デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.16

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
2款 中国行
■綱文

第32巻 p.518-549(DK320025k) ページ画像

大正3年5月7日(1914年)

是日栄一等一行、上海ヲ発シ杭州・蘇州ノ勝ヲ探リテ九日上海ニ帰リ、翌十日同地ヲ発シテ南京ニ赴キ、十二日揚子江ヲ溯航シ、大冶・漢口・武昌ヲ経テ、十九日北京ニ至ル。二十一日、大総統袁世凱ト会見ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK320025k-0001)
第32巻 p.518-524 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第32巻 p.519 -ページ画像 
五月七日 晴 軽暖
午前六時前起床、此日杭州ヘ行クヲ以テ朝来旅装ヲ整ヘ、七時過旅宿ヲ出テ、自働車ニテ杭州行停車場ニ抵ル、一行ノ他三井物産ノ小田柿氏、日清汽船ノ木幡・山成氏等同行ス、楓径《(涇)》・嘉興等ノ停車場ヲ経過ス、車中朝飧及午飧ヲ為シ十二時過杭州府着、深沢領事ヲ始トシ本邦人数多及支那官憲ヨリ来リ迎フル者多シ、一行先ツ我領事館ニ抵ル、此間市街ヲ通過スルニ雑沓汚穢厭フベシ、領事館ニ於テ又午飧ヲ食シ深沢氏ノ嚮導ニテ西湖ヲ一覧ス(西湖ノ勝景ハ別ニ記スル所アリ)午後六時領事館ニ帰リ、更ニ都督衙門及民政局ヲ訪問ス、都督長官等ト会話ス、七時半都督府ニ於テ催ス処ノ晩飧会ニ出席ス、食卓上一場ノ謝詞ヲ述ヘ、夜十一時過宴散シテ、余ト馬越・明石・武之助四人ハ領事館ニ帰宿ス
五月八日 朝来曇ル午後ヨリ雨
午前六時起床、入浴シテ朝飧ス、食前深沢領事案内ニテ館内ヲ散歩ス七時朱都督及民政長官来訪ス、八時一行集合シテ轎ニ乗シテ領事館ヲ出テ、領事ト都督府ノ吏員トノ案内ニテ先ツ岳飛ノ墳墓ヲ奠ス、又霊陰禅寺《(隠)》(一名雲林禅寺)ニ詣ス、大寺院ナリ、寺門ヨリ本堂迄ノ間巌石ニ種々ノ仏像彫刻アリ、寺内ニ一千仏体ヲ安置ス、寺中ニ小憩シ、寺ニ関スル縁起冊子ヲ寺僧ヨリ贈ラル、夫ヨリ五山ニ上ル、唐詩ニ所謂立馬五山第一峰ナルモノナリ、杭州ノ全景一望ニ在リ、午後一時杭州総務商会ヲ訪ヒ、会員ノ催フセル午飧会ニ出席シ、一場ノ謝詞ヲ述ヘ、食後朱舜水先生ヲ祀ル土地ヲ一覧ス、朱輔基氏ノ請ニ応スルナリ
塩務公司ノ官吏来会ス、小憩シテ後停車場ニ抵ル、来リ送ル官民多人数ナリ、汽車数十分ニシテ運河口ニ抵リ、小蒸気船ニ搭ス、蘇州ニ赴クナリ、午後四時過出帆ス、深沢領事ト分ル、専管居留地ニテ民間有志ノ煙火送別アリ
(欄外記事)
 [杭蘇間ノ運河ヲ汽船ニテ〓行ス
五月九日 晴 軽暖、雨後ノ景色佳絶ナリ
昨夜小蒸気船ニテ睡眠中蘇州ニ抵ル、黒沢礼吉氏来リ迎フ、直ニ上陸シテ同氏ノ家ニ小憩シ、更ニ小船ニテ運河ヲ航シテ寒山寺ニ抵ル、寺僧茶ヲ饗ス、一覧後又一寺院ニ抵リテ鼈ヲ見ル、頗ルナリ《(脱アルカ)》、寺院ヨリ徒歩シテ蘇州鎮守使ノ開催セル饗宴ヲ受ク、会場盛宣懐氏ノ別荘ニテ壮大華麗ナリ、食卓上一場ノ謝詞ヲ述ヘ、午後一時過蘇州発ノ汽車ニテ上海ニ帰着ス、着後アストル旅館ニ於テ休憩ス、来訪スル者極テ多数ナリ、午後五時半当地商務総会其他有志者ノ開催セル宴会ニ出席ス先ツ書画ノ雅宴アリ、且ツ古書画数十幅ヲ展覧ス、席上揮毫者多シ、七時過食卓ヲ開ク、饗宴頗ル鄭重ナリ、余興トシテ支那劇アリ、時代世話等ノ四幕ヲ演ス、食卓ニテ盛宣懐ニ代リ沈仲礼氏ノ演説及周氏・孫氏等ノ演説アリ、余モ詳細ナル謝詞ヲ述フ、宴散シテ周氏ノ請ニ応シテ一酒楼ニ上リ、花妓ノ集合ヲ一覧シ、揮毫ノ余興アリテ夜一時過帰宿ス
五月十日 曇晩来小雨 気候軽寒
午前七時起床、入浴シテ衣服ヲ更メ、旅宿ノ食堂ニテ朝飧ヲ食ス、九
 - 第32巻 p.520 -ページ画像 
時黒沢氏来ル、同伴シテ英人アグレン氏ヲ訪問ス、氏ハ支那総税務司ナリ、目下問題タル支那関税改正ノ事ニ付種々ノ談話ヲ為ス、十時過日本人倶楽部ニ抵リ、同文書院ノ学生一同会合セル席ニ於テ一場ノ訓示演説ヲ為ス、十一時領事館ニ於テ茶会ニ出席シ、支那人中特ニ有力ナル唐紹儀・伍庭芳等《(伍廷芳)》ノ諸氏ト会話ス、十二時半再ヒ倶楽部ニ於テ実業協会ヨリノ饗宴ヲ受ケ、又一場ノ講演ヲ為ス、畢テ六三園・上海小学校等ヲ一覧シ、五時過旅宿ニテ衣服ヲ更メ、支那官憲ノ開催ニ係ル晩飧会ニ出席ス、食卓上主人側ニテ鄭如成ノ演説アリ、余モ之ニ答辞ヲ為シ、十時宴散シテ月ノ屋ト称スル料理屋ニ小憩シ、十一時停車場ニ抵リ、同時半発車ニテ南京ニ向フ、来リ送ル者頗ル多シ、発車後衣服ヲ更メテ汽車ニテ就寝ス
五月十一日 半晴 風強カラサルモ塵埃多シ
午前五時頃汽車鎮江ニ抵ルモ、下車セスシテ午前八時南京ニ抵ル、打田領事代理、其他数十人来リ迎フ、都督及警察署等ヨリ楽隊・騎馬護衛等ヲ以テ接待鄭重ナリ、打田氏ト同乗、馬車ニテ領事館ニ抵リ朝飧ス、朝天宮・血蹟碑《(碧血カ)》・孝陵・旧科挙場・秦淮・北極館《(閣カ)》・鶏鳴寺等ヲ一覧ス、都督衙門及民政長官庁等ヲ訪問ス、都督其他ノ官憲ニテ開催セル午飧会ニ出席シ、食卓上主人側ノ挨拶ニ答ヘテ一場ノ謝辞ヲ述フ、午後六時領事館ニ帰ル、民政長官其他数名来訪ス、午後七時過領事館ニ於テ催セル晩飧会ニ出席シ、食卓上一場ノ謝辞ヲ述フ、宴散シテ十二時寝ニ就ク、領事留守中ニナルモ館中ニ於テ宿泊ス
五月十二日 朝来雨 追日暑気ヲ催ス
午前五時半起床、直ニ旅装ヲ整ヘ、午前六時半馬車ニテ南京領事館ヲ発シ、七時下関ニ抵リ、小蒸気船ニテ長江ヲ渡リ、浦口江岸ノ新停車場及津浦鉄道ノ布設ヲ見ル、且其隣地ニ買得セル土地ヲ一見ス、此買収ハ中日実業会社外数会社ト協同シテ、将来ノ繁盛ヲ企図セルナリ、後本船襄陽ニ搭ス、南京警察署ヨリ楽隊ヲ送リ、雨中出帆ヲ送ル為メ奏楽ス、午前九時開帆、〓行中朝飧ヲ食ス、長江ノ景色雨中更ニ佳ナリ、両岸蘆荻多ク所々人家ヲ見ル、午飧後書類ヲ一覧ス、船中殊ニ閑ニシテ心神ヲ養フニ足ル、午後三時蕪湖ニ抵リ、寄港シテ小憩ス、蕪湖ハ長江東岸シテ《(ニ脱カ)》、船中ヨリ一望スルニ極メテ新進ノ市街タルヘク思ハル、船時ニ南岸ヲ通過シ、又北岸ヲ航行ス、時々汽船又ハ有名ナル大筏ノ下ルヲ見ル、其状恰モ巨船ノ如ク、数十家合同シテ筏ヲ家トスルト云フ
(欄外記事)
 津浦鉄道ノ停車場ヲ見テ、頃日来ノ荒涼ト異リ大ニ生気ヲ生スル感アリ
五月十三日 曇 暑気甚シカラス、船中ノ起居極テ平安ナリ
午前八時起床、昨夜来腹部ヲ損シテ朝来洋食ヲ喫スルヲ得ス、粥ヲ以テ朝食トス、服薬摂養ス、船中殊ニ無事ナリ、時ニ江ノ両岸ニ島嶼又ハ村落ヲ見ル、終日読書又ハ囲碁ノ傍観等ニ消閑ス、腹部ノ工合漸次快方ニテ、夜ニ入リテハ少分ノ洋食ヲ食スルヲ得ル、要書類《(重脱カ)》ノ調査等ニ勉ム
五月十四日 雨 暑気昨日ト同ク、大冶鉱一覧ノ為ニハ雨中却テ便宜
 - 第32巻 p.521 -ページ画像 
アルカ如シ
午前七時起床、朝飧ヲ食シ甲板上ヲ散歩シテ長江両岸ノ景色ヲ眺望シ且角田氏其他土地通暁ノ人ヨリ説明ヲ聞ク、時々両岸ニ村落洲渚等ヲ見ル、午前八時過大冶ニ着、直ニ上陸シテ西沢氏ノ家ニ休憩ス、但氏ハ船ノ着岸ヲ待テ迎ノ為メ来訪セラレタリ、其他此地居住ノ邦人及支那人モ多人数来リ迎フ、休足後朝飧ヲ食シ、畢テ汽車ニテ大冶鉄山ヲ一覧ス、河岸ヨリ山麓マテ十六哩ナリト云フ、運鉱車ナレトモ客車ノ体ヲ備フ、鉱山ノ景況ハ別ニ記載スヘキモ、実ニ稀ニ見ルノ大鉄山ニテ曾テ米国ビューテニ於テ一覧セシモノヨリモ更ニ便ニシテ大ナルノ感アリ、只採掘ノ方法、運搬ノ設備、未タ以テ完全ト云フヘカラサルモノアリ、西沢氏同行、詳細ノ説明アリ、インクラインニテ山ノ中腹ニ抵リ、採掘ノ現状ヲ視察ス、畢テ帰途旧採掘ノ跡ヲ一覧ス、唐時代ノ由言伝フ、一覧畢テ西沢氏ノ家ニテ入浴シ、且充分休息ス、此夜地方日支人集合ノ晩飧会ヲ開カル、食卓上一場ノ謝辞ヲ述フ、夜十一時大貞丸来着、直ニ上船出帆セリ
五月十五日 晴 朝来暑気俄ニ加ル
午前七時起床、船中ニテ入浴シ後朝飧ヲ食ス、十時漢口碼頭ニ到着ス移住邦人及支那人多人数来リ迎フ、本船ヲ辞シ直ニ小蒸気船ニテ漢水ヲ遡リテ、漠陽鉄廠ニ至ル、事務主任者タル呉氏、他ノ支那人ト共ニ来リ迎フ、直ニ案内シテ工場ヲ一覧ス、廠広大ナラサルモ新式ノ設備アリ、只職工ノ動作少ク怠懣《(慢)》ノ状アリ、場内ノ整理甚タ不規則ナリ、最後ニ大鎔鉱炉ヲ一覧ス、極テ新式ナリト云フ、一覧畢リテ場内ニ於テ午飧ノ饗応アリ、食卓ニテ主人ノ挨拶ニ応シテ謝詞ヲ述ヘ、去リテ実業同志会ノ催フ《(スカ)》処ノ会場ニ抵リ、一場ノ訓示演説ヲ為ス、後旅宿ニテ衣服ヲ更メ、午後七時領事館ニ催ス処ノ晩飧会ニ出席ス、食卓上一場ノ演説ヲ為シ、宴散シテ後高橋副領事ト種々ノ談話ヲ為シ、夜十一時旅宿ニ帰リ、十二時就寝ス
(欄外記事)
 ターミスホテル
 北京水野氏ヨリ来状アリ、直ニ返書ヲ発シテ北京滞在中ノ諸事ヲ依頼シ遣ハス
五月十六日 晴 朝来暑気強シ、然レトモ微風アリテ熱ニ至ラス
午前六時起床、入浴シテ後阪谷氏ヘ書状ヲ作ル、八時一同ト共ニ朝飧シ後日記ヲ編成ス、食後漢口税関ニ雇レ居ル邦人松永義愛氏来訪ス、十時領事高橋氏来ル、相共ニ小蒸気船ニテ長江ヲ渡リテ武昌ニ至リ都督府ヲ訪問ス、河岸ニ多数ノ巡査ヲ出シテ警備頗ル厳ナリ、都督段志貴其他師団長以下ノ武官数名同席ス、民政長官モ列席、我海陸軍士官モ来会ス、都督ト会話ノ後、午飧会開カル、調理頗ル佳味ニシテ且鄭重ナリ、宴散シテ衙門ヲ辞シ、更ニ官銭局ニ至リ高如松氏ニ会談ス、高氏ハ八年前来朝ノ時再三会談シ、銀行業務ニ付テ種々ノ質問ヲ受ケタルナリ、暫時会談ノ後辞去、帰途黄鶴楼ヲ一覧シ、河岸ヨリ小蒸気船ニテ江ヲ渡リテ領事館ニ抵リ休憩ス、午後五時都督・民政長官其他ノ武官等軍艦ニテ当方ヲ訪問ス、畢テ旅館ニ帰リ衣服ヲ更メ、今夕開催セル当地商務総会ノ晩飧会ニ出席ス、食卓上一場ノ謝詞ヲ述ヘ、夜
 - 第32巻 p.522 -ページ画像 
十一時散会、旅宿ニ帰宿ス
五月十七日 晴 暑気強キモ風涼シ
午前六時起床、入浴シテ後書類ヲ調査ス、八時朝飧ヲ食ス、畢テ日記ヲ編成シ、明日北京行ニ付鉄路ノ列車及荷物等ノ事ヲ指揮ス、午前九時ヨリ小蒸気船ニテ漢水ヲ遡ル事三里許リ《(ニ脱)》シテ東亜製粉会社ニ抵リ、田村主任迎ヘテ直ニ工場ヲ一覧ス、四層楼アリ、楼上田園ノ光景佳絶ナリ、工場ノ状況ヲ一覧ス、頗ル整頓セリ、原料ノ供給、工務ノ順序及販売ノ方法等順次説明セラル、頗ル要ヲ得タリ、一覧了リテ午飧ヲ饗セラル、食後揮毫ヲ試ミ、畢リテ船ニテ往路ヲ下リ、三時旅宿ニ帰ル、後高等商業学校出身者ノ開催セル同窓会ニ出席シテ、一場ノ談話ヲ為ス、畢テ高如松氏ノ来訪ヲ受ク、午後七時日本人倶楽部ノ開催セル歓迎会ニ出席ス、来会者百余名ニシテ盛況ナリ、食卓上会長ノ歓迎辞ニ答ヘテ一場ノ演説ヲ為ス、畢テ三芳ト称スル割烹店ニ抵リ、暫時休憩シ且夜食ヲ為シ、夜十一時頃帰宿ス
(欄外記事)
 [東亜製粉会社ニテ午飧、日本人クラブニテ晩飧
五月十八日 半晴 暑気強シ
朝来暑気強ク風少シ、午前六時起床、直ニ入浴シテ旅装ヲ整ヘ、朝飧後京漢鉄道ノ停車場ニ抵ル、送別スル日支両国人頗ル多シ、九時発車各駅ヲ経午後一時半午飧ス、北京ヨリ迎ノ為メニ来レル梁兆元氏同車シテ百事周旋ス、列車賃ハ支那政府ヨリ特別ニ支給セラレ、車中ノ食事ハ楊士琦氏ニ於テ饗応ノ由ナリ、車中ノ光景只渺茫トシテ麦圃ヲ見ルノミ、時々左方又ハ右方ニ於テ小邱ヲ見ル、鶏口山ヲ右方ニ見ル、漢口人ノ避暑地ナル由ナリ、群山中ニ屹立シテ鶏ノ貌アルヲ以テ名アリト云フ、此夜十二時頃黄河鉄橋ヲ通過ス、但就寝後ナレハ特ニ一覧ハセサリキ、車中平安ニシテ読書ニ便ナリ、京漢旅行指南ノ一書ヲ通覧ス
(欄外記事)
 [六時起床、七時朝食、一時半午飧、七時晩飧
五月十九日 半晴 朝来気候大ニ涼シ
朝来大ニ涼味アリ、蓋シ漢口ヨリ漸次北方ニ走行スルヲ以テナリ、昨夕ヨリ歯痛アリ、堀井医師ニ手当ヲ請フ、午後ニ至リテ追々快方ニ赴ク、各車站ニ名所古蹟アルモ、只旅行指南ニヨリテ之ヲ見ルノミ、午後五時過列車北京ニ達ス、停車場ニ来リ迎フル者多シ、山座公使・水野参事官、其他公使館又ハ在留商店ノ人々皆来会ス、支那官憲ノ吏員モ多人数来ル、一同無事着ヲ賀スルノ旨ヲ述ヘラル、自働車ニテ北京ナルグランド・ホテルニ投宿ス、山座・水野及曹外務次官・孫多森氏其他内外ノ人士多ク来リテ安着ヲ祝ス、六時楊士琦氏来訪ス、暫時休憩後、向氏ナル支那人ノ来訪ヲ受ケ、午後七時ヨリ公使館ニ抵リ、山座公使ノ晩飧会ニ出席ス、食事前後ニ於テ、本邦出発前其筋トノ交渉顛末及旅行中ノ事共ヲ詳細ニ山座氏ト談話ス、夜十一時帰宿、東京ヨリノ来書ヲ一覧ス
(欄外記事)
 [七時過朝飧、一時半午飧ス
 - 第32巻 p.523 -ページ画像 
五月二十日 晴 風少ナクシテ暑気昨日ト同シ
朝来入浴シテ衣服ヲ整ヘ、七時過朝飧ヲ食ス、後日本ヨリ到来セル書状ヲ一覧シ返信ノ事ヲ処理ス、又日記ヲ編成ス、本邦中野武営氏及八十島親徳氏等ヘ詳細ノ書状ヲ送ル、正午ヨリ正金銀行支店小田切氏ヨリノ案内ニテ其宅ニ於テ午飧会アリ、民国官民中有力ノ人士多ク来会ス、食卓上主人ノ挨拶ニ答ヘテ一場ノ演説ヲ為ス、食後山座公使ト共ニ民国官憲諸方ヲ訪問ス、国務卿・外交総長、其他数所アリ、到処日支実業聯絡ニ付テ種々意見ヲ交換ス、夕方旅宿ニ帰リテ暫時休憩シ、午後六時ヨリ本邦居留民ノ開催セル宴会ニ出席ス、食事畢テ亀井順三時報社主挨拶アリ、余モ一場ノ答詞ヲ述ヘ、来会者一同歓声中ニ散会ス、夜十時過帰寓、十二時就寝
(欄外記事)
 [七時過朝飧ス
五月二十一日 晴 風ナクシテ暑気強シ
午前六時起床、例ノ如ク入浴シテ朝飧ヲ食ス、午前九時ヨリ山座公使ト共ニ昨日訪問シ得サリシ当地ノ官憲ヲ往訪シテ、余カ此旅行ノ趣旨ヲ詳話ス
正午ヨリ早稲田大学出身ノ民国人ヨリ案内セラレテ校友会ニ出席ス、場処ハ曾テ張之洞氏ノ経始ア《(リ脱)》タル畿補学院ト称スルモノナリ、食卓上主人ヲ代表シテ林氏ヨリ挨拶アリ、余モ一場ノ答詞ヲ述ヘ、二時半帰寓、更ニ衣服ヲ更メテ山座公使ノ先導ニテ、袁大総統謁見ノ為其居所ニ抵ル、宮城中南海ノ側ニ在リ、謁見ノ式極メテ簡易ニシテ、握手坐談頗ル懇篤ナリ、且両国実業ノ聯絡ヲ企図スル旨ヲ詳話セラレ、中日実業ノ設立ニ意ヲ用ヘラレシ事ヲ述ヘ、将来余ノ尽力ヲ請ハル、款談三十分計ニテ辞リ《(シ)》去リ、更ニ官中《(マヽ)》ナル詰所ニ於テ楊士琦氏ニ面会シテ要務ヲ談ス、協議尽ルニ至ラス、尚明後日ヲ約シテ去ル、六時帰寓後衣服ヲ日本装ニ更メテ、七時孫宝琦氏ノ招宴ニ抵リ、洋式ノ支那料理ニテ頗ル鄭重ナリ、食卓上主人ノ挨拶ニ答ヘテ一場ノ演説ヲ為ス、夜十時散会帰宿ス
五月二十二日 半晴 暑気強クシテ炎熱ニ近シ、夜ニ入リ雷鳴シテ驟雨来ル
午前六時起床、入浴シテ高尾氏ノ来書アリ、水野参事官ノ病ヲ報シ来ル、直ニ馬越・増田氏等ト之ヲ見舞フ、病ハ腹瘼炎《(膜)》ニシテ、今日手術切開スル見込ナリト主治医ノ説明アリ、八時帰宿朝飧、午前九時一行打揃フテ万寿山ニ抵ル、鄭書記官案内セラル、北京城ヲ距ル三里、自働車ニテ五十分ヲ以テ到着ス、先ツ休憩シテ各所ヲ歴覧シ、船ニ乗リテ湖水ヲ渡リ、中央ノ島嶼ニ上陸シ、更ニ大石橋ヲ過キテ一覧畢ル、其構造ノ宏大精美、観ルヘキナリ、只漸ク荒廃ニ委スルノ恐アリ、歎スヘキナリ、午後一時植物苑ニ抵ル、章宗祥総長ヨリ案内アリタルナリ、園中ノ新築居宅ニテ午飧ヲ饗セラル、会スル者五六十名、卓上一場ノ演説ヲ為ス、食事畢テ五時鄭氏ト共ニ熊希齢氏ヲ其宅ニ訪ヒ、種種政事上及実業上ノ談話ヲ為ス、時ニ孫宝琦モ来会ス、六時帰宿、衣服ヲ更メ七時徐国務卿ノ晩飧会ニ赴ク、会スル者主人ヲ合セテ九名、家庭的小宴ナリシモ接待及料理食器等意ヲ尽セシ観アリ、食後楊士琦
 - 第32巻 p.524 -ページ画像 
氏ト共ニ徐首相ニ面会シテ、中日会社ノ事ニ関シ種々談話ス、夜十時帰宿ス
五月二十三日 晴 涼風アレトモ暑気強シ
昨夜雷雨アリシ為メ、朝来殊ニ清爽ヲ覚フ、六時起床、入浴シテ支度ヲ整フ、七時半北京城壁ノ上ニ抵リテ四方ヲ展望ス、此辺外国居留地ニ接近スルヲ以テ、城壁上石ニテ散歩道ヲ設ケアリテ歩行自由ナリ、一覧畢リテ帰宿朝飧ヲ食ス、後水野氏ノ病ヲ訪フ、手術後ノ経過不良ニシテ危篤ニ陥リタリト主治医ヨリ詳細ノ説明アリ、尾崎氏ト中日実業会社ノ件ニ付協議ス、蓋シ今日午後楊士琦氏会見ノ際ニ於テ交渉スヘキ要件ヲ議定スル為メナリ、協議後水野ノ家ニテ山座公使ト会談ス午前九時過ヨリ旧宮廷ヲ一覧ス、壮大ニシテ精緻ナリ、只修理少キヲ以テ漸ク荒廃ニ委セントスルノ観アリ、惜ムヘキノ至リナリ、午後一時熊希齢・汪大爕・梁啓張三人《(梁啓超)》ヨリ招宴ノ午飧会ニ出席ス、食卓上熊氏ノ詳細ナル演説アリタルニヨリ、之ニ答ヘテ一場ノ謝詞ヲ述フ、宴散シテ再ヒ水野氏ノ病ヲ訪フ、益重症ニシテ今夕ヲ限ルトノ事ナリ、山座公使・小田切氏等ト談話ス、午後五時中日公司事務所ニ抵リ楊氏ト会談ス、尾崎氏同伴ス、一ノ覚書ヲ交付シテ其要ヲ詳話ス、畢テ宴会アリ、席上主人ノ挨拶ニ応シテ一場ノ答詞ヲ為ス、夜十一時散会、帰途又水野ヲ訪フ、既ニ死去ノ後ナリ、慨歎ノ至ナリ
五月二十四日 晴 暑気昨日ト同シ、朝嵐清爽タリ
午前六時起床、入浴シテ後日記ヲ編成ス、又本邦諸友及家族ヘノ書状ヲ認ム、午前八時朝飧ス、畢テ日記ヲ編成ス、増田・大沢二氏ニ命シテ北京土産トシテ文墨具及玉類ヲ購入セシム、此日ハ皇太后陛下ノ御大葬当日ナレハ、謹慎ノ為メ他日又《(行カ)》ハ宴会等ノ事ヲ謝絶ス、但午前ヨリ外交部総長孫宝琦氏来話ス、小田切正金銀行支店長来リテ要務ヲ談ス、独乙新聞記者来話ス、湯化竜氏林長民ト共ニ来リテ、種々ノ談話ヲ為ス、外交次長曹汝霖氏来話ス、晩飧後公使館ニ於テ御大葬遥拝式アルニ付、礼服ニテ出席ス、夜八時過ヨリ式ヲ始メ、公使先ツ礼拝シ次ニ余礼拝ス、順次十数名ニシテ式畢ル、九時過散会帰宿ス、夜書類ヲ整理ス
  ○大正三年ノ日記ニハ巻末ニ旅行中ノ漢詩ヲ記ス。左ハソノ中ノ二首ナリ。
  万寿山途上即目
万頃御溝十里隄 玉泉高聳仏香西 前車休報後塵客 一帯垂楊路不迷
  万寿山書感
霞籠御柳夕陽微 粉牆瑶台半掩扉 欲問栄華当代事 只看白鷺背人飛


竜門雑誌 第三一四号・第四二―四五頁 大正三年七月 ○青淵先生支那旅行梗概 増田明六(DK320025k-0002)
第32巻 p.524-527 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第四二―四五頁 大正三年七月
    ○青淵先生支那旅行梗概
                      増田明六
○上略
  五月七日 木曜日 晴
 午前八時上海南市停車場発特別列車にて杭州に向ふ、三井物産支店長小田柿捨次郎氏・日清汽船支店長木幡恭三氏・店員山成和四夫氏・麦酒会社員高木氏等同行、支那人側にては浙江鉄路公司員朱輔基(朱
 - 第32巻 p.525 -ページ画像 
舜水先生の後裔)氏、湯総理の代として来滬、周椒青氏(周金箴氏の息)と共に同車し斡旋の労を執る、十一時五十分杭州清泰門停車場着中日官民多数の出迎を受け、支那側の好意に依り清泰第二旅館に入り小憩、午後一時半日本領事館に於て午餐の饗を受く、午後二時半より小艇数隻を西湖に泛べ湖山の勝を探り、五時都督を訪問し、又民政長を訪ひ、七時都督府に於て一同晩餐の饗を受く、夜先生及馬越・武之助・明石の四氏は領事館に宿され、小田柿・尾高・野口の三氏は清泰第二旅館に、其他は拱宸橋碇泊の日清汽船の好意に依るハウスボートに回り宿す。
  五月八日 金曜日 晴
 午前七時前夜各所に分宿したる一同領事館に集合、轎子にて岳王墳清漣寺・霊隠寺・呉山等遊覧、午時商務総会を訪問、同所に於て一同午餐の饗を受け、午後三時朱舜水祠堂並に水戸義公予定祠堂に謁し、少憩の後特別列車にて拱宸橋に至り、午後四時同所よりハウスボート二隻に分乗、小汽艇に牽引せられ運河を航して蘇州に向ふ。
  五月九日 土曜日 晴
 午前八時蘇州蜜渡橋着、税関長黒沢礼二氏、及在留邦人の出迎を受け、同官舎に入り少憩の後、同処より更に税関小汽艇に乗じて寒山寺に至る、騎馬巡査十数騎在りて先生を護衛す、同処の見物を終り、再度舟航して西園に至り、舟を捨て見物の後、十一時留園に於ける支那官憲の招待会に臨む、日本軍楽隊に在りて多年研鑽の功を積める軍楽長の指揮に成れる軍楽の一隊あり、奏楽しつゝ先生を迎ふ、池永領事代理・黒沢税関長同席、午後零時五十分蘇州停車場発車、三時半上海に帰着、再度アストル・ハウスに入る、五時より紗業公所に於て、上海商務総会・漢冶萍公司・中日実業支那側重役の聯合招待に係る大晩餐会あり、青淵先生以下一同出席す。
  五月十日 日曜日 晴
 午前九時青淵先生は総税務司と会談、九時半同文書院に於て講演せられ、十時半総領事館に於て支那官商と会見、同十一時半アトラン氏と会見、午時実業協会主催の午餐会に臨まる、馬越・武之助・明石・尾高・増田の五氏同行、午後盛宣懐氏代李経芳氏と会見さる、武之助氏は先生の代理として野口氏同行盛氏の病気見舞に赴き、息泮臣氏に面会さる、夜先生以下一同鄭鎮守使・楊観察使主催の晩餐会に臨み、午後十一時上海発汽車にて南京に向ふ、朝鮮銀行理事三島太郎氏先生に請ふて本日より一行に加はり、日清汽船の山成和四夫氏同行す。
  五月十一日 月曜日 晴
 午前七時南京下関着、日支官民の出迎を受け、都督より特に派遣したる騎馬巡査の一隊に護衛されつゝ、青淵先生には馬越氏と共に日本領事館に入り、其他は宝来館に至りて孰れも朝食を了し、先生以下一同再度騎馬巡査に前後を護衛されつゝ、午前中朝天宮見物の後、都督府訪問、午時交渉司署に於て、午餐の饗を受け、夫より鶏鳴寺・明故宮・孝陵・秦淮等を見物して、民政司署を訪問し、夜日本領事館に於て一同晩餐の饗を受く。
  五月十二日 火曜日 雨
 - 第32巻 p.526 -ページ画像 
 朝出立、下関に至り青淵先生には対岸浦口を視察の後、一行と共に襄陽丸に乗船す、角田日清漢口支店長及吉田麦酒会社員・周椒青の三氏、本船に於て一行と合し溯江す、此日下関出帆の際、恰も大雨に会す、都督より派遣されたる音楽隊、豪雨中に在りて奏楽し先生の行を送る。
  五月十三日 水曜日 曇
 午後二時襄陽丸九江に着、一同上陸、先生には日清汽船会社出張所に於て在潯日支官民に会談され、午後四時帰船、特に緩速力を以て溯航、夜靳州上流に至り江中に投錨。
  五月十四日 木曜日 晴
 未明出帆、五時石灰密江面に投錨、漢冶萍所属の小蒸気にて西沢公雄氏夫妻等の出迎を受け、石灰密に上陸、西沢氏方に於て朝食の饗を受け、同氏の案内にて先生以下一同特別汽車に乗し、大冶獅子山鉄鉱に至り視察の後、鉱山事務所に於て午餐の饗を受け、午後更に老鉄山下に赴き古鉄渣見物の上、石灰密に回り、夕製鉄所出張所事務室に於て大冶日支官民の晩餐会に一同出席、夜十一時上海より上航の大貞丸に搭乗溯江。
  五月十五日 金曜日 晴
 午前九時漢口着、中日官民多数の出迎を受く、青淵先生以下一同直ちに小汽艇にて漢陽の鉄廠に赴き、呉健氏の案内にて作業の状態を視察、午時同所に於て午餐の饗を受く、午後日本人実業同志会に臨席、又市中見物の上ターミナス・ホテルに入り、夕総領事館に於て晩餐の饗を受く、在漢日支官民多数の出席あり。
  五月十六日 土曜日 晴
 朝小蒸汽にて青淵先生以下一同武昌に赴き、都督府訪問、午時同所に於て午餐の饗を受け、午後市街見物、三時官銭局訪問、同所にて茶菓の饗を受く、夜商務総会主催の晩餐会に出席す、此夜中日実業公司総裁楊士琦氏より先生以下一行接待の為め遣はされたる同社員梁兆元氏到着す。
  五月十七日 日曜日 晴
 朝小蒸汽にて一同東亜製粉会社に至り、工場視察、同所に於て午餐の饗を受く、午後青淵先生にはターミナス・ホテル内に催されたる東京高等商業同窓会茶話会に臨み、夜日本人倶楽部に於て居留邦人開催の晩餐会に一同出席す。
  五月十八日 月曜日 晴
 午前九時大智門停車場発、北京に向ふ、梁兆元氏同車斡旋の任に当る、上海より同行せし周椒青氏は此所にて分る、一行は十三名の外、吉田麦酒会社員を増す、終日車上の客となり夜黄河を渉る。
  五月十九日 火曜日 晴
 午後五時北京正陽門停車場着、中日両国官民の出迎人頗る多し、先着の中日実業会社尾崎敬義・藤井元弌の両氏、長辛店停車場迄出迎はれ、同車入京後直ちに六国飯店グランド・ホテルに入る、夜山座公使は非公式の晩餐会を開き一同を招待す。
  五月二十日 水曜日 晴
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 青淵先生は山座公使と共に、午前十時より梁士詔氏・孫外交総長・梁啓超の諸氏を往訪、午時裱〓胡同の正金社宅に於ける同行小田切万寿之助氏の催にかゝる午餐会に出席の後、午後より再度山座公使と共に国務卿・農商総長及汪大爕氏を訪問、一と先帰宿し、夜在留邦人の催に係る大和倶楽部の晩餐会に一同を率ゐて出席す、此日公使館参事官水野幸吉氏、正金の午餐会に出席中発病、急遽中座して帰宅せられたり。
  五月二十一日 木曜日 晴
 青淵先生は、午前十時より山座公使と共に鄭書記官同伴、財政・交通・内務・教育の各総長を訪問し、午後一時早稲田大学出身者同学会よりの招待午餐会に出席の後、一と先帰宿、午後四時渋沢武之助・明石・馬越・尾高・三島・尾崎の六氏と共に、山座公使及鄭書記官の案内にて袁大総統に謁見、同五時尾崎・鄭の両氏と共に楊士琦と会見、夜孫外交総長の晩餐会に出席したり。
  五月二十二日 金曜日 晴
 午前十時外交部派遣の呂烈煌氏の案内にて、青淵先生を始め一同万寿山拝観、当日は特に昆明湖に舟を泛べ、各宮殿は悉く開扉し内部の拝観を許し、石舫に於て茶菓の饗あり、午後農事試験場に於ける農商総長の午餐会に出席の後、植物園及動物園参観、同五時先生は山座公使と共に鄭書記官同伴、熊希齢氏訪問、夜国務卿の晩餐会に出席したり。
  五月二十三日 土曜日 晴
 午前九時、前日同様同氏の案内にて、青淵先生始め一同旧皇城内拝観、了りて旧禁苑拝観、当日は特に小艇二隻を北海に泛べて一行の遊覧に充つ、午時熊希齢氏の午餐会あり、先生外六氏出席され、他は帰宿す、午後五時先生は尾崎氏と共に楊士琦氏往訪、夜同氏邸にて催されたる中日実業会社の晩餐会に先生外一同出席す。去二十日病気に罹りし水野参事官は、百方治療を尽されしも天遂に年を仮さず、本日逝去せられたり、先生を始め一同愕然たり。
  五月二十四日 日曜日 晴
 御大葬当日に付謹慎の意を表し、青淵先生以下終日在宿、張外交総長・湯化竜氏・李盛鐸氏等先生を来訪して長時の会談をなせり、午後八時公使館に於て 昭憲皇太后陛下御大葬遥拝式あり、一同参拝せり
○下略


竜門雑誌 第三三六号・第八九―一一二頁 大正五年五月 渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概(DK320025k-0003)
第32巻 p.527-545 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第八九―一一二頁 大正五年五月
    渋沢男爵支那漫遊中の演説及談話の梗概
○上略
 杭州第一日
  五月七日 木曜日
朝七時滬杭鉄道によりて杭州に赴く、此日天気晴朗、空しく俗事にのみ没頭するに忍びず、依て領事館予定の日程を変更し、午餐後画舫並に小艇を浮べて西湖の風光を観る、六時半に至り都督朱瑞氏を訪ふ、先づ挨拶の順序は例の如く、都督は浙江観光団歓迎の謝辞を述べ、男
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爵は切に都督の渡日を勧誘せられたり、次に民政長を訪問せられしは既に日没の後なりき、挨拶終りて民政長は、観光団一体の観察として日本人の一行待遇の頗る懇篤なりしこと、又日本に於ける各種工業の発展の意想外なりしことなど陳述しければ、男爵は『寔に然り、総じて事物は百聞は一見に如かず、西湖風光の優美なるは久しく耳にせし所なるが、今や目親しく絶景に接し、転た低徊去るに忍びざるものあり、かく時刻を失して、礼を貴下に欠きたるも、これ実に予の罪に非ず』と連りに西湖の佳景を推奨せられたり
後直ちに引返して都督府に於ける晩餐会に臨む、会するもの此地の重なる官民凡そ三十四五名、宴終る頃ほひ都督は民政長と共に起立
 貴邦人の此地方に来るもの少しとせず、されど未だ曾て男爵の如く重望令聞ある名士を迎へたることなし、曩日当地観光団の渡来に際しては斡旋頗る力められ、感謝の辞なし、願はくば更に此夜経済上の高見を吐露せられ、吾人の蒙を啓かれんことを切望す
と述べたるに対し、男爵は懇ろに其好意を謝し、再び口を極めて西湖の風光の絶佳を激賞し、進んで渡支の目的を詳述して実業の発展の由来に論及し、最後に実業の進歩が動もすれば天然の風光を毀損するを慨嘆して、永く西湖に背くなからんことを勧告せられたり、宴の撤せられしは十一時を過ぎ、一行は数ケ所に分宿したれば、彼我安否を気遣ひつゝ就眠せり。
 杭州第二日
  五月八日 金曜日
朝七時、領事館に集合、一同轎に乗じて西湖を周遊し、岳飛廟・王泉寺・霊隠寺を経て呉山に登る、十二時商務総会の午餐に招かれ、総理が会員約四十名を代表し昨夕都督の述べたると略同一の趣旨を以て歓迎したるに対し、男爵は復た懇切なる感謝の意を致して後曰く
 此地方が我国と交通するや、其の由つて来る短しとなさゞるは、我国の衣服は総て之を呉服と呼ぶの一事を以てするも明白なり、かゝる地方より有力なる実業家が来遊せられしに際し、聊か遠来の労を犒ひたるは、予の衷心喜悦する所なりしなり、然るにかくの如き微意の表彰に対し、今日の如き盛宴を張りて歓迎且つ感謝の言辞を述べらるゝは、これ所謂鰕を以て鯛を釣るの類と云ふべくして、真に慚愧に堪へざるなり、但これによりて予は歓迎の負債を諸賢に負ひたりとは思はずして、寧ろ反対に諸賢をして我国に来遊する負債を負はしめたるべきを感ずるなり。

云々と諧謔し、猶ほ聊か実業上の聯絡につきても演述せられたり。
会宴終りて現時の塩務処に赴き、朱舜水の祠の建立せらるべき地を一覧して、午後三時拱震橋より乗船、隋の煬帝の穿てりと称せらるゝ大運河を北に溯る、此夜は小蒸汽船中に眠る。
 蘇州及上海帰還第二日
  五月九日 土曜日
午前八時蘇州税関碼頭に上陸す、黒沢税関長の官邸にて茶菓の饗応あり、再び小蒸汽船にて寒山寺に向ふ、寺は荒廃して楓橋々畔復た風流韻事の観るべきものなし、急ぎ辞して留園に於ける段師団長其他の催
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にかゝる歓迎午餐会に臨む、席に列りしは蘇州官民の重なる人士凡そ四十人、宴半にして頌辞の朗読ありしが、其大意は下の如し
 男爵渋沢先生の大実業家たる声名は、炳として欧亜に称道せらる、今将に蘇州に来臨す、光栄なりと謂つべし、我中日両国は古来同文同学、其親愛の程度西欧に比疇すべくもあらじ、男爵は日本実業の発展に関しては、あらゆる方面に努力到らざるなく、其功誠に顕著なり、希くば我が中国実業の精神を振作し、中国富源の開発の良法を教示せられよ云々
男爵は之に対し『かく官民打揃ひて歓迎の賛辞を述べらるゝは、余の光栄何物か之に如かん』と感謝の意を表して、渡支の目的を略述し、次に一転して
 貴邦の軍人諸賢が、実業の重要視すべきを説かるゝは余の驚喜する所にして、同時に敬服する所なり、支那の天恵に富み、其物産の豊富なるは、欧米人も亦羨望措かざる所なるが、此等富源の利用は実に目下の急務にして、支那の開発は実業の発展によりて始めて之を期待し得べし、中日実業会社の興起したるは寔に此所要を満さんが為めにして、日支実業の進歩を促す外、他に意図の存するなし、而も之が為めには天の時、地の利、人の和を要とするは論を待たず、而して予も亦支那の為め一臂の労を惜むものに非ず云々
と応酬せられたり、出発の時刻迫りたれば、宴散して直に停車場に赴く、騎兵前後を擁し、警衛の士は路傍毎十歩に直立し、宛然王者通行の慨あり、一時発車、再び上海の客となる。
上海に帰来、旅装を更ふる暇もなく、午後五時棉紗公所に於ける商務総会の歓迎会に馳せ、先づ書画雅会に臨む、支那古今の名画数十幅を陳列し、且つ席画の設あり、青淵先生及大沢氏も染筆せらる、七時着席、一行を始め在留邦人の重なるもの五十余名、主人側を合せて百名に上れり、宴会中は絶間なく支那の演劇ありて興を添へ、宴の終りに近き頃、沈仲礼氏は漢冶萍公司総理盛宣懐氏が病の為め出席する能はざるにより、其歓迎演説詞を代読せり。
 渋沢青淵男爵は日本理財の大家なり、日本実業の発展して欧米と頡抗するに至りたる人、皆明治維新の政となすと雖も、公の努力多きに居るを知らざるなり、且つ公は孔孟の教に私淑し、之によりて貨殖の道を講じ天下を治むべしとなせり、今や新学風行れて忘祖の徒多き当世に於て、聖経を尊崇して理財の功を致す者、真に宇内公一人而已云々
と辞を極めて激賞する所あり(詳しくは原文につきて見るべし)次に相継いで起ちしは周金箴及孫多森の両氏なり、共に中日実業会社の取締役にして、頃日日本に遊び帰路は男爵一行と船を同うして帰来せし人々なり、周氏は過般日本に赴きたる際、其の親しく見聞せる各方面の状態を称賛し、朝野の人士殊に渋沢男始め実業家の与へられたる便宜及待遇を感謝し、猶渋沢男の操行の堅固にして終始変る所なきを感嘆せり。
又孫氏は切りに日本農業の整頓、並に商工業の進歩せることを称揚したる後、中日両国の親睦の決して虚文の応酬に止らしむべきに非ず、
 - 第32巻 p.530 -ページ画像 
実業上に於て相琢磨して始めて親密を厚うするを得べし、今や渋沢男爵は泰岳に登り孔陵に謁せんとして来れり、好機逸す可からず、此処に一堂に会して金玉の教誨を聴かんと欲する旨の頌辞を朗読せり。
玆に於て男爵は起ちて『盛・周・孫三氏の予に対する言辞は感激に余りありと雖も、総て溢美にして敢て当らず』と冒頭を置き、次に過去二回の曾遊を追想して、上海の発展の偉大なるものあるに驚嘆せしを述べ、進んでは男爵幼時の教育は大学の修身斉家によりて薫陶せられ後、欧洲に渡航して実業の発展に注目留意するに至りたること、帰来専ら各種企業の創設進捗に努力し、聊か我国経済界の発達に資するありたるも、今や老境に入りて実業界の当務を退きしが、依然尚ほ誘導補助の関係を絶たざることを詳述したる上、更に日支の聯絡は単に同文同種と云ふ空文によらずして、勉めて実業上の利害を密着せしめて以て国交の親善を企画せざる可からざる所以を力説せられたり、猶最後に男爵独特の論語算盤の論を説明して
 世の道徳を説くものは、動もすれは実利に迂にして、而して実業に従ふものは、概ね道徳を無視するの弊を免れず、是れ実に両者共に其宜を失するものなり、蓋し実業上道徳の必要なることは、他の職務を執る場合と少しも異るなく、実業家は常に片手に論語を持ち片手に算盤を携へざる可からず、論語の説く所多種多様なりと雖も、正道によりて贏ち得たる財貨は決して卑むべきものにあらす、唯不義にして富み且つ尊きは君子は之をとらずとなせるのみ
と、論語の語数多を引照しつゝ諄々として説く所あり、且つ例によりて旅行の目的を略述して
 余は居常論語と算盤とを手にするものなるが、今回の旅行には論語のみを携帯して、算盤を持たざる積なりしなり、然るに日本に駐在せる貴国の公使睦君の言はるゝ、是非とも算盤も所持せられたしとのことなりしかば、予は論語に基ける算盤を用ふることもあるべしと答へたり、今日我邦に於ても実業家の多数が、単に算盤を主として論語の漸く忘れらんとするは歎かはしき事なり、予は道徳を主とする算盤の支那に行はれんことを希望して已まざるなり
と言ひて、頗る満堂の人士を感動せしめたり、それより村上領事代理は、邦人側陪賓一同に代りて謝辞を述べ、且つ支那の実業家も亦日本に赴きて我国人の歓迎を受けんことを希望しければ、男爵は再び起ちて『斯の如き盛大なる歓迎を受くるは、支那人諸氏に責務を負はしむると同様なるが故に、諸氏も大挙我国に渡来して日本人の歓迎を受け以て此の負債を償却せられんことを望む』と附言せられたり、かくて宴の撤せられしは夜の十二時を過ぐる十分なりき。
 上海第三日
  五月十日 日曜日
春雨蕭々たり、朝九時黒沢氏の案内にて総税務司「エフ・アグレン」氏の偶々上海に来れるを訪ふ、初対面の挨拶終りて程なく
 ア「支那に於ける日本の活動は寔に驚嘆刮目すべきものなり
 男「蓋し世人の吹聴する程にもあらざるべし
 ア「他地方のことはよく知らざれど、揚子江上に於ては真に目醒し
 - 第32巻 p.531 -ページ画像 
きものあり云々
次に「アグレン」氏は話頭を転じて
 ア「此機会に於て、目下日支両国の懸案となれる関税改革につきて閣下の高見を聴くを得べきか
 男「我国の商工業一般につきては充分に知る所なし、唯綿糸・綿布に関しては、若し改正関税にして実施せらるゝ場合に於ては、当業者の困難一方ならずと思ふ
 ア「関税改正と称するも一般的に実行するものなるが故に、其影響は著しきことはあらざるべし
 男「さりながら物には特別の場合少からず、日本の工業は素と英国に傚ひて勃興したるものなるが、未だ如何なる障害に遇ふも挫折せずと云ふ境涯に到達し居らず、此方面の困難をも高慮の中に加へられて然るべきかと思ふ
 ア「支那現下の急務は財政の改善に在り、関税改正の目的は実に此事に存す、今此改正を断行して其の得る所は僅に四千万弗に過ぎざれども、向後これが改正の効果は著大なるものあらん
 男「夫れ或は然らん、兎も角我国紡績業者の意見は帰来早々取纏め書を以て報ずることゝなすべし、参考とせられなば幸甚なり云々
辞して日本倶楽部に赴き、十時半東亜同文書院の学生三百人の為め一場の講演を与へらる、男爵は先づ渡支の由来につきて陳述せられ、其近因とも云ふべきは支那各地の漫遊視察並に中日実業会社の用務なりとて例の如く此二者を詳述し、更に語を継ぎて曰く
 溯りて考ふるに、明治二十八年本院の創立者荒尾精氏と名古屋に会見し、熟々支那問題の忽にすべからざるを感得したることあり、されど爾来内地実業界の業務に忙殺せられて寸暇なく、今日に及べり孔子は七十三歳にして薨去せられしが、予は今や之に超ゆること二歳なり、碌々伝ふべきなしと雖も、幸に年来の素志を貫徹して這回の漫遊を為すを得たるは、衷心喜悦に堪へず
と前提し、それより学生処生訓として
 諸子は今や学窓に蛍雪の労苦を積まれつゝあるが、諸子の目下の勉学たるや、之を譬ふれば唯地図の上の測量に過ぎず、唯一寸二寸と指示すれば事容易なるが如しと雖も、地図の実地につき旅行するに当りてや、高山あり、大川あり、渓谷あり、森林あり、幾多困難辛苦に遭遇することならん、かゝる時に際し勇往邁進するは可なり、而も他人を排擠陥穽して己れ独り先せんとするが如きは、断じて可ならざるなり、されば夫子は己れの欲せざる所人に施す勿れと教へられたり、換言すれば忠恕の道これのみ、此道や人に強ゆるも過なし、強ゆべきは実に忠恕の道あるのみ
と、凡そ四十分許り懇々訓戒を垂れられたり。
十一時過領事館に茶話会あり、日支両国人十数名参会す、談話は宗教談・実業談等滾々として尽きず、最後に孫多森が連りに男爵の人格を称賛し、日々益畏敬の念の増加する旨を吐露したるに対し、男爵も懇切なる謝辞を述べ、且つ吾人は何事にも協同的融和的ならざる可からざることを論ぜられたり。
 - 第32巻 p.532 -ページ画像 
十二時には実業協会の午餐会に臨む、宴半にして児玉会長は、協会成立の由来より其将来に対する希望を略述し、又現時の急務として米輸出禁止問題及関税改正問題の二者を提供し、男爵の教を請へり、之に対して男爵は簡単に謝辞を述ぶるに止め、問題に対する意見は後の談話に譲るべしとて、宴を終りて直ちに三百名の同胞多くは青年実業家に向ひ一場の講話を試みらる。
 かく多人数来会せられしも、多くは初対面なるべし、されど諸君の中には予の関係を持てる商店に勤めらるゝ人々も少からざるべしと思はる、凡そ人の海外を旅行して第一の愉快なるは、多数の同胞諸子に会晤するに勝れるものなし。
と、先づ喜悦の情を述べて後、支那渡来の理由につきて委曲語る所あり、更に
 支那の将来と日本の地位とに想到して向後如何なる方針を以て業務に従事すべきかと云はゞ、論ずるまでもなく我利一偏は断じて不可なり、蓋し私利と公益とは決して相背馳するものにあらず、仁義道徳と生産殖利とは全然一致するものなり、諸君にして国家の利益を進むるの心を以つて其業務に精励せられなば、自己一身の私利も自ら其間に保護せらるゝものなり、支那目下の人情を観察するに、孔孟の教旨蕩然地を掃つて尋ぬるに由なきが如しと雖も、人誰れか善を善とし悪を悪となさゞるものあらんや、若し吾人にして忠恕の道を以てこれに接せば、支那人と雖も終には真実に感謝せずと謂ふを得んや、もし欧米人は非道を以てし吾人は王道に拠るとせば、最後の勝は必ず吾人に存すべし、支那現在の人には伝はらずして単に遺書によりて伝はれるも、吾人は勉めて孔子の遺教に従ひて事業を経営せざるべからず、経に謂はずや、君子は戦はず、戦へば必ず勝つと、惟ふに仁義道徳に勝つ武器は何れの地にも存するなし、予は現に銀行を業とす、決して金銭の計算に迂なるものに非ずと信ず、而して予は又孔子の教を奉じて日常の業務を経営す、而も未だ甚しく貧せざるなり、諸君も亦切に古聖の教旨を遵奉せられんことを望む
と支那在留邦人に頂門の一針を加へられたり、終りに別室に於て重なる協会員と関税問題につきて意見の交換をなし、出でゝ六三園及小学校を訪問せられたり、午後四時領事館に於て、李維格と会見せらる、李氏は盛宣懐の代理として来れるなり、男爵は盛氏の病状につき慇懃に尋問せられて後、漢冶萍会社に対する日本の元老諸公並に政治当局者の企望を陳述し、而して会社の現状につきて糺す所あり、李氏は包蔵するなく一々明細に答弁せり、最後に『若し将来予にして何等か微力を尽すべき場合あらんには毫も之を吝まず』との男爵の申出に対して李氏は唯『多謝々々、されど現時に於ては尊公を煩はすべきものあるなし』と答へたり。
夜七時支那官憲の歓迎会あり、鄭上海鎮守使・薩淞滬警察督弁・虞上海観察使代理の主催にかゝる宴は、江蘇交渉公署に於て開かる、列席する日支両国人凡そ八十名、宴半にして鄭汝成氏歓迎の辞を述べ、次で男爵が過去五十年間日本実業界の大立者として努力せられたる功績を推称し、且望むらくは尚ほ将来五十年間健全にして更に支那の為め
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に尽す所ありたりしとの意を述べければ、男爵は之を答へて曰く
 予が菲徳に拘らず、かく当地に於てのみならず、蘇州に、杭州に、到る処連日熱誠溢るゝ歓待を受け、殆んど家郷に在ると同様の思あるを得せしめらるゝは、何の為めなるか、これ一は予が老齢の故なるべけれど、かく支那官憲の諸公が唯一個の老人を優遇せらるゝ所以は、諸公が我帝国と親交を厚うせむと欲する衷情の表示に外ならずと思惟す、是に由りてこれを観るも、将来日支関係の円満親密なるべきや明瞭なりと謂ふべし、支那が各種の富源に豊富なるは縷述するまでもなく、将来日支相提携して開発進展を企図せんには、欧米と角逐すること敢て難事にあらざるなり、今鄭鎮守使が予の過去の微功を賞讃せられたるは感謝に堪へず、且其勧誘に従ふて、之より大に支那の実業の為めに努力すべきは論を待たざれども、自分一人が長寿を保ちて五十年後に再び渡来したりとて、若し諸賢にして此世に存在せられざれば、予は日本の謡曲にある浦島太郎と同しくして、誰と共に快哉を語るを得べきや、されば予をして向後五十年の生命を保存せしむるには、諸賢も亦同しく長寿して以て予の再来を待たれざるべからざるなり
と興味津々たる演説を畢はられたり、此時拍手一時に起れり、九時半散会、十一時発汽車に乗じて南京に向ふ車中に眠る
 南京
  五月十一日 月曜日
早朝南京に入り、直ちに名所古蹟を巡覧す、十一時都督馮国章氏を訪問して談話の交換あり、都督は先づ遠来の労を犒ひ、実業発展の急務たるを述べ、且つ我南京に於て起すべき事業ありや如何にと問ひければ、男爵は答へて、一日の観覧にては何とも述べ難しとて、反つて此地方の物産につき、鉄道の方策につき、反問する所あり、又中日実業会社の事など懇ろに説明せられたり
十二時半交渉公署に於ける午餐会に臨む、都督は病気の為め、民政長は先約の為め、自から招宴の機会なく特に各代理を以て此宴を張りしなりとて、交渉使が遠来の労を謝し、且つ男爵の名声を敬慕して歓迎の辞を述べしに向ひ、男爵は其厚意を謝して後、南京の地が我国と交通することは頗る古き歴史に属して、久しく此地の風光に憧憬する所ありたることを言ひ、一転して経済発達の急務に論及し、軍人諸氏が予の如き実業家を歓迎せらるゝは、これ実業を重んぜらるゝ意味ならんと論断し、且つ委さに中日実業会社の成立並に性質につきて説明を加へられたり、此宴総て日本語を用ゐ通訳を経ることなし
午後も亦観覧に時を費し、五時民政長を訪問せらる、民政長が挨拶の後、実業上に関して教を請ひしかば、実業の事は単に一日の巡覧にて完全なる意見を吐露すべくもあらじ、唯今日偶々思ひつきしは古跡保存の必要なりとて、我国維新後の状態に比較して歴史上の由緒ある建築物が荒廃に委せらるゝを嘆ぜられ、今にして何とか保存の方法を講ぜられては如何にと注意せられたり
夜七時領事館の晩餐会に招待せらる、席に列するもの重なる官民四十名なり、打田領事代理極めて簡単に歓迎の挨拶をなし、男爵は謝辞を
 - 第32巻 p.534 -ページ画像 
兼ねて、渡支の目的並に中日実業会社の件につきやゝ詳しく説述し、最後に日支両国の親善は、両国実業家同志が提携し、共同の利益を増進するによりて之を能くし得べく、国交の親善は単に政治家のみに一任すべきものにあらざることを切論せられたり、十時過散会、此夜は領事館と日本旅館とに分宿す
 揚子江溯航
  五月十二日 火曜日
早天襄陽丸に投じて溯江す、三山半落青天外、二水平分白鷺洲の名句真に揚子江の光景を描写し尽して更に何等加ふべきなし、やがて近く廬山を望む、一日の静養と同時に清遊たり
 九江寄航
  五月十三日 水曜日
船は依然悠々として長江を溯れり、午後二時九江に上陸し、日清汽船会社内に於て、此地の官民二十名許りと会見せらる、中日実業会社の件、江西鉄道延長の件など話頭に上れり、程なく辞して再び船中の客となる
 大冶
  五月十四日 木曜日
午前五時船を棄てゝ大冶に上陸す、製鉄所の西沢公雄氏の宅に入りて朝餐を饗せらる、其間西沢氏は得意の快弁を以て大冶鉄山開発の由来を詳説し、一同面白く傾聴せり、それより特別列車に乗じて鉄山を見物し、其礦量の豊富にして殆んど無尽蔵なるを嘆賞しつゝ帰来、休憩の後夜は製鉄所事務所に於ける晩餐会に臨席す、宴酣なる頃氏は起ちて、渋沢男が日本実業界の泰斗たることを称道し、男爵は今回の旅行は唯一扁の漫遊に過ぎずとせらるゝも、是れが如何許り日支両国の関係に資するや量る可からずと挨拶し、之に継ぎて増祚・張政・張継祖季冠山の諸氏交々起ち、何れも辞を極めて男爵の高徳を賞賛し、中には詩を賦して贈りたるもあり、両国は唇歯輔車、相助け相倚りて二十世紀の商戦場裡に馳駆せざる可からず、而して両国々民が親睦なる経済団体を作るには、忠信誠実、孔孟の教を躬行する男爵の意を体して各其力を尽さゞる可からずと切論せり
玆に於て男爵は答辞を述べて曰く
 賛辞は感謝に堪へずと雖も、総て自ら当らず、唯予は四十年一日の如く実業の方面に微力を尽したるのみ、而して常に忠恕の道を守りて、苟も孔孟の教に違はざらんと期したり、日支両国が善隣の交誼を厚うせざるべからざるは、諸君の説の如く、又之を為すに当りては、互に忠信篤敬事に当らざるべからざるなり、予が中日実業会社の創設に力を致したる所以も、主として日支実業の聯絡を密接ならしめ、支那富源の開発に資する処あらむが為めなり、今日大冶を一覧して、其鉱料の豊富なるに驚嘆せり、而してかくの如き財源は、支那各地到る処に存すと聞く、希くは日支両国民が和衷協同して、此等富源の開拓に努力し、両国の実業の発展進歩を計りたきものなり云々
と演ぜられ、宴撤して後直ちに乗船す、時既に十一時
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 漢口第一日
  五月十五日 金曜日
午前九時漢口に着して上陸後、直ちに漢陽鉄廠を視察す、総弁呉健氏は、男爵一行を、主賓として午餐会を催ふし、席上述べたる歓迎の辞は大要左の如し
 渋沢男爵は日本実業界の泰斗にして、其功績の顕著なる洽く人の知る所なり、今や弊邦に来遊し当地に到著するや、先づ弊廠を訪はれたるは弊廠の名誉譬ふるにものなし、惟ふに支那の現状の不安定なる恰日本封建時代の如し、男爵が過去に於て苦辛せられたる経歴に照して、今日弊邦の状勢を視察せられなば、蓋し思半ばに過ぐるものあるべし、吾人は此点に於て男爵の高教を待つや頗る切なり、若し仮りに「カーネギー」「ロツクフヱラー」の如き産業界の偉人にして我邦に遊びたりとするも、到底男爵の如き適切なる忠言を与ふるを得ざるべし、凡そ両国の平和を永遠に維持せんと欲せば、経済関係を密接ならしむるに如くはなし、吾人は男爵今回の旅行が中日両国の国利を増進し、且つ其親交上多大の効果あるべきを期待するものなり、吾人の男爵を歓迎する所以、実に此に存す
此演説に対し男爵は
 予等一行が当地に着するや、第一に貴廠に於て盛宴を張られたる好意を感謝す、殊に総弁が用務多忙の身を以て、親しく工廠を案内して、丁寧に説明の労を取られたるは、真に感謝に堪へざる所なり、抑予が今回の来遊は、貴国の風光を観賞せんが為めにして、多年の宿望を達するあり、されば上海に、蘇州に、杭州に、南京に、各地到る処、専ら名所旧蹟を探訪したる次第なり、爾来貴国々土の広大なること、其財源の豊富なることを観て、転た羨望に堪へざるものあり、昨日は大冶の鉱山を一覧したるに、其鉱脈の無限なるには実に驚嘆せざるを得ざるなり、往年予は米国「モンタナ」州「ビユーテ」の鉄山を見て、其規模の世界に著名なるを聞知せしが、大冶の如きは更に勝る所あるを覚ゆ、又此の漢口の地たる、米国の市俄古我国の大阪に比すべくして、而も豊饒なる天恵の富源に近接し、加之交通の便四通八達にして、将来工業地として発展すべきは期して待つべきなり、呉君は日支両国の経済関係を密着せしめ、之によりて両国の平和的進歩を企図する旨を述べられしが、余も亦全然同感を有するものにして、曩に中日実業会社の成立に微力を尽したる所以も、亦此企業を達せむとするに在り、されば予は進んで此機関を利用して貴国富源の開発に勉め、以て両国の実業関係の聯絡を密切ならしめんと欲し、老躯をも厭はずして一臂の力を添ふる所なり、想ふに両国民は素と孔孟の徒弟なり、殊に予は幼少より孔子教に薫陶せられたれば、貴国人と会見するは、他国人に対するが如き感なくして、飽迄も同文同種の情誼を厚うせむと欲するなり云々
次に萍薌炭坑総弁蘆鴻蒼氏も亦起ちて簡単に男爵歓迎の辞を述べて宴終り、帰途は漢口の実業同志会の茶話会に招待せられ、小川愛次郎氏男爵を一同に紹介して『渋沢男は七十六歳の老齢にして日本実業界の元老たり、支那に於ける事業開発の急先鋒として活溌々地の商戦に従
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事する吾人青年に対し教示せられんこと請ふ』と述べたるに対し、男爵は静かに講演を始められ
 唯今予は七十六歳の老人なりと紹介せられしも、一歳若くして七十五歳なり、さて何事をなすにも皆階段あり秩序あり、海外に於ける事業経営の困難なるは論ずるまでもなけれど、総じて突飛なる飛躍を謀るは不可なり、予は四十年来孔子教に拠りて実業に従事して居常忠恕の道を踏み違へざる積りなるが、支那に在留し各種の事業に就かるゝ同胞諸君も、亦斯道によりて経営せられんことを希ふ、過般の革命以来、支那人の多数は外人の来遊を見れば直ちに利権を得んが為めに来れるものなるが如く思惟す、予は此猜疑心を釈きて、中心より協和を謀るは目下の急務に属するものと思惟す、而して此点に付ては特に諸君の注意を請はざるを得ず、蓋し外人が資本を供給して支那の富源を開発するも、供給者たる外人は少分の利益を得るに過ぎずして、被供給者たる支那人は過半の利益に浴するなり、支那人にして此等の消息を知るに至らんか、日本の支那に於ける経済上の聯絡も円満にして、且つ偉大なるものあるべし、長江筋に於ける英国の施設を見るに、極めて徐々たるが如きも、一歩々々と利益を進捗せしめつゝあるに非ずや、諸君の任や重くして其道は尚ほ遠し、諸君請ふ奮励せられむことを
猶二・三談話を交えて旅館に入り旅装を解きて、夜七時領事館の晩餐会に赴く、日支両国の重なる人々四十余名、例によりて高橋領事の歓迎の辞あり、又支那人側に向ひては充分男爵の意見を聴取すると同時に、胸襟を開きて男爵と談論を上下し、以て本夕の会合をして一の形式に終らしめず、日支の実業関係上何等か貢献する所あらんことを切望せり
之に次ぎて此地商務総会総理代理李紫雲氏も亦歓迎の挨拶を述べ『男爵は啻に日本に於て著名の大実業家たるのみならず、実に東亜に於ける大財政家たれば、希くは此機会を以て、篤と此国実業界の現況を視察せられ、帰国の後も弊邦の発展に助力せられんことを望む』と演べたり
此に於て男爵は支那来遊の目的より説き起し、到着以来各地に於る歓迎の盛況に対しては感謝に堪へざる次第を吐露し、更に十日間の実地の見聞によりて、支那に於ける富源の予想以上なるを賞賛し、大冶の如き其礦石の殆んど無尽蔵なることを述べて後、曰く
 天は二物を与へずと聞く、即ち角あるものには翼を附せず、今や支那の揚子江流域を見るに、無限の富源に加ふるに水陸交通の至便を以てす、誠に嘆美に堪へざるなり、即ち天の時、地の利は既にあり若し更に之に仮すに人の和を以てせば、此国将来の発達進歩蓋し測る可からざるものあらん、此点に於て支那実業家の奮励努力を翹望せざるを得ず
と奨励し、更に進んで日支両国実業関係の連鎖たるべき中日実業会社の設立に論及し、最後に将来予は諸賢の希望に従ひて日支実業の発達に努力すべきことを明言せられたり
斯くて後雑談数刻、十一時半散会せり
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 漢口第二日
  五月十六日 土曜日
午前十時高橋領事に案内せられて武昌に赴き、都督府の午餐会に列せり、卓上形式的の演説はなかりしも、其前男爵は段都督及呂民政長と慇懃なる談話を交換せられたり、男爵は例によりて旅行の目的並に世間の揣摩憶測の為め迷惑する次第より説き起し、日支関係の淵源する所浅からず、例へば旧日本文明の代表たる奈良朝時代の如きも皆唐朝の制度文物を模倣したるものなることを述べ、併せて自己の経歴を附説し、更に将来の国交特に経済的の聯繋に論及して、中日実業会社に対する援助と同情とを希望せられたり、之に対し都督は、男爵の使命の平和的なること、新聞の論弁の毫も信ず可からざることを力説し、支那の現状に同情せられて、之が救済に一臂の労を惜むなからんことを熱望し、又民政長は『支那現時の財政困難を救治せんと欲せば、実業の発展によりて国利の増進を計るに如くはなく、即ち目下の急務は銀行を起して、財政経済の調節をなすこと、及鉱山を採掘して、富源を開発することの二者に在り、此点に於て特に男爵に指導を待つや切なり』と答へたり
類例少なき款待を受け、午後二時半此処を辞して武昌官銭局に高如松氏を訪問す、氏は嘗て我国に在りたる人なれば、男爵は其請に応じて特に枉駕せられしなり、貨幣制度改革の必要など簡単に語り合ひて、帰途に就く
程なく都督民政長の答礼を領事館に於て受けられて、一旦旅宿に帰着夜は七時此地商務総会の晩餐に臨席せらる、主客凡そ百名、盛宴なりき、宴半にして会長李紫雲氏歓迎の辞を朗読せしが、辞を極めて男爵を称揚したる外、別に記すべきなし、又男爵の答辞も大体に於て過日来の所説を繰返したるに止りしも、此夜も亦論語算盤の説を提げて、実業家の採るべき主義は仁義道徳に在り、之を根底として事を為すに非れば、産業の真正の発展は得て期す可からざるを所以を縷説し、終りにその昔孟子が諸国を巡遊して梁に到り恵王に答へしと同じく、予も亦『仁義あるのみ、復何ぞ必しも利を言はんや』と述べんと欲すと結論せられたり、十時過散会
 漢口第三日
  五月十七日 日曜日
午前漢水の上流に溯りて東亜製粉会社の工場を見物す、田村秀光氏懇切《(田村秀雄カ)》に案内せられ、且つ日本料理の饗応あり、席上田村氏は歓迎の挨拶を述べたる後、所謂利権の声囂々たりと雖も、此会社が日本人の手に成る揚子江上唯一の固定的企業たることと、排日思想旺盛の裡不撓不屈の精神を以て邁進したる来歴とを略説し、会社事業につき忠言あらんことを切望せしかば、男爵は答へて下の如く述べられたり
 唯今工場を残りなく巡視したるが、其事業の秩序整然たる敬服の外なし、凡そ業は勤むるに精しく、嬉むに荒むものにして、かく会社内部の整頓せるは、首脳者が業務に精励せらるゝ為めなるべし、これ即ち湯盤銘に所謂苟日新日々新日又新なるものにあらずや、今揚子江上流唯一の事業たる此会社の経営を親しく見聞して、愉快に堪
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へざる次第なるが、或る娟嫉の目より視れば、之をしも利権の獲得といふなるべし、然りといへども、利権なるものが唯獲得者をのみ利するが故に然か感ずることあるべきも、凡そ利権は正当なる方法によりて経営せば、獲得者を利益すると同時に、被獲得者にも利潤を及ぼすこと論ずるまでもなし、当会社によりて此地方の人々の浴する恩恵の幾何なるか測り知るべからず、要は唯我利一方に走らず共同的に利益を収得すること肝要なり、支那に於て開発的事業を営むものゝ心得べき点は実に此処に在り
午後四時前旅館に入れば漢口「デーリー・ニユース」の記者の既に待てるあり、其の支那実業界の現状並に将来発展の機運に関する所見如何との質問に対し、男爵の答へられたる要点は下の如し
 予の支那に於ける旅行は、日猶浅きを以て貴問に対し充分なる答弁を与ふる準備を有せざれども、予の見る所を以てすれば、支那商工業の発展を図るに最も必要なる条件は、以下列挙する三者なるを信ず
 (第一)貨幣制度の改革 目下支那市場に於て種々雑多の貨幣の流通するは、商業を阻害すること少なからざるを以て、貨幣の統一を期するは焦眉の急務に属す
 (第二)中央銀行の設立 国内各地に適用すべき兌換銀行券の発行権を享有する中央銀行の創設は、緊要なる事項なり
 (第三)国庫歳出入の公示 政府が国庫の歳入及歳出につき、毎年明確拠るべきの記事を公示することは、最も必要欠く可からざる事柄なり
 若し以上三個の事項にして正当に実行せらるゝに到らば、支那の国勢は玆に始めて、健全なる基礎の上に置かれたるものといふを得べく、之に反して此等三条件を欠如するに於ては、財政の基礎なきものなれば、実業の発達も到底之を期待し得べからず云々
次に支那の富源開発の方法如何との問題に対しては
 支那の富源を開拓するには、諸外国相協和して戮力之を遂行するを以て最良の方法と思惟す、決して或一国の利己的独占に委すべきものに非ず、即ち調和的なるべくして排他的なる可からず、時としては数国協同して事に当るベく、時としては彼此両国の協力によることもありぬべし、而して此間常に調和を保つこと緊要にして、此理想を実現せしめんには各国及各人互に孔夫子の『己の欲せざる所之を人に施すこと勿れ』と云ふ教訓を服膺せざる可からず云々
玆に於て記者進んで問ひけらく
 近時長江沿岸の勢力範囲に関する論議喧しきものあり、元来此地方は英国の勢力圏とせられしものなるが、近年日本及独逸の商業は、年々歳々進歩して止まず、之れが結果につきて高見如何
と、男爵は簡単に
 勢力範囲云々の如きは、素と孔子の教ふる所に反せり、所謂一国に限る勢力圏の如きは王道の認めざるものなり
と答へられ、記者は微笑を洩らして去れり
午後五時高商同窓会に臨場し、主として商科大学問題につき談話せら
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る、又夜七時には日本人倶楽部に於ける歓迎会の招待に応ぜらる、出席者百四十名を越え、宴は高橋領事代理の挨拶を以て始れり、氏は男爵の識見の卓越して人格の高邁なることは予ねて承知する所なり、今や親しく老齢にして壮者を凌ぐ概ある男爵の活動を目睹して欣羨に堪へず、吾人青年の一層奮励努力せざるべからざることを感ずと述べ、猶男爵の高教に接せんことを請へり、酒数行宴将に酣なる頃、男爵は起ちて一場の演説を試みらる、例によりて旅行の目的・行程及び中日実業会社の件につき適宜に案配叙述したる末曰く
 予は身を実業界に投ずること既に四十余年、今や老齢の故を以て、一・二の事業を除く外全然隠退し居るものなるが、足一たび支那の地を踏み、揚子江一帯を通過して聞きしに優る此の天与の大富源を見るに及んでは、昔取りたる杵柄と申すべきか、雄心勃々死灰再び燃ゆるの感なき能はず、然れども既に実業界を退きたる予には、再び事に当る志望もなきを以て、新進気鋭の諸君に待たんのみ、世人動もすれば曰く『日本は資力に乏しきを以て、支那に於て欧米人と駢馳すること難し』夫れ或は然らん、然れどもかゝる大富源を蔵する土地に於て、日本人の活動すべき余地の充分存することを信ずるなり、故に諸君は漫りに資本欠乏の嘆声を発するなく、自己の知識と精力とを以て活動の地歩を占められんことを望む、諸君は現にかかる活動の舞台に馳駆して我より古をなすの人たり、既に然り百事先鞭を着けるは素より其所なり、予は今夜の宴席に斡旋する日本婦人のかく多数なるを見ても、諸君の知識精力の各方面に及ぼして其着鞭の速なるを知るを得たり、是れ即ち同胞発展の一証として、国家の為め賀すべきことなり云々
と諧謔一番、拍手喝采暫くは止まず、猶土屋海軍司令官は一同に謀り今夜の主客中には七十歳以上の老人五人あり、目出度限りなれば一同之にあやかりたしとて、杯を挙げて「あやかりたし」と三唱し、和気靄々の裡十時半退会せり
 北京途上
  五月十八日 月曜日
午前九時数多見送人に別を告げ、専用特別車にて京漢鉄道停車場を発す、連日連夜の疲労一時に発して睡眠を貪るもの多かりしも、男爵は端然読書に余念なし、夜は車中に就床す
 北京到着第一日
  五月十九日 火曜日
列車は平原を北へ北へと走れり、五時北京に入り、城壁聳立せる街路を通りて六国飯店に抵る、夜は公使館に招かれて、山座公使より日本料理の饗応を受けしも、席に列せしは一行と公使館員とのみなれば、別に公式的の応答もなく、打くつろぎて雑談、九時半帰宿す
 北京第二日
  五月二十日 水曜日
此日以後、北京滞在の数日に亘り、男爵は間断なき活動を試みられたり、連日の午餐会・晩餐会、さては茶話会に臨席せらるゝ外、午前も午後も概ね官憲の有力者を訪問せられたり、而してその多くは唯山座
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公使並に通訳官一名の案内にかゝり、他に何人も随従せざりしが、談話の梗概は後に偶々三・四耳にせざるにあらざるも、之を一括して筆にし難く、事件の内容が往々機密に瀰る節なしとせざれば、此等の会談折衝の記事は総て省略することゝなしつ
第一の午餐会は正金銀行の小田切氏によりて催され、北京の重なる官民に男爵を紹介せられたり、列席者凡そ二十五名、「デザート・コース」に於て小田切氏は歓迎の挨拶をなして曰く
 渋沢男爵が日本実業界の元老として、今猶内外の重望を負はるゝことは説くまでもなく、這般支那の風物を観賞し、孔子の霊廟に参拝せらるゝと同時に、支那の官民と交驩せらるゝことは、喜悦の情禁ずる能はざるものあり、男爵は孔孟の教によりて訓育せられ、常に孔孟の道を奉ぜらるゝ次第なるが、予も亦年少より儒教によりて養はれたる一人なり、予が家は代々漢学者なるが故に、予も少時より四書五経を読み習ひたり、孔子の道は種々に之を説明するを得べけんも、予は家語に準拠して、夫子の教へは礼と徳と仁政との三者に帰着するものなることを信ぜり、説者は往々商業を賤みて士君子の手を触るべきものにあらずとなせども、これ大なる誤謬なり、商業とても亦仁義道徳を以て之を営めば、決して孔子の道に背馳するものにあらざるなり云々
と、之に対し男爵は直ちに言を返して曰く
 かくの如く打揃ひて、首都の枢要なる官民の方々に面晤するの機会を得たるは、真に予の光栄とする所にして、満腔喜悦の情に堪へず唯今小田切氏の言はるゝ如く、論語と商業とは決して矛盾するものと謂ふ可からず、否商業を営まんとせば必ず論語に拠るべきなり、博愛之を仁と謂ふ、之を政治上に施せば即ち仁政となり、之を商業に応用したるもの即ち真正の商業なりと謂ふべし云々
と説かれ、更に日支両国の関係の過去及将来と、中日実業会社とに関し、簡単に説述せらるゝ所ありたり
午後は官憲其他の訪問をなし、夜は居留民団並に大和倶楽部合同の歓迎会に臨まる、出席者凡そ九十名、宴半して亀井陸良氏起ちて、先づ男爵は固より其一行も歴々たる人士たることを挙示し、且つ男爵の経歴につきて略叙する所あり、進んで欧米諸国の支那に於ける利権獲得の状態を概説して、男爵の努力によりて日本も此等諸国の背後に鞺若たるなからんことを切望し、最後に我邦対支外交の不振を通論して歓迎の辞に代へたり、玆に於て男爵は起ちて、先づ此会合が唯我同胞のみなるや否やを聞糺して、一の支那人を交へざることを確かにし、猶亀井君の讚辞は敢て当らずと謙遜して後、説きて曰く
 抑日支の関係は、其の由つて来る所頗る遠く、且つ深し、而も今は唯同文同種とか、唇歯輔車とかの言辞にのみ甘んずべきにあらず、真に両国の聯繋の密接ならんことを欲せば、両国の経済的関係の鞏固を期せざる可からず、世上の論者口を開けは即ち利権獲得と云ふ而も利権獲得なる語の真意義を知るもの稀なり、利権の獲得は獲得者をのみ利益せじ、同時に被獲得者をも利益することを悟了すること最も肝要なり、又論者往々商業は平和の戦争なりと謂ふ、されど
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是れ誤れり、戦争にありては我れ一歩を利すれば敵は一歩を損すれども、商業に於ては然らず、我れも彼れも共に利益を為すを常例とせり、その戦争と異る所以は実に此点にあり、されば商業も此意味に就て営むべく、利権獲得も亦前陳の意義に於て称道すべし
と、丁寧反覆して説明したる上、対支実業の方針は須く此点に基礎を据うべきことを論断して、中日実業会社の目的に及び、更に一転して対支外交につきては
 対支外交の不振の因つて来る所は、其の不統一に存せり、凡そ対支外交に三種あり、一は外務省の外交、二は軍人の外交、三は浪人連中の外交これなり、此三者は常に扞格して相容れず、動もすれば欧米諸国に乗ぜらるゝのみならず、往々支那の誤解を招く原因をなせり、果して然らば此間実業家は如何の態度を保持すべきかと云ふに唯一意支那との経済的関係を密接にし、真摯質実の行為を以て支那の実業界の発展を促進すべきなり、予が支那の旅行の日時たるや頗る短しと雖も、其富源の莫大なるには一驚を喫し、既に実業界を隠退せる予の如きも、死灰再び燃えて腕の鳴るを覚ゆ、予は今にして支那の開発、日支経済関係の連結の急務たるを感知し、是れが為めには老躯事に当るを敢て辞せず、是れ真に両国の国運発展の為めなればなり
と説き去り説き来りて、拍手喝采屡々満堂に響鳴せり、十時半散会
 北京第三日
  五月廿一日 木曜日
午前を訪問に費し正午早稲田大学支那人同窓会に臨まる、来会者凡そ五十名、総て日本語を解せり、林長民氏一同を代表して男爵来臨の光栄を謝し、中日の関係の経済的ならざる可からず、之が為めには実業界の先輩たる男爵が有益なる教訓を垂れさせられたしとの希望を述べ男爵は之に対し下の如き答辞を述べられたり
 上海上陸以来、到る処歓待を受けて感謝の情言葉に尽し難きも、此席の如き愉快なる会合は未だ遭遇せざりき、蓋し人外国に赴きたるとき、自国の言語にて自由に会談し得らるゝ程愉快なるはなからん
と言ひ、次に男爵と早稲田大学との関係を略叙したる後
 抑文明の進歩は、学問の応用によりて促さるゝものなるが、天恵洽き支那の富源も、亦学問の応用を待て開発せらるべきなり、而して支那富源の開拓は実に支那の為めなるは論を待たざるも、復た世界の文明の為めにも必要なることなれば、此点に於て諸君の発奮努力を望まざるを得ず、諸君は既に学問を修得せられたる人々なれば、今は此学問を如何に活用すべきかと云ふことに熱心ならざる可からず、此の如き実に実業家のみならず、官吏たるものも亦同一の熱心を以て実業の奨励を図らざる可からず
と諄々訓諭を与へられたり
午後四時大総統謁見の為め、男爵始め一行七人、山座公使に案内せられて中海に赴く、舟に乗じて南海を渡り、頤和門より入り、楼閣を通ずること数百歩、遂に居仁堂に達す、袁氏自から男爵を迎へて席に就かしむ、外務次官外一名列席す、席定りて後大総統は徐ろに曰く
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 総「男爵は弊国には度々来遊せられしか
 男「否今回初めて来訪せり、唯上海には一両度立寄りたることあり
 総「折角の御巡遊なれども碌々御接待も出来ず、誠に礼を失するを虞る
 男「然らず、実に至れり尽せりの御殊遇を辱うし、誠に恐縮に堪へず、予の今回の旅行は唯一の漫遊に止まるに、かくの如き御優待を受くるは感謝の辞を知らず
  さて自分は少年の時より孔孟の学によりて教養せられたれば、貴国の文物を慕ふこと久しく、その為め孔子の廟に参拝せんと企てたるなり
 総「聖廟に赴かるゝよし予ねて拝聞せり、さて中日の関係たる、其の淵源する所頗る遠く、一朝一夕の事にあらざるは説くの要なけん、されど向後も両国の親善なる交誼を鞏固に保持せんと欲せば、其の経済上の関係を密接ならしめざる可からず、これ予が中日実業会社の事業に賛同し、楊士琦をして之に加はらしめたる所以なり、何卒充分此上の御尽力を煩はしたし
 男「御言葉真に辱く拝承せり、閣下の言はるゝ所は平素自分の懐抱する卑見と符節を合するが如し、御承知の通り中日実業会社も大総統の御助力によりて先般完全に成立したれば、以後は優渥なる御訓示に随ひ、益奮励して両国実業の発展せんことに尽瘁すべし、猶此上とも何分の御高庇を請ふ
 総「時に少しは市中を見物せられしか
 男「未だなり、聞きし如く実に大都会なり、ゆるゆる名所古跡を探訪する積なり
云々、両々蜿曲の言辞尽きんとして尽きず、終りて公使と総統との間に二・三応答あり、一同総統と握手して辞し去る、男爵はこれより直ちに楊士琦氏を訪問せられたり、其の際は中日実業会社の経営に関し種々具体的談話ありたるが、中に楊士琦氏支那は貧弱なりと雖も日本も亦富有ならず云々の語ありしに対し、男爵は『夫れ或は然らん、日本は之を欧米諸国に比すれば素より貧乏なれども、而も財を集めて之を活用するの道を知り、且つこれを応用すべき組織が成立せり、支那に於て欠くるものは実に此点に在らずや』と懇々合本結社の本義を弁明し、氏をして能く理解するを得せしめたりとぞ
午後七時外務部孫宝琦氏の晩餐会に招待せらる、凡そ二十四・五名参会す、宴終る頃孫氏卓上演説を試む、其要旨は前々の例と大同小異なるが、孫氏は特に氏が日本に赴きたる際、一日男の別墅に招かれ親しく膝を交へて男爵と交歓し、其論語算盤の論を傾聴するに及びて、男の人格の時流に卓越するものあるを感知し、男を尊崇すること一層切なる所以を語りて、男爵が今日以後益日支実業界の為め努力あらんことを希望せり
之に対し男爵は懇篤なる謝辞を呈し、次いで論語と算盤との説につき抱負を吐露し、又日支経済上の関係につきて詳述する所あり、最後に此日大総統に面謁したるときの状況を略述し『総統の優渥なる激励の詞は真に感謝に堪へず、老躯を厭はず爾今以後微力を尽して、日支両
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国実業の発展を促すべし』と明言せられたり、十時半散会
 北京第四日
  五月二十二日 金曜日
朝万寿山を観覧して、植物園に来り、農商務部の催にかかる午餐会に列す、主客凡そ四十名、席上章宗祥氏の演べたる演説の大要は左の如し
即ち先づ一応の挨拶をなしたる後、男の今日迄の経歴を詳述し
 男爵は既に実業界を隠退せらるゝも、日支実業の聯繋は例外として特に今後も御尽力を煩はしたし、抑貴国と弊邦とは経済的同盟の成立すべき関係にあり、其の之を完成せんが為めにはあらゆる方法を講究すべく、差当り観光団の企の如きは最も有効なるべきを信ず、予は約十年前東京に於て男爵に会ひたることあるが、今日再び此処に面晤の機を得て、男爵が昔に比べて若返られたる心地せり、希くば男爵は益健全に長寿を保ち、両国産業の発展に御助勢あらんことを云々
此演説は周次官の通訳によりて遺憾なく訳述せられたるが、之に応じて男爵は先づ謝辞を述べ、次にやゝ詳細に自己の経歴を叙述して、実業界を退隠するに至りし所以に及び、而して何故に中日実業会社の創立に一臂の力を振ひたるかの理由を鮮明にせられ、最後に
 章君の演説中、予が十年前に比して反つて若返りたりとの言は、誠に有難く喜ばし、世には不老不死の薬を探求して得ざるもの少からざるが、予に取りては実業なる霊薬は予をして益壮健活溌ならしむるが如し、此霊薬は啻に実業家のみならず、政事家の方々にも亦霊妙不可思議の効果あるものと思惟す、予は今後十年更に日支実業の為め奮励努力して、以て此次には今より一層若返りたりとの御賞詞を賜はりたし、果して然らば後代武帝は東方朔の延命術を要せずして、実業家を聘するに至るべし
と結びて、満場の哄笑喝采の裡に宴を終れり
此夜六時半徐総理の晩餐の宴に赴かれしも、主客僅に十人に満たず、されば格別角立ちたる演説もなく、打解けて語り合ひたる中にも、男爵の国家的観念の熱烈なるには、徐氏も大に啓発悟了する所ありたるものゝ如し
 北京第五日
  五月二十三日 土曜日
午前は故の王宮を見物し、正午熊希齢・汪大爕・梁啓超三氏の招待により煤油礦事宜所に赴く、一行の七人と共に列席するもの二十五名、熊希齢氏は三氏を代表して挨拶の辞を述べて、最初に男爵の経歴及来遊の目的につきて二・三説明する節あり、進んで新聞紙の論調の軽躁浮薄にして国事を誤ること多きを慨嘆し
 世の所謂論客中三種の区別あり、一は不平の徒にして、二は無責任の輩なり、又三は無智の者にして、其論ずる処各異れりと雖も、皆何れも吾人支那人の真正の意見を発表したるものと、看做すべからず、支那人は日本人を目するに同文同種以上の厚誼を以てし、一致協同、東洋の平和的発達に努力せんと希望するものなり云々
 - 第32巻 p.544 -ページ画像 
と説きければ、即ち男爵は起ちて謝辞を述べられたるが、同じく我国の外交が往々矛盾して誤解を招致する所以は、所謂浪人外交と軍人外交とが、外務省の外交と衝突するに因する次第を弁明し
 吾人商人の真意は、決して領土の侵略、又は利権の獲得を目的とせず、只日支実業上の聯絡によりて、双方共に利益することを企図せるのみ、支那が富源に於て天恵ある国なるは説くまでもなく、之を開拓して以て隆盛に赴くとせんか、日本も亦之に因りて利益するあるべく、かくして日支実業上の連絡も始めて鞏固なるに至るべし云云
と論断せられたり
此夜は北京に於ける最後の招宴あり、六時李鴻章の旧居に赴きて中日実業会社総裁楊士琦氏の晩餐会に列す、主客四十余名なり、宴半なる頃楊氏起ちて男爵の経歴人格手腕につきて賛辞を呈し、且つ今後会社の為め一層の努力あらんことを望みたれば、男爵は答へて曰く
 渡支以来宴席に列すること其数を知らざれども、今夜の如き快感を覚えたることなし、そは予が先年来微力を尽したる中国興業会社、即ち今の中日実業会社も完全の成立を告げ、今や此会社の支那側幹部の人々と一堂に会して快談するが為めなり、かく会社は既に成立するも、今後の効果は一に重役諸君が克く自己の責任を重ぜられて施設経営其宜を得るにあり、凡そ『業精于勤荒于嬉』ものなり、何事も言ふは易くして行ふは難きものなれば、重役諸君に於ても業務に勉励せらるゝと同時に、各種の困難に挫折するなく、当初の目的に邁進せんことを期せられたし、予も亦向後一層会社の為め、犬馬の労を惜まざるべし云々
と激励せられしが、此日は一行中の馬越氏も起ちて、大要左の演説を試みらる
 始め予の男爵に随従して渡支の途に上るや、唯一の漫遊に過ぎずと思へり、然るに中頃男爵が所期の目的に反し、主として中日実業会社の為め努力せらるゝを見るに及んで、予は聊か不平なきにあらざりき、されど翻つて同会社に対する男爵の熱心の切なるものあるを知了して後は、男爵に対して敬畏の念を増し、同会社の事業の今後良好に発達せんことを祈るに至れり、唯憂ふ之が経営の任に当る重役諸氏の人格並に手腕如何を、幸に支那側に於ては学識経験兼ね具はる楊士琦氏の如き人士のあるありて、人意を強うすと雖も、之を日本側に見るに、やゝ前途を杞憂せしむるものなしとせず、学識は充分ならん、されど何等実業上の経験なき青年の徒が、克く此の如き大任を負ひて、真面目に日支経済上の聯繋を全うし得るや否や、男爵のみ独り先頭に起たれて、他は喘ぎ喘ぎ中途に彷徨するの状態に陥るなきや否や、予も少数ながら株主たるの一人として、会社を思ふの切なる為め、敢て苦言を呈して以つて此言の杞憂に終らんことを祈る云々
と述べて、座に在る重役諸氏を顧みぬ、宴の撤せられしは十時半頃なりき
 御大葬当日
 - 第32巻 p.545 -ページ画像 
 五月二十四日 日曜日
恐多くも此日は 昭憲皇太后陛下の御大葬の当日なれば、一同旅宿に籠居して謹慎す、されど支那側の訪問客引も切らず、男爵は応接に遑なし
○下略


竜門雑誌 第三一六号・第五六頁大正三年九月 ○青淵先生七絶十二首(DK320025k-0004)
第32巻 p.545 ページ画像

竜門雑誌  第三一六号・第五六頁大正三年九月
    ○青淵先生七絶十二首
○上略
    杭州途上即事
 長空澹抹夕陽殷 道在麦黄桑緑間 鉄路江南三百里
 車窓尽日不看山
 路入水郷霖雨晴 一村桑柘隔江明 小遊解得南船語
 平隴時看帆影行
    西湖弔岳武穆墓
 十二金牌志不酬 西湖明月照千秋 英雄回首神仙耳
 詎問人間万戸侯
 烈志欲燃還作灰 趙家危急遂難回 千秋頼有西湖月
 分照当年奸正来
    寒山寺
 船到楓橋曙色明 姑蘇城外雨初晴 新鐘補古寒山寺
 一杵先聞夜半声
    万寿山途上即事
 万頃晴波十里堤 玉泉高聳仏香西 前車休竢後車到
 一帯垂楊路不迷
  玉泉亭仏香閣は万寿山中に在り
    万寿山
 霞籠楊柳夕陽微 金殿瑶台鎖玉扉 欲問豪奢当日事
 只看白鷺背人飛
○下略


東京日日新聞 第一三四七一号大正三年五月一四日 上海電報(十二日発) 渋沢男とも会談(DK320025k-0005)
第32巻 p.545 ページ画像

東京日日新聞  第一三四七一号大正三年五月一四日
      上海電報(十二日発)
    ○渋沢男とも会談
支那海関総税務司アグレン氏の当地に来れるは、サー・ロバート・ハートの銅像を除幕せんが為なりと称せられしも、銅像の建設終了するを俟たず、本日早朝当地出発、漢口に向ひ、同地より帰任の都合なりアグレン氏は同地滞在中各国総領事と会見し、又一昨日渋沢男とも会談したるが、孰れの場合にも関税改訂に関する重要問題を論議せり、アグレン氏は日本経済界の該問題に対する意嚮が、動もすれば支那政府の希望と相背馳するものあるを認め、渋沢男の勢力を利用して、之を緩和せんとする希望を抱けりと信ずべき理由あり


時事新報 第一一〇三五号大正三年五月二〇日 北京特電 ○渋沢男来る(五月十九日午後発)(DK320025k-0006)
第32巻 p.545-546 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

時事新報 第一一〇三八号 大正三年五月二三日 北京特電 ○渋沢男の総統観(五月二十二日午後発)(DK320025k-0007)
第32巻 p.546 ページ画像

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渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 大正三年五月一六日(DK320025k-0008)
第32巻 p.546-547 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 大正三年五月一六日   (阪谷男爵家所蔵)
拝啓、爾来御渾家ハ勿論各親戚一同無別条と遥祝仕候、当方も東京発途以後一途平安、昨日ハ漢口到着、行程都而予期以上之都合を以て、既に禹域之一部分を視察致居候、兼而懸念せし航路も、瀬戸内海ハ申迄も無之、長崎上海間とも風浪極而平静にて、船疾之憂とてもなく、長江筋之航路ニ於てハ、寧ロ支那各地歓迎等之面倒を避け候一時之休憩時間とも可申位ニ、自由安楽ニ起居罷在候
上海着後、支那官民之一行ニ対する歓迎振ハ頗る鄭重親切にて、時に或者迷惑を感する位ニ御坐候、杭州・蘇州・南京・九江・大冶等を経当漢口ニ到着候まて、到処騎馬巡査等之護衛も有之、各停車場又ハ碼頭にハ支那官民之送迎者満場之姿にて、王公之旅行と怪まれ候程に御坐候
各地之人情風俗及土地之貧富、物資之豊歉等ハ、一瞥之能く知悉すへきものニ無之候得共、概言すれハ如何にも天恵に余ありて人功皆無と可申姿ニ相見へ候、此人力未加之有様こそ、我邦人之大ニ注目努力を要すへき点ニ付、老生ハ日夜一行之人々にも訓戒仕居候、殊ニ其施設之方法ニ於て、飽迄も従来之所信ニより、王道を以て四百余州を啓発して曲阜之聖廟ニ対し微分たりとも宿昔崇敬之報効相立度と、老𩪍《(躯カ)》を忘れて一大期念相定候義ニ御坐候、此等之詳細ハ他日帰国御面話ニ相尽し可申候得共、実ニ長江一帯之物産、就中大冶鉄山之景況抔ハ、只只垂涎三尺と申外形容之辞とてハ無之候
特ニ一事申上度ハ、出立前種々御心配被下候自助団之義、御約束ニ従ひ船中ニ於て成瀬君起稿之趣意書其他之規程等まて再三熟覧し、愚考も一応起草相試候得共、所謂百年否千万年を期すへき大文章とも可申ものニ付、不文之老生旅中匆卒ニ原案相定兼候、去迚成瀬君之案にてハ、森村翁と老生と中心《(衷)》より発露せしとハ誰とても相信し申間敷と存候、而して此趣意書こそ真ニ両人衷情之相発するものニ致度候ニ付而ハ、縦令時日ハ少々遅引いたし候とも、願くは来月下旬帰朝後ニ於て緩々御審議相願度と存候、依而右之段第一ニ森村翁及成瀬君並ニ首唱発起之諸彦ニ御伝声被下度候、而して此組織之必要なるハ、旅行中更ニ感慨相増候点も不少候ニ付、御一同へも別而御打合被下、時日稽延之為呉々も惰気相生候様之恐無之事、御申合被下度候
 - 第32巻 p.547 -ページ画像 
前途之旅行日程も、出立前予定之如く継続之積ニ候も、本邦帰着之後九州又ハ京・坂・名古屋等各一日位を要し候筈ニ付、東京へハ月末ニ相成可申と存候、予め御承知可被下候
成瀬君へも一書差出候積ニ候得共、本書相認候も今朝未明ニ勉強いたし漸く出来候位ニて、日々来訪者又ハ各所訪問、宴会もしくハ見物等ニて、真ニ寸暇無之候ニ付、其辺御通し置可被下候、森村翁へハ御疎音仕候、其他之諸君へも御鶴声可被下候
王子宅、兜町之一同及第一銀行之諸君ニも、其中出状之心得ニ候、今日ハ最早約束時間ト相成候ニ付、右等も夫々ヘ御通声可被下候
毎度電報被下忝存候、乍序御礼申上候、右当用可得貴意如此御坐候
                            敬具
  大正三年五月十六日朝      漢口客舎ニ於て
                      渋沢栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
  尚々琴子始御家族一同へ宜御申伝可被下候、牛込へも老生無事之段、御申通可被下候也
(別筆)
日本東京小石川区原町 男爵阪谷芳郎殿 親展
於支那漢口 渋沢栄一


渋沢栄一書翰 八十島親徳宛 大正三年五月二〇日(DK320025k-0009)
第32巻 p.547-548 ページ画像

渋沢栄一書翰  八十島親徳宛 大正三年五月二〇日   (八十島親義氏所蔵)
増田を通せし両回之貴翰、北京ニ於て一覧、爾来留守宅無別条、貴兄も追々元気御回復、昨今ハ別而健全御勤勉之由、慶賀此事ニ候、当方も一同平寧、随分多忙ニ奔走罷在候
老生之此行果して各新聞紙之称道する如き効果如何ハ疑問なるも、例之中日実業会社之為ニハ、幾分之稗補可有之、殊ニ老生一身ニ取りてハ真ニ宿昔之企望相達し候とも可申義ニて、愉快之涯ニ御坐候、北京着早々公使・水野氏其他之懇切なる接待ニて、曲阜行及青島接続船之都合上旅程□□《(二字不詳)》延引ニ相成候義ハ困却ニ候得共、所謂騎虎之勢とも可申次第ニ付、留守中何分御担任被下、王子宅へも其辺宜御申通し可被下候
国際通信社之義ニ付来示拝承、外務より之入金ハ安心仕候、将来之補助ニ付、もし書面ニて確約と申迄ニ不相成候とも、せめては次官と只申合位にても出来候様いたし度ものニ候、精々樺山君と御協議可被下候、且又大坂・神戸ニ於る三氏へ之催促ハ、時々支店之主任ニ御引合可被下候
株式之景気あしく、売却相進不申候由、致方無之候、もしも来月末ま
 - 第32巻 p.548 -ページ画像 
ても同様ニ候ハヽ、銀行ニ借方多く相成可申と存候ニ付、前以佐々木君ニ事情打明ケ、御頼入有之度候、老生ハ品ニ寄り六月末ならてハ帰京無覚束、或ハ七月ニ相成可申とも存候ニ付、前以申上置候、但時々尾高氏とも又阪谷とも御相談之上、稍割合よき株式ハ御見計売却被成候而借越超過せさる様御取計可被下候
別紙○略スハ出立前修正心掛候演説筆記漸く出来候ニ付、一ハ竜門雑誌一ハ東京市電気局へ御遣し可被下候
旅行中之景況及時々之感想等も申上度候得共、昨日北京着、今朝寸間之余暇ニ執筆候位ニ付、何分不能尽意、尚両三日中ニ更ニ可申上と存侯 匆々拝具
  五月廿日北京客舎ニ於て
                     渋沢栄一
    八十島親徳様
         梧下

八十島親徳様 直披 渋沢栄一
(朱書) 「大正三年五月廿日 支那北京より


(東洋生命保険株式会社)社報 第一七号大正三年五月 初十日 漢口にて 辻友親(DK320025k-0010)
第32巻 p.548-549 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
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