デジタル版「実験論語処世談」(26) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181

冉求曰。非不説子之道、力不足也。子曰。力不足者、中道而廃。今女画。【雍也第六】
(冉求曰く。子の道を説《よろこ》ばざるに非ず、力足らざる也。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女《なんじ》は画す。)
 冉求は孔夫子十哲の一人だが、孔夫子の説かるる道は、誠に結構なものであると思ひながらも、之を悉く実行するのは却〻容易な事で無いと感じたので、迚も自分の如き下智のものには力が足ら無くつて実行が至難である旨を孔夫子に申上げると、孔夫子は一言の下に之を却けられ、実際力が足ら無くつて実行し得られぬといふのなら、倒れて後に息むの意気あつて然るべきものなるにも拘らず、実行に取りかかりさへせぬうちから、早や自分の力が弱つて迚も駄目であるなぞと悲観してしまふのは、是れ自暴自棄の甚しきもので、まだ自分の力の有るつたけに馬力をかけず、努力を惜んで居るにも等しいものであると仰せられたのが、茲に掲げた章句の意味である。
 如何にも孔夫子が冉求を戒められた言の通りで、道は之を身に体して行はうとさへすれば、誰にも必ず行ひ得らるるものである。人には皆道を行ふに足るだけの力のあるものだ。ただ人によつて力に大小の差があるので、同じく道を行ふにしても、その道に大と小との別がある。これは私のみならず安積艮斎なども既に言うて居る処であるが、賢者の行ふ道は同じ道でも大きく、不肖者の行ふ道は同じ道でも小さいものである。大きな力の人は大きな道を行ひ得るが、小さな力の人は小さな道より行ひ得ないものである。然し、賢者の道も不肖者の道も、共に道たるに至つては一つである。
 ところが昨今では、道を唯口端で説くのみに止め、之を実地に行ふ者が至つて稀であるかのやうになつて来た。これは如何にも慨かはしい至りだが、甚しい極端な連中になると、口端で説くのみで行はぬぐらゐなら未だしも、道と行とは全く別々のものであるかの如くに心得道は口端で説いて居りさへすれば其れで可い、決して実行すべきもので無い、道によつて世に立つては迚も世渡りができぬなぞと、道を神様か仏様の如く高いところへ片付けてしまつて、道は難有くもあり立派なものでもあるが、之を実行する為にあるもので無いから、道は道として崇める振りをして見せ、仮令実行しなくても其れで人の務めは済むものであるなぞと考へて居る。然し、道は実行によつて始めて価値の生れてくるもので、神棚の上や仏壇の中へ片付けて置いたのでは道にも頓と其価値が無くなつてしまふものだ。
 維新頃にも口端だけが達者で実行の之に伴はなかつた人が無いでは無い。素より沢山あつたのだが、昨今の青年等は平均べて維新頃の人人に比すれば口が達者で、いろいろと理窟を言ふことが上手になつたやうに思はれるのみならず、私の如く道の話でも致すものがあれば、言葉巧みに之を否定しようとする。私は洋学に通じて居らぬから、オイケンは何んな事を説いてるか、ニーツェが何を主張して居るか頓と其辺は不案内であるが、苟も一代の師となる学者が道に外れた事を説いたり主張したりする筈のあるべきもので無い。ただ青年たちが是等の学者の説を生噛りに半分噛つても本当に咀嚼し得られぬので、道を無視するのが最近の学説であるかの如く誤まり信じて居るのだらう。私の子女であるとか、或は私の宅へ出入する青年のうちにはマサカ爾んな暴論を主張して私を説き伏せようとする者も無いが、世間の若い者の間には、道徳も糸瓜もあつたもので無いといふ如き暴論を為すものが少く無い。殊に、進化論を楯に取つて、人間も犬畜生も同じ行ひで然るべきものであるかの如く主張するに至つては、誠に以て沙汰の限りである。
 昔は、人間を昆虫から全く別の物にして考へたもので、「三字経」には、「天地人を三才とし日月星を三光とす」といふ句がある。つまり人間は禽獣虫魚と其選を異にする天地の華であるから、禽獣同様の醜行を営んでは相成らぬと教へたものだ。然し進化論によれば人間も其の原を探れば猶且劣等動物で、母の胎内に宿つてからですら八ケ月目頃までは、全く劣等動物と同じものであるからとて、昆虫や豚と異つたところが無いかの如くに論じ、半獣的行為は人間当然の所業なるかの如くに説いたりなぞする。私とても洋学の知識さへ豊富ならば、之を論駁する論法を発見し、最近に於ける西洋の学者の学説も、進化論の主張も、その帰するところは結局道にある事を充分に説明し得られる事と思ふが、ただ洋学の知識が乏しい為に、進化論を誤解したり西洋の学者の説を誤つて受売する人々の説を、彼等と同一の推理法を用ひて彼等の納得し得るまでに論破する法を知らず、為に彼等のいふがままに任せ、之を聞き流しにして居らねばならぬのは私の目下頗る遺憾とする処である。かくして私が如何に彼等の論法を論破し得無いにしても、道は決して彼等の弁口によつて亡ぼされ得るべきもので無いのである。道は一般的のもので古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬのが、是れ道の道たる所以である。
 如何に口が達者で能く人を説き伏せ得られても、行ひの修まらぬ人物は、到底信用し得られるもので無い。大事を托し得らるるは口の人よりも行ひの人である。然し又世の中には、口も巧いが行ひも之につれて巧い人がある。仮令ば、成田屋贔屓の処へ行けば切りに団十郎を賞めて之を天下一品の役者であるかの如くに称揚するが、音羽屋贔屓の処へ行つては、前と全く反対で切りに菊五郎を賞め揚げ、団十郎の芸は重くつて駄目であるなぞと卑下したりする。斯る人は口が巧いのみならず又其行ひも巧みで能く人に悦ばれもするが、其志に至つては唾棄すべきほどに劣等なものであると謂はねばならぬ。故に、信ずべき人と信ずべからざる人を区別するには、単に其口と行ひとのみによつても判別するわけにゆかぬものだ。更に進んで、其人の志如何を洞察する必要がある。さればとて、人は、口や行ひが如何でも、その志が立派でさへあればそれで宜しいといふものでも無い。志が立派で他人に親切を尽す積りでも、その行ひが若し志に副うて居らぬやうでは親切が親切にならず、却て仇になり、他人の妨害となるぐらゐなら未だしも、甚しきに至つては、他人に損害を与へるまでにさへなるものだ。
 井上侯は従来談話したうちにも申述べて置いたやうに、至つて親切な御仁で、飽くまで他人の面倒を見てやることを得意にせられたものだが、元来が短気な質ゆゑ、親切をしてやる代りに何でも他人を自分の意見の通りに直してしまはうとせられたものである。畢竟、井上侯は、親切の押売を得意にせられた御仁である。その結果、世間からは往々にして「井上さんの御親切は誠に辱いが、御親切にしてもらへばもらうほどそれだけ却て困る」なぞと怨言を吐かれたもので、井上侯の親切振りは何時でも難有迷惑に思はれるのが例であつた。否な、大抵の人は井上侯から親切にせられるのを却て迷惑に感じて居つたものである。
 曾て孟子は、事に食ましむるのか、志に食ましむるのかとの問ひを設けて之を論究せられた時に、志に食ましむるのでは無い、事に食ましむるのであるとの決定を与へて居られるが、如何にも其通りで、人が人の親切を難有く思ふのは、その親切な志よりも親切な行ひに対してである。然し又、行ひが如何に親切であつても、志が賤しくあれば人は之に対しても決して難有く感ぜぬものである。故に、人は行ひに志を伴はせ、志に行ひを伴はせるやうに致さねば相成らぬものだ。
子謂子夏曰。女為君子儒。無為小人儒。【雍也第六】
(子、子夏に謂つて曰く、女は君子の儒と為れ。小人の儒と為る無かれ。)
 茲に掲げた章句にある「君子儒」とは如何なるものか、「小人儒」とは如何なるものかに就ては、古来随分議論がある。苟も道徳あり文芸ある者は総て是れ「儒」と称せらるべきであるだらうが、そのうちにも、文芸を以て立つ儒者と、道徳を以て立つ儒者との別がある。文芸を以て立つ儒者は是れを称して小人儒と謂ひ、道徳を以て立つ儒者は是れを称して君子儒と謂ふべきものだらうと私は思ふが、「朱子集註」の圏外には、謝氏の説として、小人儒とは利を事とする儒者で、君子儒とは義に就く儒者の事であるとの意が載せられてある。然し之は宋儒の曲説で、猶且君子儒とは道徳によつて立ち、経世済民を以て我が天職なりとする儒者を指し、小人儒とは徒に文芸を講ずるのみを是れ事とし、経世済民の念が毫も無い腐儒の事であらうと私は思ふのだ。
 仏教には大乗と小乗との別のあるものと聞き及んで居るが、仏教の言葉を仮りて言へば「君子の儒」とは大乗の儒者の事で、「小人の儒」とは小乗の儒者の事である。医者なぞも人身の病を療すのは小医で、国家の病を療すのが是れ大医であると昔から謂はれて居るが、小人儒と君子儒との別が恰度それだらう。孔夫子は御弟子の子夏が単に文学に長じて居つたのみならず、高遠の理想を懐いて居る儒者であるのを看取せられ、徒に文筆に齷齪する小乗の儒者とならず、道徳を以て国を治め、経世済民の為に力を致す大乗の儒者となれよと勧告せられたのである。
 私の経験した範囲内から申せば、維新前の儒者よりも維新頃の儒者に、君子の儒と目せらるべき儒者が多いやうに思はれる。然し、私が郷里から初めて江戸に出て来た際に入塾した海保塾の海保漁村先生は経世済民の志ある君子の儒と称せらるべき人で無かつた。私は多少漢学の素養があるにしても、文章を解剖的に玩味するほどの力が無いので、海保先生の文章に就ても何処が旨いとまでは申上げかねるが、文章は確かに旨かつたやうである。通称を章之助と申して居られたが、太田錦城の弟子であつたのである。海保先生の子に竹渓と申さるる子があつたが、この方が或は却て父の漁村先生よりも経世済民の志を懐いた君子の儒に近かつたかも知れぬ。
 河田迪斎、三島毅などの師事した儒者は、号を方谷と称した山田安五郎であるが、この方は却々の傑物で、備中松山に生れ、藩主板倉伊賀守に迎へられて其の師と仰がれ、佐久間象山、塩谷宕陰などとも交はり、藩の財政なぞにも喙を容れて幣制を改革するやら、物産を起し土木を修めるやら、慶喜将軍が大政を奉還せらるるに及んでは、大義名分を説いて藩主をして恭順を表せしむるに至つたほどの人である。
 それから藤森弘庵といふ儒者も識見の凡ならざる人であつたかのやうに思はれる。然し、弘庵は攘夷論者で、今日から観れば時勢に遅れて居たかのやうに見えぬでも無いが、嘉永六年ペルリの軍艦が押し寄せて来た時に、幕府が其の所置に窮し、貿易を許しても可いものか悪いものかと久く逡巡決し難く、甚だ当惑して居る際に「海防備論」二巻を著し、盛んに攘夷説を鼓吹し一世を風靡したる結果、遂に幕府の大老井伊掃部頭の悪むところとなつて将に重刑に処せられんとした事があるのに徴しても、弘庵が小人の儒で無くつて経世済民を以て念とした君子の儒であつた事を窺ひ得られるだらうと思ふのである。
 江戸の芝愛宕下に住んで居つたので号を宕陰と称した塩谷世弘なども、経世済民の志を懐いて居つた立派な君子の儒で、徒に文章を講ずるを以て満足せず、清国に阿片戦争の起つた事を聞くや、日本にも亦近き将来に於て外国人の侵入し来るべきを論じて海防の急務なるを説き、ペルリの来朝するや軍艦を造る便宜の法二十条を幕府に建白し、最後に「隔靴論」を著して幕府の政治に飽き足らぬ点多きを指摘し、恰も靴を隔てて痒きを掻くに似たるものあるを諷したところなぞは、到底尋常腐儒の輩の及びもつかぬ識見である。
 私が三島毅先生と御懇意を致すやうに相成つたのは、その初め誰れの御紹介によつたものであるか頓と忘れてしまつたが、私が亡妻の為に建てた石碑の文を同先生に請うて書いて戴いたのが抑々の因縁である。その石碑は今でも谷中寛永寺の地内に建つてるが、その碑文に就ては私と三島先生との間に一条の物語がある。
 亡妻の千代子は是れまで談話したうちにも申述べて置いた通りで、従兄で且つ私の為には漢学の師匠にあたる尾高惇忠の妹であつたのだが、私の許へ嫁して来たのは私が十九歳で未だ江戸へ出なかつた前の事である。その時千代子は十八歳であつた。これが私の糟糠の妻である。然るに不幸にも明治十五年四十一歳で歿してしまつたので、それから三年目に当る明治十七年頃であつたと思ふが、私は千代子の為に石碑を建ててやらうとの精神を起し、その碑文の起草を三島先生に御依頼する事にしたのである。
 結婚の当時、私は国事の為に東奔西走し横浜異人館の焼打でもしようといふくらゐの意気込みであつたので、妻を顧る遑など素より無く如何に泣き付かれても私は妻の言に一切耳を傾けなかつたものだ。然し、私が家を空けて江戸に出で、それより京都に赴き、仏蘭西へ洋行するやうになつてからの留守中も、妻は能く私に代つて舅に仕へてくれた事を帰朝してから知つた時には、厚く礼を述べて謝しもしたのである。私が特に三島先生の宅を訪れて千代子の為に碑文の起草を御依頼した際には、私の郷里を出た時の模様から、仏蘭西より帰朝した時の模様まで、千代子が如何に私に対して尽してくれたか、これらの一部始終を、残らず先生に物語つたのだ。先生は之を聞かれて、「貴公の談話が其儘立派な碑文に成るから……」と申され、目下寛永寺に建つて居る石碑の文を書いて下されたのだが、私は其の碑文を読んで、甚く感心したのである。平たく謂へばその文が非常に私の気に入つたので、爾来先生と親しくし、先生を尊崇するに至つたのである。私は如何に名文でもその文章に情が籠つて居らぬやうなものは之を好まぬのだが、三島先生が書いて下された千代子の碑文には、私が言はんと欲する心情を遺憾無く言ひ表し、併も其れが千代子を賞める立派な文章になつて居たので、爾来私は先生を崇敬し、先生と愈よ懇親を深くするに至つたのである。三島先生も昨今は御老体になられたので余り御書きにならぬやうだが、私が御懇親を申上げるやうになつた結果、義利合一論とか修身衛生理財合一論とかいふものを公にせられ、遂には前条に談話したうちにも申述べて置いた「題論語算盤図」の一文をさへ御書き下されたのである。
 安井息軒は明治九年になつてから歿した儒者で、明治六年に「論語集説」六巻を著して居るが、維新頃の儒者で博学なる点に於て息軒に及ぶ者は余り無かつたとの評判である。目下、第一高等学校や東洋大学に漢学の教授をして居られる安井小太郎氏は息軒の令孫であるが、息軒は唯博学であつたといふ丈けで或は真正の意味に於ける学者で無かつたかも知れぬ。元田永孚は先帝の恩遇を受けた儒者で、明治の元勲は伊藤、山県などよりも寧ろ元田氏であるとさへ謂ふ人もあるほどだが、単に博学であらせられたのみならず、義に立つて苟くも枉げず道徳を以て天下を治むるを念とせられた君子儒であつたらしく思はれる。
 然し、何んと謂つても我邦で傑出した君子儒は、白石と号した新井君美である。白石は徳川六代の将軍家宣に仕へた人で、その幣制改革に関する功労等に就ては、既に談話したうちにも述べて置いた通りであるが、刑政のことにまでも関係し、米国に行はるるテスト・ケース(試験裁判)のやうな事を実施した例さへある。殊に其著述にかかる「読史余論」の如きは白石に非凡なる識見のあつた事を示すもので、政権が藤原氏に移つてゆく具合を実に能く叙べてある。頼山陽の「日本外史」は全く白石の「読史余論」を祖述したものであると謂つても決して過言で無い。それから維新後になつて初めて書かれた文明史とも観らるべき法学博士田口卯吉(鼎軒)の「日本開化小史」の如き書も、今回縮刷印行せられた同書の巻尾に黒板文学博士が書かれた評言中にもある通りで、白石の「読史余論」より暗示を得て著述せられたものだ。
 白石の「折たく柴の記」は白石が幕府に仕へるやうになつた始末や自分の色々履んだ経歴の如きものを書いたものではあるが、其実、一種の徳川幕府史である。素と漢学の素養の深かつた人でありながら平易な文章を以て自伝に事寄せ徳川の歴史を書いた技倆は、実に驚くべきものである。新井白石の如きが即ち真に経世済民を念とした君子儒と称せらるべき人だらう。
 維新後になつてから現れた洋学の儒者には、什麽も漢学の儒者の如く経世済民を念とする者が無くなつたやうに思はれる。当今の学問は昔に比べれば頗る精細に亘るやうになつて来たから、経世済民のことまで稽へては却て研究が疎かになると謂ふのだらうが、私などの眼から観れば、今日の学者は学者と称せらるべきもので無く、或る特種の技芸に達した技師たるに過ぎぬかの如く思はれる。然し、今日ではこの技師がみな学者を以て目せられ、学者が経世済民の事など稽へては却て害になるとさへ説く者があるほどだが、私は什麽しても斯る意見に同意ができぬのである。苟くも学者といはれるくらゐの人ならば、経世済民の事を稽へ、天下国家の事を思ふべき筈のものだと信ずるのである。
子游為武城宰。子曰。女得人焉爾乎。曰。有澹台滅明者。行不由径非公事未嘗至於偃之室也。【雍也第六】
(子游、武城の宰と為る。子曰く、汝、人を得たるか。曰く、澹台滅明なる者あり。行くに径に由らず、公事に非ずんば未だ曾て偃の室に至らず。)
 如何なる英雄豪傑と雖も、如何なる才人智者と雖も、自分一人のみでは到底大した事業を営み得らるるもので無いので、家康公には彼の有名なる本多、井伊、酒井、土井などの四天王があつた。石田三成はマコトの足らなかつた人ではあるが、才人であつた丈けに部下に人才を得なくつては何も出きるもので無い事に能く気がつき、秀吉に仕へて食禄僅に二万石の頃、既に其の一半一万石を割いて之を島左近に与え、軍師として抱へ入れたといふ話は有名なものである。茲に掲げた章句は、孔夫子の御弟子で其名を偃と申した子游が、武城といふ采邑の長官となつて孔夫子に謁したる際、孔夫子は子游の身の上を気遣はれ、苟くも采邑の長官となれば、先づ何よりも部下に其人を得なければ善政を施き得らるるもので無いと考へられたので、之に就て問ひ訊された、子游が其れに答へた次第を記したものであるが、子游は澹台滅明と称する人物が、大道のみを歩いて如何に近道だからとて危険な横径などを縫つては歩かず、公用で無ければ長官たる偃即ち子游の室へ顔出しさへせぬ堅実な処世振りを見抜いて、之を重く用ひたのである。
 凡そ人を択み人を採用するにはその方法が三つある、第一は適材を適所に置く法で、既に在る事業の為に之に適する適材を発見し、之を重用するのが即ち其れである。第二は或る特種の才とか特長といふものを発見して其人に惚れ込み何となく之を重用する法である。第三は人物の全体に就き観察し、その堅実なるを見抜いて之に惚れ、其人を重用して大事を任せるやうにする法である。
 適材を発見して之を適所に配置する事は、決して失敗を伴ふもので無いが、或る優れた特種の才能のある人を発見してその才能に惚れ込み、人物の全体を銓衡するに遑無く、その人物を重用して大事を托するが如きは頗る危険なもので、後に至り失敗を招くに至る例は随分世間に多くある。之に反し、人物の全体を観察し、其確実なるを知つて後に始めて用ひる方は、単に或る特種の才能にのみ惚れ込んで之を重用するに比すれば遥に安全で間違ひの尠ないものだ。仏蘭西人が人を用ひる法は、主として其人にある特種の才能に重きを置くにあるが、英吉利人が人を用ひる法は其人にある特種の才能に重きを置かず、人物全体を観察して確な人を重用するところにあるらしく思はれる。英人の事業が世界何れの方面に於ても健実なる発達を遂げて居るのは、この人物採用法が与つて力のあるものと私は考へるのである。
 石田三成は幼より非凡の才智があつたので、其れが太閤秀吉の眼につき、重く用ひらるるに至つた人である。三成は素と近江国の生れで観音寺といふ寺の小姓をして居つたものだ。甫めて十三歳の時であつたとか聞き及んでるが、一日秀吉公鷹狩に出られ大層咽喉が渇いたものであるから、偶然其の寺に立寄られて一杯の茶を所望に及ばれた。その時に茶を持つて来た小姓が、まだ十三歳の三成である。その茶は微温いもので、大きな茶碗に七八分盛られてあつたのである。秀吉は余りに渇いて居られたのでグツと其れを一ト飲みに干し、又一杯を所望に及ばれた。すると、今度は可なりに熱い茶を半分ばかり茶碗に盛つて来て、三成は之を秀吉に薦めたのである。秀吉は之をも飲み干して更に三杯目を所望に及ぶと、今度は熱い熱い茶を小さな茶碗に点じて持つて来たのである。如何にも能く人の心持を察した茶の薦め方であつたものだから、秀吉はホトホト三成の才智に感心してしまひ、寺の住職に話して三成を請ひ受け、自分の小姓にせられたのであるが、果して眼から鼻に抜けるやうに敏捷で、能く秀吉の心情を忖度し、恰も響の声に応ずるが如く、よく給事したものだ。以来重用せられて十八万六千石の禄を受けるまでになつたのが三成である。然し、三成が果して豊臣家の利益になつたか什うかは疑問である。恐らく豊臣家の滅亡を早めたものは三成であつたと謂はねばならぬのだ。
 あまり、或る才ばかりを見込んで人を重用すれば、一時はよくつても末には大抵斯んな結末になるものである。然し其人の或る優れた特徴を発見し之に見込みをつけて重用しても、好結果を得らるる場合が無いでも無い。これは中村敬宇先生の訳せられた「西国立志編」で読んだもので、仏蘭西の銀行家ギルバートであつたやうに記憶するが、或る青年の求職の為に来たのを断つて帰してやると、その青年が帰りがけに留針の一本落ちてるのを目につけ拾つたところを見、あの様子では定めし注意が綿密だらうとて又呼び返し、之を採用して使つてみると、案に違はず綿密な人であつたなぞといふ例もある。然し、斯る例は頗る稀有な事だ。猶且人を用ひるには、これまで談話したうちにも申述べて置いたやうに論語「為政」篇にある孔夫子の教訓の通り、その為すところを視、その由る処を観、その安んずる処を察し、視、観、察の三つを併せて充分に銓衡した上で無ければ安全であるとは謂へぬのである。
 俗に加賀騒動と称ばれるものが前田家五代の主吉徳の時に起つてるが、それの原因になつたものは、吉徳公が小姓大槻伝蔵の聡明なるところに惚れ込み、同人が、火を運んで来た者が之を顛覆り返したのを見て、頓智即妙、直に自分の袖を以て其の火を摘み、畳を焼くやうにしなかつたのを見て深く其機智に感心し、重用して国事を托するやうになつた事である。この大槻伝蔵なぞの例は、三成にも増して甚しい害を主家に及ぼしたもので、所謂主家を横領しようとするまでになつたのである。兎角、才を重んじて人を重く用ひることにすれば斯る弊を生ずるに至り易いものだ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.174-181
底本の記事タイトル:二四〇 竜門雑誌 第三五〇号 大正六年七月 : 実験論語処世談(二六) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第350号(竜門社, 1917.07)
初出誌:『実業之世界』第14巻第9,10号(実業之世界社, 1917.05.01,05.15)