デジタル版「実験論語処世談」(48) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.372-376

曾子曰。以能問於不能。以多問於寡。有若無。実若虚。犯而不校。昔者吾友。嘗従事於斯矣。【泰伯第八】
(曾子曰く、能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ひ、有れども無きが如く、実つれども虚きが如く、犯さるるものは校らず。昔者吾が友、嘗て事に斯に従へり。)
 此句の眼目とする所は、束の間も怠る事なく修養に修養を積んで己れの徳を全うしようと云ふ所に在る。そこで、己れには既に材芸有り見聞も充分であるにも拘らず、恰も夫等が少しも無いかの如く、非常に謙譲な心持ちを以て、他の己れよりも材芸、見聞の少い人に向つて色々と問を発して、己れの修養を積み、徳を全うして、己れの使命を尽さうとするのである。徳と云ふものは無限に広大なものであつて、生の有る限り間断無く努力するに非ざれば、より完全に尽すことは出来ぬ。
 昔者吾が友嘗て事に斯に従へり、と云ふ吾が友に就て「友は顔淵を謂ふ」と馬融が云うて居るが、或は然うであるかも知れぬ。然し夫れは何れにしても、何しろ孔門には七十二人と云ふ多数の傑出した門人が有つたのであるから、其内には左様な人は居たに違ひない。又之れを曾子自身と見ても差支無からう。曾子自身が斯くの如き態度を以て修養を努めたのを、謙譲して吾が友としたのだとすれば一層意味の深いものがある。
 曾子が吾が友と云うたのは誰であらうとも、兎に角斯様にして道徳を積んで行くと云ふことは非常に尊敬すべきことで、若し誰もがそう云ふ謙遜な態度を以て修養し、世に接して行くと云ふことになれば、人を恨んだり人から恨まれたりする事は無くなつて了ふ。世の中と云ふものは誠に円満に治つて来るのである。
 又、この謙譲の態度を以て常に修養を怠らぬことは、論語の学而第一に「曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と云ふ句が在るが、其内によく言ひ現はされて居る。之れ等の句は何れもよく東洋道徳の真髄を表したものであつて、私共も常に信奉して誤りの無いやうに努めて居る所である。斯く修養を積むと云ふことは己れの為であつて、充分己れの修養が出来、徳が整うて来なければ、人と接して調和を取ることも六ケ敷、到底世間の秩序と云ふものは円満に保てるものではない。
 今日私共が斯う云ふ風に東洋道徳を主張すると、何だか古風な時代遅れのやうに思ふ人が有るやうであるが、それは甚だ軽率な見解であつて、若し今日のやうに単に自分さへよければ宜しい、他のものは何んなに難渋しても構はぬと云ふならば、只強い者勝ちと云ふことになつて、其結果は非常に怖るべきことであると思ふ。固より各自が其個性の拡充を主張することは少しも非難すべきことは無い。然し世の中と云ふものは、己れ独りで以て出来て居るものではない。非常に多数の人の集りで出来て居るのである。されば其多数の人が調和を計る為には、そこに是非とも責任や犠牲の観念がなければならぬ。所謂東洋道徳の孝弟忠信がなければならぬ。
 何うも西洋の新らしい思想は之れ等の観念を非常に軽く見る傾向が有るやうである。然し西洋には、其半面に於て宗教心の可成りに強いものが有るからして、左程怖るるには足らぬとして、日本の如きは何等纏つた宗教心と云ふものが一般に備はつても居ないのに、只自己を主張する思想の盛になつて来ると云ふことは、誠に恐るべきことと言はねばならぬ。之れでは今後世の中が何う怖るべき結果を齎らすか知れぬ。そこで私共は之れを非常に憂へて、ちつとでも此東洋道徳の真髄を発揮したいと希つて居るのであるが、此句の如きは東洋道徳の真髄とも言ふ可き謙譲、敬虔の感念を最もよく表したものである。
曾子曰。可以託六尺之孤。可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人与。君子人也。【泰伯第八】
(曾子曰く、以て六尺の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり。)
 此の句は次の句と共に論語の中に於ても非常に有名な句で、読んで誠に気持ちの良い句である。私共若い時分よりして之れ等の句は常に暗誦したものである。六尺の孤と云ふのは、父の無い幼君のことで、此幼君を託しても、何等心配なく輔佐の任を尽し、百里の命と云ふのは古百里を以て公侯の国と為せしより一国の政令と言ふことで、此一国の政令を託しても、何等の心配なく其任を完うして行く、斯くの如きは容易に尋常の人の為し能はざる所であつて、誠に才の備はつた人と云ふことが出来る。又、大節に臨みて奪ふ可からずとは、国家の安危に関はると云ふやうな大事の場合に出会つて、一身一家のことを忘れ、何等の遅疑する所なく、其難に殉ずると云ふが如きを云ふのであつて非常に節操の堅い人でなければ中々出来難いことである。
 斯くて以上の才と節操とを兼ね備へて居れば、之れ充分君子人と云ふことが出来る。そして最後に君子人与と疑を起し、之れに答へて、君子人也と云つたのは文意を非常に強めたものであつて、さうだ慥かに君子人であると云つたものである。
 此句を読んで思ひ出すことは、清水民部大輔に随つて私が二十八の時、慶応三年正月横浜を出発し仏蘭西に留学した当時のことである。私のことを云ふのは僣越のやうでもあるが、当時実際此句に依つて非常に感激され、事毎に非常な影響を受けたのが事実であるからお話することになる。
 其頃はもう幕府の前途も六ケ敷と云ふ時で、今迄幕府の家臣であつたものは誰も彼も一種悲痛な気分に掩はれて居た。恰も此の幕府の前途の困難なる時に当つて、私共の今迄仕へて居た慶喜公が、一橋家を去つて将軍となられると云ふことになり、私共は非常に心配したのである。何故なれば、斯うした場合であるから、政府側からは国賊のやうに云はれ、幕府方からは亡国の君と云はれることは到底免れぬことである。寧ろ将軍職につかれるよりも、一橋家に居られた方が何れ丈け無難であるか知れぬ。
 と斯う思うた私共は、是非ともお諫めしたいと思ふことは屡〻あつたが、既に一橋家を去られた後のことであつて、今迄のやうに容易にお目に懸ることも出来ず、又私自身二君に仕へると言ふことは、甚だ心よからぬことで、殆んど嘆息の余り昔の浪人にでもならうかと思ふに至つたのである。丁度其時民部大輔が仏蘭西にお出でになるにつき私も共をして行けと云ふ命が出たのである。
 私は夫れ迄と言ふものは攘夷論者であつたが、然し四囲の状勢からして、何時迄も鎖国主義を採つて居ることの不可能を知り、機会があらば西洋の事情も知りたいと思ふやうになつて居たからして、遂に意を決してお供をすることになつたのである。
 其時である。固より私よりも立派の人が多数お供して行かれるのであるから、私一人でもつて当時十四歳であつた民部大輔をお世話すると言ふ訳には行かなかつたが、此以て六尺の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可しと云ふ句を暗誦して、いざと云ふ場合には私一人で充分何事もお世話し奉らうと云ふ意気込みであつた。然し今も云ふ通り私は其頃まだ小役人に過ぎぬので、荷物の世話をするとか、手紙のことを取扱ふと云ふ丈けで有つた。
 然るに彼地に着いてから幾何も無く日本には愈〻大変動が行はれ、殆ど凡ての人が呼び返されると云ふことになつたので、期せずして私一人が民部大輔の百事のお世話をすると云ふことになつたのである。斯に於て私は恰も六尺の孤を託されたやうな気分で、其命を全うすることに努めたのである。
 私が初め出発に際しては、少くとも五ケ年位は彼地に留つて大いに勉学するつもりであつたが、国元に於ける幕府の変動からして費用も途絶え、実家の方から取り寄せようとして居ると、遂に帰国せよとの命があつたものであるから、初志を果たさずして僅か一年余りで帰国したのであるが、民部大輔の百事のお世話をするに当つて、真に私の心を緊張せしめたものは、東洋道徳の真髄を最も良く云ひ現はした此句であつた。で今でも、此句を聞いたり思ひ出す度に、其当時のことが直ぐ聯想されて、一種悲壮な気分になるのである。
曾子曰。士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎。【泰伯第八】
(曾子曰く、士は以て弘毅ならざる可からず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して而して後已む、亦遠からずや。)
 此句も前の句と同じやうに非常に有名な句で、又読んで誠に気持ちの良くなるやうな句であるから、私共若い時から常に暗誦したものである。又屡〻書きもしたものである。
 弘毅ならざればの弘は、器量の充分寛広なることを云ふのであつて小さいことにコセコセしたり、些のことに立腹したりすることの無いのを云ふ。毅と云ふのは、堅忍不抜のことであつて、何事に対してもよく耐へ忍んで最後迄やり通すと云ふことである。
 そこで学問あり知識あるの士と雖も、此弘毅が無かつたならば、到底其任を果すと云ふことは六ケ敷と云ふのである。さらば其任として行ふ際の仁とは如何なるものであるか。仁とは人間最高の徳であつて凡ての事を理に当嵌めて行ひ、よく理に随つて繁栄せしめることである。例へば一国に就て云へば、政治の如き之れをよく行ひ、一家に於ては之れをよく整へ、又一つの事業に携はつては充分其効果を納めると云ふのが即ち之れである。然し斯様なことは非常に重大なことであつて、任として誠に重いものである。弘毅を欠くやうな士では到底為すことは出来ぬ。
 又重い任と云ふものは、束の間と雖も之れを怠るやうなことがあつてはならぬ。政治の事でも、少し怠ると云ふことがあれば直ぐ国が乱れると云ふことになり、事業も少し油断すると思はしい効果を挙げることが出来ぬ。一生を通じて少しの間断も無く、斯に心を用ひて行かねばならぬ。即ち強忍にして辛抱強く力めることが出来ねば、到底其徳を全うすることは出来ぬのである。故に此徳を全うしようとすれば生の有る限り努め力めねばならぬ。死んで後始めて其責任が無くなつて来る訳である。実に道は遠いと云ふ可きである。
 此重くして遠い任を果すには、何うしても寛弘にして強忍な弘毅の士でなければならぬ。で此句は非常に大切な句で、彼の徳川三百年の基礎を造られた家康公の如きも、此句から訓言を作られたのである。即ち「人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し。急ぐ可からず。不自由を常と思へば不足なし。心に望み起らば困窮したる時を思ひ出す可し。堪忍は無事長久の基、怒りを敵と知る可し。勝つことばかり知りて負けることを知らざれば、害其身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝る」と云はれて居るのである。
 徳川家康公の如き、千軍万馬の中を往来された非常な尚武的な人のやうに世間では思つて居るが、其半面には斯う云ふ論語の句を基礎として訓言を作られる程、常に論語等も読まれ又大いに儒学を奨励されたのである。決して単なる尚武的の人と云ふことは出来ぬ。そこでよく世の中も治まり、又儒学が其当時から隆々として勃興して来たのである。藤原惺窩の如き、林羅山の如き、代表的の人物が続々として著はれたと云ふことは、徳川家康が如何に学問を重ぜられ、又充分政治を行ふ計画の行き届いて居たかが知られる。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.372-376
底本の記事タイトル:二九九 竜門雑誌 第三七九号 大正八年一二月 : 実験論語処世談(四十八回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第379号(竜門社, 1919.12)*回次表記:(四十七回)
初出誌:『実業之世界』第16巻第11号(実業之世界社, 1919.11)