デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
4款 第四回米国行
■綱文

第33巻 p.201-222(DK330010k) ページ画像

大正10年10月13日(1921年)

是日栄一、東京ヲ発シ、横浜ヨリ乗船渡米ノ途ニ上ル。二十二日ハワイノホノルルニ寄港シ、二十九日サン・フランシスコニ上陸ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK330010k-0001)
第33巻 p.201-205 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年 (渋沢子爵家所蔵)
(欄外記事)
 [米国旅行日記大正十年十月十三日
十月十三日 晴 冷気
午前六時起床、入浴シテ朝飧ス、本日米国行ノ発途ナレハ家人皆匆忙旅装ヲ整理ス、八時前十数分家ヲ発ス、一同戸外ニ於テ行ヲ送ル、滝野川町長・助役及議員、其他ノ有志者数十名庭前ニ来リテ送別ス、午前八時半中央停車場ニ抵ル、送別者場ニ満ツ、内閣諸大臣ヨリ学者・実業家・男女学生ニ至ルマテ来テ握手スルモノ多シ、親戚故旧ハ皆汽車横浜本船ニ送ルニヨリ、汽車雑沓ヲ極ム、九時発車、十時前横浜着直ニ春洋丸本船ニ搭乗ス、送テ船ニ至ル者数百人ノ多キヲ見ル、十二時解纜、船徐行シテ極テ平穏ナリ、午飧後モ航行甚タ緩ナリ
午後四時頃進行ヲ始ム、風アリテ船動揺ス、乗客過半ハ食事中ニ船室ニ屏居スルモノアリ、夜十一時臥床
十月十四日 曇 冷気
午前七時頃目覚ムルモ、船動揺スルヲ以テ起床セス、褥中ニ在テ眠食ス、発途前ニハ船中ハ余暇アルニ付、此篇彼ノ巻ト読書ヲ予期セシモ枕上ダモ冊ヲ手ニスル能ハサルハ、真ニ遺憾限リナキ所ナリ、而シテ昨日迄ノ匆忙急変シテ何等ノ為スヘキ事ナキハ、自ラ顧ミテ失笑セサルヲ得ス、午後ヨリ風少ク静カニシテ船ノ動揺減シタレハ、船室内ニ於テ夜飧ヲ食ス、後新聞紙・雑誌類ヲ一覧ス
此日ハ終日船室内ニ在テ或ハ読書又ハ睡眠シテ外出セス、夜十一時寝ニ就ク
十月十五日 曇 軽暑
午前七時過起床、海水浴ヲ為ス、風濤平静ナルヲ以テ、服装ヲ整ヘテ外出ス、朝飧後甲板上ヲ散歩ス、又船室ニ於テ携帯ノ新聞紙・雑誌類ヲ読ム、午飧後同船ノコーク判事ト布哇島ノ将来ニ付種々ノ談話ヲ為ス、添田氏モ同席ス、蓋シ同島ノ移民ニ関シテハ、内外人ノ意見ヲ聴取シテ根本的ノ処分法ヲ立案セント欲スルヲ以テナリ、夕方甲板上ヲ散歩ス、夜飧後船内客室ニ於テ同行者相会シテ時事ヲ談話ス、夜船室ニ於テ読書ス、十二時ニ至リテ臥床寝ニ就ク
(欄外記事)
 夜無線電信ニテ、鹿島丸ナル沙市行ノ使節ニ通信セシモ達スルヲ得ス、又同シク無線電信ニテ家信ヲ送リテ平安ヲ告ク
 姉崎博士ト洋中ニ行キ替フ趣ナルヲ以テ、電報ニテ通信ス
十月十六日 半晴 暑
夜熱強クシテ睡眠不足ナル為メ、朝来聊不快ノ感アリ、依テ朝食ヲ廃シ褥中ニテ摂養ス、午後ニ至リ元気快復ヲ覚フルモ、修日船室内《(終)》ニテ書類ヲ点検ス、東京ヨリ携帯セル新聞紙及雑誌類ハ都テ読了シタルヲ
 - 第33巻 p.202 -ページ画像 
以テ、用意ノ書籍ヲ読ム、又演説筆記ノ修正ニ努ム、午飧・夜飧共ニ食卓ニ於テス、風雨アリテ船少ク動揺スレトモ別ニ船疾ノ気分ナシ、十一時過就寝
十月十七日 曇 軽暑
昨日ノ微恙夜ニ入リテ平愈シ、今朝元気平常ニ復ス、七時半起床、入浴畢リ室内ニテ朝食ス、後演説筆記ノ修正ヲ為ス、船中無線電信ニテ姉崎博士ト通信ヲ試ム、午飧・夜飧共ニ一行ト食卓ニ於テス、食後時時散歩ス、船長ノ招ニ応シテ其室ニ抵リ、茶菓及鮨ノ饗応ヲ受ク、晩飧後甲板上ニ活動写真ノ興行アリ、船客多ク来観ス、夜十時散会、十一時就寝
十月十八日 曇 軽暑
午前七時起床、入浴シテ船室内ニテ朝飧シ、後甲板上ヲ散歩ス、後室内ニテ読書ス、午飧・夜飧共ニ食卓ニ出席シ、食後一行ト款談ス、布哇島ヨリノ電信ニ付テ判事コーク氏ト協議セシム
夜活動写真ノ余興ヲ甲板上ニ挙行ス、来観者満員ナリ、十時過散会、後室内ニテ書類ヲ調査シテ、十一時就寝
十月十九日 曇 暑
午前七時半起床、入浴シテ船室内ニ於テ朝飧シ後演説筆記ノ修正ニ努ム、蓋シ布哇着後本邦ヘ送付スルカ為メナリ、午飧・晩飧共ニ食卓ニ出席シ時々散歩ヲ試ム、夜ハ活動写真ノ余興アリ、十一時頃臥床ス
此日重復シテ明日モ亦十九日ヲ再ヒス、次ノ十九日モ前日ト同シク天候気温異リタルコトナシ
次ノ十九日モ午前七時半起床、昨日ト同シク入浴シテ室内ニ朝食ス、又演説筆記ヲ修正ス、コーク判事ト協議シテ、布哇知事又ハ商業会議所会頭等ニ無線電信ヲ発シテ、同地着後ノ事ヲ打合ハス、夜十一時過臥床
十月二十日 曇 軽暑
午前八時起床、入浴シテ船室ニテ朝食ス、畢テ竜門社員送別会席上ノ演説筆記ヲ修正ス
布哇島米人商業会議所ヨリ饗宴ノ電報アリ、依テ同船ノ判事コーク氏ト協議シテ返信ヲ発ス
午飧・晩飧共ニ食卓ニ出席シ、時々内外人ノ甲板上ノ競技ヲ見ル
夜船員ノ角力十数番アリテ観者群集ス、三人抜ノ優勝者数番アリタリ夜十一時臥床
十月二十一日 半晴 冷気
午前七時半起床、入浴シテ船室内ニ於テ朝飧ス、畢テ今般ノ旅行宣言書ノ邦訳ヲ為シ、之ヲ添田博士ニ示ス、博士亦之ヲ修正シテ、後相共ニ協議決定シテ浄写ニ付ス、昼夜ノ会食例ノ如クニシテ、食後或ハ甲板上ヲ散歩シテ他人ノ競技ヲ観ル、夜食後甲板上ニテ活動写真アリ、観者堵ノ如シ、十時頃散会ス、食卓上ニ於テ喫茶シテ、十時半船室ニ入リテ読書ス、十一時半臥床
十月二十二日 曇 軽暖
午前七時起床、入沿シテ船室内ニ於テ朝飧ス、後郷書ヲ裁ス、蓋シ今夕本船布哇ニ到着ノ筈ナレハナリ、郷書ノ一通ハ穂積氏宛ニテ、尾高
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成瀬二氏ノ墓碑撰文ノ労ヲ謝シ、且カーネギー自伝訳書ニ係ル序文ノ要旨ヲ書送スルナリ、他ノ一ハ阪谷氏ニシテ、旅行ノ要旨及留守中ノ当用、藤山氏ニ波蘭人紹介ノ事、及水上保護会ノ事ヲ詳細ニ書送スルナリ、午飧後同船客ノコーク氏ト会話シ、今夕布哇商業会議所ノ開催スル招宴ノ事ヲ打合ハス、午後三時頃ヨリ遠ク陸地ヲ見ル、五時布哇港ニ着ス、同地居住ノ米国人アサートンヲ始メ来リ迎フ、頭本元貞氏原田助氏・奥村氏等多数歓迎ス、午後六時半上陸、布哇青年会館ヲ一覧シ、次テ太平洋クラブニ於テ商業会議所主催ノ宴会アリ、会頭デニソン氏氏《(衍)》ノ司会ニテ、知事・前知事ノ歓迎演説アリ、邦人側ハ矢田総領事・添田博士・原田氏等ノ演説アリ、余モ一場ノ謝詞ヲ述ヘ、頭本氏之ヲ訳ス
宴畢テ後、知事・会頭及矢田総領事等ト談話ヲ交換シ、十時本船ニ帰宿ス
(欄外記事)
 此日上陸ヨリ帰船マデ途中巡査ノ警戒厳重ナリ、蓋シ朝鮮人ヲ防禦スルト云フ
十月二十三日 半晴 軽暑
今朝ハ布哇島内外ノ知友来訪ノ約アルニヨリ、六時半起床、洗面了テ衣服ヲ整ヘ七時半朝飧ス、畢テ紺野氏先ツ来リ砂糖業経営ノ沿革ヲ詳話ス、外国新聞社員来リ、原田助氏ノ通訳ニテ時事ノ質問ニ答フ、原田・奥村二氏ト他日再来ノ事ニ関シ談話ス、矢田総領事来話ス、此他種々ノ日米人来訪スルモ悉ク其名ヲ記スヲ得ス、午前十時船布哇島ヲ離レテ進行ヲ始ム、送別ノ男女集合ス、海中島民ノ小児水ニ没シテ銀銭ヲ投スルヲ受ク、恰モ群蛙ノ水面ニ在ルニ似タリ、船本島ヲ離レテ午後一時午飧、後船室ニ在テ読書又日記ヲ編成ス、夜十一時寝ニ就ク
(欄外記事)
 船中ヨリ無線電報ニテ、昨夜饗宴アリシ商業会議所長及アサートン氏ヘ謝詞ヲ送ル
 頭本元貞氏本島ヨリ乗船シテ一行ノ人トナル
 加州人フイラン氏来二十五日頃本邦経由支那行ノ事ニ付、阪谷・藤山二氏ニ電報ヲ発ス
十月二十四日 晴 軽暑
午前七時起床、入浴シテ船室内ニ於テ朝飧ス、後日記ヲ編成ス、又孔子伝(遠藤隆吉氏著)ヲ一読ス、更ニ陶淵明全集ヲ読ム、午後一時食堂ニ出席シテ一行ト午飧ス、畢テ甲板上ヲ散歩シテ遊戯ヲ観ル、三時頃ヨリ再ビ船室内ニテ読書ス、添田博士・杉村外務書記官共ニ船室ニ来リテ、華府ニ開催セラルル軍縮会議及太平洋会議ノ進行ニ関シテ要件ヲ内話ス、余ハ今回ノ旅行ガ如何ナル動機ニ出テシカヲ伏臓ナク陳述シテ、華府到着後ノ行動ニ付テ内議スル所アリタリ、午後五時頃喫茶シテ又読書ス
桑港アレキサンダー氏ニ対スル返電ハ、本船同地着ノ時刻ヲ知リタル後発電スヘキ事ヲ小畑氏ニ注意ス、夜食後甲板上ヲ散歩シ、又室内ニテ読書ス、十一時就寝
十月二十五日 晴 冷
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布哇港ヲ発シテヨリ、船北ニ移レルニヨリ気候頓ニ冷気ヲ覚フ、午前七時起床、洗面シテ後入浴シ、畢テ室内ニテ朝飧ス、食後桑港其他ヘノ無線電信ヲ発シテ、桑港ナルアレキサンダー氏及牛島氏ノ廿九日・三十日ノ饗宴ヲ受ケ、又旅宿ノ手配ヲ滝本氏ヘ通知ス、更ニ沙市ニ向テ徳川公爵ヘ発電ス、午飧後頭本氏ヨリ布哇港ニ関シ移民ノ近況報告アリ、二重国籍ノ事、教育ノ事、同化運動又ハ労働界ノ事共詳細ナル報告アリタリ、後又添田氏ヨリ日米国交ニ関スル外人ノ評論ヲ説明セラル、午後三時頃ヨリ演説筆記ヲ修正ス、夕方ニ至リテ畢ル
夕方甲板上ヲ散歩シ、又演説筆記ノ修正ニ努ム、夜食後活動写真アリ甲板上ハ風清クシテ秋冷ヲ覚フ、十二時頃就寝
十月二十六日 晴 冷
午前七時起床、入浴シテ室内ニテ朝飧ス、畢テ奥村多喜衛氏ヨリ寄送セル布哇移民改善ニ関スル報告書ヲ通読ス、又神谷忠雄氏ノ意見書ヲ閲ス、浅野総一郎氏ヨリ提出スル米国船舶院ノ経営ニ関スル制度ノ要領抜萃ヲ一覧ス、午前頭本・堀越二氏来リテ、華府開催ノ会議ニ付、我全権使節トノ交渉ヲ添田博士ニ托シテ、先ツ華府ニ抵リテ協議スルノ便宜ヲ談話ス、午飧後喫煙室ニテ他人ノ囲碁ヲ観ル、三時過室内ニ於テ読書ス、又日記ヲ編成ス
十一時過寝ニ就ク
(欄外記事)
 桑港及紐育又ハ沙市行郵船ヨリ送リ来レル無線電信ニ答礼トシテ返電ス、徳川公及英米訪問一行ヘ電報ヲ発ス、夜飧後甲板ヲ散歩ス
 室内ニテ読書ス
十月二十七日 晴 冷
午前七時起床、例ノ如ク入浴シテ朝飧ヲ食シ、後雑誌類ヲ一読ス、午飧後桑港ヨリ電報アリ、二十九日夜及三十日午飧及夜飧ノ案内来ル、承諾ノ旨返電ス、徳川公爵ヨリ返電来ル、華府会議ニ関スル余ノ行動ニ付、添田博士ト協議シテ、先ツ同氏ヲ華府ニ赴カシメテ、其模様ヲ知リテ後全権使節会見ノ事ニ定ム、午飧後喫煙室ニ於テ談話ス、又室内ニテ読書ス、夜飧後船客ノ仮装会アリ、甲板上雑沓ス、一同ノ仮装者甲板上ニ於テ撮影ス、夜十時頃喫茶ノ後船室ニ於テ書類ヲ調査ス
十一時頃奥村多喜衛氏ヨリ寄贈セル布哇移民ニ対スル根本問題ト称スル意見書ヲ一覧ス、畢テ就寝
十月二十八日 晴 冷
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ奥村氏著太平洋楽園ヲ読ム又揮毫ヲ試ム、後日記ヲ編成ス、添田博士来リ英人ブライス氏ノ極東ニ関スル著書ニ付種々説明スル所アリタリ、又頭本元貞氏ヨリ時事問題タル支那関係ノ条項ニ付テノ意見書ヲ示サル、曾テ望月小太郎氏ヨリ示サレタル大正四年ノ問題タリシ例ノ二十一ケ条ニ付、説明書様ノモノヲ一覧ス、藤山雷太氏ノ太平洋会議ニ際シテト題スル意書《(見脱)》ヲ一覧ス、布哇ナル奥村多喜衛氏ヨリ寄送セル布哇移民啓発ノ趣意書、及ヒ太平洋楽園ト題スル著書ヲ一読ス
午飧後甲板上ヲ散歩ス、夜飧後ハ競技優勝者ニ賞品授与式ヲ挙ク、食堂ヲ式場トシテ、判事コーク氏ト共ニ賞品ヲ優勝者ニ与ヘテ、一場ノ
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式詞ヲ述フ
夜十時頃畢リテ室内ニ読書シ、十二時就寝
十月二十九日 晴 冷
午前七時起床、入浴シテ茶ヲ喫ス、本日ハ午後桑港上陸ノ予定ナレハ一行喜色アリ、殊ニ一昨日無線電報ノ伝フル処ニヨレハ、米国内ニ目下鉄道工夫ノ罷工起ラントスル趣ニテ、然モ本月三十日ヲ以テ各地一斉ニ勃発スルノ虞アリトノ事ナリシカ、昨夜ノ報知ニテハ其罷工中止モシクハ融和シ得タルトノ事ニテ、船客一同安心スルヲ得タリ、午前九時過船金門ニ入リタルモ、徐行シテ容易ニ着岸スルヲ得ス、桑港ニ駐在スル矢田総領事及ヒ米人アレキサンダー、セスノン、モーア氏多人数来リ迎フ、邦人牛島・安孫子、其他各方面ノ人士多ク来ル、検疫等ノ手続畢テ、午後四時過上陸シテ、ヘヤモント旅宿ニ抵リ小憩ス、後内外ノ親友ト会話ス
午後七時過桑港商業会議所主催ノ晩飧会ヲ当市太平洋クラブニ於テ開ク、一行皆出席ス、ア氏ノ演説ヲ始トシ、外人数名ノ歓迎演説アリ、後余ハ謝詞ヲ述ヘテ宴ヲ畢ル、夜十一時過帰宿、夜牛島氏来話、午前一時ニ至リ就寝
(欄外記事)
 旅宿ニ抵ルト、直ニジヨルタン氏来訪ス、頭本氏通訳ニテ華府会議ニ関シテ、同氏ノ意見ヲ陳述セラル、更ニ明日午前来話ヲ約シテ帰ル
 当夜ノ演説ハ頭本氏通訳セリ
十月三十日 晴 軽寒
十数日間舟中ノ客ナリシモ、昨夜陸上ニテ安全ナル眠食ヲ得タルハ、旅行者ノ愉快トスル所ナルニ、況ヤ此地ハ内外ノ親友頗ル多ク、旧ヲ談シ新ヲ話シ、会晤愈多クシテ友情益厚キヲ覚フ、朝飧畢テ矢田総領事来話ス、又ジヨルダン博士来訪、昨夜ノ談話ヲ継続ス、依テ米国ノ要路者ニ向テ紹介ノ書状ヲ紐育マデ送致スル事ヲ約ス、又矢田領事ニハ余ノ再ヒ桑港ニ帰着ノ時迄ニ移民ニ関スル種々ノ調査ヲ為シテ、提供セラレン事ヲ約ス、但米人側ハアレキサンダー氏ト協議シ、日人側ハ牛島・滝本氏等ト打合ハセラレン事ヲ注意ス、正午桑港ニ設立スル日本人倶楽部ニ抵リ、多数邦人ヨリ歓迎ヲ受ク、春洋丸同船ノ外務・大蔵両省ノ官吏、及銀行者モ来会ス、矢田総領事ヨリ一場ノ挨拶アリテ後、余ハ来賓ヲ代表シテ答詞ヲ述フ、畢テアレキサンダー氏ヨリ送レル自働車ニテ同氏ノ居宅ニ抵ル、宅ハヒーモントト称スル一小市街ニアリテ、瀟洒沈着セル一邸宅ナリ、此日ハア氏令夫人ノ催フセル茶会ニテ、来会スル米人・邦人男女五・六十名許ナリ、庭園散歩ノ後茶菓ノ饗応アリ、余ハ特ニア氏ニ会話シテ、華府会議ノ事及桑港ニ於ル調査ノ事ヲ以テス
此夜牛島氏主催ノ歓迎会当旅宿内ニ開カレ、来会スル者内外人計四十余人ナリ、食卓上種々ノ演説アリ、十時過散会ス
余ノ演説ハ小畑氏通訳ス
夜牛島氏来話、一時ニ至リ就寝
   ○十月二十二日ハワイニ於ケル栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。
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竜門雑誌 第四〇七号・第三〇―三一頁 大正一一年四月 ○渡米日誌 青淵先生(DK330010k-0002)
第33巻 p.206-207 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第三〇―三一頁 大正一一年四月
    ○渡米日誌
                       青淵先生
 本篇は青淵先生が去二月二十五日日米関係委員会に報告せられたる渡米日誌なり、請ふて玆に掲載することとせり(編者識)
 大正十年十月十三日(木)午前九時十五分、一行原首相及各内閣員等を始めとして多数の見送人に送られて東京駅を発し、臨港列車に搭乗して十時十分横浜岸壁に着し、直ちに春洋丸に乗船す、船中にて穂積男爵は渋沢子爵の為めに、阪谷男爵は添田博士其他一行諸氏の為めに首途の祝杯を挙げられ、渋沢子爵之に答へて正午岸壁を離れ港外に於て検疫の手続ありて午後三時抜錨す。
 此日夕刻より低気圧にて船の動揺甚しく、一同大に悩されたるも、翌十四日は午後に至り漸次風波平穏となり、爾来二十二日ホノルルに入港迄連日天気朗晴にして、一行食卓に就かさるものなく、皆元気旺盛なり、布哇港到着前子爵(渋沢子爵を単に子爵と記す)は布哇高等法院長コーク氏と両度会見ありて、移民問題に関し意見を交換したるが、尚帰途再び会談することを約したり、ホノルル港到着以前同氏は無線電信を以て知事其他の有力者に打合せ、一行に対する招待は成可く時間を節約して各種の饗宴を一括する事を協議せられたり。
 十月二十二日午後四時港外に矢田公使、デニソン商業会議所会頭、アサートン同副会頭、頭本氏(一行中の一人にて先に布哇に赴きホノルルにて一行に加はりたるなり)及原田助氏等多数の出迎ありて船中の一室にて会談す、日米新聞記者も来訪して種々の応答あり、夕刻一行アサートン氏の案内にて上陸し、先づ当地の青年会館を一覧し、後商業会議所主催の晩餐会に出席す、食後同会頭・知事・前知事・矢田公使・子爵・原田助・添田博士及アサートン諸氏の卓上演説あり、就中前知事フリーア氏は日米両国人は今後其僻見を去りて共同戮力の方針に出でざるべからずと力説せられ、子爵は今回渡米の理由より説き起し、帰途在留同胞状態の改善、法制の修正等につき研究すべき旨を縷述せられ、双方意志の疎通上大に益する所ありたり。
 翌二十三日朝十時本船ホノルル港出帆、海上無事二十九日午後四時頃米国桑港に達す。
 十月二十九日(土)夕刻船金門湾内に達するや、アレキサンダー、リンチ、セスノン、オスボン、矢田総領事、牛島の諸氏其他多数の出迎ありて、船中の一室に於て会談し、同時に来訪せる多数日米新聞記者の質問に応ずる等の事ありて四時半上陸、直ちにフヱヤーモント・ホテルに投宿す、夜七時一行はユニオン・パシヒイク・クラブに於けるアレキサンダー氏主催の晩餐会に臨み、アレキサンダー、矢田総領事・望月小太郎氏・添田博士・子爵の卓上演説ありて主賓共に歓談せり。
 十月三十日(日)一行は午後一時当地に於ける日本人会主催の午餐会に出席し、午後三時アレキサンダー氏邸に開催せる茶会に赴き、子爵は特に同氏と要談を交換せられ、午後七時牛島謹爾氏主催の晩餐会
 - 第33巻 p.207 -ページ画像 
に臨む、牛島、マックレゴー、頭本、リンチ、アイリツシユ、諸氏及子爵等の卓上演説あり。
 此日スタンフオード大学名誉総長ジョーダン博士は特に子爵を訪問せられ、今般の華府会議に関し注意を与へ、且会議の進捗を謀る為め先づ軍備制限問題を提唱するの得策なる事を提案せられたり。
○下略


竜門雑誌 第四〇二号・第四六―四八頁 大正一〇年一一月 ○青淵先生渡米紀行(一) 随行員増田明六(DK330010k-0003)
第33巻 p.207-209 ページ画像

竜門雑誌 第四〇二号・第四六―四八頁 大正一〇年一一月
    ○青淵先生渡米紀行(一)
                  随行員 増田明六
○上略
      発程及春洋丸船中
大正十年十月十三日 木曜日 晴
 青淵先生には午前八時半東京駅に着し、待合室に位置して雲集せる見送人に一々接見し、午前九時十五分一行と共に、同族一門並に門下生等に擁せられて同駅発特別急行列車に搭乗し、同十時十分横浜岸壁に着す、先生は岸壁に於て同地知名の諸氏、及東京より先着したる人人に迎へられて、春洋丸食堂に於ける先生及一行の留送別会に臨まれたり、先生の見送人に対する謝辞、穂積男爵の先生を始め一行並に随行員に対する送別の辞、阪谷男爵の一行中の添田博士に対する送別の辞ありて、穂積男爵の青淵先生及一行に対する万歳、先生の見送人に対する万歳の三唱ありて、一同乾杯を為して会を終り、先生は甲板に出でて一々見送人と別れの握手を為したり。
 かくて春洋丸は正午汽笛一声と共に、徐々として見送人の万歳声裡に岸壁を離れ、尽きぬ名残を繋ぐ五色の紙も無残に絶たれ、互に打振る帽子も手片も刻々に影を収め、煙波浩蕩たる太平洋上十六日間の運命を船に託する人となれり。
 先生の船室はビー・デツキの真先にて、談話室及浴室を有するテー第一号及第二号を接続したる室なるが、先生は其第二号に入り、増田は其隣室第一号に入れり(因に添田・小畑・穂坂の三氏は同デツキ第十号室に、堀越氏はシー・デツキ第百号に、矢板氏は同デツキの第二百四号に入れり。)
 食堂は一等乗客数に対し狭隘の為め二回に別たれ、先生はセコンドシツテングと定められたり。
 午後三時港外に碇泊、人員検査終了、直に遥に東を指して発航す、午後六時頃より低気圧に出会し、風荒く浪高し、先生は一旦食堂に出でられしも、中途退席して横臥せらるゝに至れり。
 夜穂坂博士の先生診察あり。聊の御別条だになし。
十月十四日 金曜日 曇
 前夜来引続き風浪高く、船の動揺烈しかりし為め、先生には依然船暈を感ぜられしを以て、入浴を廃せられ、室内に於て和服にて朝昼食共少量を摂取せられしも、其間読書を廃せられず。午後五時頃風大に収まり浪亦幾分平静となりしを以て、先生には服装を換へ甲板に出で運動を試み、尚食堂に出て晩餐を取られたり。
 - 第33巻 p.208 -ページ画像 
 夜十時先生を中心として一行の茶話会を開く、日本茶・日本菓子の売行き大に宜し、十一時就寝せらる。先生の健康診断聊か変りなし。
 穂坂博士は本日より朝夕先生の健康診断を為し、尚毎朝後消化剤を勧め且毎日曜日には尿の検査を為すことゝして先生の承諾を得たり。
十月十五日 土曜日 曇
 前夜来の風浪全く収まりて地上に在るが如し、先生には午前六時起床、入浴の後甲板に散歩を試み、朝食の後、同船のホノルヽ裁判長ヂヤツジ・コーク氏と、布哇に於ける日本移民問題に関し談話せられたり。午後渋沢事務所宛無線電信を発す。又本日横浜解纜の鹿島丸にて太平洋会議に出席せらるゝ我が全権委員徳川家達公、及訪英米実業団員大橋新太郎氏に無線電信を発したるも、同船は日本との電信往復頻繁にて、我よりの電信を受付けざる由にて、電信局より頼信紙を返却し来りしかば、更に桑港附近に到り無線電信到達距離の場所に於て打電する事としたり。
 夕刻風起り、浪漸く高まりしも、先生は船暈を感ずるに到られず。食堂に出でて晩餐を取り、又十時一行を集め私設太平洋会議を開かれ午後十二時臥寝せられたり。
 本日の御健康依然御変りなし。
十月十六日 日曜日 曇
 暑気漸く加はり、船員一同白服を着用す。先生には今朝少しく不快を感ぜらる、直に穂坂氏の診察を受られしが、体温・血圧・脈搏平常と変なく、又尿の撿査も聊か異常を認めず。恐らく船暈を感ぜられたるならんとの診断なりし、終日室に在りて三食を取られたり、夜一行先生の室に会す、先生には不快を忘れ、米国の軍備縮小論より我国の軍閥論に及び、日清・日露両戦役と京仁・京釜両鉄道の関係より、遡て我国に於ける最初の鉄道敷設の状況を説き、又維新前民部公子に随行渡欧の際、白耳義皇帝より公子に鉄の講釈をせられたる昔話等一時間に亘りて談話せられたり。
十月十七日 月曜日 曇
 先生気分回復せられ、午前六時半起床、入浴の後甲板に散歩を試みられたり、朝食後午前中は読書に費されたり、午後三時船長牧良治氏より茶に招かれ、日本茶菓・寿司等の饗を受けらる。
 明日より引続き開催せらるゝ運動競技会の打合せあり、先生には名誉会長に選挙せられたり。
 夜活動写真を見物せられ、午後十一時就寝。
 此夜去五日桑港解纜のサイベリヤ丸にて帰朝の途にある姉崎正治博士と、無線電信を以て互に無事を報し、且健康を祝されたり。
十月十八日 火曜日 晴
 先生には昨夜発汗烈敷、今朝不快を感ぜらる、穂坂氏直に診断せられたるに、体温・脈搏・血圧等平常に異なる処なしとの事にて大に安心せられたり、朝食は室内にて取られ、午食より食堂に出られたり。
 夜舞踊会あり、心得ある内外の老幼男女嬉々として之に加はる。
十月十九日 水曜日 晴
 先生昨夜来咳頻りに出づ、睡眠為に妨げられ、今朝聊か疲労せられ
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たるが如し、穂坂氏診察したるに咽喉・胸部は勿論、体温・脈搏等凡て異なる処なし、且一時的のものならんと直に投薬せられたり、朝食を室内にて取られ、午食・晩餐共に食堂に出られたり。
 ホノルヽ駐在矢田総領事、同地アサートン氏並に商業会議所会頭に無線電信を発す。
十月十九日 水曜日 晴
 昨夜東半球を通過して西半球に入り、十九日の水曜日を繰り返す、先生には不相変書籍に親しまれ、時々甲板及喫煙室に出でらる。
十月二十日 木曜日 晴
 昨夜来北東貿易風吹き、案外涼気を覚へ睡眠心地甚だ良し、先生には何日に無く午前八時頃まで就眠せられ、夫より室内にて朝食を取り不相変午前中読書に時を送られたり。
 午後船長・機関長等の懇願難断、遂に揮毫十枚を試みらる。午後三時二等船客の為めに先生に講演を請ふとの依頼ありしも、音声充分ならざればとて、添田博士に於て代りて之を試みられたり。


竜門雑誌 第四〇五号・第四二―四五頁 大正一一年二月 ○青淵先生渡米紀行(二) 随行員増田明六(DK330010k-0004)
第33巻 p.209-212 ページ画像

竜門雑誌 第四〇五号・第四二―四五頁 大正一一年二月
    ○青淵先生渡米紀行(二)
                  随行員 増田明六
 本紀行は第一回を本誌第四百二号に掲載を請ひたるまゝ多忙の為め中絶したるが、再度本社に請ひ本月より前回を逐ふて掲載する事としたり。
十月二十一日 金曜日 晴
 天晴れ波静かなり、先生には朝食を室内にて取られ、午及晩餐を食堂に於て取られたり。
 明日はホノルヽに於て天洋丸に出会するを以て、日本行郵便物は同船に託する方便利ならんとの船内掲示に依り、先生には穂積・阪谷両男爵其他宛信書、及竜門社より依頼の演説筆記修正、並に明日ホノルル寄港の際内外新聞記者等に交付すべき宣言書の起草に、終日を費やされたり。
 夜ホノルヽ商業会議所会頭デニソン及フランク・アサートン両氏より、明二十二日子爵以下一行を晩餐会に招待したしとの電報あり、欣然受諾の旨を答電せらる。
十月二十二日 土曜日 晴
 早朝島嶼を見、又多数の飛鳥を瞥見す。
 海上頗る平穏、先生には元気旺盛甲板に出でて船客と談笑せらる。
 午後四時ホノルヽ港外に到着、検疫を受く、布哇商業会議所会頭デニソン氏及アサートン氏始め、矢田総領事・原田助・頭本元貞氏、及日布時事・布哇報知・同新報・同日報・実業の布哇の各新聞雑誌社員其他米字新聞記者陸続上船して一行を犒ふて会談す、特にマクダフヰー探偵長は、布哇知事の命を受け先生護衛の為め衆に先んじて乗船、子爵の身辺を警護せられたるは、特に感謝すべき事なりとす。
 午後六時アサートン氏の案内にてホノルヽ国際基督教青年会館に至り、其事業の状況を一覧す。
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  因に同会館は、布哇基督教青年会々長アサートン氏の私財を投じて買収したる敷地及其寄附したる建築費を基礎として、大正七年設立せられたるものにて、新聞閲覧室・球戯室・学習室・教室・食堂等設備至らざるなし、青淵先生にも先年其趣旨を賛し、同志と共に相当の援助を与へられたるを以て、今般の寄港を機として、先づ之に案内を受けたる次第なり。
 午後七時半パシフイツク倶楽部に於て開催せられたるホノルヽ商業会議所主催一行歓迎晩餐会に出席せらる、来会者は同地に於ける各方面の重立ちたる米国官民を始め、日本人側よりは矢田総領事・ドクトル毛利・伊賀・原田助博士・日布時事社長相賀安太郎・奥村多喜衛牧師等にして、主賓としては青淵先生以下一行を始め、同船の華盛頓会議に赴く随員諸氏なり、先づ商業会議所会頭デニソン氏日本天皇陛下の、又矢田総領事米国大統領閣下の万歳を三唱し、続てデニソン会頭司会者となり、布哇県知事フアーリントン氏、矢田総領事、前県知事フリーア氏の演説に続き、青淵先生は起ちて頭本元貞氏の通訳にて、東京日米関係委員会の組織趣旨より説き起し、同会の決議を以て今回其姉妹機関とも謂ふべさ桑港日米関係委員会、並に紐育市に新設せられたる米日関係委員会を訪問して、将来米日両国の親善を増進すべき任務を託せられたるが、尚此機会に於て、当地並加州在留同胞の状態を視察し、之が改善等に付き研究すべき旨を縷述せられたり。
 尚原田助博士・添田博士、及フランク・アサートン氏の演説ありて午後十一時終了、直に帰船したり。
十月二十三日 日曜日 晴
 午前十時アサートン氏を始め、矢田総領事夫妻・原田助・毛利、伊賀・奥村多喜衛氏等、内外多数知人の見送を受けつゝ、ホノルヽ港を解纜す、同港を遠ざかるに従て風浪起り、船動揺烈しかりしが、先生には船暈にも冒されず、不相変読書に親まれ、健康聊も変り無し。
十月二十四日 月曜日 晴
 冷気刻々加はるを覚ゆ、船の動揺前日に異ならず。
 先生には午前六時起床、朝食を室内に取られ元気旺盛、終日書見に費やされたり。
 ホノルヽ商業会議所会頭デニソン氏及アサートン氏、矢田総領事・原田助諸氏に、在布中の厚意に対し謝電を発せらる。
十月二十五日 火曜日 曇
 風浪依然減退せず、先生には既に船上生活に慣れ、船暈を感ぜられず、朝食後頭本元貞氏の布哇在留邦人の状況に関する視察談を聴取せらる。
十月二十六日 水曜日 曇
 先生の健康聊も変り無く元気旺盛なり。
 桑港アレキサンダー氏を始めとして、親友諸氏より先生宛電報荐りに輳る、一々答電を発せらる。
十月二十七日 木曜日 晴
 先生の健康聊も変り無し。
 朝食後先生には添田・頭本・堀越三氏を会し、米国上陸後の行動に
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就き種々協議の結果、添田博士は華盛頓に急行し、日本全権に面会の上、十一月十一日会議開会の日先生にも列席すべき哉、又滞米中全権の為如何に応援すべきや、又全権の同会議に対する所見如何哉等を問合はせ、之を先生に報告する事と決し、先生は此報告に依りて紐育到着後の行動を定むる事となれり。
十月二十八日 金曜日 晴
 冬季の航海に於ては、桑港に近くに従て濃霧に遭遇するか、又は風浪に会するかの例なれども、本日は天気快晴、加ふるに風無く浪穏にして、先生には心気頗る爽快を覚へらる。
 夜船長の留別晩餐会あり、先生には乗客一同を代表して謝辞を陳べらる。
 午後八時半より船上運動会の賞品授与式あり、名誉会長たる先生、及会長たるヂヤツジ・コーク氏の挨拶ありて、コーク氏の受賞者氏名呼上げに従て、先生より手づから一々賞品を授与せられたり。
 明日は禁酒国に入るを以て船中酒場は今夜限と計りに頗る盛なり。
十月二十九日 土曜日 晴
 天気晴朗、小春日和なり、午後二時港外投錨、検疫を受く、国務省代表オーステン、桑港日米関係委員会々長アレキサンダー、及同会員ムーア、セスノンの諸氏、桑港商業会議所副会頭リンチ氏を始めとして、矢田総領事・牛島在米日本人会長、小島・土井・安孫子の諸氏及米日両国の新聞記者諸君陸続乗船して、先生以下一行を迎へて快談の後、船尾のパーム・ルームに於て桑港商業会議所の先生に対する歓迎式あり、来会者一同列席の後同会頭アレキサンダー氏の大要左の如き歓迎辞あり。
  今回日本に於ける日米関係委員会の盟主子爵渋沢栄一氏、並に一行を迎ふるは、桑港商業会議所員の光栄とする所なり、先年当地関係委員の一部が日本を訪問したる際、渋沢子爵の主宰する東京関係委員諸氏を始めとして、各地商業会議所並日本官民の各種団体より与へられたる厚情は、吾等の感謝措く能はざる処なり、一葦帯水の日米両国は飽く迄も親密ならざるべからず、此の意味に於て吾等の親愛する東京の関係委員一行を爰に迎ふると共に、多年日米親善の為めに尽力せらるゝ渋沢子爵が、老体を省みず遥々渡米せられし事を、桑港米日関係委員会を代表して深く感謝する次第なり、云々。
 右に対する先生の答辞は、桑港商業会議所会頭アレキサンダー氏の歓迎の辞に対し、予は衷心感謝の意を表す、日米の問題に付ては予は不絶苦心を重ね、今回は華盛頓会議の開催せらるゝを機会に単独渡米して、桑港の米日関係委員諸氏、及び当局者と会し種々協議せんと決し、之を東京日米関係委員諸氏に諮り、遂に同会を代表して渡米する事となりし次第より、両国親善の必要に説き及ぼし、今回の華盛頓会議は世界人類の為め、是非成功せしめざるべからざる所以に言及せられたり。
 午後四時半出迎人に擁せられてフエヤモント・ホテルに投宿す。
 同七時先生以下一行ユニオン・パシフイツク・クラブに於ける桑港商業会議所会頭アレキサンダー氏主催の晩餐会に出席す、出席者氏名
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如左。
 主人側はアレキサンダー、ジヨルダン博士、リンチ、グラハム、ベントレー、ローエル、クリードヘール、ストロール、モーア、コスター、ミツチエル、フエフロン、バーグ、ドールマン、シヤアマンの諸氏、又来賓側は
 青淵先生・添田寿一・頭本元貞・堀越善重郎・増田明六・小畑久五郎・穂阪与明・矢板玄蕃・矢田総領事・望月小太郎・深井英五、及在留邦人の主なるもの数氏なり。
 デサート・コースに入りアレキサンダー氏司会の下に矢田総領事・添田博士及青淵先生(頭本元貞氏通訳)の演説あり、主客歓を尽し深更ホテルに帰宿す。


竜門雑誌 第四〇七号・第四七―四八頁 大正一一年四月 ○青淵先生渡米紀行(三) 随行員増田明六(DK330010k-0005)
第33巻 p.212-213 ページ画像

竜門雑誌 第四〇七号・第四七―四八頁 大正一一年四月
    ○青淵先生渡米紀行(三)
                  随行員 増田明六
十月三十日 日曜日 晴
 昨夕桑港に上陸したる青淵先生は、今朝は桑港十数種の日米両新聞紙に依りて迎へられ、先生の肖像及言行は夫等の紙面を圧せん計りに掲げられたり。
 先生は朝餐も匆々に、アレキサンダー及リンチの両氏を始めとして引きも切らざる日米両国人の来訪者に午前を費し、正午日本倶楽部に於て総領事館並横浜正金及東洋汽船両支店合同開催の歓迎午餐会に出席し、矢田総領事の歓迎辞に関し答辞を述べられ、午後三時ピートモンドなるアレキサンダー氏邸に於ける同主人夫妻の心を込められたる茶話会に臨み、午後七時フヱアモント・ホテルに於て催されたる牛島謹爾氏の歓迎晩餐会に臨み、牛島氏司会の下にリンチ、頭本元貞、ジヨルダン、添田博士、アイリツシユ、及青淵先生の演説あり。
 青淵先生演説の大要を録すれば左の如し。
 『予と牛島氏の交りは去明治四十二年に始まりしが、爾来予は氏と日米国交の増進に就て協力し、又氏の事業上に付き相談も受け、或は支那文学に関し互に研鑽したるが、氏は米国には知られざるも日本人仲間には詩人として知らるゝ人なり。
 扨て本席の如く、米日両国人打寄りて互に隔意なき談話を交換する様子を見れば、最早米日親善の言葉すら必要なきは勿論、予の今回老体を以て渡来したる必要をも見出さゞるなり、乍併予は米国より今日迄に学びたる事の頗る多きを以て、此機会に於て其一端を陳べて酬ゆるの意を表するは、敢て無益の事にもあらざるべしと思ふ。
 米日国交の開始せらるゝ当時に於ては、米国民は日本人に依りて侵略的国民と誤解されたり、予も誤解したる一人にて当時米国に反抗心を有したり、併し其後米国人の行動に拠りて、決して斯る国民にあらず、真に深切にして、特に日本の為には日本国民を文明に誘掖する恩人と思はしむるに至れり。
 予の数十年間従事したる銀行業の如きも、明治の初年米国に教を受けたるものなり、今日日本の金融機関の整備も必竟米国に負ふ処のも
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のなりと云ふべし。
 米国の国是は正義に依りて人道を行ふにあり、本夕御集まりの諸君の如き御人々が、此正義人道を東洋に米国に、将又世界に行はんとすれば何事かならざらん。
 此正義人道を主義とする米国の一角に排日土地法の施行せられ居るは誠に遺憾の至りなり、予は此回渡来を機として、出来得る丈け之が緩和に勉めんとす、又布哇に於ける排日問題に就きても是亦大に研究を要する次第なるに付き、充分調査して改良の方法を講ぜんとす。
 更に華府会議に於ける議題は未知の事なれども、其結果は世界平和に至大の関係を有す、就中軍備縮小案の如き出るあらば、予は極力之が実現に勉めんとす、諸君に於ても是非側面より援助せられん事を希望す云々』。
 来賓青淵先生・添田寿一・頭本元貞・堀越善重郎・望月小太郎・増田明六・小畑久五郎・穂阪与明・矢板玄蕃、陪賓矢田総領事・小島正金支店長・土井東洋汽船支店長、ダブリユ・エム・アレキサンダー、ロバート・エヌ・リンチ、フレデリツク・ジエー・コスター、ウイリアム・テー・セスノン、チエスター・エツチ・ローウエル、ジヨン・エー・マツグレゴール、ジヨン・ピー・アイリツシユ、ゲーウイン・マツクナツブ、ウオルトン・シー・モーア、トウマス・ジヨンス、ヘール、アルバート・エツチ・エリオツト、ジー・シー・カルデン、ダブリユー・スプルール、ジエームス・ロルフ市長の諸氏なり。
○下略


中外商業新報 第一二七八一号 大正一〇年一〇月一三日 渋沢子の渡米(DK330010k-0006)
第33巻 p.213 ページ画像

中外商業新報 第一二七八一号 大正一〇年一〇月一三日
    渋沢子の渡米
渋沢子爵は愈々本日米国に向つて出発せらる。子爵が日米問題の為めに尽瘁せるや既に久し。今や又八十二の高齢を以てして、自ら敢て此大任に赴かんとす。其身を挺して国家の難事に当らんとする熱誠と気魄とに対しては、誰か感激せざる者あらん。子爵今回の使命たるや、単り我国のみの為めに非ずして、亦実に米国永遠の福利に繋り、進んでは世界人類の福祉を増進すべき大意義を有す。米国々民たる者、子爵の崇高なる人格と識見とに敬虔の情を表すると共に、深く此意義を諒解し、世界人道の為めに、子爵の渡米をして徒爾に了らしめざらんことを望まざるを得ず。玆に子爵の出発に際し、一路平安と其健康を祈るや切也


中外商業新報 第一二七八一号 大正一〇年一〇月一三日 今朝出発の一団体 渋沢子も其内に(DK330010k-0007)
第33巻 p.213-214 ページ画像

中外商業新報 第一二七八一号 大正一〇年一〇月一三日
    今朝出発の一団体
      渋沢子も其内に
今日渡米する華府会議行の随員其他の人々は
 渋沢子・添田博士・穂坂博士・堀越善重郎・矢板玄蕃・増田明六・小畑久五郎諸氏、外務書記官杉村陽太郎・木村鋭市・酒匂秀一・岸田英治、領事官補杉山叙三郎、翻訳官山木恒太郎・高柳錠太郎、同嘱託立法学博士・久野医学博士・石川守一・根岸商大教授、大蔵書
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記官富田勇太郎・神鞭常孝・川越丈雄、外務省属伊地知吉次・吉屋克正・田畑信順・関春水・飯田七郎、大蔵省属入江昂、貴族院属中村茂、日本銀行理事深井英五、正金理事小田切万寿之助の諸氏
で、今朝九時十五分の特別列車で東京駅出発、正午解纜の春洋丸に搭乗する


中外商業新報 第一二七八二号 大正一〇年一〇月一四日 原さんが渋沢子の手を堅く握り「御身体を大切に…」との言葉の裡に無量の意味を含ませつ見送りの人に涙の要求(DK330010k-0008)
第33巻 p.214-215 ページ画像

中外商業新報 第一二七八二号 大正一〇年一〇月一四日
    原さんが渋沢子の手を堅く握り
      「御身体を大切に…」との言葉の裡に
      無量の意味を含ませつ
        見送りの人に涙の要求
彼方で一団、此方で一塊の渦を捲いての歓談笑語と袂別の辞が絡み合つての雑閙、之は日米親善の為め八十二歳の老体を提げて渡米する渋沢子爵の一行と、華府会議に
 派遣 される外務・大蔵両省若手の随員や、顧問・嘱託の面々が鹿島立ちする十三日朝東京駅に於ける光景であつた、矢板氏がフロツク姿で先頭第一に乗着けて、誰彼れとお別れの挨拶に忙しい、添田博士が背広服でニコニコ顔でゐると、八時半頃渋沢子爵がフロツク姿で駅に現れる、見送りの人々は波を打つて子爵を取巻きヤツト一等待合室に這入つた
 子爵 の周囲に絡はる人の多さに至は身動きもならぬ、元気な子爵は愛嬌豊に万遍ない挨拶を返してゐると、帝劇女優森律子が綺羅を飾つて現れる、実業界の巨頭は殆ど集ふて、老体の行を送る、原首相が「お身体を大切に…」と言葉をかけると「ありがたう―」と堅く交された握手には、無量の意味が包蔵された、見る者の眼に自ら感激の涙を要求せんとするのであつた、駅の入口から待合室と
 寸隙 もない人込みの間を杉村・木村・酒匂・岸田の外務書記官や富田・神鞭・川越の大蔵書記官、立・久野・穂坂三博士、日銀理事深井英五・正金理事小田切万寿之助氏等が人波に揉まれながら、お別れに目を廻してゐる、中橋文相・高橋蔵相・山本農相・山梨陸相・大木法相等の各大臣が人波を泳いで改札口へ向つた、原首相の如きは混雑に堪へかね気味
 雪崩 を打つて歩廊へ殺到した見送りは長い歩廊を大臣・学者・実業家で埋めた、折柄横浜岸壁直通の七輛連結臨事列車が着いた、即ち
 渋沢子爵・添田博士・穂坂博士・堀越善重郎・矢板玄蕃・増田明六・小畑久五郎の諸氏、外務書記官杉村陽太郎・木村鋭市・酒匂秀一・岸田英治、領事官補松山叙四郎、翻訳官山木恒太郎・高柳錠太郎・同嘱託立博士・久野医学博士・石川守一・根岸商大教授、大蔵書記官富田勇太郎・神鞭常孝・川越丈雄、外務属伊地知吉次・吉屋克正・田畑信順・関春水・飯田七郎、大蔵省入江昂、貴族院属中村茂、日銀理事深井英五、正金理事小田切万寿之助
の大一行三十名は列車に
 乗込 んだが、家族・近親・見送りの人々で列車内も寿司詰の大入列車の窓からは三十名の顔が覗いて、尽きぬ別れに精一杯の言葉や動
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作が其処に集積される、遅ればせに来た内田外相が窓から渋沢子爵と最後の握手を交し、外務省の随員連を励ましてゐる、と発車合図の笛が響く、早稲田大学々生の一団は渋沢子爵の為に
 校歌 を高唱し、列車は滑るが如く緩く動き始め、万歳の声は一斉に歩廊に起つて耳も聾せん許り、帽子・ハンカチーフを打ち振つて互に名残りを惜む、間もなく汽車は西に隠れた、此日の見送人はすへて五千人もあつたらう
    効果を齎しますぞと春洋丸で渋沢子
      見送の人で船内は一杯
        それに生花造花の花環も沢山
 十三日横浜電話=渋沢子爵を始め渡米する一行は、十三日午前十時十五分横浜岸壁着の臨港線列車で来横し、直に六号岸壁繋船の
 春洋丸 に乗船した、黒のフロツク姿の渋沢子爵は同船特別一等室に入り、休憩の後に同子爵の一般面接室に当られた一等食堂に入る、と待受けて居た京浜実業家二百五十余名の握手攻に逢ひ上機嫌で巧に応待した上、巨大な体躯をルームの中心に運んで「私が此の老体で渡米するに就いては、大分心配して下さる方があるが
 皆様と は暫時のお別れであつて、再び相見ゆるの時は此渡米に対し何等か効果を齎す考である」と重々しい語調で挨拶を述べ、杯を挙げて一同の健康を祝し、穂積陳重博士見送り人を代表して子爵の健康を祝し、万歳を三唱した、室内は花環や生花で埋まつて居た、かくて此賑かな船は正午予定の通り錨をあげ波を蹴つて行つた


東京朝日新聞 第一二六九七号 大正一〇年一〇月一四日 華盛頓へ(DK330010k-0009)
第33巻 p.215-216 ページ画像

東京朝日新聞 第一二六九七号 大正一〇年一〇月一四日

図表を画像で表示--

  華盛頓へ    政府随員と     偶々船を共にして      渋沢子の一行       綱島氏もコツソリと        けふ横浜を解纜 



自ら民選全権を以て任じ、最後の花を咲かすべく華盛頓さして渡米する渋沢老子爵と、其同行の添田寿一博士・堀越善重郎氏、同随員の杉村・木村・酒匂・岸田各外務書記官、富田・神鞭・川越各大蔵書記官立法学博士・根岸商大教授の諸氏と偶然
船を一 にして渡航すべく今朝九時十五分東京駅発臨時列車に乗り込んだが、その為め見送り人の雑沓は近来稀有ともいふべく、駅構内は紳士淑女の群で身動きもならぬ光景を呈し、玆を晴れと良人に負けぬ外交的手腕を見せる杉村・木村氏夫人等の美しい笑顔も目立つた、汽車は定刻湧き返る万歳
誰への 餞けか早稲田の校歌も浪と響いて揺き出す一行を送つた、横浜岸壁着は十時十分、正午解纜の春洋丸上での別れの幕も賑やかであつた、尚人に気づかれずにソツと出発した代表のうちに、全国基督教団体に選ばれて華府に赴く綱島佳吉氏があつた
    二つの悪魔を矯めて…
          渋沢氏決心を語る
 - 第33巻 p.216 -ページ画像 
出帆間際の春洋丸甲板に立つた渋沢老子爵は、満面喜悦の色を泛べて「御見送り有難う、唯喜ばしいと云ふ気持だけです、其感謝として今度は十分責任を果します」と確乎たる決心を示し「もう感想も大概言ひ尽して了つたので何も無いが、今度の会議では大陸たる米国民の茫漠性と、海国民たる日本人の小さな猜疑と、是等の二つの悪魔を矯めてお互ひがしつくり理解し合へば、会議に於ける難問も何のその」と元気横溢、密かに抱負を示す、正午の鐘を合図に、勇ましい奏楽と共に徐々に船が埠頭を離れ初めると、塩沢博士を先導に「都の西北」と首途を祝ふ早大生の歌ふ声に四辺は轟く、船上も埠頭も万歳の声に打ち震ひつゝ、船は沖へ沖へと進んで行つた(横浜電話)


東京朝日新聞 第一二六九七号 大正一〇年一〇月一四日 渡米実業団の使命 国際商業団体設立の提案(DK330010k-0010)
第33巻 p.216 ページ画像

東京朝日新聞 第一二六九七号 大正一〇年一〇月一四日
    渡米実業団の使命
      国際商業団体設立の提案
渋沢子爵・添田博士・堀越善重郎氏の一行は、十三日横浜出帆春洋丸にて渡米の途に就きたるが、渡米の目的は先年我国に来朝せる紐育のバンダリツプ氏一行に対する返礼を兼ね、太平洋沿岸、桑港、オークランド、シアトル、タコマ等の各都市に在留せる同胞の状態を調査し以て排日問題に対する何等かの適当なる方法を講じ、更に華盛頓に開催さるゝ太平洋会議をも視察すべしとの事なるも、右は単に表面の目的に止まり、其裏面には更に
 重大なる要務 の存する模様あり、其内容は事件の成立如何に関係するを以て、今尚絶対に秘密に付し居れど、洩れ聞く処によれば、紐育又は倫敦に国際商業団体を創設し、日・英・米の三国が互に協定して、対外貿易の円滑を計り、為替関係・関税問題等に対しても十分なる了解を得、不自然なる競争を避て、以て世界的完全なる商業貿易の発達を期せんとするにあり、米国側は主として渋沢子が其衝に当り、英国側は団氏が専ら協議を遂ぐる予定なるが、勿論右の如きは其目的に於て大に必要なるも、各国共に商業政策を異にし、特に産業保護等に対しても
 政府の方針 確立せるを以て、容易に実行し能はざるべし、尤も倫敦に現存せる国際商業協会あり、我国にても三井・三菱其他の倫敦支店員が会員として関係せるも、右は主として一個の社交機関に過ぎざるを以て、或は更に之れを一層大なる基礎の下に築かんとするものならんが、要するに軍備制限問題と相俟つて、国際的商業の協定を遂げ経済聯盟をなす事は必要ならんが、渋沢子は右に対し、堅き決心を以て政府の了解も得、之れが実現に努力すべしと云ふ


東京日日新聞 第一六一七七号 大正一〇年一〇月一四日 米国へ華盛頓へ… 実業団やら随員やら(DK330010k-0011)
第33巻 p.216-217 ページ画像

東京日日新聞 第一六一七七号 大正一〇年一〇月一四日
    米国へ華盛頓へ…
      実業団やら随員やら
渋沢子・添田寿一博士・穂坂医学博士・堀越善重郎・矢板玄蕃・増田明六・小畑久五郎諸氏実業家一行に、華盛頓会議全権委員随員たる立法学博士、久野・石川各医学博士、小田切万寿之助・深井英五、木村
 - 第33巻 p.217 -ページ画像 
酒匂各外務書記官、杉村・岸田各外務事務官、富田・神鞭・川越各大蔵書記官、其他一行、及望月小太郎・岸辺・福羽諸氏は、十三日午前九時十五分東京駅発(臨時汽車)正午横浜解纜の春洋丸にて渡米の途に上つたが、東京駅には家族親戚を始め原首相・内田外相・床次内相加藤海相・山梨陸相・中橋文相・山本農相・牧野宮相・野田逓相・米国大使ワーレン氏、其他朝野の名士数百名の見送があつた


報知新聞 第一六〇四八号 大正一〇年一〇月一四日 太平洋を呑の慨 気焔の皮切は先づ渋沢子から=真の責任者は却て吾々にあると 十三日発春洋丸特信(DK330010k-0012)
第33巻 p.217 ページ画像

報知新聞 第一六〇四八号大正一〇年一〇月一四日
    太平洋を呑の慨
      気焔の皮切は先づ渋沢子から=
      真の責任者は却て吾々にあると
                   ◇十三日発春洋丸特信
渋沢子爵及び華盛頓会議出席全権随行員廿名を乗せた春洋丸は、十三日正午横浜を解纜した、空は曇つて居るが、波無く穏かな船出である其重な船客は渋沢子・望月小太郎・小田切万寿之助・深井英五、外務省の木村鋭市・酒匂秀一・杉村陽太郎、大蔵省の神鞭常孝・富田勇太郎・川越丈雄、添田博士・綱島佳吉氏等である、此一行の大部分が
▽支那問題解決者 で、顔外交総長が支那の首席全権を辞して顧維鈞氏か施肇基氏が首席全権になると云ふ話だ、何れにしても排日を標榜して支那の人気を煽らうと云ふ曲者だが、之に対する秘策が悉く春洋丸に寄せられてある訳で、果して巴里会議の轍を履むか履まぬか、殊に是等の人々の責任であるから、華盛頓会議に対する真の責任者は十五日の鹿島丸で無くて、寧ろ春洋丸であると云はれたのも、無理でない、尚渋沢子は傍に添田博士や木村・杉村氏等を迎へ盛に議論を闘はせ、意気大に昂つて居るが、今度の渡米に対する抱負に就き此様だと語つた「一人渡米するのは国民外交で
▽日米関係を一新 したいと云ふ素志からで、昨年十一月排日法案が国民投票に問はれんとした時、之が阻止運動をしたが其甲斐がなかつた、併し一面から見れば、排日の原因に就ても日本としては大分省みなければなるまい、即ち在留民の教育方法に自由国籍の如き多少考へねばなるまいと思ふ、幸ひ桑港にも日米関係委員会あり、紐育にも最近出来たから、是等の人とウンと意見の交換をして見たいと思つて居る、一概に米国の誤解と云ふが、支那に対しては若し悪い事があれば改めてはどうかね、丁度華盛頓会議も始まることだから、何か
▽両国の為になる 事があれば尽したいと思ふ、軍備制限は大賛成である、是非共実現して貰ひたい、堅い話は之で打切り、今の若い者はね……」外務省きつての元気者木村鋭市氏も流石に顔色ない、話頭は更に井上侯や伊藤公の少壮時代に及び尽る時を知らず、船はだんだんと東京湾を離れて行く


報知新聞 第一六〇五〇号 大正一〇年一〇月一六日 大賑ひの太平洋の航海 若い者に負けぬと渋沢子の大元気 十五日午前十時春洋丸にて 山森特派員(DK330010k-0013)
第33巻 p.217-218 ページ画像

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時事新報 第一三七三八号大正一〇年一〇月一七日 独り元気な春洋丸の渋沢子 船中多数は疲労す(DK330010k-0014)
第33巻 p.218 ページ画像

時事新報 第一三七三八号大正一〇年一〇月一七日
    独り元気な春洋丸の渋沢子
      船中多数は疲労す
〔春洋丸国際社十五日発〕渋沢子爵は国際通信社の無電に依り、英国首相ロイド・ジヨージ氏自ら華盛頓会議に列席するだらうとの報に接したが
 子爵は 此の報に対してロイド・ジヨージの如き為政家の参加は、必ず会議の成功すべきを最も強く示す所の、幸福な前徴であるとして満腔の喜びを表してゐる、米国上院議員ノツクス氏の逝去の報に対しては、渋沢子は哀悼の情を以て迎へ、氏の極東問題に関する深い知識と
 非常な 経験とは、現下の時局に際して殊に重要なものであると述べた、横浜解纜以来天候甚だ険悪で、船中にある多数の人々には疲労の色が見えるが、渋沢子爵は至極元気で、種々の談論に加はり、例の如く熱心で元気溌溂たる事壮者の如くである


時事新報 第一三七三九号大正一〇年一〇月一八日 移民問題の懇談 春洋丸の船中渋沢子の一行(DK330010k-0015)
第33巻 p.218 ページ画像

時事新報 第一三七三九号大正一〇年一〇月一八日
    移民問題の懇談
      春洋丸の船中渋沢子の一行
(春洋丸無線電信十六日午後三時発)午後二時より三時半まで、渋沢子を中心として添田博士・杉村陽太郎氏等は、布哇高等法院長コウクハンジと布哇に於ける移民問題につき懇談す


中外商業新報 第一二七九三号大正一〇年一〇月二五日 渋沢子爵一行ホノルヽ着(DK330010k-0016)
第33巻 p.218 ページ画像

中外商業新報 第一二七九三号大正一〇年一〇月二五日
    渋沢子爵一行ホノルヽ着
廿三日ホノルヽ発=渋沢子爵一行は春洋丸で桑港に向ふ途次当地に到着した(国際直電)

 - 第33巻 p.219 -ページ画像 

竜門雑誌 第四〇三号・第七八―七九頁大正一〇年一二月 ○渡米途上の消息(DK330010k-0017)
第33巻 p.219-220 ページ画像

竜門雑誌 第四〇三号・第七八―七九頁大正一〇年一二月
○渡米途上の消息 青淵先生には本月○十月二十二日布哇寄港の際、同地新聞記者団の訪問に対し、左の如く語られたる由、布哇新報は報ぜり。
 『さあ御質問があれば何なりとも』と添田博士が開き直つた所に、総領事との一通談話が済んだ子爵は、当山哲夫氏の紹介で記者団と挨拶を取り交し、記者に椅子を進めながら黒の衣服に身を固めた老子爵は、八十二歳の高齢とは見受けられない迄に
 △肉付の豊かな 血色のよい顔に微笑を浮べて『私は之で四回の渡米である』とて感慨深そうな面もちをなし、日米関係委員会の事に及び『加州に大正二年土地禁止法案が出た時、大いに努力する所があつたが甲斐なく、昨年の土地所有禁止案が遂に通過するに至つたのである
 △加州の排日 は其後益々盛んになりつゝあるが、一つは其の原因を確めて政府の手許りでなしに、国民の融和によつて出来るだけの努力を問題の解決に致したいのである』と述べ『支那に於ても日本の利権開発に就て、日本が兎角に優越権を壟断するかの如く米国人中に解するものあり、夫が単に実業界計りでなしに政府間に迄も
 △感情の疎隔 を来さしめて居る、実に悲しむべきことであつて、出来る丈けこれ等の誤解も解きたいと思つて居る』一行の旅程は添田博士の談の如くであるが、子爵は『帰りに華盛頓会議ものぞいて来る筈であるが、若し自分に相談でもあれば及ばず乍ら国の為に最善の努力をなす決心である』とて、更に『此の会議の成功不成功は実に
 △重大なる問題 である』と云ひ、国を思ふ誠心が眉宇の間に溢れて、何だが尊い気がした、子爵は更に布哇に帰りに寄る理由に就て『近来布哇に於ける同胞労働者の思想が大変過激になつて来た様である、例へば昨年のストライキの如き、之は実に痛心すべき事であつて、私が布哇に寄つて一週間許り滞在しようと云ふのは、労働者の
 △実状を調べ 忠告すべきは忠告し、米国政府の施政宜しきを得て居ないならば、忌憚なき意見を発表して聞いて貰ひ、幾分にても移民問題の解決に努力したいからである』と語られた、又『世界大戦後世界の民心が殺伐になつて来た事は、実に悲しむべき事である』と云ひ、平和の愛好者を以て任ずる米国の近来に於ける無制限の軍備拡張と云ふ事と
 △矛盾して居る 事実を指摘し、最後に『世の中は術数策略を以てやつて行けるものではない、此の渋沢は未だ曾て言つて行はざりし事はない、言つた以上は行はねばならない、此の誠意なくして何事も成就するものでない』と言はれた、此の言こそは、今日子爵が実業界に於ける聖人と云はれる所以ではあるまいかと首肯せられた
 △子爵の宣言 別項にあるが(前号掲載に付略す)それに依つても子爵の高潔なる人格は伺はれるものがある、船が桟橋に着くや、子爵一行はマクダフイー探偵長が厳重に護衛して上陸、陸軍司令官代
 - 第33巻 p.220 -ページ画像 
理の歓迎を受け、多数名士出迎の中に、陸軍の派遣兵に護られて当地白人商業会議所の晩餐会にと向はれた


東京日日新聞 第一六一九六号大正一〇年一一月二日 実業団桑港着(DK330010k-0018)
第33巻 p.220 ページ画像

東京日日新聞 第一六一九六号大正一〇年一一月二日
    実業団桑港着
〔桑港特電〕(廿九日発)渋沢氏一行の実業団は、廿九日午後一時桑港に到着し、外交家連、国務省派遣のオスデン氏及桑港商業会議所代表、市長等の出迎へを受け、在米邦人の主なる人々も是に加はつて居た、廿九日夜は商業会議所主催の下にアレキサンド・ユニオン・パシフイツク倶楽部に招待を受け、卅日は主なる在米邦人主催の下に、日本倶楽部に於て昼餐、夜は牛島謹爾氏主催の晩餐会がある筈であるが卅日午後アレキサンダー氏夫妻が、ピードモンド邸宅に於て茶話会を開く筈である、因に一行は頗る元気であると


時事新報 第一三七五六号大正一〇年一一月四日 渋沢子と加州問題 其解決の必要と軍縮会議の内容とを説く(DK330010k-0019)
第33巻 p.220 ページ画像

時事新報 第一三七五六号大正一〇年一一月四日
    渋沢子と加州問題
      其解決の必要と軍縮会議の内容とを説く
〔桑港特電一日発〕渋沢子及び一行は、今朝東部に向け当地を出発せり、子及び一行は桑港滞在中、当地日米人の深厚なる歓迎を受けたり其到着するやアレクサンダー氏を委員長とする商業会議所歓迎委員は乗船の検疫期間中、船内に出迎へ、桑港市長は親しく埠頭に於て子及び一行に公式の歓迎を為し、警官の護衛を附してフエアモント・ホテルに案内せり、渋沢氏はユニオン・パシフイツク倶楽部及びフエアモント・ホテル晩餐会の席上に於て夫れ夫れ演説を試み、加州日本人問題を解決するの必要なること、及び華盛頓軍備縮小会議に多大の期待を有することを切言し、熱誠なる賛同の意を以て迎へられたり、子は其帰途には再び加州に滞在して事情を研究し、問題解決の為め米国友人連の援助を得て能ふ限りの貢献を為す可きを約せり


渋沢栄一電報 フランク・シー・アサートン宛一九二一年一〇月二三日(DK330010k-0020)
第33巻 p.220 ページ画像

渋沢栄一電報 フランク・シー・アサートン宛一九二一年一〇月二三日
            (フランク・シー・アサートン氏所蔵)
             (COPY)
             RADIO
9 KHK CH 17 SHlNYOMARU 23R
          RECEIVED OCT 23 6 58 PM 1921
FRANK ATHERTON
  HONOLULU
WE WARMLY APPRECIATE YOUR NEVER CHANGING KINDNESS PLEASE ACCEPT OUR BEST THANKS AUREVOIR
               SHIBUSAWA


(神谷忠雄)書翰 渋沢栄一宛大正一〇年一〇月六日(DK330010k-0021)
第33巻 p.220-222 ページ画像

(神谷忠雄)書翰 渋沢栄一宛大正一〇年一〇月六日
                    (渋沢子爵家所蔵)
          (栄一鉛筆)
          大正十年十月二十六日
            春洋丸船室ニ於テ閲了
 - 第33巻 p.221 -ページ画像 
  大正拾年拾月六日
           東京市京橋区新肴町十番地
                      神谷忠雄
    子爵渋沢栄一閣下
拝啓、閣下益々御清栄、終始国家社会ノ為メ御尽萃被遊候御熱誠ニ対シテハ、満天下一人トシテ敬服セザル者ナキヲ信ジ候
今回ハ更ニ日米親交ノ為メ、壮者ヲ凌グ御雄志御決心ヲ以テ御渡米被遊候御事、閣下憂国ノ御至情ニ対シ唯々敬意ヲ表シ、御健康ヲ祈ルノミニ候
回顧スレバ昨年閣下ノ御使トシテ彼国ニ赴キ、アレキサンダー、バンダアリツプノ諸氏ニ対シ、親シク閣下ノ御熱心ナル御誠意ヲ披歴伝達スルノ重任ヲ負ヒ、更ニ彼地日米関係委員会ヨリ閣下御主宰ニ係ハル我関係委員諸氏ニ対スル訪米招待状ヲ携帯シテ帰朝セル等ノ事アリ、爾来窃カニ日米間ノ各種問題ニ就テモ研鑽ヲ怠ラズ経過シ来リ候処、幸ニ今回閣下御渡米ノ御壮挙アリ、依テ小生ノ抱持スル意見中或ハ御参考ノ一端トナランカト存候要点ヲ言上シ、御清聞ニ達シ度存候
惟フニ今回ノ太平洋会議、軍備縮少会議ニ於テ附議セラルベキ問題ハ多種多端有之候ハンモ、日本トシテ此機会ヲ善用シ実際問題トシテ相当ノ解決ヲ得ベク努力スベキハ、彼ノ提案ニ係ハルベキ其所謂主要問題以外ニ於テハ、第一ニ広義ノ移民問題、即チ吾過剰人口ノ処分ニ関スル問題、第二ニ在米邦人善後方策ニ関スル問題タルベクト存候
第一ノ一般的移民問題ニ関シテハ、或ハ人種平等ト云ヘルガ如キ主義ノ立場ヨリ相当ノ議論モ可有之、従テ容易ニ之ヲ解決スル事困難ナル事情アルベキ事モ予想スルニ余アリ、因テ小生ハ玆ニ暫ク研究ノ範囲ヲ縮少シテ、第二問題即チ在米邦人善後ノ方策ニ関シ、聊カ愚見ヲ開陳致度存候
在米邦人特ニ加州ニ於ケル農業者ハ今ヤ事実上漸次各種ノ圧迫ヲ加ヘラレ、其前途ヲ悲観シ居ルモノ万ヲ以テ数フベク、之ニ対スル我政府乃至民間有志ノ抗議乃至援助等、凡テ正義公道ヲ基礎トセルニ係ハラズ、実際上彼等ヲ救助スル効果ヲ得ル事困難ナルガ如シ、是実ニ米国民衆大多数ノ最近心理状態ノ反影ニシテ、之ガ根本的解決策トシテハ此際非常ナル決心ヲ以テ彼国排日ノ最大原因タル在留邦人ノ全部又ハ一部ヲ彼地ヨリ撤退シ、之ヲ新天地ニ転住セシメ、以テ事実上彼米国人ニ対シ重大ナル教訓ヲ与フルト同時ニ、数万無援ノ在留邦人ニ新光明ヲ与フルノ方法ヲ執ルニ若クモノナカルベクト存候
幸ニ此方針ニ関シテ閣下ノ御賛同ヲ得ン乎、実際上行ヒ得ベキ手段トシテハ、小生ハ左ノ数項ヲ挙ゲ申候
第一、現下ニ於ケル我邦人ノ新発展地トシテ、南米伯剌西爾共和国ヲ以テ最モ適当ナリトスルニ鑑ミ、同国内ニ於テ相当ノ地所ヲ撰定シ彼国政府民間ノ協力ヲ得テ、北米ニ経験アル我農民ヲ移住セシムル計画ヲ立ツル事
第二、前項ノ方針ノ下ニ米国ヨリ伯国ニ移住セシムル在米邦人農業者ノ最多数ハ、三万人乃至五万人ナルベク、家族数ニ換算セバ六千乃至壱万家族タルベシ
 - 第33巻 p.222 -ページ画像 
第三、右六千乃至壱万ノ家族ハ一時ニ移住セシムベキニ非ズ、先ヅ模範的ニ先発移住者数百ヲ送致シ、彼等ノ実地経験ニ徴シタル上、更ニ残余ノ分ヲ漸次転住セシムベキ方法ヲ執ルベシ
第四、伯国ニ於ケル土地購入・収容設備・指導設備・運送其他ノ準備ニ関シテハ、伯国関係ノ植民会社(海外興業株式会社等)水野竜氏ノミナス特権(十一万町歩ノ無償下附日本植民地建設ノ権利)等ヲ基礎トスルモ可ナリ、又別種ノ方法ヲ講ズルモ可ナルベク、之ニ対シテハ我政府ノ諒解、積極的援助ヲ得ル事モ可能ナリト信ズ
第五、米国識者中、特ニ日米親交ヲ希フ人士ニ対シ、前途ノ主義方策ヲ諒解セシメ、日米双方ノ有志者団体ニ於テ右ノ方策ヲ実行スル為メ、或ハ日米共同ノ一会社ヲ設立シ、一ハ之ヲ以テ在米邦人善後策ノ解決方法ニ資シ、他ハ以テ南米開拓経済発展ノ一助ニ供センカ、主義ト実際ト相俟チ極メテ有益ナル挙タリ得ベキヲ信ズ
以上列挙致候愚案ニ対シ、更ニ具体案ヲ徴セラレンカ、小生ハ喜ンデ之ヲ画策シ、之ニ当ルベク存ジ、御下命ヲ待チ候
御出発ニ際シ、右大体ニ関スル愚見ヲ開陳シ、之ヲ以テ御送別ノ記念ト致度所存ニテ、右申上候儀、御賢察ヲ賜ハリ度願上候 敬具
                     神谷忠雄


中外商業新報 第一二七九四号大正一〇年一〇月二六日 日本実業団の渡米は最も重要なる壮挙 各方面とも其効果を期待す(DK330010k-0022)
第33巻 p.222 ページ画像

中外商業新報 第一二七九四号大正一〇年一〇月二六日
    日本実業団の渡米は最も重要なる壮挙
      各方面とも其効果を期待す
二十四日紐育発=当地実業界の巨頭連は、今回シアトルに到着する日本実業団の渡米を以て、戦争以来最も重要なる実業上の壮挙と看做し居れり、米国鋼鉄会社長ゲリー氏は、同実業団の訪米当面の効果を論じて曰く
 日米両国の友誼関係を継続し、且つ恒久ならしむるには、両国の有力なる市民の個人親交が最も必要と信ず、而してそは日本人の米国訪問及び米国人の日本訪問に依つて遂げ得らるべし、此種の訪問は年と共に盛んになり、其の効果は既に確認されつゝあり
と、紐育其他各市に於ては盛大なる歓迎準備をなしつゝあり、実業界の首脳者等は
 日本実業団訪問の結果は、旧外交の時代去り、実業家が両国間の問題を協力して率直に商議する時代到来の事実を表明するものと思惟す、実業家究竟の大目的は我等と同一なり、日本実業団が米国を訪問するに至りし精神は、全米実業家も同様にして、速やかに之に応ずる所あらん、日本実業家の訪問は啻に通商関係のみならず、又其の政治関係をも一層良好ならしむる結果を来すを疑はず
と云へり、紐育の歓迎委員長小林正直氏は、実業団歓迎の為めシアトルに向け出発せり、米国民は一般に同実業団の渡米を以て、華盛頓会議に次ぐ重要事件と看做し、実業団の言動は、華盛頓会議の討議にも影響を及ぼすならんと信じ居れり(国際直電)