デジタル版「実験論語処世談」(55) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.459-462
子曰。法語之言。能無従乎。改之為貴。巽与之言。能無説乎。繹之為貴。説而不繹。従而不改。吾末如之何也已矣。【子罕第九】
(子曰く。法語の言は、能く従ふこと無からん乎。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶこと無からん乎。之を繹《たづ》ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従て改めずんば、吾れ之を如何ともすること末《な》きのみ。)
此の章の意味は、徒らに人の言を聞くのみにて、自ら省みて益する処がなかつたならば、何にもならぬと警められたのであつて、分り易く解釈すれば、人を教誨するには正面から真直に理窟を以て説くのと婉曲に説くのとの二種がある。例へば、親孝行を奨めるにしても、古聖賢の語を引き、人の道を説いて誡めるのと、直接問題に触れずに或は二十四孝の例であるとか、或は親不孝をした者の話などをして、それとなく親孝行をすすめるといふ遣り方である。而して正当な理窟には誰しも服従しない者はないが、単に服従したるのみにて、自分の行ひを改めなければ何の益もない。又譬喩を引き、他の事実を語つて婉曲に説く時は、誰でも之を悦ぶけれども、其の談話の意が何処に在るかを知つて、自ら省る事をしなかつたならば結局詰らぬことであると警められたのである。(子曰く。法語の言は、能く従ふこと無からん乎。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶこと無からん乎。之を繹《たづ》ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従て改めずんば、吾れ之を如何ともすること末《な》きのみ。)
私共も、永い間の中には人に対して訓戒を与へ、誘導的意見を述べた事も屡〻あるが、其の対手の人間の性格と、時と場合とを考へて、正面から許り説いてはならぬ。却つて反面から婉曲に説いた方が非常に効果がある場合が多い。而して聞かされる人の内には、能く自己を省みて行ひを改むる人と、其場限りの人とがあるが、前者は其の前途に見込みがあるけれども、後者は多く望みを属する事が出来ない。今適当な実例はないけれども、此の訓へは尤も千万な事であつて、現代の人も能く服膺すべきであるが、人を教誨するにも、学問上、道徳上より正面に説くよりも、所謂巽与の方面より説くのが効果が多いことを、私の実際上の経験から能く思ひ当る事がありますから茲に申添へて置きます。
子曰。主忠信。毋友不如己者。過則勿憚改。【子罕第九】
(子曰く。忠信を主とせよ、己に如かざる者を友とすること毋《なか》れ。過ては則ち改むるを憚る勿れ。)
此の章は、論語の一番先きの学而篇に出て居るので、重複であると称する学者もあるが、此の章は前章を享けて特に之を出したのであつて重複ではない。即ち悦んで繹ねなかつたり、従て改めなかつたりするのは、忠信を主としないからである。忠信を主とすればかういふ事がない様になる。此の意味に於て前章の次に再び此の章を出したのである。「己に如かざる者を友とすること毋れ」いふ章句に就て、先年大隈侯が、「孔子も無理な事を言つてゐる。此の訓へに従へば俺なんかは一人も友達がないであらう」と言はれた事があるが、之れは大隈侯が、世の中に御自身程優れた者がないと信じて言はれたのであらうが、成程、文字通り解釈したならば侯の如き百事に優れた人であつたならば、誰も友とすべき人がないかも知れない。然し此の章はさういふ意味でなく、悦んで繹ねなかつたり、聞いて改めなかつたりする人が多いのであるから、能く友を択んで交はる様にせよといふ意味であつて、世の中に総ての点に於て優れた人といふものはない、であるから、善に遷り、過ちを改むるに憚らぬ善良の人を友とせよといふのである。大舜の徳といつて、舜のやうな大聖人でも過りはあつた。只之れを改め善に遷る様な人でなければならぬのである。(子曰く。忠信を主とせよ、己に如かざる者を友とすること毋《なか》れ。過ては則ち改むるを憚る勿れ。)
今は故人となつたが、森村市左衛門君などは、過りを改めるといふ意味には或は当て嵌らぬかも知れぬが、善に遷るといふ意志の強い人で、或時代には仏教信者になり、晩年基督教に帰依されたが、兎に角善を行ふ意志の強かつたことは事実である。又、特に親しい間柄ではなかつたが、故三条公や木戸侯などは、自説を固持せず、能く人の説を容れる人であつた。之れは一面に於て遷善改過の徳を備へて居つた人であると言ひ得ると思ふ。
子曰。三軍可奪帥也。匹夫不可奪志也。【子罕第九】
(子曰く。三軍も帥を奪ふ可き也。匹夫も志を奪ふ可らざる也。)
之は立志の貴ぶ可く、人の意志の強いものであるといふ事を説かれたのであつて、春秋時代の三軍といふのは、其の人員が幾人で、兵科が何々であるかといふ事は素より分らぬけれども、兎も角、前軍、中軍、後軍の旗鼓堂々たる数百千万の軍勢を指したものであつて、場合に依つては其の総帥を捕虜にする事も出来るが、匹夫の志は之を奪ふ事が出来ないと謂はれたのである。一方に三軍の総帥といふ非常に強い権力者を引張り出し、他方に卑賤にして且つ無力なる匹夫を引合に出して比較形容したのは意味を強める為でもあるが、正に其の通りであつて、匹夫にして斯くの如くであるから、況んや匹夫に非ざる者の志を立てたる者に於てをやである。(子曰く。三軍も帥を奪ふ可き也。匹夫も志を奪ふ可らざる也。)
之れは私自身の経験にもある事であるが、其の二十四五の時に、一生を農民で終るよりは何がな国家の為めに尽し度い、若し何等の功労を尽し得られぬかも知れぬが、せめて宮城の御濠の埋草になるとしても、君国の御為めになり度いと志を立て郷里を出でんとした。其時に或は無謀を忠告され、訓戒せられ、又父子の情愛から、親族の長者から、或は某権力方面からも其出京を差止められた事もあつたが、遂に其の志を奪はれずして、自分の意志を実行した。要するに堅く決心して成し遂げようとした志は、決して他から奪はれるものでなく、必ず成し遂げ得られるものである。自分の事を申上げるのは何かしら自慢らしく思はれるかも知れませぬが、私の過去に於ける実際の経験を申述べて参考に資せんとするものである。
子曰。衣敝縕袍。与衣狐貉者立而不恥者。其由也与。【子罕第九】
(子曰く。敝たる縕袍を衣て、狐貉を衣たる者と立ちて恥ぢざる者は、其れ由か。)
孔門十哲の一人、子路の行動を褒めて言はれたのであつて、事に処して勇敢であり、仕事に対して活発であり、然かも天真爛漫たる無邪気さを有してゐるのは、由(子路のこと)であると褒められた。(子曰く。敝たる縕袍を衣て、狐貉を衣たる者と立ちて恥ぢざる者は、其れ由か。)
私が事新らしく述べる迄もない事であるが、人の賢愚は貧富に依つて違ふ訳でなく、富みたる者が必ずしも賢人のみでないと等しく、貧しき者も必ずしも愚者であるとは言へない。されば貧富に依りて人に接する態度を二三にするのは宜しくない事であるし、貧弱な服装をして居つても、自分の行ひさへ正しかつたならば、立派な服装の人と並び立つても決して恥かしい事はない訳である。されば辺幅を飾るよりも、学を修め徳を養ふ事に努むべきであるが、さりとて現代に於て、所謂誤まれる東洋豪傑風の無遠慮、無作法であつてはならぬ。固より貧に恥づるとか、富を羨むとかいふ事は宜しくないが、現代人は欧米諸国人と広く交つて居るのであるから、相当の礼儀を重んずるといふ事を忘れてはならぬ。一例を挙げると、汽車の一二等車に破れたる着物を着て乗り込み、大勢の前で尻を捲つたり、肌抜ぎをしたり、通路に痰を吐いたりする様な事を屡〻見受ける処であるが、之れは礼儀を紊る無作法な仕方であつて、是非慎まなければならぬ事である。欧米ではかういふ場合には遠慮するのを常とするが、我が国でも斯くありたいと思ふ。
不忮不求。何用不臧。子路終身誦之。子曰。是道也。何足以臧。【子罕第九】
(忮《そこな》はず求《むさぼ》らず、何を以て臧《よ》からざらん。子路終身を之を誦す。子曰く。是の道や、何ぞ以て臧くするに足らん。)
子路は詩経にある「不忮不求。何用不臧」の章句を愛して常に之れを口に誦して居つたが、之れを以て道尽きたりと自負し、終身之れを服膺すれば以て足れりと考へて居つた。孔子之れを誡めて云ふには、「忮はず求らず」は善い事ではあるけれども、之れは道の一部分であつて全部ではない。されば之れを以て善事を尽せりと思うてはならぬと説かれたのであるが、夫子は子路の義にのみ勇むを見て更に之れを仁に進めんとされたのである。(忮《そこな》はず求《むさぼ》らず、何を以て臧《よ》からざらん。子路終身を之を誦す。子曰く。是の道や、何ぞ以て臧くするに足らん。)
世の中には、或る一事を以て人の価値を定め、其の人物を批評する人がある。例へば人に諂はぬといふのを自慢して居る人があるが、其の反面に於て、何時でも喧嘩腰に肩肘張つて物を言ふが如きは、少しも褒むべき事ではない。総て物事は一事を以て満足すべきではない、進むべき道は窮りない故、世人は深く之れを考ふ可きである。
子曰。歳寒然後知松柏之後凋也。【子罕第九】
(子曰く。歳寒く然る後松柏の凋むに後るるを知る。)
春夏の温暖なる時に於ては、草木が皆青々として繁つて居るけれども、厳寒の候となるに及びては是等の草木が皆悉く凋落して仕舞ふ。けれども独り松柏のみは緑の色を変へず、蒼然として風雪に堪へてゐるといふ意味であるが、之は人を松柏に譬へたのであつて、天下無事なる時は人々皆一様に見えるけれども、一旦利害に臨み事変に遭遇すれば、小人は皆萎縮して利に就き身を保つに汲々たるも、独り君子のみは死生禍福の為めに心を動かす様な事がなく、節義を守る。(子曰く。歳寒く然る後松柏の凋むに後るるを知る。)
何時の世にも匹夫小人のみが多くて、松柏の如き卓然たる処ある人間は尠い、殊に現代に斯かる松柏の如き節義を重ずる人物の尠いのを遺憾に思ふ。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.459-462
底本の記事タイトル:三二八 竜門雑誌 第四〇五号 大正一一年二月 : 実験論語処世談(第五十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第405号(竜門社, 1922.02)
初出誌:『実業之世界』第18巻第6号(実業之世界社, 1921.06)
底本の記事タイトル:三二八 竜門雑誌 第四〇五号 大正一一年二月 : 実験論語処世談(第五十三《(五)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第405号(竜門社, 1922.02)
初出誌:『実業之世界』第18巻第6号(実業之世界社, 1921.06)