公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第32巻 p.141-154(DK320008k) ページ画像
明治42年9月19日(1909年)
是日渡米実業団一行ミネアポリスニ入ル。同日、其近郊ミネトンカ湖畔ラファイエット倶楽部ニ到リ、大統領ウィリアム・タフトニ会見シ、後、午餐ヲ共ニス。栄一此ノ席上演説ヲナス。二十日、同市商業会議所ノ歓迎会ニ臨ミ、次イデミネソタ州立大学等ヲ参観ス。
渋沢栄一 日記 明治四二年(DK320008k-0001)
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渋沢栄一日記 明治四二年 (渋沢子爵家所蔵)
九月十九日 晴冷
午前六時汽車ミネヤホリスニ着ス、八時朝飧ヲ畢リ、歓迎者ノ案内ニテ旅館ニ抵リ、衣服ヲ改メ直ニ電車ニテタフト大統領ノ滞在スル湖水ニ沿フタル一倶楽部ニ抵リ、謁見ノ式アリ、一行各握手ノ礼ヲ為ス、畢テ食卓ヲ共ニシテ午飧ス、余ハタフト氏ノ隣ニ席ヲ占ム、今日ノ会長ハミネヤホリスノ人ニテネルソン氏ト云フ、食事畢テ司会者ノ演説アリ、後余ハタフト氏ニ対シテ答辞演説ヲ為ス、宴会畢テタフト氏先ツ席ヲ去リ、後一行モミネヤホリスニ帰リ、二三ノ工場ヲ一覧ス、夜地方人ノ催ニ係ル饗宴アリ、司会者ノ挨拶ニ次テ一場ノ答辞演説ヲ為
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ス、十一時散会ス
九月二十日 晴冷
午前七時起床、入浴シ、後朝飧ヲ食ス、午前十時頃ヨリ市役所ニ抵リ市長ノ接見アリ、市長ノ演説ニ対シテ答辞ヲ述フ、夫ヨリ観工場《(勧)》ニ抵リ、場内一覧後午飧ス、食後ミネソタ州立大学ヲ一覧ス、前州長タリシ人案内セラル、畢テ旅館ニ帰リ晩飧ヲ為ス
夜十時汽車ニ搭シテ暁ニ発車ス
竜門雑誌 第二六六号・第三○―三八頁明治四三年七月 ○青淵先生米国紀行(続) 随行員増田明六(DK320008k-0002)
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竜門雑誌 第二六六号・第三○―三八頁明治四三年七月
○青淵先生米国紀行(続)
随行員 増田明六
○上略
九月十九日 晴 (日曜日)
午前七時ミネアポリス市に到着、八時車中朝餐を終り、九時同地商業倶楽部の代表者と接見し、其の案内にてホテル・ウヱストに到り、直に衣服を改め、十時歓迎委員の案内にてホテル前より特別電車に乗じてチヤーチに到り、牧師の熱心なる説教を聴聞し(電車を下りてチヤーチに到る前、乳母車に乗りたる七十余歳の老嬢の希望に依り、青淵先生令夫人之と握手を為す)畢りて再度電車に主客分乗して、市を距る二十哩なるミネトンカ湖畔のエキセルシオ(此辺は特に印度人の土語を取りたる名前多きを以て地名等甚だ唱ひ悪し)に抵り、此処より汽船にて湖上を渡り、ラフエツト倶楽部に抵る、此倶楽部に於て米国大統領タフト氏に謁見し、午餐を共にする予定なり。
青淵先生・同令夫人を先頭に汽船を降りたる一行は、列を正して倶楽部に参入するや、市の歓迎員及大統領の随員等迎へて楼上に導き、少憩の後下の広間に於て大統領に謁見したり、水野総領事先づ進みて大統領に握手し、一行の為めに紹介且通訳すべしとて其傍に起つ、青淵先生は団長として進み握手を為し、且種々談話の交換を為し、次ぎて神田男爵・中野氏以下、大阪・京都・横浜・神戸・名古屋の順序にて先づ正員の謁見を終り、夫れより亦同上の順序にて専門家の謁見を為す、尚夫人は青淵先生令夫人を先頭に、男子と同一順序を以て謁見を了す、水野総領事人毎に紹介すれば、大統領は其人毎に相応しき挨拶を為し、愛嬌よく親しげに握手せられ、其態度の平民的にして、談笑せらるゝ様少しも隔心の様無し、此謁見終るや直に食堂に入り、十数箇の円卓を囲みて日米人交互に着席したるが、其数数百名以上なりしならん、青淵先生は中央の円卓にタフト大統領と相隣りて席を占む、此食堂の後方は硝子障子を隔て芝生の庭園なれば、此の光景を見んとて玆に集合せる老幼男女無数なり。
午餐将に終らんとするに先ち、本会の司会者商業倶楽部会頭ネルソン氏起ちて歓迎の辞を述べて青淵先生を紹介す、青淵先生は拍手に迎へられて、謹厳なる態度と熱心なる音調とを以て演説せられ、頭本元貞氏又厳正の態度を以て之を英訳し、要処々々に到れば拍手の声堂を圧せん計りなり、青淵先生は此英訳終ると共に杯を挙げて大統領の健康を祝し、一同和して万歳を三唱したり、次にタフト氏は起ちて朗々た
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る大音声を上げて演説を為す、拍手足踏雷の如し。
青淵先生の演説大要
予は日本実業家の代表的団体の代表者として、世界最大共和国の大統領閣下の如き名誉ある且高貴なる人格が、万機鞅掌の際、且御旅行中に係らず、特に予等に会見の光栄を与へられたるを衷心より感謝の意を表し、尚本席の主人たるミネアポリス市の商業倶楽部の諸君に対して、諸君の厚意、及び予等日本人が現代の大人物として、又特に日本の親厚なる友人として、最大の尊敬を捧げる貴国の大統領閣下に拝謁し得る機会を与へられたることを感謝す、七年前予が当国に来遊したる際、幸にして当時の大統領ルーズベルト氏の引見を得たりしが、其際氏は我国の陸軍及美術に関し幾多の讚辞を与へられたるも、商工業に至りては何等言及せらるゝ所なかりき、惟ふに当時日本に於ける商工業の進歩また大に注意に値せざりしが為ならん、故に予は其席に於て、次回謁見の際には我経済上の進歩に付き、予等実業家の努力に対し多少の批評を蒙るに至らんことを期待する旨を述べたり。
七年間に於ける我国商業の発達はまた以て誇るに足らずと雖ども、今回再度貴国に来遊するに当り、日本有史以来先例なき商業団体の団長として、貴国の最も尊敬すべき大統領閣下が隣席を此宴席に占め、而して我国経済上に関し、熱誠にして真摯なる商業倶楽部会頭の意見に認識を与へられたるが如きは、予に取りて少からざる愉快にして、又衷心感謝に堪へざる処なり、予等の使命は本来社交的のものにして、礼譲の交換、友誼の興新及び開拓に外ならずと雖ども更に商業上の意味を有す、蓋し日米両国々際の商業をして、鞏固にして永久的のものたらしめんには、之を相互的のものたらしめざる可らず、換言すれば予等は貴国の工場・銀行・農場、其他経済的活動の諸方面に亘りて十分研究調査を遂げ、以て現今の両国貿易よりも大に貴国に対して売らんとすると共に、又更に大に貴国より買はんと欲するものなり、此の目的此の趣意に対し、貴国民は十分なる用意を以て予等を迎へ、貴政府及び各地商業会議所が予等一行に代表者及び専門家を附属せしめ、貴国の商工業に対する予等の研究に十分の便宜を与へらるゝのみならず、而かも是等の代表者並に専門家諸君は、其の所属の範囲に於て、顕著なる地位を有する人にして予等一行の旅行を愉快に且有益ならしむる為に全力を尽して惜まざるは、中央政府及各商業会議所に向て厚く謝意を表する処とす。
予等が貴国に上陸して以来已に三週間、到る処行く処として何れも双手を開いて迎へられ、質問調査に対しては有らゆる便宜を与へられたりき、予等は已に諸方面より米国を観察するを得たり、太平洋沿岸に立ては森林のアメリカを見、スポケーン、フアーゴ、グランド・フオークスに於ては、驚くべき大農場のアメリカを見、アナコンダ、ビユーテ、ヒツビングに於ては、雄大なる鉱業のアメリカを見たり、行くに連れ進むに従て、予等は貴国の天然の富源の偉大なるに驚き、更に此の富源を開発すべき貴国人の精力及び智識に対して、衷心嘆美の声を発するを禁ずる能はざるなり。
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日本が、米国に依りて輓近の文明社会に紹介せられてより爰に半世紀、両国民を聯絡する交情は年々歳々鞏固を加ふ、嘗て我災厄ありし時、貴国は欣然として我に同情を表し援助を与へられたり、我が全国民は之に対し永久渝らざるの好感情を抱持す、此友誼を益々深厚に且鞏固ならしめん事は、日本国民全体の熱心なる希望にして、而かも同様の希望が米国民全体に依つて抱持さるゝ事は、予等の団体が経過する各地方に於て到る処に受けたる歓迎を蒙りたる厚情に依りて、之を証し得べきなり。
予等は何等官職を帯びて来りたるに非ざるも、之を広義に解釈すれば、日本国民が貴国民に対して派遣したる平和の使節なりと云ふを得べし。
今回吾等の本国を出発するに際し、我が 天皇陛下は、国史あつて以来曾て無き殊遇を我が一行に与へられ、特に離宮の一に於て宴を賜はりたり、是れ我国に於ては、官職を帯びずして外国に赴く者に対しては、空前の名誉と云ふべきなり、此の記憶すべき場合に於て宮内大臣は勅旨を奉じて吾等実業団の渡米は深く聖旨に副へる旨を伝へられ、尚予等実業団の成功は陛下衷心の希望なる旨をも宣べられたり、叡意已に斯くの如し、而して我国民の意志も亦之に異ならず、上下一致吾等に対して熱誠なる送別の意を表する事、尚、武勲ある勇士の遠征を送るが如きものありき、之を以て諸君は、予等一行に対し日本に於て国民が表はしたる賛成熱心が、如何に強く如何に大なるかを推知せらるべく、又之を以て日本国民が、此の文明なる共和国の人民に対し已に懐き、又現に懐きつゝある特殊の情誼の有力なる例証と認め得べし。
終りに臨んで、両国間に存在せる親善なる友誼、輯睦なる交情は、年と共に鞏固を加へ、正義平和の基礎の上に、天壌と共に長へに渝らざらんことを希望す。
大統領タフト卿演説
斯る勢力あり識見に富み、且つ最も愉快なる日本紳士諸君と玆に会することは、欣喜に堪へざる所なりと言はゞ、此席にある聴衆諸君の思うて言はんとする所を言ひ得たりと信ず、然れども予が此の席の日本紳士諸君に対し抱持する同情は、米国人諸君よりも遥に優越せり、日本の紳士諸君は米国を縦横して二箇月以上に渉る大旅行を為しつゝあり、現に此席の如きも、即ち諸君が此二箇月間に日々受くべき饗応の一例に外ならず、予も亦二箇月を同様に過すべき途中にあり、故に予の同情は日本の紳士諸君に対して殊に切なるものあり、今や米国人諸君が此国の凡百の事物(製造・農業・商業、其他各種の形式に於ける歓迎上の注意)を彼等に示すに吝ならざれども是れ固と吾国人が日本に遊びし時に、日本人が我に向つて表したる好意と歓迎の、僅に一少部分を酬ひつゝあるに過ぎす。
然れども此一行には、即ち五十人の最も敏捷なる実業家、遠謀深慮に富み商業上の経験に富みたる人士を包含するを以て、予は我米国の商人及び製造家に対し、その日本実業家の一行に示す所のものは此一行が将来両国民間の友誼的討議及び友誼的商業競争に利用さる
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ることあるべきを警告せんとす。
日本の実業家の一行は、今や観光漫遊の客たり、然れども彼等は用意周到なる国民なれば、斯る方面に於て得らるゝ丈の教訓を得て去らずんば已まざるべし、然れども予は毫も之れを悲しまず、予は諸君が能ふべき丈けの教訓を持去らんことを希望し、而して其教訓が日本を裨益せんことを希望して已まず、若し吾人にして日本を裨益し得べくんば、現在よりも繁栄ならしめ、現在よりも活溌ならしめ以つて日本商工業の利益を開発するに資する所あらんことを希望して已まざるなり、予は世上の近眼者流が信ずるが如く、自己の進歩を図らんが為めには隣人の進歩を防止するを良策とすと信ずるものにあらず、之に反して予の信ずる所によれば、我等米国民は日本より学ぶ所多かるべく、又た、日本人も吾人より学ぶ所なかるべからず、吾人は相互に教訓を交換し親交の増進に努むると同時に、一方が商工業に於て発達すると共に、他方に一層有利なる華主となるべきものにして、此関係は互に相酬ゆる次第なり、往昔殖民政略の時代に於て、殖民地及属領を常に幼稚なる状態に置き、属地属領の民には売るべき貨物の市価も、又買ふべき真の市価も知らしむることなく、以つて本国政府は属地属領よりの産物を極めて廉価に買ひ、属地属領に売込む貨物を極めて高価に売らんとするの政略を取りしもの尠なからず、此の如き商略は暫時は有効なるが如しと雖も、畢竟母国にも属領にも彼我共に利益あるものにあらざるなり、同様の関係は対等の国民間にも存す、一方の発達は他方の利益なり、若し友隣国民間に存すべき友誼の関係にして常に維持され、又商業的の約束にして常に存在すべくんば、一国の発達は其の隣国の利益に外ならず。
斯る日本の実業的代表者に会することは、予の極めて深厚なる愉快を感ずる処なり、最近数年間に於て六・七回日本を訪問し其驚くべき国民の歓待を受けたることは、予の顧みて幸福とする所なり、一回たりとも日本を訪問したるものは深き印象を抱かずして日本を去る能はず、而して予の如きは六回も訪問し、殊に其内の二回若しくは三回は日本皇帝及び国民の賓客として待遇せられたるものゝ抱く印象の如何なるべきやは、諸君の想見し能ふ所なるべしと信ず。
我米国人は不可思議なる国民にして、而も新聞事業も営利の商業に外ならざれば、其の販路を拡めんが為には、時々読者の感情に訴へて煽動的の記事を掲ぐるの必要を感ずる事あり、而して之れを為さんとするに於ては、単に誤りなき事実を記載するのみにては成功する能はず、時としては想像より画き出したる記事を捏造するの必要あり、而して其記事たるや、事実に於ては全然無稽の事なるも、何等かの新聞種を読者に供給し、以て販路を維持し、若くは増進せんことを得べくんば、新聞営業の本能足れりとすべし。
現に近き過去に於て、米国人の一部は大いに煽動されたるものあるも勿論一部に外ならず、何となれば吾人の中真の事実を知るものは決して日本と米国との間に国際的面倒ありなどゝ云ふ記事に依つて煽動さるゝこと、決してあらざる可ければなり――予が信ずる所に
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よれば斯る記事を掲ぐることを敢てせし新聞紙さへも、今に於ては最早日米間の紛擾等毫も筆にせざるに至れり。
米国人にして嘗て日本に赴き、而して日本国民の国是及び理想を理解し、又其の偉人傑士等に親しく会合し緩話したる輩は、決して両国間に這般の面倒などあるべしとは考へ及ばず、日本は一の競争に加入し居れり、一の紛擾にも従事し居れり――予は之を殆んど戦争に参加し居り、且つ其用意をなしつゝありと言はんとしたり、然れども予は斯く言はざるべし、何となれば戦争若くは其準備を為すと云ふが如きは、大に語弊あればなり――其紛擾又は競争は、日本自体の富源を開発し、及び日本国民をして商業国民として大なる成功をなさしめんとする努力競争に外ならず、日本は其技倆と手腕を兵馬の戦場に於て示したり、日本は周到なる準備及び勇気、注意深く且つ熟練したる手段を以つて、国家としての野心、自国権利の防禦及び国際的地位の維持の為めに、其技倆を戦場に示したり、然れども日本が今従事せる所の者は最早兵馬の戦争にあらず、日本国民は今や平和の戦争に向つて用意せり、而して吾人米国民は日本が此平和の競争に於ても又成功せんことを信ず、勿論我米国民は、能ふべくんば此国際的競争に於ても日本に屈服すべきにあらず、吾人は此競争に加はり之れに因つて一部人士間に抱かるゝ無稽の思想(即ち米国は今日迄極東若くは亜細亜に於て為したるよりも、更に聊かにても地歩を進めんが為に、此競争に加はれりとの無稽の思想)を打破せんことを希望す、実の所若し予にして言ふを得べくんば、我米国の実業家は自国内に於ける商業上の、所謂成功を以て自ら誇り自ら満足し、聊か自ら欺ける所なきに非ず、随て国内の需用に満足して、未だ大なる注意を国外にある華主の希望及趣味に対して、払ふことを忘るゝを常とし、為めに他の諸外国者に後れを取ること尠からず。
例へば外国よりの注文を受くる場合に於て、米国製造家は言はん、我製造場に於て製するものは此寸法此模様に外ならずと、若し外国者の注文にしてこれらの寸法・形様、及び模様に甘んじて購入すれば則ち止む、然らざれば、華主は余儀なく去つて、他国に供給を仰ぐに至らん、而して若し外国の華主にして、自己の意に満てるものを他国に於て購ひ能はずんば即ち可なり、而も事実は之に反して外国商人及製造家は頻りに其華主の趣味及び要求に迎合することを努む、其結果は米国商品は常に外国需要地に於て第二位・第三位、或は四位に置かるゝことを免れざるなり。
然れども吾人は追々此方面に心付き、今や鋭意外国の市場を開拓せんとす、されば我等米国人は、我実業上の利益を進めんが為めに漸次啓発する所あるを以て、予はこゝに日本国よりの友人に向つて一言警戒する所あらんとす、即ち我等米国人は競争の出発点以前に於て聊か遅慢なるを免れず、又如何にして自己の利益を啓発すべきやを会得するには聊か迂なりしと雖も、其間に着々準備をなしつゝありしものなれば、諸君日本人は、自今米国人との競争に対し、大いに警戒せざるべからざることを告げんとす。
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今予はこゝに一の乾杯辞を提唱するの大なる愉快を有す――其寿盃は或る高貴なる人格――終始渝らず其民衆の福祉を慮ること誠実にして、国家臣民を愛さるゝ熱情に富み、且つ適材を適所に置くに巧妙なる手腕を示し、以て輓近日本の驚くべき進歩を成就したる、(蓋し国家を治むるの術に於て、適材を適所に置くよりも以上に必要なる手段なければなり)――高貴なる人格に対して、玆に寿盃を挙げんとす、予は今米国の親友にして予が親しく知遇を辱ふするを以て光栄とし愉快となし、而して予を遇するに懇篤到らざる処なく、其治下の人民の利益及其成功の為に、畢生の力を仮して惜まざる賢明なる君主の為めに、玆に謹んで寿盃を挙げんとす、予の挙げんとする寿盃は 大日本 皇帝陛下の為なり
宴畢る哉タフト大統領先づ席を去り、一同に見送られて随員三名と共に自働車に同乗して湖畔に至り、別仕立の汽船にてオマハ市に至るべく湖上を快走せられたり、次きて青淵先生以下一行も此処を辞し、汽船に乗じ湖上を周遊しつゝ其風光を賞し、電車停留所に上陸して特別電車に乗じ、ミネアポリス市に帰着しホテルに入る。
九月二十日 晴 (時々夕立) (月曜日)
朝餐を終り午前八時半青淵先生以下自働車に分乗して、市役所のレセプシヨン・ルームに於て催されたる歓迎式に臨む、市長ヘーンス先づ歓迎の辞を述べ、且日米両国は交通開始以来一回も紛擾を醸したる事なし、蓋し日本人は事物に当て、其根底迄極めざれば止まざるの勇敢なる気象を有す、此気象は日本の急速なる進歩を来したる所以なり、将来日米両国は互に相輔助して世界の文明を進むる事に尽力せざるべからず、云々と説き、青淵先生は一行を代表して、合衆国の北西九州の要地を占むる此市より、昨日来深厚なる歓迎を受けたるを謝す、只今市長より、日本人は事物の根底まで貫徹せざれば止まざるの気象を有すとし讚辞を受けたるが、此気象は米国のペリー提督渡航以来勇敢にして智略に富む貴国人より享有したるものなれば、市長の讚辞は其儘之を貴国人に呈せんと欲する処なり云々と答辞を述べられ、夫よりミネソタ州立大学を参観す、タフト大統領の先生なりしと云ふ校長シラスノースロプ氏の案内にて、折柄学生集合して朝の祈祷を為せる講堂に到り(神田男爵英語演説を試む)夫れより言語学科・教学科・理学科教室及実験室等を参観したり、此大学の評議員は九名にして、学生の数現在千四百名、内女生六百名なりと云ふ、大学を辞して十二時ドナルドソン商店(デパートメント・ストーア)のチー・ルームに到り、商業会議所の催にかゝる午餐の饗を受け、午後二時市立図書館を一覧す、市内に二十五の分館を有し、現在書籍の数二十万巻なりと云ふ、此日の縦覧人は婦人八分男子二分なりしが、蓋し男子は日中多忙なれば、多く居宅に借来り夜間読書するなりと云ふ、小供室に至れば十五・六以下と思はるゝ児童数十人熱心に勉強しつゝある様を見たり此図書館の入口及エレベーターに天気予報を掲記しありたり、此処を畢りてブラツド・ストリート氏の邸に至り、其愛好の日本美術品を見る、同氏は頗る日本贔屓にて、日本古代の美術品と自称する書画彫刻物等を室内に陳列して、一行の観覧に供せられたり、此処を辞して市
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の住宅地及公園を周遊し、午後七時ホテルに帰着す。
此日朝来青淵先生の為に自働車を供用せられたるセキストン氏は、大の日本贔屓にて、先生より種々日本に関する談話を聞き、最後に自分には双生の女子二人あり、今はワシントンの学校に在学中なるが、之を残して日本に旅行するも心配なれば、此二女子が卒業の上は夫婦と此二女子と四人にて日本を旅行し、青淵先生を訪問すべしとて名刺を交換して別れたり。
夜ホテルに於て晩餐の後、十時汽車に投す。
○下略
渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五九―一七三頁明治四三年一〇月刊(DK320008k-0003)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一五九―一七三頁明治四三年一〇月刊
○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
第十一節 ミネアポリス
九月十九日 (日) 晴
午前七時ミネアポリス停車場に着す。一同列車内にて、朝食を済まし、午前九時半歓迎委員の出迎を受け、各自自働車に分乗して、ホテル・ウェストに入る。日曜なるを以て、一同美以教会の礼拝に赴き、午後零時五分更に電車にて約二十哩を隔てたるミネトンカ湖畔に向ひ、倶楽部に着し、沿岸エキセルシオルより、更に小蒸汽船に乗じて、午後一時彼岸に上陸し、直にラファエット倶楽部に至る。予ての打合せにより、一同大統領タフト氏に接見の為なり。時に大統領タフト氏は、已に侍従武官及市長等に護衛されつゝ、階下の広間にあり。即ち一同は、水野総領事の紹介により、渋沢男・神田男を始め、東京・京都・大阪・横浜・神戸・名古屋の各商業会議所会頭、正賓・専門家等一同交る交る接見せしに、大統領は一々然るべき辞令を以て応接せらる。接見終りて、タフト氏一行並に我団員一同は歓迎委員の案内により、別室にて午餐を饗せらる。
席上渋沢団長は立て下の如き演説(頭本氏通訳)を為し、終りに大統領の健康を祝せしに、次でタフト氏は満面に笑を湛へつゝ、起つて其の意見を述べたり。
渋沢男演説○前掲ニツキ略ス
大統領タフト氏演説○前掲ニツキ略ス
と大統領は自ら日本語にて「バンザイ」と叫びしかば、衆之に和し万歳の声、三度び湖上に反響せり。
かくて大統領は三時頃従者を伴うて去り、一行も亦辞して船に乗組み、湖岸の風光を賞しつゝ、更に又電車の便によりて、薄暮ホテルに帰る。
此夜岩原氏は先発して紐育に向へり。
九月二十日 (月) 晴
午前九時一同は出迎の自働車に分乗し、先づ市役所を訪ひ、市長ヘイネス氏及市吏員と接見し、同九時半再び自働車にて、各工場を巡覧す。又教育家側は州立大学を視察し、同十一時四十五分一同ドナルドソン・デパートメント・ストア茶室に於て、昼の饗応を受く。
午後二時過ぎ、再び自働車に分乗し博物館其他を巡覧す。同氏は熱
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心なる親日派の人にして、日本の骨董物貴重品を蒐集すること頗る多し。同五時半同家を辞し、自働車にて市内の住家区域及公園等を過ぎ、七時ホテルに帰る。今夜は何等の催しなく、各自随意に列車に帰り、翌朝午前五時三十分当地を発す。
婦人の部 午後六時ルース夫人宅にて茶菓を饗せらる。
渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五九一―五九九頁明治四三年一〇月刊(DK320008k-0004)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第五九一―五九九頁明治四三年一〇月刊
○第三編 報告
第七章 米国大統領と会見に関する米国新聞の論評
ミネアポリスに於ける大統領との会見に関し、米国諸新聞の批評中九月二十一日の華盛頓ポスト及紐育トリビューンの社説は、米国の代表的大新聞の論調を徴すべきを以て、玆に訳載す。
華盛頓ポスト社説
タフト氏の日本的勢力
大統領タフト氏は其旅行中、実業視察の目的を以て米国を旅行しつゝある日本商工業者の一団と会合したり、大統領は右日本実業団の各員と、温情を以て会心的の会話を交換し、例の天真爛漫なる態度を以つて、日米両国間に存在する友情を表示し、尚ほ東洋のヤンキーをして「西洋のヤンキー」の技術特長を研究し、尚ほ其内に於て採るべく学ぶべき所あらば、之れを採用することを歓迎する旨を公言し、以て此会合をして国際的の性質を帯ばしめたり、大統領の演説の一節に曰く「日本は其富源を開発し、其国民をして偉大にして且つ成功せる商業国民たらしめんが為めに、目下奮闘しつゝあり。日本は戦場に於いて其技倆を示したるも、今や兵馬の戦は已に止み、専ら平和の勝利に急ぎつゝあり。而して我等米国人は、日本が此平和の勝利を得んことを希望して止まず、されど我等米国人も亦能ふべくんば、日本と対峙して下らざるやう努めざるべからず。」云々
日本と米国との間に於ける不和(想像的)を煽動し、誇張捏造する一派の愚劣なることを知るもの、大統領タフト氏に優るものあらざるべく、斯る煽動的風説を打消すに努めたること、亦大統領に勝るものあらざるべし。
タフト氏は日本を訪問すること六回、而して、日本人の目的及希望を識ること、同氏に優るもの亜米利加人に極めて少なし。氏が最近極東に赴きたる時には、当時の大統領(ルーズヴェルト氏)よりも平和の使命を齎らしたるものなりき。今回氏の発表せし意見は全然其当時同氏の齎したる意見と同一の調子なれども、而も今回の其発表は、米国の元首其人の口より直接に出でたるものにして、実は米国民の誇るに足るものあり。何となれば本件に関する大統領の確信は、米国民九千万の一致せる裏書を有するものなればなり。
大統領のミネアポリスに於て為したる演説は、両国間に存在する友誼貿易の共同及産物の交換に関する保証に、最後の印章を刻したるものなり。仮令大統領が今回の旅行中、日本との友誼を鞏固にする以外に何事をも為し得ざりしとするも、今回の旅行はタフト氏にとりて、亦有益なるものたるを失はず。云々
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紐育トリビユン(共和党機関)の社説
日米の関係
大統領タフト氏が風光明媚なるミネトンカ湖畔に於て、日本実業団員と会合交歓し、尚ほ此会合により、日本実業団の使命及目的に光明を添へたることは、実に満足すべきこと也。蓋し、之に因つて合衆国と日本帝国との間の相互相識ること現状に優り、信愛すること、現状に優るものあるべければなり。今回渡来の実業団は、日本の最も代表的実業家を以て組織し、其来米は国務卿の最も歓迎したる所にして、国務卿の代表者は、現に日本の来賓と旅行しつゝあり。大統領及国務卿は何れの時を問はず、米国と日本との協調及友誼はあらゆる機会に於て、開拓せざるべからざるものなることを、固く信ずるものなりと雖も、特に此際に於て更に一段の必要を認む。何となれば両国間に於ける現行条約は近く満期に至るべく、従つて新条約に関する談判は、両国の政治家をして頭脳を悩ましむる問題なり。現条約は従前の協定条約一切に代りしものにして、締結以来十二個年間有効なる旨を規定せり。而して右の期限を経過するに於ては、一方の条約国は、十二ケ月の予告を以て之を終了することを得べき義をも規定せり。右の協定に基づく十二個年は、即ち千九百十一年七月十七日を以て満了すべきに因り、現行の条約は其れ迄に改正せざるべからざることは、一般の信ずる所なり。之れを輓近の歴史に照すに、現条約中最も重要なる条項は、恐らくは、左の一節に存すべし。即ち「一方の締盟国の領土に於て、他方の締盟国の臣民、若くは人民に付与すべき特権は、両締盟国の一方に於て、現に施行し若くは今後制定すべき労働者の入国規則及公安の為にする法律・勅令・規則の効力を妨ぐることなし」との規定是れなり。此規定に因り我米国は今日迄、常に日本労働者を除外すべき立法を為すの権利を有したり。而して日本の政治家が、自ら進んで日本労働者を米国に移住せしむることを防止するに必要なる手段を執るに至りしことは、主として此理由に基づけり。
日本皇帝及其輔佐の臣が、日本の労働者を本国に留め、以て極東に於ける日本の属領に、是等労働者を用ひんとする希望を公言したるは、其誠意より出でたるに相違なきことを疑ふの余地は有せざるも、而も一般の輿論人気は現行条約に存する義務の規定を、新条約にも残存せんとするは容易の業にあらざることを覚悟すべき理由あり。而かも一方に於ては我米国殊に太平洋岸に於ては、右の条項若くは之れに類似の条項を加へざる条約を以て、元老院の非難を得んことは、殆んど不可能の事なるべしと思はるべき輿論の趨勢なり。
故に大統領タフト氏及国務卿ノックス氏が、両国間に於ける相互の理解力、及巧妙なる関係を増進するが為めには、如何なる方法をも採るを惜まず、以て新条約を談判すべき時機到来せば、其談判に対する障碍物を乗越て、絶対に排除し難きものたらざらしめんが為めに、必死の尽力を為しつゝあるものなり。故に日米両国の一方の政治家及実業家が、他の一方を訪問することは、此目的を助成協賛するものにして又以て将来の外交上、衝突の危険を減少するものなりと云ふべし。今回の如き代表的日本人に対し好意を表したることは、両国間の福祉幸
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福の為めに、適当なる手段と言はざるべからず。云々
ボストン・ポスト及紐育トリビユンは、共に共和党の機関にして、其所論亦公平誠実なりと雖も、玆に排日熱の盛んなる加州に於て、而も桑港市に於て発行せるクロニクルが、如何に此会見を観察したるやを顧るも、亦無用の事にあるざるべし。
永井桑港領事より小村外務大臣に宛てたる報告に因れば、ミネアポリスに於て、我実業家一行が大統領と卓を共にし、最も慇懃に好意の交換をなし、両国人士の交りを更に厚くしたるの報道桑港に達するや、其翌日「クロニクル」は、「日本よりの訪問者」と題する一社説を掲げたり。
同紙は劈頭大統領と日本実業家との会見交驩の慇懃、且つ誠実なりしことを述べて、曰く
「誰か是等好意交情の交驩が誠実なりしことを疑ひ、若くは国際平和の進捗上に及ぼすべき、効果の価値を、些少なりとするものあらんや。当時の戦争は、国民多数の心理に浸潤せる敵意より胚胎するものにして、国民間不和の感情を拭ひ、之れを新鮮ならしむるものは其価値如何を問はず、歓迎すべき値ひあるものとす。然れども「ミネアポリス」に於ても、某々者は爾かく信じたるやうに見受けられ又桑港及其他の地方に於ても、度々公開演説に発表されたる思想、即ち「国際間の親交は、国際貿易の額に至大の関係を有す」と云ふ格言は、蓋し、誤まれるものなりとす。抑も人の物品を買ふや、必らず低廉に買ひ得べき所に就いて之を買ひ、敢て売手の意見、親交の如何を問はざるべし。戦争が貿易を障碍することは事実なり。而も戦争前、並に平和克復後に於ける貿易に対しては、戦争のありしと云ふ事実が及ぼす影響は、皆無若くは極めて些少なるものなり。
一の国民が他の国に顧客を求むるは、敢て叩頭御世辞に依つて得べきにあらず。貿易は唯、最も低価に精良なる物貨を供給し、契約を確守し、正確に之を行ふことに由つて、始めて増進すべきものにして、如何なる感情を有する国民と雖も、是等の条件に投ずるものは註文を受くべく、決して国際的感情の親疎如何を顧みるを要せず。公平正直なる取引が、国際間に必要なるは、尚ほ個人間に於けると同様なり。されば良友なるの故を以て、自己の好まざる商品に仕払ふ以上に、他の商品に仕払ふものあらんや、故に吾人が屡々聞く処の「日本との親交は、亜細亜貿易に対する鎖鑰にして、亜細亜の労働者に対して排斥を行ふは、亜細亜諸国に機械・棉花其他の商品を売却するの機会を失はしむるものなり」と云ふ議論は、蓋し無意味のことなり。吾人は唱道す、米国は吾人の文明を賭して迄貿易を購ふを好まず、吾人が今現に亜細亜労働者の排斥を行ふも、尚ほ亜細亜との貿易は依然として、継続しつゝあるにあらずや、之れ実に適例なり。
然れども誤解する勿れ、吾人の差別的待遇は、飽くまで友誼的の精神に基くものにして、毫も不和の感情に駆られたるものにあらざることを。蓋し異人種の一般的に混合することは、亜細亜・亜米利加両人種の何れに取りても、必ずしも利益にあらざればなり。云々。
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青淵回顧録 渋沢栄一述 下巻・第八九三―八九四頁 昭和二年一二月二版刊(DK320008k-0005)
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東京日日新聞 第一一七七六号明治四二年九月二二日 実業家と大統領(DK320008k-0006)
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東京日日新聞 第一一七七六号明治四二年九月二二日
実業家と大統領
実業団は去る十九日当地歓迎会に於て大統領に謁し、午餐の饗応を受けたる際、渋沢男は演説に次で発声して大統領の万歳を三唱し、大統領は其日本漫遊の愉快なりし事を回想し、日本商工業の発達は米国の好得意を持つ所以なれば、米国の大に歓迎する処なりと述べ、又過般来日米間の関係に付き彼是れ批評あるも、右は全く新聞紙の虚構せるものにて、其売行を増さんとせる商略に外ならず、且つ米国商工業者は、国内の利益多きが為め、外国貿易を軽んずる傾あるも、今後は各国に後れを採らざる様、東洋貿易にも注意すべしと述べ、殊に 天皇陛下の御懿徳を熱誠に称揚し、自ら陛下の万歳を三唱せり、一行は此に異数の光栄に対し、非常の満足を表せり
(ミネアポリス水野総領事談)
実業之日本 第一二巻第二三号・第二八―三〇頁明治四二年一一月一日 渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり 特別通信員実業団随員加藤辰弥(DK320008k-0007)
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実業之日本 第一二巻第二三号・第二八―三〇頁明治四二年一一月一日
渡米団は大統領と如斯趣味ある談話を交換せり
特別通信員 実業団随員 加藤辰弥
九月十九日、一行はミネトンカ湖畔ラフアエツト倶楽部に於て大統領タフト氏と会見した。タフト氏は例に依て愛嬌満面、人毎にお世辞を振撒き、且巧に酒落を頻発して一行を大笑中に捲き去つた。
タフト卿と渋沢男の会見
タ卿『御道中御一同御障りもなく、益々健全なる貴下等の一行を此処
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に迎ふることを得て欣喜に堪へず、殊に余は貴下の如き光輝ある人が『商業の使節』(Emvoy of Commerce)として特に弊国に御光来せられたるは更に大に喜ぶ所なり』
渋男『余等一行は、玆に健全なる閣下を見ることを得て満腔の喜悦を禁ずる能はず、今回貴国が我等一行に対して示されたる厚意と盛情とに対しては、殆んど感謝の辞を知らざるなり。殊に閣下が本日多忙なる時間を割て、此美しき公園の倶楽部にて特に一行と会見の機会を与られたるは、深く恐縮する所なり』
タ卿『余は前後二回日本へ来遊せしが、其都度種々御歓待を受けたる事は今猶忘却する能はず。殊に貴下が吾等一行―ミス・ルーズベルト嬢同行の一行―を芝紅葉館に招待し、貴下が日本服にて、日本料理を御馳走されしは今猶ほ眼前に見る様なり』
渋沢男の笑顔千金の値
渋男『余は今回満腔の謝意を、余自から英語にて閣下に表白する能はざるを遺憾とす。一々通訳を煩はして言語を交ゆるは誠に不便なり』
タ卿『余も日本語を話す能はざるを遺憾とす、お互に遺憾は則遺憾なるも、貴下が特有の微笑は、日本語・英語、又は何国の語よりも余をして愉快禁ずる能はざらしむ。』
○中略
タフト卿渋沢男夫人を襲ふ
それより大統頭は渋沢男夫人に向ひ、極めて愛嬌に富める挨拶を為したり。
タ脚『ようこそお出で下さいました。日本ではなぜ、貴女の如き優婉な、且、チヤーミングな貴婦人を外へ出さないで、内へ閉ぢ込めて置て、男子のみ外へ出るのでせうか、私は貴国の習慣を知らないけれども、是れは甚だ不公平であると思ふ。どうぞ今後は日本貴婦人の多く来遊せられんことを望む』お世辞としては、是以上のものはないであらう。
〔参考〕渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一七三―一七六頁明治四三年一〇月刊(DK320008k-0008)
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渡米実業団誌 同団残務整理委員編 第一七三―一七六頁明治四三年一〇月刊
○第一編 第四章 回覧日誌 中部の一(往路)
第十二節 ミネアポリス市の概況
此市は聖ポール市と相並んで「孖市《シインシチー》」の一たり。ミネソタ州第一の都市にして、又米国西北部に於ける最大の都会とす。
千九百六年の統計によれば、人口二十七万米国の都市中第十六位にあり。聖ポールがミネソタ州の首府たるに対し、此市は商工業の覇権を握り、穀物及農産物の集散地にして製粉・製材業等最も著名なり。
製粉所の総数二十八、其一日の製粉高八万六千バーレルにして、此業に付ては、米国中第一たり。其重なる会社は左の如し。
ピルスベリー・ワッシユボーン製粉会社 工場数五、一日の製粉高三万三千二百バーレル
ワッシユボーン・クロスビー商会 製粉工場数五、一日の製粉高二万二千五百バーレル
西北合同製粉会社 工場数五、一日製粉高一万八千七百六十バ
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ーレル
此市の製粉年額は、千九百二年に千六百二十六万バーレルに達したることあるも、目下は多少減少せりと云ふ。
元来、此市の繁栄は、付近の農産地の広大なると、聖アンソニー瀑布の水力とに因る。此の水力の落差は、五十呎にして、五万馬力を供給す。始め千六百八十年加特力教の僧侶此瀑布を発見し、千八百四十六年に聖アンソニー村を此処に興したり。之を中心として、西岸にも殖民地起り、遂に同六十七年には、玆に市制を布くに至れり。千八百七十年に於ける人口一万三千。同八十年には七万六千、其後二十二年間に、二倍五割二分の増加を示せり。
製材所は多く上流にあり、一年の製材高五億呎に達すと云ふ。其最大なるものを、ボーベー・デレーツル製材会社と云ひ、一年に二千万乃至三千万の製材を為す。
製油業亦顕著にして、亜麻仁の消費高一年約十三万ブッセルに達し、其製油高一億五千万封度、又、亜麻仁の粕製造高四億封度に達すと云ふ。
千九百八年に於ける穀物の集散高左の如し、
種別 入市額 出市額
ブツセル ブツセル
小麦 九一、七三九、九〇〇 一九、二九三、八六〇
玉蜀黍 四、七七六、八七〇 一、九六六、七八〇
燕麦 一六、七一七、四八〇 一六、八三七、二一〇
大麦 一八、四二七、六一〇 一八、一六三、一三〇
ライ麦 一、九三一、八八〇 一、二七九、三〇〇
亜麻仁 一二、五九六、七一〇 二、六〇九、五九〇
穀物の集散、斯の如く盛なるを以て、当市には大なる穀物倉庫多し、其総数五十一、貯蔵の容積四千二百万ブツセルに達し、百万ブツセル以上の容積を有するもの十一、倉庫業の盛なる、当地を以て米国第一と称す。
日米貿易の上より観察すれば、此市より日本へ輸出するものは小麦粉を主とし、日本よりの輸入品は、茶・花莚・雑貨等なり。
此地には日本雑貨店あり。在留本邦人は大学生五・六名、ホテル雇人其他を合せて僅に三十名。
此地に州立大学あり、学生四千人を収容すと云ふ。