デジタル版「実験論語処世談」(52) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.405-409

子罕言。利与命与仁。【子罕第九】
(子罕れに言ふ。利と命と仁と。)
 子罕第九の初めに移りますが、此の章句は至つて簡単である。けれども、然かも此の短い章句の中に味ふ可き幾多の教訓を含んでゐるのである。則ち此の章句は、孔子が自ら深く研究されたこと、又は古人から伝へられて居ること等に就て常に門弟子に教へ、折に触れて種々の訓戒を与へ、或は質問に答へられた際に言はれた事であつて、此の章の精神は実に論語二十篇に亘つて一貫して居るのである。
 此の章の始めに、子罕れに言ふとあるが、利と命と仁とは人間必須の者であるけれども、多く之を言へば却て害あるを以て、之を言ふを慎まれたのである。八十九歳の高齢を以て一昨年歿くなられた三島毅先生は利は義なりと解釈して居るけれども、私は矢張り利と見てよいと思ふ。命は即ち天命の謂である。仁は非常に広い意味が含まれて居るのであつて、且つ孔子の訓への標準をなして居るものであるから、最も重きを置かれてある。人を愛する情が深いとか、其の言ふことが道理に適うて居るとか言ふことも勿論仁には相違ないが、孔子は更に此の仁の意味を種々なる方面に説き及ぼして、天下万民を済ふの広大なる程度にまで説か[れ]てゐる。茲に言ふ所の仁とは、此の広い意味の仁であるのは謂ふ迄もない。
 さて私は利は矢張り利と解釈して宜いと説いたが、自己を利するのみの意味でない事は勿論であつて、私の言ふ所の利は、少しも私のない、真理に適ふ利を指して謂ふのである。大学の中にも「利を以て利とせず、義を以て利とす」と書かれてあるが、三島先生は先年「義利合一論」といふものを著はされ、「義に全ければ利自ら至る。義によらぬ利は真の利といふ事は出来ない」と説かれ、利は義なりとの解釈も此の見地より下されて居るのであるが、私は利は利なりとの解釈に就て別個の意見を有して居る。
 即ち其の利は、当然義に適ふ利でなければならぬが、吾々人間として生活して行く上に日常欠く可らざる衣食住の三つは、必ずや正当なる利に拠らなければならぬ。一人一家にして既に然り、況んや一県一国にして利の必要なるや論を俟たざる所である。此の故に私は利を矢張り利と解釈せんとするものであるが、一歩を謬れば我利となり私利となり、却つて世を害するに至るを以て世人は大に慎む可きである。殊に近年唯物主義が盛んとなり、我利私慾を図るに汲々たる者が多いやうに見受けるが、是は最も戒む可く慎む可き事である事を深く思ふ可きである。
 畢竟算盤を弾く事は利であるが、論語は道徳である。私は此の二つが伴はなければならぬと信ずるを以て、論語の訓へを咀嚼して処世の道として居るが、又後進の人々にも此の二者の並行しなければならぬ事を説いて処世訓としてゐる。斯くて克く道徳を守り、私利私慾の観念を超越し、国家社会に尽すの誠意を以て得たる利は是れ真の利と謂ふを得べく、又三島先生の義利合一論に合致するものであると信ずるものである。
 命は曩にも述べし如く天命であつて、必ず無視する事は出来ぬものであるけれども、何事も天命を頼りとして自らは何等の為す処なきは所謂棚から牡丹餅の落ちて来るのを待つと等しく、愚の骨頂であつて大に戒めなければならぬ事である。要するに「人事を尽して天命を俟つ」の心懸けを以て、常に刻苦勉励し、自ら其の天地を開拓すべきものであつて、棚牡丹的に天命に依頼するに於ては、世の進歩も発達もなく、自己一身としては遂に社会の落伍者たるを免れぬであらう。乍併全然天命を無視する時は破滅の基となる。
 適当の引例でないかも知れぬが、独帝カイゼルは、勢ひに乗じて天命を無視し、中欧に独逸大帝国の建設を夢みて非望を遂げんとし、世界の大動乱を惹起するに至つたが、マンマと失敗に帰し、身は縲紲の憂目を見るに至つた。畢竟、天命なるものは、人間の知識才能のみによるものに非ずして、実に霊妙なる差配があると思ふ。此の微妙なる霊的感念の働きが即ち天命である。但し天命のみに依頼して万事を解決せんとするは、知識を養ひ職務に勉励する事が自然におろそかになるを以て、人事を尽して天命を俟つの心を失はずして世に処すべきである。
 仁は前にも言うた通り、其の意味は極めて狭い小さい事にも説かれ又広く大きい事にも説かれて居るが、其の意味の広い狭いに拘らず、孔子は常に最も大切なる訓へとして之れを説かれて居つた。仁は人間の性の徳であつて、必ず忠信篤敬、己に克ち礼を履み、然る後に能く至るものであるが、若し余りに多く仁を言へば却て仁を害するに至るを以て、孔子も罕に之を謂はれたのである。尚、仁は孔子の訓への核心をなすもので、論語の全篇に亘つて居り、曩にも仁に就ての意義を屡〻説けるを以て茲には詳説する事を見合せるが、要するに利、命、仁の三者は皆理の正しき事なれば、言はなければならぬ事であるし、行はなければならぬ事ではあるが、多く之を言ふ時は害あるを以て、孔子深く之を慮りて、其の弊に陥らざる様に警められたのである。
子絶四。毋意。毋必。毋固。毋我。【子罕第九】
(子、四つを絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し。)
 意、必、固、我の四つは誰にも無くてはならぬものであるが、此の四つには決して私があつてはならない。三島先生は意とは私意、必とは理の是非を問はず必ず斯くせん斯くせじと期欲する意、固とは事の是非得失に拘らず我意を執つて動かざる意、我は即ち私己であると解釈されて居るが、之れは其の通りである。而して四者は渾べて私意にして、境遇に触れて其の名を異にせるものであるが、孔子は勉めて此の四者を絶ちて尽く之を無からしめた。即ち諸事大公至正にして、其の行ふこと悉く義に適し、道に適うて居つた。世人の大に学ぶ可き点である。
 元来、意、必、固、我を全く絶つというても、之を全く無くして生存し得らるる訳のものではない。されば一切此の四者を絶つて仕舞ふといふ事は出来ない。孔子の教へも亦全然なくして了ふといふのではなくして、此の章は皆私字を補つて見るのを適当とする。即ち此の四者が私に根ざして不道理に働く場合を絶つといふのである。換言すれば、何事を行ふにしても必ず道理に適ひ、徳義に反せず、至公至平であれと訓へられたのに外ならぬ。
 人間には喜、怒、哀、楽、愛、悪、慾の七情があるが、此の七情の発動が総て宜しきに叶ふ様にしなければならぬ。夫れには克己して自らの弊を矯める様にすべきである。世の中には哀しい事があつても悲しい顔をせず、嬉しい事があつても喜んだ顔を見せない人もあるが、之は虚偽である。聖人は喜ぶ時には悦び、悲しい時には悲しんで、七情の発動が能く理に適うて居る。孔子は曾て「七十而従心所欲不踰矩」と云はれて居るが、此の心の欲する所に従て矩を踰えずといふのは、心の欲する所に従つて言動し然かも聊かも道理に違はず、自ら法度に適して居るといふ意味であつて、人間の七情の発動が此の境地まで至らなければ本当でない。即ち、能く意、必、固、我の四者の私を絶つて人間としての正しい道を歩む様に心掛く可きである。
子畏於匡。曰。文王既歿。文不在茲乎。天之将喪斯文也。後死者不得与於斯文也。天之未喪斯文也。匡人其如予何。【子罕第九】
(子、匡に畏る。曰く。文王既に歿す、文茲に在らずや。天の将に斯文を喪さんとするや、後れて死する者、斯文に与ることを得ず。天の未だ斯文を喪さざるや、匡人、其れ予を如何せん。)
 此の章句の意は、孔子難に当りて天命に安んじ、自ら慰め又弟子を安んぜられたのを言うたのであつて、孔子は曾て匡を過ぎられしに、匡人は陽虎と誤りて兵を以て孔子を囲み、之を殺さんとした。随行の門人皆懼れたるに、孔子は従容として曰く、「文王は既に歿せられたけれども、其の道は今猶存して現に此身に伝はつて居る。天若し道を喪ぼして伝へざらしめんとの意であれば、疾くに喪ぼすべくして後死の我は道を聞くに与ることを得ざる筈である。然るに道伝はりて今我身に在るを見れば、天は道を喪ぼさうとするの意がないのである。されば匡人が我を殺さうとしても、天意に違うて居るから、我を如何ともする事能はざるであらう」と。即ち我の生死は一に天命に在り、天命に委せて徒らに懼るること勿れと、門弟子に天命を説かれたのである。
 孔子は非常に謙遜な方であつた。然るに悪く言へば平生の行ひに似ず大言壮語されたやうに思はるるが、其の真意は決して大言壮言に非ずして、孔子が平素から抱かれたる大なる自信の発露と見る可きである。当時、王者の道漸く衰へて春秋の世となり、攻伐を以て事として居つた。斯かる時代に孔子は先王の教へを守り、仁義と道徳とを説き功利万能の世人に向つて盛んに先王の道を宣伝されたのである。而して此の道を天が喪ぼさうとするの意があるならば、既に此の道は頽れて居る可き筈であるのに、今に伝へられて居るのは、天が此の道を喪す意がないのであると断じられたのは、孔子の自信が強かつたのと、道の為に非常に熱心な為であつたと見る事が出来る。
 此の章の始めに、文王既に歿すとあるのは、周の時代であつたから文王を引証して来たのであつて、難に遭つても非常な自尊を以て泰然として死生の間に超越して居られたのは、全く偉大なる人格の賜物である。恭謙遜抑の徳のある人にして、斯かる時に際し真の気魄が天下に押拡められるのである。畢竟之れは孔子の偉大なる処を説いたのであつて、死生存亡の間に在りて毫も心を動かされざるのみならず、自らの任じ方が高かつた事を後世に伝へようとしたものである。
 斯くの如きは全く平素の修養の力であつて、死生の間に処して心の動揺を感ぜざるの境地に至つて始めて其の全きを見る。而して天命に安んじて懼れざるの徳は、古来、我国にも其の例に乏しくない。
 自分の事を述べるのも聊か烏滸がましいが、八十年の生涯の間には自ら死なうと思うた事もあるし、二十四五の頃から屡〻死生の間にも出入した。其の一橋家に奉公時代、明治政府に仕へて居つた時代を通じ身の危険を感じた事は一度や二度ではなかつた。確か明治二十五年頃であつたかと思ふが、刀を以て馬車に斬り付けられた事もあつた。斯る際に於て、到底孔子の如き自負心はなかつたが、一つの諦めの心は持つて居た。自分は此の諦めの心を以て死生の間に在りても敢て動ずる事がなかつた。
 即ち斯かる際に於て、若し此の身に危害を蒙る事があるとすれば、夫れは我が身の徳の足りないのであつて、死するも亦止むを得ない。是れ天なり命なりである。若し又、自分に悪い処がないならば、霊妙なる働きに依つて救うて呉れるであらうと信じて居つた。此の信念があつたればこそ、自分は如何なる場合にも戦々兢々たる観念を抱くことなくして所信を行ふ事が出来たのである。私は決して自分を偉いものとして是を述べるのではない。只だ実際の経験を御話して諸君の参考に供しようと思ふに過ぎないのであるから、其の点を誤解されない様に特に附言して置く。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.405-409
底本の記事タイトル:三〇九 竜門雑誌 第三八九号 大正九年一〇月 : 実験論語処世談(五十一《(二)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第389号(竜門社, 1920.10)
初出誌:『実業之世界』第17巻第10号(実業之世界社, 1920.10)