デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
1節 外遊
1款 渡米実業団
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
明治42年6月21日
(1909年)
第32巻 p.5-47(DK320001k)
是ヨリ先、アメリカ合衆国シアトル、スポカン、タコーマ、ポートランドノ四商業会議所、前年東京・大阪・京都・横浜・神戸ノ五商業会議所ガ其代表者ヲ招待セシ懇遇ニ酬インガ為メ、右五商業会議所ニ対シ、其代表者三十名ヲアメリカ合衆国ニ招待シテ友情ヲ温メ、且ツ、貿易ノ発達ヲ図ランコトヲ提議シ来ル。我方之ニ応ジテ実業団ノ派遣ヲ計画シ、是日栄一、参加渡米ヲ承諾ス。後、サン・フランシスコ、オークランド、ロス・アンジェルス、サン・ディエゴノ四商業会議所モ招待者ニ加ハリ、八月十日「太平洋沿岸聯合商業会議所」ノ名ヲ以テ正式招待状到着ス。同日派遣団ノ名称「渡米実業団」ト決定、翌十一日栄一団長ニ推サル。
明治42年8月4日
(1909年)
第32巻 p.47-53(DK320002k)
是日、東京銀行集会所等四団体主催ノ渡米送別会、丸ノ内東京銀行集会所ニ催サル。総代豊川良平ノ送別ノ辞ニ対シテ栄一答辞ヲ述ブ。次イデ九日東京商業会議所主催送別会、日本銀行総裁松尾臣善主催送別会、十二日外務大臣小村寿太郎主催送別会、十四日大倉喜八郎他数人ノ発起ニヨル送別会、十五日日本貿易協会及ビ日本工業協会主催送別会、十六日内閣総理大臣桂太郎主催送別会開カレ、栄一之等ニ出席ス。
明治42年8月17日
(1909年)
第32巻 p.53-54(DK320003k)
是日、天皇陛下、渡米実業団員一同ニ対シ、芝離宮ニ於テ午餐ヲ賜フ。栄一、席上団員ヲ代表シテ答辞ヲ述ブ。
明治42年8月19日
(1909年)
第32巻 p.55-83(DK320004k)
是日栄一、渡米実業団一行ヲ率ヰテ東京ヲ発シ、横浜ヨリミネソタ号ニ乗船、シアトルニ向フ。
明治42年9月1日
(1909年)
第32巻 p.83-95(DK320005k)
是日、渡米実業団一行シアトルニ上陸ス。船中ニテ歓迎式行ハレ、栄一団長トシテ声明書ヲ発表ス。
三日シアトル商業会議所ノ主催ニテ渡米実業団歓迎晩餐会開カレ、席上栄一、歓迎ノ辞ニ対シテ答辞ヲ述ブ。
明治42年9月4日
(1909年)
第32巻 p.95-99(DK320006k)
是日栄一、シアトル博覧会会場内ニ催サレタル、「日本日」祝賀式ニ臨ミ「実業団之使命」ト題スル演説ヲナス。
同夜栄一、シアトル博覧会及ビ同商業会議所ノ主催ニテ博覧会場内紐育館ニ催サレタル渡米実業団歓迎晩餐会及ビ政府館内ニ於ケルレセプションニ出席ス。
明治42年9月6日
(1909年)
第32巻 p.99-141(DK320007k)
是日、栄一等一行、渡米実業団ノタメ特ニ用意サレタル「百万弗列車」ニテシアトルヲ発シ、タコーマ、ポートランド、ヴァンクーヴァー、スポカン其他ノ諸市ヲ巡回ス。
明治42年9月19日
(1909年)
第32巻 p.141-154(DK320008k)
是日渡米実業団一行ミネアポリスニ入ル。同日、其近郊ミネトンカ湖畔ラファイエット倶楽部ニ到リ、大統領ウィリアム・タフトニ会見シ、後、午餐ヲ共ニス。栄一此ノ席上演説ヲナス。二十日、同市商業会議所ノ歓迎会ニ臨ミ、次イデミネソタ州立大学等ヲ参観ス。
明治42年9月21日
(1909年)
第32巻 p.154-215(DK320009k)
是日、栄一等渡米実業団一行セント・ポールニ入ル。次イデシカゴ、クリーヴランド、其他ノ都市ヲ巡回シテ、十月十一日ニュー・ヨークニ向フ。
明治42年10月12日
(1909年)
第32巻 p.215-235(DK320010k)
是日、栄一等渡米実業団一行、ニュー・ヨーク市ニ入リ二十一日マデ滞在ス。十月二十日、タウンゼンド・ハリスノ墓ニ詣ヅ。
明治42年10月22日
(1909年)
第32巻 p.235-279(DK320011k)
是日栄一等渡米実業団一行、ニュー・ヨークヲ発シ、二十三日ボストンニ着シ、三日間滞在、其間二十四日ニハニューポートノペリノ墓ニ詣ヅ。二十六日ボストンヲ発シ、ウースター及ビスプリングフィールドヲ訪フ。二十八日フィラディルフィアニ入リ、三日間滞在ノ後同地ヲ発シ、十一月一日ワシントンニ着シ、三日間滞在ス。
明治42年11月4日
(1909年)
第32巻 p.279-358(DK320012k)
是日栄一等渡米実業団一行、ワシントンヲ発シ、ピッツバーグ、セント・ルイス、カンザス、サクラメントヲ経テ、十九日ロス・アンジェルスニ入リ、二十一日同地ヲ発シ、サン・ディエゴヲ経テ二十四日オークランドニ向フ。
明治42年11月26日
(1909年)
第32巻 p.358-374(DK320013k)
是日栄一等渡米実業団一行、サン・フランシスコニ着ス。同日及ビ二十九日、栄一及ビ日本六商業会議所代表者等、アメリカ合衆国太平洋沿岸各商業会議所代表者ト相会シ、両者協力シテ貿易ノ増進拡張ヲ図ランコトヲ決議ス。
明治42年11月30日
(1909年)
第32巻 p.374-396(DK320014k)
是日栄一等渡米実業団一行、サン・フランシスコヲ発シテ帰航ノ途ニ就クニ当リ、接伴委員、カリフォルニア州知事及ビ同地在留ノ日本人等ヲ船中ニ招キテ留別ノ宴ヲ開ク。十二月六日ホノルルヲ訪ヒ、同日横浜ニ向ツテ発ス。
明治42年12月17日
(1909年)
第32巻 p.396-415(DK320015k)
是日栄一、渡米実業団ヲ率ヰテ横浜ニ上陸シ、直ニ東京ニ入リ、宮内省ニ出頭シ、宮内大臣ヲ経テ帰朝ノ旨ヲ奏上ス。午後、東京外五商業会議所聯合会主催同団帰朝歓迎式、東京商業会議所ニ催サル。外務大臣伯爵小村寿太郎・農商務大臣男爵大浦兼武ノ祝辞ニ対シテ栄一答辞ヲ述ブ。次デ解団式行ハレ、栄一団長トシテ告辞ヲ述ブ。
明治42年12月19日
(1909年)
第32巻 p.415-423(DK320016k)
是日、日本貿易協会主催渡米実業団帰朝歓迎会、同協会ニ開カレ、副会頭池田謙三ノ歓迎ノ辞ニ対シ栄一謝辞ヲ述ブ。同ジク是日東京商業会議所主催同所選出渡米実業団員帰朝歓迎会、日本橋倶楽部ニ催サル。次イデ二十日東京銀行集会所等主催京浜間在住渡米実業団員等歓迎会、二十一日鰻会主催歓迎会、二十四日米友協会主催歓迎会、二十五日正午基督教青年会主催歓迎会、同夜経済学協会主催歓迎会、明治四十三年一月四日温知会主催歓迎会、二十二日東京高等商業学校同窓会主催歓迎会催サル。
明治42年12月26日
(1909年)
第32巻 p.423-448(DK320017k)
是日、東京高等商業学校講堂ニ於テ東京市第九回講演会開催セラレ、栄一之ニ臨ミアメリカ旅行談ヲナス。爾後翌四十三年一月十七日日本橋倶楽部月次会、同月二十二日東京高等商業学校歓迎会、同月二十七日自治協会招待会、二月二十二日第四回議員銀行家連合懇親会、三月一日横浜商業学校、同日横浜経済会月次会、同月五日静岡旧城内陳列場、四月四日埼玉県八基村教育会、四月二十三日神戸高等商業学校、四月三十日財団法人埼玉学生誘掖会、五月三日深川鷗盟会ニ於テアメリカ旅行談ヲナス。
明治42年12月28日
(1909年)
第32巻 p.448-453(DK320018k)
是日栄一、宮内大臣公爵岩倉具定ニ面会シ、先ニアメリカ合衆国造幣局長ヨリ託サレタル金牌、及ビ同国太平洋沿岸聯合商業会議所ヨリ託サレタル金剛石入徽章ヲ伝献ス。翌四十三年一月五日嘉納ノ旨通達アリ、仍テ十四日之ヲ米国ノ関係者ニ通知ス。
明治43年1月1日
(1910年)
第32巻 p.453-455(DK320019k)
是日付ヲ以テ、渡米実業団ヨリ、アメリカ合衆国各地ノ商業団体等ニ対シ、感謝状ヲ贈ル。栄一之ガ起草ヲナシ、且団員一同ト共ニ自署ス。
明治43年1月10日
(1910年)
第32巻 p.456-459(DK320020k)
是日並ニ三月二十八日、渡米実業団残務整理委員会開催セラレ、栄一出席ス。
明治43年2月2日
(1910年)
第32巻 p.459-461(DK320021k)
是日外務大臣伯爵小村寿太郎、栄一以下旧渡米実業団員一同ヲ招キテ帰朝歓迎晩餐会ヲ其官舎ニ開ク。内閣総理大臣侯爵桂太郎・農商務大臣男爵大浦兼武臨席、外務・総理両大臣ノ演説アリ、栄一答辞ヲ述ブ。
明治43年4月9日
(1910年)
第32巻 p.461-485(DK320022k)
是日、渡米実業団第一回記念会、名古屋市ニ開催セラル。栄一出席ス。爾後毎年記念会開催サレ栄一出席ス。特ニ大正六年九月二十四日渡米実業団員中物故者追悼法会ヲ上野寛永寺ニ営ミ、栄一弔辞ヲ述ブ。
明治43年10月12日
(1910年)
第32巻 p.485-490(DK320023k)
渡米実業団残務整理委員編纂ノ「渡米実業団誌」是日附ヲ以テ発行セラル。栄一、宮内省ニ出頭シテ献納ノ手続ヲナス。十二月二十四日附ヲ以テ宮内大臣ヨリ、御前ニ差上グ旨ノ通達ヲ受ク。
2款 中国行
和暦(西暦)目次【綱文】資料リスト/本文
大正3年5月2日
(1914年)
第32巻 p.491-518(DK320024k)
是ヨリ先、栄一ガ首唱セル中日実業株式会社設立セラル。栄一之ヲ機トシテ、中国ヲ視察シ、曲阜ノ孔子廟参拝ノ宿望ヲ遂ゲ、且ツ同国実業家トノ関係ヲ緊密ニセンタメ、是日三男武之助及ビ明石照男・馬越恭平・尾高次郎等ヲ同伴シテ東京ヲ発シ、神戸ヨリ乗船シ長崎ヲ経テ六日上海ニ着ス。
大正3年5月7日
(1914年)
第32巻 p.518-549(DK320025k)
是日栄一等一行、上海ヲ発シ杭州・蘇州ノ勝ヲ探リテ九日上海ニ帰リ、翌十日同地ヲ発シテ南京ニ赴キ、十二日揚子江ヲ溯航シ、大冶・漢口・武昌ヲ経テ、十九日北京ニ至ル。二十一日、大総統袁世凱ト会見ス。
大正3年5月25日
(1914年)
第32巻 p.549-558(DK320026k)
是日栄一、北京ヲ発シテ南口ニ赴キ、明ノ十三陵ニ詣デ、二十六日八達嶺ニ到リ、万里長城ヲ一覧シ北京ニ帰ル。二十七日天津ニ到ル。コノ夕発熱臥床ス。二十八日病気ハ軽快セルモ予定ヲ変更、孔子廟参拝ヲ中止シ直ニ帰朝スルニ決ス。
大正3年5月30日
(1914年)
第32巻 p.558-583(DK320027k)
是日栄一、天津ヨリ乗船、大連ヲ経テ旅順ニ赴キ、六月二日同所ヨリ乗船、四日下関ニ着ス。
大正3年6月5日
(1914年)
第32巻 p.583-598(DK320028k)
是日栄一、下関ヲ発シ戸畑・門司・別府・大分・耶馬渓・中津ヲ巡歴シテ、十日下関ニ帰リ、十一日同地出発、広島・神戸・大阪・京都・名古屋ヲ経テ十五日帰京ス。
大正3年7月2日
(1914年)
第32巻 p.598-614(DK320029k)
是日栄一、銀行倶楽部晩餐会ニ出席シ、中国旅行談ヲナス。猶コノ前後、諸雑誌ニソノ見聞談等ヲ発表ス。
大正12年6月15日
(1923年)
第32巻 p.614-615(DK320030k)
是日栄一、馬越恭平ト謀リ、大正三年渡支記念会ヲ浜町常盤屋ニ催シ、席上追懐談ヲナス。