デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺) / 渋沢栄一

1. 岩崎は専権邁進の人

いわさきはせんけんまいしんのひと

[26a]-1

 三菱の先代岩崎弥太郎は、多人数の共同出資によつて事業を経営する事に反対した人である。多人数寄り集つて仕事をしては、理屈ばかり多くなつて、成績の挙がるもので無いといふのが弥太郎の意見で、何んでも事業は自分一人でドシドシ経営てゆくに限るといふ主義であつた。随つて私の主張する合本組織の経営法には極力反対したものだが、それ丈け又、人才を部下に網羅する事には劫々骨を折り、学問のある人を多く用ひたものである。これが、弥太郎の人才を登庸するに当つての一特徴であつたかの如く思はれる。
 私は、弥太郎の何んでも自分が独りだけでやるといふ主義に反対であつたものだから、自然と万事に意見が合はなかつたのであるが、明治六年に私が官途を廃めてから、弥太郎は私とも交際して置きたいとの事で、松浦といふ人が紹介し、態々当時私の居住して居つた兜町の宅へ訪ねて来られたのである。在官中には交際した事も無かつたが、それ以来交際するやうになつたのだ。然し、根本に於て、弥太郎と私とは意見が全く違ひ、私は合本組織を主張し、弥太郎は独占主義を主張し、その間に非常な間隔があつたので、遂に其れが原因になり、明治十二三年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至つたのである。これは、明治十三年に至り、私や益田孝等が主唱し、伏木の藤井熊三、新潟の鍵富三作、桑名の諸戸清六などを糾合し、海軍大佐遠藤秀行を社長とする東京風帆船会社を設立し、三菱の反対を張つて見せ、次で明治十五年に至り、当時の農商務大輔品川弥二郎さんが三菱の海運界に於ける専横を押さへんとして目論んだ共同運輸会社の設立に参劃し、三菱会社に挑戦したからである。
 それでも私は個人として別に弥太郎を憎く思つてたのでも何んでも無いのだが、善い事につけ悪るい事につけ、始終私の友達であつた、益田孝、大倉喜八郎[、]渋沢喜作などが共に猛烈な岩崎反対家で、岩崎は何んでも利益を自分一人で壟断しやうとするから怪しからんと意気巻いて騒ぎ立て、甚く弥太郎を憎がつてたものだから、私を其の仲間の棟梁ででもあるかの如くに思ひ違へ、弥太郎は非常に私を憎んでたものである。その結果は私と弥太郎とは明治十三年以来、全く離ればなれになつて終ひ、遂に仲直りもせず、弥太郎は十八年に五十二歳を一期として死んで終つたのである。

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キーワード
岩崎弥太郎, 専権, 邁進,
デジタル版「実験論語処世談」[26a](補遺) / 渋沢栄一
底本(初出誌):『実業之世界』第14巻第11号(実業之世界社, 1917.06.01)p.70-73
底本の記事タイトル:実験論語処世談 第四十九回 岩崎弥太郎と古河市兵衛 / 男爵渋沢栄一