デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.144-150(DK440054k) ページ画像

明治44年7月7日(1911年)

是日栄一、当校第二十一回卒業式ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK440054k-0001)
第44巻 p.144 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
七月七日 晴 暑
○上略 午前九時高等商業学校ニ抵リ、卒業証書授与式ニ出席シテ一場ノ演説ヲ為ス○下略


東京高等商業学校同窓会会誌 第七七号・第二一―三八頁 明治四四年八月 母校卒業式記事(DK440054k-0002)
第44巻 p.144-150 ページ画像

東京高等商業学校同窓会会誌  第七七号・第二一―三八頁 明治四四年八月
    ○母校卒業式記事
母校の卒業式は、例に依り七月七日午前九時より同校講堂に於て挙行せられ、坪野校長の式辞、文相の祝詞(真野実業学務局長代読)渋沢商議委員の演説等ありて例に依り盛会なりし。先づ左に卒業者氏名を紹介せん。
  ○氏名略ス。
坪野校長は、以上の人々に対し、証書授与を終りし後、卒業後に於け
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る自己の希望を述べて頗る有益の演説を試みられしも、坪野氏目下転地療養中なるが為め其の速記録を得る能はざれば、玆に紹介するを得ざるは甚だ遺憾なり。当日渋沢商議員の演説筆記を挙ぐれば左の如し
      商議員男爵渋沢栄一君演説
 来賓諸君、満場の学生諸子、久々で当学校の卒業証書授与式に参列致しまして、玆に諸君に御目に懸つて送別の言をなすのであります。昨年も一昨年も其前年も、仔細あつて此会に参上が出来ませなんだのを遺憾と致します、斯く御目出たい式日に或は申上げます言葉が不祥に渉るかは知れませぬけれども、総て紀念すべき日には成るべく往事を回想して斯る事も有つた、斯う云ふ境遇もあつたと云ふことを談ずるのは大いに有益と思ふのである、故に此卒業証書授与式に方つて私は聊か既往の回顧談を致して、此校に蛍雪の労を積まれた諸君の告別にしやうと思ふのであります、古い昔を申しますと、此学校の今日に至りまする其前身は、明治の七・八年頃商法講習所と申して東京府に属して築地に裏店的の学校で居つたのである、それが抑々日本に於ける実業教育の嚆矢と云ふか濫觴と云ふか始めであつたのであります、追々進化して斯の如き大学校になつたのは、世運の隆昌と共に商業の発達が証明される訳で、頗る喜ばしい、併し其喜ばしいには今申す通り、過去に種々なる困難があつたと云ふことを知らなければならぬのである、此学校が明治十八年に文部省に属するまでの間は年々経費の維持に苦んで、或時には廃滅に了らんとしたことがあつたのである、私は教育家でなし、学者でなし、斯る事柄には縁の遠い者であるけれども、当時の世態が教育と云ふことは、唯だ政治界のみであるかの如き有様で、商業に対して教育を唱へる人は殆ど寥々として晨星の如くであつた、今日こそちよつと集つても斯の如く御揃ひであるけれども三十年の昔は商業教育の寄合には十人案内を出しても、漸く二・三人しか来なかつたのである、故に今申す通り、東京府の力に依つて組立てられて居つた商法講習所は不必要だ、廃したが宜からうと云ふ案が起つて、到頭廃滅に帰せんとしたるにより、終に十八年に私共が種々苦心して政府に力を添ゆることを請うて此学校が維持されたのである其頃官民共に商業教育観念の薄かつた云ふことは、決して私が昔を誹謗して愚痴を申すのではございませぬ、其時代に居つた御方が能く記憶して居られるならば、私が今申すより尚ほ以上であつたと云ふことを回想されるであらうと思うのであります、此間或人が明治十八年に高等商業学校に相成つてから、其卒業証書授与式に私が学生諸氏に告げた言葉が文章になつてあつたものを、一向知らぬ人から一覧の為めに送ると云ふて、二十七年以前に此学校の卒業証書授与式に述べた演説の筆記を送られたのであります、只今此処へ持つて来て居りますが是は今読む必要は無い勿論金玉の論でも何でもありませぬ、併し其頃から商議員をして居つて、今日も尚ほ斯く御話をすると云ふは、幾らか御参考になれば諸君が私の申上げることを成程と御感じ下さるであらうと思ふのである、故に一つの証拠として此処に持つて参つて、後に校長さんに上げて置きますから、折があつて諸君が御覧下さいましたならば幸甚であります、是は単に昔から私は此学校の商議員の一人
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で居ると云ふことを申上げるに過ぎぬが、前申述べました通り、商業教育が其頃は頗る世の中に疎んじられて居つたと云ふことは、今此面前に居る青年諸子には嘘と思う位であつたのであります、世運が段々進んで参ると共に、総ての方面が発達しますと同時に、実業界の発達も亦他の事物の発達に譲らなかつた、是を以て実業教育と云ふものも官に於ても亦民間に於ても、頗る進んで追々増して参つて、終に今日に至つたのである、故に先刻御報告の如く本科卒業生三百三十二人の多きに至ると云ふは実に喜ばしいことであります、以て昔日の悲しかつたことを打反して、今日の喜びを見得る訳でございますが、併し時に汚隆なき能はず、私は近い二・三年前のことを更にもう一つ回想したいと思ふのであります。
 明治四十二年の夏、忘れも致しませぬ五月十一日の朝、私は此学校へ来て、只今文部大臣の祝詞の御代読をなされました真野君に殆ど涙を以て御話をした、其事は専攻部廃止のことである、其前から此学校の専攻部廃止と云ふことは、私共は大いに憂慮したことである、大臣へも次官へも数々愚見を呈した、不幸にして一切採用が無かつたのであります、終に其事が決行されんと致して、即ち五月の初旬から生徒の間にも物議を引起すことになつた、左様になつては此学校の不祥此上なしと憂慮に堪へぬ為めに、特に此学校に出頭して真野君に面会し事に由ると学生一同退校と云ふ不祥事を生じますぞよ、若しそうあつては実に学校の為に是位不体裁はございませぬぞよ、宜しく御注意を請ひたいと云ふことを、一時の代理校長であられたが、平素の御懇意に依つて懇切に申上げたのでありました、併し其言も尚ほ用いられることが得なかつた、其後私は房州へ旅行をした、で、旅行の留守中今日此処に列席して居る学生諸子ではありませぬが、本校本科生若くは其他の学生挙げて退校をするといふ騒動が起つた、旅行中に在つて私は之を聞いて大いに憂へた、前に申す通り、明治七年から実業教育は必要と思うて其発達に尽力し、十八年に漸く政府の学校になつて頗る喜んで其卒業証書授与式に出て将来此学校の拡張に資すると云ふことを申述たことなどを回想して見ますると、二十有余年を過ぎてから斯の如く進んだと思う学校が不図した事から左様の不祥事を見ると云ふのは、私の心には我が故国の亡滅の如き感慨を以て其報告を得たのです、私は其月十八日の夜に東京へ帰つて来た、翌十九日に東京商業会議所会頭中野氏、副会頭大橋氏が是非とも面会したいと云ふ、尤も旅行先へ数々電報があつたので私からも電報にて同日会見を約してありました、即ち十九日の朝両氏と面会しまして、未来如何にしたら宜からうかと云ふ協議をしました、兎に角に学生諸氏をして復校させる外は之を無事に納める手段は無いと私共は深く思ふた、どうぞ官紀をも立てたい、学生諸子の希望もまるで廃滅させたくない、折角斯くまで隆盛に至つた学校が、挫折どころでない廃滅に了ると云ふやうな不祥の有様を見たくないと、其間の苦心と云ふものは決して一言に尽し得るものではございませぬ、併し長く日を送る訳に往かぬ、余り時日を経過しますれば其間に学生諸子の離散もある、又一方からは種々なる面倒を惹起す、旁以て、其十九日後数日を経て即ち五月二十三日と覚
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えて居ります、神田の青年会館に退校を企てた学生諸子一同に来会を請ふて、私・中野武営・島田三郎の三氏、各其位置は各別の方面であつた、私は商議員であつて、中野武営氏は東京商業会議所会頭の位置にあり、島田三郎氏は父兄保証人代表者といふ位置であつた、此三人から復校のことを懇切に忠告した、勧誘した、一歩進んで言へば哀願した、私は其時に真に涙を流して懇談した、それは面前学生諸子の中に知つた御方があるに違ひないと思ふ、幸に私共の赤心が通徹して而かも勢ひ強い退校の気勢が頓に挫折して皆手を引いて復校して呉れたのは、実に此高等商業学校に於ては此上もない慶事であつた、仮令其事柄が何れにせよ、善悪は問ふ必要は無い、其時にも私は繰返して申した、諸子は或は官紀を紊し規律に背くの暴民であるか、若くは又暴政に反抗するところの義民であるか、孰れ両者の中にあるに相違ない其ことを今問ふ必要はない、元来学ぶ積りで来たからは退校すると云ふことは大に考へ違えである、何にしても吾々に任せて復校なさい、此学校の起りは斯うである、今日までの経過は斯く斯くである、諸君が斯う云ふ不祥の事をして将来此学校の門前に雀羅を張らしめたならば、此高等商業学校は廃滅するかも知れませぬ、成程世の中に高等学校は沢山あるから、東京高等商業学校が廃滅しても構はぬと不親切の人は言ふかも知れぬ、それは殆んど昔を忘れて親をも構はぬ、君をも後にすると云ふ主義に相成るのである、昔を思ひ既往を慕ふと云ふことは人道の常である、此学校が斯くまで成立つて来たのを、誰彼に拘らず愛して段々隆盛を謀ると云ふのが人の道である、今諸子が挙て退校したならば後に入学する人はありませぬ、終に此学校が廃滅に了る商業教育の濫觴とも云ふべき学校をして、左様な運命に畢らしめてなりませうか、爰を一つ御考へなさいと云ふことを切実に御話をしたのであります。是唯だ既往の経過談ですから、昔さう云ふことがあつたと云ふに過ぎぬのであるが、私の身が商議員として明治十八年から継続し来つて居ります故に、最近に私の心に強い刺戟を与へたことであり、諸君にも……と云ふと諸君は退校を企てた人々のやうに聞えるが兎に角此学校に居つた多数の生徒にさう云ふ感動を与へた事柄は、斯る場合に申すのは或は不都合かも知れぬが、少くも将来の注意に供し得られるであらうと思ふのであります。爾来私は商議員は御免を蒙むらうと思うて、数々文部大臣に願ひましたが、文部大臣は私の商議員を是非留任する様にと勧告されました、殊に此学校の商議員は其頃甚だ寥々として少数であつたのを、当春に至つて更に数名を御増しになり、新校長坪野君が御任じなさると同時に十一名となりましたが、折柄坪野君の御不快でまだ其商議員の会合を開かれませぬ、総ての商議員が顔を合はして将来如何なる施設、如何なる考案を立つるが宜からうと云ふことは差定まりませぬけれども、昔日と違うて錦上に花を加へる商議員が沢山出来ましたから、私の如きは御免を蒙むつて宜からうと思ひますが、従来の沿革から渋沢を抜いてはいかぬと云ふ大臣の御懇望に依つて、私も猶ほ商議員の一人に加つて居ります、是から商議員として大に此学校の為に力を尽さうと考へます、詰り一昨年来の一波瀾を此に申述べて、斯うであつたと云ふことを明かにするに過ぎ
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ぬのでございます、是は卒業生諸君に告げる言葉でも何でもありませぬが、併し今日卒業される諸君は、仮令其身が退校を企てた人でないに致せ、必ず其事に関聯なすつてござるだらうと思ふから、今此校を去るに付いて斯う云ふ御話をするのは往時を追懐するに足るであらうと思ふのであります、どうぞ此学校にはさう云ふ経歴があつたと云ふことは、何れの御場処に在つても、勿論諸君は向後大に発達なさるであらうが、如何に発達するとも、如何に顕要の位置に立つとも、必ず御忘却のないやうに希望して置くのでございます。
 更に諸君の前途に付て私が実業家の位置からして、一言申述べて置かうと思ひます、商工業界の年を逐うて進んで参ることは国運の進歩に伴うて年一年に後びさりは致しませぬ、前にも申す商業教育の昔を回想すると同様に、商工業界の昔を回顧しますると、実に驚くべき進歩を為して居る、驚くべき拡張を為して居ると云ふことを言ひ得るのであります、四十年以前に比べて見まするならば、総ての事物が殆ど嘘のやうに大きくなつて居る、併し維新以後を通観しますると左様に進んで居るけれども、試に近来の有様即ち日露戦争以後、明治三十九年から今年までの五年ばかりの間の進歩を考へて見ると、明治元年から四十年までに比較して進歩の度が鈍い、是は私共が種々の点から攻究しつゝ居るのでございます、併し事物は唯単に是れが善い是れが悪い、政治家が善いとか商工業者が悪いとばかりは申せぬ、物の進歩と云ふものは、初めの進みと、追々上達した後の進みとは大に其程度が違ふものである、例へば碁を打つ、将棋を差す、其様なる遊芸に付いて考へて見ても、四ツ目殺しと称へまして纔かに石を下すことの手続を覚えた頃は、上達が頗る早い、昨日は互先で君に負けたけれども今日君に石を置かしてやると云ふやうなことが出来る、諸君も必ずさう云ふことがあるに違ひない、ところが追々上手になると、余り上手にはなりたくない、碁の稽古を私がなさいと申すのでない、併し仮りに左様に上達したとして御覧なさい、初段にでもなると何時まで経つても中々進まない、一目進むには数年かゝる日本の商工業界が初段になつたか二段になつたか、若くはまだ段に入らぬか、私には鑑定が付かない、是は銘々見る人の見込に任せることである、併し明治の初め四ツ目殺しの時代よりは、大分進んで居るに違ひない、故に其時の進歩と同じ様に進歩せぬと云ふことは、理に於て然るべきことである、吾吾商工業界に居ります者が其時分はどんどん働いたが、今になつて渋沢などはさつぱり働かぬから、日露戦争後は進まぬと諸君が言はれるのであらうか、又明治十八年頃の高等商業学校の卒業生は精々働いたに依つて此学校が隆盛になつたが、近頃の卒業生は以前と違つて何の役にも立たない、それで明治四十二・三年頃は事業が進歩しないと言はれるでありませうか、それは私はどちらも同意せぬのであります、即ち前に申す通り、事業は総て初期の時分の如くに進歩するものではない、是は必ず公平の言葉と思ふのであります、併し此四・五年の間の進歩の鈍いと云ふことに付いては、前に申した道理以外に他の理由がありはせぬかと思ふのであります、殊に近頃に於て私は大いにそれを気遣ふのである、元来日本の商工業と云ふものは実業家自身の力に
 - 第44巻 p.149 -ページ画像 
依つて素地を為し、拡張し来つたかと云ふと悲いかな然うでない、多くは政治家から致され、或は外国の圧迫から起つて、悪るく申せば他動的に進んで居ると云ふことは事実に於て免かれぬ、是が第一に日本の実業界の力が弱いと云ふ原因である、更にもう一つ申しますと、全体の国力に比べて政治の費用が甚だ強い、是を以て財政と経済と云ふものゝ比較が他の列強諸国に比べて見ましたならば大に相違すると思ふ、私は玆に数字を挙げて斯様であると云ふことを証明することを致しませぬけれども、試に或る統計に拠つて、例へば英吉利の国富が百あるものなら日本は何十しか無い、それに照して国費は幾らであるか英吉利が十なら日本は幾許と云ふ割合で、費用は多くして国富は少ない、是は英吉利・亜米利加・独逸・仏蘭西、何れの国に比べて見ても直に分ります、日本は詰り表が張り過ぎて居る、商業でも経済でも間口は広くても奥行は狭い、外見は立派でも這入つて見るとさうでないまあ吾々の一家の生活も少しそれに類して居る、何かあるとそれ渋沢やれ渋沢と言はれるが、其れ丈け実力が有るかと云ふと思ひの外実力が無い、丁度日本の財政と似たやうなところがある(哄笑)、此間口の広い奥行の狭いと云ふことは、常に国家の財政が民間の経済を蹂躪する、世間の景気不景気を論じる場合にも、全体生産的費用を増して不生産的費用を減ずれば、必ず世の中は好景気になつて善い訳である処が日本は師団を殖やし海軍を増しそれで租税を増収する、租税を増収して軍備の方へ多く金を掛ければ田舎は衰微しても都会は必ず一時の繁昌を来たす、即ち財政が膨脹すれば都会は繁昌するやうになる、元来民間の商工業が鞏固になつて居らない、悪るく言へば政治家から指導されるやうな商工業であるのみならず、前に申す通り財政と経済との権衡が他の列強に比べると甚だ釣合が悪い、今日は最も悪るからざるを得ぬ次第に属して居る、之に加ふるに彼の鉄道国有以後、兎角に政治が商工業に対して助けを与へる意思ではありませうが、常に妨害を試みて居る、俺は親切に君の身体を保護してやると云うても、無理に保護を与へるのは与へる人は親切でも、受ける人は迷惑を感ずる今日の事にはさう云ふ親切が往々ある、甚だしきは総ての事業が皆官営々々と傾くやうになりはせぬかと憂へるのである、是等は商工業の力を段々弱めて往くと云ふことに成る、三十七・八年以後数年間の商工業の進歩が其前に比較して鈍いと云ふのも今申述べた二三の原因に存すると私は思ひます、故に諸君は商工業界の現在は左様の次第であると云ふことを能く御考へなさることを注意して置くのであります。
 更に人材に付いて申上げませう、私は此学校で是迄幾回も述べましたが、昔の商工業に対する教育は、商売往来と云ふ草子が一冊と、塵劫記と記ふ算術の書物が一冊、此二冊を以て吾々の教育は足れりとされたものである、此商売往来と云ふものを此間或人が持つて来たが、大きな文字で紙数二十枚ばかりある、故に諸君が勉強すれば、二時間も修業すれば直ぐに済んで卒業証書となる、誠に雑作ない、実に簡易の教育である、左様な単純の教育でも商売が出来て居つた、世の中がひつくり反つて斯の如き高等商業学校而かも専攻部まで修むると云ふには、殆ど十数年掛りまして二十四・五の年齢にならなければ世の中
 - 第44巻 p.150 -ページ画像 
へ出られない程教育が密になつて、智識ある人々が商工業会社に這入つて来ると云ふことは喜ぶべき訳である、若し此有様から論ずれば、甚だ人が多いのだ、業に已に以前から卒業者がたんと出て居る、今年も三百三十人ある、諸君は何処へ往つて其事務を得るか殆んど往く先きに迷ふと言はれるかも知れぬ、如何となれば高等商業学校は此処ばかりではない、各処にある、又普通高等学校も沢山ある、左様に論ずれば是から先き学校で学問を修めても、世の中に働く位置は無いかの如く聞えますが、併し世の中に人物は乏しいと私は言はなければならぬ、有為の人は少ないと言はなければならぬ、凡そ世の中の政治にあれ、軍事にあれ、教育にあれ、法律にあれ、商工業にあれ、真実に進んで行くは何に由るかと云ふたら、人に由ると云ふことは論を俟たぬのである、然らば其人は数多いが、果して皆有為の人物であると云ふことは言ひ得られぬのであります、故に今年卒業された、即ち今日の学生諸君が先刻文部大臣から御訓示があつた如く、又校長から実業界の練習は君等の架空の理想とは違ふと云ふ御教訓は、私は実地に適した御尤千万の御説と思ふのであります、故にさういふことを能く注意し、能く理解して、而して実地に処して勉強の力、耐忍の労を積んで段々に実地の智識を修めて、即ち本当の人になるのである、果して本当の人であれば今日までに社会に大変人が出来て有るやうだが、前に申す如き人がたんと出来て居るかと云ふと、私は残念ながらたんとはないと御答をする外ない、然らば今日の卒業された三百三十人の諸君が、確かにさう云ふ御人になつてあられるならば、寥々たる晨星の如く有為の人は少い中に於て諸君が驥足が伸ばされる、諸君の前途は甚だ有望であると申して宜いのである、私が此商工業界に対して概論すると、政治界に比較して始終彼に人物が多くて此に人物が少ないことを憂へて居るのです、私の理想をして露骨に申させるならば、此明治三十八年頃からの商工業の不振と云ふものも、実に前に申述べた如き理由たらざるを得ぬやうであります、故に之を改革するに何が一番必要であるかと云ふと、在朝在野の人物の平準を得るを第一と思ひます故にもしも出来得るならば桂公爵・後藤男爵のやうな人に官吏を罷めて商売人たらしめ、官吏は只謹直質素なる人にやらせることにしたらば、国家は甚だ無事で景気も回復するであらうと思ひますが、私の理想通りには世の事は行かない、又さういふ人傑には或は渋沢抔は嫌はるゝ事と思はれる――(哄笑)真正に国家を健全にし真正に国富を完全にしやうと思ふならば、其れ位に官権と民力との権衡を合はせるやうにしたいと思ふのである、故に諸君はどうぞ只今文部大臣・校長の御訓示のやうに是迄学問上に修めたのみならず是から先き実業界に於ても深く鑑み審に思うて、彼の徳川家康の訓言の如く、人の一生は重荷を負うて遠き路を往く如く急ぐべからずと云ふ耐忍力を以てやつて戴きたい、更に私は一言を添ヘて諸君を送りたい、論語にある曾子の言に、士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已不亦遠乎。どうぞ諸君十分御精励あることを希望いたします。(拍手)