デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
1節 東京市養育院其他
1款 東京市養育院
■綱文

第30巻 p.193-203(DK300017k) ページ画像

大正10年6月16日(1921年)

是日、千葉県船形町ノ安房分院ニ於テ同院開設十二周年記念会ヲ挙行ス。栄一之ニ出席シテ演説ヲナス。爾後大正十一年・同十二年・昭和二年及ビ同四年ノ同院各開設記念会ニ出席ス。


■資料

東京市養育院月報 第二四四号・第一七―一八頁 大正一〇年六月 ○安房分院開設十二周年記念会(DK300017k-0001)
第30巻 p.193-195 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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東京市養育院月報 第二四五号・第一二頁 大正一〇年七月 ○房州に於ける渋沢院長の晩餐会(DK300017k-0002)
第30巻 p.195 ページ画像

東京市養育院月報  第二四五号・第一二頁 大正一〇年七月
    ○房州に於ける渋沢院長の晩餐会
 本年六月十六日千葉県安房郡船形町なる養育院安房分院に於て同分院開設十二周年記念会を挙行せることは、前号所報の如くなるが、同日渋沢院長は特に同郡館山町海岸ホテルに一泊せられ、同夜六時半より船形町の有志其他附近町村の名誉職等、平素安房分院に対し同情後援を与へらるゝ人々十数名を同ホテルに招待して晩餐会を開き、主客歓を尽して午後九時散会したり。


東京市養育院月報 第二五六号・第二一―二三頁 大正一一年六月 ○安房分院開設記念会(DK300017k-0003)
第30巻 p.195-197 ページ画像

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東京市養育院月報 第二五七号・第一三頁 大正一一年七月 ○房州に於ける渋沢院長の晩餐会(DK300017k-0004)
第30巻 p.197 ページ画像

東京市養育院月報  第二五七号・第一三頁 大正一一年七月
    ○房州に於ける渋沢院長の晩餐会
 去る六月十六日千葉県安房郡船形町なる養育院安房分院に於て、同分院開設記念会を挙行せることは前号所報の如くなるが、当日記念会終了後、渋沢院長には同郡館山町海岸ホテルに一泊せられ、平素安房分院に対し特別の同情後援を寄せらるゝ地方有志を招待して晩餐会を開き主客歓を尽して午後九時散会したり、当夜の出席者氏名左の如し
 船形町長竹山久吉氏・船形町有志山口弥惣吉氏・同平野巳之吉氏・那古町長山口勝太郎氏・館山病院長川名博夫氏・同副院長医学博士穂坂与明氏・印旛郡旭町有志飯田佐治兵衛氏・千葉市総武銀行専務取締役藤井精氏
尚当夜主人側としては渋沢院長の外、田中幹事・宮下安房分院主務・岡本同分院嘱託医出席せり


東京市養育院月報 第二六八号・第二三―二四頁 大正一二年六月 ○安房分院開設記念会(DK300017k-0005)
第30巻 p.197-198 ページ画像

東京市養育院月報  第二六八号・第二三―二四頁 大正一二年六月
○安房分院開設記念会 六月十六日午後二時より、千葉県安房郡船形町なる養育院安房分院に於て、同分院開設第十四周年記念会を挙行せり、当日東京よりは渋沢院長午前九時三十五分両国橋駅発列車にて、
 - 第30巻 p.198 -ページ画像 
田中幹事並に四谷・鮎川両事務員と共に同地に向ひ、午後一時二十二分那古船形駅着の上、定刻より記念会を開きたり、来賓の数約七十名先づ宮下安房分院主務開会を宣し、次で院児及来賓一同の君が代合唱あり、田中幹事の事業報告及び渋沢院長の挨拶あり、之れに対して正木船形町長来賓総代として祝辞を述べられ、之れにて一先づ式を閉ぢ別室に於て来賓一同に茶菓を呈したる後ち記念撮影を行ひ、斯くて散会したるは午後四時に垂んとする頃なりき、尚ほ院長は同夜館山町海岸ホテルに一泊せられ、翌十七日午後零時十六分両国橋駅着にて帰京せられたり(田中幹事の事業報告、渋沢院長の挨拶、正木船形町長の祝辞は何れも別項説苑欄に掲載せり)
 因に当日の記念会に参会せられたる主なる来賓の氏名は左の如し
     (順序不同)
船形町長   正木清一郎氏  同          藤田亀蔵氏
同町助役   小沢栄三郎氏  同          岩崎万作氏
同町会議員  和泉直次郎氏  同町第一駐在所    鵜飼信一氏
同      中村亀七氏   同第二駐在所     愛敬一三氏
同      堀口大八氏   船形小学校長     忍足清氏
同      鈴木琴治氏   那古船形郵便局長   正木一作氏
同      橋上清吉氏   船形町在郷軍人分会長 生稲近太郎氏
船形町区長  吉田子之吉氏  那古町長       山口勝太郎氏
同      松井啓次郎氏  八束村長       小滝孫次郎氏
同町学務委員 鈴木隆氏    船形町有志      藤田房次郎氏
同      辻八十吉氏   同          藤田磯右衛門氏
同      岡本貢氏    同          正木喬氏
同      高尾米吉氏   古河銀行船形支店長  石井逸氏
同      鬼沢孫四郎氏
○房州に於ける渋沢院長の晩餐会 六月十六日養育院安房分院開設記念会を挙行せることは別項所報の如くなるが、当日記念会終了後、渋沢院長には同郡館山町海岸ホテルに一泊せられたるを機とし、平素安房分院に対し特別の同情、後援を寄せらるゝ地方有志を招待して晩餐会を開き、主客歓談の後、午後七時半散会したり、当夜の出席者氏名左の如し
千葉県会議員  辰野安五郎氏  船形町長     正木清一郎氏
館山病院長   川名博夫氏   同副院長医学博士 穂坂与明氏
安房分院嘱託医 岡本哲郎氏
尚ほ当夜主人側としては渋沢院長の外、田中幹事・宮下安房分院主務出席せり


東京市養育院月報 第二六八号・第七頁 大正一二年六月 ○安房分院開設第十四周年記念会に於ける挨拶(養育院長渋沢栄一)(DK300017k-0006)
第30巻 p.198-199 ページ画像

東京市養育院月報  第二六八号・第七頁 大正一二年六月
    ○安房分院開設第十四周年記念会に於ける挨拶
                 (養育院長 渋沢栄一)
 来賓諸君、本年も当院開設記念会席上に於て、親しく諸君に御礼申上げ得ることを満足に存じます
 養育院の沿革に就きましては、只今田中幹事より詳細御報告申上げ
 - 第30巻 p.199 -ページ画像 
ました通り、明治五年十月の設立にかゝり、本年を以て既に五十二年の歳月を閲し、其間時勢の変遷に伴なひ、本院事業も亦た最初は単に窮民即ち貧民の救助のみに止まつて居りましたが、其後或は行旅病人の救療、又たは棄児・遺児・迷児等の救養、感化生の教化等漸次拡張いたしまして、目下日本に於ける代表的救済機関として、日々二千名を下らざる多数収容者を救護して居る次第でございます、又た当分院設立の動機は病弱児童の転地療養を主眼とし、其創設に就きましては養育院後援団体たる婦人慈善会の多大なる援助によりまして実現いたしたので、爾来満十四年、地元皆様の御同情御後援により、兎に角今日所期の成績を挙げつゝあることは、幾多不幸なる病弱児童等の為め深く感謝いたす次第であります
 終りに当町有志諸君は、今後も尚ほ当分院事業の為め一層の御後援を賜りたく只管御願ひ致します、玆に当分院開設記念会に当り、御列席の皆様方に一言御礼と御依頼とを申上げます


東京市養育院月報 第三一一号・第一一頁 昭和二年六月 ○安房分院開設記念会(DK300017k-0007)
第30巻 p.199 ページ画像

東京市養育院月報  第三一一号・第一一頁 昭和二年六月
○安房分院開設記念会 六月十六日午後二時より房州船形町なる養育院安房分院に於て、同地方有志数十名を招待し、東京より出張の渋沢院長・田中幹事臨席の上、同分院開設第十八周年記念会を挙行せり、定刻に到るや来賓を予て設へたる式場(講堂)に誘導し、其著席を竢ちて、宮下同分院主務司会者として開会の辞を述べ、次で院児及び来賓一同の『君が代』の合唱ありたる後、田中幹事事業報告を為し、右終つて渋沢院長より一場の挨拶あり、次に船形町居住の元農商務大臣大石正巳氏来賓を代表して懇篤なる祝辞を述べられ、之れにて一先式を閉ぢ、式後来賓に茶菓を饗し、終て事務所前庭に於て記念撮影を行ひ、極めて盛会裡に午後五時散会したり、因に当日の主なる来賓の芳名を録すれば左の如し(順序不同)
 大石正巳氏   渋沢敬三氏   穂坂与明氏
 川名正吉郎氏  正木清一郎氏  忍足謹吾氏
 金木又一氏   戸田喜助氏   生稲福太郎氏
 鈴木隆氏    庄司彦太郎氏  民内保氏
 忍足清氏    生稲近太郎氏  斎藤昭氏
 立田栄次郎氏  栗原恒治氏   高尾米吉氏
 中村亀七氏   志村菊次郎氏  鬼沢孫四郎氏
 押元二郎氏   中川善太郎氏  光田鹿太郎氏
尚ほ田中幹事の事業報告、渋沢院長の挨拶及び大石正巳氏の祝辞は次号へ掲載の予定なり


東京市養育院月報 第三一二号・第四―六頁 昭和二年七月 ○安房分院開設記念会に於ける挨拶(昭和二年六月十六日)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300017k-0008)
第30巻 p.199-201 ページ画像

東京市養育院月報  第三一二号・第四―六頁 昭和二年七月
    ○安房分院開設記念会に於ける挨拶(昭和二年六月十六日)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 来賓各位、院児諸君、久々で当分院に参りまして各位に御目にかゝり院児一同にも会つたことを誠に心嬉しく存じます、殊に院児に就きましては、唯今田中幹事より申述べました通り、当町有力者諸君の御
 - 第30巻 p.200 -ページ画像 
心配を辱けなうして居りますことを難有御礼申上げます
 却説、唯今私に関する事柄で田中幹事の申述べましたことは、余りに私を褒め過ぎたかの感がないでも御座いませんが、之れも諺に云ふ我仏尊しとか、決して院長たる私の業績を自慢した訳では御座いませんので、唯養育院の事業に対し私と一緒にいろいろ心配致して居りますので、其由を申述べた迄のことゝ存じます……我養育院は御承知の通り明治五年十月に設立せられたもので、私が始めて養育院に関係したのは明治七年以来の事で御座います、而して其当時は営繕会議所なるものが其管理を為し、又経費は寛政年度中、時の閣老松平越中守定信即ち後ちの白河楽翁公が江戸の町政の改革を行はれたる結果として設定せられたる七分金、即ち明治時代になつてから之れが東京府に引継がれましたが、此七分金なる共有金に依て支弁せられたので、私は最初、此共有金の管理をして居りました関係から、遂には養育院に携はつて、不幸なる人々の世話をすると云ふ事に相成つたので御座います、而して設立の当初は単に乞丐の類を収容したのでありますが、漸次市内の窮民救助をも行ふ事となり、尋で明治十六年一月より行旅病人の同十九年三月よりは棄児迷児等の救護を行ふことゝなり、次で同三十三年七月には新たに感化部を附設して、市内の浮浪少年の収容匡化をも行ふに至りました結果、児童の入院も年々其数を増加し、為めに教育方面の施設をも行ふ必要を生じ、且つ収容者の種類が多岐に亘る関係から、愈々事業が複雑と相成り、各種の施設の必要に迫らるゝに至つたのであります、而して多数入院致しまする児童中には、腺病質或は発育不良等の病弱児が少なからずありますので之れが健康恢復の一手段として、当時養育院の医長をして居られた入沢達吉博士の勧めに依り、比較的経費の掛からぬ海気療養所を設くることゝなり、先づ土地の撰定を行ひ、明治三十三年八月当郡勝山町に一保養所を設置いたしたのであります、之れが現在の当安房分院の前身で、収容児童を転地致させました結果、甚だ成績が良いので、更に永久的の施設として一分院の設立を企てましたが、幸ひにも養育院婦人慈善会の後援を得、同会に於て慈善市或は観劇会等を催ほし其利益を以て土地を買入れ建物其他附帯設備を作りて之れを養育院に寄附せられ、斯くて当分院開設の運びに至つたので、之れは実に十九年前の明治四十二年四月で御座いましたが、之れは決して幹事の申す如く私に先見の明があつたと云ふ訳けでもなく、病弱児童の処置に困じ、必要に迫られて施設を為したに過ぎないのであります、爾来引続き巣鴨分院収容中の病弱児を交替に転地保養せしめつゝありますが、転地の結果孰れも健康を恢復致し、御覧の通り学業も、運動も元気良く行ふやうになりましたのは、第一風土の恩恵に依るもので御座いませうが、然し単に風土や気候のみで決して満足には行きませんので、私は地元有力者諸君の御同情御後援に負ふ処の少なくないと云ふことを信じて居るものであります、尚ほ唯今も田中幹事より申上げました通り、幼少な児童等のことゝて相当悪戯も致しませうが、彼等も将来有為のものとなるであらうと思ひますので、一層の御後援を御願ひする次第であります
 次に当分院は東京なる巣鴨分院の支店のやうなもので御座いますか
 - 第30巻 p.201 -ページ画像 
ら、序ながら巣鴨分院に就て一言申述べたいと存じます……元来巣鴨分院は、養育院収容児童の教育の場所として明治四十二年四月に設立致したもので、院内に幼稚児及学齢児を収容し、幼稚園・小学校及実業補習部を設置して居りまして、目下の収容人員は二百五・六十人であります、而して私は以前米国に参りました際、有名なる『ジヱラード・カレツヂ』を参観致し、何卒養育院収容の児童等も斯の如き設備の下に養育致したいと云ふ考を持ちましたが、何分にも莫大の設備費を要しますると同時に、仮令それは弁じ得たとしても、将来之れが維持を行ひまするには年々少なからぬ経費を必要と致します関係上、遺憾ながら普通の国民教育を授くるの程度に止め、義務教育を修了したる児童は男女共実業補習部に入学せしめ、午前中は中学又は高等女学校二・三年程度の学科を授くると共に、午後は実科として男子には印刷、女子には和服裁縫及ミシン裁縫等を教授し、将来独立の素養を与へつゝあるのであります、然かし更に進むでは、男子には機械工業に関する学問や、女子には刺繍其他の手芸をも教へたいと思つて居りますが現在では以上申述べました程度のものに過ぎないので御座います而して当分院に於て保養の結果、健康を恢復致しますれば、巣鴨分院に帰院せしめて就学致さしむるの方法を採つて居るのであります
 以上申述べました通り、当安房分院はお蔭を以て斯の如き天恵の豊かなる土地に、斯かる施設を為し、不幸なる病弱児を収容して、兎に角所期の目的を遂げつゝあるので、其点は私の此上もなき喜びと致す処で御座います、私も近来老齢と相成りましたので、本年の当分院開設記念会にも果して参上致すことが出来るかどうかと可成り危ぶむで居りましたが、幸にも斯く参上致して、当分院の実況を見、且つは親しく皆さんにお目にかゝつて日頃の御礼を申述ぶる機会を得ましたことを無上の喜びと致す次第で御座います(拍手)


東京市養育院月報 第三三五号・第二七頁 昭和四年六月 ○安房分院開設記念会(DK300017k-0009)
第30巻 p.201-202 ページ画像

東京市養育院月報  第三三五号・第二七頁 昭和四年六月
○安房分院開設記念会 六月十六日午後一時半より、房州船形町なる養育院安房分院に於て同地方有志数十名を招待し、東京より出張の渋沢院長・田中幹事臨席の上、例年の通り同分院開設記念会を挙行せり定刻に到り来賓を式場(講堂)に誘導し、其着席を俟ちて宮下安房分院主務司会の下に開会、院児及来賓一同の『君が代』合唱ありたる後ち田中幹事開会の辞に併せて事業報告を為し、次で渋沢院長より一場の挨拶あり、終つて船形町長中村亀七氏来賓を代表して懇篤なる祝辞を述べられ、之れにて一先づ式を閉ぢ、式後来賓に茶菓を呈し、斯くて事務所前庭に於て記念撮影を行ひ、極めて盛会裡に午後四時無事散会せり、因に当日の主なる来賓の芳名を録すれば左の如し(順序不同)
 川名博夫氏   穂坂与明氏   正木清一郎氏
 中村亀七氏   庄司彦太郎氏  忍足謹吾氏
 金木又市氏   中里勝太氏   伊藤貢氏
 岩田一郎氏   森田敬蔵氏   鈴木隆氏
 平野巳之吉氏  安田峰三郎氏  忍足清氏
 内藤実一氏   辻八十吉氏   岩崎万作氏
 - 第30巻 p.202 -ページ画像 
 高尾米吉氏   鬼沢孫四郎氏  志村菊次郎氏
 平野明雄氏   福原福次郎氏  押元次郎氏
 池田九州男氏


東京市養育院月報 第三三六号・第八―一〇頁 昭和四年七月 ○安房分院開設記念会に於ける挨拶(昭和四年六月十六日於安房分院)(養育院長子爵渋沢栄一)(DK300017k-0010)
第30巻 p.202-203 ページ画像

東京市養育院月報  第三三六号・第八―一〇頁 昭和四年七月
    ○安房分院開設記念会に於ける挨拶(昭和四年六月十六日於安房分院)
                (養育院長 子爵 渋沢栄一)
 満場の諸君、本日幸に当分院に参りまして、親しく各位に御目に掛り、一言御挨拶を申述べる機会を得ましたことは私の此上もなき喜びと致す所で御座います、唯今養育院の成立ちや、当分院設置のことに就きましては田中幹事より委しく申上げましたので、私より特に重ねて申上げる必要はないかとも思ひますが、此処に立つて見ますると、又た少しく御話もして置き度いと存じますので、暫時御静聴を願ひたいのであります
 偖て唯今養育院事業の概略に就き田中幹事の申述べましたる話の内私に関する点は聊か自画自讚的の嫌があり、甚だ当らないのであります、養育院の今日ある所以は決して私一人の力ではなく、別して近年になりましては事業も整頓して参りまして、本院及各分院共殆ど従来の面目を一新したことは、一に幹事はじめ職員一同の努力に負ふ処が多いのでありますと共に、一面社会各方面の方々の同情後援の賜物で御座います、殊に安房分院の如きは当地方有力者各位の御尽力に依り今日あるを得ましたもので、序ながらと申しては甚だ失礼でありますが、此機会を以て厚く御礼を申述べる次第であります
 養育院が今日に至る迄には経営上に於ても随分種々の変遷があつたのでありまして、丁度明治十七年のことで……当時は東京府営でありましたが……養育院の存在は却つて窮民に依頼心を起させる、即ち惰民養成の機関となるから宜しく廃止すべしと云ふ論が起つたのであります、然しながら之れは一応尤もな論であるが、世の中は単に理論だけでは治まらぬ、日本も次第に発展するのだから将来どうしても斯かる施設が必要となる、それは外国の例に徴するも明らかでありますから、私は廃止に対し極力反対致したのでありますが、力及ばず遂に府営の養育院は明治十八年六月限りを以て廃止せられたのであります、尤も私の養育院に関係致しましたのは明治七年で、時の大久保東京府知事から明治維新の際幕府より引継がれた七分金なる共有金の世話を託された結果、自然養育院にも関係することとなつたのであります、而して唯今申述べました如く、明治十八年六月限り府営養育院は廃止されましたが、此儘事業を廃絶に帰することは私の予ての持論よりするも、又た事業其物の性質より見るも、誠に忍び難いところでありますので、種々考究の結果同志の者と相談の上、東京府より事業全体を引受け私立の東京養育院なるものを設立し継続経営致すこととなつたのであります、之れが十八年七月のことで、爾来此状態で明治二十二年十二月迄約四年間続けたのでありますが、先刻田中幹事の申述べました如く、明治二十二年四月東京に始めて市制が施行せらるゝに至り之れを機会に市営として経営して頂き度いと願出でましたところ、幸
 - 第30巻 p.203 -ページ画像 
に市に於ても之れを承認せられ、翌二十三年一月より東京市養育院と改称せられ、以て今日に至つたもので、是等のことは別に本日の此記念会には関係がありませんが、幹事の演説からツヒ昔を思ひ出しましたので一言申添えた次第で御座います
 偖て養育院が右の如く市営となりましてより、年と共に漸次入院者の数が増加し、従つて児童の入院も多くなつて来ましたが、どうも其健康状態が宜しくないので、いろいろ苦心の結果先刻田中幹事の申述べましたやうな経緯で当分院を設立致したのでありまして、其設置に当つては、養育院婦人慈善会より多大の援助を受けたのであります、其後建物も増築して常時百二・三十名の虚弱児童を収容して保養せしめ、相当見るべき成績を挙げつゝあつたので御座いますが、御承知の通り大正十二年九月の大震災に依り殆ど全潰の被害を蒙りました、それを唯今の 皇太后陛下、即ち当時の皇后陛下が、震災罹災者救護の為芝公園内に設置せられたる協調会の臨時病院に行啓の砌り、特に私に拝謁を賜はりまして、養育院安房分院全潰のことに付御軫念あらせられ、難有御言葉を賜はりましたので、専心復興のことに努めます趣きを申上げ、資源を求めて復旧工事に着手致したので御座います、其後養育院のことで更に拝謁仰付けられました際、当分院復興の写真を上覧に供しました処、殊の外御喜びに相成り、優渥なる御言葉さへ賜はつたのであります、此 皇后陛下の御恩寵に対しては、私共は常に感激致して居るので御座います
 斯様な次第で復旧工事を完成したる当分院は、本年を以て、玆に開設満二十年を迎へたのであります、二十年の歳月は決して短いとは申せませぬが、私と致しましては、開設当時のことを顧みまして、尚ほ昨日の如く考へられるのであります、私は今後尚ほ五年も十年も当地に参つて、諸君に親しく御目にかゝり、御話もしたいと思ふのであります、兎に角当分院が此天恵豊かにして誇るべき名所旧蹟を有する船形町に所在し、然かも地元有志各位の熱心なる同情援助により、収容児童等が斯く健やかに成育致しつゝある状態を親しく見るを得ますることは、私の真に喜びとするところでありまして、常に同情後援を賜はる来賓各位に対し玆に重ねて御礼を申述べ、併せて当地方の繁栄を祈ります