デジタル版「実験論語処世談」(62) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515

棘子成曰。君子質而已矣。何以文為。子貢曰。惜乎。夫子之説君子也。駟不及舌。文猶質也。質猶文也。虎豹之鞟。猶犬羊之鞟。【顔淵第十二】
(棘子成曰。君子は質のみ、何ぞ文を以て為さん。子貢曰く。惜いかな夫子の君子を説くや、駟も舌に及ばず。文は猶ほ質の如く、質は猶ほ文の如し。虎豹の鞟は、猶ほ犬羊の鞟の如し。)
 棘子成は衛の大夫であつたが、君子は質実の徳があれば宜しい、外飾の文は無用であると説いた。蓋し之れは当時の民が文に奔るの弊を見て此の言をなしたのであつた。処が之を聞いた子貢は、一度間違つて口外した事は駟馬を以て之れを追ふとも及ばぬと、言語の苟くすべからざる事を論じ、且つ子成の間違ひを正して之を駁した。即ち文質兼ね備つてこそ始めて君子であつて、君子に文がなければならぬ事は恰も質がなければならぬと等しく、又質がなければならぬ事は文がなければならぬのと同様である。此の間に軽重大小の差がない。されば決して質のみを重んじて文を軽んじ、之れを棄つ可きでない。譬へば皮は質であつて、毛は文である。若し毛を去つてしまつたならば、虎や豹の皮も犬や羊の皮と同じやうになつて見分けがつかなくなる。毛があつてこそ虎や豹の皮は珍重されるのである。然して其の毛許りあつても駄目である。毛を支へる皮があるから、即ち毛皮共にありて始めて虎豹の皮が価値あるのである。質と文とは恰かも毛皮の関係と同じやうなものであつて、質があつて文があり、文があつて質がある。其の一を欠くと価値がない。恰かも車の両輪の如きものである。されば文質は断じて大小軽重の差を設ける事の出来ぬものであつて、若し一方に偏するやうな事があれば其所に弊害が伴ふ様になるものであると説かれたのである。之れは実に至言であつて、現代に当て嵌めて見ても、一方に偏倚することの弊害の実例が少くないやうに思はれる。
 私は従来倹約を旨として機会ある毎に倹約倹約といつて居るが、近頃の世の中を見ると徒に文に走り、虚礼虚飾に流れ、奢侈の弊が甚だしい様に見受けられる。現にデパートメント・ストアなどに於ける買物振りを聞いても、高価なものが一番良く売れるといふ事である。之れは一般に上のみを見て之れを模倣せんとする為めであつて、大に革めなければならぬ弊害であると思ふが、私共の日常生活について周囲を振り返つて見るに、どれ程虚礼虚飾のために煩されて居るか計り知れないのである。
 去る七月十一日の晩、丸の内の工業倶楽部に於て、同倶楽部員の催しになる新内閣大臣の招待会があつた。加藤総理大臣始め各大臣、次官其他が来会され、私も亦主人側の一人として出席したが、其の席上加藤総理大臣の一場の挨拶があつた。その挨拶中に「今夕は御招きに預つて罷り出ましたが、御馳走の皿数も少く、万事倹約された宴会であるのは誠に嬉しい。御馳走の皿数は少いけれども、皆様の歓待して下さる志が十分であるから、吾々は快く御馳走になるのである。どうぞ今後もお互いに倹約を心掛けて、宴会なども今夕のやうに質素にし贅沢に流れないやうにしたいものである。甚だ失礼な申し分ではあるが、皆様は表面は此のやうに質素であるが、裏面に於ては或は大いにくつろがれて、山海の珍味を並べられるやうな事はありはしまいか。若し万一そのやうな事があつたならばお互ひに慎んで、真に表裏のない、質素なる風を養ひたいものである」といふ意味の事を言はれたのであつた。そこで私は主人側を代表して一場の挨拶を述べたが、簡略に申すと次のやうな意味である。
 只今の加藤総理の御言葉は吾々にとつては実に頂門の一針である。今日御来会の皆様には万々ソンナ方は無からうと信じますが、世間には表に木綿を用ひて倹約を装ひながら、裏には絹を用ひるやうな人が居る。又、一箇の茶器に金を惜しまず数千金を投じて之を購ひ、一幅の掛物に数万金を投じて居室にかけ、悦んでゐる人もある。然も真に之を愛する心からであれば尚ほ恕すべき点もありますが、単に其の価格の高価なるを以て豪奢を誇つて居るやうな人もあるやうである。斯ういふやうな事は大に慎まなければならぬと信ずる。然しながら、更に百尺竿頭一歩を進めて言へば、倹約と言ふ事は啻に物事を節約するといふ消極的のみでは宜しくない。その半面に於ては大に積極的でなければならぬと思ふのである。
 私は曾て古い本で読んだ事があるが、或る非常に倹約主義の大名があつて、諸事万端節約をしなければならぬと始終その事ばかり考へて居つた。その結果、先づ家来を廃し、女中を廃し、愛する犬や猫の飼養もやめ、遂には愛妾をも追ひ出して自分一人となつたが、熟〻考へて見ると、自分自身が生きて居るといふ事も亦無駄な事であるといふ結論に到達したので、たうとう自分も死んで了つたといふ諺が載つて居つた。倹約も結構であるが、倹約主義も此の大名式に万事消極的のみでは遂に手も足も出せない事になる。
 経費を節約することは勿論結構であるが、同時に国家として重要な意義を有する各種事業に対しては、大いに積極的であらねばならぬと思ふ。一例を挙ぐれば、我が国は農業が基であるから、開墾助成とか其他農業の保護発達に関する事に関しては、経費を惜んではならぬ。又工業にしても欧米のそれに比較すれば、進歩の程度が頗る遅れて居る。総てがその模倣であり追随のみであつて、何一つとして彼に優る処がない。其の進歩発達の程度は実に雲泥の差と謂ひたい程である。更に学理的、化学的方面に於ける進歩に於ても我が国は遅れて居り、一つとして独創的にして誇るに足る可きものがない。尤も我が国に於ても理化学研究所の如きものがあるけれども、之れを英米のそれに比すれば、実に九牛の一毛に過ぎない。斯かる状態なるを以て、是等に対して更に節約を加へるに於ては、或は遂に前に述べた倹約な大名の死と同じやうな結果となりはしないか。此の故に私は、倹約であると共に、必要な事には大に積極的でありたいと思ふ。然して之れが真の倹約と称すべきものであると信ずる。
 私は大体右のやうな意味で述べたのであつたが、倹約は結構であるけれども、極端に走つては宜しくない。却て弊害が甚だしくなるものであるから、世人は能く此の点に注意すべきである。
 孔子の事について、始終色々の論説がありますが、此の間、福井毎日新聞の唐沢斗岳と言ふ人が、『孔子政治家論』と言ふ書物を著はして、手紙を添へて寄贈された。是れに関して些か所見を述べて見たいと思ふ。
 従来孔子を論ずる人々の説は、押なべて孔子を道学先生として一種の宗教的観念を持つが如き、或は一種の哲学的道理を論ずる所の学説をなす人と見て居るけれども、自分の見る所は全く是れと違ふのである。唐沢斗岳氏の添書に依れば、孔子を単なる学者と見ず、純然たる政治家と見て居る。其の著書『孔子政治家論』は未だ良く読んで居らぬけれども、其の内容の大体は、孔子は元来政治家であつたが、不幸にして世に容れられず、実際政治家としては失敗の人であるが、失敗が失敗に終らず、後年になつては実際政治を断念して、社会教化と言ふ方面から世を済はんとして、専ら政治教育に力を尽すに至つた。而して孔子の思想は是れに依りて二千数百年後の今日儼然として伝へられて居るが、事実に於て実際政治家としての手腕を充分発揮し得なかつた為、此の方面に力を注ぐに至つたので、本来の目的は専念政治にあつた事は、論語や大学に依て見ても明かである。現に論語や大学には斯く斯くの説があると言ふ意味のもので、手紙には渋沢は是れを何う見るかと言ふ事が書いてあつた。
 成程唐沢氏の孔子政治家論は、従来の孔子論よりも少しく見方が違つて居る様であるが、然し是れは唐沢氏の新説ではなく、前にも是れと同じ様な意味の観察をした人があつた。明治初年の頃、文筆を以て頗る有名な福地桜痴と言ふ人があつた。此の人の実父は有名な学者で漢学の造詣が深く、殊に孔孟の学問を深く究めた人であるが、桜痴と言ふ人は頗る磊落な人で、始終狭斜の巷に出入し、夫子の道などについては殆ど無頓着なやうな人であつたけれども、流石に実父の薫陶を受けただけあつて、論語については一見識を持つて居たものである。確か明治十四五年頃の事と思ふが、向島の大倉喜八郎氏の別荘に友達が相会して花見の会を催した事があつた。その時福地桜痴氏も見えられて、「孔夫子」と言ふ演題で一場の講演を試みられたが、非常に文筆の達者な人だけあつて、門人との問答を巧に引証したり、論語の学問を哲学的に解釈したり、所謂談話の背景が頗る面白く、引例が該博なだけに一段と興味深く聞かれたのであつたが、その時の講演が丁度唐沢氏と同じ様な解釈を下して居つた。今回唐沢氏の著者を読むに及んで図らずも数十年前の福地氏の論と同様なのを思ひ出して、一入の興味を覚えたのである。
 時日は確かに記憶して居らぬけれども、最初の孔子祭典会が湯島の孔子聖堂で催された際だつたと思ふ。井上哲次郎博士が、孔子に就て一場の講演を試みた事がある。博士の孔子論は些か世人と趣きを異にし、孔子は非凡な人ではない、平凡な人であつた。平凡を短く言へばヘボになるが、孔子は所謂ヘボではなく、偉大なる平凡の人とでも言ふべき人格者であつた。英雄とか豪傑とか世間に持て囃さるる人は、確に尋常人に傑出した点があつたに相違ないが、或る一面に非常に長所があつても、他の半面には大なる欠点を有して居るのが常である。例へば非常に決断力があつて兵を動かすに疾風迅雷的で、軍神と云はるる様な人でも、人間としての半面を見る時は或は温情に欠けて居るとか、惨酷な行為を平気でするとか、或は感情に強く激し易いとか言ふ欠点を持つて居る。ナポレオンにしても、豊臣秀吉にしても、英雄であつたには相違ないが、人間としては大なる欠点の有つた事は否まれぬ事実である。
 是れに反して孔子は、殊更に何々が勝れて居たと思ふ点はないが、仁義を弁へ、礼義を知り、健康を保持し、其他人間としての備ふ可き総ての条件を悉く具備して居り、従つて其の言語行動が人としての最高点に達して居つた。且つ六芸に通じ、行くとして可ならざるはなく一言一行、悉く後世の人の以て模範とすべきものであつた。是れを以て孔子を偉大なる平凡人と称すると言ふ意味の講演であつた。之れは頗る変つた孔子の観察法であつて、余程面白い見方であると思ふ。
 井上博士の説は別として福地桜痴、唐沢斗岳両氏の説に依れば、孔子は政治家として立たんが為に汲々として居た様に見て居るが、是れは余程見方が誤つて居はしまいか。孔子の時代は周末であつて、先王の道は大いに頽れて居つた。孔子は大いに是れを慨嘆し、何うにかして先王の道を再び盛んならしめて、人民をして其の堵に安んぜしめんと考へ、是れが為に熱心に道を説かれたのである。而しながら、道を行ふには直接政治の衝に当るより捷径はない。それが為孔子は、招聘に応じて屡〻仕官した。然し孔子は権力に依りて名を後来に貽さうとか、又は高位高官について権力を張り度いとかいふやうな念慮は微塵も有つたのではない。之によつて道を行はんとせられたのであつて、人民の幸福を増進せんとする念慮の外はなかつたのである。孔子は魯の国に於ては大夫の職に次ぐ重要な職に就き、魯・斉の君の会にも出でて小国で有りながら其の使命を恥かしめず、文事有る者必らず武事有りと云ひて断乎として卑俗の音楽を排けたり、姦臣を一刀両断にしたり、頗る果断の処置を取り、温厚の風に似合はぬ疾風迅雷的の風を偲ばせらるるやうな事もある。
 要するに孔子の理想とする処は、政治を理想的に発展せしめて、四百余州を統治する事が真の目的で有つたのではなくて、人の人たる道を教へ、民の幸福を増進し、今の言葉で言へば社会の秩序を保ち、人類の幸福を増進して、理想的社会を実現せんとするのが其の真の目的であつたのである。其の政治に干与せるは、其の理想を実現せんがための一つの手段に過ぎなかつたのである。而して時の君主が孔子を利用する為には辞を厚うして聘したけれども、根本の精神が違つて居るから、利用する事が出来なくなつてしまふと弊履の如く孔子を顧みない。それで志を述べる事は出来ないから、六十八歳にして直接政治に干与する念を断ち、専心教化の事業に従はれたのであるが、直接或る権力に就く許りが必ずしも政治の要諦ではない、人民の幸福を増進し各々其の堵に安んぜしめる様にするのが真の政治の根本であつて、是は必ずしも為政者としての立場につかなくとも為し得る事柄である。孔子が直接政治家としての念を断つてからは、此の意味に於て自分の意志を世間に広めんとしたので有つて、此の趣意は論語の全巻を通じて窺ひ得るのである。
 論語の中に「広く民に施して而して民を救ふ、仁と言ふ可き也」と言ふ章句が有る。之れは人たる者の最上の行ひとして最も守るべき道であるが、是れが、孔子の世に立たんとする根本なのである。子貢が「何ぞ仁を事とせん」と言つた時に、孔子は諄々として仁の道を説き人間として仁の最も必要なる事を説かれた。而して孔子は如何なる場合に於ても容易に仁を許さず、非常に高い標準に是れを置かれたものである。
 孔子の教は仁を以て根本とする。仁は人類社会の幸福増進を目的として説かれたもので、孔子の真意は此の人類の幸福増進の外にはなかつたのである。されば孔子が先王の道を説いたのは、文字通り解釈すれば、王侯のためにのみ説いたものの如く誤解する者も有るかも知れぬが、実際に於ては国民の為であり、民衆の為で有つたのである。其の王侯の道を説いたのは、善政を施くには王侯を善導するを捷径とし且善政を施けば国民は知らず識らず勇み悦んで発展して行けるので、此の点に力を注いだのである。究極する処、孔子は仁を以て人間の幸福を増進する最高の道と思はれたのに外ならぬのである。
 日比谷に於て多数を占めさへすれば、実権を握り得て自分の意見を行へると言ふ様な観念は、現今の上下を通じて一般に懐く所のものである。成程現今は多数政治であるから、多数を占めさへすれば自分の無理も通らう。従つて善政を施さうとすれば出来得べき筈である。それにもかかはらず現実の状態は之れを裏切つてゐるらしく吾々の眼に映ずる。是れは民衆のための政治ではなく自己のための政治である。広く民に施して而して民を救ふを仁と言ふ可きなりと云ふ孔子の教から言ふと、斯る事は出来得る筈はない。政治は人民のための政治で自己のための政治でない、自己の権力を濫用して、自己の利益を計る事は是れを政治と云ふ事は出来ぬ。
 孔子が嘗て実際政治に近づかうとしたのは、全然是れと趣きを異にする。孔子は為政者としての立場から広く民に施すの意義を事実に施さうとしたのである。孔子の思想の根本は人類の幸福増進が目的で、今の言葉で云へば、博愛がその根本で有つたから、是れを徹底的に達成せしむるには、政治に依らねばならぬと云ふのが、孔子の生粋で有つたのである。
 論語の学者は、大体古学、朱子学、折衷学の三派に分れて居るが、朱子学者は余り此の点を尊重せぬけれども、折衷派は頗る是れを尊重して居つた。山鹿素行は元来が兵学者であるけれども又折衷派の錚々たる者であつた。当時幕府は政策上から朱子学を奨励し、林家が大学頭として文教の司の地位にあつたのであるが、山鹿素行は幕府の儒者林家に反対して政教要録を著し、孔子の教は道学者の説くが如き死学ではなく活学問である。今日の如く文字上の形式だけを尊重して孔子の真の精神を見ぬのは大に間違つて居ると非難した。是れが幕府の忌諱に触れて、赤穂義士の義挙で有名な浅野長矩の父、浅野長広の下に多年(九年許り)幽閉されて居たが、その当時大石良雄を薫陶したのが彼の義挙に少なからず影響が有ると言はれて居る。其の真偽はよく判らぬが、兎に角山鹿素行は単なる兵学者ではなく、折衷派の学者としても確に一見識を備へた偉い人で有つたと思はれる。素行の説くが如く、孔子の孔子たる所以は、其の説く処死学でなく悉く活学問であつて、何時の時代に於ても人間として是れを学ぶ可き価値の存する所にあると思ふ。孔子の偉い処は実に人類の幸福増進、社会の向上発展を理想とした点であつて、人間として必ず守る可き道を判り易く平易に説いた処に真の価値を認める。是れ孔子の孔子たる所以で有つて私も素行の説には頗る賛成である。若し福地桜痴や唐沢斗岳の如く、単に孔子を政治家として立たんとするものと見るならば、一を知りて二を知らざるものと言ひ度い。蓋し孔子の直接政治に携はらんとしたのは、道を行はんとする手段で有つて、其真の本領は全く人類の幸福増進に有つた事は、論語乃至大学の章句に就て見れば良く了解さるるであらう。
 我が国に始めて論語の渡来したのは、応神天皇の時代であつて、朝鮮の王仁が論語を携へ来つて、時の朝廷に献じたのが抑もの濫觴である。此の時に渡来したのはどんな書物であつたか知らぬが、歴史を見ると、「応神天皇の十六年に、百済の王仁来り、論語十巻を献ず、皇太子稚郎子就て之を学ぶ。皇国の論語学あるは此れに始まる」とあつて丁度西晋の太康六年に当つて居る。爾来千数百年、論語に関する図書の刊行は幾百千人によつて世に公にされた。故人となられた林泰輔博士は先年論語年譜を著し、論語の世に出でしより以来の事実を年表的に編纂されたが、之れを見れば明かである如く、孔夫子の論語を遺されてより二千数百年、其の本元である所の支那に於て、漢、唐、宋[、]元、明、清、等の各時代に亘りて多くの学者によつて論語が世に普及せられ、人によつて前人の説く処を更に増補敷衍して解釈を試むるもあり、又或る章句によつては異りたる説を主張するもあり、解釈は必ずしも一定しては居らぬが、論語の章句を、或は右から或は左から、或は縦から或は横からといふ風に、有ゆる方面から論じて世に伝へて居る。
 之を伝へられた日本に於ても、皇太子稚郎子の学ばれたのを嚆矢として、文武天皇大宝元年の学令に鄭玄何晏注を用ゐよとあり、其後幾多の学者が各方面より論語を釈義し、之れに関する所説を公にし、今に伝へられて居るものが頗る多い。更に論語は啻に東洋のみならず欧米に於ても之れが翻訳せられて、一般に孔子の遺訓が読まれて居る。現に英人ジエームス・レツグが上海及びロンドンにて発行せし英訳論語を始めとして、ウイルヘルムの論語独訳、ワジリーフ及びポーポフの露訳論語、クーヴリユーの四書羅甸訳、マーシマンの孔子聖典、シルレル及びシユツツの孔夫子聖訓、ダヴイツト・コーリーの四書英訳など私の記憶にあるもののみでも尠くない。斯くの如く論語は世界の各国語に翻訳されて伝へられて居るのである。
 アメリカの鋼鉄王カーネギー氏が、其の晩年に自叙伝を書いて世に公にされたが、私の編纂所で之れを翻訳して近々出版する積りであるが、(本書は既に刊行せらる)其の自叙伝を読んで見ると、書中数ケ所に論語の教訓を引用してあるのを発見した。アメリカに於ては誰が論語を翻訳したのであるか分らぬが、兎に角訳本のある事は確かであつてカーネギー氏は其の英訳論語を読まれて居つたものと見える。尤も氏は基督教信者であるから、書中には聖書の語が多く引用されてあるが、此の聖書の教訓と孔子の遺訓とを比較して、誠に具合よく適当に述べられてある。今之れを一々記憶して居らないが、例へば「務民之義。敬鬼神而遠之。可謂知矣。」(民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂ふ可し)といふ章句を引用して知者の道を説いて居るが之れは論語雍也篇中の樊遅の知を問へるに対して、孔夫子の答へられたものである。
 また孔夫子の言として伝へらるる「上帝の声なる音楽よ、我は汝の呼ぶが儘に此処へ来れり」といふのもあり、此外に文句は記憶にないが、母親の事につき、友人との間柄抔について孔子の教訓を引用してあつた。
 之れはホンの一例に過ぎないが、論語の遺訓は其の本元である支那に於ては素よりのこと、直伝された日本に於ては諸君の知らるる如く広く伝へられ、更に欧米に至るまで広汎に行き渡つて居る。
 穂積陳重男は私の為に、古来刊行された各種類の論語を蒐集されて居るが、前にも述べた如く論語の世に公にされたものは頗る多く、支那版、朝鮮版のみにても数百種に上り、日本に於けるもののみでも枚挙に遑ない程である。同じ支那版でも、古論語、斉論語、魯論語の三種類があり、今日行はれて居るのは多く魯論語であるが、時代によつて宋版とか、元版とかいふ風になつて居り、古註とか、集註とか、義説、義証、義註、集解、演義、衍言、衍説、音義、訓釈、啓義、諺解[、]釈義など種類が頗る多い。日本に於ける古本にも、論語解釈とか、論語古義とか論語分類とか、或は論語要義、集成、集説、時習、鈔説、精義、通解など多種類あり、近時一般に行はるるダイヤモンド論語とか、ポケツト論語、ノート論語、或は英漢和対照ポケツト論語、リツトル通俗論語などといふのもある。此の外に世界の各国語に翻訳され基督教信者さへ之れを読んで居る処を見ると、孔子の遺訓が如何に全世界に広く伝はつてゐるか殆んど図り知れない。之れ孔子の教へが尊重すべき価値あるものである事を知るに足る一の証拠である。穂積男の話によると、是等の論語は約一千種も蒐集し得るといふ事であるが全く驚く可き多種類と言はなければならぬ。又孔夫子に対しては、支那の歴代の国君が非常に尊敬を払つて居り、到る処に孔子廟を見ざるなく、確か唐の時代と記憶するが、孔子に「大成至聖文宣王」といふ追称を贈つて之を崇め、一層孔子に対する尊敬の念を高めた国君も居る。かう考へると、孔子の遺徳が如何に世道人心に大なる影響を与へて居るかが分るのである。
 孔夫子は、どういふ御方であるかといふに、史記世家にもある如く今を去る二千四百数十年前、魯の襄公二十二年に、魯の昌平郷といふ所に生れられた。父叔梁紇、母は顔氏の女徴在、初めは倉庫係又は畜産の役人などになられたが、其後一時、大夫の職についた。然し家老と地位にある人達が孔子の説を用ひなかつたので、職にあること僅かにして退かれた。斯く孔子は其の家柄と言ひ、政治権力と言ひ、頗る微々たるものであつたにも拘らず二千四百数十年後の今日に至るまで尊重されて居るのは何の為であるか、それは孔夫子の説かれた事が、少しも偏せず、曲らず、中正の地位に立つて、広く所謂天、地、人の三方の立場より真理を説かれたからに外ならぬのである。
 今日の世界の実状は、孔子の説かれたる道徳が大に頽廃した様な時代でありながら、尚ほ論語の書物が前に述べた如く広く世界に伝へられて居るのは、論語の価値を証するに足るものである。然して孔子の異常なる人格、卓越せる才能の之を致したものであるには相違ないが孔子は、どつちかと言へば、凡人の典型であつた。言ひ換へれば「偉大なる平凡」の人とでも言ふべき御方であつた。古来政治権力のあつた人であるとか、他の技術方面に卓越せる知能を有して居つた偉大な人物であつたならば、後来に其の名が遺るであらうが、孔子の如き円満なる凡人の典型にして、其の学説が今日に伝へられ、尊重されて居るのは、其の所説が、偉大なる真理である為である。種々なる宗教から論じても、学理から論じても、究極する所、真理は真理に着くものである。されば論語の今日に至つても尊重されて居るのは、全く真理に適うて居るのが唯一の原因であると信ずる。
 かう考へると、私は明治初年以来論語を守り本尊として、其の遺訓を遵奉し、勗めて間違はぬ様に心掛けて今日に至つた訳であるが、研究すれば研究する程、孔子の偉大なる人格才能、論語の真理の正しく逞ましいものであつた事が感ぜられ、今日に至つて、私が孔子の教訓を選んだ事の誤りでなかつた事を喜ぶものである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.507-515
底本の記事タイトル:三四六 竜門雑誌 第四一七号 大正一二年二月 : 実験論語処世談(第六十《(六十二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第417号(竜門社, 1923.02)
初出誌:『実業之世界』第19巻第7-9号(実業之世界社, 1922.07,08,09)