸電話 十月三十日(DK250012k-0011)
第25巻 p.407 ページ画像

中外商業新報  第六二三五号 明治三五年一〇月三一日
  神戸電話 十月三十日
    ○渋沢男爵の安着
渋沢男爵・同夫人以下一行の乗船神奈川丸は、予報の如く本日午後零時二十分和田岬に到着し、規定の検疫を受け午後二時を以て上陸せられたるが、之より先き出迎として令息篤二氏は長谷川一彦氏と共に昨夜より神戸に待受け居り、本日は早朝より京都・大坂に於ける第一銀行支店役員、男爵関係会社の役員、商業会議所役員会員其他紳士紳商続々神戸に詰め掛け、正午頃よりは神戸市長・商業会議所役員会員・銀行会社員等前後して波止場に蝟集し、郵船会社よりは特に小蒸汽船三艘を仕立てゝ出迎人一統無慮二百余名を本船迄案内せり、男爵及令夫人以下格別長途の疲労も見えず、出迎人に会釈して迎への小蒸汽に乗り移り、上陸するや直に出迎人に擁せられて西常盤に入り暫時休憩したり、因に記す、神奈川丸の予定より延着せしは、貨物の非常に多くして寄港毎に積卸しに間を費す所多かりしに由る者にして、航海は至て平穏なりしと云ふ


中外商業新報 第六二三五号 明治三五年一〇月三一日 渋沢男爵一行の帰京(DK250012k-0012)
第25巻 p.407 ページ画像

中外商業新報  第六二三五号 明治三五年一〇月三一日
    ○渋沢男爵一行の帰京
渋沢男爵及同夫人の一行は、午後六時神戸発直行列車にて帰京の途に上りたるが、別項にも記せる如く大阪・京都・名古屋等の歓迎会も今回は一切辞退して途中孰れにも下車せず、明日午前着京の筈なりと云ふ、一行中西川嬢は当地にて男爵夫人と袂を分ち、直に自宅に帰ることゝなりたり


中外商業新報 第六二三五号 明治三五年一〇月三一日 渋沢男の視察談(DK250012k-0013)
第25巻 p.407-408 ページ画像

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時事新報 第六八一七号 明治三五年一一月一日 ○渋沢男爵の帰朝(附其談話)(DK250012k-0014)
第25巻 p.408-409 ページ画像

時事新報  第六八一七号 明治三五年一一月一日
    ○渋沢男爵の帰朝
         (附其談話)
○上略 軈て船の港 ○神戸港内に投錨するや、市長其他十数名の出迎者あり、男は一行と共に郵船会社の小蒸汽にて米利堅波止場に上陸し、県庁より差し廻はされたる馬車に乗じて西常盤に入り、同所に於て京都・大阪及び神戸三商業会議所の祝盃を請け、同六時発列車にて直行帰京の
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途に就けり、男より聞き得たる談話左の如し
 ○中略 尚ほ予は外資輸入には何等の依頼を受けたるものに非ざれども其国の商人にして面会したるものゝ中には、我国情を説明し、其放資を勧誘したるもの尠なからず、公債売却に就ては予は巡遊中其得策なるを思ひ、帰朝早々大に説く処あらんとしたるも、既に其事あるを見たるは頗る賛成の至りなり


中外商業新報 第六二三六号 明治三五年一一月一日 渋沢男爵の帰朝(DK250012k-0015)
第25巻 p.409-410 ページ画像

中外商業新報  第六二三六号 明治三五年一一月一日
    渋沢男爵の帰朝
我経済社会の事情に精通せる大家にして、曩に欧米諸国漫遊の途に上れる者は、近頃続々として帰朝せり、松方伯の如き、渡辺子の如き、将又岩崎男の如き皆然らさるはなく、而して今や渋沢男亦新に帰朝せり、曩の帰朝者は孰も豊富の経験と高遠の才識とを以て、観察し来れる有益の材料を我経済社会に紹介し、若くは将に紹介せんとする者あり、恐く後の帰朝者は更に有益の実見談を試らるべし、明治初年以来我経済社会の中枢に在て、終始之か提撕誘掖に尽瘁せる渋沢男の地位経歴は、爾かく余輩をして想像せしむる所あるを感ずればなり、且又新帰朝者は、啻に欧米諸国に於る経済及び財政の情況を邦人に紹介するの便宜を有する耳ならす、我経済及財政の事情に就ても亦欧米人の疑惑を解く者甚尠らさるを得たるなるべし、彼我の間隔は天涯万里の思あり、縦令交通日に益々頻繁を加ふるの状ありと雖も、錯雑せる経済・財政の真相は、適当なる紹介者を俟たすむは決して了解せらるべき者に非ず、特に我国は戦争以来大に其地位を上進したるの姿ありと称せらるゝに拘らず、実際欧米諸国に比較せば実力の懸隔、霄壌も啻ならさるの感あり、従て邦人の欧米事情に注目する所比較的切実なる割合に、欧米人の本邦事情に注目する所甚冷淡なるを免れず、是に於てか我財政は測らさるの点に於て不鞏固と嘲られ、我商工業者は測らさるの点に於て不信用と譏らるるの奇禍を買ふこと、往々にして避け難き所なりとす、事情既に然るか故に、欧米人の畏怖して我国に投資せんと欲せざるは勿論なるのみならす、貿易上の取引に於ても亦我損失となること甚尠しとなさず、巨額の資本を擁して有利の運転をなすの途に苦む所の欧米人に於ても、亦我国に於て確実有益の事業多々なるを知らざるは頗る不幸なりと称せさるを得す、読者は余輩の連掲せる渋沢男漫遊紀行を読み、如何に男爵か諸国の名家に面接し、又其開催せる公会に臨席して、我経済・財政の実況を説明する所ありしかを知悉したるなるべし、我国に対する外人の疑念が、渋沢男の紹介に依り能く氷解せらるゝを得は、彼我の至幸素より多弁を要せさる所ならずや
渋沢男爵の帰着は、更に欧米の事情を我国に紹介するの場合とならしめたり、其帰来に鶴首せし商工業者は、是より如何に迎宴を開て其意見を聴取するに努めむとすべきか、現に男爵の神戸に上陸したるに際し、坂神実業家の熱心なる歓迎ありしを看ても知らるべし、米国に於ける企業心の隆盛、英仏に於ける資本の作用、将又独逸に於ける実業教育発達の効果等は、孰も世の耳目を聳動するものあり、而して海外
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に於ける此等の実状は、漏なく新帰朝者の口に依て紹介せらるゝことを得るのみならず、是より如何に本邦経済社会の方針を改善すべきやの意見も、亦併せて之を聞くことを得べし、且今や帝国議会の開期漸にして切迫し、地租継続・海軍拡張等の大問題を始とし、工場法案・製鉄会社設立法案等、経済・財政に関係を有するものにして、未た世人の疑惑を解くこと能はざるの問題は、殆ど累々として山をなすの姿あり、此等は孰も経験ある卓見家の意向如何に依て解決せらるゝ所なかる可らず、而して此際渋沢男の帰朝あるは、特に世の歓迎する所たらざるを得ざるなり、男爵が始めて横浜を発程したるは去五月中旬の頃なりき、爾来玆に六閲月、其間微恙だも之あらずして帰着せらるゝを得たるは、我経済社会の為め余輩の大に慶賀する所なりとす


竜門雑誌 第一七五号・第七―八頁 明治三五年一二月 ○青淵先生の欧米視察談(其二)(DK250012k-0016)
第25巻 p.410-411 ページ画像

竜門雑誌  第一七五号・第七―八頁 明治三五年一二月
  ○青淵先生の欧米視察談(其二)
    △中外商業新報所載視察談
     (十一月一日・二日・三日・五日の中外商業新報連載)
自分は三十五年前欧羅巴に渡航し聊か見聞したことがあつたが、その結果は殆ど何等の得る所もなかつた、所で今度三十五年ブリで欧米を漫遊し、以前に比すれば幾分か見聞するに付ての便宜を有する地位になり、自分もその時から大分歳を取つたと云ふにも拘らず、矢張何等の得る所なく帰つて来たと云ふ訳です、尤もその筈で僅の日に長い途を旅行し、諸所方々を少しも休みなしに歩いたのであるから、迚も緩緩と観察の出来る筈はなく、十分な利益のないと云ふは寧ろ当然であらう、所で従来欧米を見聞して帰朝した人の内には、何か非常に得る所あるかの如く云ふて、早い話しが斯ふ云ふ大きな建物を見た、斯ふ云ふ広い道路を歩いた、斯ふ云ふ立派な鉄道に乗つた、斯ふ云ふ大きな船に乗つた、斯ふ云ふ奇麗な着物を見た、そうしてそこに住んで居る人間は斯様な大いなる仕事をして居る、是非日本も此真似をして鉄道も立派にしなければならぬ、家屋も建築を欧米風にしなければならぬ、船も大きなものを造らなければならぬ、其他衣食のことに至る迄彼れに劣らぬように進めなければならぬと云ふやうなことを、頻りに説くものもある、随分立派な見識のある人が、往々さふ云ふことを云ふて居る、所で斯ふ云ふ説を吐くと、矢張自然と一般に之が感化を受けて成程そうである、そうしなければならぬと云ふことになつて、其結果はどうかと云へば結局奢侈と云ふことになり、凡てを欧米風にし外国品を用ひる所から、輸入を多くならしめ、其結果経済界に恐るべき不利益を与へると云ふことになる、所が又一方には、さふ云ふ壮観的に吹飛す流義とは全く反対に、至つて悲観的の観察をして、いやどうも迚も日本抔の企て及ぶ所でない、日本抔か何をしやうとしても到底彼に及ぶものではないと云つて、唯我の力の及ばざることを歎じて凡て失望して仕舞ふものもある、所が之が又どふ云ふ結果を与へるかと云ふに、決して宜い結果を与へない、斯様に宜過ぎて困るのと、悪る過ぎて困るとの両方ある、そこで自分も今度見聞したことに付て、世間の人に向つてどう云ふ風に話をしたら宜いか、いろいろ尋ねられ
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たら何んと答へたら宜いか考へものです
○下略


竜門雑誌 第五三〇号・第七一―七六頁 昭和七年一一月 郷土を愛する青淵先生(渋沢元治)(DK250012k-0017)
第25巻 p.411-414 ページ画像

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