デジタル版「実験論語処世談」(69) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.623-626
子曰。直哉史魚。邦有道如矢。邦無道如矢。君子哉。蘧伯玉。邦有道則仕。邦無道則可巻而懐之。【衛霊公第十五】
(子曰く。直なるかな史魚。邦道あれば矢の如く、邦道なければ矢の如し。君子なる哉。蘧伯玉。邦道あれば則ち仕へ、邦道なければ則ち巻いて之れを懐にすべし。)
本章は、衛の二大夫の優劣を評したのである。(子曰く。直なるかな史魚。邦道あれば矢の如く、邦道なければ矢の如し。君子なる哉。蘧伯玉。邦道あれば則ち仕へ、邦道なければ則ち巻いて之れを懐にすべし。)
孔子は、衛の大夫の史魚を評して、直なる哉史魚、邦に道ある時も直しきを守ること矢の直なるが如し、邦に道がない時も正しきを守ること矢張り矢の如くである。然るに今一人の蘧伯玉は、邦に道あれば仕へてその道を行ひ、邦に道がなければ歛めて出さない。
孔子は能くこの二人を知つて居つたので、斯く評したが、史魚は真直な人で、善悪共に一本調子で進んで行つて、何処までも正しきを守り進んだのである。之れに反して蘧伯玉は薀蓄のある人であるから、時によつて多少方面を代へる丈けの余裕のある人である。言はば史魚は道があつてもなくとも真直に進むから、先づ忠直な人と云ふことが出来る。蘧伯玉は邦に道があれば仕へ、道がなければ、鋒鋩を現はさないから、人と争ふやうなこともなかつた。
併し今はこのやうな種類の人が多いが、一本調子の行動を取ることは正しい。そして蘧伯玉のやうな行動を直すと云ふことにならなければならぬ。之れが実に尊いものと思ふが、併し今はかう云ふ人は稀であると思ふ。蓋し都合のよい時は調子に乗つて進んで行くけれども、悪い時になると直に自己を曲げる。自己の信じて居ることを曲げるやうでは自己がないと思ふ。この自己のあると云ふ人は至つて少いものである。
子曰。可与言。而不与之言。失人。不可与言。而与之言。失言。知者不失人。亦不失言。【衛霊公第十五】
(子曰く、与に言ふべく、而るに之れを与に言はざれば人を失ふ。与に言ふべからず、而るに之れと与に言はば言を失ふ。知者は人を失はず、亦言を失はず。)
本章は、知者は能く人を見て言ふことを言つたと云ふのである。(子曰く、与に言ふべく、而るに之れを与に言はざれば人を失ふ。与に言ふべからず、而るに之れと与に言はば言を失ふ。知者は人を失はず、亦言を失はず。)
与に云ふべき人であるに、言はないならば人の信を得ない。与に云ふべき人でないのに言へば言を失ふのである。然るに知者は能く人を見るから、之れは言ふべき人であるか、言ふべからざる人であるかを悟るから、言ふべき人には言ひ、言ふべからざる人には言はないから人を失はなければ、言葉をも失することがない。
この章句は、実に奥床しい。凡て人に対してはかうあり度いと思つて居る。言ふべからざる人に言つたり、言ふべき人に言はなかつたりすることは、決してその信を得る所以でない。併し人には自己の名を売る為に能く言ふ人があるが、之れは感心せぬが、今日はさうでない人の稀なのは惜しいものと思ふ。
共に話してよい人には話をし、話をして悪い人には話をしないと云ふことは、判り切つたことであるが、実地になると仲々六ケしいものである。私なども、言ふべからざる時に言つたりするが、言ふ時には言ふ。何人でも私を訪ねて来た者には会ふので、会はずに帰すと云ふのはいかぬと思つて居る。
処が中には主人に言はないで帰したり、又は会うても話が違うて居つたりして不満足に感じて帰るものもある。ある人などは下らん人などに会ふから馬鹿だなどと云ふが、会ふのがよいと思ふ。唯仲々には帰らんで困るやうな人もある。
此の章句などは甚だ面白い言葉であつて、孔子の甘い処であると思ふ。物軟かに言ふ所などは他に一寸見られない言ひ表はし方である。
子曰。志士仁人。無求生以害仁。有殺身以成仁。【衛霊公第十五】
(子曰く。志士仁人は、生を求めて以て仁を害する無く、身を殺して以て仁を成す有り。)
本章は、時に仁の為に身を殺すこともあると云ふことを言つたのである。(子曰く。志士仁人は、生を求めて以て仁を害する無く、身を殺して以て仁を成す有り。)
仁に志す士と、仁徳のある人は、己れの死生を忘れて仁の為に尽さうとする。故に生命を得る為に仁を害することがなく、義の為に身を殺しても仁をなすと云ふのである。
之れは非常にやかましい文句であるが、文天祥の衣帯にのこれる賛に之れと同様の意味のことを書かれてある。「孔曰く、仁を成す、孟曰く義を知る。惟れその義尽く仁に至るの所以、聖賢の書を読み、学ぶ所何事ぞ。而して今而して後、庶幾愧なし」とある、之れである。「孔曰く義を取る」は、孟子告子篇に「生亦我の欲する所、義亦我れの欲する所なり、二者兼ね得べからざれば、生を捨てて義を取る者なり」を指したものである。
論語は仁を根本として居るので、仁を重んじて居ることも亦大である。そして仁と云つても色々の意義が含まれて居る。忠も孝も義にして節を曲げないことも仁である。仁は心の徳、行の綜であるから、万事の善、道理の枢機、人生の達徳と云ふことが出来る。貝原益軒も仁は義、礼、智、信を兼ねてその中にあると言つて居る。
孔子は此の仁を捧持して居る。そして之れを軟かに説いて教へて居る。若し強い人であると一本調子になつて進むものであるが、孔子は余りに此処に拘泥しないでやる処に孔子の思想がある。而も其処に決然たる所がある。論語に注目すべきは此処であつて、今の人には文天祥が守りとした位の逸話がなくとも、この位の覚悟があつてよいと思ふ。
唯、自分の為になる人は多いが、人の為になるやうな人は至つて少い。政府然り、上下両院然り、実業家然りである。誰か一人位人の為に立つ者がないか。
子貢問為仁。子曰。工欲善其事。必先利其器。居其邦也。事其大夫之賢者。友其士之仁者。【衛霊公第十五】
(子貢、仁を為さんことを問ふ。子曰く、工は其の事を善にせんと欲せば、先づ其器を利くす。其の邦に居るや、其大夫の賢者に事へ其の士の仁者を友とす。)
本章は、仁を修むる方法を説いたのである。(子貢、仁を為さんことを問ふ。子曰く、工は其の事を善にせんと欲せば、先づ其器を利くす。其の邦に居るや、其大夫の賢者に事へ其の士の仁者を友とす。)
子貢が孔子に仁をなす方法を問ひたるに、孔子は、工匠は其の仕事精巧なるを得ようとせば、先づこれを用ゐる器具を利くしなければならない。国に居つて、その国の大夫に仕へようとするならば、その賢者に仕へ、其の士の仁者を友とするのがよいと教へた。
この事は誠によいことに違ひないが、事実今日の世の中にはないではないか。孔子は或は何処かにかうした賢者があつて言つたのかどうか、なかつたとせば余りに無理である。何か此処に意味があるかと思ふ。つまり比較的のことであつて、若し賢者がなければ、仁をなすことも出来ぬから、時を俟つのがよいと云ふのかも知れない。
顔淵問為邦。子曰。行夏之時。乗殷之輅。服周之冕。楽則韶舞。放鄭声。遠佞人。鄭声淫。佞人殆。【衛霊公第十五】
(顔淵、邦を為《おさ》めんことを問ふ。子曰く、夏の時を行ひ、殷の輅に乗じ、周の冕を服し、楽は則ち韶舞し、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ。鄭声は淫、佞人は殆し。)
本章は、子貢に邦を治むる方法を説いたのである。(顔淵、邦を為《おさ》めんことを問ふ。子曰く、夏の時を行ひ、殷の輅に乗じ、周の冕を服し、楽は則ち韶舞し、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ。鄭声は淫、佞人は殆し。)
顔淵が邦を治むる方法はどうかと問うた。孔子は民に便利である夏《か》の暦を用ゐ、質素堅実な殷の大車を用ひ、儀制の完備した周の冕を服用するがよい。又音楽は舜の韶舞を用ゐるがよく、鄭の国の音楽を禁じ、佞人を遠ざけるがよい。鄭の音楽は淫靡であり、佞人は事を誤るものであると説いた。
孔子は一代の制度のみを採らず、古今を折衷し長短を取捨し、時に応ずる所の最良の方法を示したのである。若し孔子をして今日あらしめば、又その方法を異にしたものと言つてよい。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.623-626
底本の記事タイトル:三七四 竜門雑誌 第四三四号 大正一三年一一月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第434号(竜門社, 1924.11)
初出誌:『実業之世界』第21巻第10号(実業之世界社, 1924.10)
底本の記事タイトル:三七四 竜門雑誌 第四三四号 大正一三年一一月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十七《(九)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第434号(竜門社, 1924.11)
初出誌:『実業之世界』第21巻第10号(実業之世界社, 1924.10)