デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一

9. 三成出仕の次第と末路

みつなりしゅっしのしだいとまつろ

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 石田三成は幼より非凡の才智があつたので、其れが太閤秀吉の眼につき、重く用ひらるるに至つた人である。三成は素と近江国の生れで観音寺といふ寺の小姓をして居つたものだ。甫めて十三歳の時であつたとか聞き及んでるが、一日秀吉公鷹狩に出られ大層咽喉が渇いたものであるから、偶然其の寺に立寄られて一杯の茶を所望に及ばれた。その時に茶を持つて来た小姓が、まだ十三歳の三成である。その茶は微温いもので、大きな茶碗に七八分盛られてあつたのである。秀吉は余りに渇いて居られたのでグツと其れを一ト飲みに干し、又一杯を所望に及ばれた。すると、今度は可なりに熱い茶を半分ばかり茶碗に盛つて来て、三成は之を秀吉に薦めたのである。秀吉は之をも飲み干して更に三杯目を所望に及ぶと、今度は熱い熱い茶を小さな茶碗に点じて持つて来たのである。如何にも能く人の心持を察した茶の薦め方であつたものだから、秀吉はホトホト三成の才智に感心してしまひ、寺の住職に話して三成を請ひ受け、自分の小姓にせられたのであるが、果して眼から鼻に抜けるやうに敏捷で、能く秀吉の心情を忖度し、恰も響の声に応ずるが如く、よく給事したものだ。以来重用せられて十八万六千石の禄を受けるまでになつたのが三成である。然し、三成が果して豊臣家の利益になつたか什うかは疑問である。恐らく豊臣家の滅亡を早めたものは三成であつたと謂はねばならぬのだ。
 あまり、或る才ばかりを見込んで人を重用すれば、一時はよくつても末には大抵斯んな結末になるものである。然し其人の或る優れた特徴を発見し之に見込みをつけて重用しても、好結果を得らるる場合が無いでも無い。これは中村敬宇先生の訳せられた「西国立志編」で読んだもので、仏蘭西の銀行家ギルバートであつたやうに記憶するが、或る青年の求職の為に来たのを断つて帰してやると、その青年が帰りがけに留針の一本落ちてるのを目につけ拾つたところを見、あの様子では定めし注意が綿密だらうとて又呼び返し、之を採用して使つてみると、案に違はず綿密な人であつたなぞといふ例もある。然し、斯る例は頗る稀有な事だ。猶且人を用ひるには、これまで談話したうちにも申述べて置いたやうに論語「為政」篇にある孔夫子の教訓の通り、その為すところを視、その由る処を観、その安んずる処を察し、視、観、察の三つを併せて充分に銓衡した上で無ければ安全であるとは謂へぬのである。
 俗に加賀騒動と称ばれるものが前田家五代の主吉徳の時に起つてるが、それの原因になつたものは、吉徳公が小姓大槻伝蔵の聡明なるところに惚れ込み、同人が、火を運んで来た者が之を顛覆り返したのを見て、頓智即妙、直に自分の袖を以て其の火を摘み、畳を焼くやうにしなかつたのを見て深く其機智に感心し、重用して国事を托するやうになつた事である。この大槻伝蔵なぞの例は、三成にも増して甚しい害を主家に及ぼしたもので、所謂主家を横領しようとするまでになつたのである。兎角、才を重んじて人を重く用ひることにすれば斯る弊を生ずるに至り易いものだ。

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キーワード
石田三成, 出仕, 次第, 末路
デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)