デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.564-586(DK420102k) ページ画像

大正5年11月26日(1916年)

是日、当社ハ栄一ノ喜寿祝賀ト阪谷芳郎帰国歓迎会ヲ兼ネ、第五十六回秋季総集会ヲ、帝国ホテルニ於テ開キ、喜寿祝賀記念トシテ、林泰輔ニ編纂ヲ依嘱シタル「論語年譜」ヲ栄一ニ贈ル。栄一病気ノタメ出席セズ。


■資料

竜門雑誌 第三三六号・第一二二頁 大正五年五月 ○青淵先生七十七寿祝賀事業(本社の論語年譜編纂)(DK420102k-0001)
第42巻 p.564 ページ画像

竜門雑誌  第三三六号・第一二二頁 大正五年五月
    ○青淵先生七十七寿祝賀事業(本社の論語年譜編纂)
青淵先生には本年七十七の寿に躋られたるに付ては、本社に於て如何なる方法を以て祝賀の誠意を表せんかと昨年来種々協議研究したる結果、先生の深く愛読せられ、道徳の典範、処世の信条と重ぜらるゝ論語の年譜を編纂し、之を青淵先生に贈呈し、併せて弘く内外に公にするの方法を採ることに定め、去月十七日開会の評議員会に於て具体的に之を可決したり。右は論語が支那に始めて行はれたるより今日迄二千有余年間、我邦を始め支那・朝鮮等の東洋各国及西洋諸邦に於て行はれたる之れが翻刻・註釈・反訳等の状況より、進みては学問若くは教義として取扱はれたる実状並に政治上・社会上に及ぼせる影響等を年代に拠りて調査し、之を編纂して年譜体の沿革史と為さんとするものにして、実は昨年十月中評議員会長及幹事に於て協議の上、阪谷男爵編纂委員長となり三上・萩野両博士を顧問とし、更に両博士の推薦により文学博士林泰輔氏に編纂主任を嘱托して其準備に着手したるものなるが、爾来其編纂は着々進行し晩くも本年十月中には完成の見込なり。
  ○論語年譜編纂ニ就イテハ、本資料第四十一巻所収「論語年譜ノ編纂」大正五年十一月二十六日ノ条参照。


竜門雑誌 第三四三号・第五〇―五九頁 大正五年一二月 ○本社第五十六回秋季総集会 「青淵先生喜寿祝賀」と「阪谷評議員会長帰朝歓迎」(DK420102k-0002)
第42巻 p.564-573 ページ画像

竜門雑誌  第三四三号・第五〇―五九頁 大正五年一二月
    ○本社第五十六回秋季総集会
     「青淵先生喜寿祝賀」と「阪谷評議員会長帰朝歓迎」
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本社に於ては、予定の如く十一月二十六日、午前九時半より帝国ホテルに於て「青淵先生喜寿祝賀」と「阪谷男爵帰朝歓迎」とを兼ねて、第五十六回秋季総集会を開きたり。定刻幹事八十島親徳君、開会の辞を述ぶ、其要に曰く
 本社に於ては、本年青淵先生が喜寿の齢に躋られたるを祝するが為め、昨年以来文学博士三上参次・同萩野由之両氏を顧問とし、文学博士林泰輔氏を主任として、論語年譜の編纂に着手致しました。論語年譜は、三千年前論語が世の中に出でゝ以来、各国各時代に於ける之れが変遷経過の迹を尋ねて、年譜体に編纂したるもので、謂はば論語の歴史とも申すべきものであります。之れが今回出来上りましたから、第五十六回秋季総集会を機とし、特に青淵先生を御招待申上げて、此式場に於て、謹で喜寿祝賀の意を表し、併せて之が紀念品として論語年譜献呈式を行ふ為めに、本会を開いた次第であります。
 尚ほ巴里に於ける聯合国経済会議に、本年五月一日特派委員長として、其筋の命を帯びて、御出張に相成りました我社評議員会長阪谷男爵が、御無事に使命を果されて、御帰朝に相成りました。因つて此際、特に阪谷男爵の御歓迎をも兼ねて、本会を開く次第であります。然るに青淵先生には一昨日来感冒に罹られてお引籠りに相成つて居ります。尤も昨日までは折角の催しであるから、是非出席したいと云ふ御意向でありましたが、何分今日の容態では遺憾ながら出席致し兼ねると云ふお断りでありました。格別御気遣申上ぐる程の御病気では御座いませぬが、本日親しく青淵先生に対して祝賀の意を表し、同時に論語年譜を献呈することが出来ませぬのは、諸君と共に甚だ遺憾とする所で御座います。併し今日となつて此会を延期致す訳にも参りませぬから、評議員会長阪谷男爵を代表者として、青淵先生に祝辞を呈し、且つ論語年譜を献呈するの式丈けは此処に挙行することに致しました。
 又阪谷男爵帰朝御歓迎の辞は、後刻午餐会席上に於て、評議員の星野錫君が諸君を代表して申述べる筈になつて居りますが、此席上に於ては、評議員会長阪谷男爵が司会者となり、青淵先生喜寿祝賀式を行はれたる後、引続きて阪谷男爵に欧米視察談を願ひまして、諸君と共に謹聴致したいと存じます。幸に阪谷男爵の御同意を得ましたから、左様御諒承あらんことを願ひます。
次で評議員会長阪谷男爵、青淵先生の喜寿を祝すべく、登壇して曰く『青淵先生還暦の祝賀には「青淵先生六十年史」を編纂して献呈し、又七十寿祝賀には「青淵先生七十寿祝賀記念号」を発刊したりしが、今回喜寿の祝賀には、論語年譜を編纂して之を青淵先生に献呈することゝせり。論語年譜は、文学博士林泰輔氏を主任として、三上・萩野両文学博士監督の下に編纂せられたるものなり。唯此席上に於て、親しく青淵先生に之を献呈する能はざるを遺憾とす。因つて評議員会の決議に依り、此論語年譜は祝賀文と共に、予が諸君を代表して青淵先生に献呈することゝなれり、諸君の御同意を乞ふ』と述べて、玆に喜寿祝賀式を終り、次いで巴里に於ける聯合国経済会議に臨み、英米諸
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国を経て帰朝せる経過と、其間の所見を演説(追て本誌掲載)せられ右終つて集会を閉じ、引続き別室に於て、青淵先生喜寿祝賀、阪谷男爵帰朝歓迎午餐会を催せり。此席上に於て、評議員の一人たる星野錫君、会員一同を代表して阪谷男爵帰朝歓迎の辞を述べ、之れに対して阪谷男爵の謝辞あり。次に阪谷男爵は青淵先生喜寿祝賀の為め、星野錫君は阪谷男爵帰朝歓迎の為め、又阪谷男爵は竜門社の為に、各々万歳を三唱して乾盃し、別室に於て余興として細川風谷の講談あり、午後三時和気靄々裡に散会せり。当日青淵先生に献呈せる祝賀文及来会者諸君は左の如し。
      青淵先生喜寿祝賀文
 本日玆に竜門社第五十六回秋季総集会を開くに当り、評議員会長法学博士男爵阪谷芳郎は、評議員会の決議に依り、本社全会員を代表して、我青淵先生の七十七寿を祝する為め、聊か蕪辞を呈するの光栄を有す、回顧すれば、本社は明治三十三年に於て、先生の還暦を祝し、次で明治四十三年には其古稀寿を賀し、今復た玆に其喜寿を祝するの機会を得たり、生等の幸福何物か之れに過ぎん
 抑も先生七十七年の生涯は維新以後に於ける光彩陸離たる本邦商工業発達の歴史の縮図にも譬ふべく、若し夫れ後世明治大正の史を編む者にして先生一代の事蹟を度外に置くことありとせば、其史は竟に完全なるを得べからざるなり、我竜門社会員は先生還暦の祝賀に際し「青淵先生六十年史」を編纂して記念とし、其古稀寿を祝するに当りては「青淵先生七十寿祝賀記念号」なる竜門雑誌特別号を発行し、今玆に其喜寿を祝するに際し之れが記念として「論語年譜」を編みて、先生に献ずるを得たるを大なる光栄とするものなり
 明治四十二年以後、即ち先生七十寿以後七十七寿に至る最近七年間の歳月は、世界に於ても、又た日本に於ても、最も多事に属するの時代たりしなり、従つて此七年間に於ける先生の事蹟と活動亦た頗る多事多忙を極はめたるは、蓋し自然の数なりとす、而して此七年間に於ける先生の事蹟たるや、赫々たる光輝と、偉大なる成果とに於ては、毫も従来と異なる所なしと雖ども、然かも其の内容に至りては、多少其趣を変じたるものなきに非ず、即ち従来主として商工業に傾注せられたる先生の努力と尽瘁とが、漸次社会改良・感化救済・教育・宗教及国際平和等の方面に転じ来たりたること之れなり而して此変化が、多少先生の老年に由る所あるは勿論なるが、亦時勢の推移と社会の必要上より、自から胚胎し来たりたるの結果なることは、敢て玆に喋々を須たざるなり
 最近の七年間に於て、先生の最も心血を灑がれたる所は、日米両国友情増進の問題なりき、抑も日本対北米合衆国の国交は、其濫觴をペルリの渡来に発し、爾来六十有余年間、米国は常に日本の善友として諸般の誘掖に任じ、我れ亦た深く彼れを信頼する所あり、為めに両者の交誼は逐年愈々以て深きを加へつゝありしと雖ども、曩に加州学童問題の勃発以来、最近数年間に於ては、太平洋沿岸の一州に於ける排日本人的立法の続発によりて、遺憾ながら両国民の交情の上には一抹の暗雲の靉びくあり、流言蜚語亦た其間に行はれ、米
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国に於ける所謂黄色新聞は言ふ迄もなく、真面目なる他の新聞雑誌紙上に於てさへ、間々開戦の避くべからざるを説くに至り、為めに太平洋両岸の識者をして、二国の前途に就き深く憂ふる所あらしめたり、我青淵先生亦た夙に此事を憂慮せられ、平素米国知名の学者・実業家・政治家等の本邦へ渡来するある毎に、必ず公私両側面より之れが歓迎優待に努められ、彼我交情の増進を図かると同時に、胸襟を開きて相互民情の真相を談じ、或は正義人道の上より、或は経済実業の方面より、日米二国の永久に平和親睦ならざるべからざるを説き、更に又た進んでは、支那及び其他東洋諸国の富源開発の為め、日米の実業家が将来一致協力して、以て相互並に第三国の経済的利益を拡充するの必要をも道破せらるゝを常とせり、而して先生の熱誠なる此意見は、来遊米人をして深き感動を禁ずる能はざらしむるものあり、為めに彼等は、帰国後能く先生の精神を敷衍して、之れを米国の上下に伝へ、日本に対する米人の感情を大に和らげ得るの効を奏したり、実に日米親交に関する先生の此努力と熱心とは先生をして恰も印綬を帯びざる外相たるの観あらしめ、幾多の同志を国内に得たると同時に、米国に於ても亦た一層多数の有力なる同情者を生じ、此等彼我の先覚者互に呼応して、以て其所期の目的を達せんと努めつゝあるは、両国将来の幸福上洵に喜ぶべきの現象にして、其功は先生の宇内的達識と、愛国的至誠とに帰する所不尠と云ふも過言にあらず
 日米問題に関する先生の努力実に右の如しと雖ども、然かも先生は尚ほ国内に晏居して事を処するを以て満足する能はず、大正四年十月には七十歳の老躯を提げて、自から第二回の米国周遊を試みられ太平洋沿岸各地は言ふ迄もなく、遠く市俄古・華盛頓・紐育等の東部諸市を歴遊して、到る処に同国有力者と会見し、赤心を披瀝して日米問題の現在及び将来を論じ、日本の米国を見ること今猶ほ昨の如く、毫も信頼の心を変ぜざる旨を告ぐるは勿論、過去半世紀に亘りて、米国が日本の為めに甚深の友誼を尽くしたる厚意は、永久に我等の感謝して措かざる所なるを力説し、以て日本に対する米国の疑心を排除するに努めらるゝ所ありたり、当時米国の上下は、先生の説を聴きて多大の満足を感じ、先生を目するに平和の使者を以てし、礼遇優待頗る厚きを加へたり
 先生最近の渡米が、同国中到る所に多大の好感を惹起せしめたるは則ち前述の如し、然りと雖ども、先生は啻だに温容柔語を以て、米人の対日的感情を和らぐるに努められたるのみに止まらず、談一度加州在住の日本人問題に及べば、先生は忽ち侃々諤々の舌鋒を磨して、邦人待遇の不当を鳴らし、其米国自身の伝統的政策に反するを指摘し、其人道に戻るを論じ、加州議会の態度を難じて、其反省を希望する等、苟も我既得の権利を擁護し、正義の実行を要求する上に於ては、寸毫も憚かる所なく、凛乎として他を承服せしめずんば止まざるの概を示めされたり、而して之れ亦た米国識者の深く感動したる所にして、近時加州各地に於ける日米労働者の関係が、数年来未だ曾て見ざるの融和を来たしたる事実の如きも、先生這般の米
 - 第42巻 p.568 -ページ画像 
国旅行が米人に及ぼしたる好感の一成果と言はざるべからず
 又た先生は、啻だに日本人に対する差別的待遇に就き、加州議会の不当を難じ、其是正を求められたるのみに止まらず、更に翻つて在留日本人の態度及び其生活状態等に就ても、細心なる観察を行ひ、其米人の嫌悪を買ふ所以の、必ずしも人種的異同のみに存するに非ざるを見るや、彼等に対しても、其風気の改良と向上とを要求すると同時に、米国の風俗習慣に逆らふことなく、或は寧ろ之れに同化して、永住の素地を作るの必要なるを勧奨せられたり、之れ実に思慮ある憂国者の言として聴くべきものにして、其着眼頗る遠大なりと云ふべし
 先生は又た、右渡米中其平素の持論たる日米実業家協力案に就き到る所の有力者に説き、彼れ等をして大に考ふる所あらしめたり、而して若し夫れ将来本邦及び支那方面に於ける、日米協同企業の為め米国資本の盛んに流入し来たりて、関係諸国の経済的発展に利する所ありとせば、先生の労は実に其時に於て酬ゐられたりと云ふを得べし
 先生は対米問題に就て熱心なると同時に支那問題に就ても亦た、深く思を潜めらるゝ所あり、大正三年の初夏、多忙の身をも顧みず決然起つて支那旅行を断行し、同国朝野の有力者と普ねく交を結び、長江流域より北方各地に渉りて、詳密なる視察を遂げ、日支親善の益々必要なるを認め、深く心に期待せらるゝ所ありたり、而して其持説たる日米実業家協力論の如き、爾来一層其必要を感ぜられ、這回の米国旅行中斯論を熱心に唱道せられたるが如きは、一に其淵源を右の支那漫遊に発したるものとす、先生の期する所又た雄大なりと言はざるべからず
 対外関係に於ける最近七年間の先生の功績は、大略右に陳ぶるが如しと雖ども、然かも先生は其積年努力尽瘁を吝まれざりし教育・宗教及び社会問題等に関する事業に対しても亦た、此七年間に多大の貢献を寄せられたりき、就中帰一協会の事業の如き、理化学研究所設立計画の如き、或は又た過去四十余年来自から董督の責に任じ以て今日の大を成したる東京市養育院に対し、最近其移転拡張に関する大計画を立てられたるが如き乃ち其著明なる一例なりとす
 若し夫れ実業方面に於ける先生の活動に至りては、毫も従前と異なる所なく、老来益々其鋭を加へられたるの傾あり、彼の伯刺西爾拓植会社・中日実業会社・帝国蚕糸会社・日仏銀行・日本染料会社等の設立、東洋製鉄会社及び扶桑海上保険会社の組織計画等の如き事業は、孰れも先生の助力を得て成立し、若くは成立せんとしつゝあるものにして、以上は僅かに其一・二例を挙げたるに過ぎずと雖ども、又た以て最近実業界に於ける先生の貢献の大なりしを認むるを得べし
 尚ほ玆に最近七年間、海内海外に於て発生せる重もなる出来事を列挙すれば、明治四十三年に於ける韓国の併合、明治四十四年に於ける支那の革命と其共和制度の樹立、同年に於ける日英同盟の改訂と恩賜財団済生会の創立、明治四十五年に於ける明治天皇の崩御、大
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正二年に於ける前将軍徳川慶喜公の薨去と日本人土地所有権剥奪に関する米国加州の立法事件、大正三年に於ける昭憲皇太后の崩御と欧州大戦の勃発、大正四年に於ける巴那馬太平洋万国博覧会の開設と今上陛下即位の大礼、大正五年に於ける日露協約の締結と立太子礼の挙行と日本及布哇間の無線電信開通等は、即ち其顕著なる事実なりとす、而して先生が此等の出来事に関聯して、或は聖旨奉戴翼賛の誠忠を尽くし、或は痛恨慟哭の熱涙を流がし、或は国策展開に関して政府当局を輔け、或は先帝追慕の恭誠を表するの計画に参し或は善隣友誼の至情を具体化するの手段を勧め、或は目下の欧洲戦後に於ける日本の世界的地位を思ふて其対策を稽ふる等、一々多大の労心を尽くされたるは、生等の想察に余りある所なりとす
 先生は又た功成り名遂げて身退くの雅懐を有する達人なり、大正五年七月、先生が過去四十有三年間継続在任せられたる第一銀行頭取の職を辞退せられたるが如きは、其表面の理由頽齢の故に存すと雖ども、其真意は寧ろ後輩の進路を開かんが為めなりしは、生等の信じて疑はざる所なりとす
 先生今や第一銀行を去り、従つて実業界に於ける活動より隠退せられたりと云ふと雖ども、然かも其隠退は世に所謂普通の隠退に非ずして、更に一般公益事業の方面に於て、其全幅の活力を傾注せんが為めの隠退なるを以て、要は一種の方向転換に過ぎざるなり、蓋し之れ先生の胸中、公益を進むるを知りて私福を図かるを知らず、天下の憂に先だちて憂ふるを知るも、天下の楽に後れてだに楽むを知らざるが為めにして、此献身克己の精神は、実に先生をして今日の先生たらしめし所以たるなり
 嗚呼、先生の高風と雅懐と、愛国的至誠と世界的見識と、堅忍不抜の意思と、用意周匝の賢慮と、百折不撓の勇気と仁慈博愛の温情とは実に先生の全人格を織り成せる紅紫絢爛の経緯と云ふべし
 最近七年間に於ける青淵先生の公的生涯に関する瞥見右の如し、生等は先生が此七年間に於て、邦家社会の為めに尽されたるの大なるを見て、至大の感謝を表すると同時に、更に其私的方面の一斑を叙し、以て其多幸を祝せんと欲す
 先づ第一に祝せざるべからざるは、先生が此七年間に於て概ね優良の健康を保持せられたることなり、但し間々病床に呻吟せられたることなきに非ずと雖ども、多くは公共的劇務に過労せられたるの結果にして、恢復亦た速かなるを常としたるは、生等の欣喜措く能はざる所なりとす、次に祝すべきは、右七年間に於て先生の一令嬢三令息が孰れも好配を得て室を同じうせられたると、令孫・令曾孫の歳々其数を加へられたることなり、而して最後に祝すべき事は、多年先生が社会・慈善事業の為めに尽瘁せられたるの功労を録せられ即位御大礼に当り、至尊より特に勲一等旭日大綬章を賜はりたるの栄誉にして、一門の多福光栄実に賀すべきの至りと云ふべし
 生等、今玆に、青淵先生喜寿祝賀の会を開き、聊か最近七年間に於ける先生公私両方面の歴史を叙して、以て祝意を表し、併せて将来の健康と清福とを祈る所以は、蓋し生等自から奮励努力して、先生
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の驥尾に附し、其足跡を追はんと欲するが為めに外ならず
  大正五年十一月二十六日
            竜門社評議員会長
               法学博士 男爵 阪谷芳郎
△来会者氏名
一、主賓
 男爵 阪谷芳郎君     同令夫人
一、陪賓
 男爵穂積陳重君  同令夫人
 渋沢武之助君   同令夫人
 渋沢正雄君    同令夫人
 渋沢秀雄君    渋沢信雄君
 林泰輔君
一、特別会員
 石井健吾君    石川道正君    石川範三君
 今井又治郎君   今井晃君     伊藤新作君
 伊藤半次郎君   伊藤好三郎君   伊藤潔君
 伊東祐穀君    井上権之助君   井上金治郎君
 一森筧清君    岩崎寅作君    犬丸鉄太郎君
 池田嘉吉君    萩野由之君    萩原源太郎君
 服部金太郎君   原胤昭君     長谷川粂蔵君
 西野恵之助君   西田音吉君    西田敬止君
 西谷常太郎君   新原敬三君    二宮行雄君
 穂積重遠君    同令夫人     穂積真六郎君
 同令夫人     星野錫君     堀越善重郎君
 堀越鉄蔵君    堀切善次郎君   堀内明三郎君
 堀井宗一君    堀井卯之助君   堀田金四郎君
 利倉久吉君    戸村理順君    鳥羽幸太郎君
 豊田春雄君    大橋新太郎君   大橋進一君
 大野富雄君    大沢省三君    大沢正道君
 大葉久吉君    大友幸助君    大倉喜三郎君
 沖馬吉君     小田川全之君   尾高幸五郎君
 尾高次郎君    同令夫人     織田雄次君
 関景助君     小川鉄五郎君   渡辺嘉一君
 脇田勇君     川田鉄弥君    川村桃吾君
 河田大三九君   神谷義雄君    神谷十松君
 柏原与次郎君   鹿島精一君    金谷藤次郎君
 柿沼谷雄君    加賀覚次郎君   吉田節太郎君
 横山徳次郎君   米倉嘉兵衛君   田中太郎君
 田中元三郎君   田中楳吉君    田中徳義君
 田村秀光君    竹田政智君    滝沢吉三郎君
 多賀義三郎君   高松豊吉君    高橋波太郎君
 高橋金四郎君   高根義人君    曾和嘉一郎君
 角田真平君    塘茂太郎君    坪谷善四郎君
 - 第42巻 p.571 -ページ画像 
 成瀬隆蔵君    成瀬仁蔵君    永井岩吉君
 中村鎌雄君    中村歌次郎君   仲田慶三郎君
 仲田正雄君    武藤忠義君    村木善太郎君
 内山吉五郎君   内田徳郎君    内海三貞君
 浦田治平君    植村澄三郎君   同令夫人
 同令息      同令嬢      上原豊吉君
 同令夫人     野口半之助君   日下義雄君
 倉沢粂田君    栗田金太郎君   久万俊泰君
 倉田亀吉君    八十島親徳君   同令夫人
 同令嬢      八十島樹次郎君  山田昌邦君
 山田敏行君    山中譲三君    山中善平君
 山口荘吉君    山下亀三郎君   山本徳尚君
 山本久三郎君   矢野由次郎君   矢野義弓君
 矢木久太郎君   簗田𨥆次郎君   町田豊千代君
 増田明六君    松谷謐三郎君   松平隼太郎君
 福島甲子三君   同令夫人     福島宜三君
 藤田英次郎君   古田良三君    藤山雷太君
 小林武次郎君   小林武彦君    小橋宗之助君
 小池国三君    小西安兵衛君   昆田文二郎君
 江藤甚三郎君   江藤厚作君    手塚猛昌君
 寺田洪一君    安達憲忠君    青木直治君
 朝山義六君    同令夫人     粟津清亮君
 佐々木勇之助君  佐々木慎思郎君  佐々木清麿君
 佐々木修二郎君  阪谷希一君    佐藤毅君
 佐藤一雄君    佐藤正美君    斎藤章達君
 斎藤峰三郎君   桜田助作君    笹沢仙右衛門君
 木村長七君    木下英太郎君   水野錬太郎君
 宮下清彦君    渋沢義一君    渋沢虎雄君
 白石元治郎君   白石重太郎君   白石甚兵衛君
 白石喜太郎君   清水一雄君    清水揚之助君
 島原鉄三君    芝崎確次郎君   弘岡幸作君
 桃井可雄君    諸井恒平君    諸井四郎君
 本山七郎兵衛君  森岡平右衛門君  森岡文三郎君
 関直之君     鈴木清蔵君
一、通常会員
 石井与四郎君   石田豊太郎君   石田友三郎君
 石川金之助君   井田善之助君   井野辺茂雄君
 井出徹夫君    井戸川義質君   伊藤英夫君
 伊藤美太郎君   池田友一郎君   市川武弘君
 岩本寅治君    猪飼正雄君    家城広助君
 板野吉太郎君   長谷井千代松君  長谷川政蔵君
 萩原英一君    原泰一君     林正三君
 橋爪新八郎君   伴五百彦君    春名喜四郎君
 西正名君     堀家照躬君    堀内歌次郎君
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 本多勝君     豊高春雄君    豊田伝次郎君
 友野茂三郎君   友田政五郎君   東郷一気君
 富永直三郎君   苫米地義三君   織田槙太郎君
 織田磯三郎君   落合満芳君    落合太一郎君
 小田島時之助君  小倉槌之助君   小倉平一郎君
 小熊又雄君    岡崎惣吉君    大竹栄君
 大原万寿雄君   太田資順君    奥川蔵太郎君
 尾高豊作君    渡辺徹君     川口一君
 河村桃三君    河崎覚太郎君   河見卯助君
 神谷祐一郎君   神谷新吾君    神谷善太郎君
 金井滋直君    金沢求也君    金沢弘君
 兼子保蔵君    片岡隆起君    鹿沼良三君
 書上安吉君    横田半七君    吉田升太郎君
 吉岡仁助君    高橋信光君    高橋俊太郎君
 高田利吉君    高山仲助君    高瀬荘太郎君
 田岡健六君    田中鉄蔵君    田中寿一君
 田中一造君    田淵団蔵君    田島昌次君
 田山宗尭君    田子与作君    田沼賢一君
 武沢顕次郎君   武沢与四郎君   武笠達夫君
 玉江素義君    俵田勝彦君    竹下虎之助君
 左右田良三君   鶴岡伊作君    堤真一郎君
 長井喜平君    長宮三吾君    成田喜次君
 永田市左衛門君  中山輔次郎君   中島徳太郎君
 中北庸四郎君   村松秀太郎君   村田繁雄君
 生方祐之君    上野政雄君    上田彦次郎君
 梅田直蔵君    梅津信夫君    野口米次郎君
 野村鍈太郎君   野村茂君     熊沢秀太郎君
 黒沢源七君    桑山与三男君   久保幾次郎君
 久保田録太郎君  国枝寿賀次君   八木仙吉君
 安井千吉君    山口乕之助君   山村米次郎君
 山内篤君     山下三郎君    山崎一君
 松園忠雄君    松村修一郎君   松本幾次郎君
 古田元清君    藤井政蔵君    藤井甚太郎君

 藤巻太一君    藤浦富太郎君   福島三郎四郎君
 福田盛作君    小林武之助君   小林徳太郎君
 小林茂一郎君   小林清三君    小島鍵三郎君
 小島順三郎君   小宮善一君    小山平造君
 近藤良顕君    河野間瀬次君   江口百太郎君
 粟生寿一郎君   相沢才吉君    荒井円作君
 足立芳五郎君   合原六郎君    綾部喜作君
 斎藤亀之丞君   斎藤真容君    佐野金太郎君
 坂田耐二君    阪本鉄之輔君   酒井次郎君
 三枝一郎君    桜井武夫君    桜井大路君
 座田重孝君    木村亀作君    木村益之助君
 - 第42巻 p.573 -ページ画像 
 木村弘蔵君    木村金太郎君   木村弥七君
 木之本又一郎君  木下憲君     北脇友吉君
 三宅勇助君    三輪清蔵君    三上初太郎君
 緑川洽君     芝崎猪根吉君   芝崎徳之丞君
 島田延太郎君   柴田房吉君    下川芳太郎君
 東海林吉次君   渋沢長康君    昼間道松君
 平賀義典君    森江有三君    両角潤君
 関口児玉之輔君  鈴木豊吉君    鈴木勝君
 鈴木富次郎君   鈴木源次君    周布省三君
玆に当日本社会費中へ金員を寄贈せられたる各位の芳名を記して、深謝の意を表す
△金員寄贈者芳名
 一金参拾円也            佐々木勇之助君
 一金参拾円也            木村長七君
 一金弐拾円也         男爵 穂積陳重君
 一金参拾円也            渋沢義一君
 一金弐拾円也            神田鐳蔵君
 一金拾円也             白石元治郎君
 一金拾円也             今井又治郎君
 一金八円也             小池国三君
 一金五円也             落合太一郎君


竜門雑誌 第三四四号・第六〇―六七頁 大正六年一月 ○欧洲視察談 法学博士 男爵 阪谷芳郎(DK420102k-0003)
第42巻 p.573-585 ページ画像

竜門雑誌  第三四四号・第六〇―六七頁 大正六年一月
    ○欧洲視察談
               法学博士 男爵 阪谷芳郎
 今日は青淵先生の喜寿祝賀と共に、私に対しましても歓迎をして下さると云ふことは、斯かる芽出度い日に其余沢に浴しまする訳でございまして、厚く御礼を申上げます。
 私は今年の五月一日に東京を出発致しまして、朝鮮・満洲・西比利亜・露国、それから道を芬蘭に取りまして、北の方に出まして、瑞典諾威を経、英国を経て巴里に参り、巴里から又伊太利・瑞西等を廻りまして再び巴里に戻り、それから英国を経、米国を経て、加奈陀に至り、加奈陀より、晩香坡を十月十九日に出発致しまして、今月(十一月)の三日、即ち立太子式の芽出度い日に帰朝致しました、政府の最初の御命令は、巴里の経済会議に日本を代表して、聯合各国の政府との意見を能く一致せしむるやうに、と云ふ御命令でございましたが、其後に会が済みますと云ふと、種々の電報が参りまして、斯う云ふことを調べて来い、あゝ云ふことを調べて来いと云ふ電報が続々参り、遂に成べく早く日本へ帰らうと考へて居りましたら、米国を経て帰れと云ふ又電報が参り、色々其会議が済みましてからも、政府から御命令が参りましたので、其御命令を遂行致すに就て、彼此手間取つて、漸く半年の歳月を費して帰朝致したと云ふ訳であります、それに就きまして、甚だ経験浅く、微力に致しまして、何等お土産として持来す
 - 第42巻 p.574 -ページ画像 
ことのないのを深く恥入りますでございます、如何にも六箇月と申しますと、長いやうでございますけれども、右申しました各地を経過致しますると、二万五千哩からの距離を経過するのでございますから、其間に色々政府の御電報に依つて、其取調を致すと云ふことは、随分六ケ敷いことで、甚だ難儀を致しましたのでございます、それで、今日は既に度々方々の席でお話を致して居りまするので、重複になるかも知れませぬが、戦争に関します方のお話を致したいと考へます。
 其前に皆様に御覧に入れるものを持つて参りました、是は御承知のお方もございませうが、仏蘭西の兵隊が陣中で用ゐて居りまする鉄の兜でございます、此処に弾丸に当つて居りまするけれども、其弾丸は唯兜へ少々の瑕を拵へた丈であります、之を皆冠つて居ります(男爵自ら冠りて示さる)総ての兵隊が之を冠つて塹壕の中に蹲んで居る、此中に色々空気を抜きます趣向、弾が当つても外れるやうに、此兜の形の上に非常な学理が応用してあるのださうであります、色々学術上の研究から、質も軽く堅く、弾が当つても外れるやうに、余程形と云ふものが研究されて居る、それから中の空気が抜けたり、又弾が縦んば貫つた場合にもどうなると云ふやうなことにまで注意が届いて居る之を冠つて、それから今の此処に持つて来ませぬでしたが、毒瓦斯を防ぐものがもう一つある、之を口から鼻へ掛けて掩ひますと、丁度日本の元亀・天正頃の兜と同じ形になる、此兜は仏蘭西で最初用ゐましたのですが、統計を取つて見ると云ふと、死傷の数字の上に於て、どうしても百分の五以上違ふ、此兜を冠ると冠らないとでは、大変に死傷のペルセンテージに差がある、英吉利は最初之を用ゐなかつたが、死傷の統計を取つて見ると、非常に有効の結果が現はれて来たものですから、英吉利でも早速仏蘭西に之を注文して、百万個も英吉利へ入れて今は英吉利の兵も之を冠つて居る、それで此形の研究、それから頬当の毒瓦斯を防ぐ研究なども、私が仏蘭西の特許局に参りましたときに、仏蘭西の特許局は、工業試験所と、工業博物館と、特許局と一緒の建物の中にある、之が又仏蘭西政府が商工業に力を用ゆる一の考から出来て居る、特許局即ち発明局・工業試験所、それから工業博物館と三つ一緒の建物の中に置くと云ふことは、其三つの関係上大変に一国の工業の上に利益がある、其処へ行つて見ました所が、戦争中でありますので、今博物館などは皆鎖してありますのを、吾々の為めに態々開けて見せて呉れました、それで今戦時中で閉ぢてある、掛員も兵隊に取られて減つて居るから、掃除等も行届かぬと云ふ断りをされて、其特許局の発明を管理する場所から、其次に今の工業博物館の方を案内して呉れた、其工業博物館の中の陳列の仕方と云ふものは、実に古い所から最新のものまで残らず陳列して、さうして新規の器械と云ふものは、皆電気仕掛になつて、一寸釦を押すと蒸気の機械でも何でも動くやうになつて居る、それから工場法などを実施するに就ての参考として、此機械は此処が危険であると云ふことが自然と分るやうになつて居る、それで今度の戦争で非常に博物館の有効であると云ふことが分つたと云ふことを、其案内者が申しますのは、斯う云ふ博物館は幾つもある、仏蘭西人は此博物館へ、始終子供の時分から来て観
 - 第42巻 p.575 -ページ画像 
て居るものだから、此度の戦争で仏蘭西が職工に不足して、此不足を補ふ為めに不熟練の職工若くは婦人と云ふものを沢山に入れた、けれどもそれが直に機械を扱ふと云ふことに慣れる、即ち識らず知らずの間に子供の時から、女にも男にも斯う云ふものを見せて置いた其効果が現はれて、今日非常に職工に不足して、それを補ふのに婦女を以てし、尚足らずに支那人まで入れて居るが、其仏蘭西の婦人などが、一箇年或は六箇月も訓練しなければ間に合はぬと思つたのが、もうズンズン一・二箇月間位で間に合ふ、其間に合ふと云ふのは何の結果であるかと云ふと、此博物館が一の大なる原因である、即ち今君が見られる通、斯う云ふ機械の扱方などを唯面白いものだとして土曜日だとか日曜日だとか云ふときに見せて置いたことが、即ち今日は直に功益を生じて居る、平常でも功益を生じて居つたんであらうけれども、其処まで誰も気が着かない、今日急に職工が不足になつてから見ると、国の経済上に大なる功益を為して居ることが分ると云ふ話でありました其辺に居る婦人を職工に入れても、是は斯うだと云へば、直に機械の扱方を覚えてしまふ、却々日本の婦人を工場へ入れましても、半年位掛らなければ、充分熟練した機械の扱ひは出来ぬでありませう、弾丸工場の機械などは却々複雑して居ります、さう云ふ訳である、それから又工業試験所では、もう一生懸命に、今の毒瓦斯の試験だの、今の兜だの、瓦斯を防ぐ頬当だのと云ふものを色々工夫して居る、斯う云ふ形にするが宜いとか、或は覆面の方は始終衣嚢に入れて居ります、不断に掛けて居ると煩さい、そこで其入れて置く場所などに就ても、始終研究して居る、目鏡で見て居つて、敵が黄色い瓦斯を出したと云ふと、直に頬当を出して掛ける、すると其中に薬が這入つて居つて、其毒瓦斯が来ても消してしまふ、それであるから、其覆面は兵隊の何処へ入れて置くが一番便利であるかと云ふやうな研究、隊長が面を附けろツと云へば、直に出して附けなければならぬ、其面に附ける紐の附け工合と云ふやうなことまで研究して居る、既に戦場に送つて居るに拘らず、尚さう云ふことを工業試験所では一生懸命に研究して居ります、それから分析所へ行つて見ると、毒瓦斯を消す試験を又やつて居る、実に此発明研究と云ふことには力を尽したものであります、さう云ふやうな仕組に出来て居ります、ところが先達石黒男爵に伺ひました所が、是は丁度妙珍の兜と同じものだと云ふお話がありました、妙珍の兜と云ふものがヤハリ剣で伐つたときにどう云ふ角度にして置けば、剣が外れると云ふことから、又此角度がわるいと、肩を斬られたり腕を斬られたりするそうです、真向に八幡座を目懸けて来る奴が外れて、肩を斬られたり腕を斬られたりするから、それを避ける為めに角度の附け方が工夫してある、さう云ふやうに元亀・天正の頃は、兜は非常に研究に研究を重ねて出来て居る、今日仏蘭西が学問の上から研究に研究を積んだものと、道理は丁度一致して居ると云ふお話が過日ありました、詰り、物は周つて参つたのです、元亀・天正の兜とか面とか云ふものは、吾々はもう博物館の紀念品のやうに考へて居つた、ところが二十世紀の最も文明の戦争に、又それが必要になつて来た、今日は小銃と云ふものを余り用ゐませぬ、騎兵の戦争も余りない
 - 第42巻 p.576 -ページ画像 
塹壕の中に蹲んで居つて、さうして大砲の弾で撃合つて居る戦争の方が熾である、それでありますから、今英吉利の兵が戦つて居りますソンムの戦には、一日に英吉利の兵隊が目方で四千五百貫の弾を費して居る、大変なものです、それは千九百十四年の八月に戦争が始りました当時、英吉利の兵が六ヶ月間に費した弾を一日に費して居る勘定である、それで今の戦争のやり方はどうなつて居るかと云うと、英吉利の飛行機が行つて、独逸の方の塹壕をスツカリ上から写真に撮る、さうして写真に撮つた通の塹壕を味方の方で拵へて、其塹壕の中へ飛込む調練をやつて居る、愈々調練が熟したときに、敵の塹壕へ飛込む前数日間、大砲で敵の塹壕をメチヤメチヤに打潰してしまふ、さうして英吉利兵なり仏蘭西の兵なり進んで取ります、塹壕を取ると、塹壕より数町先に大砲を撃つて、砲弾の雨を降らせる、すると独逸の兵が逆襲しやうとしても出来ない、其中に此方は陣地を固めて行くと云ふやうな遣方で、一挙に事を為すにあらずして、七月一日から大進撃が始つて、未だ今日もやつて居る、もう一尺づゝでも前へ進んで行く、実に耐忍力の強い戦争の遣方である、それからして空中に皆繋留風船がありまして、其風船から弾の当り工合を観測して居ります、其風船から無線電信で以て、大砲を撃つ人へ知らせるのですから、其風船の観測を壊すと云ふことの必要がある、それに就ては、仏蘭西の方で大変に速力の早い飛行機を拵へて、其飛行機が行つて、戦争の始る前に敵の風船を皆焼落してしまふ、其焼落すのは、煙花のやうな弾がある、其弾を見当を附けて投げる、さうするとそれが煙花のやうに拡りまして其範囲内にある風船に火が附く、一つの弾だと狙の外れると云ふこともありますが、両国の煙花見たやうに拡る弾を落しますので、其範囲内にある風船に当ると中の瓦斯に火が附いて焼けてしまふ、斯う云ふ仕掛であります、それから今の飛行機も、色々新工夫がありまして、敵を偵察する飛行機、攻撃する飛行機種々な遣方であります、のみならず、日本ではスミスと云ふ人が宙返り飛行をやつたと云ふて驚いて居りますが、仏蘭西では逆返りとか宙返りとか云ふやうなことは、私が一寸見物に参りましても、誰でもやつて見せると云ふやうな訳で、曲乗りでも何でも自由自在に出来る、飛行機の学校にも参りました、其処では毎月五十人位づゝ飛行機の卒業生が出ます、是は六箇月の卒業でありまして、さうして学校が初等・中等・高等と三つの学校になつて居る、私は初等の学校しか参りませぬ、後の中等・高等と云ふ方の学校は能う参りませぬでした、其初等の学校では唯飛行機に乗ると云ふことしか教へない、行つて見ますと生徒の寄宿舎もある、それから飛行機の格納庫もある、又修繕工場もある、広い飛行機の練習所もあります、而して最初生徒に教ゆるには、馬術の先生が木馬を教ゆるやうに飛行機が地面に据附けてある、梶の取り工合からガツタンガツタンやつて、飛行機の扱方を教ゆる、それから少し慣れると飛ばす、斯う云ふやうにして、初等の飛行機学校では、生徒が飛行機を唯飛ばすことに慣れると云ふことを、主眼として教へて居る、それから飛行機の壊れたのを、どうして修繕するか、飛行機の組立から修繕の仕方を教ゆる、次に中等の学校へ行くと、今度は敵を偵察する方法を教ゆる、
 - 第42巻 p.577 -ページ画像 
一番高等の学校へ行くと、愈々実戦の方法を教ゆると云ふやうに、三階級に分けて教へて居る、飛行機は毎日十何台出来ることになつて居ります、今仏蘭西の飛行機が陸軍で持つて居るのみで、一万台からになつて居ります、のみならず極く激戦になると、飛行機は一度しか使はない、一度使つた飛行機は、他の戦線でない目的の方に廻すと云ふやうになつて居つて、却々皆さんが所沢に飛行機が十台か二十台あると云うて、御安心になつて居つては大間違ひ、若し日本に戦争があつて、飛行機でやつて来られたら、余程危険であらうと感じました、是から先日本は飛行機に対する防禦、又飛行機の製造等のことは余程考へなければならぬことだらうと思ひます、是は今の兜に続いて序でにお話した訳であります。
 それから今一つお目に掛けますのは、是は一つは米国の国旗であります、一つは米国の費府の旗であります、十月一日に私が費府へ参りましたときに、今日世界の大共和国たる米国、其元は即ち費府の独立館から始つたので、それで費府の市長が、日曜日であつたにも拘らず独立館を開きまして、独立館で米国十三州が愈々独立を宣言すると云ふて決議した会議室に、議長の座つた其時の椅子があります、又皆が愈々独立すると云ふことの宣言書に署名した時の机があります、其椅子・机の前で、費府の市長が私の手を握つて、君の費府へ来られたことを公式に歓迎する旨を述られ、それから其処に独立宣言の合図をする為めにボンボンと打つた其当時の鐘があります、其鐘は硝子の箱に這入つて居る、それを開きまして、市長が私の手を執つて其鐘に触れしめた、其市長の誠意と云ふものは余程察しなければならぬ、それから有名なワナメーカー氏の日曜学校があります、其日曜学校へ行つたときに、千数百の其処に居る聴衆の前で、日本から来た阪谷男爵へ米国の旗並費府の旗を贈る、米国人の赤心を示す為めに贈ると云ふ其旗であります、如何にも之は意味がある、此兜は仏蘭西に於て、織田と云ふ私の友人が求めて私に贈つて呉れた兜であります、此兜は即ち現在欧洲の戦況を示して居る、又此旗は米国の人心、即ち今日の如き会に於て之を諸君に示して呉れと云ふ、所謂白紙の手紙、寧ろ説明を加へぬ方が宜いであらう、其旗を贈つたと云ふ意の中には、千万無量の言葉がもう尽してある、米国は今日戦争に加つて居らぬ国である、ワナメーカーと云ふ人は、青淵先生とは一見旧知の如き関係の人、青淵先生にバイブルを贈つて、さうして其バイブルを御一読の後に意見を聴きたいと云ふことを当時話された、今度会ひましたら、先生は今のバイブルを読まれたであらうかどうか、青淵先生がバイブルを読み了つたときの感想を早く聴きたいと云ふ、伝言をして呉れと言はれました、此ワナメーカーと云ふ人は、元赤裸の身から米国で稼ぎて、今日は何億と云ふ金持でありますが、其金持が日曜日に、自分の友人なり家族なり、使用人なり、其他色々の人を集めて、日曜学校に於て世道人心に関する話をして聴かせた、其席で此旗を私に渡したのでありますから、米国は何処までも日本に対して同情を有し、又日本と利害を共にして、此世界文明に貢献すると云ふ趣意であらうと考へます、米国の只今の有様を見ますと云うと、非常な繁昌です、欧羅巴の金が尽
 - 第42巻 p.578 -ページ画像 
く米国に集つて、地球が傾きはせぬかと云ふやうな、一寸云へば評する程に米国に金が集つて来る、それ故に米国は此余れる資本を以て、南米なり東洋なりに仕事をしたい、其東洋に仕事をするに就ては、一昨年渋沢男爵が渡米の折り、日米資本提携と云ふことを、バンダーリツプと云ふ人に話されたことがある、其当時は、米国は其渋沢男の日米資本提携と云ふことには、余り耳を傾けなかつたのであるが、段々其後状況を考へて見ると、どうも此日米資本提携と云ふことは、至極結構のことゝ思ふ、それで先ジヤツジ・ゲリー、是はピツツブルグの製鉄会社の社長で、寔に有力な人であります、此ジヤツジ・ゲリーが北京へ行つて、色々話を聴きまして、支那の方の話に依ると、却々日本に対して支那の人が苦情を申立たさうであるが、其話も充分にジヤツジ・ゲリーは聴いて居つて、而して東京へやつて来て、段々東京の渋沢男爵其他の人に話して見て、大に日本の日米若くは日支の関係に誠意のある所をゲリー氏は酌取つたのである、故にジヤツジ・ゲリーが東京の商業会議所に於て歓迎を受けた際には、充分に其意見を述べた、其意見は米国に帰つてからも毫も変る所なしに、其通に各新聞に其事を発表されて、至極ゲリー氏などの説に依つて見ても、日米が資本の上で相提携して、支那の文を進め、開発を図ると云ふことは宜いやうに思ふと云ふことに、米国の人心が傾いて居ります、其一端と云ふものが、此旗に依つて証明せられたと云ふことになつて来る、それで私の思ふに、米国に於きましても、日本に於きましても、さう云ふ考に就て、既に渋沢男爵なりバンダーリツプ氏なり、ゲリー氏なりの間にお話があつた以上は、何方にももう異存のないことゝ思ふ、併ながら、其形式を如何にするか、唯日米資本の提携と云うて見たところが、形式を如何にするか、条件を如何にするか、方法は如何にするかと云ふ問題と云ふものが、米国に於ても、日本に於ても亦北京に於ても、尚攻究を要する、此米国・日本・支那の三者の間に、意思が完全に疏通して、互に蔵す所なく、誠意を以て接触すると云ふ了解がなくては、甚だ六ケ敷いと思ふ、それで、夫等の事は為し得られること、又為さねばならぬことである、今欧羅巴の戦争に於て、当分欧羅巴各国は、支那に手を出す訳にいかぬ、又資本も支那へ沢山貸す訳にいかぬ、然らば太平洋方面に要する所の資本と云ふものは、余れる所から持つて来る外はない、余れる所から持つて来るとなると、米国の資本が来る、日本と米国と支那で競争を惹起す、競争の結果が衝突となると云ふやうな不祥なことがあつてはならぬのであるから、所謂三国の識者が完全に了解をして、事を進めて行くと云ふことであらうが、先づ第一に形式・方法・条件と云ふものを、お互能く攻究する必要があらうと思ふと云うて、私は米国の主なる人士には、其趣意の話を交換致して置きました、其辺のことに就きましては、又段々とそれそれの方面から、即ち主として民間の側でありますが、又政府側のお語もあるでありませう、日本の今日の立場として、現在に処し、将来に応ずるに最も大切なる点は、今の日本・米国・支那の関係と云ふものが、円滑になるや否やと云ふ点に繋がるのであります、是は外務省とか陸軍省とか云ふ所に任せて置くのでは足りない、今日は国民外交、国民
 - 第42巻 p.579 -ページ画像 
が自ら起つて背負つて行く考がなければならぬ、皆様の考が即ち識者の考に移る、識者の考が政府当局者の考に移つて行く、それに就て最も大切なるのは、始終米国なり支那なり、互に往復して誤解のないやうに努めると云ふことであります。
 此度聯合国が欧羅巴で戦争致して居りますに就きましも、仏蘭西なり英吉利の政府が、何処に最も力を尽して居るかと云ふと、聯合国側の意志の疏通と云ふことに一番力を尽して居る、故に総理大臣と云ふものは忙しいのでありますけれども、屡々会合して居られる、又外務大臣も屡々会合して居られる、それから陸軍大臣・軍需大臣、之が八箇国、就中英・仏・露・伊此四箇国が主たるものでありますが、此四箇国の当局者は始終会合して居ります、私が巴里に居ります間、若くは倫敦に居ります間でも、尤も距離も近いのでありますが、始終労を厭はず、間に人を入れないで、直接に顔を合せて意思の疏通を図る、私の出席致しましたのは、即ち広い意味の経済会議でありますが、狭い意味の財政会議と云ふものがあつて、之には始終英吉利の大蔵大臣が中心となつて、露西亜・仏蘭西・伊太利、之が始終一緒になつては相談をして居られます、その狭い意味の財政会議は、どう云ふことをして居るかと云へば、公債を発行するにも始終申合せてやつて居ります、亜米利加へ行つて公債を募るに、英吉利が募る、仏蘭西が募る、露西亜が募ると云ふやうに、互に競争しては行けるものでない、聯合国が一緒になつて募る、一の市場に三つも四つも別々に募るよりは、或る一人に話を纏めた方が募る方も応ずる方も得だ、それから今日で財政上の一番の要点、物事を処するには要点を押ゆるが肝心である、此度の如き大きな戦争の財政を料理をするには、尤も此要点に着眼するが大切である、サスガ英国人で、それは倫敦・紐育間の為替の維持に、最も力を尽して居る、之は世界の金融大動脈、此大動脈と云ふものは、如何なる困難を冒しても維持すると云ふ決心でやつて居る、此為替の維持は即ち世界の貿易を繰廻す根本である、此為替が安全に出来て居れば、世界の金融は旨く行はれる、流石は英国の財政家、此処に着眼をして居りますから、今日亜米利加に金貨が沢山余つて居りますが、之を日本へ持つて来ることに就ては、英吉利・亜米利加の財政家が余り之を喜ばぬ、どうぞ金を余り日本へ引かぬやうにと云ふ意見を持つて居る、何故かと云ふと、成るべくチツトでも大動脈に影響を及ぼさぬやうにと云ふ考、或は物品の輸入を禁じて見たり、或る場合には輸出を止めたり、総て金がなるべく英国に集り、さうして此為替の大動脈が、何時も安全に維持されて居ると云ふことが第一の要件、他は色々苦情があれば、其苦情に依つて解決を附けるけれども、此目的を先づ達すると云ふことが、第一の要件である、それでありますから、今日仏蘭西の中央銀行、伊太利の中央銀行、露西亜の中央銀行、何れももう兌換を停止して居る、倫敦の中央銀行唯一箇所だけは兌換を停止しない、是はどうしても兌換を停止してはいけない、と云ふのは、之を閉ぢてしまふと、やはり八箇国に影響する、何処かに兌換の出来る、金銀出入の場所がないと、世界の金融が動かなくなる、今日日本の金融市場が金利が安いとか高いとか云つて、安心して居られる
 - 第42巻 p.580 -ページ画像 
のは、倫敦の市場にチヤンと安全なる兌換の出来る所があるからで、若し倫敦を停止してしまふと、日本の市場も非常に困難を感じて来ると云ふことは、予め考へなければならぬ、そこで此倫敦即ち英蘭銀行の準備金と云ふものを堅固にする為めに、仏蘭西の中央銀行、伊太利の中央銀行、露西亜の中央銀行の準備金を、始終大蔵大臣が寄つて相談をして、幾何かの必要に応じ移して居る、即ち此中央銀行の準備金と云ふものは、戦時の急に応ずると云ふのが一の目的である、即ち日本銀行の準備金を維持するのは、平時に於ては経済の基礎を固うし、戦時に於てはそれを軍用金とするのが目的であります、即ち今や軍用金となるに就て、それを最も有利に使はなければならぬ、何億と云ふ金を皆積んで居りますが、唯無暗に使つてしまつたら、一度散じては又集めると云ふことは難い、最も有利に使ふには、一の英蘭銀行へ集めて、それを準備として、紙幣を発行して為替を調節するが一番便利である、それで聯合国の大蔵大臣が寄つて相談をして、それでは己れの方から英蘭銀行へ何千万送る、と云ふやうに、同銀行に金を寄せては、次の三箇月間の準備は斯うしやう、或は次の六箇月間の準備は斯うしやう、大方針を定めて為替を調節して、後は銘々各国の宜しきに従ふ、それから軍需品の注文は、今亜米利加が大多数引受けて居りますけれども、是亦銘々其処へ色々な注文が出ては、亜米利加の商人が只物価を引上げるだけで、寔に粗末のものを高く買ふと云ふことになります、そこでヤハリ皆申合せて、有名のモルガン氏が委員となつて其モルガン氏の手を経て、各国が申合せて注文を発するやうになつて居りますから、細目には多少行届かぬ所があるかも知れませぬが、大体に於ては、各国の注文がモルガン氏の手を経て、チヤンと一番良い物を安く引取ると云ふことになつて居る、詰り聯合八箇国と云ふものが、能く歩調を一にすると云ふことに進んで居るのであります、それで総理大臣の会議もあり、外務大臣の会議もあり、軍事当局者の会議もあり、此軍事当局者の会議に依つて、露西亜・伊太利・英吉利・仏蘭西・羅馬尼・塞爾維、是等の国々が、独逸・墺地利をズツト包囲して、段々と包囲した輪形を締め込つゝある、五月一日に私が日本を立つた時分、未だ包囲が充分でなかつたので、独逸が彼方此方攻撃を取つて居つたが、私が仏蘭西に居る間に、独逸の攻撃が段々取れなくなつて、今では英吉利・仏蘭西・露西亜・伊太利が攻撃を取つて居る、独逸の方が奔命に疲れて居るけれども、御承知の通、輪の中に居る人と、輪の外を囲んで居る人とは、大変に距離の上に損得がある、外を囲んで居る者は強いことは強いが、距離が長い、中に居る者は、丁度鼠の走るやうに自由である、例へば羅馬尼とか塞爾維とか云ふやうな所へ、ヒヨイと飛出して奇捷を制すると云ふやうなことがあるけれども、丁度今では太刀山が大力を出してスツカリ取組だやうな形になつて居りますから、時々奇捷を制する為めに、足へ捉つたり手に捕つたりされることはありませうけれども、大体に於て敵が土俵を割つてしまふと云ふことは極つて居る話、如何にしても今日の勢を挽回すると云ふことは到底出来ぬ、聯合側の方が弾も充分であり、兵隊も充分であり、総ての事が充分でありますから、到底独逸が既に傾いて居る勢
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を挽回すると云ふことは出来ない、是はもう上手の碁なら投げてしまつた方が宜い、夫が併し独逸の方では成べく喰付いて、今に水が這入るだらうと待つて居る、それ故に水が這入るまでは未だ一箇年位掛りませう、但し本年の中に今ソンムの方が大変出ましたが、羅馬尼の方が悪うございます、羅馬尼の形勢が回復せられ、シヤンペンヌなり、若くはソンムなり、聯合軍がズツト進出すれば、水を入れる機会が大変近寄つて来るやうに考へられます、併ながら外を囲んで居るのは兎に角八箇国ですから、此間の意思の疏通を完全にすることに努めなければならぬ、それに就て英吉利・仏蘭西は非常に努めて居る、前申しました通、一番肝腎の当局者が、間に人を入れずに直接面談をする、之が一番何事にも緊要のことです、電話で話をしても、取次でなく話をすれば、直に意思が疏通する、況や大戦争、人種も違ひ国が違つて居る、其意思疏通を完全にすることは、それは努めたものです、私の如き者でさへ、一寸用があると云へば、どんな忙しい時でも、英吉利の外務大臣、或は仏蘭西の外務大臣が直に会つて話して呉れる、実に意思の疏通、殊に当局者直接に意志の疏通と云ふことを非常に努められて居る、どうぞ日本からも成べく――中立国ならば中立国の方針があります、既に日本が戦闘に加つた以上は、其交戦国の義務として、存亡を共にし、又利害を共にするの覚悟は充分に持たなければならぬ殊に私の希望するのは、向ふの首脳者の会議の中に、常に日本の代表者が這入つて居られて、意思の疏通を図ると云ふことが極めて必要のことと思ひます。
 それから仏蘭西の人心を観る為めに、私の感じたことを一寸申上げますと、勿論仏蘭西に限らず、英吉利でも、伊太利でも、露西亜でも向ふの人心が興奮して、独逸に対しましては、非常に敵意が強いのであります、例へば独逸語と云ふものは一切使ふことはならぬ、汽車の中に英吉利語・独逸語・仏蘭西語で書いてあるものは、其独逸語だけペンキで消してある、又何方も御承知でありませうが、巴里の中央コンコルドのアルサスの女神の像に黒衣が懸つて居りましたが、それが開戦後は喪章の黒衣が取除かれて、今は仏国の国旗が樹つて居りますアルサス・ローレンは取返さなければ、決して此度の戦闘は止めぬと云ふ決心を示して居る、さうして色々な会の案内の中にも、来年は大会をストラスブルグで開会すると云ふやうなことを宣言して居るやうな勢であるのです、それで沢山の人を殺し、金も要る戦争でありまして、何れも難儀を致して居りますが、一体に人心が落着いて、今日では婦人参政の問題とか、社会問題とか云うやうなことは、殆ど皆互に遠慮して、挙国一致敵に当ると云ふことになつて居る、それで婦人参政権論者はパンコースなどゝ云ふ先生などは、戦争が始ると、婦人参政権論者は一致国家の為めに尽せと唱へて、自分の主張をピタリと止めてしまつた、あの喧しかつた先生が、第一番に婦人が工場に行つて男子に代て働けと鼓舞して居る、英吉利の人口三千五百万の中で、兵隊や職工まで合せて八百万人と云ふ者が、政府の監督の下に使はれて居る、其八百万人の中四十万人は女である、英吉利などの如き国ですら、婦人が四十万人から男子の代りに働いて居ると云ふやうな訳であ
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る、仏蘭西に於ても其通で、工場の中でも随分難い仕事を婦人がやつて居る、併ながら、婦人には成るべく婦人の体質に害のないやうにする為めに、工場法に設けてある以上に注意を加へて、特に機械に覆を掛けて、歯車に当らぬやうにしたり、又重い物を運ぶには電気の力などを応用して、唯婦人は梶さへ取れば宜い、例へば弾丸工場などへ行きましても、重い弾丸を婦人の力で揚げると云ふことは六ケ敷い、それは器械力を応用して、弾丸が独りでにグルグル転つて来る、すると婦人がそれへ磨を掛けたり色々なことをする、一つの弾丸を造るに幾つもの手が掛ります、丁度弾丸を鋳物から出して、一寸一つの場所へ載せると、それから先はグルグルグルグル化者屋敷のやうに、独りで二階へ上つたり下りたり、動くものゝ上を転つて行つて、次の手次の手と渡つて行く、さうして工場の中に軍需省の検査官が居ります、是はもう弾丸のことですから、非常に厳重に検査をする、其検査が終つて愈々軍需省の手へ渡す、大きな里昂の弾丸工場の如き、私は中を自動車で見物した位の大きな工場ですが、総支配人の前に時計がありまして、弾が一つ出来ると時計がチーンと鳴る、それがインデツクスで弾丸が百・二百・三百と云ふやうに、話をして居る支配人の前に現はれる、それだから其時計の音が停ると、直に何か故障があると云ふことが分る、里昂の弾丸工場では、一日に二万五千の弾が出来るのでありますが、之が居ながらにして監督が出来る、さう云ふやうなことは実に能く出来て居ります。
 それから能く日本では、社会党々々々と云ふ話があつたですが、今仏蘭西では社会党が同盟罷工をするとか何とか云ふことは先づ無いと云つて宜い、殊に此戦争の初に於て、彼の社会党の首領のジヨレーと云ふ人が殺されました、是は社会党が戦争に反対するであらうと云ふ誤解から、若い某と云ふ人が、ジヨレーが料理屋へ行つて窓の側で飯を食つて居る所を、外から短銃で打殺した、それはジヨレーの真意を知らぬのであつて、ジヨレーをして若し生存せしめたならば、非常に此国家に尽したであらうと云ふことを、皆仏蘭西では話して居る、それで丁度巴里のボアトブーロンと云ふ所が、即ち大きな公園でありますが、之が巴里の外にあつて市と続いて居ります、其ボアトブーロンの方面から、独逸が攻めて来る虞があつたものですから、それは丁度独逸軍が白耳義に侵入して、シヤルロアーの戦争に勝ち、仏蘭西兵はドンドン退却して、マルヌの河の辺まで来たときに、巴里は殆ど危かつた、其時に此ボアトブーロンの森の所へ、壕を掘らなければならぬ必要があつた、是は日本の人が一寸御承知ないが、今度の戦争では自動車の突貫と云ふことがある、日本の兵は騎兵の突貫を防ぐことは知つて居るが、自動車の突貫を防ぐことは余り知らぬやうであります、自動車でズツト突貫して来るので非常に困る、それを防ぐには壕を掘つて防ぐ必要が起る、そこで此時にはもう独逸軍は潮の沸くが如く、白耳義の国境から仏蘭西へ侵入して、此マルヌの方へやつて来た、巴里は目の前に見えて居る、巴里の中に有名のガリエニー将軍が必死の覚悟を以て守つて居られる、そこで此巴里を取囲んで戦争して居つてはいかぬと云ふ独逸の軍略で、巴里を右に見てマルヌの河を渡つて、
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ヂジヨンの方面からクルーゾーの方へ行つて、兵器製造所を押へてしまはうと云ふ独逸の考、クルーゾーへ行つてクルーゾーの兵器製造所を押へてしまへば、仏蘭西兵はもう袋の中の鼠のやうなものである、そこで独逸の兵が巴里を右に見て廻らうとした、此時に仏蘭西の方の側では、もう独逸の兵が巴里に圧迫して来たから、そこでガリエニー将軍に向つて陸軍大臣が、閣下に此巴里の守備を托すると云つた、ガリエニー将軍は簡単に答へた、ジヨスコーブー、最後まで巴里を預りますと答へた、此ジヨスコーブーと云ふ言葉が、大変に仏蘭西人に気に入つて居りまして、活動写写などへ行きますと、能くジヨスコーブーと云ふ文字の写真と将軍の写真が出る、すると満場手を拍いて狂喜します、巴里の運命旦夕に迫つて居る際でありますから、ガリエニー将軍が最後までと答へた、其言葉に仏蘭西人が非常に感謝して居る、ガリエニー将軍が一たび命を受くるや、此巴里の有名の凱旋門なり、其他記念の建築物なり、敵の手に渡さぬ、自分は此巴里と共に灰となつてしまふ、然らば巴里の紀念物は敵の手に渡さぬ、凱旋門なり其他著名の建物は、尽く爆弾を以て破壊してしまふと云ふ準備を整へて、此処が自分の死場所であると云ふことの決心を兵士に示した、其時に独逸軍はサンゼルマンの方面から、ボアトブーロンの方面へ突撃する虞がある、之を防ぐ為めに壕を掘りたい、ところが咄嗟の場合であるから人足がない、そこで社会党の首領、今の軍需省の大臣をして居るトーマス・アルベルトと云ふ人に、ガリエニー将軍が話をすると宜しい承知しました、社会党の諸氏、今は吾々の命を国家に捧げる時である、起てつと云ふ檄を飛ばすと、忽ちの間に二千人の職工が出て来てボアトブーロンと巴里との間に大きな壕を掘りました、其壕は今は土を盛つて均してありますが、少し窪んで居ります、其辺は私は屡々散歩致しまして、其当時の仏蘭西の人心を察して感慨に打たれた、ガリエニー将軍は此の如き決心を以て巴里を死守して居りましたが、併ながら独逸軍の方に幾らか虚が出来たら、一つ敵を撃破してやらうと云ふ考で、飛行機を以て始終独逸軍の動静を偵察して居ると、天なるかな、独逸のクルツク将軍が、ガリエニー将軍が非常な決心を以て、巴里を守つて居りますから、此場合軍略上巳里に時を費して居るより、寧ろ巴里を措いてクルーゾーを取つた方が宜いと云ふので、彼処で巴里を右に見て回転を始めた、之は独逸の最右翼ですが、独逸軍が右の回転を始めたと云ふ報を聞くと、ガリエニー将軍が、マア日本で申せば八幡戦さは勝つたるぞと云ふ所で、雀躍して喜んだ、丁度秀吉が大垣に居つて、柴田勝家の軍の動静を窺つて居る、佐久間盛政が賤ケ岳へ来て中川清秀の寨を攻破つて、北陸の軍勢は其儘今夜滞陣を致しますと云ふ報を聞いて、秀吉が八幡戦さは勝つたるぞと起上つて、直に軍騎賤ケ岳へ向つたと云ふ形勢は、諸君と共に愉快とする所でありますが、それとは違つて是は大変の人数でありますが、機会の熟した所は丁度同じです、ガリエニー将軍が思ふ壷に嵌つたから、八幡戦さは勝つたるぞ、進め、自動車ツと云ふ訳であつた、さあガリエニー将軍が、巴里の守備兵を提げて戦場へ出るさうだ、それぢあ自動車が要るぞと云ふ声が、満都に響き渡ると、其時の光景と云ふものは、実に仏
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蘭西の人心が躍り上つた、もう途中銀行へ出勤せんとする者も、自動車を降りて早く陸軍省へ行け、美装して居るお嬢さんも奥さんも皆自動車を降りて、陸軍省へ走らせる、私の自動車は何ぼで買ひましたからと云ふやうなことを言ふ者は一人もない(笑)行け行けと云ふ訳で実に盛なる光景、忽ち四万台の自動車が陸軍省に集つた、之を以てガリエニー将軍が独逸のクルツク将軍の後を突いた、同時にジヨツフル将軍が、今までは退却して居つたが、さあ今ガリエニー将軍が左に廻つたからと云ふので、丁度クルツク将軍が巴里を右に見て廻つた所を後からガリエニー将軍、前からはジヨツフル将軍が、思ふ儘引付けて置いてズツト又鸚返しに押返した、クルツク将軍は両軍の間に包まれてしまつた、殆ど独逸の全軍全滅若くは捕虜となる所であつたが、そこは独逸が強いから、前からはジヨツフル、後ろからはガリエニーが出る其間を漸く逃げた、非常の損害、併ながら此マルヌの一戦の大敗北と云ふものが、実に今日独逸の大破綻を来すの原因となつた、独逸がマルヌ戦争以来、どうしても西部に於て攻勢を充分に取ることが出来ない、いつも後へ後へと押されて居る、土俵の方へ段々と押されて来る、此マルヌの一戦と云ふものは、此度の戦争に非常の関係があるのであります、此戦争の初りに於て、社会党の示した所の挙動と云ふものは、実に敬服の至である。
 それで今日に於て見ますると云ふと、富豪なりの人が、一番に国家に尽して居るやうであります、例へば伊太利の国王陛下の如きは、十五箇月間戦地にお出になつて羅馬へお帰りはない、始終朝九時から五時まで戦線を視察してお出になる、私が行在所で御陪食を頂戴したのは、陛下が行在所で昼餐を召上つた十五箇月間の三度目であると伺ひました、始終戦線を歩いて兵士と苦楽を共にしてお出になる、又伊太利の皇后陛下は、羅馬の宮殿を尽く病院として、それに負傷兵を入れさうして自からは小さな部屋へお入りになつて、看護婦を監督してお出になる、之に傚ひまして、貴族とか富豪とか云ふものゝ別荘は、多く病院に充てゝあります、五十人・百人・二百人、其大小に応じて傷病兵を預つて、彼等の保養場に供してある、それから又高貴の方々の子供達と云ふものは、多くは戦場に赴いて命を捧げて居ります、即ち英吉利の総理大臣の息子さんも、始め参謀部附を陸軍省で命じたのをお父さんが、そんなことではいけない、第一線に出して下さいと云うて、第一線へ出て到頭名誉ある戦死を遂げられました、又英吉利の華族が七百軒ある中で、今日まで相続人の戦死した者が五十何人あると云ふやうに、一番上流の人がズンズン国難に殉じて居る、それから仏蘭西の衆議院に於て、私は之を見ることの出来なかつたのは残念でありますが、見に行つた人の話に、十七の議席に花輪を供へてある、衆議院議員の国難に殉した者が十七人に及んで居る、其議席に敬意を表する為めに花輪を供へてあると云ふやうな訳で、私の知つて居る友人などの子供も、大概死んだとか、怪我をしたとか、現に東京に居られる仏蘭西の大使の息子さんの如きも、巴里の日本の赤十字の病院に這入つて居られます、左の眼と左の手を怪我をされた、それで私に会つて話されるのに、自分は一眼を国家に捧げましたが、尚残る一眼を以
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て、政府が許すならば戦場へ行きたい、砲兵の士官でありますが、戦場へ行くことは決して厭はぬ、若し政府が許しませぬならば、残る一眼を以て、自分は法科大学に入つて法律を修業し、以て一身の経営を立つる積りである、と若き青年が立派に申されました、其事を通訳した人が涙を流して通訳をしました、是等は極く一・二の例でありますが、忠君とか或は大和魂とか云ふことは、決して日本が負けは致しませぬ、愛国――国を愛する、又多数の人を救ふ為に自分が犠牲となる所謂公共の義務と云ふ美しい考、即ち仏蘭西を救ふが為めに、自分が此国に義務を尽すと云ふ義務の観念、日本人は兎角権利の観念は強いが、義務の観念は少ない、自分は成べく後に居つて好い事をしやうと云ふやうな考が、兎角日本人にある、何れの国にもありませうが、此度の戦争に於て、吾々の接触した人の考を見ると、尽く多数を救ひ、国を救ふが為めに、是は自分が義務を尽すのであると云ふことを言つて居る、少しもそれに就て泣事らしいことを聞きませぬ、実に戦争が長くなつて困る、私の息子が早く帰れば宜いと云ふやうな泣事らしいことを聞かない、蓋し其心はある、心はあるけれども、如何にも国を救ひ、自分の領土を救ふと云ふ義務心の強いと云ふことには、深く感動を致したのであります、私の知つて居る名誉領事を尋ねましたときに、其人が頻りに私を案内して呉れました、案内して呉れる中に、どうやらの話の序でに、其人の息子が怪我をして今病院へ戻つて来たと云ふことを聞きましたから、それはどうも一向知らなかつた、どうぞ君は病院へ行つて息子さんを見舞つて下さい、吾々は大概場所さへ分つて居れば、見物には差支ない、イヤ日本から吾々の国を救ひに来た貴所方を案内するのは、自分の当然の義務である、況や自分は名誉領事であるから、必ずお伴をすると云ふて、半日ばかり私に附いて、弾丸工場などを方々見に歩きました、正午になりましたから、其人に食事を差上げたいから、私のホテルへ一緒にお出下さいと云ふと、其人の云ふに、食事をする時間があれば、自分は一寸自分の息子の顔を見たい――其位に親子の情と云ふものはヤハリある、人情は何処の国でも変りはない、併ながら私が、息子さんがお気の毒だ、貴方は年を取つてお困りでせうと云ふと、イヤ国家の義務で致方はございませぬと云ふて、少しもそれを遺憾と考へて居らない、それ故に、中々此度の戦争に就て、英吉利・仏蘭西・伊太利あたりの人心と云ふものには、高潔なる気象が現はれて居ります、是等の高潔なる気象と云ふものは余程日本人としても、教訓とすべきものが沢山あるやうに考へられます、余りお話が長くなりますので、食事の時間にもなりますから是で止めます。(拍手)


中外商業新報 第一一〇〇四号 大正五年一一月二七日 ○渋沢男喜寿祝 竜門社の総会(DK420102k-0004)
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