デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
棘子成曰。君子質而已矣。何以文為。子貢曰。惜乎。夫子之説君子也。駟不及舌。文猶質也。質猶文也。虎豹之鞟。猶犬羊之鞟。【顔淵第十二】
(棘子成曰。君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢曰く。惜いかな夫子の君子を説くや、駟も舌に及ばず。文は猶ほ質の如く、質は猶ほ文の如し。虎豹の鞟は、猶ほ犬羊の鞟の如し。)
棘子成は衛の大夫であつたが、君子は質実の徳があれば宜しい、外飾の文は無用であると説いた。蓋し之れは当時の民が文に奔るの弊を見て此の言をなしたのであつた。処が之を聞いた子貢は、一度間違つて口外した事は駟馬を以て之れを追ふとも及ばぬと、言語の苟くすべからざる事を論じ、且つ子成の間違ひを正して之を駁した。即ち文質兼ね備つてこそ始めて君子であつて、君子に文がなければならぬ事は恰も質がなければならぬと等しく、又質がなければならぬ事は文がなければならぬのと同様である。此の間に軽重大小の差がない。されば決して質のみを重んじて文を軽んじ、之れを棄つ可きでない。譬へば皮は質であつて、毛は文である。若し毛を去つてしまつたならば、虎や豹の皮も犬や羊の皮と同じやうになつて見分けがつかなくなる。毛があつてこそ虎や豹の皮は珍重されるのである。然して其の毛許りあつても駄目である。毛を支へる皮があるから、即ち毛皮共にありて始めて虎豹の皮が価値あるのである。質と文とは恰かも毛皮の関係と同じやうなものであつて、質があつて文があり、文があつて質がある。其の一を欠くと価値がない。恰かも車の両輪の如きものである。されば文質は断じて大小軽重の差を設ける事の出来ぬものであつて、若し一方に偏するやうな事があれば其所に弊害が伴ふ様になるものであると説かれたのである。之れは実に至言であつて、現代に当て嵌めて見ても、一方に偏倚することの弊害の実例が少くないやうに思はれる。(棘子成曰。君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢曰く。惜いかな夫子の君子を説くや、駟も舌に及ばず。文は猶ほ質の如く、質は猶ほ文の如し。虎豹の鞟は、猶ほ犬羊の鞟の如し。)
去る七月十一日の晩、丸の内の工業倶楽部に於て、同倶楽部員の催しになる新内閣大臣の招待会があつた。加藤総理大臣始め各大臣、次官其他が来会され、私も亦主人側の一人として出席したが、其の席上加藤総理大臣の一場の挨拶があつた。その挨拶中に「今夕は御招きに預つて罷り出ましたが、御馳走の皿数も少く、万事倹約された宴会であるのは誠に嬉しい。御馳走の皿数は少いけれども、皆様の歓待して下さる志が十分であるから、吾々は快く御馳走になるのである。どうぞ今後もお互いに倹約を心掛けて、宴会なども今夕のやうに質素にし贅沢に流れないやうにしたいものである。甚だ失礼な申し分ではあるが、皆様は表面は此のやうに質素であるが、裏面に於ては或は大いにくつろがれて、山海の珍味を並べられるやうな事はありはしまいか。若し万一そのやうな事があつたならばお互ひに慎んで、真に表裏のない、質素なる風を養ひたいものである」といふ意味の事を言はれたのであつた。そこで私は主人側を代表して一場の挨拶を述べたが、簡略に申すと次のやうな意味である。
私は曾て古い本で読んだ事があるが、或る非常に倹約主義の大名があつて、諸事万端節約をしなければならぬと始終その事ばかり考へて居つた。その結果、先づ家来を廃し、女中を廃し、愛する犬や猫の飼養もやめ、遂には愛妾をも追ひ出して自分一人となつたが、熟〻考へて見ると、自分自身が生きて居るといふ事も亦無駄な事であるといふ結論に到達したので、たうとう自分も死んで了つたといふ諺が載つて居つた。倹約も結構であるが、倹約主義も此の大名式に万事消極的のみでは遂に手も足も出せない事になる。
経費を節約することは勿論結構であるが、同時に国家として重要な意義を有する各種事業に対しては、大いに積極的であらねばならぬと思ふ。一例を挙ぐれば、我が国は農業が基であるから、開墾助成とか其他農業の保護発達に関する事に関しては、経費を惜んではならぬ。又工業にしても欧米のそれに比較すれば、進歩の程度が頗る遅れて居る。総てがその模倣であり追随のみであつて、何一つとして彼に優る処がない。其の進歩発達の程度は実に雲泥の差と謂ひたい程である。更に学理的、化学的方面に於ける進歩に於ても我が国は遅れて居り、一つとして独創的にして誇るに足る可きものがない。尤も我が国に於ても理化学研究所の如きものがあるけれども、之れを英米のそれに比すれば、実に九牛の一毛に過ぎない。斯かる状態なるを以て、是等に対して更に節約を加へるに於ては、或は遂に前に述べた倹約な大名の死と同じやうな結果となりはしないか。此の故に私は、倹約であると共に、必要な事には大に積極的でありたいと思ふ。然して之れが真の倹約と称すべきものであると信ずる。
私は大体右のやうな意味で述べたのであつたが、倹約は結構であるけれども、極端に走つては宜しくない。却て弊害が甚だしくなるものであるから、世人は能く此の点に注意すべきである。
従来孔子を論ずる人々の説は、押なべて孔子を道学先生として一種の宗教的観念を持つが如き、或は一種の哲学的道理を論ずる所の学説をなす人と見て居るけれども、自分の見る所は全く是れと違ふのである。唐沢斗岳氏の添書に依れば、孔子を単なる学者と見ず、純然たる政治家と見て居る。其の著書『孔子政治家論』は未だ良く読んで居らぬけれども、其の内容の大体は、孔子は元来政治家であつたが、不幸にして世に容れられず、実際政治家としては失敗の人であるが、失敗が失敗に終らず、後年になつては実際政治を断念して、社会教化と言ふ方面から世を済はんとして、専ら政治教育に力を尽すに至つた。而して孔子の思想は是れに依りて二千数百年後の今日儼然として伝へられて居るが、事実に於て実際政治家としての手腕を充分発揮し得なかつた為、此の方面に力を注ぐに至つたので、本来の目的は専念政治にあつた事は、論語や大学に依て見ても明かである。現に論語や大学には斯く斯くの説があると言ふ意味のもので、手紙には渋沢は是れを何う見るかと言ふ事が書いてあつた。
是れに反して孔子は、殊更に何々が勝れて居たと思ふ点はないが、仁義を弁へ、礼義を知り、健康を保持し、其他人間としての備ふ可き総ての条件を悉く具備して居り、従つて其の言語行動が人としての最高点に達して居つた。且つ六芸に通じ、行くとして可ならざるはなく一言一行、悉く後世の人の以て模範とすべきものであつた。是れを以て孔子を偉大なる平凡人と称すると言ふ意味の講演であつた。之れは頗る変つた孔子の観察法であつて、余程面白い見方であると思ふ。
要するに孔子の理想とする処は、政治を理想的に発展せしめて、四百余州を統治する事が真の目的で有つたのではなくて、人の人たる道を教へ、民の幸福を増進し、今の言葉で言へば社会の秩序を保ち、人類の幸福を増進して、理想的社会を実現せんとするのが其の真の目的であつたのである。其の政治に干与せるは、其の理想を実現せんがための一つの手段に過ぎなかつたのである。而して時の君主が孔子を利用する為には辞を厚うして聘したけれども、根本の精神が違つて居るから、利用する事が出来なくなつてしまふと弊履の如く孔子を顧みない。それで志を述べる事は出来ないから、六十八歳にして直接政治に干与する念を断ち、専心教化の事業に従はれたのであるが、直接或る権力に就く許りが必ずしも政治の要諦ではない、人民の幸福を増進し各々其の堵に安んぜしめる様にするのが真の政治の根本であつて、是は必ずしも為政者としての立場につかなくとも為し得る事柄である。孔子が直接政治家としての念を断つてからは、此の意味に於て自分の意志を世間に広めんとしたので有つて、此の趣意は論語の全巻を通じて窺ひ得るのである。
孔子の教は仁を以て根本とする。仁は人類社会の幸福増進を目的として説かれたもので、孔子の真意は此の人類の幸福増進の外にはなかつたのである。されば孔子が先王の道を説いたのは、文字通り解釈すれば、王侯のためにのみ説いたものの如く誤解する者も有るかも知れぬが、実際に於ては国民の為であり、民衆の為で有つたのである。其の王侯の道を説いたのは、善政を施くには王侯を善導するを捷径とし且善政を施けば国民は知らず識らず勇み悦んで発展して行けるので、此の点に力を注いだのである。究極する処、孔子は仁を以て人間の幸福を増進する最高の道と思はれたのに外ならぬのである。
孔子が嘗て実際政治に近づかうとしたのは、全然是れと趣きを異にする。孔子は為政者としての立場から広く民に施すの意義を事実に施さうとしたのである。孔子の思想の根本は人類の幸福増進が目的で、今の言葉で云へば、博愛がその根本で有つたから、是れを徹底的に達成せしむるには、政治に依らねばならぬと云ふのが、孔子の生粋で有つたのである。
之を伝へられた日本に於ても、皇太子稚郎子の学ばれたのを嚆矢として、文武天皇大宝元年の学令に鄭玄何晏注を用ゐよとあり、其後幾多の学者が各方面より論語を釈義し、之れに関する所説を公にし、今に伝へられて居るものが頗る多い。更に論語は啻に東洋のみならず欧米に於ても之れが翻訳せられて、一般に孔子の遺訓が読まれて居る。現に英人ジエームス・レツグが上海及びロンドンにて発行せし英訳論語を始めとして、ウイルヘルムの論語独訳、ワジリーフ及びポーポフの露訳論語、クーヴリユーの四書羅甸訳、マーシマンの孔子聖典、シルレル及びシユツツの孔夫子聖訓、ダヴイツト・コーリーの四書英訳など私の記憶にあるもののみでも尠くない。斯くの如く論語は世界の各国語に翻訳されて伝へられて居るのである。
また孔夫子の言として伝へらるる「上帝の声なる音楽よ、我は汝の呼ぶが儘に此処へ来れり」といふのもあり、此外に文句は記憶にないが、母親の事につき、友人との間柄抔について孔子の教訓を引用してあつた。
穂積陳重男は私の為に、古来刊行された各種類の論語を蒐集されて居るが、前にも述べた如く論語の世に公にされたものは頗る多く、支那版、朝鮮版のみにても数百種に上り、日本に於けるもののみでも枚挙に遑ない程である。同じ支那版でも、古論語、斉論語、魯論語の三種類があり、今日行はれて居るのは多く魯論語であるが、時代によつて宋版とか、元版とかいふ風になつて居り、古註とか、集註とか、義説、義証、義註、集解、演義、衍言、衍説、音義、訓釈、啓義、諺解[、]釈義など種類が頗る多い。日本に於ける古本にも、論語解釈とか、論語古義とか論語分類とか、或は論語要義、集成、集説、時習、鈔説、精義、通解など多種類あり、近時一般に行はるるダイヤモンド論語とか、ポケツト論語、ノート論語、或は英漢和対照ポケツト論語、リツトル通俗論語などといふのもある。此の外に世界の各国語に翻訳され基督教信者さへ之れを読んで居る処を見ると、孔子の遺訓が如何に全世界に広く伝はつてゐるか殆んど図り知れない。之れ孔子の教へが尊重すべき価値あるものである事を知るに足る一の証拠である。穂積男の話によると、是等の論語は約一千種も蒐集し得るといふ事であるが全く驚く可き多種類と言はなければならぬ。又孔夫子に対しては、支那の歴代の国君が非常に尊敬を払つて居り、到る処に孔子廟を見ざるなく、確か唐の時代と記憶するが、孔子に「大成至聖文宣王」といふ追称を贈つて之を崇め、一層孔子に対する尊敬の念を高めた国君も居る。かう考へると、孔子の遺徳が如何に世道人心に大なる影響を与へて居るかが分るのである。
今日の世界の実状は、孔子の説かれたる道徳が大に頽廃した様な時代でありながら、尚ほ論語の書物が前に述べた如く広く世界に伝へられて居るのは、論語の価値を証するに足るものである。然して孔子の異常なる人格、卓越せる才能の之を致したものであるには相違ないが孔子は、どつちかと言へば、凡人の典型であつた。言ひ換へれば「偉大なる平凡」の人とでも言ふべき御方であつた。古来政治権力のあつた人であるとか、他の技術方面に卓越せる知能を有して居つた偉大な人物であつたならば、後来に其の名が遺るであらうが、孔子の如き円満なる凡人の典型にして、其の学説が今日に伝へられ、尊重されて居るのは、其の所説が、偉大なる真理である為である。種々なる宗教から論じても、学理から論じても、究極する所、真理は真理に着くものである。されば論語の今日に至つても尊重されて居るのは、全く真理に適うて居るのが唯一の原因であると信ずる。
かう考へると、私は明治初年以来論語を守り本尊として、其の遺訓を遵奉し、勗めて間違はぬ様に心掛けて今日に至つた訳であるが、研究すれば研究する程、孔子の偉大なる人格才能、論語の真理の正しく逞ましいものであつた事が感ぜられ、今日に至つて、私が孔子の教訓を選んだ事の誤りでなかつた事を喜ぶものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)