デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.134-146(DK430008k) ページ画像

大正11年11月5日(1922年)

是日、当社第六十八回秋季総集会ヲ兼ネ、孔夫子追遠記念講演会、日本工業倶楽部ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。次イデ二十九日、評議員会東京銀行倶楽部ニ於テ開カル。栄一出席シテ
 - 第43巻 p.135 -ページ画像 
カリフォルニア州移民問題ニ就イテ所感ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第四一四号・第六〇―六二頁大正一一年一一月 ○本社秋季総集会並孔夫子追遠記念講演会(DK430008k-0001)
第43巻 p.135-137 ページ画像

竜門雑誌  第四一四号・第六〇―六二頁大正一一年一一月
    ○本社秋季総集会並孔夫子
      追遠記念講演会
 本社第六十八回秋季総集会は、十一月五日午前九時三十分より、日本工業倶楽部に於て開催せられたるが、本年は青淵先生の常に尊崇せらるゝ孔夫子卒後二千四百年に相当するより、追遠記念講演会を兼ね催し、尚ほ穂積男爵が、青淵先生の嘱に依りて、現今までに蒐集せられたる二百二十八部の各種論語を分類整理して会場に陳列し、来会者一同に「孔子略伝及論語編纂の由来」及「青淵論語文庫蒐集目録」及大倉男爵より寄送せられたる孔教に対する所感を頒布したり、会は阪谷評議員会長の開会の辞に始まり、次で文学博士服部宇之吉君の「知天命説」及び青淵先生の先憂後楽に付ての講演あり、最後に穂積男爵の論語蒐集に関する説明ありて、会を閉ぢ、午後一時食堂を開き、大倉男爵の発声にて青淵先生の万歳を三唱し、更に朝鮮中枢院参議魚允迪君の所感談等ありて、散会せるは午後二時半なりき。因に当日会場内に掲揚せる探幽・守景・椿山等四幅の孔夫子像は、大倉男爵及び青淵先生・穂積男爵等珍蔵の幅物にして、特に本会に貸与せられたるものなり。
 来会者諸君左の如し
    △来賓
 青淵先生
 服部宇之吉君   男爵大倉喜八郎君
    △会員
 石井健吾君    磯野敬君     今井又治郎君
 石川道正君    入谷春彦君    入江銀吉君
 磯村十郎君    石井与四郎君   伊藤美太郎君
 磯部亥助君    石田豊太郎君   今井晃君
 岩本寅治君    石川政次郎君   井田善之助君
 礒野孝太郎君   速水柳平君    服部金太郎君
 坂野新次郎君   服部捨太郎君   原胤昭君
 長谷川粂蔵君   林興子君     橋本修君
 馬場信豊君    西田敬止君    西尾豊君
 西潟義雄君    西村暁君     男爵穂積陳重君
 星野錫君     堀田金四郎君   堀内明三郎君
 星野辰雄君    堀井卯之助君   星島米治君
 堀口新一郎君   土岐僙君     土肥脩策君
 戸村理順君    鳥羽幸太郎君   利倉久吉君
 友野茂三郎君   土肥東一郎君   戸谷豊太郎君
 友田政五郎君   大橋光吉君    小田川全之君
 大友幸助君    大山昇平君    岡本忠三郎君
 小田島時之助君  大井幾太郎君   大塚四郎君
 小畑久五郎君   落合太一郎君   脇田勇君
 - 第43巻 p.136 -ページ画像 
 和田義正君    渡辺得男君    神田鐳蔵君
 片岡隆起君    角地藤太郎君   神谷十松君
 神谷義雄君    川島良太郎君   川村桃吾君
 金谷藤次郎君   金子喜代太君   川口寛三君
 鍵和田良平君   神谷新吾君    金子四郎君
 川西庸也君    川口一君     横田好実君
 横山徳次郎君   吉田芳太郎君   吉田升太郎君
 吉岡慎一郎君   竹田政智君    高根義人君
 多賀義三郎君   田中楳吉君    滝沢吉三郎君
 田辺淳吉君    高橋波太郎君   高橋金四郎君
 田中栄八郎君   高瀬荘太郎君   田中寿一君
 高山仲助君    高橋光太郎君   高橋森蔵君
 田島昌次君    高橋毅一君    曾志崎誠二君
 辻友親君     鶴岡伊作君    根岸綱吉君
 永田甚之助君   成瀬隆蔵君    仲田慶三郎君
 中村謙雄君    中村高寿君    永野護君
 中西三七君    内藤太兵衛君   中野時之君
 中山輔次郎君   村木善太郎君   武藤忠義君
 村松秀太郎君   植村金吾君    内田徳郎君
 内海盛重君    上野金太郎君   野口弘毅君
 野治忠直君    野口米次郎君   野村鍈太郎君
 野治義男君    久住清次郎君   栗田金太郎君
 熊沢秀太郎君   久保田録太郎君  黒沢源七君
 山口荘吉君    矢野義弓君    八十島樹次郎君
 山中譲三君    簗田𨥆次郎君   矢野由次郎君
 山下亀三郎君   矢木久太郎君   大和金太郎君
 山村米次郎君   山田太熊君    山本宣紀君
 八木安五郎君   前川益以君    松谷謐三郎君
 前原厳太郎君   松平隼太郎君   増田明六君
 松村修一郎君   松園忠雄君    馬淵友直君
 古橋久三君    古田錞治郎君   福島甲子三君
 藤木男梢君    古田元清君    福田盛作君
 福本寛君     福島三郎四郎君  藤井政蔵君
 古田中正彦君   小林武次郎君   小畔亀太郎君
 昆田文治郎君   小林武之助君   小森豊参君
 小林徳太郎君   河野間瀬次君   近藤竹太郎君
 近藤良顕君    遠藤千一郎君   江口百太郎君
 江原全秀君    明吉富士男君   有田秀造君
 浅野八郎君    安達憲忠君    粟飯原蔵君
 粟生寿一郎君   浅木兵一君    男爵阪谷芳郎君
 佐藤正美君    斎藤精一君    佐々木慎思郎君
 佐々木勇之助君  斎藤亀之丞君   佐野金太郎君
 佐藤林蔵君    木村清四郎君   木村弘蔵君
 木村雄次君    木村金太郎君   木下憲君
 - 第43巻 p.137 -ページ画像 
 湯浅徳次郎君   湯浅孝一君    南塚正一君
 蓑田一耕君    渋沢篤二君    白石甚兵衛君
 柴田愛蔵君    渋沢武之助君   渋沢正雄君
 渋沢秀雄君    白石喜太郎君   白岩竜平君
 清水一雄君    白石元治郎君   芝崎確次郎君
 下野直太郎君   渋沢元治君    重野治右衛門君
 島田延太郎君   弘岡幸作君    平賀義典君
 平塚貞治君    森島松蔵君    関直之君
 杉田富君     鈴木善助君    鈴木金平君
 杉田丑太郎君   鈴木源次君    鈴木豊吉君
 鈴木富次郎君   鈴木正寿君    鈴木旭君
 鈴木勝君
   外ニ
 穂積男爵夫人   渋沢敬三君夫人  大和田良平君
 金井延君     鎌田繁治君    内尾直二君
 梅沢慎吉君    山本栄男君    松谷正敏君
 魚允迪君     新井源水君    安孫子貞次郎君
 尚ほ当日左記会員諸君より、本会に対し寄附金を辱ふしたり。玆に芳名を録して其御厚誼を謝す
 一金参拾円也           佐々木勇之助殿
 一金弐拾円也         男爵穂積陳重殿
 一金弐拾円也         男爵阪谷芳郎殿
 一金弐拾円也           神田鐳蔵殿
 一金拾円也            浅野総一郎殿
 一金拾円也            白石元治郎殿


竜門雑誌 第四一七号・第二四―三〇頁大正一二年二月 ○本社総集会に於て 青淵先生(DK430008k-0002)
第43巻 p.137-142 ページ画像

竜門雑誌  第四一七号・第二四―三〇頁大正一二年二月
    ○本社総集会に於て
                      青淵先生
 服部博士の知天命の御説を諸君と共に拝聴致しまして洵に快く感じました。本会に於ては、例に依つて私も一言申述べねばならぬので、此壇に立ちましたが、私は是といふ考案を具へて参上致しませなんだので、先生の今のお話を敷衍するやうに当りますけれども、御演説の末段に、道徳経済合一論は渋沢が主義として居るのだと云ふ御言葉もありましたから、其事に就て更に一言を申添へやうと思ひます。敢て孔子の道徳を、私風情が世の中に普及すると云ふことが出来能ふものではございませぬ、況や我身を顧みると、極めて凡庸でありますから自らを揣らず、左様な位置に立たうなど云ふ抱負は持つて居りませぬけれども、唯恐るゝは、今の利と義との差別が、兎角世間で誤解されて、利に就けば義は全く除け物になつてしまふ。義を専らにすれば利は得られぬものだと云ふことは、真正の学問ある御方は左様な謬見は無いかも知らぬが、一般にはさう云ふ思違があつて、利義の別が疑問に置かれるやうであります。疑に置かれると云ふよりは、強く申すと両立せぬやうに論ぜられて居りますので、私はさう云ふ訳はなからう
 - 第43巻 p.138 -ページ画像 
と深く胸に問ひ、心に答ひ、決してさうではないと、其昔から断案して居るのであります。何処の席でも、兎角身の上の経歴を叙しますけれども、明治の初に、私が銀行界に入るときの覚悟は、自身は今日迄の官吏を捨てゝ変つた方面に働くと云ふに就ては、どうしても一つの守る所を持ちたいものだ。丁度其頃、親友の玉乃世履と云ふ人が、私の官を辞して銀行者となるのを甚く諫止して呉れた。其言葉は「足下は青年時代から漢籍を修めて、国家の憂を我が本分とし、尊王と攘夷とを主義として、家を出た人である、それから浪人して後一橋に召抱られ、続いて幕府に転じたと云ふやうな様々の変化はあるが、是は時勢が足下をして変化せしめたのであるから、足下の所信の一直線に行へぬのを咎めはせぬけれども、既に朝廷に仕へて居る身である。今官を辞して実業界に投じ、銀行者になると云ふことは、或る点からは一見識でもあらうけれども、或は恐る、若しも君が将来に於て唯銖錙の利を事として、一守銭奴になると云ふことであつたら、実に惜いことではないか、僕は足下の親友として深く憾む。どうも世間一般の有様が、富貴功名にのみ傾けば、必ず道理を踏誤る。況や現在の商売社会は実に見るに堪へぬやうな姿ではないか、此渦中に投じて、足下が如何なる主義を以て立つ積りか、諺にいふ、朱に交れば赤くなる、終に昔日郷貫を離れる時の思想は、全く消滅して、物質にのみ憧憬する人間になり終りはせぬかと虞れる。是は友人として甚だ憂へるから、能く考へ直したら宜からう」と、斯う云ふ切実なる諫言であつた。それが私をして例の論語と算盤、若くは道徳経済合一説を思起させた原因である。其時に熟々自分でも考へまして、成程玉乃氏の忠告は尤だ、仮令才学乏しき身であつても、家を捨て農業を余所にして、烏滸がましくも人を支配する位置に立つて、所謂国を治め天下を平かにすると云ふ方面に努力して来た身が、今日は反対に営利事業に身を委ねて、自己の富を図ると云ふことになると、其結果は、富さへ得れば宜いと云ふことになつて、大切なる道理徳義と云ふものが段々疎くなるのは自然の趨勢と思はねばならぬ。それに就いて、私が仮令価値なきものにしても、友人として斯の如く義理分明に諫めて呉れるのは、洵に懇切の至りだと思うて、左なきだに官を罷めて実業界に入るには、大に熟慮せねばならぬといふ一心があつたが、況してさう云ふ忠告から、玆に尚更深く考へて、自分の身を其処に基くばかりでなく、世の中の事業をして、さうならしめたいと云ふことが、一歩進んだ慾望と相成つたのであります。其時に私は玉乃氏に確答して「君の忠告の一部には服従するも、官を辞して銀行者となるのは、決意を翻すことは出来ぬ、左りながら銖錙の利を争ふて物質の奴隷とはならぬ故に、将来は論語に依つて銀行を経営して見る積りであります」と云ふことを明言した。今日其言が果して完全に徹底致したとは申上げ兼ねます。殊に力も乏しく知識も足らず、且つ時勢も宜しきを得なかつたから、旁々以て思ふ所十あつても、行ふ事は五つにも足らぬと云ふ有様ではありましたが、幸に其覚悟を以て始終事に当つたのであります。殊に数年前実業界を去りました後、こゝぞ幾分にても自分の宿望を果すべき時機と思ふて、所謂斃而止の覚悟で、此道徳仁義と生産殖利との一致、
 - 第43巻 p.139 -ページ画像 
即ち道徳経済合一説を飽迄も主張して居るのでございます。
 孔子の知天命に就て、服部博士の細かい御説は、私共そこまでは考へ至らぬ点が多かつたやうに思へます。私抔が此狭隘なる区域に於て仁義道徳に依つて世の中に立たうと思ふと、成程孔子が如何に苦心したであらうか、斯くあつたらうと云ふことが、二千四百年を隔てゝ、人情も世態もまるで違ふ今日であつても、真理と云ふものは、時の古今と地の東西に関係がないものと見えまして、斯かる場合には、斯くもあつたらうと、著しく思当るやうに考へられるのであります。私の微力を以て世に立つて、多少の苦心をして見てから昔を思ひやると、別して成程と感ずるのでありますけれども、併し此感ずると共に又自ら一新して進んで行くことも出来るやうに思はれます。
 義と利の差別に就て、博士の丁寧に御説き下すつた事は、実に適切に思へます。大学にも以義為利と云ふ事がありますが、丁度今御引証になつた論語の九思と云ふ所に、見得思義と云ふ事が、即ち義が利の根本になると云ふことの一証と言へるやうに考へられます。蓋し生産殖利には必ず得ると云ふことを要件とする、其得るを以て本とするのが、即ち道徳仁義から生れて来ると云ふことは、既に二千四百年以前の真理であつた、今日の時代と、人情も風俗もまるで変つたやうであるからして、左様に相一致するものがどうしてあるかと思はれますが、併し前に言ふた義利の別などを能く攻究して見ますと、或る事柄に就ては、些とも変らぬやうに思はれて、所謂万古不易とか千歳不朽とか云ふ言葉は、古人が吾々を欺かぬやうであります。
 私が今日玆に申上げたいのは、憂に先ち、楽みに後れると云ふ事に就て、卑見を述べて見たいと思つて此壇に登りました。服部先生の前段の御説に対して、自己の経歴を思起して、聊か申して見ましたけれども、抑も人の世に立つや、心ある者は成べく天下の憂に先つて憂ひ天下の楽みに後れて楽むやうにありたい。是は古人も能く言うた事で論孟の中にも必ず其章句がありませうが、明確なるは古文真宝に載つて居る、それは范仲淹と云ふ人の岳陽楼の記であります。私は時々好んでこれを読むで、深く先憂後楽と云ふことに感じて、どうぞ人はさうありたいと、常に其の心を以て事に当り、物に接して居るのであります。但し人の性質として、先憂後楽と同様に、総ての事物を悲観的に見るのと、又楽観的に見るのと、現代若くは既に故人になられた名士にも、さう云ふ差異があります。恰も先憂後楽と同じやうに、物を見るのに先づ喜んで見る、善い方ばかりを見るのと反対に憂ひて見る悪い方ばかりを見る人とあります。適切の例を挙げると、本年の正月薨去になつた大隈侯爵などは楽観的の人でありました。何か悪い事柄があつても、ではあるけれども斯う云ふ善い事もあると云うて、悪い方を打消して善い方を挙げて楽観する、是も一の見方であります。例へば社会主義であるとか、甚しきは無政府主義であるとか、様々の悪風潮が流行しても、之を楽観して、それは一面から云へば新知識が進んで来るから、さう云ふ説も生ずるのである。新しい見解から顕れて来る現象である。さう恐れぬでも宜からうと、さう云ふ塩梅に、悪い方を善く観る。反対に悲観的の人になると、総てを悪く見る。故井上
 - 第43巻 p.140 -ページ画像 
侯爵などは悲観者流で、何事も気に入らない。事業が繁昌しても其衰微の来るを憂ひ、道を通つて見ても人夫が働いて居ないとて、どうもあれでは困るといふ、私抔も同じく其の弊がありますけれども、兎角人々には習癖があるもので、右から見る流と左から見る流と両端があります。一概にどちらが善いとか悪いとか言へぬやうです。それと同時に先憂後楽にも、自ら似たやうな気味がありはせぬかと思ひます。悲観者は始終憂を先にする、楽観者は寧ろ楽を先にする、私自身を以てすれば憂を先にする方の流儀であつて、范希文の岳陽楼記に言はれた通り、噫微斯人吾誰与帰と云ふ事が、最終に書いてありますが、私も范希文には喜ばれる方の一人たるを失はないと思ひます。何処まで行つても此憂と云ふものは附いて居つて、二十四・五歳で稍々世間の事が解つてから玆に六十年、此六十年の間、常に憂を先にして経過し来つた。さりとて憂の多い世の中であるが、或は又自己の心が憂を始むのであるか、斯く考へて見ると、寧ろお恥しいやうである。当初外国人の来た時に先づ憂へ初めた、是は日本は取られはしないか、実に大変な事だ、是では成らぬと、共時の憂は最も大であつた。而してその関係から、世間の事を知り得るやうになると、日本の国体が、天子に依つて統御されると云ふことは、建国の初より定つて居るに拘らず、世は封建制度となつて、謙倉覇府以来、天子の力が微々として振はぬ、武将の専断に政治が行はれて居ると云ふは、怪しからぬ事である、殊に階級制度を以て、天下の政治は士族のみに依つて支配されると云ふのは、如何なる間違であるか、どうしても此制度を打破らなければ、真に国家を安泰にすることは出来ない、斯う云ふやうな観念が起つたのであります。其間の苦心惨憺、実にえらい憂であつた、どうしたら此悪制度が破れるものかと云ふやうな思に沈んだのでありますそれから、種々様々に変遷して、私の身は終に欧羅巴へ行くやうになり、外国滞在中に封建制度が倒れて、帰国してから図らずも朝廷へ仕官するやうになつた、左様に変化はしたけれども、其頃迄は多く、政治界に対する希望を以て其憂としたのである。
 私が銀行者になつてから、経済界より全体を観察すると、又新らしき憂が生じた。それは王政復古してから、明治の政治が大に進んで行くにしても、此現状では、世の中は政治家と軍人ばかりに競奔して、終に国家は如何に成り行くであらうか、畢竟国家は経済を基礎とする然るに其富は薩張り進む模様が見えない。其時に大隈侯・井上侯は、前後大蔵省に居られて、常に実業上には心を用ゐられて、会社事業に就ても、大蔵省に於て明治初年より色々な手段を取つて見たけれども適当な人が其職に就かぬから、為替会社・商社・開墾会社・廻漕会社などと云ふ各団体は出来たけれども一年も経たぬ中に大抵潰れてしまひ、一般の商業は概して個々孤立の有様である、之に反して内外の政治には、追々に欧羅巴の制度に真似て進行するけれども、商工業の方面は実に微々たるものであつた、斯る有様にて我が邦を他の列強に比肩しやうと思ふに至つては、殆ど自己を知らざるの甚しきものであると私には思はれて、是も亦当時の深憂であつた。甚しきは、唯理窟倒れで、亡滅する国家になりはせぬかとまで憂へたのであります。是は
 - 第43巻 p.141 -ページ画像 
到底政治界に足らぬ知識で苦しむよりも、実業界に微力を尽すのが必要であると其覚悟を堅くしたのも、亦其憂から発したのであります。扨実業界に身を置いて見ると、銀行も思ふやうには信用が拡張しない商工業も振はない、其時に於ける憂と云ふものは、己れ自身の働きの鈍いばかりでなく、或は政治上社会上に自分の意嚮と一致せぬやうな場合のみ多くありまして、其憂は日常去ることが出来なかつた。併し其憂の中にも追々に事物の進歩はあつたに相違ない。五十年の既往を今日から顧ると、実に大進歩を為して居ります。けれども又此進歩に就て、更に又憂を生ずるのは、今日の世の中が余り功利に傾きて、所謂不奪不饜といふ有様にまで陥へるの虞はなきか、今より之を匡救するには、仁義道徳と生産殖利との一致を講明するが適当の務である、是は独り日本ばかりではない、欧米諸国でも、道徳と経済とは合一どころではなく、常に相反目する、殊に世を挙げて段々精神修養の観念が薄らぎて、唯功利にのみ走る。斯の如くにして進むときは、終には独り日本の為にのみ憂へるのみではなく、世界としても真正なる平和は保ち得られぬではないか。一方には、吾々が丹誠して工業を盛にするには合本法が必要だ、資本を集めて其力を大きくし、機械力を活動させるに如くはないと、其方針に向つて進んで行くと、又今日は資本労働の紛議を惹起する、土地の開墾を務め、耕作を盛にしたいと思うても、農と工との業務の差異から、次第に農業の利益が減じて、随て地主と小作人との紛議が生ずる、斯の如く各方面から種々の憂が横溢して来るやうに見える。斯く考へて見ると、結局後楽は得ることなく唯先憂だけで世の中は終りはせぬかと、悲観せざるを得ぬ。さりとては情けない、人間と云ふものは、唯憂のみで此の世の中に存在するかと云ふやうにまで思ふのであります。併し又別に、考の立て様にて左様に憂へると云ふものの、其憂ふる中に各人の知識が進歩して、其憂に応じて自然と改良し、又は解決して行くのである、其跡に就て視察すると、其始め憂ばかりを先に見て、楽はないやうであるけれども、前に憂へたものを後から見ると、憂へた為に変体して喜びと立直つたと云ふ事も決して少くないのである、先づ第一に、外国との関係が深く憂べきものと思うたが、それは或る点は、己れの狭い見解で世の中を見た誤解の憂であつたのである。又階級制度を嫌ふのも、幕府が倒れて自然に直つた、維新以後の人心が、政治・軍事にのみ傾くのを見て、行末如何と憂へたが、其憂は事実であつても、今日は追々に改良して来た。斯様に或る憂が改良され、或る憂が消滅すると云ふことも決して少くないやうでありますから、唯世の中が憂のみに終ると云ふのは更に考慮して見ると、所謂杞憂と言ひ得るやうにも思はれます。而して此間には、苦悶の如く見える事も、其事を心として努力して行くならば、其間には、真の楽が出来るのであります。論語に知之者、不如好之者、好之者、不如楽之者といふ本文があります、此楽みは前に述べた先憂後楽の楽とは、文字は同じでも意味は少しく違ひませうけれども、苦悶といふも快楽といふも、其憂の中に楽みは含み得られると思ふ。即ち知之者、不如好之者、好之者、不如楽之者と云ふ、此知と云ひ、好と云ひ、楽と云ふことは、唯或る事
 - 第43巻 p.142 -ページ画像 
物に就て言うたのではない、人の本分に対しても、世の進運に対しても、此知・好・楽の三段に孔子が力説せられたのは、洵に其事に深く熱中すると云ふことを意味したものと思ひます。而して、其憂を以て楽みとすると云ふことも、人として、必ず出来ぬ事でなからう、是に於て、私は常に此憂を以て楽みとして、先憂もなく、後楽もなく、憂は我身の楽みなりとして、一生を送りたいと期念して居ります。之が私の先憂後楽混合論で、要するに経済と道徳とを一致せしむる如く、憂と楽とを一致させたいと思ふのであります。(拍手)


竜門雑誌 第四一六号・第三三―三六頁大正一二年一月 ○本社秋季総集会に於て 阪谷男爵(DK430008k-0003)
第43巻 p.142-144 ページ画像

竜門雑誌  第四一六号・第三三―三六頁大正一二年一月
    ○本社秋季総集会に於て
                      阪谷男爵
  本篇は、十一月五日本社秋季総集会並孔夫子二千四百年追遠記念講演会に於ける、阪谷評議員会長の開会辞なりとす。(編者識)
 唯今より本社の秋季総会を開会致します。今日の順序は服部博士に一場の御演説を願ひまして、其後で青淵先生の御演説がございます。それから穂積男爵より、此処に陳列になつて居ります論語の事に就て御話がございます。講演が終りましたら、二階の食堂へ御集りを願ひまして、午餐を共に致しまして、二時半頃までには大概終了を致す筈でございます。
 今日の総会に、特に孔子祭典を催すことに致しましたのは、既に御承知あらせられます通り、今年は孔子二千四百年の記念に当りますので、斯文会を始め色々の学会に於て、日本全国各地で同様の催しがございます。而して丁度恰も学制頒布の五十年記念に当りまして、教育上道徳上、最も関係深き孔夫子の二千四百年記念と学制頒布の五十年とが、丁度同時に行はれると云ふことは、甚だ因縁の深い事のやうに考へられます。それ故に、本会は、殊に本会の先生と仰ぎて居る青淵翁が、最も此論語に敬意を払つて居られまして、又竜門社の主義綱領も其論語に基いて出来て居る訳でございます。又竜門社の諸君其他の方々より、青淵先生の八十の御祝として文庫を御寄贈になり、此機会に寧ろ之を論語文庫とするが宜からうと云ふやうな次第であります。斯の如く、既に論語が多数集り、又今後集りつゝあるのであります。竜門社が今日の総会に孔子の祭典を催し、孔子に対して敬意を払ふと云ふことは、道理ある事でございます。孔子の事に就ては、却て本国の支那では、孔子を排斥すると云ふやうな状況があると云ふことは、唯今御手許に差上げてあります大倉男爵の演説の筆記にも、其事が見えて居ります。今日では支那の孔子様が日本に寧ろ養子にお出になつて、却て日本で可愛がられてお出になると云ふやうな訳であります。又昨日も亜米利加から来たクリステンセンと云ふ人――先達大統領の選挙の時には、大統領の候補に立つた一人であるさうでありますが、其人に面会致しました所が、近頃では欧米でも、色々の事柄に孔子の話を引用する事が、段々多くなつて居ると云ふ事であります。既に青淵先生が翻訳して、友人に御配布になりましたカーネギーの伝記の中にも、カーネギーと云ふ人が、屡々論語を引いて居る事柄が出て居り
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ますが、独りカーネギーに止まらず、他の場合にも論語を引用致す事が多くなりつゝありますさうで、丁度耶蘇教を信仰する人が、聖書を引いて居るやうに、孔子の言葉を用ゐる。丁度青淵先生が、論語の言葉を用ゆる如くになりつゝあると云ふことであります。現に此席に陳列してあります論語の中にも、英文の論語もあれば、仏文の論語もあり、独逸文の論語もあり、其他の国語に訳された論語もあるのでありまして、それも唯今穂積男爵の御尽力で、頻に集めつゝあるのであります。固より二千四百年前に言はれた事が、二千四百年後の今日に、一々其儘適用の出来ると云ふことは、是は時代の変遷上為し能はぬ事であります。如何に聖人君子の言はれた事でも、其時代に応じて其事を能く咀嚼して、其事情に適応するやうに、之を考へなければならぬと云ふことは固よりである。併ながら、孔子は人の道を説かれたのでありますから、人間として動物と異なる、即ち霊魂を有する人間として履むべき道と云ふものは、さう変るものではない。唯周囲の事情を取除けて、人間の道のみを抽象して考へればさう変るものではない。それ故に、論語は之を味ふ人が賢明の考を以て之を味ふと、津々として意味が深い。支那人が孔子を排斥すると云ふのは、之を味ふ力が支那の人になくなつて来た。日本の人が孔子を尊崇するのは、孔子の言はれたことを味ふ力が、益々日本人の腹の中に出来て来たのである。孔子は、耶蘇とか釈迦とか云ふ人のやうに不思議を説かぬ人で、殺されて天に昇つたとか、或は生れた時に不思議な現象が起つたとか云ふやうな、人間に想像の付かぬ、耶蘇とかマホメツトとか云ふやうな精神は混つて居らぬ。孔子は普通の人間として生れ、普通の人間として死なれて、少しも吾々と変る所はない。併ながら、其説かれた事は、吾々の常に守らねばならぬ事である。論語の第一にある有朋自遠方来亦不楽哉と云ふ事は、二千四百年の昔も今日も一向異なる所はない。其他に於きまして、多少政治の状態とか、何とか云ふやうな事情の変つた場合には、孔子の言はれた事が稍適用の出来ぬとこがありますけれども、人道として説かれた事に就ては、少しも異つた所はない。詰り日本の文化が孔子を咀嚼することの出来るのは、日本の文化の進んだのである。支那が孔子を排斥すると云ふのは、支那の文化が劣つたのである。即ち孔子を排斥するのは、孔子を咀嚼するだけの文化になり得なくなつた、斯う云ふ訳であらうと思ひます。日本の中にも、孔子に対して反対する人もありますけれども、是は能く孔子の本を読まず、孔子を理解することの出来ぬ人が反対するのであります。孔子を能く咀嚼して、孔子の人道を能く呑込んだ人は、即ち青淵先生でありまして、青淵先生は如何に其商業に、教育に、政治に、社会事業に、孔子の道を奉じて活動せられたかと云ふことは、何より活きたる証拠であります、青淵先生だけの仕事が出来、青淵先生だけの徳を施すことが出来たならば、人間として最早充分に近いと云うても宜いだらうと思ひます。而して青淵先生が斯くの如くに孔子を尊崇せらるゝと云ふことは、即ち孔子を排斥する支那人若くは其他の人の考が如何に孔子を知らぬのであるかと云ふことを証明して余りがあるだらうと思ひます。私は今日此竜門社総会に於て孔子の記念会を開くと云ふ趣旨を
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玆に陳述致しまして、開会の辞に代へたのであります。是より服部博士の御講演があります。どうぞ御謹聴を願つて置きます。(拍手)


(増田明六)日誌 大正一一年(DK430008k-0004)
第43巻 p.144 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一一年       (増田正純氏所蔵)
十一月三日 金 晴
午前十一時阪谷男爵ヲ日本倶楽部ニ訪問○中略来五日竜門社総集会の準備に付き報告を為したり
午後二時服部宇之吉博士を神田錦町一丁目斯文会ニ訪《(問脱)》して、竜門社の目的及会員の種類等を談話し、且来五日講演会ニ於ける演説の題目を問ふ、「知天命説」と承りて帰る
○下略
十一月五日 日 晴
午前九時前二十分日本工業倶楽部ニ赴く、今日ハ竜門社第六十八回秋季総集会を同処ニ開催するニ付き其準備之為めである、本年ハ孔子歿後二千四百年ニ相当するので、斯文会でハ去月廿九日、祭典並記念講演会を開催したのであるが、竜門社の推戴する青淵は、日本の孔子とも云ふべき孔子の崇拝家で、其言行は論語一篇を信条として、一生を貫かれて居る故ニ、同社も此総集会を機会ニ、孔子記念講演会を開催する事としたのである、特ニ穂積男爵が青淵先生の嘱を受けて、今春来蒐集せられたる論語弐百三十部も陳列して来観ニ供した、来会者弐百五拾名、講演会ニ於てハ、評議員会長阪谷男爵の開会の辞、文学博士服部宇之吉氏の知天命説、青淵先生の先憂後楽説があつた、最後に穂積男爵の蒐集論語ニ付ての説明があり、夫れより食堂ニ移り、午餐を共にしたるが、阪谷男爵より青淵先生の為に幹盃《(乾)》、又大倉男爵の竜門社万歳の三唱ありて、午後二時散会
○下略
  ○右論語コレクシヨン展観ニ就イテハ本資料第四十一巻所収「論語蒐集」大正十一年十一月五日ノ条参照。


竜門雑誌 第四一五号・第六九頁大正一一年一二月 ○本社評議員会及会員有志晩餐会(DK430008k-0005)
第43巻 p.144-145 ページ画像

竜門雑誌  第四一五号・第六九頁大正一一年一二月
○本社評議員会及会員有志晩餐会 本社にては、十一月廿九日午後六時より、東京銀行倶楽部に於て、評議員会を開き
 石井健吾君    八十島樹次郎君  増田明六君
 佐々木勇之助君  清水一雄君    白岩竜平君
 渋沢武之助君   渋沢義一君    諸井恒平君
 杉田富君     鈴木紋次郎君
諸氏列席の上、阪谷評議員会長欠席に就き、佐々木評議員議長と為り増田評議員兼幹事より、当日の議案たる(一)入社申込者諾否決定の件(会員名簿追加分参照)(二)会員中種別編入替推薦者諾否決定の件(本誌別項参照)を順次附議し、満場一致之を可決したり。
 次で六時半より、本社前評議員星野錫君並に脇田勇君の帰朝歓迎を兼ね、本社新旧評議員及会員有志晩餐会を開催せるが、出席者は前記評議員諸氏の外
 植村澄三郎君 山口荘吉君 斎藤峰三郎君
 - 第43巻 p.145 -ページ画像 
 白石元治郎君(以上前評議員)
 石川道正君   星野辰雄君   利倉久吉君
 渡辺得男君   神田鐳蔵君   田辺淳吉君
 高橋波太郎君  高橋金四郎君  田中太郎君
 永田甚之助君  中村鎌雄君   矢野由次郎君
 山本栄男君   前原厳太郎君  松平隼太郎君
 藤村義苗君   小林武之助君  昆田文次郎君
 渋沢篤二君   渋沢正雄君   白石甚兵衛君
 白石喜太郎君  持田巽君(以上会員)
諸氏参会し、宴半にして阪谷評議員会長代理渋沢篤二君の星野・脇田両君帰朝歓迎の挨拶に次ぎ、星野君の謝辞ありて、宴を閉ぢ、夫より別室に於て、脇田君の独逸視察談及び星野君の国際労働会議の状況並に南米視察談等あり、終つて青淵先生・白石元治郎君の所感談等ありて、散会せるは十一時五十分なりき。


竜門雑誌 第四二〇号・第三七―三八頁大正一二年五月 ○本社晩餐会に於て 青淵先生(DK430008k-0006)
第43巻 p.145-146 ページ画像

竜門雑誌  第四二〇号・第三七―三八頁大正一二年五月
    ○本社晩餐会に於て
                      青淵先生
  本篇は、昨年十一月廿九日開催の本社新旧評議員及会員有志晩餐会に於ける、青淵先生の講演なりとす(編者識)
 只今星野君のお話を拝聴しましたが、移民問題に就ては、私も現今我が政府の移民に対する制度が立つて居ないと思ふ。故に之を改善させたいと云ふ事に付ては、嘗て内務大臣に意見を述べましたら、水野君も同様のお考を持つて居らるゝやうでございました。最近に果して充分な制度が設けらるゝかどうか知らぬが、既に伊太利などには余程念の入つた規則が立つて居る。日本は国が小にして人が多いから、どうしても他方に人を出さなければならぬのに、海運には相当の方法があるけれども、移民には一向制度が立つてないからして、出る人に対して訓練もなければ、保護もない。随て他国に出る人々も、完全に行かない。然らば如何なる趣向が宜いかと云ふことは、私にも今俄に申兼ねますけれども、相当な保護法を設けることが出来さうなものだ、既に先頃内務省に社会局を置くと云ふときに、協調会には一歩進んで労働省を造るが宜からうと云ふ説もあつた、若し労働省が出来るならば其省に移民局を設けて、移民の上に良い制度を設けたら宜からうと思ひましたけれども、労働省を設けると云ふことは、政費節約の最中にも、余り大袈裟過ぎると云ふやうな、実業界の人々から小言があつた為に、止めになつて、遂に社会局と云ふものになつた。其社会局が今後移民の事に就てどれだけ担当するか分りませぬが、兎に角移民の事は目下頗る必要と思ひます。移民を海外に出すに付ては、相当の制度も、保護の方法も、無論必要だらうと思ひますから、私も向後怠らず、其筋に進言して、然るべき制度の設けられるやうにしたいと、期念して居ります。只今の星野君のお話で想起しましたが、元来ブラジルに対する移民会社は、桂内閣の時に、大浦農商務大臣が主張されて私も其時相談に預つたのであります。其後移民関係の会社が合併して
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神山潤次氏が社長になつて経営されましたが、其以後の有様は如何に推移しましたか、今日も形は存してありませうが、到底相当の補助が無いといけまいと思ひます。
 それから独逸の現状に就て、脇田君のお説がありましたが、私は最近二ケ月許りの間に、独逸人から七・八十通の手紙を受取つて居ります。どう云ふ訳であるか、渋沢は大層金持だとでも誤聞したものか、頻々と窮迫を訴へて救護を求めて来ます。どうしたら宜からうかと、目下頻に考慮して居ります。過日阪谷男爵にも相談をしましたが、何としても、其窮民に直接に救助金を送る訳にも行くまいが、兎に角日本人が左様に外国から救助を訴へて来られたからには、仮令私に富が無いにもせよ、諺にいふ気は心だ、何程づゝでも遣つた方が宜いではないか、是は独逸大使に相談をして、送つたら宜からうと云ふ事にして居ります。既に八十通余百通許り来て居ります。何処の誰か分らぬ其書状の中には、貴君は大層慈善家で而して金持ださうだ、依つて救助を頼むと云ふやうな、厚かましい意味の手紙もあります。脇田君のお勧告に従つて、日本人は実に友情が厚い。と言つて将来屡々来られては困りますけれども、何とか適当の処置をと頻りに評議をして居るのです。脇田君のお談話は簡単であつたが、斯る場合に独逸に対して日本国民として大に注意したら宜からうと云ふ、御注意に応ぜんとして居る訳であります。但し此事は一般的なる事ではない、単に私の所へ来たゞけでありますから、一言申し添へて置きます。(拍手)


(増田明六)日誌 大正一一年(DK430008k-0007)
第43巻 p.146 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一一年      (増田正純氏所蔵)
十一月廿九日 水 晴
定刻出勤
午後六時銀行倶楽部ニ於て、竜門社評議員及有志者より成る星野錫・脇田勇両氏の海外帰朝歓迎会あり、阪谷評議員長風邪欠席の為め渋沢篤二氏代りて司会者と為り、食事中一同を代表して歓迎の辞を陳へ、夫より別席ニ於て両氏の講話あり、七時半頃脇田氏先づ講話を始め約二時間、次て星野氏又約二時間談話したれハ時刻已ニ移りて十一時半と為る、渋沢篤二氏星野氏の終了と共ニ直ニ閉会を宣したるニ、青淵先生之を制して一場の挨拶を述へ、又白石元治郎氏南米航路ニ関する談話を始め、遂ニ十二時に及ひ漸く散会、漸く電車ニ搭するを得たり