デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
1節 第一次世界大戦関係
4款 聯合国傷病兵罹災者慰問会
■綱文

第48巻 p.541-550(DK480155k) ページ画像

大正6年3月14日(1917年)

是日栄一、当会寄付金募集ノタメ東京ヲ発シテ神戸ニ至リ、次イデ大阪・京都・名古屋ヲ歴巡シ、二十三日帰京ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正六年(DK480155k-0001)
第48巻 p.541 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年         (渋沢子爵家所蔵)
二月二十八日 曇 寒
○上略 衆議院図書室ニ抵リ、傷病兵慰問会常務委員会ニ出席ス、種々ノ要務ヲ処理ス○下略
  ○中略。
三月十日 曇 寒
○上略 午後二時衆議院図書室ニ抵リ、慰問会常務委員会ヲ開キ種々ノ要務ヲ協議ス○下略


中外商業新報 第一一一〇七号 大正六年三月一〇日 ○渋沢男関西勧説(DK480155k-0002)
第48巻 p.541 ページ画像

中外商業新報  第一一一〇七号 大正六年三月一〇日
○渋沢男関西勧説 聯合国傷病兵慰問義金は九日現在九十二万四千円に達せるが、同会当事者は此際一層進んで各方面に対し醵出勧説する必要ありと認め、渋沢副総裁は来十三日東京出発左の如く関西地方勧説の途に上る由
 △十三日東京出発△十四日神戸△十五、六日大阪△十七、八日京都△十九、廿日名古屋△廿一日帰京


時事新報 第一二〇六三号 大正六年三月一三日 ○『何でも渋沢に頼め』で 『株を取つた様な訳』でと……=十四日から聯合軍慰問寄附金募集の勧誘に出る(DK480155k-0003)
第48巻 p.541-542 ページ画像

時事新報  第一二〇六三号 大正六年三月一三日
    ○『何でも渋沢に頼め』で
      『株を取つた様な訳』でと……
      =十四日から聯合軍慰問寄附金募集の勧誘に出る
  ◇渋沢男爵が……兜町の事務所で語る◇
高齢ながら矍鑠たる渋沢男爵は、聯合軍慰問寄附金募集の要務を帯びて
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  ◇明十四日の朝に◇
関西方面に向ふことになつた、銀行を退いても老男爵の身辺を囲繞する公事私事は、相変らずに絡はる、兜町の事務所に福々しい顔を現はした男爵は、後から後からと詰め掛ける訪客を愛想よく引いて、元気がよい
『寄附金の事といふと、何でもかでも渋沢に頼めなんだから
  ◇株を取つた様な◇
もので、今度も一週間の予定で京・大阪・神戸から名古屋へも立寄らうと思ひます、私の如な老人……なに徳望?いや徳望か損望か』と靨を泛べて『御承知の通り十万円の有難い御下賜金もありまするし、大御心にも副ひ奉らんが為めには、吾々も微力ながら能ふ限り充分の成績を挙げたいと思つて居りまする、時日は延期致しませんので、今月中に
  ◇二百万円の予定◇
に致したい望みであります、独り吾々小部分の慰問でありません、国民全体の心を以て応募して戴きたいのでありまする、既に百万円近くにも達して居りますが、御下賜金は別に特別な方面に向ける次第でありません、凡て一様に御取計らひの事になつて居りまする、徳川さんや外の人達と御相談の上に、今月中に予定の如くに達しますると、来月に入りますると早速
  ◇慰問使を決定し◇
た上で御頼みするか、まだ相談中であります、慰問使に就きましても日本から態々派遣致しますやら、或は聯合国に駐箚する日本の大公使を臨時慰問使として御頼みするやら、内相談中でありまする、一体かかる事は皆様も奮つて応募して戴きたいもので、実は五大都市……それ東京・大阪・西京』と男爵は指を折りながら『これ丈けで百万円を得たい目論見でありまする、後の百万円は全国から。
  ◇どうも困ります◇
のは丁度総選挙に当りまして地方の知事さん達も忙がしからうし、気が落着かん様子ですが、知事さんや市長さん達と篤とお会ひしてお頼みいたします』と男爵は自分に起つた私事の様に国家的の事業に尠からず心配される『夫れから今一つは例の理化学研究所の方の寄附金もありまして、この方は前触れと致し、再び
  ◇勧誘に参ります◇
る筈であります』と、成程老男爵の寄附金の事には何呉れとなく努力されるに同情された、人を外らさぬ男は繁忙の暇を割いて『写真ですか、新聞も進歩して参りましたね、外国風になつて、談話に写真を出すは尤も感じがよいのですから、さあさあ』と、福々しい顔を向けられた


聯合国傷病兵罹災者慰問会報告書 同会編 第一六―一八頁 大正六年一二月刊(DK480155k-0004)
第48巻 p.542-543 ページ画像

聯合国傷病兵罹災者慰問会報告書 同会編  第一六―一八頁 大正六年一二月刊
    三 寄附金応募の勧誘
○上略
地方勧誘に就ては地方長官に懇嘱したるは既記の如きも、尚大阪・京
 - 第48巻 p.543 -ページ画像 
都・神戸・名古屋・横浜・福岡の如き、戦争の為め経済上に好調を来したる都会に委員を派遣するの議起り、渋沢副総裁其任務を帯び、三月十四日東京出発、大阪・神戸・京都及名古屋を経て、同月廿三日帰京せられたり、当時の各地に於ける状況を略叙せんに
神戸にては十五日午前十一時兵庫県庁正庁に於て本会寄附金募集に関する協議会を開き、渋沢副総裁及清野兵庫県知事・鹿島神戸市長・橋本喜蔵・稲岡幸八郎・武藤山治・田村新吉・岩井勝次郎・中井昌雄・川西清兵衛・成瀬正行・河内研太郎・内田信也・四本万二・伊藤長次郎・湯浅竹之助・金子直吉・岡崎藤吉・勝田銀次郎・山下亀三郎等の諸氏出席し、渋沢副総裁より本会の趣旨並経過を報告し、慰問の目的の存する処を詳述して懇嘱せる処あり、協議の結果席上直に寄附金の申込を為したるもの拾万円に達せり
大阪に於ては十六日大久保大阪府知事・池上大阪市長・土居商業会議所会頭の名を以て同地の重立ちたる有力者を大阪ホテルに招待し、渋沢副総裁より本会の趣旨及経過を述べて懇嘱せしが、協議の結果、土居通夫・片岡直輝・小山健三・村山竜平・本山彦一・永田仁助・菊地恭三の七氏を相談役に推薦し、同市に於ける勧誘に従事することゝなれり
京都に於ては十九日恰かも京都商業会議所に於て、同地出張中の仲小路農相講演の為め、官民多数有力者の会合あるを機とし、本会の趣旨及経過を述べ勧誘せり
名古屋に於ては廿一日午後愛知県庁内会議室に於て市内の主なる実業家の参集を求めたるに、伊藤次郎左衛門・井上茂兵衛・富田重助・岡谷惣助・神野金之助・滝兵右衛門・近藤友右衛門・渡辺義郎・鈴木摠兵衛・滝定助・上遠野富之助の諸氏五十余名出席せらる、松井愛知県知事の紹介にて渋沢副総裁より本会組織の顛末及経過を述べ、右に関し上遠野富之助氏の挨拶あり、尚右の有志の人士は廿五日再び集会の上募集方法に関し協議する所ありたり
横浜及福岡へは特に人を派遣せず、渋沢副総裁より、横浜市の分は大谷嘉兵衛・若尾幾造・中村房次郎及渋沢義一の諸氏に、福岡市の分は安川敬一郎及麻生太吉の両氏に対し、特に懇嘱せり、横浜市にては二月廿一日官民の有力者神奈川県庁に参集の上、本会の趣意を賛成して寄附金募集方斡旋をなすべきことゝし、事務取扱上監事を設置することに決し、神奈川県知事の指名を以て、原富太郎・茂木惣兵衛・増田増蔵・小野光景・若尾幾造・中村房次郎・上郎清助・田中茂・山川勇木・大浜忠三郎・渡辺文七・大谷嘉兵衛の十二氏に監事を嘱託せり


中外商業新報 第一一一一二号 大正六年三月一五日 ○渋沢副総裁西下(DK480155k-0005)
第48巻 p.543 ページ画像

中外商業新報  第一一一一二号 大正六年三月一五日
    ○渋沢副総裁西下
聯合国傷病兵罹災者慰問金寄附勧誘の為め、同会副総裁渋沢男爵は既報の如く、十四日午前八時卅分東京駅発車、名古屋を経て阪神地方に赴きたり


渋沢栄一 日記 大正六年(DK480155k-0006)
第48巻 p.543-546 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正六年       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第48巻 p.544 -ページ画像 
三月十四日 雨 軽寒
午前六時半起床入浴朝飧畢テ旅装ヲ理シ、八時家ヲ発シ自働車ニテ中央停車場ニ抵ル、此日阪神・京都・名古屋ノ四都市ニ傷病兵慰問ノ事ニ付、寄附金勧募ノ為メニ出張スルヲ以テナリ、停車場ニハ多数ノ見送リ人来聚ス、八時半発車ス、蓮沼門三氏同車ス、宮原六郎氏同車シテ会計協会ノ事ヲ説ク、尾高次郎氏大坂ニ赴クトテ同車ス、汽車中雲烟濛々トシテ眺望ナシ、只砂塵ナキヲ得タリ、興津辺ニテ午飧ス、豊橋駅ニ抵リテ名古屋ノ藤森、四日市ノ井上二氏来リ訪フ、名古屋ヲ経テ大垣ニ抵リテ別レ去ル、京都駅ニテ明石・田中其他ノ人々来リ迎フ大坂駅ニ抵リ野口氏其他ノ人士来ル、夜九時頃神戸着、常盤花壇ニ投宿ス、地方ノ知人多ク来リ迎フ、夜十一時就寝ス
三月十五日 晴 寒
午前八時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、朝来種々ノ来訪客ニ接ス、清野知事・鹿島市長・杉田支店長・蓮沼門三氏及修養団員等数名来会ス、数枚ノ揮毫ヲ為シ、午前十一時県庁ニ抵リ、清野知事ト共ニ地方ノ富豪ヲ会シテ慰問会寄附金ノ事ヲ勧誘ス、鈴木・岡崎其他十数名ニテ約十万円ノ額ニ達ス、畢テ東亜ホテルニ抵リテ諸氏ト共ニ午飧ス、午後二時商業会議所ニ抵リ、神戸市ニ設置サルヽ慈善協会ノ発会式ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、午後四時須磨ナル内田氏ノ宅ニ抵リ、其饗宴ヲ享ク、清野知事・杉田・野口・山下・湯浅・河内ノ諸氏来会ス、余興数番アリ、庭園内ノ柔道ノ道場ニテ試合ヲ一覧ス、夜十一時常盤花壇ニ帰宿ス
内田氏ノ宅ハ須磨山下ノ松林中ニアリテ清絶ナリ、当日ノ来会者モ皆親友ナリシニヨリ、実ニ一夕ノ清興ヲ尽セリ
三月十六日 晴 軽寒
午前七時起床入浴シテ後日記ヲ編成ス、八時朝飧ヲ食ス、杉田・山下・田中ノ諸氏来ル、九時前杉田氏ト共ニ清野知事官邸ヲ訪ヘ、昨日ノ厚意ヲ謝シ、将来ノ斡旋ヲ請フ、九時三十分神戸発ノ汽車ニテ大阪ニ赴ク、停車場ニ余カ行ヲ送ル者多シ、十時半大坂ニ抵リ、土居氏停車場ニ来リ迎フルニヨリ、野口氏ト共ニ大久保知事官邸ニ抵リ、更ニ府庁ニ抵リテ知事ニ面話ス、十二時旅宿ニテ奈良県知事ノ来訪ニ接ス、十二時半大坂ホテルニ抵リ、大久保知事・池上市長・土居会頭ト共ニ慰問会ノ事ヲ協議シ、来会者ニ依頼ス、午飧後公会堂ノ建築ヲ一覧ス、更ニ東洋紡績会社新事務所ニ抵リテ所員ニ訓示ス、後重役諸氏ト談話ス、午後六時再ヒ大阪ホテルニ抵リ、地方銀行者及商工業家百名計ヲ招待シテ、昨年第一銀行隠退ニ付テノ挨拶トシテ宴ヲ張リテ、食卓上一場ノ謝詞ヲ述フ、土居氏・小山氏等ノ答辞アリ、一同歓ヲ尽シ、夜九時前散会帰宿ス
明石氏京都ヨリ来リ同シク自由亭ニ投宿ス
三月十七日 晴 軽寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ日記ヲ編成ス、午前九時前自由亭ヲ発シテ湊町停車場ニ抵リ、汽車ニテ法隆寺ニ抵ル、北川知事・佐伯管主其他数氏案内者トシテ来リ迎フ、十一時過着、直ニ寺内ノ各営造物及宝物ヲ拝覧ス、壁画其他ノ古物ニ付寺僧又ハ技師ノ説明アリ
 - 第48巻 p.545 -ページ画像 
畢テ寺内ニ於テ午飧ヲ供セラル、午後奈良駅ニテ汽車ヲ乗替ヘ、畝傍ニ抵リ橿原御陵ト神社トヲ拝ス、桑原宮司案内セラル、畢テ再ヒ奈良ニ抵リ、汽車ヲ乗替ヘテ京都ニ向フ、夜八時京都着、直ニ田中氏ノ案内ニテ歌舞練場ニ抵リ、片山春子ノ舞踊ヲ観ル、夜十時過玉川楼ニ投宿ス
三月十八日 晴 寒
午前七時起床入浴朝食ヲ畢リテ来人ニ接ス、午前十一時明石ノ家ニ抵リ、家人ト談話ス、是ヨリ先木内知事ヲ官邸ニ訪ヘ談話ス、明石家ニテ午飧ヲ食シ、午後三時頃一洋食店ニ抵リ、竜門社ノ総会ニ出席ス、当日ノ幹事ヨリ開会ノ趣旨ヲ述ヘ、後ニ田島錦治ノ道徳経済一致ニ付テ詳細ノ学説演説アリ、次テ余ハ思ヘ出多キ京都ト題シテ懐旧談ヲ為シ、更ニ実際上ヨリ道徳経済ノ一致ヲ説明ス、夜飧後青柳氏ノ幻灯ヲ以テ実地ヲ示シタル欧米視察談アリ、一同満足シテ夜十時頃散会ス、此日会スル者百五・六十人許リナリ、夜十時過帰宿ス
三月十九日 雨 寒
午前七時起床入浴朝食ヲ畢リテ三・四ノ来人ニ接ス、午前十二時中村楼ニ抵リ、京都ナル各銀行者ノ招宴ニ出席ス、食事中ニ代表者ノ挨拶アリ、余モ答詞ヲ述ヘテ之ヲ謝ス、畢テ商業会議所ニ抵リ、仲小路農相ノ演説アリ、畢テ会衆ニ慰問会ノ趣旨ヲ述ヘ、寄附金ノ事ヲ依頼ス帰路明石ノ家ヲ訪ヘ、夕方玉川楼ニ帰リテ京都支店ノ行員等ヲ会シテ晩飧ス、田中源太郎・明石照男氏等来会ス、種々ノ余興アリ、片山春子モ来会ス、夜十時散会、十一時就寝ス
三月二十日 晴 寒
午前七時起床入浴、朝食畢テ揮毫ヲ為ス、十一時ニ至リテ罷ム、午前十一時半自働車ニテ桓武帝ノ御陵ヲ伏見附近ニ拝ス、又桃山御陵及東陵ヲ参拝ス、後宇治菊屋ニ抵リテ午飧ス、山川ノ風致ヲ眺望シテ午後三時伏見第一銀行支店ヲ一覧ス、明石・大橋氏等同伴ス、畢テ岡崎ニ抵リ、奥村氏ノ電気工場ヲ一覧ス、午後五時半京都ホテルニ抵リ、余カ隠退披露会ヲ開ク、来会者約百五十名許ナリ、食卓ニテ一場ノ懐旧演説ヲ為ス、浜岡光哲氏来賓ヲ代表シテ答詞ヲ述フ、夜十時過散会ス此夜国際通信者ナルケネジー氏一米人ト共ニホテルニ於テ面会ヲ求メラル、依テ会見シテ露国政変ニ関スル近況ヲ聴取ス
三月二十一日 曇 寒
午前六時起床入浴シテ朝食ス、直ニ旅装ヲ理シテ八時竹内栖鳳氏ヲ其居ニ訪ヒ、曖依村荘ノ画幅ニ付談話ス、明石家ヲ訪フテ老母ニ告別ス九時過停車場ニ抵ル、送別ノ人多ク来会ス、九時半京都駅ヲ発ス、車中中橋徳五郎氏ト会話ス、十一時半名古屋着、直ニ自働車ニテ河文楼ニ抵ル、地方銀行者ノ招宴ナリ、午飧中演説及答詞アリ、三時県庁ニ抵リ、慰問会寄附金ノ事ヲ協議ス、本県知事及市内ノ発起者種々勧誘ニ勉ム、畢テ伊藤氏ノ店舗ヲ一覧シ、更ニ銀行集会所ニ抵リ、余カ隠退ノ披露会ヲ開ク、来会者百名許ナリ、食後一場ノ挨拶ヲ為ス、鈴木総兵衛氏来賓代表トシテ謝詞ヲ述フ、夜十時散会再ヒ魚半楼ニ地方青年者十名許ヲ会ス、徳川義親侯モ来会ス、一同歓ヲ尽シ、各心事ヲ披瀝シテ談話懇篤ナリ、夜十二時散会、丸文楼ニ帰宿ス
 - 第48巻 p.546 -ページ画像 
三月二十二日 半晴 軽寒
昨夜ヨリ風邪気ニテ午前九時起床、入浴ヲ廃シ、洗面シテ直ニ朝飧ス朝来種々ノ来人アリ、福沢桃介・伊藤守松・鈴木総兵衛・中井巳次郎藤森支店長等来話ス、午後十二時四十分発ノ汽車ニテ名古屋駅ヲ発ス多数ノ人士停車場ニ来リテ送別ス


竜門雑誌 第三四七号・第四一―六二頁 大正六年四月 ○青淵先生関西紀行 随行員 白石喜太郎記(DK480155k-0007)
第48巻 p.546-549 ページ画像

竜門雑誌  第三四七号・第四一―六二頁 大正六年四月
    ○青淵先生関西紀行
                随行員 白石喜太郎記
 青淵先生には旧臘以来熱心御尽力中なる聯合国傷病兵罹災者慰問会に対する寄附金勧誘の要務を帯び、三月十四日朝出発西下せられ、神戸・大阪・京都及び名古屋を経て同月二十二日夜帰京せられたるが、序を以て昨秋御病気の為め中止となりし第一銀行引退御披露の宴をも各地に於て催されたり。此行幸ひに随従する事を得たれば、玆に余白を借りて御動静の一斑を録し諸賢の劉覧に供ふることゝしたり。
      一 日程
三月十四日 午前八時三十分東京駅を発し、午後九時十一分三の宮駅に下車、直ちに自働車にて旅宿常盤花壇に赴かれ一泊せらる。
三月十五日 午前十時兵庫県庁に赴かれ、同正庁に於て聯合国傷病兵罹災者慰問会寄附金の件につき有力者と協議せられ、正午はトーアホテルに於て右会合の諸氏と午餐を共にし、午後三時より商業会議所に開かれたる兵庫県慈善救済協会発会式に臨まれ御演説あり、午後四時半同処を辞し、須磨なる内田信也氏の邸に赴かれ、午後十時半帰宿せらる。
三月十六日 午前八時半宿を出で官邸に知事を訪問せられ、午前九時三十一分神戸駅発の汽車に搭せられ大阪に至る。梅田駅より自働車にて知事官邸に赴かれ十一時半一先旅宿自由亭に入られ、直ちに又大阪ホテルに向はれ来会の有力者と午餐を共にし、終て聯合国傷兵罹災者慰問会の件に付協議せらる。午後四時同処を出でられ大阪市公会堂の建築場に立寄られ、転じて東洋紡績株式会社新築営業所に入り社員に訓辞を与へられ、更に大阪ホテルに引返され午後六時より御引退披露宴を張らる。
三月十七日 午前九時十五分湊町を発し、午前十時二十四分法隆寺駅に下車し人力車にて法隆寺着、急ぎ拝観の上午餐の饗を受け午後零時二十六分発の汽車にて同処出発、奈良にて汽車を換へ畝傍に向ひ午後二時三十六分同処着、神武天皇御陵及橿原神宮を参拝せられ、午後四時八分畝傍駅を発し午後八時京都に着せられ、直に歌舞練場に赴かれ午後十一時半旅宿玉川楼に入らる。
三月十八日 午前十時第一銀行東洞院支店に赴かれ、特に来集したりし同行京都及伏見支店員に訓言を与へられ午前十一時半之を辞し、途に府知事を御訪問の上明石邸に赴かれ、午後三時同邸を辞し直に万養軒に開会の竜門社臨時集会に臨席せられ、午後十一時過帰宿せらる。
三月十九日 正午祗園中村楼に於ける銀行集会所主催の午餐会に臨ま
 - 第48巻 p.547 -ページ画像 
れ、午後四時には商業会議所に赴かれ聯合国傷兵罹災者慰問会の件に付き来会者に演説せらる。
三月二十日 午前十時半自働車にて出発、桓武天皇御陵・桃山御陵及び桃山東御陵を順次御参拝の上宇治に入り、菊屋にて午餐を認められ午後三時同処を発し途に伏見支店に小憩の後、京都に入り奥村電機商会工場を一覧し、京都ホテルに赴かれ、午後五時半より御引退御披露の宴を張らる。
三月二十一日 午前九時二十四分京都駅を発し午後零時四十一分名古屋着、直ちに川文に於ける銀行集会所の歓迎会に列せられ、午後三時県庁に赴かれ聯合国傷病兵罹災者慰問会の件に付協議せられ、午後四時半同処を辞し、途中伊藤呉服店に小憩の後銀行集会所に赴かれ、午後七時より御引退御披露の宴を催され、午後九時半更に百春楼に同地小壮実業家を招待して懇親の宴を開かれ、午前一時過帰宿せらる。
三月二十二日 午後零時四十七分名古屋発の汽車に搭し午後八時三十分帰京せらる。
○中略
      三 神戸
 明くれば三月十五日なり。粛々として降りたりし夜来の雨もいつしか晴れて暁の空の色も麗しく、散り残れる白雲に宵の名残を窺はるるのみなりき。
 朝来清野知事・鹿島市長・湯浅竹之助・山下亀三郎・熊谷辰太郎の諸氏引続き来訪せられ、又蓮沼門三氏は当地の団員二・三名と共に来訪す。此間に亦新聞記者をも引見せられたるが、大阪新報記者が先生の談話なりとて報導する処を掲げんに
 支那は愈々独逸と国交を断絶することになりたるが、今日迄の成行に徴すれば、早晩協商国に加入して独逸に宣戦することになる可きが、参戦の結果支那自体は勿論、日本の地位が如何になる可きやと云ふ点に付種々の観測行はるゝも、支那としては従来の孤立の地位を脱して協商国と提携する次第なれば、政治上・経済上種々の援助を享け大に利益する訳にして、日本の利害に就いては新聞紙上彼是の説を見るにも、自分一個の考へとしては不利を来すこと万々なかる可しと思ふ所なり、其次第は支那の交戦参加に依り直ちに日本が利益することなくも、平和克復後に於て其利益は漸次に顕現す可く講和談判に於ても既に戦争の道伴れとなり居る以上利害は一致す可く、日本と支那との利益が合体せる場合に於て、支那が日本の不利を図るが如きこと万々ある可からず、唯加入交換条件として支那が或る種の問題を提起したりと云ふことは、此際支那の利益なる可きが大に考慮を要する所にして、仮りに交換条件を提出したりとするも日本は日本として其利害を慎密に研究し、之に応ず可きや否やは一に国家の最高政策より適切の判断を下ださざる可からず、目下喧間敷くなり居れる関税問題に就いては一昨年宛かも加藤外相の時代にも起り、当時自分は紡績業者の意見を聴取し外相に向つて慎重に研究せんことを求めたり、其趣旨は紡績業は余に有利の事業となりたれば多少の税金を課するも可なる可しとか、日本に大した損害に
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ならざる可しとか簡単に独断せずして、諸種の利害を比較研究し、一方に失ふ所あるも他に之を償ふの途を立て国家永遠の利害を深く講究す可しと云ふに在りたり云々
 かくて午前十時には宿を出て自働車にて県庁に向はる。聯合国傷病兵罹災慰問会に対する寄附金募集に関する打合会に出席せられんためにして、杉田氏と共に随従す。県庁に到れば清野知事斡旋の下に当市の有力者二十余名既に正庁に来集せり、依て先生には直ちに之に入り会の発起・組織・経過・寄附金の予想額に付き懇切に演述せられたる後、出席者一同の協議を請ひ、右協議の上一同寄附金帳に記入をなし終つて散会し、更に自働車をかりてトーアホテルに至り、此処に右来会の諸氏を招請し午餐を共にせらる。
 午後三時過る頃同処を辞し、商業会議所なる兵庫県救済協会発会式に臨まる、出席者は清野知事、渡部内務部長、県警察部長、鹿島市長、土岐助役、菅相生橋・中林兵庫両署長、神田兵右衛門、川西清兵衛、内村直俊、岡崎藤吉、内田信也、伊藤長四郎、山本医師会長、加藤神戸監獄典獄、佃教誨師、鶴崎第一中学・平沢第二中学校長、其他各種慈善団体代表者並に学校長・実業家約七十名にして、先づ発起人総代として清野知事起つて同会組織に関する経過を報告し、慈善団体統一発展の急務を感じ諸君の援助を乞はんと計画中、恰も渋沢男が傷病兵慰問会寄附金募集の用務を帯び来神せられたれば此れを機会として発会式を挙行し、慈善団体に最も深厚の同情を有せらるゝ男爵の御講話を拝聴することゝ為したりと紹介し、於之先生には悠然登壇せられ開口一番
 知事公は唯今渋沢其人は尊敬もするし歓迎もするが、何時も寄附金の勧誘に来る為め、渋沢と云ふと又かと稍嫌はるゝやに思はれて折角の御奔走に対し気の毒だと云はれましたが、之は御親切の程誠に有がたいとは思ひますけれども御心配は全然当りません、否、渋沢は嫌はるゝどころか到る処で大に歓迎せられます、勿論御当地に於ても大に歓迎せられます、現に其証拠は先程県庁で聯合国傷病兵罹災者慰問会に対する寄附金の事に付て、御当地の有力者諸君に御願ひしましたところ、立処に、然も、御一同欣然として多額の寄附をして下さいました、これ程確な証拠はあるまいと存じます、どうぞ皆様も御安心を願ひます。
 と満場を笑はせて愈本題に入り左の如き実験談を試みられたり。
○中略
      三 大阪
 午前十時二十分梅田駅につけば、土居通夫・佐々木精麿其他の諸氏出迎へらる。先生には土居・野口両氏と共に知事を訪問せらるゝ為め其官邸に赴かれ、約三十分対談の後、一先旅宿自由亭に入られ、態々出張して待ち受けられたる木田川奈良県知事に面会せられ、明日の法隆寺、畝傍参拝につき打合せらる。其内十二時過となりたれば、又自働車に搭ぜられ大阪ホテルに於ける聯合国傷病兵罹災者慰問会に対する寄附金打合会に臨席の為め宿を出でられぬ。ホテルに至れば知事の尽力により当地有力者二十余名已に来集せられたれば、直に食堂を開
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きて午餐を共にせられ、終つて席を川沿のベランダに移し、先生には同会に関し詳細の講演をなされたり。かくて右寄附金募集に関し県知事・市長及び商業会議所会頭の外に六名の世話人を先生より指名依頼し会を閉ぢたり。此間露国大革命の号外あり、場所柄外人の来泊するもの多きことゝて何となくざわめきて見えぬ。
○中略
      五 京都
○中略
        (二)滞京第一日
 三月十八日薄墨の如き空に明けたり。先生には午前十時宿を出で自働車にて第一銀行東洞院支店に向はる○中略 午前十一時半頃銀行を出で府知事官舎に木内知事を訪問せられ聯合国傷病兵罹災者慰問会の件につき打合せられ、約四十分にして辞し明石氏邸に向はる○中略
        (三)滞京第二日
 明くれば三月十九日なり。旧京の春に相応しき静なる日を、銀いぶしの如き底明りある空は窓に近き東山に柔かに蔽ひかゝり、降るとしもなき春雨のしとしとと仄かに煙りぬ。○中略
 午前十一時半頃明石氏来訪せられたれば、先生には直ちに自働車を命ぜられ祇園中村楼に向はる、蓋し当地銀行倶楽部の諸氏先生のため歓迎午餐会を催されしに付き之に列席せられんためなり。○中略
 かくて午後三時少し前厚く礼を述べて之を辞し、一先旅宿に入られ小憩の上、更に自働車にて商業会議所に赴かる、此日仲小路農相関西旅行の途次当地に立寄り、午後三時より当地有力者を同所に招き演説ある筈なりしかば、其終るを待ちて来集の諸氏に対し先生より聯合国傷病罹災者慰問会寄附金勧誘に関し演説せらるゝことに打合せありたれば、時間を見計ひて出向はれたるなり。然るに同処に着かれし時には農相の演説之より始らんとする処なりしかば、徒らに待ち暮らさんも心なしとて列席して傍聴す。約一時間半にして之を終りたれば先生には木内知事の紹介にて直ちに演壇に立たれ懇切、鄭寧に慰問会の発起・組織・将来の方針等につき縷述せらるゝ事約一時間にして之を辞し、一先休憩室にて休憩の後旅宿に帰へられたり。
○中略
      六 名古屋
○中略
 先生には直ちに川文に於ける当地銀行集会所主催の歓迎会に臨席のため自働車を走らされ藤森氏○忠一郎と共に同乗随従す。かくて午後二時半頃之を辞し直ちに県庁に赴かる、蓋し聯合国傷病兵罹災者慰問会寄附勧誘のためなり。県庁にては先づ知事に面会せられ種々打合の上、午後三時先づ発起人諸氏に対し熟談せられたる後、会議室に於て更に来会者一同に対し同会に関する詳細を演述せられ、愛知県全体にて十万円位の寄附あらん事を希望せられたるが、結局五万円見当の負担と云ふ事になり、向後の取纏方は知事に於て引受けらるゝ事とし、之にて散会し○下略
  ○三月二十一日名古屋滞在中ノ記事ナリ。

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東京日日新聞 第一四五三六号 大正六年四月一三日 ○慰問会寄附見込 渋沢副総裁の報告(DK480155k-0008)
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東京日日新聞  第一四五三六号 大正六年四月一三日
    ○慰問会寄附見込 渋沢副総裁の報告
聯合国傷病兵慰問会副総裁渋沢男爵は過般関西地方に出張寄附金募集の結果報告の為め、衆議院議長官舎に於ける同会事務所に臨時集会を開催し詳細の経過報告をなしたるが、該報告に拠れば神戸に於ては県知事及重なる実業家等何れも非常の賛成にて一夜の勧誘演説にて十余万円の寄附申出あり、同県下に於ては少くも十三・四万円の寄附を見るべく、大阪に於ても府知事・市長・実業家の賛成は神戸に譲らず、同地市長の談に拠れば先づ五・六十万円は纏め得べしとの事なりしが先づ四十万円前後は大丈夫なるべく、京都にありては由来外国との交渉阪神の如くならざる同地の事なれば、熱誠を込めたる予の勧誘演説も聴者の多かりしに似ず寄附額は余り多からざる模様にて、或は三・四万円内外に過ぎざるやも知れず、次ぎに名古屋にては阪神両地に於けるが如く賛成者非常に多く、同県知事・市長等の見込を聞くに五・六万円は確実なるべしとの事なりしと云ふ、右の結果関西方面に於ける寄附金総額は六十万円乃至八十万円見当にして、之に東京の百万円(皇室の御下賜金十万円を加算)を加ふれば百七・八十万円に上るべき見込なりと


渋沢栄一書翰 杉田富宛 (大正六年)五月九日(DK480155k-0009)
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渋沢栄一書翰  杉田富宛 (大正六年)五月九日   (杉田富氏所蔵)
拝啓 益御清適奉賀候、然者先般貴地参上之節御願申上候傷病兵慰問会寄附金募集ニ付而ハ引続き種々御心配被下感謝之至ニ候、知事公及市長ニ於ても不相替御心添相成稍目的之募集出来いたし当方一同満足仕候、只残念なるハ川崎造船所之関係ニ付折角両度まて英国へ電報相発し松方氏へ依頼致候得共、日本ニて川崎へ相談可致と申拒絶的之返電ニて此上川崎氏へ申込候とも到底応諾無之と存候ニ付其儘ニいたし置候、乍去貴方ニ於てもしも川崎芳太郎君ニ会見之便宜有之今一応依頼之工夫有之候ハヽ、可相成ハ川崎も鈴木同様更ニ壱万円を加へ金弐万円と相成候様此上之御心配被下度候
貴方各方面之勧募ニ付而ハ知事・市長其他之諸彦ニ色々と御助力相願候義ニ付、貴兄より可然御礼御申伝被下度候
○中略
  五月九日
                      渋沢栄一
    杉田賢契坐下
尚々知事・市長其他之諸君へも御逢之節御伝声頼上候也
「神戸市栄町第一銀行支店」 杉田富様 親展 「東京市日本橋区兜町弐」 渋沢栄一
五月九日