デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
15款 其他 7. 故大森男爵事歴編纂会
■綱文

第48巻 p.104-107(DK480032k) ページ画像

昭和4年1月(1929年)

是ヨリ先、大森鐘一遺稿編纂ノ企アリ。是月、栄一発起人トナリ、且ツ同遺稿集ニ追憶文ヲ寄稿ス。


■資料

諸会発起趣意書(二) 【拝啓 益御清祥奉慶賀候、陳者故皇太后宮大夫枢密顧問官男爵大森鐘一氏ハ内務省創設後…】(DK480032k-0001)
第48巻 p.104-105 ページ画像

諸会発起趣意書(二)           (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 益御清祥奉慶賀候、陳者故皇太后宮大夫枢密顧問官男爵大森鐘一氏ハ内務省創設後幾モナクシテ同省ニ入リ、親シク我邦地方自治制創定ノ事務ニ参画セラレ、爾来約四十年間、入リテハ内務行政ノ枢機ニ参シ、出テヽハ地方牧民官トシテ良吏ノ典型ヲ示サレ、後復タ挙ケラレテ宮内省ニ入リ、皇后宮大夫タルコト十年余、終始一貫至忠至誠奉公ノ忱ヲ捧ケタルノミナラス、人ニ接スルニ温情流露、克ク後進ヲ誘掖シテ倦マス、其ノ高潔ナル人格ト有徳ノ風貌トハ、吾人ノ景慕シテ永ク忘ルヽ能ハサル所ニ有之、加フルニ居常閑アレハ読ミ且録セラレタルヲ以テ、日記・随筆其ノ他輯録ニ係ルモノヽ如キ積ミテ山ヲ成セシカ、大震火災ノ為殆悉ク烏有ニ帰シ、僅ニ災後数年間ノ分ヲ現存セルモ、而カモ是等遺稿ハ尚亦男爵ノ風格ヲ偲フニ足ルモノニ有之候曩ニ令嗣佳一君故人ノ事歴ニ併セテ知友追憶ノ詩文等ヲ蒐メ、一家ノ私記トシテ印行ノ企ヲナシ著々準備中ノ処、吾人同志ハ今回佳一君ノ諒解ヲ得テ其ノ遺稿並知友ノ寄稿等ト共ニ、之カ編纂事務ヲ御引受致候ニ就テハ、右趣旨御了知ノ上何卒御賛同被成下度、左記要項ヲ具シ此段得貴意候 敬具
  昭和四年一月 日
                      発起人一同
    子爵 渋沢栄一殿
      要項
 - 第48巻 p.105 -ページ画像 
一、編纂物 成ル可ク故人ノ意ニ副フ如ク詳細ノ伝記ヲ避ケ、故男爵ノ遺稿並知人追懐ノ詩歌文章等ニ止ム
一、費用 分担金五円
一、事務所 横浜市中区老松町市長公舎 有吉忠一方
一、申込 昭和四年三月三十一日迄ニ申込ト同時ニ分担金御払込ミノコト
事務ノ遂行ニ就テハ総テ実行委員ニ一任セラレタキコト
        以上
      発起人(イロハ順)○印ハ実行委員

図表を画像で表示発起人(イロハ順)○印ハ実行委員

   ○西原光太郎     ○昌谷彰   ○和田不二男     ○有吉忠一   ○笠井信一      ○佐藤潔   ○谷口留五郎     ○島田剛太郎   ○添田敬一郎   男爵○白根松介   ○根本吉太郎   子爵 渋沢栄一 



   ○栄一及ビ実行委員ノ外、発起人氏名八十六名略ス。
   ○右遺稿集ハ菊版約七百頁、書名ヲ「大森鍾一」トシ、昭和五年三月刊行セラル。


大森鐘一 故大森男爵事歴編纂会編 追憶録・第七―一四頁昭和五年三月刊 【生前を偲びて 子爵 渋沢栄一】(DK480032k-0002)
第48巻 p.105-106 ページ画像

大森鐘一 故大森男爵事歴編纂会編 追憶録・第七―一四頁昭和五年三月刊
    生前を偲びて
                   子爵 渋沢栄一
私が大森さんと御知合になりましたのは、何時頃からでありましたか其月日は只今判然と記憶して居りませんが、余程古くからの御交際でありまして、殊に静岡藩の御出身と云ふ関係上、私も旧藩人故、同藩の方として特別親しみを以て、御交際を願つて居りました。慥か京都府知事をなされた頃より、殊に御面会の機会多く、皇后宮大夫の職に就かれて以来は、別して親しく往復する様になりました。
併しながら、あの時は斯様な事があつたとか、こんな逸話があつたとか云ふ風に、取立てゝ申上げる程の事もありませんが、次の二つの事に付いて、非常に大森さんの御高配を蒙りましたので、それを申上げる事に致します、但し此事は私の身上の事であつて、自己宣伝の嫌がありますが、実に大森さんの御高配による事と私は深く感謝して居ります故、玆に其の詳細を申上げるのであります。
其の一は、大正六年一月の事でありましたが、私が永く東京市養育院に関係して居りますので、貧民養育の事に付き、
皇后陛下(現皇太后様)の御内旨に基き、特に派遣せられたと云ふわけではなかつたが、視察に来られて、其状況をくはしく上聞に達せられましたので、其結果、分外の光栄に浴した事が御座ゐます。感激のあまり当時の模様を書き誌したものがありますから、之を掲ける事に致します。
      戴恩の記
   ○右ハ本資料第三十巻所収「東京市養育院」大正六年一月十八日ノ条ニアリ略ス。
 - 第48巻 p.106 -ページ画像 
他の一は養蚕製糸の事に関するものでありますが、之れに付いても、「感恩秘録」として書き誌したものがありますから、之を掲げることに致します。
      感恩秘録
   ○右ハ本資料第三編第三部身辺第二章「栄誉」ニアリ、略ス。
以上の内、前者は慈善事業に関するもの、後者は殖産経済の方面に関するものでありますが、何れに付きても、大森さんは洵に理解深く親切で私の心持をよく諒恕せられ、要を摘んで
陛下に言上して頂いた事を、別して心嬉しく感じて居る次第であります。
此の「感恩秘録」は大森さんに御目にかけやうと思ひまして、御見舞がてら持つて行つたのでしたが、其時には既に御重態であつて遂に御目にかゝる事が出きなかつたのは、千歳の遺憾でありました。
大森さんはお年も私よりも御若く、まだまだ国家の為め充分尽して戴く事が出来ましたのに、返すがえすも残念の事を致しました。
   ○皇后宮大夫大森鐘一ノ養育院視察ニツイテハ本資料第三十巻所収「東京市養育院」大正六年一月十六日及ビ同十八日ノ条参照。


(大森佳一)書翰 渋沢栄一宛昭和五年三月(DK480032k-0003)
第48巻 p.106 ページ画像

(大森佳一)書翰 渋沢栄一宛昭和五年三月 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)              (別筆)
                   松江市男爵大森佳一氏
                    昭和五年三月十三日
拝啓 愈々御清健奉大賀候、扱て先考遺稿並追憶録編纂の事予て御発企を辱くし、爾来各方多数の賛同を求められ着々御遂行、此程上梓完成御送付を受け難有拝見仕候
編修装釘共に善美と申すべく、而かも当初小子か一家の私記として心組み候素志を失はさるのみならす、内容の豊富にして深切なる出来栄は欣躍に堪へす、此段特に御発企各位の御厚志と、有吉氏・池田氏其他実行に当られし各位の御尽力に対し感佩措かさる所に御座候
恰も去三日は先考満三年の祥忌に相当り候により当日墓前に本書を捧け追慕の至情を表すると共に、各位の御厚志に対し謹みて佩服の意を告け、黙祷の間先考の音容を髣髴するの感悦に浴したる次第に御座候
御高配に預りし本書は家鑑として吾家に珍重し、永く児孫に先考の風格を伝へ遺徳垂訓の資たらしめ度、是れ小子が家務を果すの一端にも有之、将又斯くして諸賢の厚志に報謝する所以とも存居候次第、幸に此の意御諒承被下度候
右拝趨の上御礼可申上筈に候得共、不取敢書中敬謝の微意を表し度如斯候 敬具
  昭和五庚午三月
                     (以下手書)
                     佳一
    渋沢賢台
        侍史
尚玉稿は実ニ本書ニ光彩を加へ永く家門の光栄を伝ふる所以ニ有之、洵ニ望外の賜と感謝ニ堪へ不申重ねて御礼申上候

 - 第48巻 p.107 -ページ画像 


〔参考〕渋沢栄一 日記 大正六年(DK480032k-0004)
第48巻 p.107 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 寒
○上略 午後一時大塚養育院ニ抵リ、大森皇后宮大夫ノ来訪ニ接シ、院ノ沿革ヲ陳述シ、院内ヲ案内ス、更ニ巣鴨分院ヲ一覧セラル○下略
   ○中略。
一月十八日 曇 寒
○中略 二時宮内省ニ抵リ、大森皇后宮大夫ニ面会ス、東京市養育院入院者ヘ御下賜ノ御菓子料ヲ拝受シ、且 陛下ニ拝謁シテ、院務ニ付種々ノ御下問アリ○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和二年(DK480032k-0005)
第48巻 p.107 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
二月二十七日 晴 寒気少ク減ス
○上略 午後一時頃番町大森大夫ノ家ニ抵リ、令夫人及令息ニ会見シテ大夫ノ病状ヲ訪ヒ、且曾テ自書シタル感恩秘録一部ヲ贈リ、且見舞品ヲ進呈シ、大夫ノ病気モ幾分快方ナルモ面会ハ医師ノ禁止ニヨリ其儘辞去ス○下略