デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.523-538(DK460132k) ページ画像

大正3年6月17日(1914年)

是日、上野精養軒ニ当協会例会開カレ、本多日生・吉田静致、宗教及ビ教育ニ関シテ講演ス。栄一出席ス。


■資料

帰一協会会報 第四・第一六七―一六八頁大正三年七月 六月例会(DK460132k-0001)
第46巻 p.523 ページ画像

帰一協会会報 第四・第一六七―一六八頁大正三年七月
    六月例会
 六月十七日開会。当日の研究問題及び講演者左の如し。
  学校教育に於て宗教的信念を養ふの可否如何、若し可なりとせば其の方法如何。
                  本多日生氏・吉田静致氏
 右に関して浮田氏・添田氏・筧氏・本多氏・服部氏・江原氏等交々所感及び意見を陳述せられたり。問題極めて重大なるが故に、談論大に起りて容易に尽す可くもあらず。次回例会に於て更に此の問題を研究する事となす。出席者三十二名。


帰一協会会報 第六号・第八九―一〇一頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 本多日生(DK460132k-0002)
第46巻 p.523-528 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第八九―一〇一頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                      本多日生
 主題
  一、学校教育に於て宗教的信念を養ふの可否
  二、若し可なりとせば其方法如何
 教育と宗教との関係に就て起る異論の大部分は、宗教の形体に関する方面に属し、純粋なる宗教の本質と教育との関係に於ては、殆んど根拠ある異論を見ず。而して本会に提供せられたる問題は「学校教育に於て宗教的信念を養ふの可否」と明記し、其問題の範囲を限定せられあるを以て、この問題の帰着は極めて明白にして、之を可とするに対して殆んど異議を挟む余地なかるべしと思ふ。
 又第二問は実行方法に属すれば、細密なる調査を要するものあるも第一問の帰着にして明快なる決定を得ば、之に基いて実行の方法は自ら生じ来るべく、次第に洗錬取捨を加へ完成を期して可なり、最初より、其完きを望むを要せず。
 又歴史的宗教の形体を学校教育に混入すべからざるの理由は、今日の処にありては至当と言はざるを得ず。然れども是れ必ずしも絶対の
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良法と謂ふべからず。将来文明の進歩に伴ふて両者の間に完全なる調和の行はれ、今日に数等勝る教育の効果を奏するの日なしと思ふべからず。但今日の文明の程度に於て、宗教の形体を学校教育に混入せざるを可とするに過ぎず。是れ決して文明の究竟理想にあらず。
 我国現在の宗教宗派に於ては、啻に教育に混入するの不可なるのみならず、彼等自家に於て大に刷新改善を要すべき点の多々存するを見る、而しての刷新改善を実行する事も、亦国家社会の緊要事項なりと考ふるを以て、終りに少しくこの点に論及せんと欲す。
 第一問に対して所見を述ぶるに当り、之を四段に分つ、第一に断定を下し、第二に理由を述べ、第三に事実を挙げ、第四に反対説を弁ず
 一、断定 学校教育に於ては、細心の注意を加へて宗教心の萌芽を愛護し、家庭及社会に於て与へたる宗教的感化を毀損すべからざるは勿論、尚進んで適当なる方法の下に、健全なる宗教心の涵養を図るを可とす。
 二、理由 この問題を解決するに当りては、先づ区々たる感情と、因習見解とを捨て、正明に真理の命ずる所に従はざるべからず。何となれば其影響する所極めて重且大なればなり。凡そ健全なる文明の建設、国家社会の健全なる発達、家庭の平和と進歩、個人の向上と完成等に就て、其何れにも根本的の大関係を有する問題なればなり。
 何をか真理の命ずる所と云ふ。曰く唯物的宇宙観は自然科学の上に於ても、純正哲学の上に於ても、既に業に見事に粉砕せられて、宇宙は活物なる事、大生命の実在せる事を立証し得たり。故に進歩せる科学・哲学の知識に於ては、宗教心を認むるものと謂ふべきなり。
 又之を精神科学に見るも、宗教心は人間の性情に固有せるは勿論、尤も霊妙なる機能なる事を認めざるを得ざるに至れり。
 又之を倫理の根柢に入つて求むれば、宇宙法に接続し、少なくとも秩序規律の厳存せるを認めて、其処に権威の根拠を築き、又生々化育の力息むなきを認めて、其処に慈愛の根拠を発見するにあらざれば、確乎たる倫理の標準を立つる能はず。
 又之を世界の人道的道徳に就て見れば、慈悲博愛の精神に待たざるを得ず。社会的道徳に就て見れば、共同扶助の精神を要し、国家的道徳に就て見れば、理想と正義との根本を明にするを要し、而してこれ等倫理上の要件は、悉く宗教心の発達に負ふべき点少なからず。
 又之を家族主義の道徳に就て見るも、亦個人の人格完成と、及び崇高なる内部生活とに見るも、宗教心の関係の密接なるのみならず、其中軸をなせるを見ん。
 個人の人格完成に就ては、宗教心の涵養に待つあるは勿論、人格の根本には生命の問題横はれり。又其生命は霊光を有し且つ久遠不滅のものとの信念を要し、又この心霊は超人的の神仏に接触する信仰に於て道義の源泉は開拓せられ、幾多の徳性は徐々として湧き出づるに至る。又我家族主義には、祖先の霊の存在して其の家を護るの観念を中軸とす、こゝにも宗教心の関聯あり。吉田松陰先生は祖先の心霊を以て家の生命となす事を唱道せられたり。
 我理想的国家は神によりて経営せられ、今も現に護国の神明を奉じ
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天佑我に在りとの信念を有す。而して其抱負は天業を地上に建設し、人類全般の幸福を保護せんとするにあり、この目的を達する為めに、内に億兆一心の結合を固くするものにして、之を皇祖皇宗の御遺訓に見、之を先帝陛下の御勅諭及び御製に見ば、照々として実に明白なるものあり。
 神武天皇の大詔に曰く
  天業を恢弘し天下を光宅するに足る、蓋し六合の中心か。
 先帝陛下国威宣布の御宸翰に曰く
  列祖の御偉業を継述し、一身の艱難辛苦を問はず、親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂には万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置かんと欲す。
 又陸海軍人への御勅諭に曰く
  我国の蒼生は永く太平の福を受け、我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし。
 又御製には
  我心およはぬ国のはてまても
        夜昼神は護りますらむ
  万民すくはん道も近きより
        をして遠きに行くよりもかな
  四方の海みなはらからと云ふなるに
        など波風のたちさわくらむ
  我国に仇なすあだはくだくとも
        いつくしむべきことな忘れそ
 これ等の聖旨を奉戴するに、我国家の経営を行つて人類全般の幸福を保護せんとする大理想なるにあらせらるゝ事明白なり。故に我国家主義は世界的理想を包容して、之を実現する上に秩序を立て、其の実現の威力を尊重するものにして、大なる理想的の国家たること寔に明白なり。
 又倫理の根柢をなせる宇宙法と、宗教の根拠とは正しく一元に帰することも睹易き所にして、宗教と道徳とは、徹底したる見解に於ては全く同源一根のものたるなり。
 前来述ぶる所に依り、自然科学も純正哲学も精神科学も共に、宗教の根拠を認め、決して之を否定するものにあらず。而して倫理の方面に於ては、宇宙法より起つて人道の上にも、国家・社会・家族・個人の上にも各方面に亘りて、悉く宗教心と関聯し、宗教心の健全なる発達が決して知識と衝突するものにあらざるは勿論、各種の道徳を扶助するものたることも亦争ふべからざる所なり。
 之を学校教育の目的に就て考ふるに、若し学校の智育に於て宗教心を無視することあらば、是れ全く進歩せる科学・哲学の知識を度外したる行動にして、大なる謬見の伏在せるを知るべく、又徳育に於て、道徳と宗教心との関係を閑却してその目的の挙がらざるを憂ふるは、倫理の見解と人格の感化とに於て、不徹底の点存するを見るべし。されば宗教心の萌芽は、学校教育に於て之を愛護すべきは勿論、家庭及び社会に於て与へたる宗教的感化を毀損するが如き事を戒め、更に進
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んで適当なる方法の下に宗教心の涵養に努むべし。然らざれば、学校教育の目的即ち智能を啓発し、徳器を成就するに於て、大なる欠陥を生ずべきなり。
 若し夫れ宗教の真正なる使命と、崇高なる天職とを理解せる達人ならんか、必ずや多大なる熱誠を傾けて之が遂行に助力し、因つて以て人生国家に於ける諸種の欠陥を補正するならん。教育と宗教とが各自其職分を守りて領域を明かにし、而かも相互に適当なる疏通を得て、聯絡的に活動するに於ては、国家人生の上に多大なる効果を実現し得るは明白にして、経綸の大本実にこゝに存すと謂ふべし。
 三、事実 現在我国の学校教育に於ける実状を見るに、啻に宗教心の萌芽を愛護せざるのみならず、却つて、之を蹂躙するの跡あり、蹂躙とは過激の語なるも、予はこの事実の存するを悲しむ、この事実の証明は枚挙に勝へざるものあり。明治年代に於ける国民教育は、確かに唯物主義を根拠となせり。其源頭は遠く徳川時代の儒者が、多くは唯物的傾向に走り、其流毒を受けたる上に、泰西の知識を輸入するに当り、唯物主義の科学に重きを置き、之を国民教育の根拠に据へたるものにして、今日尚この謬見より醒め得ざるものと見るは、蓋し正当なる観察と謂ふべし。故に児童の天性より流露する宗教心の萌芽、即ち道徳の活力たるべき至高至大の性能は、之を蹂躙して顧みざるに至れり。若し然らずと云ふものあらば、恐らく詭弁にあらざれば是れ遁辞ならん。
 又我国の国家主義は、理想的にして其目的も亦濶大なること前に述ぶるが如し。天業を恢弘し天下を光宅する為めに、先づ以て内に結合を固くするに外ならず。されば我国家主義は、啻に人道博愛の精神を包容するに止まらず、之を実現する為めに、実際の秩序を尊重し、又之を実現する実力を養ひ、堂々として進展しつゝあるものにして、或る空想なる人道博愛を偏重するとは、只秩序の差、実行力の差、方法の差あるのみ、理想の内容に於て貧弱なるにはあらず。然るに我国民教育に於ける国家主義は、其内容頗る固陋貧弱に失するものゝ如し、是れ尤も反省を要する点なりとす。今の教育に於ては、対立的帝国主義的の国家思想を与へて、高遠なる理想目的を逸す、故に左の如き定義を下す人あるに至る「教育は国家を基とし宗教は人類を基とす」と
これ教育と宗教の外面的見解にして、其処に不徹底の失あるや明かなり。何んとなれば一には理想的国家の意義を逸し、二には空想に近き迂遠なる宗教のみを見て、人道的世界的にして、而かも同時に国家的調節的の宗教あるを知らず、これ等の真正なる国家と、宗教とを逸却するは尤も重大なる偏見にあらずや。
 又学校教育に於て唯物主義を死守して、宗教心を蔑視しつゝ、敬神崇祖の国風を輓回せんとす、これ又一個の矛盾にあらずや。
 この他学校教育と宗教心の関聯に就て、覚醒すべき点あるべきも今は之を言はず。
 四、反対説 宗教の本質を挙げて、悉く迷信と看做して之を排斥する人あり、これ等は唯物的迷想を持続するものにあらざれば、狂暴的に現社会の秩序を破壊せんとする社会主義の徒ならん。苟も進歩せる
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知識を有し、又人文の穏健なる発達を理想する者にして、誰かこの暴論はなすものあらんや。これ等は宗教の反対と言はんよりも、寧ろ知識の敵にして、文明の誤解者なりと謂ふべし。
 又宗教家の人格に欠くる所あるを挙げて、宗教其者をも併せて否定せんとする人あり。これ決して達人のことにあらず。前に述ぶるが如く、宗教の使命の如何に重大なるかを知らば、適当なる刷新を断行するは可なり、宗教家を悪んで、宗教を否定せんとするは、弁別を欠きたる愚論なりとす。
 又宗教は超越的未来的なり、教育は実際的現在的なりと云ひ、以て両者を区別せんとするあり。
 是れ亦頗る皮相の見解なり。健全なる宗教が実際的・現実的の方面に向つて如何に力を注ぎつゝあるかを検せよ、又教育に於ても超越的の理想、永遠の生命を無視する事の不利なるは、前来已に之を説けるが如し。
 又宗教は人を造り、教育は国民を造るとの別を言ふものあり、是れ亦不徹底極まれり。人道的にして同時に国家的なる宗教あり。
 又国家的にして同時に人道を包容し尊重する国家あり、且つ教育は人としても、国民としても、全き人格のものを造らざるべからず、斯かる区分は全然謬見なり。
 又宗教は個人的、教育は社会的なりと云ふあり。個人対社会の関係の密接不可離なるの明白となれる今日、斯かる見解の失当なるは自ら明らかなり。
 又宗教心は人間に固有せる尤も大切なる性能なることを認むるも、之を学校に於て啓発し、涵養するの必要なしと云ひ、又は学校教育を終りて後、宗教家に於て担任して可なりと云ふ者あり。これ共に宗教心理発生の時機を考量せず、又其時機を経過すれば、之を啓発する事の非常に困難にして、啓発し難きを考察せざるの説なり。発生心理学上十二、三歳より十六、七歳位までに宗教心は発動するとは定論にはあらざるか。予の経験に依るも、男女異性の欲望発達しての後、又は家庭の責任を負ふて後は、塵欲に掩はれ、清き道念の萌芽を発生し難きは事実なり。故に十二、三歳より十六、七歳迄の間に、宗教心の萌芽を愛護し適当なる方法の下に之を啓発すべし。学校教育時代と宗教心発生の時機とは全く関聯す、故に学校を終りて後に譲るの説は心理を無視したるものなり。
 家庭と社会とに於ける宗教的教化と学校教育との連鎖は極めて大切なる事なるも、問題外なれば之を言はず。
 第二問の「若し可なりとせば其方法如何」と云ふに就ては、其方法の細目に入るに先ち、第一着に前段述ぶるが如く、教育の根本方針を改善せさるべからず。而して一には徳川時代より来れる固陋なる儒者若しくは神道者の反宗教的なる思想の伝習的誤解を革正し、又二には新輸入の唯物主義の思想を排除し、又三には固陋なる国家主義の迷想を覚醒し、この三者の謬見を捨てゝ、進歩せる科学・哲学を基礎としたる知識を与へ、又前述の如く倫理の基礎を明かにし、以て宗教との反感を一掃すべし。
 - 第46巻 p.528 -ページ画像 
 又教育当事者をして宗教に関する大体の知識を得せしむべし。今の教育家は余まりに宗教に対し無知識なるにはあらざるか。又宗教の本質と形体との別を明かにして健全なる宗教の意義を理解せしめ、時には宗教の信念を有する教育者の効果を挙げ得たる実例をも教ふべし。
 又斯くして児童の宗教心発生の場合に際しては、細心なる注意を加へて之を愛護し、徐ろに健全なる宗教心発達の素地を養成すべし。叨りに生命の問題に於て滅亡論を吐き、神明仏陀に対して不謹慎なる言動をなすべからず。
 又各種倫理の間に調節を理解せしめ、宗教と倫理との間にも密接なる関係あるを知つて、相互に扶助するものたることを分明に会得せしむべし。即ち人格完成と宗教心、家族主義と宗教心、理想的国家と宗教、社会の共同生活と宗教心、倫理の根底と宗教心、これ等の間に密接なる関係ある事を、機を見て適宜に之を教ふべきなり。
 又宗教に伴ふ弊害及び迷信の害毒は、大体を領知せしめ、時に生徒をも教訓するを要す。
此の如き方針にして確立せば、実行細目は自ら生じ来り、次第に経験を積み洗錬を経て、完成に進むべきなり。
○余論 宗教に関して留意すべき二・三を云はゞ
 偏傾せる教化は尤も戒めざるべからず。時代を無視し、道徳を無視し、衛生を無視して、極端なる教化を与ふれば、宗教自家の勢力を張るに便宜ならんも、其影響の恐るべきものあり。故に宗教当事者に於ても、為政者に於ても、こゝに留意して極端偏傾の教化を誡慎せざるべからず。
 又宗教を個人絶対の関係にのみ見て、国家社会の影響如何を顧みざる者あり。これ亦不健全なる宗教なる事を明にすべし。
 又超越平等の一面を力説して、社会国家の秩序を尊重せざる如きものあらば、是れ亦大に誡めざるべからず。
 又宗教を厭世悲観の方面に於て主張し、未来に偏し、現実の向上を軽視する者も、亦大に誡めざるべからず。
 又空想に近き無秩序の博愛主義に流れて、国家の存立を尊重せざる如きものあらば、これ亦不健全の失なりと決定すべし。
 又宗教家の懶惰と、放漫なる布教とは、大に之を警誡し、又覚醒せしめざるべからず。
 これ等の刷新改善は単に宗教自家の為めにあらず、国家の為め、人文の為めに、達人の当に努力すべき所なり。(完)


帰一協会会報 第六号・第一〇二―一二四頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 吉田静致(DK460132k-0003)
第46巻 p.528-538 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第一〇二―一二四頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                      吉田静致
    (主題前同)
 大分時間が後れたので、十分にお話することが出来なからうと思ひます。
 問題は、学校教育に於て宗教的信念を養ふの可否如何、若し可なりとせば其の方法如何。斯ういふのである。この問題については、宗教
 - 第46巻 p.529 -ページ画像 
の本質を什ういふ風に見るかといふことによつて、其の答が違ふかと思ふのである。そこで私は、宗教を什ういふ風に見るかといふことをお話して、其の意味でこの問題に対する私の答を簡単にお話して見たいと思ふ。
 先づ私は斯ういふことを、直接自身の自覚上確実に認めるのである即ち人格には矛盾があるといふことである。有限と無限との矛盾を直接に感じて居る。自分は現実に於ては有限のものである。併し奥底には無限の可能を有つて居る、可能的無限である。現実には部分的欲求によりて支配されて居るけれども、一方には全体を背景とせる要求に基いて活動し得る可能性を有つて居る。又現実的には或限られたる一定の特殊的・個体的生活をなして居るけれども、其の奥底には普遍的なものを有つて居る。其本質に於ては国家社会と同心一体となつて居る。現在に住んで居りながら同時に現在を超絶せる生活をなし、過去を想ひ将来を考ふるのである。其の詳しい説明は時間が無いから省きます。兎に角其所に人格の人格たる所以の特色があると思ふ。人格以外の動物に於ては、有限的・現在的・部分的・特殊的・個体的慾求によりてのみ支配せられて居る。人間とても斯かる慾求に襲はるゝことがあるが、而も普遍無限全体を其の奥底に於て有つて居る為めに、良心の咎めといふ如き現象があるのである。腹が減つて居る時に美味なる食物を取るの快楽たるを知つて居るけれども、食ふべき場合でない而かも他人の所有物たる弁当を取つて食ふといふことは宜しくないと認むるのである。無限普遍全体の声によつて、部分的・有限的・特殊的の活動が拘束されることを感ずるのである。これは確かに人格の特色である。人格は限られたる特殊的・部分的生活に於て、無限普遍全体を実現する力を有つて居るものである。個人的なると同時に天下国家と一体たるものである。有限なる動物的一個体たると同時に絶対と一体であるといふてよいのである。さういふ無限的普遍的なるものが其の奥底にあるといふことが本となつて、他の存在的に見るべからざる神仏其他絶対的なるものを崇拝するといふ心理現象が人間にあるのである。無限的・普遍的・絶対的なるものを各自の奥底に有つて居るさういふ天地と一体たる無限的普遍的なる本質そのものを外に投げ出して、崇拝の対象物を作るに至りしものであると見るべきである。絶対普遍と一体たる所の可能的無限なるものが、我が心の本質であるが故に、それが種々なる機会に外部に投写されて崇拝の対象物となるのだと認めるのである。さういふ風に考へられますからして、所謂多神教なるものは無意義なるものであるといふことになる。要するに無限絶対普遍的なるものが、我々の心の根柢にあつて、それが色々違つた機会に出遭ふと、それが縁となつて色々違つた崇拝物を造るに至るのである。山の荘厳なるに遭ふて山の神を崇拝するに至り、海洋の雄大なるに遭ふて、わだつみの神を崇拝するに至るが如く、色々違つた形式となつて崇拝せられて居るけれども、要するに人間の心の根柢に存在する所の無限絶対普遍的なものが、外部に投写されたので、色々違つた機会に応じて、色々に違つた崇拝物となつて現はれたのである、本質の上からすれば、外部に投写されしものゝ根元たる各自の奥底に
 - 第46巻 p.530 -ページ画像 
ある大生命そのものといふことに於て、一に帰する次第である、本質的に言へば、一にして多ではないのである。之を多神教と名附けるものには反対である。要するに人間は斯かる意味に於て、現実的には有限であり特殊的個人的の生活であるけれども、可能的には絶対無限普遍的なるものである。それが即ち人格に認められる所の矛盾の事実である。それが道徳とか宗教とか広く言へば人間に特有なるものゝ出て来る根本である。それが我々の心の上に認むる所の事実である。良心の咎めといふ如き意識のあるのは之が為めである。己れの内に包蔵されてある所の絶対普遍、最も深き意味に於ける所の良心の命令に対する敬虔の情なるものが、道徳の本質を作つて居るのである。而して同時に宗教の真髄も其処にあると信ずるのである。
 本質の側から言へば、我々は結局一に帰すると信じて居る。本質たる普遍絶対なるものを色々の違つた姿に於て――筧博士の言葉を借りて云へば――表現して居るものは我々各自である。色々違つた境遇事情の下に、違つて現はれて居るけれども、本質から言へば決して別なものではない。随つて其の意味に於て、己れの衷心満足を感ずることは他の総べてのものを真に満足せしむることゝ離れないといふことになるのである。国民としては国家の休戚を己れの休戚となさずには居れぬことになるのである。卑近な譬であるけれども、我々各個人といふものは、言はゞ何本も縦に並べた線のやうに離れ離れのものでなく言はば同一の中心を有つて居る幾多の円のやうなものである。大なる円のものもあらう、小なる円のものもあらうが、要するに同一中心的なるが如く、人間も或ものは多く絶対普遍を表現し、或ものは少く絶対普遍を表現して居るにしても、要するに、それは同一なる本質の現はれたもので、程度に於て違ふかも知れぬが、本質の側で言へば、決して別なものではないと観ずる、実に我々は個人的なると同時に普遍的・国家的・社会的であつて有限的なると同時に無限絶対のものである、其処に人格の矛盾があり、道徳宗教の存在も根本は其処にあると思ふのである。己れの本質たる無限絶対普遍的のものに対する有限特殊個人的なる我、理想に対する現実なる我、小我に対する大我といふものがあつて、それが道徳・宗教の存在する所以となるのである。此の無限普遍的超現的なるものに対する敬虔尊崇の念といふものが、宗教や道徳の生命であると観ずるのである。これ等に就いては、古来色色神学者などが説を述べて居る。シェリングは『神が単に客体としてある所には神を認識するといふことはあり得ない、単に客体としては神は決して我々に知られることは出来ない、神は認識の主体であり、同時に認識の客体である、即ち知る所のものも神であり知られる所のものも神である、神は我々の真の自我(絶対普遍的なるもの)であると同時に、而かも我々(有限特殊個体的なるもの)総てを包括し及び超絶するところのものである。宗教なるものは夫故に唯在外的の神の方に心を捧ぐるといふ《(様脱カ)》なことではない云々』といふて居る。又ラウンホッフは『道徳的理想に対して感ずる所の敬虔の念が宗教の真の本資である、若し此の敬虔の念を骨子となし居らぬ如きものには如何なる儀式が遂行さるゝとしても、決して之に宗教といふ名を与ふることは
 - 第46巻 p.531 -ページ画像 
出来ない。』といふて居る。マルチノーも同様に『良心として現はるる権威者に対する敬虔の念が精神中に起り来るに至らざれば、宗教そのものが明かに成り立つたとは云はれない。』といふことをいつて居る。道徳と宗教との本質は此点に於て一致して居るのであるが、其の同一なる本質のものが、違つた形に分れ勝ちになるのであると思ふのである。什ういふ風に分たるかといふと、宗教の側について言へば、其式を取ることになり、其の儀式等の形式の方に執着し、寧ろ之に囚はれるといふ方向に分れる傾きがある。道徳の側について言へば、敬虔の念といふ方面からして云々であらねばならぬといふ拘束の方面に移り、之を多く利害損得を以て説明するやうになり、漸次に低落して最も大切なる本旨としての敬虔の念、利害を離れたる誠心誠意といふ根本義を遠ざかるやうになり、功利主義といふものに堕落し勝ちのものである。所謂宗教は徒らに外的形式に執着し、内的精神を忘れることになり、所謂道徳も根本の敬虔の念に遠ざかつたものになると、此に互に衝突する勢を来すのである。これは何れも間違つたもので、甚だ宜しくないと思ふ。私の趣意をもう少し強く言ひ現せば、所謂宗教は之を道徳化せしめ、所謂道徳は之を宗教化せしめねばならぬといふことになるのである。
 今日の道徳は、其の根本生命たる敬虔の念が冷却して居る。確かに乏しくなつて居る。そこで宗教的信念を養はなければならぬではないかと論ずるものも出て来るのである。他方今日の所謂宗教の方に就いて見ても根本の内的精神に於て十分に宗教の本質を体得する所があるならば、何も外的形式に拘泥するに及ばないのであるが、実際はさうではなくて、徒らに外的形式に囚はれ、一定の外的形式が無ければ宗教に背くやうに考へるのは宜しくない。斯ういふ間違つた所謂宗教、即既成的制度宗教は之を改革して、真宗教を齎さなければならぬ。それが宗教を道徳化せしむる所以である。基督教の如きも斯かる意味に於て曾つて改革されたことがある。徒らに形式に囚はれて、贖罪符を購へば罪が容さるゝといふ如きことになり、敬虔の念が其の中心から遠ざかつて来た場合に、ルーテルが出て、之を改革し、根本的に宗教の本質を捉へ来つて、敬虔の念を土台とし、良心的態度の上に立ちて宗教をして道徳化せしめたのである。所がルーテルの信奉者は、新教を旧教より区別せしむる為に新教に一定の外的形式を与へ、又々形式其のものには囚はれるやうになり宗教の真生命に遠ざかることになつたのである。今日の所謂宗教なるものは、いづれも斯かる種類のものではあるまいか。真の宗教、真の道徳の生命たる敬虔の念、特殊的なる有限的なる我々が、其の奥底に包蔵せる無限絶対普遍的なるものに対する敬虔の念に出発点があるとすれば、決してさういふことにならないであらう。帰一協会の会員の方々の如きは、総て其の根本精神といふ側に於て、互に相通ずるものを有つて居られると思ふ。徒らに外的形式の末に拘泥せられない、貴き精神を体得して居られると思ふが一般に所謂宗教の側に於ては、道徳化せられざるものに充ちて居ると思ふのである。
 道徳に就いても敬虔の念が甚だ乏しいやうに思ふのであるが、それ
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が今日の教育界に於て、幾ら徳育に骨を折つても著しき効果を見ることの出来ない所以であらうと思ふ。我々の考では其の根本たる道徳の生命たる敬虔の念といふものに着眼するやうにすれば、道徳に生気を与ふることになる。それが道徳の宗教化である。さういふ風にすることが宗教的信念を養ふといふ意味にもなつて来ると思ふ。私は敢て真の道徳と、真の宗教と区別しないのである。結局其の出発点たる生命となつて居る所は別なものではないと思ふ。それが兎角分れ勝ちで、宗教は儀式などの外的形式に偏して、それに囚はれて仕舞ひ、一方道徳の方に於ては、功利主義・便宜主義の浅薄な意味に解釈する様になり、所謂宗教と所謂道徳との反対が生ずるに至ると考へるのである。甚だしきに至つては、唯だ儀式などの外的形式をさへ行へは、救済さるゝが如くに思つて居る。実は此春某地方に旅行して、或人に聞いたことであるが、その地方では、斯ういふ意味で神仏に参詣し、多大の賽銭を上げるさうである。その地方は商業が盛んである為めに、随分嘘もいつて儲けなければならぬ、人をだまして金を儲ける。さういふ悪いことをするとどうしても心が咎めるので、そこで一定の外的形式を透して神仏を拝することが、罪を滅ぼすことゝなると考へて、時々神仏を拝んで置けば、これで大分悪いことをしても帳消しになるとするのである。今迄の罪の罪滅ぼしであるといふのならばまだしほらしいが、さうでなく、今日之から悪いことをするといふのを、朝行つてお参りし賽銭を上げて罪滅ぼしの前貸をするといふ手合があるさうである。道徳・宗教の本質たる敬虔の念どころではない。外的形式を宗教の生命の如くに思つて居る。さういふ方法にての罪滅ぼしは、実に宗教の堕落であると思ふ。拝む方では賽銭を投げて時々お参りすれば罪が無くなると考へて居るし、宗教家の方では、さういふ参詣者が沢山あれば銭が儲かるものだから構はずに置く。収入の多くなる側から言へば都合は宜いが、宗教の本質といふ側から見れば、今日は矢張り第二のルーテルが現はれて、真宗教を復活すべき時期であると思ふ。道徳の側に於ても同じである。賞罰利害以外に道徳の実行は覚束ない有様である。衷心より誠意誠心、良心の指図に従つて、絶対普遍無限のものに対する敬虔の情から、為すべきことを為すといふ考が甚だ乏しいと思ふ。それが今日の所謂道徳の振はない所以である。そこで宗教的信念を養はなければならぬではないかといふやうな問題が起る次第であらうと思ふ。
 猶ほ申上げることを忘れたが、真の宗教の精神を体得したものゝ考から見れば決して無差別悪平等なる博愛は成立たないと思ふ。我々各個人は絶対無限普遍的なるものが特殊の形に表現したものである。常に総て同一でなく、違つた形に現はれるのであつて、其の自分等の特殊の関係に応じ、違つた境遇に応じて、総ての者に真の満足を与ふる道行、態度が違ふ訳である。世界人類に対する博愛の精神を実現する道、人を救ふ所以の道が、それぞれ違つた形に於て現はれるのが当然であると思ふ。極く具体的の例で言へば、今日世界中の有らゆる子供を本当に満足せしむる道は、即ち世界中の各々の親をして、先づ自分の子供に対して誠心誠意、立派な人格のものとなす態度を取るの外に
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はない。それが世界中の子供を真に満足せしむる所以である。博愛を実行する道行きの違ふのは勿論である。世界中の親の愛の力、博愛の精神を世界中の子供の数だけに平分して、その一つづゝを総ての子供に宛てがうといふやうなことは、決して真に有らゆる子供を満足せしむる所以でない。自分といふ特殊の境遇関係を有つて居るものが、その特殊の地位に応じて、それぞれ違つた道行にて博愛を行はなければならない。もう一つ他の例で言へば、世界中の妻と云ふものに真の満足を与へ、博愛の精神を行はんとするには、什うすればよいかといふと、世界中の各々の夫をして、先づ自分の妻に対して真心を以て満足を与ふるやうにするの外はないのである。自分の妻に対すると、他の妻に対すると差別が無かつたならば、真に世界中の妻を満足せしむる所以ではなく時としては姦通罪が成り立つやうなことになつて来る。要するに我々の立場が各々違ふのであるから、それに応じて特殊的に差別的の道行にて、博愛の精神を実行しなければならぬ。人類社会に無差別悪平等なる博愛などはあるべきで無い。それぞれ特殊的なる資格を有する多くの個人が組織した社会である。その特殊の資格に応じて博愛を実行するやうにしなければならぬと信ずるのである。さうしてそれが人格としての自分を真に満足せしむることゝなるのである。国民としての誠心誠意、真に国家の為めに尽くすといふことの外に、別に真の博愛も真の自愛もないのである。自分といふ特殊の地位にあるものゝ道徳的活動といふ同一の事実が、見やうによりて真の自愛となつて居り、真の博愛となつて居り、真の愛国となつて居るのである一にして決して三ではないのである。
 真の愛国と、真の博愛とは本質に於て決して異なるものではない。無差別悪平等の博愛は、天上界はいざ知らず、此の人類界に行はるべきものではない。人格としての真の自愛と、真の愛国とは、又決して別のものではない。私は先き程本多師のお話にあつたやうに、国家生活を以て人道実現の手段とは認めないのである。それが直ちに真の博愛人道の実現である。要するに国家社会に於て、特殊の地位にある人格としての己れを、真に満足せしむることゝ、真の博愛と、真の愛国とは同一であると信ずるのである。此の道理は分析的にお話する必要もあるが、時間に限られて簡単に終らなければならぬ。さき程、菊池男爵から御紹介があつたが、スタントン・コイトからの書簡中に、真の宗教と高尚なる愛国とは一致すると云ふて居ります。つまり本当の愛国とは別物でないといふことになるのである。真に己れの国の為に尽すならば、それが真の博愛となつて居る。真の自愛となつて居るのである。其の意味に於て帰一して居るのである。帰一協会の帰一といふことは、決して単に同似せるものゝ集合といふのではなくして、それぞれ違つた形に於て表現したるものが、各々の特殊性に応じて分担協同して、真の博愛の精神を実現するを期することであるといふて宜い。そこを会得すれば、徒らに外的形式に囚れずして、真宗教真道徳の本旨がそれぞれ発揮さるゝことになる。それが形式の末に走ることとなるから、宗教と道徳との衝突が起ることになるのではないか。さういふ風に真の宗教は如何なるもの、真の道徳は如何なるものと私は
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見るのであるが、其の意味に於て、私は成るべく今日の所謂道徳を宗教化せしめなければならぬと信ずるのである。今日の所謂宗教を道徳化せしめなければならぬと信ずるのである。併しながら玆に宗教といふことは、所謂宗教のことではない。儀式などの外的形式に囚はれた制度宗教を指すのではない。而して道徳なるものをして本当の道徳たらしめ、国民をして真に道徳を実行せしむるの位置に立ち返らしむるといふことが必要である。
 宗教と徳育との関係に就いては、たゞ日本に於て難問題となつて居るのみならず、西洋各国に於ても同様の問題に苦しめられて居るのである。それを一々お話する時間はないが、其の為めに西洋に於ては、段々経歴識見ある人々が意見を発表して居る。其の中の一をいふと、例へば先年マツケンヂーの如きは、道徳教育といふ題目の下に一論文を万国倫理学雑誌に載せて居るが、斯ういふことをいつて居る。道徳教育に就いては二つの困難な点がある。一は、唯だ理窟で斯うしなければならぬ、あゝしなければならぬと教授しても効が無い、人間は兎角反抗的観念を喚び起し易く、為せと教えられたことを為さないやうに、為す勿れと教えられたことを為さうといふやうになる、それ故に徳育は困難である。第二に、宗教と徳育との関係問題である。宗教は独断的に流れて合理的に行かない。併し宗教を離れては徳育が権威を失ふ。さればといつて宗教を本にすれば、合理的の調和が出来ないので、什うも思ふやうにならんで困る。其処が困難な点であるといふことをいつて居る。而して日本の徳育に就いて羨んで居るといふのは、日本に於ては独断的でなく、而も権威を以て国民の徳育を全うし得る荘厳なるものを有つて居る。つまり尊厳なる我が国体を根柢として、所謂宗教ではないけれども一種の宗教的のものがある結果なりとして羨ましいといつて居る。兎に角只今は英国の学者の一例を挙げたのであるが、其の他同様の考を以て、什ういふ風にすれば宗教と徳育との調和が出来るかといふことで、其の問題に悩んで居る。そこで我が国に於ては、此の問題を什うしたならば宜いかといふに、私の考では、今日の所謂道徳其の儘では不十分であると思ふ、何処までも宗教化させなければならぬ。併し其の宗教といふは所謂宗教ではない。敬虔の念、誠心誠意、真心を以て良心の声に対するといふの態度に立たしむるといふ意味である。さう云ふ意味に宗教を解釈すれば、私は教育上宗教的信念を養ふべしといふことに同意するのである。若し其の意味に於て宗教的信念を養ふべしとすれば、其の方法は什うするかといふに、それに就いては只今私の述べましたことを土台として解決が附かうと思ふ。簡単に言へば、儀式等の外的形式を透して宗教的信念を与へることは宜しくないのである。それよりも宗教的信念の本質其のものを与へるといふことでなければならぬ。つまり教ゆる者が、今言ふた意味の真宗教的信念を有つて居つて、誠心誠意を土台として生徒を導くといふことが必要である。若しそれが一定の儀式等の外的形式に囚はれたる制度宗教の伝道といふことになると、本当の宗教的信念を養ふことが出来ず、却つて種々の弊害を起すことゝなる。什うしても生徒に教ゆるには、前述の意味の本当の宗教的信念を以てしなければ
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ならぬ。一定の外的形式に拘泥せずに本当の宗教的精神に於て教へ導くならば、有効に徳育が行はれると信ずるのである。而して又本当の宗教的信念を有つて居るならば、そんな外的形式を取る必要は無からうと思ふ。己の良心を透して敬虔の態度を以て、誠心誠意、児童生徒をして是非立派な国民にしてやらうと真心を本として教へたならば十分効果が挙がるであらうと思ふ。それが所謂宗教といふものになると兎角一定の儀式に泥み、その他の外的形式に支配され、さうでなければ済まないやうに思ふ者が少くないと思ふ。孔夫子の所謂天でも宜い或は倫理道徳の側でいふ良心の声、絶対無限普遍的なるものに対する敬虔の念、其処に真宗教の本質、真道徳の本旨があるといふても宜い私の考を申上げると、本当の宗教・道徳は其の根因に於て同一である併し所謂宗教を国民普通教育に入れよといふことには大反対なのである。今日の学校教育に宗教的信念を入れよといふ意味が、若し私の考のやうならば賛成である。近頃オイケンの如きはさういふ意味に於て従来の基督教等が外的形式に拘泥して居つて宜しくないといふて、所謂宗教に反対して居るけれども、是非宗教的でやらなければならぬといつて居るのは、同様の趣意であらうと信ずるのである。
 然らば什ういふ風にして、さういふ敬虔の念を子供に伝へることが出来るか。申すまでもなく、教ゆる者が衷心、真道徳的・真宗教的でなければならぬが、其の外種々助けとなるものがあらうと思ふ。即ち家庭に於て父兄其の他の長者が率先して、常に敬虔の念を以て一切のことを為すといふやうに、家庭の空気をして敬虔的たらしむることが最も大切と思ふ。即ち利害損得を以て実行せず、軽薄ならざる態度を持して、飽くまで誠心誠意尊崇すべきものを尊崇するといふやうな態度で一切の事を為すやうにすれば、家庭に於ける児童にも誠心誠意の心が生じなければならぬと思ふのである。さういふやうなことは、親は勿論家庭の年長者は率先してやらなければならぬと思ふ。それから今日の時勢に添はないことであるけれども、例へば私の子供の時分には、書物を跨いではいけない、字を書いた紙を不潔な箇所に使つてはいけないといふやうなことがあつた。極めて小さなことであるけれども、兎に角そこに尊崇すべきものは尊崇するといふ気分、即敬虔の念を宿して居るのである。その通りを今日行ふべしといふのではないがさういふ精神で万事を行ふことが、余程家庭に生長する子供に敬虔の念を養ふことに影響するのである。或は老人に対し心から尊敬の念を表はすといふやうなことについて決して怠つてはならない。我が尊厳なる国体に基き、我が国の純美なる家族制度の如きことに関して、敬虔の念を養ふ上に虔益すべきことが多い。或は皇祖皇宗に対して敬虔の念を披瀝する、或は家の祖先に対して、敬虔の情を表するといふ如きことは最も大切である。但し私の此処に述ぶる敬虔の念といふは、必ずしも普通に所謂宗教的の意味ではない。無論或人は所謂宗教の形を透して敬虔の念を発表するでもあらうが、私は国民を皆必ずしもさういふやうにさせるに及ばないと思ふ、否所謂宗教の形を透すことになると、却つて様々の弊害が起つて来ることになる。さうでなくして最も高尚なる道徳的意味に於て、皇祖皇宗に対して敬虔の念を表し、
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又我が祖先に対して敬虔の情を表すといふことは、如何に宗教的信条が違つて居らうとも、苟くも我帝国民である以上は、其所までは皆一致して誠心を尽すことが出来る筈である。斯かることに於て家庭の空気を敬虔的ならしめ、子弟をして知らず識らずの間に敬虔の念に充てるものにしなければならぬ。軽薄なる利害損得の考を以て児童を導くことは断じて不可である。誠心誠意真心を以て何事にも対するやうにすれば、敬虔の念は自然に養はれると思ふ。
 要するに家庭の側に於て、学校に於ける徳育の精神に一致することを父兄が率先して事実行ふことが必要である。然るに動もすると家庭に於て、折角学校教育で注ぎ込んだ徳育の精神を破ることがある。家庭・社会等学校以外の側に於て、学校教育を冷淡に看過し、若くは之に反対する如き事実が少くない。為めに学校教育が有効に行はれないことになつたのではなからうかと思ふ。例へば、天長節といふ時に当つて、学校に於てはそれぞれ祝賀式を行つて敬意を表するに拘はらず家庭の親爺は寝坊して居る。学校の天長節の祝賀式に列する為めに、子供だけ早く起して学校に追ひやるやうにしてやる。小供は到底家庭に於て、国民の祝すべき祝祭日の空気に接しないのである。子供だけ学校に行つて校長の話を聴き、勅語の奉読によつて初めて祝祭日だといふことが分かる位である。さういふやうなことでは到底十分に教育が出来まいと思ふ。矢張り斯かる際には家庭に於て仮令日頃寝坊の親でも、此日丈は早く起きて斎戒沐浴し、袴羽織を着け、敬虔の態度を以て皇祖皇宗に対して敬意を表する、家の祖先に対して敬意を表するといふやうにし、赤飯等を共に食ひて祝意を示して、さて学校の式場に臨む子供を送り出すことにすれば、子供にも敬虔の情が自然に湧く訳である。又特に其の日の訳を明かにする道を取つて、学校でも家庭でも歩調を一にしてやるならば、本当に我が国体の尊厳を会得して、祝賀すべき日であるといふことを衷心会得する次第であるが、折角学校で祝賀式を行ひ、其の訳を会得させても、家庭に於て打壊すやうでは駄目である。
 要するに敬虔の情を養ふには、先づ教ゆる者に敬虔の情が無ければならぬ。極く些末なることでも、真面目な態度で誠意を以て実行しなければならぬ。さうして家庭社会も共に同様に実行するといふことは児童を敬虔の精神に導く所以で、欠くべからざることゝ思ふのであるさういふことは、気附けば誰れも実行するであらうと思ふ。子弟をして軽薄ならしめ、敬虔の精神の乏しからんことを望む父兄は誰一人も無い。世の中に親の子に対する愛程純粋にして大なる愛は無い。故に其の親に向つて、もう少し敬虔な態度に於て総てものを処置しなければ、子供の為めにならぬといふことを能く説いたならば、大抵の親は子供に対する愛に引かされて敬虔的態度に立ち直るであらうと思ふ。其のことを実行しないのは、気附かないだけのことである。気附けばそれ位のことは実行するに相違ない。それ程子に対する愛がある。子弟をして立派なる人格たらしめるには、先づ父兄が敬虔な態度で、万事を所置せねばならぬと説いたならば、大抵の父兄は、之を実行するに相違ない。斯くて父兄自身に敬虔の態度の必要なることを感知せし
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め、以て其の子弟に臨ましめるやうにすれば、子供の敬虔の情も自然に養はれる訳である。其の外種々の道もあらうが、要するに私の考はは、真宗教の本質如何といはゞ、真道徳の本旨と別なものではない。其の意義に於て学校教育は今日よりも一層宗教的たらしめなければならぬ。教へるものが真の意味に於て宗教的の人でなければならぬ。社会・家庭の空気は敬虔的でなければならぬ。若し社会に於て上流の人が非常に不真面目に、敬虔の精神が欠けて居るならば、社会・国家を念とする者は、進んで矯正しなければならぬ。
 若し宗教といふことを、所謂宗教(既成的制度宗教)の意味に解釈し、一定の儀式等の外的形式に囚はれたるものとすれば、斯かる宗教を学校教育に入れることには飽くまで反対しなければならぬ。さういふものに真の宗教の本質を解釈するは宜しくないのである。私は何処までも真の宗教は真の道徳と帰一するものであると思ふのである。さういふ意味の宗教ならば差支ない。併しながら事実に於て、今日の所謂宗教は道徳化されて居ない。概ね皆外的形式に拘泥して、其の本質的精神から遠かつて居る。さういふ意味の宗教を入れることには大反対である。若し今の所謂宗教を学校教育に入れるといふことになると種々違つた宗派がありますから、或る一定の儀式等の外的形式を備へた宗派を入れることになると、他の形式を有つて居る宗派が反対する総てのものを入れるとなると違つた儀式等の外的形式で混雑となり、弊害に堪えられなくなるのは申すまでもない。西洋あたりの経験では宗派的争闘の為めに非常に苦んだのである。彼の名判官たる大岡越前守が裁判上最も面倒なのは僧侶の間の争であると言つたさうである。
 今日の所謂宗教(既成的制度宗教)を学校に入れることは反対であるけれども、社会なり家庭なりにて信ずる宗教に向つては相当にレスペクトを払ふべきものであると思ふ。併しながら出来得べくんば、本当の精神を有する宗教でありたいけれども、兎に角家庭や社会にて、信ずる所によつて敬虔の念を養ふことは妨げないのである。併しながら出来得べくんば、本当の改革を施してルーテルが古き外的形式に囚はれし宗教を改革せし如く、先刻述べたやうな某地方にある間違つた信仰に囚はれて居る如き宗教は、何処までも改革を施して、道徳化せしめなければならぬと思ふ。国民は統一的に教育しやうといふには、どうしても儀式其他の外的形式に囚はれたる宗派的制度宗教を学校教育内に入れるといふことに反対せざるを得ない。此点に就ては文部省が嘗て文部省訓令第十二号(明治三十二年八月三日に出て居る)に於て、一般の教育と宗教とを分離し、各々対立せしめ、決して学校教育中に宗教を入れてはならぬといふことを明かにしたのは大に意味あることで、此方針は何処までも採つて行くべきであると思ふ。
    本多・吉田両氏の講演に関する諸氏の批評
 浮田和民氏=本多・吉田両氏の所説は大体に於て一致して居る。而して吉田氏の所説中、理論の部分に対しては余は全然賛成であるけれども、方法論に対しては反対である。親の名前を書いた紙や、皇室の記事を載せた新聞紙などを不潔な所へ持つて行くなといふ様な事は到底今日は実行すべからざる事である。祖先崇拝といふ様な事も従来の
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儘に維持する事は道徳上宗教上却つて有害である。老人を尊敬する事も結構だけれども、吉田氏の理論から曰へば、子孫崇拝も必要では無からうか、余の意見にては、人々をして自己を尊重するの精神を発揮せしめる事が最も必要であると思ふ。
 添田寿一氏=吉田氏は宗教の形式は不可だと曰はれるけれども、形式を離れた宗教は倫理若くは哲学であつて、最早宗教では無くなると思ふ。
 筧克彦氏=余は吉田氏の理論に就いても質問がある。一切の根底は信念である。道徳も哲学も美術も政治も皆信念の基礎の上に咲く花である。吉田氏は敬虔といふ事を曰はれるが、敬虔といふからには既に何者かに対する信念を予想しなければならぬ。天地が転覆しても猶動かぬといふ土台は信念であつて、道徳では無い。
 本多日生氏=霊魂の実在を信ずる事と超越的神仏の存在を認むる事とは、一般的宗教心だと思ふ。此意味の宗教心を学校に於ては如何に教へて居るか、余の見聞の範囲内では小学校の先生などは凡て斯種の信仰を否定して居る様である。
 服部宇之吉氏=教師自ら宗教的信念を有する事が必要だといはれるけれども、併し乍ら教師自らは如何にして其信念を養ふ事が出来るか換言すれば高等師範学校・師範学校等に於て宗教々育を如何に実施するかといふ事が問題である。今日の師範学校卒業生は四年間の在学中一度も信念といふ語を聞いた事は無いと言つて居る。
 江原素六氏=戊申詔書を書いた紙で塵払を作つた事が或地方で不敬事件を起して居る。滑稽だと思ふ。
 筧克彦氏=戊申詔書を書いた紙で塵払を作つてはならぬとは曰はぬけれども、其れが不敬だと思ふ人の心事にも対々尊重すべき者がある江原先生や浮田さんの口から今の様な説を聞く事を遺憾に思ふ。(大正三年六月例会)
   ○出席者栄一外三十一名ナリ。会場上野精養軒。(「帰一協会記事」ニヨル)