デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

2部 社会公共事業

3章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 竜門社
■綱文

第26巻 p.282-287(DK260054k) ページ画像

明治34年10月27日(1901年)


 - 第26巻 p.283 -ページ画像 

是日栄一、当社第二十七回秋季総集会ニ出席シ、「保護貿易主義ノ必要ヲ論ズ」ト題スル演説ヲナス。次イデ十一月ノ月次会ニ出席ス。


■資料

竜門雑誌 第一六二号・第三二―三三頁 明治三四年一一月 ○本社第廿七回総集会記事(DK260054k-0001)
第26巻 p.283-284 ページ画像

竜門雑誌  第一六二号・第三二―三三頁 明治三四年一一月
    ○本社第廿七回総集会記事
本社第廿七回総集会は去十月廿七日午前九時より向島花月花壇に於て開会されたるが、当日は陰鬱なる秋雲の陽光を掩ふありて稍や冷気を催ふすありしと雖、社員の東西より来り会するもの三百五十名に上りたるが、其重なる人々を示さは青淵先生・社長・穂積・阪谷両博士・松波仁一郎・佐々木慎思郎・同勇之助・木村清四郎等の諸氏にして、先づ社長渋沢篤二君の開会の辞あり、亜て角田竹冷宗匠の俳諧談あり之に続て松波博士の商法と実業との関係に就て一場の演説あり、最后に青淵先生は、今日の経済上に於て二ケの大なる疑問ありとの冒頭を置きて、左の意味の演説を為されたり
 我国には維新以来アダム・スミス派の自由主義、経済界を支配し来りたるも、近時列国の経済的競争の趨勢より観察し、我国現時の状態より考ふるときは、今後の経済政策は内国生産品の輸出奨励上、若くは外国品の輸入に対する内国品の発達上、国家が保護的方針を採るの要あることを認めざるを得ずして、自分も従来は自由主義を崇尊したる一人なりしも、近来稍々此主義の適当せざるを疑ふに至りたるを述べ、又兎角我国の気風として近きを捨て遠きに走るの弊あるを論し、即ち隣国の朝鮮・支那等に対する利益を軽視し、偏に欧米に於ける事業を重視するは不得策なり、云々
右先生の演説及角田・松波両氏の演説筆記全文は、本号より順次掲載せん
右先生の演説終ると共に社長の挨拶あり、之より予て用意しありし露店に於て、日本酒又は麦酒を呑むあり、天麩羅・寿司・団子其他の飲食物を味ふあり、又は折詰を開て昼食を喫するありて玆に午餐を終り余興として円遊の落語あり、自転車の競争あり、陸軍音楽隊の奏楽等ありて各員十二分の歓を尽し、黄昏に及んで退散せり、当日自転車の競争は数回ありしが、最初の小供競争には小寺某第一着の優勝を占め大人提灯レースに於ては第一回の先着松平隼太郎君・第二回の先着草野茂君にして、四人一組の普通レースに於ては、第一回の先着井川要君・二着野本金弥君、第二回の先着高橋俊太郎君・二着金子四郎君、第三回の先着は野口半之助君・二着は横田平七君にして、第一着者のチヤンピオンに於ては、先着井川要君・二着野口半之助君・三着高橋俊太郎君・第二着者のチヤンピオンに於ては先着野本金弥君・二着金子四郎君・三着横田平七君なりしと云ふ、当日来会せられたる社員諸氏の芳名を収録すれば左の如し
 名誉社員     青淵先生  渋沢社長
  社長令夫人   同令息   穂積陳重君
  阪谷芳郎君
 来賓  松波仁一郎君
 - 第26巻 p.284 -ページ画像 
 社員(出席順) ○下略


竜門雑誌 第一六四号・第三―八頁 明治三五年一月 ○本社第廿七回総集会に於ける青淵先生の演説(DK260054k-0002)
第26巻 p.284-287 ページ画像

竜門雑誌  第一六四号・第三―八頁 明治三五年一月
    ○本社第廿七回総集会に於ける青淵先生の演説
好天気と申すではございませぬけれども、幸に降りも致しませぬで、此秋季の竜門社総会に諸君大分お集りも多く、相変らず繁昌で誠におめでたく存じます、前席に角田君・松波君から種々面白い御演説がございました、末段にお耳汚しに私が此席でお話をするのは随分困却であります、私の玆に申し述べよふとするのは、演説といふよりは諸君の前で質義ともいふやうな疑の点を、御相談して見たいと思ふ事柄でございます、角田君の俳諧のお話は、昔しからの歴史を叮寧にお調になつて、且つ芭蕉翁の俳諧を極く文学的に御研究になつて、其御考を定めたといふ点抔に就ては、頗る面白い御批評・御判断もあつて一に感服致しまする、又松波君が法律に就て欧羅巴大陸若くは英吉利の適例を細かにお引証になつて、日本の今日のに比較してのお話は、実に有益な御演説で拝聴致して喜ばしいことに思ひます、或は文学とも申すべき春の花でも咲きさうなお話やら、又秋霜粛殺として人の筋骨に砭するといふ松波君のお話、それそれ趣を変へて我々を利益することは、殆と一であらうと思ひます、其後で私がモシ少し花も実もあるといふやうなお話が出来ると大層都合が宜いけれども、今申す通りよい思案がなくて、玆に唯た質義的のお話をしよふと思ふのですから、折角のよいお耳に所謂お口直しでなく、お耳汚しといふことになるのは諸君に対しても御気の毒に思ひます
私が此席でお話をしたいと思ふことは、経済社会に於て日本の今日に二つの少し疑を有つて居る点があるのです、或は我も人も此誤謬の中に居りはせぬかと思ふ、其一つは先つ学説でいつたならば今角田君が経済学でミルとかアダムスミスとかいふ人を指して言はれたが、日本の開国から引続いて経済に対しての学説といふものは、他の国々の人の説も這入らぬではないけれども、英吉利の学説が一番先によく日本の人の耳に這つたといふことは事実である、而して今のミルといふ人の説が初めて日本の経済を談する人の耳に入つた、殆と経済社会を聳動させたといふ位であらうと思ふ、而して英吉利の国がドウいふ有様であつたかといふと、彼の国は資本に富み工芸に巧なりといふからして、総て其の国の情態が自由貿易といふ主義を以て自国の富を増すに甚だ便益であつた、故に維新早々の際英国より日本に伝つた所は、総て貿易に就ては成るへく丈け自由に、成るべく均一といふ主義であつた、是は其頃の学説からも事実からも唱へ来られたと思ふのであります、況や此海外貿易に就きましては、独り左様な論理以外に当時条約を結んだ日本人に国の経済の考とてはなくして、右を顧み左を恐れ、種々なる心配から強迫的に条約を取結ばれてあるからして、第一に此条約といふ者も甚た自国に不利でございますが、独り不利な条約であるのみならず、一体の学説から自由貿易といふものが主となつて居るといふことは、今日争はれぬ事実であらうと思ふです、而して日本の今日はそれで適当であるか、不利益てはないかといふことを、よく考
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へて見ねばならぬと思ふのでございます、蓋し一国が其富を増して行くといふに就ては、或場合には制度又は種々なる手段を以て、自国の物産をして他に向つて進め得るやうに為し、又他の製造品をして自国に這入り難いやうにするといふことは、其国の工芸を進め技術を盛んならしむるに於て必要であるといふことは争ふべからざる事実で、現に亜米利加の如き農も富み工も進む国に於ても、尚ほ左様に力を尽して居る、今日の日本が一体の制度上貿易に就て力を尽さぬとか、自国の品物を粗末にするといふ趣意ではありませぬが、今申上ける如くに所謂先入主となつて自由又は均一主義の為に、或は自国の品物を大切にするといふ手段に於ては、至れり尽せりと言ひかたき処ありと私は憂ふのであります、要するに是から先きの日本にして実業の発達を図らうといふには、ドウしても工芸を進めて行かなければならぬといふは、多言を須たずして明かである、此工業の進歩に就ては、唯た単純に事業其物のみで充分に発達して行くといふことは期し難いと思ふ、殊に今日の如き亜米利加抔が強大の力を以てズンズン進んで来る場合からしては、実に競争し難いと思ふのでございます、故に是等に就ては将来ドウしても国家の力を以て、工業に充分なる奨励若くは保護を与へるといふ必要が、大にありはせぬかと思ふ、近い一例を申すと紡績事業であります、此紡績事業の今日の有様は此儘で経過して行つたならば、終に亜米利加に圧倒されて、折角百三十万も出来た錘数が追追衰頽して来はせぬかとまで思はれる、若しも左様に衰へた暁はドウであるか、結局日本の工業といふものは唯た衰微するばかり、他の事業とても之に代つて自然の働きを以て進んて行くことは、私は出来まいかと思ふ、故に私の希望する所は、向後日本の重なる事業には国家の力を以て之を保護し、例へば紡績糸や織布が海外に輸出するものとするならば相当な方法を以て其輸出を助けてやる、又或は日本に這入つて後に工芸を加へられる、例へば赤砂糖などの原料品には之に対して便益を与へるといふ如く、総て此工業上に於て内に入るもの外に出るものに対して、此国の力を以て相当の助けを与へるといふ方針を以て自国の工業を進めて行きませなんだならば、遂には日本は瑞穂国といつて農業が盛んであるから、夫で満足であるといつた其昔しに返つて、総ての工業は次第に衰微して行きはせぬかと虞れるのでございます、但し斯く申せばとて、突然一足飛に亜米利加の如くに其輸入品に課税して、絶対的に保護主義を盛んに致したいといふのではございませぬけれども、詰り此工業を盛んにせしむるといふには、唯た其自身の働きのみを以て之を発達させるといふことは、他国の強盛なる競争に対して打勝つことが出来ずして、自国の事業は段々衰微して来るといふことは免れぬと私は思ふ、私は元来国家から或る事物を保護して行くといふことは、甚た面白からぬことである、成るべく好まぬことであるといふ論者であるが、併し一国の富を進めて行くといふ側から考へるといふと、或る重要なる事物に就ては余程其点に注意して、助くべきものは助け、進むへきものは進めるといふことは、甚た必要であると思ふ、然るに此点に就ては、前に申すやふなる学説、又は先入の誤謬が、今日も尚大に世の中を妨害することがありはせぬかと考へ
 - 第26巻 p.286 -ページ画像 
ます
今一つは総て自国の富を進めて行くには、其国の品物のみで満足するものではない、他国と相交通してさうして有無を通し即ち利益を進めて来るといふことになるが、其事柄が兎角に近きに疎くして、遠きに密になつて居るといふ弊害がある、極く手短かに申せば現に隣りに支那・朝鮮といふ国があつて、日本は是等に対して力を尽せば尽す程、自国の利益になる事が大なるにも拘はらず、其方は野蛮な国だ、彼国と往来しても世間に幅が利かない抔といふて、詰まる所左まで利益にならない、英吉利へ旅行して、英吉利の風俗を知るを誇り、甚しきは香水・石鹸・手巾の流行を伝へて、それを自慢するといふまでに行趨る、成程学ぶといふ観念から、其昔し吉備大臣其他の遣唐使が支那へ行つたといふ如く、其方に行趨るといふことは止むを得ぬ事実でありませうけれども、国家として其生産を発達し、利益を謀るといふ観念と、学問をするといふことは、成るべく差別するやうにしたいです、悪くすると今申す通り唯た其流行を学んでさうして真理は一向に顧みぬといふやうな有様になつて、遂には支那に対し、朝鮮に対しては、総て忘却抛棄するといふ有様になる、現に此両国に対して経営して居る商業家は、殆と指を折て算へらるゝ丈である、欧羅巴に対しても日本の実業は左まで発達して居らぬ、何ぞ独り支那・朝鮮のみを咎めるかといふかも知れませぬが、併し欧米に対しては輸入事業に就ては相当な店舗もありまして、追々進んで行く様に思はれます、唯悲い哉輸出事業は欧米ともに種々なる方面から経営して居りますが、立派に成立して是ならば未来に盛んになるであらう、又見るべきものに相成つたといふ程には参りませぬです、是に引換へてもしも支那・朝鮮に対して同様に心を用ひたならば、欧羅巴に対するよりは成功も容易で、利益も亦従つて多いであらうと思ふ、独り思ふばかりでない、事実さうなるであらう、併し世間多数の人は、口を開けば朝鮮は汚穢だ、支那は野蛮であるといふやうな有様で、今日其支那問題に就て欧米人が斯くの如く心を用ひ、斯くの如く力を尽すにも注意せす、頃日に至りて各地の商業会議所抔が初て一の議案を提出するといふ位な、甚た迂遠なことである、又此程支那に駐在された公使抔が帰国して、商業家の支那に対する注意が少いといつて頻りに不足を言れたが、抑も亦晩しといふべきことである、蓋し維新以後の一体の風潮が斯る過ちを惹起したものと思はれます、即ち或は形は違ひまするけれども、前に申す一の学説、自由公平といふ所から遂に自国の輸出貿易を保護し、又は工芸に対して輸入を防くといふことを忘れ、彼の善を採り美を学ふといふ観念のみが先きになつて、損益の経営といふことを後にしたと同し誤謬と思はれます
此経済社会も長い間甚た不振で、尚ほ今日も悲境の時代といはねばならない、併し幸に当年は大に輸出に力ある生糸が充分でございます、又商売の景況も極く宜い、而して日本では最も米を大切にしますが、其米作が国を挙けて豊年である、旁々以て一体に先つ小康と申して宜い、幾分か不景気も回復する形である、併し是は所謂小康時代で、いまだ安全なる回復時期とは考へられぬ、況や海外貿易の有様は仮令生
 - 第26巻 p.287 -ページ画像 
糸が盛んなるにも致せ、尚ほ今日は輸出入は負けつつあることは、統計表が明かに示して居る、而して一方には此支那・朝鮮に対して、是非とも日本が中心の貿易位地に立ちたいと思ふ、又立ねばならぬといふ今日の場合であるのに、然るに経済界は斯様に三足行けば二足戻らねばならぬといふ程に諮跙逡巡して居ることは、甚た残念千万に思ひます、若し其根原が前に申述べたる一二の誤謬に関係するものであるならば、此竜門社員は其筋々と種々なる方面に従事して居る人もあるから、政府部内でも民間でも、之を必要と思つたら矯正することに力を尽すことが出来るでありませう、又其当局者に向て斯様な事には是非力を尽して貰ひたいといふ希望を述へることも出来るでありませう何卒諸君と共に此事を研究調査して見たいと思ひます、若し果して左様な誤謬があるとするならば、此をして改善せしむるやうにしたいと考へるのであります、聊か近来の疑点を質す為に、玆に一言を述へて諸君の御参考に供して置きます


(八十島親徳) 日録 明治三四年(DK260054k-0003)
第26巻 p.287 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治三四年   (八十島親義氏所蔵)
十月廿七日 曇 日曜
今日向島花月花壇ニ於テ竜門社秋季総集会ヲ催フスニ付、九時ヨリ同処ニ至ル、来会者四百人、庭園中ニ天幕ヲ以テ会場ヲ設ケ其処ヲ演説場トナス、角田竹冷ノ俳談・松波仁一郎氏ノ法律ニ関スル演説、及青淵先生ノ経済時事所感二題(保護自由、遠キ欧米ヨリ近キ清・韓ニ注目セヨ云々)ノ演説アリテ、来会者ニ洋食弁当ヲ与ヘ、且庭内所々ノ露店ニハ麦酒・煮込・和酒・ダンゴ・すし・甘酒・天ぷら等ヲ設ケ随意飲食ノ後、円遊ノ落話、及素人自転車競争等アリ、四時散会
○下略


竜門雑誌 第一六二号・第三五頁 明治三四年一一月 ○本社月次談話会(DK260054k-0004)
第26巻 p.287 ページ画像

竜門雑誌  第一六二号・第三五頁 明治三四年一一月
    ○本社月次談話会
本社月次談話会は、例の如く去十一月四日午后七時即ち第二土曜日日本橋区兜町なる渋沢家事務所楼上に於て開会せられ、青淵先生及社長を始め社員三十余名出席し、種々なる談話ありて、互に十分なる歓を尽し午后十時散会したるが、今当日出席者の芳名を録せんに左の如し
 長島隆二君   斎藤峰三郎君  西村道彦君
 武沢与四郎君  仲又七郎君   小林武之助君
 柳田国雄君   井田善之助君  渋沢長康君
 石川清君    曾和嘉一郎君  福原虎介君
 山中譲三君   戸田宇八君   徳久武治君
 大塚磐五郎君  木村雄次君   岡本亀太郎君
 若月良三君   北脇友吉君   利倉久吉君
 小林徳太郎君  山本音吉君   浦田治雄君
 原田直之助君  石井録三郎君  長谷川粂蔵君
 木暮祐雄君   萩原久徴君   松平隼太郎君
 上田彦次郎君  橋本明六君   諸井時三郎君