デジタル版「実験論語処世談」(27) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.181-182

 私は従来も屡〻発表して置いたやうに、文久三年二十四歳で郷里血洗島から江戸へ出る際の当初の決心は、まづ高崎城を乗つ取り、是処で兵備を整へた上、高崎から兵を繰出して鎌倉街道を横過つて横浜に出で、洋館の焼打を行ひ、これが因になつて外国政府から徳川幕府へ掛合の来るドサクサに乗じ幕府を倒してしまはうといふことであつたので、発足前これが準備を秘密の間に調へて居つたのだが、その時の同志には、真田範之助、佐藤継助、竹内錬太郎、横川勇太郎以下親戚郎党のものも加はり六十九人ばかりのものであつたので、是等の人々の為刀剣を買つたり、其外、着込と謂つて鍛皮を鎖で亀甲形に編付けた剣術の稽古着のやうなものを多数に買ひ集めたりしたのである。然し、秘密の間に行つたことだから素より父に打ち明けるわけにもゆかず、之に要する金は父に隠して藍の商売をした勘定の中から皆支払つたのだ。その総額は百二十両ばかりであつたやうに記憶する。
 私が江戸へ出発した後で父は定めし帳面尻の合はぬのに不審を起すことだらうと思つたから、出発前、右の次第を自邸の近所に住つてた伯父に打明けて話し、私が発足したら其後でよろしく之を父に打明けてくれるやうにと依頼したのである。これは普通の借金と少し性質が違ふが、私が金を借りた最初である。
 それから、愈〻江戸へ出発するといふ時になり、父は京都まで行くのだから定めし路用もかかるだらうとて、餞別に現金百両を私に呉れたのである。其頃の百両は実に大した金目のもので、何処へ旅に出るにも二分銀一枚を懐中にして出かける始末であつた時代故、その四百倍に相当する百両を貰つた時の私のその悦びは実に非常のものであつたのだ。当今ならば一万円も貰つたぐらゐの気になつて私は悦んだのである。
 然し、その百両も半ば喜作と二人で使つた上に、少し遊んだりなぞもし、又世故に慣れぬ書生考へでパツパツと使ひもしたものだから、郷里を出てから三月経つた頃には百両を皆使ひ果してしまひ、二分も残らぬやうになつたのである。
 元治元年二月(五十三年前)京都の一橋家の用人平岡円四郎に勧められ、喜作と共に節を屈して一橋家に奉公するやうになつた時には、住居だけは御長屋を当てがはれたので別に不自由もなかつたが、自炊をやらうにも鍋釜を買ふ銭が無くなつてしまつたので、ホトホト困り果てたのだ。
 何とか法の無いものかと、喜作と私とは二人で話合つた末、この際什麽しても誰からか金を借りるより外に道が無といふ事になり、誰に頼んだものかと協議したところが、番頭の猪飼正為といふ人は両三度遇つたこともあり、情の深さうに見える人だからとて同氏に頼んで見ると、早速承諾して呉れたので、前後三回ばかり二十五両を喜作と二人で同氏より借りたのである。これが、私の生れてから初めてした借金といふものだ。
 然し、当時私も喜作も非常な薄禄で、役手当四両一分の四石二人扶持に過ぎなかつたものだから、この廿五両の借金を返済するには却〻一ト通りならぬ骨が折れ、毎月一両づつ返したのであるが、そのうち私は大阪へ出張することになつたりなぞして多少の余裕も出来たのでその年内に二十五両の金額を皆済してしまつたのである。猪飼氏は之を見て、如何にも几帳面な人達であるとて、私と喜作とを賞めてくれたが、今日になつても其時の難有さは忘れられず、猪飼氏は今なほ存生中のこと故、御恩報じのつもりで、及ばずながら何かと御力になるやうに致して居る。一文の金銭でも苟くも他人から借りたものに対しては、飽くまでも信義を重んずると云ふ事が肝腎である。借金も自分の金も同じに考へて居るやうでは到底駄目である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.181-182
底本の記事タイトル:二四一 竜門雑誌 第三五一号 大正六年八月 : 実験論語処世談(二七) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第351号(竜門社, 1917.08)
初出誌:『実業之世界』第14巻第11号(実業之世界社, 1917.06.01)*「実験論語処世談」連載記事ではない。