デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
11款 社団法人実費診療所
■綱文

第31巻 p.150-159(DK310028k) ページ画像

大正12年4月1日(1923年)

是日栄一、当診療所浅草支部病院落成披露会ニ出席シ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正一二年(DK310028k-0001)
第31巻 p.150 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年      (渋沢子爵家所蔵)
四月一日 午前十時 浅草実費診療所開所式(浅、駒形、同所)


社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編 第二巻・第六九―七〇頁 大正一五年一一月刊(DK310028k-0002)
第31巻 p.150 ページ画像

社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編
                    第二巻・第六九―七〇頁 大正一五年一一月刊
 ○第四編 第一章 本年度の主要事項
    第二節 浅草支部の新築落成と其披露会
 浅草支部病院の建築工事は三月 ○大正一二年一杯に了りたるにより、四月一日を卜して新築落成披露会を開催し、当所関係の朝野名士数十名を招待して昼餐の饗応を為せり、当日社会事業協会々長渋沢子爵を始め逓信省簡易保険局積立金運用課長進藤誠一氏の祝辞演説あり、朝野の名士、新聞・雑誌記者等も多数参会して、我社会事業の為めに此理想に近い病院の落成を喜ばれざるものなかりき。尚ほ右渋沢子爵の演説は此種事業に関して有益なるものにつき其演説筆記を巻末の附録に登載し置けり。


社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編 第二巻・付録第一―一七頁 大正一五年一一月刊 【東京市に於ける慈善事業と社会事業(子爵 渋沢栄一)】(DK310028k-0003)
第31巻 p.150-156 ページ画像

社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編
                   第二巻・付録第一―一七頁 大正一五年一一月刊
    東京市に於ける慈善事業と社会事業(子爵 渋沢栄一)
      一、儒学の仁愛と仏教の慈悲
 或は仁愛といひ、或は慈悲といひ、鰥寡孤独の恤むべく、不具癈疾の救ふべきを説いたことは、儒教も、仏教も同じである。世には仏教の慈悲善根といふことを本として慈善を行ふ人もあり、又私の如く、孔孟の教、即ち儒学を本として救済の事に携る人もある。私は平素孔孟の教を奉じ、之を主義として世に処するものであるが、私共の奉ずる儒学からいふと、人の性は善である。人には生れながらにして憐みの心がある。仁といひ愛といふ、要するに性の動いて外に現はれた形であると説いて居る。勿論儒学は宗教と違ひ、唯信ずるのみでなく、各人の討究研鑽によつて、真理に到達せんとする一種の学問であるから、人の性に関しても種々の異説がある。併しながら孔孟の教は儒学の本系である。私の信奉する孔孟の教、特に孟子の説く所によると、前述の如く人に仁愛の心があるのは人の天性であるといふことになつて居る。即ち、孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵愓惻隠の心あり、是れ必ずしも交りを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉を郷党朋友に要むる所以にあらず、唯、自然に忍びざるの情が動いて之を救ふの挙に出でる。故に人の性は善である。人には皆、仁を行ふべ
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き惻隠の心がある。惻隠の心は仁の端であると説く。
 仏教に至つては、其説き方が少しく之と異り、其慈悲善根を行ふのは、之を『喜捨』と称へ、仏に仕へる道として教へられ、他を救ふといふよりも、寧ろかくして己れの心を救ふといふことが主になつて居る。無論其帰する所は同一であらうし、其人を救ひ世を益する結果に於いても変りはないであらうが、仏教の慈善は余りに己れの心に重を置き過ぎて、救済そのものを軽視し過ぎる傾きがなしとせぬ。勿論此傾きは儒学の精神から発足した慈善事業の方にもあつた。併しながら古くから支那に行はれた各種の備荒組織及び救恤事業を見るに、仏教の所謂『喜捨』よりは、幾分救済そのものを重んじて居る。之が即ち儒学の仏教よりも経済若しくは政治に近い所である。併しながら儒学を本とした救恤も、仏教の喜捨も、今日の所謂社会事業に較べて見ると、共に経済の理に迂遠であり、救済そのものに就て深く考へぬ欠点は同一である。
 近頃の所謂社会事業は、国家なり、社会なりが、其責任として鰥寡孤独を恤み、不具癈疾を救ひ、更に進んでは、貧困の最大原因である疾病と無知とに対して適当な施設を行はんとするものであつて、経済に根基し、政治に立脚し、救済其ものを目的とする。従つて其成績に対しても、常に周到なる注意と討究とを怠らず、出来得る限り救済の範囲を広くし、出来得る限り救済を根本的にし、且つ其弊害を少からしめんとして努める所に特色を見る。此社会事業といふものに対しては、私なども近頃まで或は時代錯誤の考へを抱いて居た一人であるかも知れぬ。今、私の是まで関係して来た養育院の事業を本として、東京市に於ける救済思想の変遷に就き所感を述べて見たいと思ふ。
      二、松平楽翁公の七分金
 私は明治七年今の東京市養育院が生れて三歳の時から其哺育を託され、本年 ○大正一二年でちやうど四十九年目になる。其間大して力を尽したといふ訳でもないが、自分としては誠心誠意事業に当つて倦まず、時には随分困難な問題にも遭遇して其解決に任じて来た。抑も東京市養育院が孤々の声を揚げたのは、明治五年十月で、時の東京府が、東京府養育院の名で、本郷なる旧加州邸に窮民救助の事業を開始したのに始まる。事の起りは明治三年頃と覚えて居るが、外国の或る貴賓が日本に来遊せられるといふので、東京府は遽に市中に徘徊する乞食を一ケ所に狩集めることを思ひ立つた。市中に多くの乞食が徘徊するのは貴賓に対して失礼であり、且つ市の体面上にもよろしくないといふのが其趣旨であつた。其時狩集めた三百人足らずの乞食を、貴賓の退京された後、車善七といふ江戸時代からの非人頭に引渡して其世話を託したのが、即ち東京市養育院の起りである。車善七は佐竹義宣の臣、車野丹波守の子善七郎の後裔で、善七郎は丹波守が石田三成に伍し、徳川家康の為に磔殺されたのを恨み、屡々家康を害せんとして果さず遂に捕へられたのを、家康の慈悲に浴し、感激の極、自ら非人の群に投じ、乞食の首領となつて残世を送つた。爾来善七の家は代々非人の頭となり、幕府の為に尽して明治に及んだものである。
 当時東京府の手には、共有金の名を以て江戸時代からの積立金が保
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管されて居た。此積立金こそ、寛政三年十二月、時の老中松平楽翁公が、庶政改革の一端として市中に令し、町費を節約して其剰余金を積立てさせた所謂七分金であつて総額百五・六十万円にも達して居た。初め公が七分金の制度を立つるや、先づ市中各町内に命じて既往五ケ年間の町費を書出させ、其平均額を取つて、一ケ年の経常費を定め、その中幾分を節約して町年寄の手に保管させた。即ち此剰余金を十と見て、一分を関係者に配当し、二分を他の用に充て、七分を共有金として積立させた。七分金の名が玆に起つた。尤も此七分金の為には官から別に二万円を下付し、合せて基本金とし、勘定所の用達商人をして町会所に出入して之を運転せしめ、其利を以て不時の用に備へることを奨励したので、市民は大に之を徳とした。維新の後、東京府が江戸の各町会所から引継いだ七分金は、前述の如く積んで百五・六十万円の多きに上つて居たのである。
 東京府では此金を引継ぐと、其一部分を以て小菅に籾を積んで凶荒に備へ、他の一部分を以て河岸の土地を買収し、其残余を共有金として所謂『おかけ屋』に預けた。養育院の最初の費用は即ち此共有金の中から支出された。尤も此共有金は養育院のみでなく、当時盛に其面目を改めつゝありし新東京市の為に支出されて居た。或は橋梁の修理といひ、或は共同墓地の設定といひ、或は瓦斯の設備といひ、或は商法講習所といひ、東京市民は、約百年以前、松平楽翁公によつて遺された七分金の恩恵を受くること頗る大なるものがあつた。
      三、慈善事業に対する最初の批難
 処が明治十五年頃から東京府会議員の間に養育院無用論が起り、種種弊害を指摘して、其廃止を主張するものが漸く多きを加へた。私の知つて居る限りでは、之が我国に於いて慈善事業の結果に対して加へられた批判の最初のものである。彼等の説く所によると、窮民を府で救助するといふことは、却つて惰民を造る原因になつて、甚だよろしくない。殊に今後の社会は貧困者が年一年と増加して行つて際限がない。それを府が一々救助して行かねばならぬやうな事であれば、遂には東京府民の全財産を以てしても救助することが出来ないやうになりはせぬか。現に英吉利などでも、慈善は往々惰民を養成するの結果に終るといふので、学者の間に批難の声が高い。斯かる弊害多き事業を東京府が永久に継続するといふことは、実に愚の至りである。養育院は宜しく廃止すべきものであるといふにあつた。
 此説には、確に一面の真理があり、私も或る程度までは尤もと思つた。併し慈善事業に弊害が多いからと云つて、慈善事業を無用とするの議論は甚だ了解に苦しむ。当時の府会議員の言説は、養育院を廃止せんが為に慈善事業を攻撃したものであつて、別に弊害の伴はぬ、而も時代の欠陥を匡救するに足る良策を立てた上で批難をしたのではない。換言すれば、彼等の主張は慈善も救済も一切無用であるとするに落ちて居た。私は当時之を以て甚だ憂ふべきこととし、議員の中の特に懇意なる人々に遇ふ毎に其説を反駁して云つた。若し東京府が今遽に養育院を廃止するならば、後に至つて必ず後悔する時が来る。東京の如き大都会、而も一国の首府にして、これ位の設備を置いて窮民を
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救助することは絶対に必要である。現に欧羅巴各国を見るに必ず此施設がある。成る程濫に財物を投じて窮民を優待し、国民の間に依他懶惰の弊風を生ぜしむるが如きは、英吉利に限らず、何処の国でも戒めねばならぬことである。併しながら、それは経営の方法によつて何とでも其弊風を避けることが出来る。弊害が多いからと云つて、現に孺子の井に入らんとして居るやうな同胞の窮状を、見て見ぬ振りをするといふことは、即ち、人の性を矯め、忍びざるを忍ぶといふものである。忍びざるを忍んで傍観するは、人道を捨てて顧ざるものである。私は遂に其可なる所以を知るに苦しむといふので、可なり強く論争した為に、廃止論も一時は成立しなかつたのであるが、明治十六年に至り、府会は遂に明治十七年を限りとして、養育院を廃止するの議を決し、現に収容しつゝある窮民は、其時限り之を逐出して了ふといふことになつた。併し私が極力之に反対して其非を唱へた為に、廃止の決議も幾分緩和せられ、明治十七年以後は、新に窮民を収容せず、従来収容した窮民の死亡若しくは退院するを俟ちて之を全廃するといふことになつた。
 併しながら、私は尚ほ府の決議によつて何時かは廃止せらるべき養育院の運命を晏如として傍観すること能はず、之を私人の経営に移して存続することの決心を固め、当時養育院に属したる財産の一部と、事業そのものを府より貰ひ受け、東京市内の有志を募つて、玆に私立養育院の経営に任ずることゝなつた。乃ち明治十七年十二月、篤志の婦人に依頼して養育院の後援を目的とする婦人慈善会を起し、バザーなどの挙ぐる収益を以て、院の維持費の一部に当てる方針を取つた。かくして私自ら此私立養育院の院長となり、故陸軍軍医総監橋本綱常氏が医長となつて、明治十七年十二月から同二十二年の末まで其事業を継続した。
      四、日本古来の社会事業
 然るに明治二十二年には地方自治制の発布と共に、東京にも市制が施行せらるることとなり、玆に私共の引継いだ私立養育院は、再び東京市によつて経営せらるべき気運に到達した。即ち市制には、寄附者がその使用の目的を指定したものに対しては、後に之を動かすことを得ぬといふ条項があるのと、又市に属すべき仕事は、此場合申出せば市で管理するといふ内務省の指令があつたので、私共は安心をして養育院を市の経営に移すことが出来ることゝなつた。即ち、今日之を市の経営に移しても、明日再び東京府会の行つた如き無慈悲なる決議をされる憂ひはないといふことになつて、其旨を市に申出で、養育院は当然市の経営に属すべきものであるといふことを具陳した。乃ち東京市会の決議を経て、養育院は更めて市の経営に移り、明治二十三年一月から、東京市養育院と呼ばれることゝなつた。
 斯くの如く慈善事業に対する批難は、既に明治十五・六年頃から東京府会の問題となつて、常に一部人士の間に論議されて居たのであるが、慈善事業に代ふるに如何なる方法を以て社会の欠陥を補ふべきか詳言すれば、一方に於いては今将に貧困といふ泥沼の中に溺れんとしつゝある不幸の人を救ひ、他の一方に於いては如何にして斯くの如き
 - 第31巻 p.154 -ページ画像 
不幸の由つて来る原因を防止すべきかといふ具体案、即ち近頃の所謂社会事業に就いては、実際問題として之を提唱する人もなかつた。即ち明治の初年から日露戦役頃までの日本には、慈善事業に対する批難はあつたが、慈善事業に代ふるに社会事業を以て社会の欠陥を補ふの一助とすべしといふ提案はなかつた。東京府会の無慈悲なる決議に依つて廃止された養育院が、私共の手から東京市の経営に引渡されて約十五年、日露戦役の終る頃まで、日本の救済事業は先づ慈善主義を以て一貫して来たと云ひ得られる。
 尤も之を以て日本には古来社会事業といふものがなかつたといふは速断に失する。支那には古くから儒学の精神に根基した常平倉・悲田養病院・恵民薬局・普済堂などといふものがあり、近代となつては北京に習芸所といふものさへあつて、所謂社会事業の趣旨に適つた施設が甚だ少くなかつた。夙に儒学の精神を採つて実際政治の上に運用した日本にも、亦此種の防貧制度は可なり古くからあつた。古き時代のことは姑く措くとして、江戸時代となり、前述の松平楽翁公が、火付盗賊改役長谷川平蔵の言を容れ、石川島と常陸上郷村とに設置した人足寄場の如きは、今日の出獄人保護と職業紹介所とを兼ねたもので、其趣旨に於いて立派な社会事業であつたといふことを云ひ得る。楽翁公の施政の中には、玆に紹介した七分金制度・人足寄場を始めとして旗本の貧困を救ひ、農民の流離を防ぐ事業の上に、経綸の見るべきものが甚だ多かつた。是より先、享保年間には小石川薬園に貧民を救療する養生所といふものが設けられ、宝歴年間には儒学者三浦梅園の提唱によつて、一地方ではあつたが、慈悲無尽講といふものが起つた。之は今日の所謂相互扶助組織である。佐藤信淵が武蔵の鹿手袋村に開いた種樹園の如き、亦社会事業の趣旨に適つたもので、荒蕪地の共同的開墾により、一方に富者を利せしむると同時に、他の一方に貧民を潤し、之に職を授けんとしたものである。凡そ此等の事業は、たゞ貧民に財物を喜捨して一時の急を救ひ、我心の満足を買ふといふだけでなく、進んで貧困の原因を防止し、社会の欠陥を補はうとするものであつて、我国にも社会事業は古くからあつたといふことが出来る。
 但だ維新以後は上下とも、諸般の制度を改革して世界の文明国と歩調を一にすることにのみ忙殺せられ、国家の基礎を鞏固にし社会の健全なる発達を庶幾する上に、必要欠くべからざる多数国民の福利施設は、之を各種の慈善事業に一任して顧られざるの傾きがあつた。
      五、慈善事業と社会事業とは互に輔翼すべし
 日露戦争以後、国家の発展につれて、経済の事情も漸くにして革まり、一部先覚者の間には、焼石に水を注ぐやうな慈善事業のみを以てしては、到底今日の社会的欠陥を補ひ、国家の基礎を鞏固にすることが出来ない。更に進んで貧困の原因を絶ち社会の不祥事を未然に防止しなければならぬといふ、所謂社会事業の呼声が高まつた。当社団法人実費診療所の起つた如きは其一例で、私も当初、創立者の一人である加藤時次郎氏から賛助員になれといふ相談を受けたのであるが、私にはその当時未だ十分に事業の趣旨の在る所を了解することが出来なかつた。之は恐らく私の考へに時代錯誤の点があつたからであらう。
 - 第31巻 p.155 -ページ画像 
 其後世界大戦役を経て、経済の事情に更に大なる変化が起り、民心の赴く所測り知るべからずとあつて、社会の欠陥を補ふ施設は、愈従来の慈善事業のみに任せて置くことが出来ないといふことになり、中央の各省にもそれぞれ其方面の事業を担当する局制が設けられ、各府県にも地方の事惰に応じて、それぞれ各方面の社会事業を管理する部局が置かれるといふ気運になり、民間に於ても各種の救済事業が『慈善』の名に代ふるに『社会』の名を以てしなければならぬやうなことになつて来た。かゝる時代の趨勢に魁けした実費診療所の事業が、切実なる社会の要求に合して、今日では一ケ年に百五十万以上の患者を取扱ふ大病院となり、最も有効なる国民保健機関の一として、官民一般の認むる所となつたことは当然である。
 併しながら私は当初加藤氏から相談を受けた時は、未だ其趣旨の在る所を了解しなかつたので、其後加藤氏が辞職され、鈴木梅四郎氏が主として経営に任ぜられることゝなり、愈事業の盛大を加ふるに至つたといふことだけは、聞及んで居たが、詳しいことは知る機会もなかつた。処が同所に於いて、予て逓信省簡易保険局の低利資金を借入れて新築中であつた浅草支部病院が落成したに就き、四月一日招待を受けて其盛大なる祝賀会に臨み、親しく其実況を視察した上、席上、鈴木氏及び係員から段々との説明があり、且つ、当日配布された印刷物の中に、
 『其趣旨は貧民として公共の慈善を享くるを潔しとせず、去りとて現制度の要求する所に従ひ、日新医薬の恩恵に浴することも容易ならず、一旦病魔の襲ふ所となるや、忽にして其家資を傾け、生計の途を失ひ、貧困の淵に淪落する中等階級の為に、低廉にして、且親切有効なる救療機関を設置せんとするに在り。其実費を徴するや、第一に国家の中堅たる庶民階級をして独立自尊の精神を保持せしめ依他懶惰の気風を未然に防止せんとするに在り、第二に限りなき社会的貧困に対するに、限りある資金を以て救済の目的を達せんとする慈善事業当事者の覆轍に鑑み、自奮自給、限りなき労力と資本とを以て之に当らんとするに在り。世に率先して慈善事業と社会事業との区別を闡明し、慈善事業のみを以て、現行社会制度の欠陥を補ひ得べしとなす一般の謬想を指摘したり。』
とあるのを見て、十分に其趣旨を了解することが出来た。
 又その説明によると、実費診療所は、事業本来の性質として、平素は実費を徴するが、大火とか、洪水とか、地震とかいふ一般の災厄によつて、多数の国民が眼前饑餓に泣き、疾病傷害に苦しんで居る場合は決して之を傍観するものでない、便宜に応じ救護班を派して無料救護をする。又原則として、慈善の効力は斯かる場合に最もよく現はれるものであるから、平素は実費、不時の一般的災厄に際しては慈善によることに決めて居る。診療所が救護班を派出した時は、官民ともに何うか十分に之を利用して貰ひ度いとのことであつた。即ち平素は社会事業の趣旨により、不時の一般的災厄に際しては慈善事業によるといふので、決して慈善事業を排斥して居ない。私は此説明によつて大に満足し、尚ほ平素の診療に於いても十分に其精神を発揮し、係員の
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患者に対して叮嚀親切であらんことを希望して置いた次第であつた。
 私がいふまでもなく、慈善事業と社会事業とは車の両輪、鳥の両翼の如きもので、互に相寄り相助け、慈善事業で弊害のある方面は社会事業が之を担任し、社会事業で行けぬ方面は慈善事業が之を担任するといふことにしたならば、完全に其効果を現はして、社会救済の目的を達するに庶幾からうと思ふ。



〔参考〕社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編 第三巻・第二六九―二七五頁 昭和一〇年一二月刊(DK310028k-0004)
第31巻 p.156-159 ページ画像

社団法人実費診療所の歴史及事業 同診療所編輯部編
                   第三巻・第二六九―二七五頁 昭和一〇年一二月刊
    社団法人実費診療所定款
      総則
第一条 本社団ハ社団法人実費診療所ト名付ケ、左記事項ノ実行ヲ目的トス。
 一、日収金壱円五拾銭以下ノ官吏・公吏・教師・事務員・番頭・労働者、此等ノ家族及学生等ニ対シ、実費ヲ以テソノ疾病傷痍ノ診療ヲナスコト。
  但シ天災時変ニ際シ、又ハ医療ヲ受クルノ資力ナキ者ニ対シ、施療ヲ為スコトアルベシ。
 二、医科大学及医学専門学校ノ学生及卒業生ニ対シ貸費ヲ為シ、以テ優良ナル医員ヲ養成スルコト。
 三、産婆及看護婦ノ養成所ヲ設ケ、優良ナル産婆並ニ看護婦ヲ養成スルコト。
第二条 本社団ニ於テ取扱フ薬価並ニ診療方法ハ左ノ如シ。
 但シ新ニ診療所ヲ設クル場合ニハ、内務大臣ノ認可ヲ得テ其料金ヲ定ム。
  (一)診断書・証明書・検案書・死亡証書・体格検査料、処方箋料、咯痰・泌尿其他ノ検査料 各金弐拾銭以下
    但シ血清検査又ハ特別ノ検査若シクハ診断書等ヲ要スルモノハ此限リニアラズ。
  (二)手術料
     大手術  金五円以上   金弐拾円以下
     中手術  金壱円以上   金五円以下
     小手術  金拾五銭以上  金壱円以下
    但シ腹部切開其他特殊ノ手術ヲ為ス場合ハ此限リニアラズ。
  (三)施術料
    (イ)点眼・種痘  各金拾銭以下
    (ロ)耳鼻咽喉処置・吸入・皮下注射・灌腸・尿道洗滌・膀胱洗滌・膣洗滌・外料的処置等 各金弐拾銭以下
    (ハ)繃帯交換   各金参拾銭以下
    但シX放線療法其他特殊ノ理化学的療法ヲ施スモノハ此限リニアラズ。
  (四)薬価
     内用薬  一種 金拾銭以下
     頓服薬  一回 金七銭以下
 - 第31巻 p.157 -ページ画像 
     外用薬  一剤 金拾銭以下
     坐薬   一個 金七銭以下
    但シ新薬並ニ高価ノ薬剤ヲ使用スル場合ハ此限リニアラズ。
  (五)薬剤容器料  金壱銭以上 金五銭以下
  (六)入院料
     一日  金壱円五十銭以下(薬価・食料等一切ヲ含ム)
    但シ多量ノ材料又ハ臨時ノ手当ヲ要シタル場合ハ、別ニ実費申受ク。
第三条 本社団ハ本部事務所ヲ東京市芝区新橋一丁目五番地ノ一ニ設置ス。
 但シ事務ノ便宜ニヨリ支部ヲ各所ニ設置スルコトヲ得。
      資産
第四条 本社団ノ資産ヲ弐万円以上トス。其資産ノ種類左ノ如シ。
  一、本社団ノ設立者、社員並ニ篤志家ノ寄附金又ハ遺贈金
  二、本社団所有ノ動産及不動産
  三、本社団ノ財産ヨリ生ズル収入
第五条 前条資産ノ内金参千円ハ法人設立ノ許可ト同時ニ設立者ヨリ之ヲ寄附シ、其他ハ有志者及社員ノ寄附金ヲ以テ漸次之ヲ増加スルモノトス。
第六条 前条ノ資産ノ内、壱万五千円ハ事務所設立及医療器械買入等ニ使用シ、残金ハ国債証券若クハ之ト同様ナル確実ノ証券ニ換価シ理事長之ヲ管理シ、監事之ヲ監督スルモノトス。
 其処分ニ関シテハ評議員会ノ決議ニ依リ之ヲ定ム。
第七条 本社団ノ事業年度ハ十一月ヨリ翌年十月ニ至ル迄ヲ一年度トシ、年度ノ終リ毎ニ理事ハ財産目録並ニ貸借対照表ヲ作成ス。
      社員
第八条 本社団ノ目的ヲ協賛スル者ハ何人ニテモ入社スルコトヲ得。
 社員ハ何時ニテモ任意ニ退社スルヲ妨ゲズ。
 社員ノ入退社ニ関スル手続ハ別ニ之ヲ定ム。
第九条 本社団ノ社員及賛助員ハ左ノ如シ。
  一、本社団ノ趣旨ヲ賛成シ、金弐拾円以上ヲ寄附スルモノヲ正社員トス。
  二、同金壱百円以上ヲ寄附スルモノヲ特別社員トス。
  三、同金壱千円以上ヲ寄附スルモノ、或ハ本社団ノ事業ニ功労アリタル人ニシテ、評議員会ノ推薦ニ因ルモノヲ名誉社員トス。
   但百円以上ヲ寄附スルモノハ、月賦若クハ年賦ヲ以テスルモ妨ゲナシ。
  四、同金五円以上ヲ寄附スルモノハ之ヲ賛助員トス。
第十条 社員中不都合ノ所為アルモノハ、評議員会ノ決議ニヨリ何時ニテモ之ヲ除名スルコトヲ得。
      役員
第十一条 本社団ニ左ノ役員ヲ設ク。
   一、理事    七名以内
   二、監事    二名
 - 第31巻 p.158 -ページ画像 
   三、評議員   二十名
第十二条 理事・監事並ニ評議員ハ、社員中ヨリ之ヲ選挙ス。理事ノ内一名ヲ理事長トシ、其選任ハ理事ノ互選トス。
第十三条 前条ノ役員ハ総会ノ節投票ヲ以テ之ヲ選挙ス。若シ被選者ノ得票同数ナルトキハ抽籤ニヨリ其当選者ヲ定ム。
 但シ最初ノ選任ニ限リ本社団設立者ノ指名トス。
第十四条 理事ハ本社団ノ事務ヲ取扱ヒ、理事長ハ議事ヲ整理シ且ツ本社団ヲ代表ス。
第十五条 各役員ノ任期ハ満二ケ年トス。但シ補欠選挙ノ場合ニハ、前任者ノ残留期間ヲ以テ其任期トス。
第十六条 旧役員ハ其任期満了後ト雖モ、新役員ノ就任スル迄ハ其残務ヲ執行スル義務アルモノトス。
第十七条 評議員ハ名誉職トシ、理事・監事・職員・事務員等ニハ各相当ノ手当ヲ支給ス。其細則ハ別ニ之ヲ定ム。
      会議
第十八条 定時総会ハ年一回之ヲ開キ、事業ノ経過・計画並ニ決算ノ報告ヲ徴シ、其他重要事項ヲ議決ス。
第十九条 臨時総会ハ役員ニ於テ必要アリト認メ又ハ社員三分ノ二以上ノ同意者アルトキハ、何時ニテモ之ヲ召集スルコトヲ得。
第二十条 前条ノ総会ハ社員三分ノ一以上ノ出席アルニ非ザレバ議事ヲ開ク事ヲ得ズ。
 但シ緊急ノ場合ニハ、定員ニ満タザルトキト雖モ仮決議ヲ為シ、次ノ総会ニ於テ其承認ヲ求ムルコトヲ得。
第二十一条 総会ヲ召集スルニハ、会日ヨリ五日前ニ理事長之ヲ各社員ニ通知スルモノトス。
第二十二条 評議員会ハ理事長ニ於テ必要アリト認ムルトキ之ヲ召集シ、本社団重要事項ヲ決議ス。
 評議員会ハ定員三分ノ一以上出席スルニアラザレバ、決議ヲ為ス事ヲ得ズ。
 評議員会ハ出席者ノ過半数ヲ以テ之ヲ決シ、可否同数ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル。
 出席者定数ニ充タザル場合ハ、十日以内ニ更ニ評議員会ヲ召集スルモノトス。
 前項ノ規定ニ依リ評議員会ヲ召集シタル場合ハ、出席者ノ員数ニ拘ハラズ決議ヲ為スコトヲ得。
第二十三条 会議ハ総テ理事長ヲ議長トシ、決議ノ方法ハ総テ多数決ニヨル。可否同数ナルトキハ議長ノ意見ニヨル。理事長差支アルカ又ハ理事長ニ於テ意見アルトキハ、他ノ理事代ツテ議長ノ職務ヲ行フモノトス。
      附則
第二十四条 本社団ヲ解散スルニハ社員三分ノ二以上ノ同意者ヲ要シ清算其他ノ事項ハ民法ノ規定ニ遵フ。
第二十五条 本定款ハ社員三分ノ二以上ノ同意アル場合ニ限リ之ヲ変更スルヲ得。
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第二十六条 職員ノ組織、業務ノ執行其他詳細ノ事項ハ、内規ヲ以テ之ヲ定ム。
  右之通定款相定候也
   明治四十四年八月十四日



〔参考〕全国社会事業名鑑 昭和二年版 中央社会事業協会編 第四七〇頁 昭和二年一〇月刊(DK310028k-0005)
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全国社会事業名鑑 昭和二年版 中央社会事業協会編
                    第四七〇頁 昭和二年一〇月刊
    ◇実費診療所
所在地  本部 東京市芝区芝口一丁目一
     支部 同浅草区新猿屋町二〇
     同  同神田区錦町三丁目二一
     同  横浜市福富町一丁目三〇
     同  大阪市南区瓦屋町四番丁二四
代表者  理事長 鈴木梅四郎
事業種別 診療
経営組織 社団法人
維持方法 事業収入・寄附金
宗教関係 なし
沿革   明治四十四年九月創立。同年十一月、社団法人の認可を受く。同四十五年三月横浜支部、同年七月浅草支部、大正三年二月四谷支部・大阪支部を夫々開始せり。大正十二年九月の震災により、芝口本部、浅草・神田・横浜の各支部を焼失せしも、翌十三年直に復興せり。
○下略