デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
4款 財団法人修養団
■綱文

第43巻 p.447-450(DK430078k) ページ画像

明治45年2月(1912年)

是月栄一、当団創立六周年ニ際シ機関誌「向上」ニ、団員ノ奮起ヲ促ス一文ヲ掲グ。


■資料

向上 第五巻第二号・第一三―一七頁明治四五年二月 修養団の六週年に際して団員諸君に望む 顧問 男爵渋沢栄一(DK430078k-0001)
第43巻 p.447-450 ページ画像

向上 第五巻第二号・第一三―一七頁明治四五年二月
    修養団の六週年に際して団員諸君に望む
                 顧問 男爵渋沢栄一
      △健全なる発展
修養団が時代の悪風潮に抗して起つてから、最早六年の星霜を経過した。その日月の間に斯く迄の発展をなしたのは、団員一同の至誠のしからしめた所であらうけれども、幹部の人々の勤勉努力のたゞならぬのが、与りて力あることゝ深く感服する次第である。私が始めて幹部の人々に会て、その趣旨を聞き助力いたす事になつたのはたしか四十二年の始であつたと思ふ。して見ると既に満三年、即、団が生まれてからの半分の歳月を経過してゐるので、及ばずながら団の為に多少の後援をするを得たかと思へば、実に衷心愉快に堪へられぬ。この上は益々修養して健全なる発展をなしてもらいたいものである。今熟々既往を追懐し、未来を予想して諸君が一層奮励すべき時であると感じたので、老婆心かもしらないけれども次の言を陳る次第であります。
      △言行を一致せしめよ
    △勤勉の後に真の楽あり
    △労苦の後に溌溂の意気を生ず
自分が最初団のために尽力しやうとした動機は全く修養団が勤勉力行主義、言行一致主義であるのをふかく信用したからである。人道に則り、実践躬行を旨とするのは人たるものの本分である。苟も人が国家の一員であり、社会の一員である限りは、お互に自分の業務をはげみ徳行を修むると同時に、社会国家のために貢献する処がなくてはならぬ。人生の真の価値は実にこの心を以て行動するにある。「言ふは易く行ふはかたし」如何に口に名論卓説を吐ても、実行が伴はなかつたならば、何の価値もなくなる。殊に団体の発達といふ事に関しては、名言相伴ふのが最も大切な事である。
      △軽佻浮薄になるな
    △流汗主義にはじめて真の慰安あり
    △昔の青年と今の青年
 - 第43巻 p.448 -ページ画像 
世が進むに従つて人心が浮薄に流れるやうに思はれる。老人になるととかく昔風を慕ふ傾が生ずるからでもあらうが、現今の青年と昔の青年とは精神に於て著しい差異がある。現今の青年の学問の仕方は、昔の青年よりは比較的多く学び且つ優つてゐる処があるけれども、剛健質実、勇気に富み、義を見て死を顧みざるが如くであつた昔の青年の意気に対して如何であらうか。
現代の青年は軽佻浮華弁舌を以てその場を繕ひ、無気力にして堅実の精神に乏しい人の多いのは歎息すべき事実であると思ふ。之を憂へて起つた修養団員は、益自重自任して社会一般の人心にこの精神を伝へてもらひたい。これ自分が諸子と、境遇年齢を異にせるに拘らず、常に幹部の人に相接し、相語つて力添へをしてゐる所以である。
      △発展と共に責任は益重大になる
    △実践躬行の精神を一般に伝へよ
    △規模の大と責任
目下の団の発達は、六年の歳月に於ける経過としては決して小々とせぬ。けれども天下民衆の多きにくらべるならば決してこれを以て満足すべきでない。特に実践躬行といふ事は一小部分の人が論じてゐる丈で、社会一般に行はないならば真正の風紀改善を望む事は六ケしい。されば尚一層この趣旨を天下に拡張しなければならない。それにはまづ根本をつよくするを要する。是故に発達すればする丈、各人の責任は重くなるのである。諸子はこの心を以て一年又一年、十年・二十年・百年・千年、屈せず撓まず、この健実なる精神をつたへつたへて、満天下の人に広める事に、つとめてもらひたい。
      △修養と修飾の相違
    △修養は虚飾にあらず
    △修養は鍛錬なり
頃日或る雑誌社の人が来りて、修養団に関して色々話した末に次のやうな事をいつた。
近頃の学生が修飾が多く、たゞ目前を繕ひ己に責任を免がれん事を望むのは、社会一般の現象で、これがため早熟早老の気風が多くなつてきた、かゝる気風が段々進めば健実の精神は日にうすらぎ、人心は益益軟弱に流れはしまいか。之に反し、維新前には旗本・町人等の中には浮華に流れたものもあつたけれども、貧困なる武士や百姓などには豪邁なる気風を以て大事業をなしたものも決してすくなくなかつた、而してこれらの人は、修飾或は修養を嫌つて、所謂真摯卒直天真爛漫思ふ事を勝手に行つた。詰り「精神一致何事かならざらん」といふ意気でその思ふ処に突進した、最善に向つて勇邁した、蓋し活溌といふ事を、修養修飾とは、伴ひがたいものであると思ふ。若し修飾のために、この元気を萎縮せしめたなら、どうして「六尺の孤を托すべく、百里の命を寄すべし」といふ様な人物をつくる事ができやう。故に修養は人物を小さくするものだと思ふと。
此論は一理ないでもない。若し修養が修飾になるなれば、この説実に然りである。けれども修養は修飾ではない。修養は克己である鍛錬である。孔子も「十室の邑に、必ず忠信丘が如き者有らむ、丘が学を好
 - 第43巻 p.449 -ページ画像 
むに如かず」と、又「昼夜これを思ふも学ぶに如かず」と曰つた。学を好むは修養である。修養は決して人の性質を萎縮せしめるものではなく、能く事物を識別して善に進み、悪を斥け、利害得失を見て道理正しく判断するのが即修養である。修養を修飾なりといふが如きは甚しき誤解である。団の発展と共に、色々の誤解も出てくるが、それ等に屈する事なく、自己の所信に向て益々進でもらひたい。これが即修養である。
      △予が日常
蓮沼君より私の青年時代に於ける苦行の事に就いて何か話せと申越して来たが、私は特に述べる程の苦行もして居らぬし、又前月号に私が郷里を去るに当ての変遷を述べたから、重複する嫌もある故に、玆には、老年になつてからの勉強の有様を述べるから、若い時代の勉強は如何であつたか大概御察しがつくだらうと思ふ。
私は、当年七十三で七度目の子年を迎へた、しかし相当に働いて居る身体はあまり健康ではなく、時々風を引き、咽喉を痛めて、外出の出来ぬことがあるけれども、其の病気も年に二・三度位で、熱の高い場合の外は病褥中でも書を読み、来客に接して談話を為し、又は関係の銀行会社事業に対して意見を述べなどする。健康な時は、必ず朝七時(夏は六時)に起きて入浴し、食事を済して後時間あれば、夏は庭園を散歩することを欲するのである。然しそれも来客の為め満足に此の欲望を充すことは出来ぬ。毎朝来客あれば必ずこれと談話することに決めて居るから、三・四時間はこれが為めに費して仕舞ふ。其他多少家事もあり音信挨拶等の為に、十時頃でなければ、事務所に行く事が出来ぬ、事務所に行けば関係ある銀行会社の用務を聴き来人に接し、来書を検し、やがて昼頃第一銀行に行きて午餐を食す。食後其日の営業模様をきゝ、他に約束あれば其方に行き、或は再び事務所に来りて書類の調査をなす、他に兼約なき時の執務は大抵斯くの如くするのである。毎朝又は夜に入りて日誌に其日のなした要領を書く。それも近頃は年を取つた為めに忘れ易くて困る。日誌に控えることは何にもならぬ様だが、日常自己の取扱ふた事を覚えて居る為である。壮年の頃は一週間も前の事を記憶して居たが、今日は両三日前の事も忘却する又時としては今般の支那動乱の如き時事問題に就いて心を労し、或は諸外国人の接待等に付ても心身を労するけれども、平生聊か安心立命がある故に、決して苦情を唱へ或は愚痴をこぼす様な事はせぬ。終身の憂はあつても決して一朝の怒はない。自分の出来る丈け尽せば其れ以上は天運であると思ふからである。夜は十二時に寝て朝は六時又は七時に起きる、就寝後は安眠するから心身の労は其間に於て完全に休まるのである。余暇あれば経書又は古今の歴史を読み、詩作等も寸暇を得てなすを無二の愉快として居る。又拙筆ながら字を書くことを好む。他に庭園の世話などする外は、家屋とか器具とか骨董とか、食事衣服などの事に就ては少しの欲望もない。私の平生は斯くの如くである。私の事務所に於ける用務は必ず自分が受取りて後に之を担任のものに取扱はしめる。過日も或る新聞記者が此度の政府の行政整理に就いて、私に質問した時に私の答へたのは、私の宅の事務と諸官省のそ
 - 第43巻 p.450 -ページ画像 
れとは素より異なつては居るけれども、諸官省では下級の者が最初書類を受取つて順次に上級の手に渡るのである。受付から大臣に進達するまでには五・六人の手を経るといふ事である。それ故遷延して情意も通ぜぬ。私は此取扱等を逆にした方がよからうと言ふた事がある。七度目の子年を迎へた私の現今の活動は斯くの如くで、寸暇も茫然としたり又は午睡を貪つたり、悪遊び等をすることはない。之を以て私が老年の苦行否楽事として居る。青年時代の事は御推察願ひ度い。