デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一

2. 弁口の達者な当世人

べんこうのたっしゃなとうせいじん

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 維新頃にも口端だけが達者で実行の之に伴はなかつた人が無いでは無い。素より沢山あつたのだが、昨今の青年等は平均べて維新頃の人人に比すれば口が達者で、いろいろと理窟を言ふことが上手になつたやうに思はれるのみならず、私の如く道の話でも致すものがあれば、言葉巧みに之を否定しようとする。私は洋学に通じて居らぬから、オイケンは何んな事を説いてるか、ニーツェが何を主張して居るか頓と其辺は不案内であるが、苟も一代の師となる学者が道に外れた事を説いたり主張したりする筈のあるべきもので無い。ただ青年たちが是等の学者の説を生噛りに半分噛つても本当に咀嚼し得られぬので、道を無視するのが最近の学説であるかの如く誤まり信じて居るのだらう。私の子女であるとか、或は私の宅へ出入する青年のうちにはマサカ爾んな暴論を主張して私を説き伏せようとする者も無いが、世間の若い者の間には、道徳も糸瓜もあつたもので無いといふ如き暴論を為すものが少く無い。殊に、進化論を楯に取つて、人間も犬畜生も同じ行ひで然るべきものであるかの如く主張するに至つては、誠に以て沙汰の限りである。
 昔は、人間を昆虫から全く別の物にして考へたもので、「三字経」には、「天地人を三才とし日月星を三光とす」といふ句がある。つまり人間は禽獣虫魚と其選を異にする天地の華であるから、禽獣同様の醜行を営んでは相成らぬと教へたものだ。然し進化論によれば人間も其の原を探れば猶且劣等動物で、母の胎内に宿つてからですら八ケ月目頃までは、全く劣等動物と同じものであるからとて、昆虫や豚と異つたところが無いかの如くに論じ、半獣的行為は人間当然の所業なるかの如くに説いたりなぞする。私とても洋学の知識さへ豊富ならば、之を論駁する論法を発見し、最近に於ける西洋の学者の学説も、進化論の主張も、その帰するところは結局道にある事を充分に説明し得られる事と思ふが、ただ洋学の知識が乏しい為に、進化論を誤解したり西洋の学者の説を誤つて受売する人々の説を、彼等と同一の推理法を用ひて彼等の納得し得るまでに論破する法を知らず、為に彼等のいふがままに任せ、之を聞き流しにして居らねばならぬのは私の目下頗る遺憾とする処である。かくして私が如何に彼等の論法を論破し得無いにしても、道は決して彼等の弁口によつて亡ぼされ得るべきもので無いのである。道は一般的のもので古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬのが、是れ道の道たる所以である。

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キーワード
弁口, 達者, 当世人
デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)