デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
2節 女子教育
1款 日本女子大学校
■綱文

第44巻 p.718-728(DK440197k) ページ画像

昭和6年4月25日(1931年)

是日栄一、当校校長麻生正蔵辞任ニヨリ、当校校長ニ就任ス。


■資料

竜門雑誌 第五一二号・第七五頁 昭和六年五月 青淵先生動静大要(DK440197k-0001)
第44巻 p.718 ページ画像

竜門雑誌 第五一二号・第七五頁 昭和六年五月
    青淵先生動静大要
      四月中
八日 日本女子大学臨時評議会(曖依村荘)


集会日時通知表 昭和六年(DK440197k-0002)
第44巻 p.718 ページ画像

集会日時通知表 昭和六年         (渋沢子爵家所蔵)
四月九日 木 午后一時 日本女子大学臨時評議員会(渋沢事務所)


専門科学則其他ニ関スル綴(DK440197k-0003)
第44巻 p.718 ページ画像

専門科学則其他ニ関スル綴      (日本女子大学校所蔵)
    校長認可願
私立日本女子大学校長麻生正蔵儀辞任致候ニ付、後任校長トシテ子爵渋沢栄一ヲ就任為致度候間、御認可相成度、此段相願候也
  昭和六年四月
           財団法人私立日本女子大学校理事
                     麻生正蔵
    文部大臣田中隆三殿
   ○添付書類略ス。

東専二〇四号
             日本女子大学校設立者
               私立日本女子大学校
昭和六年四月十八日申請渋沢栄一ヲ校長ト定ムルノ件認可ス
  昭和六年四月二十五日
            文部大臣田中隆三


高等女学校学則其他ニ関スル綴(DK440197k-0004)
第44巻 p.718-719 ページ画像

高等女学校学則其他ニ関スル綴 (日本女子大学校所蔵)
    校長認可願
私立日本女子大学校附属高等女学校長麻生正蔵儀辞任致候ニ付、後任校長トシテ子爵渋沢栄一ヲ就任為度致候間、御認可相成度、此段相願候也
  昭和六年四月十八日
             財団法人私立日本女子大学校理事
 - 第44巻 p.719 -ページ画像 
                  麻生正蔵
    文部大臣田中隆三殿
   ○添付書類略ス。

東普一五三号
            私立日本女子大学校附属女学校設立者
                  私立日本女子大学校
昭和六年四月十八日申請渋沢栄一ヲ校長ト定ムルノ件認可ス
  昭和六年四月二十五日
            文部大臣田中隆三


小学校学則其他ニ関スル綴(DK440197k-0005)
第44巻 p.719 ページ画像

小学校学則其他ニ関スル綴       (日本女子大学校所蔵)
    校長園長変更御届
私立日本女子大学校附属豊明小学校及ビ附属豊明幼稚園長麻生正蔵儀辞任致候ニ付、後任校長及ビ園長トシテ子爵渋沢栄一就任致候間、此段御届申上候也
  昭和六年四月十八日
             財団法人私立日本女子大学校理事
                        麻生正蔵
    東京府知事牛塚虎太郎殿
   ○栄一歿後、井上秀子校長ニ就任ス。


東京朝日新聞 第一六一四一号 昭和六年四月九日 目白女大の校長に 渋沢老子爵 麻生校長の後任として(DK440197k-0006)
第44巻 p.719 ページ画像

東京朝日新聞 第一六一四一号 昭和六年四月九日
  目白女大の校長に
    渋沢老子爵
      麻生校長の後任として
渋沢老子爵がこの四月の新学年から目白日本女子大学校の校長に就任する事になつた
 学制改革による昨年の盟休騒動から、また学校内部にも種々な事情があつて麻生現校長はその当時から既に
 辞意 を漏して居たが適当な後任者がないのと、各方面の慰留もあつて容易に決定を見なかつたが、氏は三月限り職を退くと辞意固く
学校当局でも八方手を尽したが後任者がなく、結局学校内部より後任者を選定する事となり、同校創設当時からのもつとも有力な援助者である渋沢子爵を煩はす事となり、麻生校長の辞職も実現して、九日の評議員会で正式決定を見る事になつたのである
 右に つき子爵の令孫敬三氏は語る
 『祖父が校長就任を承諾したのは事実ですが、何分九十一歳の高齢なので、校長といつてもまあ名誉校長位の意味で、それも適当な後任者を得るまで暫定的にお引受けしたのです』


(甲斐久子)書翰 渋沢栄一宛 (昭和六年)四月八日(DK440197k-0007)
第44巻 p.719-720 ページ画像

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家庭週報 第一〇七四号 昭和六年四月一〇日 麻生先生の御辞職に就いて 全校教職員会を開いて評議員会より報告(DK440197k-0008)
第44巻 p.720-721 ページ画像

家庭週報 第一〇七四号 昭和六年四月一〇日
    麻生先生の御辞職に就いて
      全校教職員会を開いて評議員会より報告
 既報の通り母校日本女子大学校に於ては校長更迭問題に関して、十日午後二時から家政館食堂に於て全校教職員会を開いた。先づ塘幹事より『今日緊急にお集り願つたのは、明日から学校が始まるその前に是非御報告せねばならぬ問題が起つたため、御多忙中にも拘らず御寄り戴いたわけであります。その理由は現校長麻生先生が本校創立以来この学校の衝に当られ大正八年、成瀬校長の後を承けて校長に就任以来今日迄十三年間、献身的にその任に当つて来られたのでありますがかねがね満三十年紀を期して辞したいと希望せられてゐました。併し昨年の混雑もあつた際なので、角立つ進退をされる事は誤解を招くからと御考へになり、本年は恰かも学校創立満三十年になるので此の際にと、先頃評議員に対して辞意を洩らされたのであります。
 評議員に於ては事重大なので容易に相談が捗らず、漸く昨日渋沢子爵邸に評議員会を開いて決定したので、その御報告を願ふために本日皆様の御寄りを願つたわけであります。その御報告は評議員の一人たる森村男爵が代表して只今報告されますから暫く御静聴を願ひます』との挨拶あり、別項の如く森村男よりの報告あつてのち、塘幹事は重ねて『今日の報告が如何にも突然で、この間少しも知らなかつたのかとの御疑問があるかも知れぬと思ふが、校長が辞意を表明されてからは約二ケ月になる由であるが、私達はずつと後から聴き、各部長にもまだ直接には話されてゐないやうな次第であつた。校長が何故内輪にも云ふ事を躊躇されたかと云ふと、決して皆さんを他人扱ひにしたわけではなく、多勢に御話しすれば自ら世間にも聞こへることになり、或は自身の心事を誤解され、或は自身以外の人に迷惑を掛けてはと慎重に考へられたのであつたと思ひます。故に一昨日東朝の夕刊に出たので、校長夫人もその時初めて知られたやうな次第であります、若しかゝる点で御不満の点があつたら不悪御諒解を乞ふ』と附加られた。
 - 第44巻 p.721 -ページ画像 
 なほ教授側からは永井博士の発言に依り友枝・大島・河野の諸氏から麻生校長の辞任は遺憾に堪へぬ旨を表明し、『教授会も評議員会の騏尾に附して先生に対する感謝の意を表したい』旨の希望あり、玆に於て友枝・大島両教授及び塘幹事とを委員に推薦し、右三氏が中心となり更に適宜実行委員を挙げてその実行を期する事となつた。


竜門雑誌 第五一一号・第一―九頁 昭和六年四月 女子教育に就て 青淵先生(DK440197k-0009)
第44巻 p.721-725 ページ画像

竜門雑誌 第五一一号・第一―九頁 昭和六年四月
    女子教育に就て           青淵先生
 私は此度一時的ながら、日本女子大学校の校長に就任した関係から女子教育に対する感想を求められたに就ては、何等の考へがないとは申せず、また過去に於ても女子教育には多少とも関係して参つて居りますから、仮令今日の女子教育に対する徹底した意見は持たないとしても、何とか申さねばなりませぬので、聊か私の経験したことを御話して見たいと思ひます。
 その最初は明治政府の基礎の漸く固つた明治十七・八年頃のことで日本の将来の方針をどう云ふ風に定めるか、従つて日本を世界的な標準に引上げるため、日本人を如何に導くべきかを切実に考慮せねばならなかつた時のことであります。当時政治界の中心人物であつた伊藤(博文)公が、教育がその根本であると力説し、女子に対する教育を盛んにせねばならぬと主張した。私達も学問的ではなく、たゞ漠然と成程と考へ、伊藤公の考案による女子に対する教育施設の関係者となつたのであります。
 先是、私は少青年時代、即ち旧幕時代に政治家として起ち、国を治め人を導く地位に上り、大いに働かうと云うやうな生意気な考へを持つたことがあります。これは私の漢学の師匠であつた尾高藍香の感化によるものであつて、立派な人物が政府に居なければ国家は進まぬ、今の有様は何事であるか、吾々も手を束ねて傍観すべきでないと考へたのであります。謂はゞ青年の客気で、空想とも云ふべきでありますが、其時は心から左様に思ひました。実際当時は官尊民卑の弊が甚だしく、殆ど御無理御尤であつたのに、その尊ばれる官に在る人々に、大体に於て碌なものがなく、徒らに旧慣に拘泥して、進歩的の考へがなく、事毎に我儘を通すことのみに汲々として、人たるの本分を忘れて居る有様であつた、その上外国殊に欧米との関係が漸く重大性を帯びて来た有様で、国際的に見て甚しい危機で、為すべきことが多かつたに拘らず、彼等幕府の当路者は、何等見るべき識見がなく思慮がなかつたので、殆ど為す所を知らぬ有様でありましたから、斯様な定見のない外交をやつて居るやうでは困ると真に憂慮しました。内治外交とも斯ることを平気で行つて居る幕府の政治は維持する理由がない、よろしく速かに倒壊せしむべきだとしたのでありました。即ちそうした感触は時勢を見る眼のある人々には必ず起ることであつたのに、私達の指導者藍香がその考へであつたから、別にその煽てに乗つた訳ではなく、また私等に特別好い思案があつたと云ふのではないけれども幕府の有様が斯くの如くであつては、よしや其日其日を弥縫し得ても結局は破綻するに違ひない。左様知りながらそのまゝにして置けるも
 - 第44巻 p.722 -ページ画像 
のではない、勢ひ単にこれを傍観するのは男子として堪へる所でないから、此際我々有為の青年は奮起せねばならないと思ひました。殊に温厚篤実な藍香先生さへ起つと云ふに於ては、向ふ行きの強い自分達として黙つて居ることは出来ないで、じつとして百姓をすることが出来ず、遂に政治家として身を立てやうとし、度々御話したやうに家を飛び出す結果となつたのであります。斯様な訳で、私は最初から正式の教育を受けたのでなく、又此頃の様に教育も進んで居なかつたので此方面のことには余り関心を持たず、ましてや婦人の教育に就ては殆んど考へ及ばなかつたのであります。実は後になれば誰でもいろいろの事柄に関して理窟をつけ、あゝであつた斯うであつた申すのが通例であるが、私はそれを好まないので、あからさまに言ふが、当時は教育に対して充分な思慮を持たなかつたのであります。
 明治政府の先達たる木戸(孝允)公とか、大久保(利通)公とかの如き人々は、相当教育に対して心配したでありませうが、其辺の事情はよく知りません。伊藤(博文)公は懇意の間柄であつたため、よく聞きましたので稍々知つて居りますが、新らしい教育には、政治家として内外の諸事情からかなり配慮したのであります。
 抑も我国に於ける女子に対する正式の教育の起りは、伊藤公が外国人との交際上から思ひ付いたのでありました。政治新政府の人達は、政権をとる迄は尊王攘夷で騒いだけれども、いよいよ政府を組織すると、到底外国を排し、外国との交りを絶つことは出来ぬと悟り、然らば如何にして外国と親み、如何にして交誼を進めて行くかを考へねばならぬことになりました。そしてそれにはどうしても日本人に西洋人を知らしめ、西洋の慣習を理解せしめる必要があると云ふことになり自然出来るだけ国民をそれに適応するやうに、教育せねばならぬ、と考へるに到つたのであります。然るに従来の教育は、君に忠に、父母に孝に、兄弟に友に、朋友相信じ、夫婦相和す、と云ふが如き根元の精神方面は大切で勿論尊重するが、此等は古来のまゝのもので、其外に新らしい具体的な思案は一向なかつたのであります。然し明治十七八年の交、新に内閣の制度が出来た頃と思ひますが、伊藤公が外国との交際と云ふ点から考へ、上流の婦人か今少し外国を理解し、外国人を知る必要があると云ふので、頻りに心配し、今までの如き日本流の礼儀作法のみでは役に立たぬ、欧米の例に倣ひ社交に慣れねば外人と交れぬから其方面の教育をせねばならぬ。それもたゞ官途に在る人々の夫人や令嬢のみならず、民間の婦人も其積りで努力せねばならないと主張しました。或る時私に対し「渋沢君お互に若い時は攘夷論で騒いで来たものだが、其様なことではいかぬと云ふことを悟り種々心配して来た、そして今日の事情を見ると、外国と親交を保たねばならぬと云ふことを沁々感ずる、蓋し御同感であらうと思ふ。そこで相対の交際をするには、従来の如き日本流一天張ではどうもならぬから、礼儀作法の一部分はどうしても西洋風にするやうにせねばならぬ、恰度政治上の仕組を変更したと同様、百般の事柄を改良し、日進月歩大勢に適応せしめる意味からも、大に面目を更めねばならぬ、先づ婦人のことに付て見れば、外人と顔を合せて交際をなし得ることにせねばな
 - 第44巻 p.723 -ページ画像 
らない、それには消極的にばかりつとめ、家庭に閉ぢ籠る風を捨て、男女も打ち混り、極めて開放的に西洋式に交はるやうに考案する要がある、之は根本的の変化で中々困難なことだから、皆が大に努力せねばならぬ、故に単に役人の家内や娘がやるのみでは効果が薄いから、民間の人達も同じく、其方面に目醒め、西洋流の社交に慣れる様につとめるのでなければならぬ、それまでにするのは容易でないから、心ある人々で余程奮発せねばならない。就ては先づ懇意な向で稽古を始め、漸を追ふて一般に及ぼす外はないと思つて居る、何分言葉や風俗も相違する故、一朝一夕のことではないが、お互やお互の家庭の人々は其原動力になる位の意気組で、大にやることにしやうではないか、君は外国の事情に通じ、ダンスの一つはやつた方であるから、是非片棒かついで貰ひたいものだ」と云ふので、先づ家庭の婦人として、外国人の訪問を受けた時の名刺の受け方、玄関での応対、訪問日とか訪問時間の習慣、人に依る待遇の仕方、例へば主人の留守に来訪者があつた場合、応接室へ通して茶を出すとか出さぬとか、その身分に依る礼儀など、所謂社交に就ての種々の催などに関し、特に強ひての評議ではなかつたと思ふが、相談がありました。中にも夜会など催された時に、舞踏のお付合も出来る程度に進めて置かなければならぬからとて、歌(穂積夫人)や琴(阪谷夫人)にもやらせてくれとのことであつたのであります。実際此の事は「伊藤が馬鹿なことを考へる」と一概に云ふことは出来なかつたので、自ら上流の人々はそれに共鳴すると云ふ風でありました。然し嫁して家庭をつくつた人達よりも、娘の時からその稽古をして、相当の身柄の家の者なら一通り西洋式の応対も出来るやうにし、夜会へ出たなら、踊らないまでも、その心得があると云ふ位のことは必要である、それには此等を目的として、女子の教育をする学校をつくる必要があると云ふことになり、そこで一つの学校が出来るやうになりました。これが即ち東京女学館であります。何分それまでは女子の教育と云へば、貝原益軒の「女大学」一天張で頗る家庭的であり、消極的であつたのを、非常な進歩的な考案を加へて、所謂虎の門の女学館が出来たのでありまして、単に教育と云ふのみでなく、特別の主張を以て設立せられたものであります。今日では渋谷へ移つて、虎の門時代とは面目を改めましたが、相当にやつて居り、今では私がその館長と云ふことになつて居ります。
 女子教育に関する抱負などを彼是申しましても、要するに後からつけた理窟となり、必要のないことであらうと思ひますから、それは言はぬことに致しますが、その間には自然の進みと教育とが一致せず、矛盾撞著が生じたり齟齬を来したりしたことなどもありました。兎に角初めはカークスと云ふ婦人が指導者となり、日常の作法や英語を教授して居ましたが、次第に外国人の教師も増加し、段々と都合よく成立つた訳であります。斯様な関係から最初は伊藤公が世話を焼いて居ましたが、あの人は家鴨のやうに卵を生みつぱなしにする風がありますので、後は私達で引受けねばならぬ始末になつたのであります。然し必要なものは自然に培養せられるもので、その後相当の成績を挙げて居ります。
 - 第44巻 p.724 -ページ画像 
 目白の日本女子大学校の方は、それよりずつと後、明治廿九年から卅年頃に成瀬仁蔵君の奔走で成立つたものであります。成瀬君は大阪で女学校を経営して居たが、欧米を視察して来てから、日本の将来には女子の高等教育が必要であると主張し、大和の土倉とか、大阪の広岡へ縁付いた三井のお嬢さんとかの賛成を得、また東京へ出て大隈侯や西園寺公の縁故で有力者を勧誘し、その創立に付て熱心に運動しました。恰度その時分、前に云ふた東京女学館は外山正一君が主として面倒を見て呉れて居ましたが、思ふやうに入学者がなく、余程困つて居りました、文部省などでは「やり方が悪いからである、自業自得だから仕方がない」と批評したが、悪口は兎に角入学者が少いので維持の方法も立たず、どうしたらよいかと憂慮して居ました。すると成瀬君が女子大学校設立の運動から森村翁を説いて賛成を得ると同時に、私にも世話人の一人になれと勧め、森村翁も私が力を入れるなら仲間にならうと云ふから是非賛成して呉れと説かれました。其時私は都合によつては、成瀬君と外山君とを会見させ、女学館を中心に女子の高等教育機関を創設することになれば、成瀬君の主張も徹り、女学館も都合よくなるから、一つの方法であらうと思ひ、両者を会見せしめた処が、二人の意見が根本から違つて居る為め、直ぐ議論を始め、同じく女子教育の興隆を希望しながら、実際に付ては左と右と云ふ様に別れて、更に一致する処がなかつたのであります。
 其処で私の此の思案は到底実現不可能と諦め、女学館とは別個に創立することになり、森村を初め大阪の住友・藤田などが出資し私も参加し、成瀬君が主となつて組織して経営し、現在まで押し進めて参りました。そして女子に高等教育を施すと云ふのでやつて居り、その経過は当初の理想通りには行かない模様であるけれども、世の進みと共に、その必要が認められ、重要視せられて、先づ漸次内容充実に向つて進みつゝあるのでありまして、今日の日本とすればあれ位の女子の学校があつてよいと思はれます。
 私は森村翁と共にその最初から世話人の方の一人でありましたが、成瀬校長が逝き、麻生君が其後を襲ひ、相当の年月を努力して参り、今回退任したに就て適当な校長が就任するまで、それも極めて短い期間と云ふ条件で、理事を代表して名前ばかりの臨時校長、謂はゞ名誉校長となつたのであります。前にも申した様に自分が正式の教育を受けたのでもなく、教育に付て見識がある訳でもなく、真に柄にないのでありますが、種々の事情で私が強ひて辞退することが出来ない為め受けた迄で、特に女子に高等教育を授ける女子大学の校長たることは余りに相応しくないと思つて居ります。殊に老齢の為め学校に出勤して親しく事務を見ることは到底出来ず、会合にしても殆ど出ることが出来ませんので一層恐縮して居るのです。
 而して婦人に対する教育は、現在の程度が適当であるか、高過ぎるか、又は低いか、と聞かれても私は正直な処判らぬとお答へするより外に言葉がない、また何処が悪い、此処を斯う直す方がよいと云ふやうな考案も立たぬのでありまして、大体に今の学生には質実の気風が少いからそれを養成するやうにしたい位のことしか申せませぬ。実際
 - 第44巻 p.725 -ページ画像 
左様な点に関しては、学問経験ある人の意見を聞かねばならぬと思つて居るので、私としては或る場合には物知り顔に、女子教育に対する説などを述べるかも判らぬが、内々の竜門社への話としては、正直に申して、自分からは何とも判定出来ないのであります。
 外国では男女同様の教育をなして居るが、日本では前々から別である、果して外国の如く男女を同様に教育して差支ないものか、日本の行り方が適当であるか、性格はどうか、智能はどうか、生理上の関係はどうか、一人前になつてからの仕事に従事する時はどうであらうか此等の点を考へると、日本は依然特殊的に従来の習慣のまゝで進まねばならぬか、それ等の判断はいよいよ難しいのであります。私は男女の能力の問題と教育との関係に付て、先年渡米した折フイラデルフイヤ、ニュー・ヨーク、ボストン等の学校で種々の人々に意見を聞きましたが、米国では「男女差別する必要はない、教育を別々にする必要はない」と云ふことでありました。然らば日本でも差別しないで共学にすればよいかと云ふことを考へますと、杞憂かも知れませんが風紀問題に付て懸念があるので、俄に賛成出来ないかと思ひます。また近時職業に従事する婦人が増して来たので、婦人の職業教育なども問題でありませうが、其処になると私は何等智識もなく、一層何とも申し兼ねるので、明瞭な説を為すことは出来ないのであります。
 要するに私は東京女学館の館長であり、また今回日本女子大学校の校長に就任したが、それは共に単なる名義だけの名誉校長、実際的の教育家でもなければ、学問的に教育に自信がある訳でもないから、仕事は夫々の責任者、女子大学では井上秀子氏其他の教育者や、三井高修・森村市左衛門・江口定条等の理事の諸君、女学館では西河竜治氏始め教育に関する専門家、経験者並に伊藤博邦公・桜井錠二氏・長崎省吾氏其他の理事諸君に担当して貰ふ外はないと思ひます。たゞ女子教育は昔通りのものでもよろしくないが、さりとて西洋風のまゝでも困ると云ふことだけは申し得ると思ひます。併し兎に角学説からまたは経験に基く説を、その道の権威者に聴問したいと思つて居ります。
                   (四月十五日談話)


婦人界三十五年 福島四郎著 第六一九―六二〇頁 昭和一〇年五月刊(DK440197k-0010)
第44巻 p.725-726 ページ画像

婦人界三十五年 福島四郎著 第六一九―六二〇頁 昭和一〇年五月刊
 ○第五編 四、昭和時代
    麻生女大校長の辞職
 麻生日本女子大学校長の辞職は、教育界に於ける晴天の霹靂であつた。がそれは外部だけの感じで、本人の麻生氏は予定の行動を予定の時期に実現したに過ぎない。
 昨年十月、同校学制の改正が主因となつて、大学本科学生の盟休となり、美しい伝統に傷つけたことは、当時の本紙に詳記した所であるが、結局女子綜合大学の実現を理想としてゐた旧制維持説が敗れて、専門科を本体とする改正説が勝利を占むるに及び、旧制説の支持者だつた麻生校長は、主義の上からも、その責任と面目の上からも、その際辞職するのが当然であつた。が当時もしそれを決行すれば、学校は収拾すべからざる状勢に陥る事が明瞭だつたので、愛校の精神から、
 - 第44巻 p.726 -ページ画像 
氏は一身の不面目を忍び、主義信念をも犠牲にして、評議員会の決議に服従し、時の経過を待つたのである。そして学年改まり、新制実施せられ、新入学生も決定した今日、氏は予定通り辞表を提出したのである。同校創立の際より、故成瀬氏の女房役をつとめ、成瀬氏歿後は校長の任を受け継ぎ、其の遺志の大成に心血を濺いで開校三十年の記念式を目前に控ふる今日、遂に辞表を提出するに至つた氏の心事を察する時、吾等は同情の涙を禁じ能はぬ。
 旧制維持是か、新制採用非か、そは門外漢たる吾等の容喙すべき事でなく、又新制がすでに採用されてゐる今日、いつまでも死児の齢を数ふる如きは無用である。学校当事者は此の際須らく麻生校長を犠性に供した意義を空しくせず、どこまでも新制による新理想を徹底せしむるために猛進しなければならぬ。それが麻生氏の辞職に伴ふ当然の帰結であり、今後の同校が執るべき唯一の途である。然るに何事ぞ、麻生氏の後任校長に九十一歳の渋沢老子爵を煩はすとは。吾等は唖然としてあいた口がふさがらない。子爵の迷惑さぞかしと察せられる。
 麻生氏をして辞職を余儀なくせしめたものは新制採用であるから、その後任校長は必ず新制支持者中の有力者、若しくは其の代表者でなければならぬ。これ当然の条理であり順序である。吾等は何故に評議員会が、井上秀子女史を堂々と新校長に推さなんだかを怪しむ。若し井上女史の校長が校の内外を承服せしむること困難と考へ、而して他に代るべき人物が無いと認めたのならば、麻生氏を辞職しなければならないやうな窮地に追ひ込んだのが根本的の誤りだつたのである。いはゆる学校屋なるものが、社会的信用を維持する手段として、名義のみの校長を据ゑることは珍しくもない例であるが、女子高等教育の事業を行ふのが目的で設立されてゐる財団が、創立以来の功労者にして且何等過失のあつたわけでもない校長に、辞職を余儀なくせしめ、後任を得るに困んで、周囲の非難封じに国家の元老たる九十翁を無理じひに引き出すに至つては、その無責任に驚く外ない。或は渋沢名誉校長の下に、井上女史をして実際の校長事務を処理せしめやうとの心算かも知れないが、学校は事務の役所とちがい、校長の人格を中心として教育事業を行ふ場所であるから、代行などは望まれない。
 吾等は、浜口首相の後任難を国家のために憂ふると同時に、目白女大の前途の益々多難なるべきを思ふて、斯界のため憂慮に堪へない。
                    (昭和六・四・一二)

集会日時通知表 昭和六年(DK440197k-0011)
第44巻 p.726 ページ画像

集会日時通知表 昭和六年         (渋沢子爵家所蔵)
六月廿二日 月 午后三時 日本女子大学校旧新校長送迎会(同校)


竜門雑誌 第五一四号・第八五頁 昭和六年七月 青淵先生動静大要(DK440197k-0012)
第44巻 p.726 ページ画像

竜門雑誌 第五一四号・第八五頁 昭和六年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
廿二日 日本女子大学校新旧校長迎送会(同校)


家庭週報 第一〇八四号 昭和六年六月二四日 新旧校長送迎会(DK440197k-0013)
第44巻 p.726-727 ページ画像

家庭週報 第一〇八四号 昭和六年六月二四日
 - 第44巻 p.727 -ページ画像 
新旧校長送迎会 六月二十二日午後三時から講堂に於て麻生前校長並に渋沢校長の送迎会開催、先づ奏楽、次で送迎の辞――学生総代、同教職員総代、麻生前校長並に渋沢校長よりの御挨拶あり、金剛石を合唱して五時近く一先づ閉会、別室にて両校長を中心に教職員一同の茶菓の会があつた。(詳細は次号に掲載)


家庭週報 第一〇八五号 昭和六年七月三日 渋沢・麻生両校長送迎会 六月二十二日日本女子大学校に於ける(DK440197k-0014)
第44巻 p.727-728 ページ画像

家庭週報 第一〇八五号 昭和六年七月三日
    渋沢・麻生両校長送迎会
      六月二十二日日本女子大学校に於ける
 既報(前号校内記事)の通り麻生前校長並に渋沢校長の送迎会は六月廿二日午後三時から講堂に開かれたので、その次第大要を玆に録して置く。
      ×
 定刻、学監井上秀子氏の司会に依つて開会、奏楽。
 先づ学生総代は起つて両校長送迎の辞を述べた
「私達が麻生校長先生の御退きになる事を始めて伺つたのは、春、始業式の日でございました。私共は夢かと疑ひましたが、それは余りにも瞭りした御発表でございました。全校生は深い悲しみにありながらいつか先生は又御かへり下さるであらうとの希望を持ち続けてをりましたが、やがて御事情はどうにもならぬ状態にあり、且つ先生の御信仰の動かし難い事を知り、同時に先生の私共に対する非常な御信頼を伺つた時、私共は最早女々しい望みを捨てねばなりませんでした、云云」と、先生をこの講堂に仰ぐ事は出来なくても心霊の交通の自由な事を述べ、更に先生に代る最善の導き手として渋沢子爵に御立ち戴く事の幸福を感謝して、今後の学生の自覚がより以上に重要な役目を果さねばならぬ事を述べた。
 次で教職員を代表して島田教授は、麻生校長が本校創立当初から成瀬校長と共に寝食を忘れてその職に尽され、且つ成瀬先生永逝後は日本女子大学校校長として、わが女子高等教育のために多大の功績を挙げられた事を述べ、今去られる事は多年の情誼として惜別の情に堪へぬ、が今後とも学校を外部から後援されるは勿論、我々の足りぬ処を教へられたい旨を希望、また新校長に対しては学生代表と同感の旨を述べ、本校創立以来本校の育ての親としての子爵が、御老体を以て蹶起されるその御厚志に対しては感謝の言葉を知らぬものである事を述べられた。
 次に麻生校長は「先般私が日本女子大学校校長たるの職を辞した関係上、まことに申訳ない事でありますが渋沢老子爵閣下を煩して校長の職に御立ち願ふ事となりました。如何に考へても老子爵を御累らはせしやうなどとは未だ曾て考へなかつた事で、この事のみでも私の考を申上げる事も出来ない心情であります。子爵は明治廿九年から今日迄卅四・五年間、この学校のために尽された、其上今回更に子爵を御煩はせする事は堪へられぬ処でありますが、子爵は快く御引受け下さつた事はこの上もない感謝であります」との子爵に対する感謝を冒頭に、成瀬校長永逝後満十三年間校長として在職中の内外に対する感謝
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を述べられた、現在の私の心情は一昨年子爵に御書き戴いた「事々に己に反さうすれば世上恨むべきの人無し」が其儘私の心であり、又斯くある為に今後も修養して生活したいと願つてゐると、以下、学生及び桜楓会員が今後心血を注いで創立者の理想を深く理解尊信する処にのみ学校の精神は存続する。特に桜楓会員は今後我が校の教育並びに教授、経営の中心勢力となつて貰ひたい。之は成瀬校長が最後の告別演説に「学校の後継者は桜楓会でなくてはならぬ」旨を明かにしてをるから、私自身としては新しい独自の意見はないのであつて、私共相互の間にはこの問題に対する深い理解があると信じてゐる。この他の問題に就ても自分は成瀬校長と宇宙人生への信念、学校教育に関する信念の根本主義主張に於て最後迄何らの差違を持たなかつた事は、告別講演に明言された通りである。いま、私は形態上この学校を去るが成瀬校長の生命は矢張りこの学校に残る事を信じ、自分も校長と共にこの学校の発展を祈つて暮したい。――と言葉に余る切々の情を述べられたのであつた。
 終りに渋沢校長は『斯かる位置に於て皆さんに御挨拶申上げる事は全く思ひがけぬ事で、我身で我身が解らないと申す外はありません。自分としては成瀬校長や麻生校長の驥尾に附随して御世話を申して来たばかりで、浅学な自分、殊に女子教育の経験もなく、たゞ単にその大切な事を感ずる一人として、故森村市左衛門さんなどに指導されて力を致して来たに過ぎぬ私が、校長の地位を以て此処に立つ事はまことに不似合ひな事で、我ながら理解に苦しむ処であります。これは何かの廻り合せと思ひ、老人が御灸をすえられたつもりで暫くの間我慢せねばならぬと思ひます。この虚名を一時でも私が継ぐ事は、結局後の最善を期するため、評議員及びこの学校を愛する人々が斯くされた事と思ふ。この場合、論語にもある通り「静かに考へ深く慮る」その心で一致協力し、一日も早く「なる程斯うであつたか」と貴女方も世間もお肯きになるやうに事を運びたいと願つてをります。その意味合ひからまことに不似合ひな就任ではありますが、前途に希望を以てする私の努力をお許し戴きたい。これを以て答辞と致します』と御謙譲の徳溢るゝ許りの御挨拶があつた。
 終りに一同起立、金剛石を合唱して五時近く閉会した。
   ○写真「就任の辞を述ぶる渋沢子爵」略ス。