デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
17款 栄一ノ序文・跋文 2. 個人伝記ノ部
○本草本節中ニ款項目トシテ収録セル伝記ニ掲載サレタル栄一ノ序文ハ省略ス。
■綱文

第48巻 p.165-178(DK480052k) ページ画像

明治44年――昭和6年(1911-1931年)

栄一、コノ期間ニ個人ノ伝記ニ寄セタル序文十七篇ニ及ブ。


■資料

岸宇吉翁 小畔亀太郎編 序明治四四年一〇月刊(DK480052k-0001)
第48巻 p.165 ページ画像

岸宇吉翁 小畔亀太郎編  序明治四四年一〇月刊
  序
岸宇吉君は長岡の紳商にして六十九銀行創立者の一人なり、故を以て我第一銀行とは三十年来の交誼あり随て余と私交も浅からす、毎に理財の問題に関しては余の説を信し第一銀行の経験に鑑ミ営業の進歩を計り行運順暢の誉れあるは、君の勤勉倦まさるに原因せり、蓋君は人と為り質実にして義に厚く由来保守主義を執り自重して軽進を戒しむるといへとも、其一たひ必須を感するに当ては断乎として開進の方針を取るに躊躇せす、昨年余は東京女子大学の為め北越地方を巡遊し長岡に至り君と面晤せしに当時微しく健康の勝くれさる所ありしも、尚能く周旋の労を吝ますして余か旅行に便利を与へられたり、別に臨ミ余は慇懃に調護摂生を勧め健安を祝して分手せり、詎そ料らむ、後二ケ月ならさるに其齢余に一歳の長を以て忽然幽界の人となれるは、実に惋惜に堪へさるなり、然れとも其事蹟は地方商業界に存して人の記るす所と為り、今や君の伝記は有志者の手に由つて其事業と倶に朽ちさるの栄あり、玆に需に応して一言を述ること此のことし
  明治四十四年七月
                 青淵渋沢栄一撰并書
                        


矢野二郎伝 島田三郎編 序大正二年五月刊(DK480052k-0002)
第48巻 p.165-166 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  序大正二年五月刊
  序
賢哲は道を開き巨人は勢を作り而して志士は時に乗す、試に五十年前の形勢を回想せは思ひ半に過くるものあるへし、矢野二郎君は炯眼時を視るの明ありて敏捷事に当るの能を有す、君か年甫めて十六、早く文明の空気を呼吸し進むて英語を学ひて泰西の新知識を広め、終身其行ゐの人後に落ちさるは時に乗するの志士にあらすして焉そ能く斯の如きを得むや、余か君を知りたるは今より三十八年前余か東京会議所頭取たりし時に在り、此際薩南の俊才森有礼君か米国に鑑ミ商業の学校を私設し、幾許もなく清国公使として赴任せむとするに当り其校の廃止に忍ひさるを以て、東京府知事大久保一翁君に商議し、知事より
 - 第48巻 p.166 -ページ画像 
会議所に諮りて之を承継せしめ、商法講習所と改称し君を以て其校長と為す、蓋し其英語に熟達し且夙に商工業経営の知識に富めるものあるか故なり、是に於て余は甚た君の其任に適するを喜ひ窃に其成功を期したり、爾来君は一身を犠牲として育英に従事し、学科の改正、校規の拡張等凡事重大なるものは毎に余の意見を問はさるなく、就中明治十四年七月講習所廃止の議東京府会に現はるゝ時の如き君は寝食を忘れて其存立を主張し、黽勉努力終に之を維持するを得たるは君か不撓不屈の精神能く狂瀾を既倒に回せりと賞せさるへからす、且夫れ当時我邦の教育たる政治法律に偏重にして実業を踈外し独り教授者間に於て之を好さるのミならす、其就学の生徒も亦之を嫌ふの風あり、然るに君の生徒を視ること宛も子弟の如く親切懇篤至らさる所なきにより、生徒も亦君を視ること父兄の如く、情誼渾厚和気靄然として学校猶良家庭の如き観あるは復た他に求めて得へからさるの特色なりとす是を以て校運月に進ミ生徒年に増し、終に朝野此商業学校を認めて文明教育の一要具と為すに至れるは実に君か多年尽瘁の効果と言ふへきなり、然るに君か稜々の気骨は人に因りて感情を異にし、初め森君と意気投合せしも後ちに井上君と相協はす、勤続二十年にして一朝勇退の已むなきに至れるは公私の為めに惜むへしといへとも、翻つて之を思へは亦功成り名遂けて身退くの一快事たるを失はさりしなり、而して其薫陶せられたる幾百人の人士は敬慕の念益厚く、君か謝世の後直ちに徹心会なるものを組織し永く君か恩徳を忘れさるを期し、近時又君の親友島田三郎君に嘱するに其伝を作るを以てす、頃日伝成りて序を余に徴す、之を一読するに叙事周密考証正確にして亦余蘊なく、殊に其東京高等商業学校の沿革を記述するに至ては著者亦身を其間に処するが如く懇到剴切、宛も矢野君に面して其諧謔の談奇警の言を聞くの感あらしむ、蓋し島田君の筆を以て矢野君の伝を作る藤田幽谷の太田錦城に於るか如く、真に史伝の好一対といふへし、余や矢野君と数十年の親交を存し公私事務の関係あり、欣然以て一言なかるへからす程伊川の言に曰く、哲人知幾誠之於思志士励行守之於為、此語移して以て君か生涯を評するに足る、宜なる哉其令名の永く後昆に存することを、之を序と為す
  大正癸丑一月下浣曖依村荘に於て
                    青淵老人識
                        


渋沢栄一 日記 大正二年(DK480052k-0003)
第48巻 p.166 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴 寒
○上略 矢野二郎伝ノ序文ヲ修正ス、起稿ヨリ最後ノ修正ニ至ルマテ都合三回ノ浄写ヲ為ス、夜十二時ニ脱稿スルヲ得タリ○下略
一月九日 曇 寒
○上略 昨夜脱稿セシ二様ノ序文ニ修正ヲ加フ○下略
  ○中略。
一月十九日 晴 寒
○上略 矢野二郎伝ノ序文ヲ揮毫ス○下略

 - 第48巻 p.167 -ページ画像 

若尾逸平 内藤文治良著 序大正三年九月刊(DK480052k-0004)
第48巻 p.167 ページ画像

若尾逸平 内藤文治良著  序大正三年九月刊
  序
幕末対外の秕政は尊攘の志士をして慷慨扼腕せしむると共に、一方販鬻者をして一攫千金の念を起さしめ、通商貿易を以て身を立て家を興したるもの枚挙に遑あらす、若尾逸平翁の如きは其巨擘といふを得へし、翁は甲斐の僻邑に生れ幼より辛酸を嘗め、青年の頃は負販を以て行商の生活を為し、壮時に及ひ資を積み家道日に進むに当り横浜の貿易蒸々日に騰るの勢ありしかは、翁乃ち蚕糸を輸出し綿糖を輸入し、明治維新の後に於ては各種の合本事業を経営し、国運と共に駸々相進ミ巨万の富を致して陶猗を凌くに至る、然れとも居常身を慎ミて聊も驕泰に居らす、而かも其親戚故旧に厚くして能くこれを賑恤す、是れを以て人望常に翁に帰し、明治の初めに当り甲府総町戸長と為り、県会議員となり、甲府市長と為り、貴族院議員と為る、所謂家富ミ業昌へるものなり、加之天吉人を相けて九十有四の高齢に躋り、蓋棺至誠を以て称せらるゝに至る、人生此に至て毫も遺憾なしといふへし、余は掛冠の後商工業を倡導するに際して始て翁と交り、其尋常に卓越するを見て之を欽慕すること久し、殊に翁か曾て朝鮮に向つて其業を開くことを企図して余に来議することありしに、余は其時機に適せさるを切諫して其挙を中止せしめし如きは翁の深く感激する所となりて、爾来翁は毎に友人に対して余の忠愛なることを称賛して已まさりき、此一事を以てするも翁か平生事を処する苟もせすして、人の諫を用ふる流るゝが如き襟度雅量あるを推知するを得へし、今や翁眷愛の諸子相謀つて其伝記を編するニ当り序を余に請ふ、乃ち喜むて平素翁に対する所感を書るすこと斯の如し
  大正甲寅秋日函嶺小涌谷客舎に於て
                    青淵老人識
                        


河野守弘翁伝 上野啓三郎石川宰三郎著 序大正五年三月刊(DK480052k-0005)
第48巻 p.167-168 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

西村勝三翁伝 西村翁伝記編纂会編 序大正一〇年一月刊(DK480052k-0006)
第48巻 p.168-169 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK480052k-0007)
第48巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 曇 軽寒
○上略 西村勝三氏ノ伝記ニ対スル序文ノ原稿ヲ草ス○下略
  ○中略。
一月十三日 曇 寒
○上略 西村勝三氏伝ノ序文原稿ヲ調査ス○中略
夜食後西村勝三氏伝ノ序文ヲ揮毫ス○下略
  ○中略。
三月十五日 晴 軽寒
○上略 西村直・大沢・藤村三氏、西村勝三氏伝記成本ヲ持参シテ序文ノ事ヲ謝セラル○下略


初代片倉兼太郎君事歴 足立栗園編 序大正一〇年刊(DK480052k-0008)
第48巻 p.169-170 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK480052k-0009)
第48巻 p.170 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月二十五日 雨 寒
○上略 足立栗園氏来リ、片倉兼太郎ノ伝記ニ叙文ヲ托セラル○下略


靄渓遺響 古谷喜十郎編 序大正一一年二月刊(DK480052k-0010)
第48巻 p.170 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

大倉鶴彦翁 鶴友会編 序・第一―四頁大正一三年九月刊(DK480052k-0011)
第48巻 p.170-171 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

銀行王安田善次郎 坂井磊川著 序・第一―二頁大正一四年九月刊(DK480052k-0012)
第48巻 p.171 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

川村利兵衛翁小伝 大谷登編 序大正一五年四月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0013)
第48巻 p.172 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 大谷登編  序大正一五年四月刊
  序 
余が川村利兵衛君と相識りしは今を距る四十余年の昔にして、君が大阪紡績会社に入りて商務担当者となられし頃なり、当時我邦の紡績業は工業界の変遷に目覚めし先憂の人士首唱して卒爾に之を創設せしも素より他に準拠すへき模範を得す、工務は勿論原棉の購入製糸の販売に至るまて総て先蹤なきにより人皆其処理に躊躇せしを、君は直情径行善を見て為すに勇むの気性を以て能く此難局に善処せられたり、是を以て大阪紡績会社は先つ君を支那に派遣して、同国に於る棉花の実況を視察せしめ、尋て印度に渡航して紡績工業の現状及ひ棉花購入の方法を調査し、拮据経営印度棉花輸入の途を啓き、爾来日に月に進展して以て今日に至れるなり、故に印度棉花の輸入に対して君が致せる貢献は、永く感謝の念を以て斯業界に記憶せらるへきものありといふべし
明治二十六年君は大阪紡績会社を去りて内外棉会社に入れり、此際同会社は社運甚だ振はず其営業困難なりしも、君挺身難局に膺り苦辛惨憺能く頽勢を挽回し、更に進ミて大規模の新工場を支那内地に創建するの積極方針を採り、奮励一番遂に此遠大の事業を達成したり、内外棉会社の今日の盛況あるは君が精力の結晶といふも誰か之を否認するものあらむや
之を要するに、君の生涯は棉業に始りて棉業に終れりと謂ふを得へし余は始め大阪紡績会社に於て君と会見し、其少壮の鋭気に接触して時に或は沈着を欠くの嫌ありしも、其論理の徹底的にして精神能く其事物に集中するを見て、此大胆にして且卓抜なる君が事業の必す成功すへきを予想したりき
君は年歯余に比して遥に少弱なりしを以て、余は紡績界の将来を君に嘱望すること大なりしも、想はさりき曩に其訃音を聞きて先つ人生の無常を歎し、今又知友諸氏の君が伝記を編纂して、余に其序文を請はるゝに当り更に無量の感慨なき能はさるなり、依て聊か所感を記して序文に代ふ
  大正十四年八月
                   青淵渋沢栄一識
                         


古河市兵衛翁伝 五日会編 序大正一五年四月刊(DK480052k-0014)
第48巻 p.172-173 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

渋沢栄一 日記 大正一五年(DK480052k-0015)
第48巻 p.174 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
三月三日 晴 寒
○上略
本日ハ曾テ委托ヲ受タケル、第一銀行五十年小史ノ序文及古河市兵衛氏伝記ノ序文修正ノ筈ナリシモ、腹案完ヲ得スシテ脱稿ニ至ラス
○下略


ジョン・アール・モット 土居誉雄編 序・第三頁大正一五年三月刊(DK480052k-0016)
第48巻 p.174 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編 序・第三―四頁大正一五年六月刊(DK480052k-0017)
第48巻 p.174 ページ画像

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編
                      序・第三―四頁大正一五年六月刊
    序
 故本会総裁威仁親王妃慰子殿下が、無告の人々に深き慈愛の御心を注ぎたまひ、本会の事業を拡張して、救療の徹底を期せられ、幾多の𥕞礙を意とせられず、熱心に御尽力ありし御事蹟は、申すも畏き極みなるが、それにも増して忘るる能はざるは、本会の前途に就きて御配慮ありし深遠なる御心事なり。殿下は夙に世運の進歩に鑑みて、慈恵事業の一層必要なるべきを察したまひ、本会の資産を金弐百万円となし、其の基礎を鞏固ならしめんと思召され、屡々これを御物語あらせられし御声、今尚、耳底に存するを覚ゆ。爾来国運は年を重ねて発展し、生活は月を追ひて複雑を加へ、慈善救済の施設を要すること益々急にして、光栄ある歴史を有する本会の任務愈々重く、今更の如く、殿下の御深慮の辱さを痛感するに至れり。併かも未だ、其の御遺志を実現する能はざるは、ひとり殿下の尊霊に対し奉りて恐懼に堪へざるのみならず、本会の事業の上より見るも、亦遺憾これに過ぐべからず今此の御事蹟を編述するに当り往事を回想して感慨窮り無く、天下の志士仁人が深く思ひを之に寄せて、殿下の御遺志を翼成せられんことを庶幾ふの情、最も切なるものあり。由つて聊か所感を記して以て序となす。
  大正十五年五月
           東京慈恵会副会長 子爵 渋沢栄一

 - 第48巻 p.175 -ページ画像 

古河潤吉君伝 五日会編 序大正一五年一二月刊(DK480052k-0018)
第48巻 p.175 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

日下義雄伝 同伝記編纂所編 序昭和三年三月刊(DK480052k-0019)
第48巻 p.175-176 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

神野金之助重行 堀田璋左右著 序・第一―四頁昭和一五年二月刊(DK480052k-0020)
第48巻 p.176-177 ページ画像

神野金之助重行 堀田璋左右著  序・第一―四頁昭和一五年二月刊
    序
 旧友神野金之助君は夙に名古屋地方に於て銀行・会社の業務を経営せられ、又商業会議所議員を初め、幾多公共事業の委員に挙げられ、名古屋市の公務は概ね君の関係せざるなし。
予は銀行業を同じくしたるの故を以て君の名を知りたれども、土地相隔たれるを以て会見の機稀少なりしに、明治四十二年八月、予が渡米実業団長として彼地に渡航せし時、君も其一行中にあり。団員五十人許、行程四箇月の間、君は曾て一度も不満を訴へしことなく、人も亦一語の君を非議するものなかりき。是に於て予は君の常人にあらざるを知れり。頃日、令嗣金之助君、君の伝記を寄せて序文を求む。予之を読みて愈々君の偉人なるを知れり。
 君は青年の頃より農業の国家を富ます所以なるを思ひ、鋭意田畝を買収して新田を開発し、其経営するところ愛知・三重・岐阜の三県に亘れり。かくて経営宜しきを得て、其家産を興すと共に、小作人の保護指導につとめ、神社・寺院を興隆し、小学校を建設し、信用購買組合を設くる等、精神的にも物質的にも尽瘁する所甚だ大なり。君又常に篤く仏教を信じ、慈善公共事業の為に財団法人神野康済会を興し、基本金四拾万円を寄附せるが如き、其一端を見るべく、日露戦役の際
 - 第48巻 p.177 -ページ画像 
には貴族院議員を以て勲四等に叙し、旭日小綬章を授けられ、又産業上の功を以て勅定藍綬褒章を賜はり、後正六位に叙し、卒するに臨みて従五位に叙せられたり。又以て君が国家社会に貢献する所の大なるを見るべし。君天性至孝、其土地買入のため東西に奔走するや、常に父母の木像を奉じて出で、朝夕礼拝懈らず、家に帰れば先づ仏前に奉告し、而して後に妻子と語るを常とす。恩賞を拝せし時も亦同じ。其親に事ふること生前に異ならずといふ。是れ実に君が平素の行動勤恪にして篤敬なるを証するに足る。
 嗚呼君が公私の行為皆以て一世を矜式するに足る。今や世人知識に偏して敦厚を欠き、利己の行為一世を風靡するの際、人々此伝を読みて、潤屋の富は潤身の徳に本づくことを暁らば、此書の公刊せらるゝ実に天下の鴻益ならん。
 此偉人を伝して不朽を謀るもの、蓋し亦此意に外ならざるべし。予は曾て君と業務を同じくし、又旅行して眠食を共にし、今又其遺績を詳にして、其言行の世益を広むる所以なるを識り、喜びて此序を作る
  昭和六年三月
                   青淵渋沢栄一


我等の知れるスペリー博士 スペリー博士追想録編纂委員会編 序・第三―四頁昭和六年七月刊(DK480052k-0021)
第48巻 p.177-178 ページ画像

我等の知れるスペリー博士 スペリー博士追想録編纂委員会編
                     序・第三―四頁昭和六年七月刊
    追憶
                   渋沢栄一
 スペリー博士と握手した時の感じは博士の五本の指からその誠心が溢れて、私の指に伝はり、私の胸奥に直流するやうであつた。故に博士と握手して、其温顔を眺めただけで言葉を交へるまでもなく十分互に理解し得る程であつた。
 由来学者とか専門家とかいふ人々は兎角其専門の方面に没頭し勝の為め世間との接触を嫌ひ、社交には至つて疎いもので、野人礼にならはずなどと言つて粗野を衒ふ傾きがないでもないが、スペリー博士は世界的の学者であり、エヂソン翁に継ぐ発明家として推奨されたにも拘らず進んで人と交り、円満快活に振舞つたことは注意すべきことであらう。スペリー博士と二十五年間手を携へて働いたカルヴイン・ダブルユー・ライス博士は
 「私は二十五年間博士の後輩として博士の下に働いて随分博士に面倒を懸けた事もあつたが、一度も博士に叱られたとか博士の疳癪に触れたとかいふやうな経験を持たない。博士は真に典型的の紳士である。」
と言うたことがあるが、実にスペリー博士を語る文字によつて描かれた絵(word painting)であると思はれるのである。
 宏量快活な博士は人生の大問題たる国際親善、世界の平和に深き感触を有たれ、超人種的人類愛は常に博士の胸中に溢れて居つた。聞く所によると一昨年の万国工業会議を日本に開いたのはスペリー博士の発意によつたもので、其動機は各国特に米国の有力者に日本に於ける工業の実際と文化の発達の現状を目撃せしめん為めであつたと云ふこ
 - 第48巻 p.178 -ページ画像 
とであつた。斯くて徐ろに彼の日本に取つては勿論、米国に取つても恥づべき一千九百二十四年の排日移民法修正の気運を促進せしめんと期したとの事である。
 私は今年九十二歳の老人である為め、今日に至るまで各方面の知友や年若き人々などに先だたれて常に齢長ければ悔多しの感があつたが今スペリー博士の逝去を偲ぶに当つて、特に同様の感があり、長大息を禁じ得ないのである。