公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
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大正11年5月3日(1922年)
是ヨリ先、栄一、英国皇太子殿下歓迎学生大会ノ顧問トナリ、金千円ヲ寄付スル他尽力スル所アリ、是日其散会式富士見軒ニ開カレ、栄一出席シテ演説ヲナス。
英太子歓迎学生大会紀 桜薔会編 第一三―四六頁大正一一年六月刊(DK390002k-0001)
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英太子歓迎学生大会紀 桜薔会編 第五九―六一頁大正一一年六月刊(DK390002k-0002)
第39巻 p.16-18 ページ画像PDM 1.0 DEED
英太子歓迎学生大会紀 桜薔会編 第五九―六一頁大正一一年六月刊
散会式記事
期日 大正十一年五月三日五時より
場所 麹町区富士見軒に於て
色々の都合の結果、もつと早くやる筈であつた散会式が延引して、漸く五月三日午後五時から散会式が挙行された。当日は阪谷委員長を始め乗杉事務監督、各学校理事者及び七十余名の準備委員、文部省の諸先生を加へて無慮百余名、先づ散会式を挙げる事、次の如きプログラムを以て行はれた。
一、委員長の挨拶
二、会計報告
三、残金処分に関する件
四、後継会の設立
五、英太子御令旨に関する件
会計の報告及び残金処分に関しては、満場異議なく別項会計報告にある通り決定し、後継会は晩餐後に具体案を作成する事にし、英太子御令旨に関しては阪谷委員長より、懇篤なる説明の後之を刷りて、参加各校に配布して之を掲げおく様に決定された、丁度その時顧問なる渋沢子爵来場せられ、委員長の決定報告の後、次の如き趣旨を以て演説をなされた。
私は玆に立つて諸君の前に御話しの出来る事を非常に嬉ばしく感ずる私が最初この話しを聞いた時は、心からいゝ事だと思つた、然しそれと同時に、この事業と云ふものが非常に重大なる意義を以て居る事であると考へ、軽々しく実行する時は非常なる悪結果を来す様になるかも知れないと考へて居た、然し学生諸子の熱誠は遂に宮内省を動かし阪谷男爵は委員長として責任の地位に立たれるし、文部省に於ても乗杉事務官を以て、それが監督の任にあたらせる事になつたので自分も非常に安心して、この事業の為めに老人の力で出来るだけの事はやつて見やうと決心したのであつた。今承はるに幸ひに会計の方もうまく行つて下すつて、剰余金迄出来たと云ふ事は誠に喜ばしい事であつてこの成功はかうした学生諸子の熱誠と、委員長始め諸君の努力の結果が、社会を動かしたに他ならないのである。
私は今この会の成功を見るにつけて、この成功は唯々吾々の成功ばかりでなく、事は即ち国家の成功であると云ふ事を、深く深く考へるのである。
自分が嘗て洋行をした時に、と云つても時は即ち一八六七年慶応三年
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であつた。当時何でも徳川式部大輔とか云ふ人と一緒に行つたと思ふ何しろ未だ刀等をさして居た時であるから、非常に外国人にとつては不思議に思はれたに違ひないのである。先づ最初仏蘭西に入つたが、会ふ人会ふ人皆立止つて見る位であつて殊に婦人には特に注目される光栄に浴したのであつた。尚東洋人を見ると支那人と云ふ……「支那ではない日本だ」と云ふと、日本はどこにあるか等ときかれたもんで非常に残念であつたが、時僅か五十数年を経て後、私が昨年米国を訪問した時には、ともかくも一等国の一老人として相応に人の前で話しをする事も出来たし、非常によく待遇せられたのであつた、これは何の結果であるかと云ふ事を深く考へて見る時に、即ち国家の地位が向上したからなのである。
曾つて「ナポレオン」三世が巴里博覧会開会式の式辞に、実に誇張した言辞を弄して居る。「博覧会と云ふものは一国の文明の進化の程度をあらはすものであつて、一八六七年の博覧会は非常なる成功である故にこの盛んなる有様を見て世の進化、国の発展に対して強い感情を抱かないものは国民として存在の価値がない」と云ふて居るが、然し其の後三年にして帝政は瓦解して共和政治の世の中となつて終つた。然らば独逸のカイゼルはどうであるかと云ふに、彼も又昔日の雄図の跡もなく和蘭に屏居の夢をむさぼつて居る。五十余年前に感じた残念の感も、今は消えて無くなつた様に思はれるが、彼の阿房宮の詩に歌つてあるが如く、実に秦を亡す者は秦である、若し秦の国民が真実に心から国を愛して居つたならば、あの強大な国を壊滅に帰せる様な事はなかつた。今五十五年前を顧みて日本の国家が長足の進歩を遂げたに際して、殊にその感を深くするものである。日本を興す者は即ち諸君青年であり、日本の青年の心がけ一つなのである。
若し諸君が奮発し一致して国事に当つたならば、世界までも動かす事が出来る、この時、この日英国皇太子殿下が親しく下された御令旨を拝読するに、殊に其の感を深ふするものである。
今や会が盛会裡に終つて散会式を挙行するに当り、心からの喜びの念を諸子の前に述べた次第である。(渋沢子爵のお話し)
右の散会式終了後直ちに晩餐にうつり、席上阪谷男爵から尚懇篤なる謝辞があり、次いで乗杉先生も簡単に挨拶なされ、学校理事者側を代表されて、一高の谷山先生の懐旧談を交へたお話しがあつて、最後に学生側の代表として、早大の田原君が実に簡にして然かも急処を衝いた挨拶があり、デサートコースに入るや、主客全く合一となつて歓談し席上、谷山先生は阿房宮の詩を非常なる美声を以て朗吟せられたに対して、学生側からは八木節の合唱を手始めに、でるはでるは何でもさらけ出し、全く愉快に話して晩餐を終へ後、別室にて英太子歓迎学生大会の活動写真を見、尚凸坊の新画帳其の他、コロンブスの一代記等を弁士度々の交代に面喰ひながら拝見した、活動写真の後、後継会の相談にうつり会名は大多数を以て桜薔会と決定し、出来るだけ早く理事会を開催する事として十時半万歳声裡に解散、史上に於て最も光栄ある英太子歓迎の学生大会はこれを以て一先つ幕を閉じる事となつたのである。(磯村英一記)
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○中略
英国皇太子殿下歓迎都下各大学専門学校学生聯合会準備委員
委員長 男爵 阪谷芳郎
小石川区原町一二四
(電話小石川一二〇番)
事務監督 文学士 乗杉嘉寿
府下巣鴨町一一三〇
(電話小石川二六〇四番)
顧問 (イロハ順)
藤山雷太
和田豊治
江口定条
有賀長文
子爵 渋沢栄一
○下略
英太子歓迎学生大会紀 桜薔会編 後付・第一―三頁大正一一年六月刊(DK390002k-0003)
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英太子歓迎学生大会紀 桜薔会編 後付・第一―三頁大正一一年六月刊
篤志家芳名録(順序不同)
金弐千五百円也 男爵 岩崎小弥太殿
金弐千五百円也 男爵 三井八郎衛門殿
金壱千円也 男爵 古河虎之助殿
金壱千円也 男爵 後藤新平殿
金壱千円也 男爵 大倉喜八郎殿
金壱千円也 男爵 森村開作殿
金壱千円也 子爵 渋沢栄一殿
金壱千円也 山下亀三郎殿
金壱千円也 伊藤米治郎殿
金壱千円也 安田善次郎殿
金壱千円也 渡辺治右衛門殿
金壱千円也 浅野総一郎殿
金壱千円也 井上準之助殿
金壱千円也 児玉謙次殿
金壱千円也 藤山雷太殿
金壱千円也 和田豊治殿
金壱千円也 神戸挙一殿
金壱千円也 高田釜吉殿
金壱千円也 早川千吉郎殿
○中略
合計金参万弐千七百参〇円也
(英国皇太子殿下歓迎学生大会) 書翰 大正一一年六月二二日(DK390002k-0004)
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(英国皇太子殿下歓迎学生大会) 書翰 大正一一年六月二二日
(渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
謹啓
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英国皇太子殿下歓迎に際しては、甚大の御配慮を蒙り以御蔭大成功裡に終了仕候、是偏に貴下御厚情の賜と玆に謹で奉感佩候
此未曾有の盛事を永久記念せん為、別冊調製仕り壱部御贈呈申上候間御受納被成下度候、一々御礼に参上可仕筈に候得共、該大会は総て学生の主催に候へば、各委員勉学の都合上乍勝手本「アルバム」の編輯内容に依りて之に代へ候間、可然御諒察被下度候
尚学生大会は爾今桜薔会と命名し、各位後援者の御意図により第二維新を画せん存意に候へば、将来倍旧御援助賜度乍略儀奉懇願候 敬白
大正十一年六月二十二日
英国皇太子殿下歓迎学生大会
委員長 男爵 阪谷芳郎
(英国皇太子殿下歓迎学生大会) 書翰 渋沢栄一宛大正一一年六月六月三日(DK390002k-0005)
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(英国皇太子殿下歓迎学生大会) 書翰 渋沢栄一宛大正一一年六月六月三日
(渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、時下益御清適奉賀候、然ハ予て御賛同を得候英国皇太子殿下歓迎学生大会之義、去る四月十八日日比谷公園に於て大成功を以て挙行致す事を得たるは、御援助之賜と厚く御礼申上候、今般同会に於て右歓迎記念帖を調製致、御厚意御礼の為め差上候間御落手被下度候、尚御寄付之収支計算並残金処置之義ハ、同記念帖ニ記載有之候間御覧被下度候
右にて同大会之事業も終了致候義に御坐候間御承知被下度候、玆に重ねて御厚意を拝謝仕候 匆々敬具
大正十一年六月三十日
和田豊治
藤山雷太
江口定条
有賀長文
渋沢栄一
(宛名手書)
子爵 渋沢栄一殿