デジタル版「実験論語処世談」(46) / 渋沢栄一
『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.360-363
子曰。泰伯其可謂至徳也已矣。三以天下譲。民無得而称焉。【泰伯第八】
(子曰く、泰伯は其れ至徳と謂ふ可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称すること無し。)
周の興る前の殷の政事は封建制度であつたが、周に徳の備はつた賢王が相続いで出られた為に天下の人心が次第に周に向つて靡くやうになり、遂に周の武王の時に及んで、殷を亡ぼして天下を一統するに至つたのである。(子曰く、泰伯は其れ至徳と謂ふ可きのみ。三たび天下を以て譲る。民得て称すること無し。)
武王の父に当る文王と云ふ人は、之亦至つて有徳の人で、国威の発展の為に色々力を尽された人である。そこで遂に天下を三分して其の二を有すると云ふ盛運を開いた人である。それ程有徳であつたけれども、文王の時代に於ては周はまだ殷と同列に並ぶ諸侯であつて、天下が悉く周のものとなることはなかつた。
然るに殷の紂王は甚だ無為無能で、民に対して残酷の政を為し、人心も次第に離反して行くと云ふ有様であつたから、武王の世になつて遂に殷を亡ぼして周の天下として了つたのである。
之れ等を日本の国体から論ずると云ふことになると、色々立場を異にして居る所もあるので、細かには論じかねるのである。
天下を一統して周の世と化した武王に取つて、泰伯は曾伯父に当ると云ふべきである。泰伯のお父さんの亶父(大王)に三人の子供があつて、泰伯は其長子であつた。そこで当り前から云ふと泰伯が亶父の後を継ぐべきであるが、亶父の末子である季歴の子昌が聖徳があるので、亶父は先づ季歴に周を譲り、次いで昌に其後を継がせんと希つて居た。
この亶父の意中を知つた泰伯は、次子仲雍と共に走つて荊蛮に逃げて了つた。そこで大王は季歴を立てて国を伝へ、次いで季歴の子昌が継いで聖徳を現はすに至つた。而して世間では、泰伯が位を譲つたことに就て一向に気がつかぬ。季歴が次ぎ昌が次ぐことを極めて当り前のこととして居た。
孔子はこの泰伯が父の意の在る所を知り、当然自分が継ぐべきを譲りて父の志を成し、且つ其譲るに当つて、之れを少しも他のものに知らしめ悟らしめることなく、極めて巧妙にした為に、天下の民が之れを知らずして、一人も泰伯を称讃するものが無い。この泰伯のやり方を至徳として賞められたのである。
天下の民が誰一人として称するものないと云ふ巧みなやり方をして少しも他人に誇らぬと云ふ所に深い意味が有つて、孔子の至徳と云はれる所である。
今の世の中に於ては、自分の行つたことが世間に知れて賞められることを手柄とし、中には殊更に吹聴して、自分の功績が世間に知られんことを希うて、さう云ふ態度に出るものさへある。之れに反して此時分に於ては、極く謙譲を主義とし、徳義を重ずると云ふのであれば自己の功績は成る丈け世の中に知られぬやうにすると云ふのである。之れが又孔夫子の大いに称讃された意味の深い所である。
其根源を極く短い言葉を借りて言ふと、西洋の道徳の大本とも云ふべき福音書の馬太伝の内に斯ふ云ふことが有る。人は自分で善事をすると共に、善いことは成るべく他人に奨めて行はせるのが人たるの務めであると。
之れに反して孔子の教とする所は、己の欲せざる所人に施す勿れと云ふので、恰度西洋の道徳とは逆を言つて居るのである。
西洋の道徳は積極的で、自分が実行するばかりでなく飽迄他人にもやらせようとするのである。之れは能動の態と云ふことが出来る。所が東洋の道徳は消極的で、己の欲しないことは他人に施すなと云ふのである。之れは受身の態と云ふことが出来る。茲に東洋の道徳と西洋の道徳の違ひが生じて来るのである。其外にも色々の点に於て変化を生じ差別を現はして来るのである。根本に至つてみると、茲に言ふ所の言葉が東西両洋の道徳の違ひをよく分り易く説いて居ると思ふのである。斯く根本に於ては僅かの差異で物の裏と表とを言つたに過ぎぬのであるが、夫れが互に自分の道徳のみを発展せしめて行くと、仕舞には非常な違いを生じ、大変な距離になつて来るのである。
泰伯のやり方は此東洋の道徳をよく現はしたもので、如何にも善事は、洋の東西を問はず各自せねばならぬ。それで泰伯は当然継ぐべき天下を季歴に譲つて善事をしたが、若し之れが世間に知れるとなると兄が天下を継がないで弟が天下を継いだことが分つて亶父及び季歴を譏ることとなる。其処で季歴の人格が何程優れて居つたか其点迄よく分らんが、其親が弟に天下を継がせたいと云ふ意志の在る所を悟つて他人に知れぬやうに泰伯は之れを譲つて、季歴をして周の天下を継がせるやうにした。其時は天下の民百姓は泰伯が如何に偉いかと云ふことを少しも知らずに過して了つた。其時若し泰伯のした事が分つて泰伯が偉いと云ふことになれば季歴が冒したことになる。斯くては泰伯は自分の本志を全うすることが出来ぬ。一説に拠れば泰伯は日本に逃げて来たと云ふ説もある。
家康は十二人目の子である義直を尾張に、其次の頼宣を紀伊に、其次の頼房を水戸に置いて所謂徳川の御三家なるものを創めた。
徳川光圀侯は此三家の中水戸の頼房の子であつたが、兄の頼重が相続すべきを父の意に依つて自分が継ぐことになつた。此兄に代つて相続したことを酷く心苦しく思つた人である。十八歳の時史記列伝を読み、伯夷論を見るに至り、兄弟譲合ひをした結果は中子を以て父の跡を相続すると云ふことが殷の時代に在つたことを知るに至つた。
之れを知るに至つた光圀は、自分が弟でありながら相続したことを非常に心苦しく思ひ、何うかして之れを取り消さんものと色々考へた結果、自分の子は高松侯の養子として之れを相続せしめ、高松侯の子供を貰つて自分の家を相続せしめんとした。而して之れを実行したが其長子綱方は早世したので、次子綱条を以つて光圀侯の相続人としたのである。
光圀侯の斯くの如き行為は、伯夷論を読み、又泰伯の事蹟を知るに至つて深く感じたからである。而して此事を余り世の中に知らせぬやうにしたのは、光圀侯の最も尊敬すべき所であると云はねばならぬ。
次に白河楽翁侯は、時の将軍家斉と復の従兄に当つて居る。八代将軍吉宗から分れて居つて、何れも吉宗の子の子である。楽翁侯は田安家を継ぎ、一方家斉は一橋家の出である。
此楽翁侯は質素、勤倹、謙譲を好み、豪奢とか金銭を弄ぶと云ふことは非常に嫌ひであつた。之れに反して時の将軍家斉は、中々の才子であつたが、極く豪奢な人で、又此人に依て徳川の家を非常に華やかにしたのである。
実に此時代を大御所時代とも云うて、凡ての事が華美に流れ、徳川時代に於て一つの特徴を示して居るのである。恰度仏蘭西のルイ十四世と相類似した所があるのである。
之れを松平楽翁侯は非常に心配して、斯くては徳川家の為に甚だ宜しくないと云ふので、始終非難もし、又色々の手段で之れを矯正しようと努めて居た。
然し楽翁侯は、他人の家来である。自分が余り諫め立てすることは宜しくない事である。そこで成る丈け世間に知れないやうにして、自分の憂ふる所を他人に知らしめようとした。日本外史に序文を書いたこと等もさう云ふ意味からである。此儘にして置けば徳川家の未来は維持が困難であると云ふので非常に心配し、然もそれを表立つて兎や斯う云ふことは宜しくないから、詰り世間に知れぬやうにして力を尽したのである。
尚此外にも楽翁侯の徳を称すべき事蹟は数々あるが、唯此一事を以て見ても、楽翁侯が如何に有徳の人であつたか其程合ひがよく解るのである。
楽翁侯の如きは、消極的であり受身的であることを主義とする東洋道徳の骨髄を体現したものとして後世称讃の声が甚だ高いのである。
子曰。恭而無礼則労。慎而無礼則葸、勇而無礼則乱。直而無礼則絞。【泰伯第八】
(子曰く、恭くして礼無ければ則ち労す、慎んで礼無ければ則ち葸《おそ》る、勇にして礼無ければ則ち乱す、直にして礼無ければ則ち絞す。)
此恭労、慎葸、勇乱、直絞を文字通りに解釈すると、何れもものの度を過すと斯うなると訓へたものである。何事を行ふにも礼を忘れることなく、ものの中庸を以て進まねばならぬ。人に恭敬を致すにしても、恭敬の度を過して礼をなくすれば既に恭敬に非ずして、徒に骨を折る労作となつて了ふ。又事を為すに当つて謹慎は必要であるが、之れも度を過すとびくびくして畏懼するに至る。勇気も余り振ひ過ぎると遂に乱をするやうになり、正直も飽迄言ひ張るとなると人の微過をも寛容することが出来ぬ。(子曰く、恭くして礼無ければ則ち労す、慎んで礼無ければ則ち葸《おそ》る、勇にして礼無ければ則ち乱す、直にして礼無ければ則ち絞す。)
恭慎勇直は何れも美徳の極であるが、労葸、乱絞に至つては既に美徳と云ふことは出来ぬ。
然し此礼を失はぬやうにし、ものの中庸を守つて美徳を全うすると云ふことは、中々困難のことである。僅か一歩を進み過ぎると既に其徳は失はれるのである。而して斯う云ふ例は世間に幾何でも有ることである。
例へば自由にしても節倹にしても、少し度を過すと云ふと、自由は放縦となり節倹は吝嗇となる。自由が真の自由であり、節倹が本当の節倹である間は、誠に望ましい結構のことであるが、一歩其圏外に出で、放縦となり吝嗇となると、甚だ弊害の多いものとなるのである。
然も此微妙な限界を旨く守ると云ふことは中々至難のことで、世間には放縦になつたり吝嗇になつたりする者が多い。
勤倹道等にしても、其主旨から云うて、又其主旨の範囲内に於て行はれて居る間は誠に結構のことであるが、然し一歩誤つて度を過し、世間の人が難渋して居るときに少しも施さぬと云ふことになれば、之れは吝嗇と云はねばならぬ。茲に於ては既に美徳は失はれて居るのである。
此の外、労葸、乱絞の悪徳の例は幾何でもあるが、自由が放縦になり、節倹が吝嗇になる此の二つの例は目のあたり見て居る所の適例である。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.360-363
底本の記事タイトル:二九五 竜門雑誌 第三七六号 大正八年九月 : 実験論語処世談(第四十六回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第376号(竜門社, 1919.09)
初出誌:『実業之世界』第16巻第9号(実業之世界社, 1919.09)
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