デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
7節 其他ノ資料
3款 其他外国関係資料
■綱文

第40巻 p.499-502(DK400148k) ページ画像

大正5年10月14日(1916年)

是日、イギリス国ロンドンノロンドン・タイムズ社発行「日本号」ニ『日英ノ国交』ト題スル栄一ノ論文掲載セラル。


■資料

竜門雑誌 第三四一号・第二二―二五頁大正五年一〇月 ○日英の国交(DK400148k-0001)
第40巻 p.499-501 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第二二―二五頁大正五年一〇月
    ○日英の国交
  本篇は曩に倫敦「タイムス」社のロバート・ピー・ポーター氏が日本に出張せる際、一日青淵先生を訪ひて、同社発行の「日本号」への寄送を請はれ、青淵先生が其依頼に応じて千九百十六年七月論文「タイムス」に寄稿せられたる訳文なり(編者識)
 日本が欧洲文明を摂取するに至りしは種々の原因に拠るべしと雖も
 - 第40巻 p.500 -ページ画像 
其顕著なる事実は一八五三年米使「コモドル」ペリーの来朝に肇まる此点に於て吾人は我邦の米国に負ふ所大なるを感ずると同時に、我帝国が今日の如き国運の発展をなしたるは、大英国の誘掖指導に因すること甚だ大なるものありしを思はずんばあらざるなり。
 一八五六年最初の米国公使ハリス我邦に来朝して、通商条約を締結し、次で英国よりも代表者来朝して日英条約を締結せり、日英二国が親密なる国際関係を継続するに至りしは蓋し此時に始まれるなり。
 一八六二年の所謂生麦事件は、日英両国の国交の上に一の波瀾を生じ、日本の上下をして大に憂慮せしめ、且つ当時幕政の紀綱弛頽して之れを能く解決するの力を欠きたりしを以て、英国は遂に直接薩藩に対して報復を加ふることゝなり、翌年八月其艦隊を送りて鹿児島の城下を砲撃せり、之れ日英国交史上に於ける手初めにして而して最後の紛糾事件なり、爾来両国の国交は年と共に其親密の度を増加することとなれり。
 英国より最初日本へ送られたる公使は「サア」ルザフォード・オルコックにして、次で来たりしは「サア」ハリー・パークスなり、此二公使は時として日本政府に対し、強硬なる談判を為し厳格なる態度を示めしたることありしを以て、一部日本人の怨恨を買ひたるの嫌なきにあらずと雖も、然かも其衷情に於ては我邦の利益を図かりて指導の労を尽くされたること亦た鮮なからざりしは、余輩の感謝して措かざる所なりとす。
 皇政維新以来日本は全然開国主義を国是とし、一意専念に外国との国交輯睦に努め、欧米の長を採りて以て我短を補ふに尽瘁し、政治も教育も実業も凡て欧米に準拠模傚して以て改良の実を挙げ国勢発展を図かるに努力したり、而して此間英国が日本の為めに多大の援助を与へたるものあるは余輩の決して忘るゝ能はざる所にして、例へば諸般の工業の如き或は鉄道建設の如き、或は銀行の経営の如き主として範を英国に取り又は多く英人専門家を採用して之れが施設に当たらしめたるなり、日本の造幣局は英国技師の手によりて始めて其事業を開始するを得、日本の鉄道も亦た英国技師によりて敷設せられたり、国立銀行は米国の制度に則りたりと雖ども、中央銀行即ち日本銀行の創設は英吉利の「バンク・オブ・イングランド」の組織を模したるなり、若し日本の海軍が英国海軍を規範として創設せられたるの事実に至りては今更ら説明を要せざる所なりとす、以上は単に余が記憶に存する顕著なるものを指摘したるに過ぎずして、其他我国各種文化の開展上英国が我国の為めに幾多の力を添えられたるは、我国民の夙に之れを認識して感謝する所なり。
 一八九四―五年に於て我邦は不幸にして其隣国と戦ふの余儀なきを見るに至りしも、之れが為め日本国の価値と実力とは幸に列強の深く認識する所となり、其結果として一九〇二年日英同盟の成立を見るに至れり、抑も此日英同盟なるものは実に極東の平和維持の為め最も必要有効なるものにして、当時に於ける両国政府の当局者の功労に対しては、余は衷心感謝の情と称讃の声とを吝まざるものなり、此同盟成立後二年にして我日本は再び他の隣国と戦端を開くの不幸に遭遇した
 - 第40巻 p.501 -ページ画像 
りと雖ども、幸に国力の損害多大ならずして平和の克復を見るを得たり、而して此戦争中同盟国たる英吉利が日本の為めに尽されたる厚情は之れ亦た余輩の深く感謝する所なりとす。
 一昨年来の欧洲の戦乱に付て、日本が英吉利の同盟国として聯合国側と協商して其力を尽しつゝあるは我等日本人の満足とする所にして仮令東洋方面に及ぼす戦局の影響は大ならずとするも、彼の正義人道と国際道徳とを無視する吾人共通の敵国に対して聯合諸国と協同的働作を執り、以て東洋方面に於ける与国の憂無からしむるの功を収め得たるは、余輩の心中大に喜びとする所なりとす。
 吾人は平和克復の一日も速かならんことを冀望す、然りと雖ども其平和は吾人の理想とする所の恒久的平和たらざるべからず。
 近時我日本人中に日英同盟に対して奇矯の説を為すものあり、勿論斯かる論者は極めて少数にして且つ其反響頗る微弱なりと雖ども、余は東洋平和の保障として存在する此日英同盟を、無用視するが如き論者を我同胞中に発見したるを深く憾みとするものなり、言ふ迄もなく刻下の日英同盟は一九一一年に改締せられたる第二回の条約に拠るものにして、其効力継続期間の満了と共に更に第三回の同盟を締結するの必要あるは、苟も情義を重むじ道理を解する一切の日本人の深く認めつゝある所なりとす。
 日英二国の国交に就て余の語らんと欲する所大略右の如く、其友情の年と共に親厚の度を加へつゝあるは余の満足に堪えざる所なりと雖ども、然かも余をして忌憚なく言はしむれば、日英二国間の貿易が近年漸く不振に傾きて当初の如き伸長の勢を示めさざるの一事は、余の最も不満に堪えざる所なりとす、而して其原因は英国商人が独逸商人の如く熱心ならざるに存するか、或は日本商人の不熱心に存するか、或は他に何等かの原因に存するかを知らざれども、兎に角近時両国間の貿易が進歩せざるは争ふべからざるの事実にして洵に遺憾に堪えざる所なり、而して余は之れが救治策として、日英両国実業家の交換的団体旅行の実施を提案せんと欲するものなり、一九〇九年余は日本に於ける多数の代表的実業家を以て組織したる実業視察団の団長となりて米国に赴き、幾多の有益なる視察を遂げ、且つ米国実業家と意見の交換をなし、以て彼我の商業関係上多大の裨益を挙ぐるを得たるが、若し日英両国の実業家がこれと同一なる企てを実行し、各種の事物に就て互に其真情を披瀝して意思の交換を行ふあらば、両国の貿易は必ずや多大の発展を見るに至るべきを信ずるなり、此提案は曾て前英国大使「サア」クロード・マクドーナルドの帰英せらるゝに際して進言したることあり、又任に英国に赴く我が外交官にも屡々語りたる所あるを以て、早晩或は其の機会を得るに至るべきか、所説簡短にして我意を尽くす能はずと雖ども、玆に此一篇を寄せて貴社に対する前約を果たすを得るは余の欣幸とする所なり。



〔参考〕竜門雑誌 第三四五号・第四二頁大正六年二月 ○英国紳商リチヤードソン君遭難の顛末 青淵先生の英国ミス・ヒースへの返翰(DK400148k-0002)
第40巻 p.501-502 ページ画像

竜門雑誌  第三四五号・第四二頁大正六年二月
    ○英国紳商リチヤードソン君遭難の顛末
        青淵先生の英国ミス・ヒースへの返翰
 - 第40巻 p.502 -ページ画像 
 拝復去る十月十五日付御書面正に入手一読致候、御申聞けに依れば小生が十月十四日発行の「タイムス」新聞日本号へ寄せたる論文中に引用したる、生麦事件の被害者チヤーレス・リチヤードソン氏は貴嬢母方の叔父君に渡らせられ候よし、御手紙を拝見して御気の毒に感じ申候。
 実に当時の日本は尚ほ封建制度の時代に在りて、皇帝に統治の実権なく、徳川幕府の下に各藩分立し然かも維新大革命に先だつ僅かに四五年前のことなりしを以て、人心頗ぶる殺伐に流れ居りし際とて、自然叔父君殺害の如き変事も突発致候次第、今日より回顧すれば誠に疇昔の感深きもの有之候。
 又た右事変の顛末に関し詳細取調方の御依頼正に了承致候、当時は小生自身も尚ほ青年の時代にして、生麦事件のことも人伝てに承知したる程に候儘、御依頼の件に就きては特に歴史専門の学者に依嘱して調査致させたる結果、別冊顛末書出来致候ものから、玆に本書状に添付し御手許へ御送付申上候条、何卒右にて当時の顛末詳細御承知被下候様致度、先は不取敢御返事まで、謹で得貴意候 敬具。
  一九一六年十二月 日
                  東京 渋沢栄一
   英国トンブリツジ市レー
    (ミス)フローレンス・エム・ヒース殿
      目次
  一 遭難の状況
  二 遭難の事由及其下手人
  三 事件の解決
  四 不幸なる犠牲
○下略



〔参考〕渋沢栄一書翰 増田明六宛大正五年一二月二〇日(DK400148k-0003)
第40巻 p.502 ページ画像

渋沢栄一書翰  増田明六宛大正五年一二月二〇日 (増田正純氏所蔵)
○上略
英人ヒユース嬢より之来書によりリチヤードソン氏遭難之真相は井野辺氏之手にて取調相成、封入之別紙一覧仕候、右は字句之修正もいたし度と相考候点有之候間、帰京之後原稿交付可致と存候に付、其上にて反訳に相廻し候様被成度候、且ヒユース嬢へ之回答案も其際作成之事と御心得可被下候
○下略
   大正五年十二月二十日夜相州湯河原客舎に於て
                      渋沢栄一
    増田明六様
  ○別紙欠ク。