デジタル版「実験論語処世談」(24) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
哀公問。弟子孰為好学。孔子対曰。有顔回者。好学。不遷怒。不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也。【雍也第六】
(哀公問ふ。弟子孰れか学を好むと為す。孔子対へて曰く。顔回なる者あり学を好む。怒を遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死す。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。)
今回から論語の第六篇たる雍也篇に入り、不相変ポチポチと其処此処の章句を抜いて、処世の上に私が実験して来た感想を談話するが、茲に揚げた章句は、孔夫子が晩年自分の生国たる魯に帰られてから、当時魯の王様であらしつた哀公との間に交換せられた問答を記載したもので、孔夫子は七十三歳で卒せられたとの事故、この問答は恐らく孔夫子の卒せらるる前一二年頃にあつたものだらうと思はれる。孔夫子の遺された数多い教訓のうちでも、那的言は何んな場合に発せられたもの、這的教言は何ういふ場合に臨んで垂れられたもの、といつたやうに、能く其間の消息を呑み込んで居れば、同く論語を読むにしても其章句の意義が一層明瞭に理解せらるるやうになるだらうと私は思ふ。それに就て一つ申述べて置きたい事がある。私は昨大正五年七十七歳の俗に所謂喜寿を迎へたので、私の一門知己によつて組織せられて居る竜門社の同人間に、私に何か祝賀の意を表するに足る品物を贈りたいとの議が起つた際、同社の評議員会の席上で会長の阪谷男爵から「論語年譜」を編成して之を贈ることにしては如何か?との提案があつた。処が、幸に斯の提案が容れられたので、同男爵は三上参次博士、萩野由之博士とも熟議の結果、現今の学者で最も能く支那の経書に精通して居る人は東京高等師範学校教授の文学博士林泰輔氏であらうから、同博士に其編纂を委嘱するが可からうといふ事に一決し、竜門社より同博士に愈々之を御頼み致したのである。(哀公問ふ。弟子孰れか学を好むと為す。孔子対へて曰く。顔回なる者あり学を好む。怒を遷さず、過ちを弐びせず。不幸短命にして死す。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。)
私は去る二月三日、林泰輔博士が「論語年譜」を編纂せられた労に対して謝意を表する為、特に同博士と会見したが、その際同博士は、「論語年譜」の巻頭に載せた孔夫子の伝記よりも、更に一層詳細なる孔夫子伝を編著せられ様とする意のある事を私に漏されたので、私よりは希望として、仮命ば論語の何処其処にある章句は孔夫子何歳の当り、斯う斯ういふ場合に莅んで之を発せられたものだといふ事をも、その詳伝の中に是非掲載するようにして戴きたいものであると申入れ置いたが、林博士も之れには同意を表せられた。然しその研究調査は却々困難であらうとの事であつた。
ただ書籍を読んで居るから、学問をして居るから、頭脳が利くからといふ丈けでは、怒を遷さざる事顔回の如くになれるもので無い。一例を挙げて謂へば、井上侯の如きは学問もあり、識者でもあり、頭脳も能く利いた人だが、至つて怒を遷したがる性分の仁であつたのだ。如何に思慮分別のある人でも、この事は又別段なものと見え、井上侯は来客でもあつた時に、取次に出た女中が何か一つヘマな真似でもすれば、何の罪も無い客にまで怒を遷し、ガサガサ当りちらして不機嫌な様子をせられたものである。井上侯ほどに頭脳も利き、書籍も読んで居られ、俗に所謂学問のある人でも、怒を遷さぬといふ事は至難としたところであつたらしい。
之に反し、頭脳がさまで明敏だといふでも無く、又学問があるといふでも無く、別に大した人物といふのでも無いのに、怒を遷す如き子供じみた真似をせぬ人が往々世間に無いでも無い。そんなら斯る人は悉くみな世に立つて有用の材となり、社会の進歩に貢献し、自分も栄達を遂げてゆけるかといふに爾うで無い。怒を他人に遷したり、過ちを弐び三たびするやうな人物でも、智恵のある為に立身出世し、社会の進歩にも力を添えてゆける人が却々に多いのだ。是処に至ると、人間に取つて何よりも大事なものは智恵であつて、怒を遷さぬとか、過ちを弐びせぬとかいふやうな美徳は、実にツマランものであるかの如くに見えぬでも無い。然し、これは其一を知つて其二を知らぬ観察の仕方で、智恵のある人が、其上に猶ほ怒を遷さず、過ちを弐びせぬ美徳を具へて居つたら、どれ程世間から崇尊せらるるやうに成り得たらうか、と稽ふべきものだ。又怒を遷さず過ちを弐びせぬ人で、若し性来の智恵が無い上にこの美徳までが無かつたらどれ程ツマらぬ人物に成り果ててしまつたらうか、といふ事を稽へてみるが可いのである。必ずや思ひ半ばに過ぎるものがあらう。
この平岡準蔵氏は能く私を知つて下されて私の為に又いろ〳〵と謀つてくれもした人である。私が仏蘭西から帰朝致した際に直ぐ静岡に参つたのは同地に慶喜公が居られるので、慶喜公の御側で何かして見たいといふ気があつたからだ。処が、突然私を静岡藩の勘定組頭に任ずるとの命が下つた。之に対し私は非常の不満で大に腹を立てた次第は、既に申述べて置いたうちにもある通りだが、段々訊いてみると、平岡氏が渋沢ならば適任だらうといふので推薦した結果である事が知れた。当時、平岡氏は静岡藩の勘定奉行をして居つたが、慶喜公が将軍になられるまでは、平岡越中守と称して幕府の勘定奉行を勤めて居られたのである。
慶喜公が徳川十五代の将軍とならせられた際には、御附人と称し、一橋家の人で慶喜公に随従し幕府に這入つた者が大分あつた。原市之進、梅沢孫太郎なども、その際に一橋家から幕府へ移つたのである。当時人材は多く陸軍奉行の管下に網羅されたので、平岡準蔵氏も亦陸軍奉行に出仕し、歩兵頭に任ぜられたのである。その頃、陸軍奉行の管轄は歩兵とか砲兵とかと夫々の部門に別れ、各部に頭を置かれたのだが、各部の頭は単に大綱を握つてる丈けで、細かい事務は各頭の下に俗事掛といふ役があつて之を取扱つたものである。申さば当時の俗事掛は今日の秘書官の如き役で、この俗事掛が「申し出」と称せられた。昨今ならば伝票の如きものを作製して勘定奉行に提出し、之によつて金銭を受け取つたりなぞしたものである。
ところがこの禁裏附番頭に大沢源次郎といふ者があつて、不軌を企てて居るとの説が大阪表へ伝えられて来た。不軌を企てたと謂つても別に幕府へ弓を弾くやうな大きな企てをしたのでも何んでも無く、薩人に向つて一寸した幕府の悪口を言つたぐらゐに過ぎなかつたのだらうが、兎に角大阪ではそれは大事であるから直ぐにも大沢を召捕らうといふことになつたのである。然し、召捕には又夫々の作法がある、苟にも禁裏番頭を勤むる士分の者を罪人扱ひにし、有無を言はさず縄を打つて引つ立てて来るわけにも行かぬ、一応礼を以て奉行所への同道を求め、その際抵抗するに至つて初めて余儀なく縄を打つて引き立てる、といふ段取りにするのが当時の御法であつた。
然るに大阪表に於ては、この大沢源次郎に奉行所への同道を求める儀を申渡す使者の役目を引受けようと誰一人申出づる者が無い。是れ全く大沢の武勇を恐れてのことであつたのだが、私は其頃、撃剣などもやつたことがあつて、強いとか何んとか評判されて居つたものだから、遂に斯の使者の役目が私へ転んで来たのである。当時、私はまだ血気も盛んであつたので、潔く其役目を引受ける事にした。つまり皆の者が臆病風に吹かれたのでこの大役が私に廻つて来たのである。
さて、愈〻、使者の役目を帯びて赴かうといふ段になるや、私は単身一人で出かける積であつたのだが、先方の大沢は名だたる勇士のこと故、私一人のみを遣つて危害でも出来ては取返しがつかぬからといふので、私の拒むにも拘らず、近藤勇の率ゐる新選組の者が四人、私の護衛として大沢の宅まで私と同道する事になつたのである。
それでは私の役目の上に面目が立たぬやうになるからとて、私は断然この申出でを却けたのである。苟も武士に対して何の沙汰も致さずに之を縛するといふ法は無い。護衛の面々が役目の上の面目が立たぬやうになつては困るといふのなら、私とても役目の上の面目が立たぬやうでは猶且御同様に困るでは無いかと飽くまで私は主張したので、四人のうちの土方歳三といふ人が事理の理解つた人であつた為、私の主張を理ありとし、この場合、渋沢のいふ通りにするが可からうとの事になり、そんなら門前より見え隠れに護衛をするやうにさしてくれとの事ゆゑ、之までも拒むには及ぶまいとその如くに致させ、私のみ単身門内に入つて名刺を出し、奉行よりの用務で罷出でたるもの、何卒御面会を得たいと申入れると、大沢は何気なく出て来られたので、私は厳粛なる態度で「奉行に於て御取調べの廉あるに付、即刻奉行所まで出頭せられよ」と申渡し、終つて門前に待たせ置いた四人の者を召び入れて大沢を之に引渡し、警衛の上奉行所へ同道することにしたのであるが、この時の私の所置が頗る当を得て居つたので、畢竟胆が据つて居るからだとか何んとかと持て囃された為、平岡準蔵氏は私が静岡へ参つた時にこの当時の事を記憶し居られて、渋沢ならば胆もある男ゆゑ大に用うべきであるとて、私を同氏より静岡藩の勘定組頭に推薦したものであつたのだが、なほ今一つ同氏が私を推薦するに就ての最近の原因になつたものがある。
然し私は私の性分として兎ても爾んな曖昧な真似は出来ぬので、民部公子留学費中の残余は総て帰朝の際之を持ち帰り、そのうち八千円を帰朝してから鉄砲の買入代金として民部公子に御渡し申上げ、なほ一万円を旧幕府の後身たる静岡藩に返還し、詳細なる収支精算表を調製して之に添へ、収支を毫も曖昧にせず之を明確にし、且つ仏蘭西で民部公子の為に購入した物品調度の詳細なる目録をも作り、そのうち仏蘭西に如何なる品々を残して来たか、その辺のところまでも之を目録にして提出したので、維新後静岡藩の勘定奉行をして居られた平岡準蔵氏は之を見て甚く感心し、旧幕府時代には大沢事件によつて私を胆の据つたものと思ひ居られた事とて、胆の据つてる上に斯く計算に曖昧なる処無く正確であるとすれば、之を静岡藩の勘定組頭にしたら適材を適所に置く所以であらうと考へられて私を推薦せられたものであつたのだ。私と平岡氏との関係は斯くの如くであつたから、平岡氏の性情は私に於ても能く知り得る事ができたので、平岡氏が怒を遷さぬ人である事も覚り得たのである。
子曰。回也其心三月不違仁。其余則日月至焉而已矣。【雍也第六】
(子曰く、回や、其心三月仁に違はず、其余は則ち日に月に至るのみ。)
孔夫子は、容易な事で人に仁を許さず、大抵の人を目するに仁に到らざる者を以てせられたのであるが、顔回に対して丈けは仁を許されたものだ。茲に掲げた章句も亦、顔回の仁を賞められたのである。この章句の意味は、孔夫子の御弟子のうちで顔回のみは仁の心を三月の永き間も間断なく持続してゆけるが、その他の御弟子たちは、日に一度か月に一度かぐらゐ漸く仁の心になり得らるるに過ぎぬものだといふにある。然し、茲に「三月」と孔夫子が曰はれたのは、必ずしも暦日の三ケ月即ち九十日と日数を限られたわけのもので無い。ただ永い月日の間、顔回は継続的に仁を体してゆき得られるが、他の弟子が仁を体するのは、頗る間歇的のものである事を戒められたまでである。(子曰く、回や、其心三月仁に違はず、其余は則ち日に月に至るのみ。)
昔から人は悪い習慣には慣れ易いものだとされて居るが、人は又善の習慣にも慣れ易く、善の習慣がつきさへすればそれで或る限度までは永遠までも善で貫徹してゆけるものだ。其姓名は今一寸忘れたが、先年森村男爵の紹介で面会した人がある。この方は、現に耶蘇教の牧師を勤て居られるが、十八歳の時に或る女教師と通じて其女を殺害して以来、十八年の間悪事といふ悪事ばかりを働き、幾度と無く監獄にも入つたのである。然るに一朝翻然として悔悟するや「回顧十八年」なる一書を公にし、現に牧師を勤め神妙に致し居られる。つまり、善の習慣が品性についた結果であらうと思はれる。私が斯の人に二度目に遇つた時に、その「回顧十八年」を斯の方から贈られたので「昔ならば、貴公は兎ても恐ろしい人で、斯く平然対談して居られるわけのもので無いのだが……」と笑ひながらに曰ふと、「今は既う爾んな事は無いから、決して御心配に及びません」と、先方も笑ひながら答へられたのであつたが、この方が果してこれで死ぬまで一生貫徹してゆかれるか何うかは、まだまだ疑問である。棺の蓋を覆うてからで無ければ本当のところは解らぬ。
人の一寸した性癖なぞも、持つて生れたものだとなると容易に矯正し得られぬもので、若い時に凝り性であつた人は老年になつても猶且凝り性、若い時に悠長した性分の人は年重つても依然悠長したところがあり、若くつて粗忽かしかつた人は猶且老人になつても粗忽かしい処のあるものだ。何うしても一生変らぬものである。私は壮年の頃頗る物事に対して急激な質で、一つの事を何でも貫徹しようとする気のあつたものだ。
七十八歳にもなつた今日では、全く私の性質が一変して急激に事を徹さうとする気なぞは全く喪せてしまつたかの如くに見えるが、実は爾うで無い。若い時の性分が依然として今でもある。私は昔ながらの渋沢栄一である。ただ年を重つて居る丈けに、社会の幾変遷に遭遇し種々の事情にも接して居るので、事を遂げんとするに当つても周囲の状況を稽へ、この場合如何に所志を遂げようとしてあせつても、遂げ得らるるもので無いと思へば、時期の到来するまで待つことにするので、如何にも急激の性情が私に無いやうに世間から見られる丈けのことだ。然し、思つた事を是非とも貫徹しようとする気のあるに至つては、昔も今も変らぬのである。斯く自分一身に就て稽へてみても、人の持つて生れた性情は死ぬまで変るもので無く、或る一定の傾向によつて人の一生は一貫せらるるものであると私は思ふのである。
境遇や教育は能く人の性情を一変させ得るものだといふが、それは人の性情のうちでも皮層に属する部分だけの事で、根本から一変させるわけにゆくもので無い。天賦の性情は死ぬまで其人に附いて廻るものだ。境遇や教育によつて変へてゆける部分は、性情のうちでも境遇や教育によつて出来た後天的の部分だけである。先天的の部分は、雀子が百まで踊りを廃めぬやうに、永遠まで経つても到底変るもので無いやうに私の目には見えるのである。その信ずる宗教に変動を来したり、その業務に異動を生じたりしても、狭量であつた人は猶且狭量、無慈悲の傾向を持つてた人は猶且無慈悲なものである。ただその天賦の性情即ちその人にある先天的の傾向が、その人の宗教、教育、業務等の変化によつて、外部に顕れる時の形式を異にするやうになるまでの事である。
是に至つて考へると、学者の説く遺伝なるものが、決して侮れぬものであるといふ事になる。親の長所欠点は什麽しても子に遺伝し、之が子の先天的性情となつて顕はれて来るものだ。この点は人の親たるものが大に心得置かねばならぬ事である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.157-164
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第348号(竜門社, 1917.05)
初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)
底本の記事タイトル:二三五 竜門雑誌 第三四八号 大正六年五月 : 実験論語処世談(二四) / 青淵先生
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初出誌:『実業之世界』第14巻第6,7号(実業之世界社, 1917.03.15,04.01)