デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

3部 身辺

8章 住宅
■綱文

第29巻 p.618-622(DK290198k) ページ画像

明治34年5月10日(1901年)

是ヨリ先明治十一年、栄一飛鳥山ニ土地ヲ購ヒ、別荘ヲ設ケ、専ラ招宴・接客ニ充テ来リシガ、三十一年五月ニ至リ家屋改築ニ着手、三十三年十二月落成、是日ヲ以テ兜町ヨリ移転ス。以後栄一専ラ当邸ニ起居シ、兜町邸ハ渋沢事務所専用トナス。


■資料

青淵先生六十年史 竜門社編 第二巻・第九四〇頁 明治三三年六月再版刊(DK290198k-0001)
第29巻 p.618 ページ画像

青淵先生六十年史 竜門社編  第二巻・第九四〇頁 明治三三年六月再版刊
 ○第六十章 家庭
    第二節 邸宅
○上略
王子別邸ハ明治十一年八月ヨリ工ヲ起シ、荊棘ヲ開キテ築ク所ナリ、本邸ハ東京府公園ノ一タル飛鳥山ト並ヒ、遠ク筑波山・鴻ノ台ヲ望ミ近クハ一面ノ田野ニシテ村落点在シ、戸田川ノ白帆ハ緑樹ノ間ニ隠見出没、眺望殊ニ佳ナリ。当代ノ碩儒阪谷朗盧名ヲ命シテ曖依村荘ト云フ、実ニ都下名園ノ一ナリ、園内広豁ニシテ樹木鬱叢、泉水アリ、瀑布アリ、諸所ニ亭ヲ設ケ、四時遊覧敢テ優劣ナシト雖モ、春秋二季ノ風色最モ好評アリ、毎年数次先生園遊会ヲ開キ内外名士多ク参集ス、蓋シ本邸ハ大客ヲ招待スルニ最モ適ス、民間紳士ニシテ外来ノ大賓ヲ招キ及ヒ朝野ノ政客学者実業家ヲ集合交際スルノ風ハ先生ノ卒先セル所ニシテ、園遊会其他交際上ノ体裁趣向此ノ村荘ニ濫觴スル所多シ、本邸建物今ヤ狭隘ヲ告ケ、更ニ大ニ改築中ナリ
○下略
   ○右書刊行ハ明治三十三年ナリ、恰モ王子邸改築中ノコトナレバ、記文ハ多ク改築以前ノ模様ヲ伝フルモノノ如シ。


はゝその落葉 穂積歌子著 改訂版・第四〇頁 昭和五年一〇月刊(DK290198k-0002)
第29巻 p.618-619 ページ画像

はゝその落葉 穂積歌子著  改訂版・第四〇頁 昭和五年一〇月刊
○上略
 明治十一年の春頃、飛鳥山の隣地西ケ原に、畑地で眺望のよい土地が有つたのを購うて、別荘を設けられた。建築は清水組で、庭園は佐
 - 第29巻 p.619 -ページ画像 
佐木可村といふ人が設計して作つたのである。一ケ年程かゝつて家も庭も工事を終り、花の朝、月の夕、風情の多い所になつた。私共は此別荘が出来て始めて、常に憧れて居た自然の風物に親しむことが出来たのである。
 然し父上も母上も、此別荘に留つて長閑に日を暮されることは至つて稀れで、常に父上が実業を盛んに為やうとして多くの人と交際されるから、その方面の人達をこゝに迎へて、相談所ともし、又宴会場にも宛て、いよいよ親しみを厚くされ、又は司られる銀行会社等の人々の日頃の労を慰め様とて、折々多数の客を招待して饗応なされる場所に用ひられた。
○下略


渋沢家文書(DK290198k-0003)
第29巻 p.619 ページ画像

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渋沢栄一 日記 明治三四年(DK290198k-0004)
第29巻 p.619 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治三四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十日 曇午後雨
○上略 午後四時王子別荘ニ抵ル、蓋シ同所ノ新築漸ク落成セシヲ以テ、今日ヲ卜シテ移転スルヲ以テナリ。尾高幸五郎・岩永尚作等ト共ニ室内及庭園ヲ巡視ス。雨中ノ新樹最モ佳絶ナリ


曖依村荘図譜 完 清水組編 刊(DK290198k-0005)
第29巻 p.619-622 ページ画像

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渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第四二九―四三〇頁 昭和八年一二月刊(DK290198k-0006)
第29巻 p.622 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著  第四二九―四三〇頁 昭和八年一二月刊
 ○第二篇「春」
    五、家庭
○上略
 子爵が兜町邸に移り住んで後数年にして、第一銀行改築の議が起つた。改築と言うても新築に等しい大工事であつた。其間をつなぐべき仮営業所の必要があり、之に就て銀行の人々が頻りに苦慮したことがあつた。此時子爵は兜町邸を使用せんことを提議し、自身は飛鳥山邸に移り住むべき旨を附言した。之を聞いた佐々木勇之助氏始め、銀行の幹部は大に恐縮し、切に辞退したので、此事は実現するに至らなかつたけれども、後に至つて飛鳥山邸への移転は行はれた。兜町附近が漸次旧来の面目を改め、厳密の意味で左様でないまでも、漸くビズネス・センターらしい趣を呈し、雑閙喧噪を加へたのと、子爵の招宴が次第に頻繁となり、且接客の方法漸く変化し、園遊会の数多くなるに及び飛鳥山邸を使用すること繁く、寧ろ同邸に起臥すること便利なるに至り、遂に飛鳥山邸を住宅にし、兜町邸は事務所にすることになつた。実に明治三十四年であつた。