デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第43巻 p.156-166(DK430010k) ページ画像

大正12年11月4日(1923年)

是日、東京銀行倶楽部ニ於テ、当社評議員会開催後、有志午餐会催サレ、今村明恒ノ地震ニ関スル講演アリ。栄一出席シテ、大震災後ノ人心復興ニ就イテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四二三号・第五三―五五頁大正一二年一二月 本社評議員会(DK430010k-0001)
第43巻 p.156-158 ページ画像

竜門雑誌  第四二三号・第五三―五五頁大正一二年一二月
    本社評議員会
 本社評議員会は、十一月四日午前十時より、東京銀行倶楽部に於て開会せられたるが、当日の出席者は左の如し。
 石井健吾君    土岐僙君   利倉久吉君
 渡辺得男君    渡辺嘉一君  永田甚之助君
 八十島樹次郎君  増田明六君  明石照男君
 - 第43巻 p.157 -ページ画像 
 佐々木勇之助君  阪谷男爵   木村雄次君
 渋沢元治君    諸井恒平君  杉田富君
 鈴木紋次郎君
 評議員会長阪谷男爵議長席に着き、先づ幹事をして左記報告をなさしむ。
      報告
第一 九月一日の震火災に於て左記物件を焼失したる事
 一金七拾壱円拾銭        什器
  但社印弐個、戸棚四個、机弐脚、椅子参脚
 一金弐百八拾七円九拾銭     書籍
  但論語年譜百八部代
 一金百参拾九円五拾八銭     寿杖
  但杖参本、彫刻仕上料弐本
 一金四拾壱円五拾銭       現金
 合計金五百四拾円八銭
 以上の物件は本社の資産に属するものにして、其他竜門雑誌(第一号より第四百弐拾弐号まで)、各種方面往復書類・評議員会及幹事会決議書・会計帳簿・蔵書・雑誌原稿・備品・用紙類等全部を焼失したり。
第二 本社事務所を左記に移転したる事
 東京市麹町区八重洲町一丁目一番地渋沢事務所内
第三 災害地の会員八〇二名に対し、左記事項を照会したる書状を発送したる事
 一本人及家族の安否
 二住宅の震火災に依る被害の状況
第四 全会員一、〇二八名に対し左記事項を報告したる事
 一青淵先生の無事なりし事
 二本社の焼失と共に書類帳簿等一切を焼失したる事
 三今秋の総集会を見合すこと
 四会員各位より竜門雑誌(自明治二十一年六月第一号至大正十二年七月第四百二十二号)の寄贈を請ふべく順次照会中なる事
 幹事の右の報告事項は孰も承認を与へられ、次で幹事は前記報告第三項会員中の罹災者に付、調査の報告あり(震災記事○略ス参照)
 以上幹事の報告終了後、議事に移りて左の事項を議決す。
第一 会員中青淵先生を初め罹災者各位に対しては、全員の一致を以て、衷心より同情の意を表する為め、懇篤なる書状を発送する事
第二 十月三十一日現在の左記貸借対照表を承認する事
    貸借対照表
      貸方之部
 一金六万四千弐拾弐円弐拾九銭      基本金
 一金参万四百七拾七円参拾七銭      積立金
 一金壱万参千八百九円参拾七銭      配当金
 一金壱千弐百弐拾弐円九拾銭       会費
 一金九拾五円也             寄附金
 - 第43巻 p.158 -ページ画像 
 一金六拾七円六拾銭           雑収入
 合計金拾万九千六百九拾四円五拾参銭
      借方之部
 一金九万壱千六百四拾七円弐拾五銭    有価証券
 一金四拾弐円              保証金
 一金壱万参千参拾壱円四銭        銀行預金
 一金九百拾七円六拾八銭         総集会費
 一金参百五拾五円七拾銭         評議員会費
 一金壱千弐拾弐円八拾六銭        雑誌印刷費
 一金壱千百弐拾円也           俸給及諸給
 一金四百五拾六円九拾八銭        税金
 一金参百弐円参拾七銭          利息
 一金五拾六円弐拾弐銭          郵税
 一金百四拾弐円七拾七銭         雑費
 一金五百四拾円八銭           災害損害金
 一金五拾九円五拾八銭          現金
 合計金拾万九千六百九拾四円五拾参銭
第三 帳簿焼失の為め会費の未収入額不明となりしに付、大正十二年度は之が収入を廃し、大正十三年度より新に納付を請ふ事
    以上


竜門雑誌 第四二三号・第五五頁大正一二年一二月 ○本社会員有志午餐会(DK430010k-0002)
第43巻 p.158 ページ画像

竜門雑誌  第四二三号・第五五頁大正一二年一二月
○本社会員有志午餐会 去十一月四日午前十一時より、東京銀行倶楽部に於て、有志午餐会を催されたるが、当日の出席者は
 青淵先生    今村明恒君    石井健吾君
 服部金太郎君  土岐僙君     土肥脩策君
 利倉久吉君   脇田勇君     渡辺得男君
 渡辺嘉一君   高松豊吉君    竹山純平君
 永田甚之助君  八十島樹次郎君  増田明六君
 明石照男君   佐々木勇之助君  阪谷男爵
 斎藤峰三郎君  木村雄次君    渋沢元治君
 清水釘吉君   清水一雄君    白岩竜平君
 白石元治郎君  諸井恒平君    杉田富君
 鈴木紋次郎君  井上徳治郎君   井田善之助君
 西村暁君    小畑久五郎君   尾上登太郎君
 神田鐳蔵君   横山徳次郎君   高橋金四郎君
 高山慥爾君   高橋毅一君    中野時之君
 中間高州君   松平隼太郎君   昆田文次郎君
 河野正次郎君  西条峰三郎君   渋沢正雄君
 渋沢秀雄君   平形知一君    森村謙三君
の諸君にして、席上理学博士今村明恒君の震災に関する講演あり、次で青淵先生の震災後に於ける本社会員の覚悟及阪谷男爵の講演等ありて、午後二時三十分散会せり。

 - 第43巻 p.159 -ページ画像 

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK430010k-0003)
第43巻 p.159-165 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                      (財団法人竜門社所蔵)
                (別筆)
                (大正十二年)
                十一月四日於竜門社例会
    渋沢子爵演説
 今日の竜門社の御会合に、私に一言を述べるようにといふことで、出席を致しました。今阪谷男爵から深い意味を含まれた御演説を諸君と共に承はりました、大抵モウ震災後お目にかゝつた方々のことでございます――或はまだ初めて御面会する方もあるかも知れませんが、この度は実に意外な事で、御同様何とも言葉に尽しきれない次第でありますが、併したゞそれで萎縮落胆してしまふことは、これは決して人たる者のすべき事ではないので、私のこれに対する感想は、既に或る場合には新聞記者にも言ひ、雑誌記者にも話したやうな事もあります、今日申上げる事も、或はそれと重複もしませうけれども、暫くの間どうぞお聴取りを願ひたうございます。
 今阪谷男爵から述べられた通り、私は仮令世の中に有効な働きは出来ませんでも、八十余年の歳月を経過しただけは、確に嘘いつはりの無い事実であります、而してこの八十余年が、たゞ空に所謂酔生夢死ではないつもりです、或は立派な人からは何の己れが……と言はれるかも知れませんけれども、丁度身柄も百姓から出て、今日のやうに幾変遷して変つて参りました一身上の変化、而してその遭遇した事柄をいろいろ考へて見ますると、或は志士となつて時の政治を根本から改革しようなどと思つた事もあります。去る十月二十九日、これは親族だけでしたが、上野で尾高藍香・尾高東寧の追悼会を催ほしましたが想ひ起しますれば、丁度六十年の昔であります、その時の私共の考は或はこの東京を今度の地震以上に焼き払ふといふ事であつたかも知れない、少くとも横浜だけは焼いてしまはう、さうして日本国を大騒乱の巷にしたならば、玆に本当に人心が転換するであらう、とてもこれはたゞ議論ぐらゐで行けるものではない、斯ういふやうな考で、まア実に乱暴といへばこの上もない乱暴である、けれどもその時の所存は決してそれは身王侯貴族にならうなどといふ趣意ではなくして、国家を本当に覚醒するには、それ位の大変動がなければいくまいといふ所に在つたのであります。それも今考へると実にお恥しい話だけれども百人に足らぬ人数で、心を決したならば、埼玉・群馬辺の或る一城くらゐは乗取れるだらう、さうして義を唱へたならば、四方響の如く応ずるであらう、この勢に乗じて横浜を焼き打ち、若しこの義軍に逆ふ者があつたならば、片端から斬つて斬つて斬りまくつて、さうして東京を焼いてしまつても宜しい、又その場合には所謂天子を奉ずるといふ訳に行かないでも、或る国君を特に吾々が擁立することが出来るであらう、即ち尊王討幕といふのが、全く吾々の趣意であつたのです、而してその事柄の発動は、どうしても攘夷に依つてやらなければならぬといふ考でありました。実に今にして思ふと、狂気の沙汰でありますが、その際に今の尾高東寧といふ人が、一番その企ての首唱者にな
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るべき身柄が打つて変つて、若し吾々が義士として死ねるならば自分は同意する、けれども、心は義士であらうけれども、形は逆賊である逆賊となつて死なせることは甚だ残念である、斯ういふ前途ある青年の連中をして、どうか逆賊たらしめたくない、それにはこの企てを廃めさせる外ないと、斯う覚悟をして、切にその企てを諌止しました。私共は大いに争つて、是非決行しなければならぬといふ事を主張しましたけれども、丁度その頃――その年の八月十八日に、京都に於ては御所の御門の長州の固めを罷められるとか、薩摩と会津が一致したとか、七卿が長州に落ちたとか、所謂京都の政情がその前年から見ると打つて変つて形勢が違つて参りました、殊に当時の尊王攘夷党として時勢に憤慨して義を唱へた中山侍従なり、若くは藤本鉄石・松本奎堂といふやうな人々も、忽ちに失敗して離散してしまふといふやうな事になつた、その実態を見た尾高は、どうしても今そのやうな事を起したところで、逆賊になるに相違ないから、これは思ひ止つたが宜からうといふので、切実に私共を諌めたのです。まアこれ等のお話は、今日の事に何の関係もありませんけれども、丁度この度の地震同様な大騒動を起すやうなことになりはせぬかといふ想像まで持つたのでございますが、一身の変化といふ事に就て、いろいろな事に遭遇したといふことの一例として申上げるのであります。
 話変つて、自分は一ツ橋家の家来になるといふやうな、一身がまことに打つて変つたる、火が水になつたやうな変化で、続いて攘夷家と自から任じたのが、欧羅巴へ行くやうになり、この間に多年の勢力の仮令末路たりとも強かりし幕府は倒れ、世の中の有様なども、その時にはいつ迄続くかと思つた騒動も、数年の間に変化することになりました。又自分等とにかく志士を以つて任ずるその時分の人々は、物質上に就ては甚だ淡泊なものであつて、モウ一本の刀で軍艦も防げれば数千数万の軍隊何のものかは……といふやうな考で居つたのが、打つて変つて私共物質上の働きをすべき位地に立つて、遂に殆ど六十年に近い歳月をその間に経過しました。まア斯様にいろいろに変遷を致して参りましたから、一身の変化と共に、又世の中も変つて種々なる出来事に遭遇も致しましたが、今度のこの震災は、その変化中のやはり己れの心に深く銘ずる出来事であります。その事柄は、百億の財産を喪つたといふことは、決してサウ軽々しく言ふことの出来ない大きな事であるけれども、併しこれはまア唯単に物質だけである、私はどうか、これをして将来の為めに有効な変化たらしめたい、といふ希望を強く持ちますので、別してこれを深く自分も感銘したし、極く親しい同志の諸君には、やはり深い感銘を持つて戴きたいと思ふ。さうすると、この変化、この大災害といふものを、たゞ一種の家財の損耗といふのでなしに、特に大いなる精神上に関係する一変化と、お互に観たいやうに思ふのでございます。
 当日の有様若くはその以後の事態は、特に取立てゝ申上げる迄もなく、お互ひ皆知り合つて居るところであります。而して私は、丁度阪谷男爵が地震の翌日二日の日に来られて、米の為めに大変な騒動が起りはしないか、市内の平和を維持するには、どうもやはり軍隊の方の
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力を頼まねばいかぬと思ふが、その心配を自分一人でもナンだから、共に速に内閣へ言はうぢやないかといふことになつて、取敢ず第一に東京に米を輸入することを十分政府は努めて貰ひたい、それから、どうしても戒厳令を布くことをやらねばいくまいといふ事を、政府に申出ることにしましたのは、流石に阪谷男爵の早い気付であり、これに賛同した私も、その注意を誤らなかつたと思ふ。それで、これは内閣のまだ更らぬ前に、その事を政府に申出しましたが、多少これは受容れられる所があつたやうであります、それが二日の日であつた。翌々三日の日に新内閣が出来ますと、早速内務大臣から、相談したい事があるから出て呉れろといふことで、救護事務局へ呼び出されまして、玆に初めて、いろいろ震災その他の事に就ての状況も聞き、尚ほどうもこの場合は、お前等に力を入れて貰ひたいと思ふ、殊に協調会の働きに就ては、渋沢を労するが宜いと思つて御相談をする次第である、といふやうな話でありました。私も至極然るべき事と思ひましたから微力何等の効能もなしますまいけれども、併し一生懸命はたらきませうと申して、協調会の活動に就て大いに努力を致した訳であります。その協調会の働きはまア、第一には炊出しをやるとか、或は情報の案内をするとか、若くは病院をつくるとか、避病院を建てるとか、さういふやうな事で今なほ汲々として努めて居ります。
 続いて、これはどうしても政府の救護事務局ばかりではいくまいから、仮令さまで完全なものは出来ないでも、一つ民間の施設が必要であらうといふ考から、その翌日即ち五日の日に、商業会議所の会頭と相談をして、市内の実業界の有力な方々丁度四十五・六人のお人にお集りを願つて、どうしてもこれは只置けないことであらうから、民設なる救護班若くは経済に対する恢復をはかる、一時のものであるにしても団体を作つたら宜からう、名は何とするか、方法は如何にするか打寄つた人々の御評議に依つて、委員でも作つて委せるやうにしたいといふ考でお集りを願つた折柄に、丁度その翌々日でありましたか、八日の日に徳川・粕谷両君が、自分達もさういふ企てを持つて居るから、是非共にやることにして貰ひたいものだ、実業界の諸君に異議が無いならば……といふ御相談でありました、勿論左様なものを二つも三つも立てるよりは、むしろ協同した方が宜からうと思ひましたから自分は略々御同意をして、九日の日の寄合に、大体に於ては実業家側の組織如何といふことを御相談し、第二に今の貴衆両院の議長からの御注文であるが、共にやるといふ事はどうであるかといふ事を御相談しましたところが、全然どちらも同意であつて、即ち今日の大震災善後会といふものが成立しました。その大震災善後会に就ては、御列席の皆様中にも大分御参加下さつて居るお方もある訳であります。
 まアこれ等の手続で今日に至つて居りますが、想へば実に、この度の震災は意外なる災害でありまして、一方には思うたより困難の激しい事もありました、聞くが余りに何として宜いかといふ思案も閉ぢます位でありますけれども、又一方から見ると、意外に他の国々の同情が深い、又これは吾々の眼から見ては、左様にまで讚められる程に価し得るや否やと疑ひますけれども、現に亜米利加の人々などは、頻り
 - 第43巻 p.162 -ページ画像 
に吾々罹災地方の国民が、たゞ萎縮するといふ有様がなく、又お互に相犯し相争ふといふやうな風がなくして、愉快――といふ事は無いであらうけれども、元気よく、たゞ周章狼狽に了る有様でなしに、所謂未来ありさうに勇ましく活動するといふことは、斯かる国民こそ将来のある国民であると、斯う言はれることは、たゞ一時のお世辞ばかりではなからうかと思ふので、これ等大いに慶ぶべき点が無いではないのでございます。さりながら、実は大体の今の世の中の風潮といふものが――元来は今お話します通り、明治以前の事態が抑々我国は非常に外国に比べて後れて来た、その日本が後れ馳せに駈け足で努力をして、幾らか海外の文物に追随して今日に来たのでありますが、極く打明けて申しますと、人に就ては、今申す亜米利加人の讚めるやうな所が多少あるかは知らんけれども、土地に就てはあるにしたところが狭い、物に就てはあるにしたところが少い、といふことは、誰方も皆御諒解になつて居る事である。斯かる国柄でありますから、我国が物質上他の国々と相当な力を協せて肩を並べて働いて行くといふことは、よほどの優れた能力、優れた勤勉、優れた知識が無くてはいけないのです。然るにそのしつかりした力の進みは乏しくて、まア悪く申さば軽はづみな、所謂軽佻浮薄といふやうな風に進む嫌ひが、今日はどうも多いやうである、徒に批評にのみ趨り易くて実行がこれに伴はない進歩が心の根源から根のある進歩でなくして、上すべりのする進歩である。些細な事物に至るまで――例へば市中の商店の装飾、若くは青年の世の中に立つて働いて居る、或は意見を述べて居る有様など、すべてさういふ辺が、甚だ利己主義に傾いて、真正なる真摯質実といふものを欠いて居る、さうして甚だ奢侈に趨るといふやうな風がありはしないかと、まア私共の眼は少し旧い方に相違ありませぬから、この旧い眼は余計にそれを心苦しく見て居つたのです。それで、一方には或る点は進むやうであるけれども、或る点はこれで安心が出来得るかといふ疑を持ちつゝ居つたものですから、実は今度の震災の直後に、私は新聞記者の人に向つて、これは天譴だといふやうなことを頻りに唱へたのでありますが、今はその説がむしろ却つて迷信的の言葉でなく、真に然りと批評を受ける位に相成つて参つた。但しそれ等の向にしても、真に心から本当に天譴と思つて居るかどうか、まア人が天譴天譴と言ふから、自分も世間から妙に思はれたくないやうに……といふやうな事の為めに、天譴だと言ふ人は、本当にこれを天譴と思つて居るのではないかも知れませぬから、天譴といふ声が世間に多くあるからといつて、左様に真正にその人が、忠誠質実であるといふことを期待する訳にはいくまいかと思ふのであります。
 要するに、今日の有様に就て深く考へて見ると、六十年の昔を想ひ起して、当時世の中に大革新をやらなければ、本当に人気を変化せしむることは出来ないと迄思ふたその昔を、何だか己れ達の力でやらないで自然がやつて呉れたやうな気がするのでありまして、私自身は丁度六十年の昔、若い時に人を試練しようと思つたのを、今日自然の力でその試練を受けるやうな感じが致します。これは甚だ申し過ぎた言葉で、あまり自己を強めると仰しやるかも知れませんけれども、実は
 - 第43巻 p.163 -ページ画像 
この位な激しいお灸がすはらなければ、本当に人の心を心底から改革することは、難かしいのではないかと、斯うまア少くとも私としては想ひたいとおもふのであります。
 そこで今日の事態はまア真に然りとして、さらばこれから将来を如何にして行くか、といふ問題になつて来る。これからの社会全般がどういふやうに進んで行きますか、又今日施設されつゝある政治上若くは経済上の施設も、吾々竜門社のお互が平生唱へて居る主義思想と全く一致するや否やといふことは、どうも多少疑ありと言はざるを得ぬと思ふ。政治上などに就ても、極く堅実な、極く質実なと言へない、時としては或る気勢に乗ずるといふやうな嫌ひがある、果してこれで以つて、まことに順序よく、憲法政治が進んで行くかといふ事には、多少の疑ひが無いと言へないやうです。又、経済上――とのみは言はぬが、この震災に対する所謂復興事業、これは最も困難な事であります、今は復興院も成立されて、その衝に当るお方も有為な人々が打揃うてござる、けれどもこれが果して完全であるかといふ事には、多少まだ疑点がありはしないかと思ふ。どうもすべての物事は、或る一方に面すると、その方に長じ過ぎるし、又一方に面すると、その方に引き締り過ぎるといふ嫌ひがありますから、どの辺が適度であるかといふ事に就ては、よほど慎重に考へなければならぬと思ひます。尤もさう言ふと、結局自分にも何等思案が無くなるので、たゞ現在の状態では困るといふて、然らば如何にするかといふと、その説は無いといふ極く無主義に陥る嫌ひがありますけれども、縦しや無主義に陥ると言はれても、どうも今日の如き、たゞ進む一方なる、紐育や倫敦を東京に造りなさうといふ帝都復興主義が、果して国家の経済上適応するかどうか、これはよほど考へものであらうと思ふ。然らばたゞ何処までも節倹主義で、まるで昔の儘で所謂封建時代の江戸の都を、やはりその儘に維持するといふやうな事で、何でも費用のかゝらぬやうに、自然の発達を待つが宜いといふことになると、帝都復興の方途が立たぬことになりますから、そこは所謂中庸を得なければなりませんが、要するに一軒・二軒の家でさへも、相当なる家屋にしようと思ふならば先づ地盤から固めてかゝらなければならぬのに、兎もすると玄関も勝手元もゴチヤゴチヤに作られるやうな有様になりまして、所謂規模が無いといふ虞れがある。一戸にして然り、況んや大都市に於てをや、といふ議論から言ふと、随分設計に就ても、相当な設備を要しますけれども、併しそれを又むやみに進めて行くといふと、果して今日の国家の状態から言つて、適度な経営が為し得られるか。どうもこの点に就ては、世間にも、あまり風呂敷が拡がり過ぎるといふ議論もあるやうであり、又或は斯様な事では、将来の発展の余地に乏しいといふ議論もあるやうであります。帝都復興は敢て経済上ばかりとは申されませんが、政治に、経済に、自分等の想ふところでは、まだこれ等は全く完全なるものとして、吾々はこれに遵つて行けばそれで宜い、とのみは言へないやうに思ふのであります。これ等の仕事に対しても、真正なる帝都の復興は斯くなくてはいかんぞといふ事を、どうぞ我が竜門社などは略々見込を立てゝ、中正なる、真に健実なる方法を講じて行
 - 第43巻 p.164 -ページ画像 
くやうにしたいと思ふのであります。
 つまる所、その趣意から根源を論じ出すといふと、どうも私は、常に言ふ道徳説を強めて主張する外ないと思ひます。悲しい哉、今の世の中は、多数の有様がたゞ知識にのみ趨つて、教育に、制度に、すべて知識才能のみを重んずる世の中になつて居りますから、人格といふ言葉が、どういふのが本当の人格であるか、私の思ふ人格と或はその主義の人格とは、人格に多少の厚薄を生じやしないかとまで思ふ。況んや親に孝に君に忠にといふやうな、所謂孝悌忠信の道を篤く奉じて人はどうしても自己の為めに世に立つのみではないのである、全く国家あつて己れはあるのだといふ、強い観念を十分につくり為すことは――まア幸に竜門社の諸君は、仮令私がこれ等の教に対して完全な知識、完全な見本を皆様にお示し申したとは言へんでも、たゞ利己的行為にのみ趨るといふことは、決して人たるの本領でないといふ趣意に於ては、竜門社の諸君は、主義として、私の述べて置いた所謂論語主義を、皆様は尊重して下さつて居るのですから、その事に就ては、今日諸君の上には決してお間違はなからうと思ふ。併ながら、今申すこの度の震災は天譴であるといふ言葉に就ては、私はますますその説に立戻つて、仁義道徳の心が社会おしなべて、殆どモウ悪く言へば紊乱磨滅した、その結果が斯ういふ有様になつたと、斯う考へますと、仮令天下に比べたならば至つて小なるものか知らんけれども、我が竜門社の如きは、ますます玆にその堅塁を保つて、東洋――と言ふか日本と言ふか――の真理は、吾々の保ち得る所であるぞといふ迄に、事実進みたいと思ひます。斯う考へて見ますと、どうしても斯かる場合には所謂道義――短い言葉でいふと仁義道徳です、これを事柄に分けて申せば孝悌忠信、この主義を一層強めて進んで行つて、政治に経済に必ずこれに拠るといふことに、是非して行きたいものだと思ふのであります。
 私は復興問題に就て、物質の復興は勿論望むけれども、その根本として、人心の復興が今日は甚だ必要である、若しそれが無くんば、決して真正なる恢復はむづかしいものであるといふことを、或る所で復興に就て意見を述べた時に、申したことがあります。又先達て藤山氏の帰られた時に、商業会議所で演説をしました際に、斯ういふ事を申した、私が嘗て欧羅巴へ行く時分に、軍人の人であつたか、政治家であつたか、或る人が私に言うたことでありますが、私の洋行の目的は日本人として是非とも商工業の発展を望む為めに努めるといふ事、主として商業上の欧米に対する意見を十分に疏通せしむるといふ事を、主たる用向で行くと言つたのに対して、その人が、それは結構な事であるけれども、つまる所商売の発達はやはり国旗の光に依るものである、そこだけは視て呉れないと困るといふことを言はれました。いづれこれは政治家であつたか、軍人であつたでせう、国の力が強くなければ、商売繁昌は出来ないものである、といふ解釈である。その時私それに答へて、如何にも或は逆に見たらさうであらうけれども、併し私共は又、商売の力で国旗を光らさうと思ふのであるから、丁度あなたの説は一方を主にするのを、私はモウ一方を主にしたいと思ふので
 - 第43巻 p.165 -ページ画像 
反対の考を持ちますといふ事を申したことがある。併し今日になつて尚ほ再び考へて見ると、その商売の発達はどうであるかといふと、人格の向上に依ると、又第三に言はねばならぬ。人格の向上があれば、商売の本当の実力も持てる、それに依つて国旗の光は増すのである、斯ういふ風に一番の本を人格に置きたいと思ふといふことを申しましたが、つまりお互ひ竜門社の人々が、幸にその趣意を完全に貫いて行つたならば、天下の大から見れば数こそ少うございましても、決してその力が微々たりとは、私は言へまいと思ふのであります。
 この度の震災に対して、斯かるお催しがあり、憂ひを共にし、志を同じふする皆様がお集りになつて、渋沢如何に考へるかといふ事をお尋ね下さることを、私は深く悦びまして、旧い昔からの想ひ出、又現在どう考へて居るか、将来どうありたいと思ふかといふ事を、遠慮なく玆に告白したのであります。(拍手)


(増田明六)日誌 大正一二年(DK430010k-0004)
第43巻 p.165 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一二年      (増田正純氏所蔵)
十一月三日《(四)》 日 晴
午前九時半、東京銀行倶楽部ニ於ける評議員会○竜門社ニ出席
十時評議員会開催セらる、幹事として諸報告及議案の説明を為す
十一時より、今村明恒理学博士の地震ニ関する講話あり、一時四十分間にて切上く
午後零四十分午餐《(時脱)》、青淵先生は午前十時板橋に於ける東京市養育院常設委員会ニ出席、一時出席午餐を共にせらる
午餐後今村博士は辞去、青淵先生の携来せられたる清水某氏○義雄画先生の油絵の肖像を一同に示され、批評を需められたり
右終り、青淵先生の震災後ニ於ける竜門社会員ニ対する訓話あり(訓話の要点は物質の復興と共に精神的復興を要すと之御趣旨なり)
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第四二三号・第七四―七五頁大正一二年一二月 ○震災記事 青淵先生に呈せる見舞状(DK430010k-0005)
第43巻 p.165-166 ページ画像

竜門雑誌  第四二三号・第七四―七五頁大正一二年一二月
 ○震災記事
○青淵先生に呈せる見舞状 今回の震火災に対し、本社会員一同を代表して、評議員会長阪谷男爵より、青淵先生に贈呈せる見舞状左の如し。
 粛啓、九月一日突如として関東地方に起れる大震は、真に筆舌に絶する大惨害を生じ、我帝国の首都たる東京をも、一瞬の間に荒涼せる焦土と化せしめ、幾万の市民をして、悲惨なる最後を遂げしめ申候、先生の過去三十六年間御執務被為在候兜町の御事務所も、亦此災害に依りて大破致候処、先生は当時恰も同所に御執務中なりしにも拘らず、幸に微傷をも負はせられず、恙なく飛鳥山の御本邸に御帰還被遊候は、独り会員一同の欣幸のみに無之、国家の為め慶賀措く能はざる所に御座候、而して御事務所は同夜、不幸にして震火に類焼致し、維新以来数十年間、公私御関係の重要書類を始め、一切の什器悉く烏有に帰し候事、御遺憾さこそと奉拝察候へ共、爾来先生は御意気愈御旺盛に被為渉、或は大震災善後会を創設し、或は帝
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都復興審議会の議に参与せらるゝなど、八十余歳の御高齢をも顧みず、眠食を忘れて日夜東西に奔走し、只管罹災者の救護と帝都の復興とに御尽瘁被遊候事、今更ながら景仰歓喜に堪へざる所に御座候希くは向来益御健康に、此非常の惨禍を転じて福祉となすの方途に御貢献被遊度奉懇祷候
 玆に評議員会の決議に依り、会員一同を代表し、謹で御見舞申上候
                           敬具
  大正十二年十一月二十五日   竜門社評議員会長
                  男爵 阪谷芳郎
    青淵先生
        侍史