デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺) / 渋沢栄一

2. 岩崎家と懇意になる

いわさきけとこんいになる

[26a]-2

 弥太郎は斯くして、私との間に仲直りの能きなかつたうちに歿してしまつたのだが、其後三菱会社と共同運輸会社との競争は益々猛烈となり、そのまゝに推移すれば両社とも共倒になつてしまひ、外国汽船会社に乗ぜらるるより外無きまでに立到つたので、政府も両社の間を調停するに決し、私も亦両社を合併することに骨を折り、弥太郎が歿してから間も無い明治十八年九月に両社の合併を見、今日の日本郵船会社が設立せらるゝ事になつたのである。それ以来私と岩崎家との間の確執も解け、弥太郎の弟に当る弥之助男とは私も親密に交際するやうになつたのみならず、岩崎家の重鎮であつた川田小一郎とも親しく交際するに至つたのであるが、それに就ては、面白い一条の物語がある。
 当時、益田だとか大倉だとか、私共友人の間に、毎年正月二日に新年宴会を開く慣例があつたが、郵船会社が設立された翌年の明治十九年正月二日の晩にも、例によつて斯の新年宴会を、日本橋浜町の常盤に開いて居ると、川田が飄然りやつて来て私に面会を求め、三菱と共同運輸と既に合併して日本郵船の設立を見るに至つた今日、お互に懸け隔てをして居るのは面白く無い事だから、弥之助も是非貴下に遇つて意志の疏通を謀りたいと言つてること故、遇ふやうにしてくれぬかとの事であつたので私も快く会見を承諾し、越えて数日、私は益田、大倉及び喜作と一緒に、駿河台の弥之助男邸を訪ひ、男及び三菱の勇将連と驩談し、之によつてお互に従来の不快なる感情を一掃し、爾来私も岩崎家と懇意に致すやうになつたのである。
 さう斯うして居るうちに、明治廿六年に至り、川田小一郎が又私の宅へ突然訪ねて来て「三菱と共同運輸とが合併して日本郵船になつた今日でも、まだ世間では郵船会社を岩崎一家の事業のやうに思つてゐて、甚だ不本意の至りであるから是非同社の重役になつてくれ」との依頼であつたのである。翌日又弥之助男までが態々私の宅へ来られて、同一の事を申出でられたので、私も国家の為め、是処が一ト肌脱ぐべきところであらうと考へ、即時に弥之助男の請ひを容れ、日本郵船会社の取締役となる事にしたのだが、是れが郵船会社へ私の関係するに至つた端緒である。恰度その翌年が日清戦争になつたのだが戦争終了後多少私も同社の為に尽くし海外諸航路の拡張、新船の建造等を劃し、同社をして之を実行せしむる事にしたのである。

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岩崎家, 懇意
デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第14巻第11号(実業之世界社, 1917.06.01)p.70-73
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第四十九回 岩崎弥太郎と古河市兵衛 / 男爵渋沢栄一