デジタル版「実験論語処世談」(67) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609

子曰。君子上達。小人下達。【憲問第十四】
(子曰く。君子は上達し、小人は下達す。)
 本章は、同じく達するにしても、君子と小人とによつて各異ることを云ふ。
 この章は字の通りであつて、別に此処に取り立てて言ふ程の深い意味はないが、若し之れを引延ばして達の字を講義すると、広くもなり深くもなる。先づ此の達の字は、聞と達の二つに区別することが出来る。聞はその形、達のやうで仁に見えるけれども、行ひは之れに伴はぬ。丁度小才子の為すことに真底がなく、広い深い学問もないやうなものである。
 之れに反して達はその為すことに深味があり、重味がある。又学問にしても、より深くより広いのである。顔淵篇に「それ達は質直にして義を好み、言を察して色を観、慮つて人に下る、邦に在つても必ず達し、家に在つても必ず達す」とあるのも之れであつて、単にその形ばかりでなく、その行ひまでその通りにならなければならぬ。之れを以ても、如何に孔子が達に重きを置いて居るかを知る事が出来る。
 諸葛孔明の出師の表の中に「命を乱世の中に全うして、聞達を諸侯に求めず」とあるのは、達は聞と達とを区別することを証すべきである。而してこの達と云ふのは表べのものでなくて真底から徹底した行動を採ることである。
 併し此処に云ふ達は、それ程深い意味を有つて居るものでなく、単に通達すると云ふことに過ぎぬ。即ち君子は道に志を有つて居るが為に、その学ぶ所のものは修身治国にあるから、遂には道徳、義理に通達する、けれども小人はその学ぶ所のものは末技小利に過ぎないからその通達する所のものも屑〻たる事功技芸に過ぎない。故に君子は上達し、小人は下達すと云つたのである。人はその学ぶ所其志す所を択ばねばならぬ。
子曰。古之学者為己。今之学者為人。【憲問第十四】
(子曰く。古の学者は己れの為にし、今の学者は人の為にす。)
 本章は古は内を貴ぶことを主としたけれども、今は内を忘れて外を貴ぶやうになつたと云ふことを説いたものである。
 古の学に志すものは、その学問の己れの心に得んことを心掛けたけれども、今の学問をなす者は、先づ己れに得ることよりも、徒に口舌を巧にし、偏に名声の人に知られんことのみを心掛けるものである。故に古の学者は己れに益があつたから、人にも益を与へるやうになつたけれども、今の学者は己れに得ることが出来ない為に、人をも益することが出来ぬのである。
 孔子の時代もこのやうであつたらうが、今の学者もこのやうであり又一般の人達もこの傾向を多分に有つて居る。故に、実際からすれば自分はそれ程の力も何もない癖に、名をも地位をも得ようと心掛けて居る。これなどは今日の議会の有様を見ても判るではないか。徒らに口舌にのみえらさうなことを言つて得意になつて居るけれども、その内容は空漠なものである。之れは実力が伴はなくとも名声を博せんとするからである。これ等の徒に向つてはこの文句を飲ましてやり度いものである。
 荀子の勧学篇に「小人の学は耳より入つて口に出づ、口耳の間僅に四寸のみ、竭ぞ以て七尺の軀を美とするに足らんや」とあるが、今日の学者に向つて大なる皮肉を投げかけたものと云つてよい。実際人から受け入れた事が、直に己れの物にでもなつたかのやうに口から出るのである。これでどうして其学問に生命を発見することが出来よう、而も之れを以て得意とするやうでは何とも譬ふべき言葉がない。
蘧伯玉使人於孔子。孔子与之坐。而問焉曰。夫子何為。対曰。夫子欲寡其過而未能也。使者出。子曰。使乎使乎。【憲問第十四】
(蘧伯玉人を孔子に使はす。孔子之れに坐を与へて問うて曰く。夫子何をか為す。対へて曰く。夫子其の過を寡くせんと欲して未だ能はず。使者出づ。子曰く。使なるかな使なるかな。)
 本章は、孔子の蘧伯玉の使者を称した辞である。蘧伯玉は衛の大夫にして名を瑗と云ひ、孔子の友人で、曾て孔子は此の家に居つたこともある。
 蘧伯玉がある時孔子の許に使ひをやつた。用事を終へてから、孔子はその使に坐を与へて、夫子は常に如何なることを為し居られるかと問はれた。使者は主人は何時も過ちを少くせんことに心掛け注意を怠らないけれども、未だ過ちを無くすることが出来ないと対へた。使者が去つてから、孔子はこれを称めて、あれでこそ真の使者である、と言葉を重ねて深く嘆美されたのである。
 此の蘧伯玉は非常の修養の為に努力された人で、蘧伯玉は五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化すと言はれた程である。ある時孔子が家に居られると、車の音がしたが間もなく止んで、又車の音がしたことがある。孔子は、之れは屹度蘧伯玉が必ずこの家の前を通つたのであらうと言はれたが、果してその通りであつたと云ふことである。
 此の時代は先輩の家の前を通る時でも、車から下りて通ると云ふのが礼儀であつた。けれども、実際に之れを行ふといふことが少いものであつた。然るに蘧伯玉が人が見て居つても居らなくても、之れを実際に行つたのに見ても、蘧伯玉の礼儀を重んじた人であると云ふことがわかる。
 かうした礼儀も時代によつて変遷すべきものであつて、孔子の時代にかうであつたからと云つて今日も尚之れを行はなければならぬと云ふことはない。けれども、陰日向によつて差違あるやうではいかぬ。蘧伯玉の礼儀を重んずる精神が、何時でも又何処でも変りがなかつたと云ふことが称すべきである。
子曰。不在其位。不謀其政。【憲問第十四】
(子曰く。その位に在らざれば、その政を謀らず。)
 本章は泰伯篇に出て居るが、後の章と連絡があるので出したのである。
 孔子の時代に於ては、その位になければその政を謀ることは出来なかつたから、この章句も必要であつた。けれども、今日の如く時勢が幾変遷をして居ると、之を何時までも遵奉しなければならぬことはない。孔子の時代には今日の代議士などはなかつたが、今日は之れ等によつて政治が謀られて居る。又国民も既に参政権を有するのであるから、この章句は何時も当て嵌まるものと見ることが出来ない。
 唯此孔子の章の精神に照して云へば、今日、自身を修めることが出来ない癖に人を治めんとする人の多いことである。私の処へ来る人達の中にも、何を改革するとか、之れを救済しなければならぬとか、大それた計画を立てる者も居るけれども、自分さへ修めることが出来ないで、どうして人を治めることが出来よう。
 併しそんな人の出ると云ふのも、一般の風潮からであるから、自らかうならざるを得ない訳であらう。若し今日孔子をしてこの様な状態を見せしめたならば、どんなに大なる迷惑を感ずることであらう。
曾子曰。君子思不出其位。【憲問第十四】
(曾子曰く。君子は思ふこと其の位を出でず。)
 本章は上章と聯絡して、その思議の分外に出てはならぬことを戒めたのである。思は経営謀画を云ふのであり、位は此処では必ずしも官位を指したのでなく、その居る所位に解してよい。
 凡そ人たるものはその事の公であり、私であるとに拘らず、自己の本分を守つて居ればよい。然るにその分外を超えた経営謀画をすれば人の事まで犯すことになり、之れが為に紛議の種を蒔くことが決して少くない。故に君子は自己を守ることを軽率にしてはならない。
 処が今日の状態を見ると、皆この章句と反対して居るやうな事実が頻々として行はれて居る。然るに之れを以て自ら戒むべきものとしないで、却て之れを以て手腕のある人物の如く信ずる。紛議の種に遂に尽きる期なきに至るのも亦止むを得ないこととせねばならぬ。
子曰。君子恥其言而過其行。【憲問第十四】
(子曰く。君子は其の言の其の行ひに過ぐるを恥づ。)
 本章は行ひの敏なるべきを説いたのである。
 而の字は皇疏本に之の字に作つて居るから、之れに従ふのがよいかと思ふ。
 言ふは易いが行ふのは難い。故に君子は常にその言を慎み、その行ひの伴はぬを恥ぢると説かれた。孔子は二千年の昔に誡められたが、今日も猶その言葉が当嵌まる。その言葉のその行ひに過ぎて居ることは大いに誡めなければならぬ。
 政府は国民の思想を強固にする為に、剛健質実、敦厚篤実、軽佻浮薄、虚偽譎詐などを云々して居る。その言ふことは尤もであるけれども、政府それ自身に於て果してその言の如きことをやつて居るかと云へば、決してさうでない。して見ればこれは、何ぞ烏の雌雄を知らんやと言ひ度い。
 政党なども口にこそ立派なことを言つて居るけれども、その為すことは譎詐百端、党利党益にのみ没頭して居る状態ではないか。之れでどうしてその行ひの立派ならむ事を人に責めることが出来よう。
 かう言へば、孔子の言葉によつて人を誹るやうであるけれども、少くとも自分は、言葉の行ひに過ぎるやうなことはせん積りである。人間も亦孔子の言はれたやうにあり度いものと思ふ。
子曰。君子道者三。我無能焉。仁者不憂。知者不惑。勇者不懼。子貢曰。夫子自道也。【憲問第十四】
(子曰く。君子の道なるもの三つあり、我れ能くするなし。仁者は憂へず、知者は惑はず、勇者は懼れず。子貢曰く。夫子自ら道ふ。)
 本章は知仁勇の三徳に就て説かれたものである。
 孔子は、君子の道は三つあるが、自分は之れを能くすることが出来ない。その三つと云ふのは、知仁勇である。仁者は人を愛して常に楽易である為に憂へない。知者は義を見ること明かであるから、事の是非善悪を知り、決してその処置に惑ふやうなことはない。勇者はその心道義に合して居るから、之れを懼れない、と。然るに子貢は、孔子の斯く言はれたのは、自ら謙遜したのであつて、自ら之れを能くされたのである。
 此の三つの君子の道は実に尊い処のものであり、且つ我之れを能くするなしと言はれたのは、謙遜しての事である。然るに当世の人々は自分で出来ないことも出来ると云うて少しも謙遜して言ふやうなことがない。お互に謙遜し合ふと云ふことは君子の交りである。知らぬものを知つた顔をして居るが、之れは孔子の道が廃れて来たと言はねばならぬ。
 孔子も言はれたやうに、知仁勇の三徳を行ふことは六ケしいもので人として煩悶が出来易いものである。故に一身の事に拘泥することなく、広い観念を有つやうになれば憂へることはない。併し憂へないと云ふことは六ケしいもので、どうしても煩悶苦悩に終る事が多い。この憂へると云ふことは人情であるかも知れないが、之れが為に道理を破るやうなことがあつてはならぬ。之れには博愛忠恕と云ふことが必要である。此の博愛忠恕があれば心配をせぬ。即ち道理を弁へ思ひやりが深ければ煩悶、苦悩がない。事の是非得失を明かにして居れば知者で惑ふことなく、疑懼恐懼に打勝つのは勇者でなければ出来ない。この三つは聖人の道であつて、之をなすことは六ケしい。孔子は謙遜して、能くすることが出来ぬとは其至難なるを言つたのである。
子貢方人。子曰。賜也賢乎哉。夫我則不暇。【憲問第十四】
(子貢人を方《くら》ぶ。子曰く。賜や賢なるか。夫れ我は則ち暇あらず。)
 本章は孔子が、子貢の人を批評するを誡めたのである。
 方は比ぶと同じ。夫の字は上につけて賢乎我夫と読む。
 子貢は能く人物を批評して、其の長短を較量することを好んだ。故に孔子は、賜は我よりも賢れて居る。我は自ら修むるに急であつて批評するの暇がないと。之は子貢を褒めるやうであるが、実は之を戒むものである。
 子貢は智慧のある人で、富んでも居つたやうである。孔子も曾て子貢を評して「命を受けて貨殖し、慮れば屡〻当る」とも言はれた程である。余程世事にも通じた人で、貨殖の道にも長けて居つて、孔子もこの子貢の世話になつたことも少くないやうである。
子曰。不患人之不己知。患其不能也。【憲問第十四】
(子曰く。人の己を知らざるを患へず。其能くせざるを患ふ。)
 本章は、己れを修むることを言ふ。此の章は少しく文を異にして学而篇、里仁篇、衛霊公篇などにも出て居るので、殆ど講義を要することはない。
 一体人は己れを人に知られんことを願ふよりも、為すことの出来ないことを心配しなければならぬ。そしてかう云ふ風に物事を考へれば間違ひと云ふものはない。人に知らせるやうなものがないのに、之を知らせようとするのは、或は人情の弱点かも知れないけれども、君子は之を大なる恥として居る。
 然るに世の中には譎詐百出以て誤間化して居るものが多い。而もかう云ふ者を以て智慧者である、手腕がある、えらいものであると云ふ風に見て居るものが少くない。故にかうして嘘、偽りを云ふ者が益々跋扈するやうになる。政治界にしても実業界にしても、本当に国家の為に尽さう、社会の為に自己の生命をも打込んでやると云ふやうな真剣になれない、真面目になれない。不真面目、不誠意は皆これから出て来るのである。
子曰。不逆詐。不億不信。抑亦先覚者。是賢乎。【憲問第十四】
(子曰く。詐りを逆《むか》へず、信ぜざるを億《はか》らず。抑も亦先覚者は、是れ賢乎。)
 本章は、誠心を以て人の情偽を知るべきを説いたのである。逆は未だ至らないのを迎へること、億は未だ見ないで、思ひはかることである。人と交はるに用心深くして、彼の言ふことは詐りでないか、果して我を信ずるであらうかと推し測る事をせずに、寧ろ彼の誠実であるか偽詐であるかを先覚する事が賢と云ふものである、と説かれたのである。
 此の章は非常によい言葉だと思つて居る。私も始終このやうなことを思つてやつて来たが、今この章に当つて、自分の従来やつて来たことの誤りでないことを知つた。
 若し人に交はるに、あの人の言葉は偽りでないか、又自分の言ふことを果して信じて呉れるであらうかと云ふことを考へてやつて居つては、到底真実なる友達は出来るものでない。人の言ふことは真実として聞いて居つて、その言が道理であれば之を信じ、不道理であればこれを信じなければよい。決してこれは偽りでないかと云ふ疑ひを挟んで話しをする様ではいけない。断金の友であつても、一時の人であつても忠実に話しをして、之を信ずるかどうかと怪訝の目を以て応待すべきでない。或は自分を利用する為にやつて来るかも知れない、けれどもさうだらうと思つてせずに、忠実に話しをすればよい。そして間に於て果して彼は誠実であるか、偽詐であるかを看破し得るのが君子の道であつて、賢と称することが出来る。彼の逆億を敢て為すものは未だ以て賢と称することが出来るものでない。
微生畝謂孔子曰。丘何為是栖々者与。無乃為佞乎。孔子曰。非敢為佞也。疾固也。【憲問第十四】
(微生畝、孔子に謂つて曰く。丘何すれぞ是栖々たる者か。乃ち佞を為すなからんや。孔子曰く。敢て佞を為すにあらず。固を疾《にく》むなり。)
 本章は、世の為に戦うて世を遁れる者と違ふと云ふことを説かれたのである。
 微生畝は孔子に向つて、丘は何をして居る、栖々として奔走して居るのは、巧言を以て人に佞するのではないかと。孔子は之に対つて、丘は敢て佞をなすものではないけれども、頑固にして融通の利かないことをしたくないからで、敢て高く止まつて居るのでない。
 今の時勢にして如何に能力が優れ、達識を有するの人であつても、それだからと云つて直に之に敬意を表することが出来るものでない。世を救ひ民を安ぜしむることでなければならないからである。そして世を救ひ民を安ぜしむる人は、自ら高く止まつて固陋に陥つては何も出来るものでない。
 故に、幾分でも此の社会の為に尽さうとする吾々の如き凡夫は、固陋に陥つてはいけない。朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと云ふのは、固陋になることを誡めたのである。人の説も聞き、人にも聞かれると談ず。社会も之によつて利益するのである。
子曰。驥不称其力。称其徳也。【憲問第十四】
(子曰く。驥は其の力を称せず、其の徳を称する也。)
 本章は、驥に譬へて、君子は力を貴ばずして徳を貴ぶことを言うたのである。
 驥は名馬のことで、孫陽(伯楽)の相する所である。昔驥北の地が名馬を産したので、驥と云ふやうになつたものと思ふ。丁度我が国の南部から名馬を出し、南部馬と言へば名馬の総称となつたのと同様である。
 名馬として尊ばれるのは、飛んだり跳ねたりする力の強い事ではなくして、習熟し控御し易い点にある。人の功を立て業を成すのは、才の力によるものであるが、君子の貴ぶ所はその才のみではなくして徳にある。才を無用としないけれども、徳のない方は遂にその用を誤る
に至るものである。そこで馬を例に引いて、力を称せずして徳を称すと云うたのである。
 今日の政治界にも実業界にも、手腕、才能があつて徳のないものが多く、遂にその用を誤り、国家社会に害毒を流すやうなことになる。故に人は手腕、才能のみ重んぜず、徳を養ふことを忘れてはならぬ。
或曰。以徳報怨。何如。子曰。何以報徳。以直報怨。以徳報徳。【憲問第十四】
(或る人曰く。徳を以て怨に報ぜば、如何。子曰く。何を以て徳に報いん。直を以て怨に報い、徳を以て徳に報ず。)
 本章は、人と交るに徳を以てし、徳に報いることでなければならぬと説いたのである。
 或る人が孔夫子に向つて、人が我に横しまな事をしても、我は却て之れに報ゆるに恩恵を以てしたならばどうであるか、と。然るに孔夫子は之れに対へて、其の怨むべき者に徳を以てしたならば、我に徳のある者には何を以て報じようとするのか。寧ろ正しき心を以て、怨むべきは怨み、憎むべきは憎むべきものである。が、我に対し徳ある者に対しては、必ず徳を以て報ずることを忘るべきでないと答へた。
 この徳を以て怨みに報いるの語は、老子の書中にあるが、孔夫子の説かれた所は其の旨意に反して居る。一体之れはかうでなければならぬと積極的に説くと、どうしても極端に走るやうなことになる。処が孔子は事に対するに斟酌の心を失はない、平和、温厚と云ふことは孔夫子の教への一貫して居る所である。故に怨みに報いるに徳を以てするならば、徳に報いるに何を以てするかと反問して、正しき心を以て怨むべきは怨み、徳に報いるに徳を以てするがよい。例へば人に交るにも、その親密の度合に深浅、厚薄があるやうにすべきものである、と説かれたのである。
 キリストの教へに左の頰を打たば、右の頰をも打たせよと云ふことがあるが、之れは老子の徳を以て怨みに報いると同じく、積極的教へであるが為、一方に偏することを免れない。消極的にして矯激にならないやうに努めて居るのが孔夫子の最も高い所である。
 世の中に親切の押売をする者が多い。社会の思想が悪化して居る、若しこの儘に放任したならば、その弊風の及ぶ所測り知ることが出来ぬ、故に今日の中に匡救しなければならぬと云ふ。尤も今日の社会は確かに匡救しなければならぬ点は数々あることは事実であるが、斯く言ふ人にして果して自分自身が能く修まつて居るかどうか。自分自身を修めることが出来ないで、僣越にも社会を救済するなど云ふことは大それたことである。
子曰。莫我知也夫。子貢曰。何為其莫知子也。子曰。不怨天。不尤人。下学而上達。知我者其天乎。【憲問第十四】
(子曰く。我を知るなきかな。子貢曰く。何ぞそれ子を知るなからむや。子曰く。天を怨みず、人を尤めず。下学して上達す。我を知る者はそれ天か。)
 本章は、その当時、孔夫子の学を知る者なきを嘆じたのである。
 孔夫子は嘗て、当世の遂に我を知る者なしと嘆じた。すると子貢は之れを怪しんで、当今の人にして子を知らないものはない筈であるのに、何故に斯く嘆ぜられるのであるかと問うた。孔子はこれ天命であるから、天を怨むこともなければ、人を尤めるにも当らない。寧ろ学問をして上達するに越したことがない、我を知る者は唯天のみであると。
 この章句は実に孔夫子その人を言ひ表はして余薀がないと云つてもよい。私などもかう云ふことを常に心掛けて居るものである。故にある点に於ては、孔夫子を気取るやうなことがないとも限らないが、併しそれ丈け孔夫子を尊崇し、孔夫子の精神を体得した為であるとも言ふことが出来る。孔夫子の教へを形の上では能く知つて居つても、実の上には知つて居るものは至つて少いものである。
 私が実業界に入り、富を増すことに微力を致したことは世間周知のことである。併しながら、その富は自己の富を増すことでなく、国富を増すと云ふことであつた。尤も国富を増しつつ自己の富をも得たことは事実であるけれども、自己の為に図つて国の為に図ることがないのは、大なる誤りであることを信じて居るものである。即ち国家社会を主としてやると云ふやうな働きに長じなければならぬ。
 処が世間の多くは、自己の為の働きのみやつて国家社会の為と云ふことは至つて少い。一体自己の富を増すと云ふことも、決して自分のみの力でなく国家社会のお蔭によつて出来るものである。殊に自分のみ富んで居たからとて、その国が富んで居るものではない。例へば国王が如何に富んで居たからとて、その国全体が富んで居ると云ふことが出来ないやうに、ある一人の人が富んで居つても、他に貧しい人が沢山あれば、その国が矢張り貧しいと言はなければならぬ。換言すれば、自己一人の富を増すと云ふことでなしに、国全体の富を増すと云ふことに努力しなければならぬ。
 然らば如何にして国富の増進を図るかと云ふに、富を取り扱ふ所の実業界の発展に尽すのが最も効能がある。而して私の実業界に入つたのも実に茲に胚胎して居るのである。そして自己の為でなくして、国家、社会の為になることについて働いたのである。
 若し富を己れのみに集中しても、国家社会の為にすると云ふ考へがない場合には、その富は無用なことにのみ使はれて仕舞ふ。即ちその人を得ないと、折角の富も安逸贅沢などに使用されて、人を誤り、隣を害することになる。かうなれば富も下らんものになるから、下らんものを集めても何にもならん訳である。
 富と云ふものは、時代に応じ、学問、道徳の為には犠牲にすべきものであるから、社会的事業、国家的施為をなすべきである。然るに一体今日の富に対する考へは、自分一個の為に富をなすと云ふことが最も多く、富を国の為に使ふと云ふことが少なくなつて居る。これではいけない、どうしてもこの悪傾向の矯正をしなければならぬと思つて居る。私などが出来る丈け国家社会の為に尽し、今後も亦尽さうとして居るのも之れが為である。
 そしてかうする事は、決して人に知られんことを希ふ為ではなく、国家、社会に尽すことが自己当然の本務であると信じて居るからである。故に人に知らるることがなくとも、天を怨みず、人を咎めず、自己の尽すべきことは尽すべきである。かう云ふことを知つて居るのは独り天のみである、と思ふことによつて、自己の名利を放れ、国家、社会の為を思ふに至るものである。
公伯寮愬子路於季孫。子服景伯以告曰。夫子固有惑志於公伯寮。吾力猶能肆諸市朝。子曰。道之将行也与。命也。道之将廃也与。命也公伯寮其如命何。【憲問第十四】
(公伯寮子路を季孫に愬ふ。子服景伯以て告げて曰く。夫子固より公伯寮に惑へる志あり、吾力猶能く諸《これ》を市朝に肆《さら》さん。子曰く、道の将に行はれんとするや命なり。道の将に廃れんとするや命なり。公伯寮それ命を如何にせん。)
 本章は聖人は道を修むることに専念して道の行はるると否とは敢て問ふのでない。公伯寮は魯の人。市朝は尸を陳するに大夫以上は朝、士は市に於てするので茲に連言したのである。肆は尸を陳すること。
 子路が季孫に仕へて居つた時に、公伯寮が子路を季孫に讒した。子服、景伯の二人は、子路に罪なきを知つて居るが為に、孔子に告げて曰ふには、季孫は寮の言に惑はされて居る。憎むべきは寮であるから吾々の権力を以て之れを殺し、市朝に肆さうと思ふと言つた。然るに孔子は、之れを論じて、上位の者に用ゐられて道の行はれんとするも天命である。用ゐられないで道の廃れんとするも天命である。決して人の為す所のものではない。季孫が寮の言を信じ、子路を斥くるのも矢張天命であるから、茲に敢て誅するに足らんのである、と説いたのであつて、取り立てて説明するまでもないことである。
子曰。賢者辟世。其次辟地。其次辟色。其次辟言。【憲問第十四】
(子曰く。賢者は世を辟け、其の次は地を辟く、其の次には色を辟く、其の次は言を辟く。)
 本章は、賢者は機を見て禍を辟けることの一様でないことを言ふのである。
 賢者は、時に用ゐられないので、道の行はれざるを見れば機を見て避け、敢て妄進するものでない。併しその避け方も一様でない。天下に道の行はれないことを知るや、伯夷、太公の如き、世を避けて出ない。百里奚の如き、虞を去つて秦に行つた如き、霊公が飛雁を見て色孔子にあらざるを知つて去られた如き、又衛の霊公が、孔子に陳を問ふのを聞いてその言の我に合はざるを知つて去つた如きは、皆その機を見たものと云ふことが出来る。
 この言を強ひて実例にとる訳でもあるまいけれども、実際上、現在に当嵌めることは出来ない。併し今日は本筋通の事が行はれないことは事実であるから、人の交りについて、この言を考ふることが必要であると思ふ。社交上、近親、上下の別がなくとも、機を見ると云ふことが必要でないとも限らんから、この場合禍を避くることを心懸くべきである。
子曰。作者七人矣。【憲問第十四】
(子曰く。作者七人。)
 本章は前章に続いて、機を見て禍を避けた人が七人あつたと云ふ。
 機を見て避けた者は七人あると云つて、賢者の世に用ゐられないを嘆ぜられたが、その七人は何人であるか茲に明かにして居ない。一説には、尭、舜、禹、湯、文、武、周公の七人なりと云つて居るさうである。併し茲にはそれ程詮索する必要もないと思ふ。
子路宿於石門。晨門曰。奚自。子路曰。自孔子[孔氏]。曰。是知其不可。而為之者与。【憲問第十四】
(子路石門に宿る。晨門曰く。奚れよりす。子路曰く孔子[孔氏]よりす。曰く。是れ其の不可なるを知りて之れを為す者か。)
 本章は、晨門が孔子の憂世の真意を知らないで冷評したことを叙したものである。
 石門は魯の城の外門の名、晨門は晨に門を開くを司どる所の門番を称するのであるが、蓋し此の者は老荘の流れを汲む賢人で、此の卑しい職に隠れて居つて此の言をなしたのである。
 嘗て子路が、魯の城の外門である石門に宿つて、朝門の啓くを待つて門内に入らんとすると、門番は子は何処から来たのであるかと問うた。子路は孔氏から来たのであると答へた。すると晨門は、孔子は今の世の為すことの出来ぬを知りながら、之れを諦めもせず、天下に奔走して道を行はんとして止まない者であらうと冷評した。晨門は老荘の流にして独り自らを善くすることに満足して、孔子の如く天下の為に憂苦することを知らずに居る者である。
 私は、長年商業道徳――いはゆる経済と道徳とは一致せねばならぬと云ふことを言つて居る。併し私の言うたことが果して世間で行つて呉れて居るかどうか。或は私の言ふことは、無用の努力であると誹つて居るかも知れない。けれども、私は小さくとも天下を善くしようと考へて居る。小さくとも善い事ならば、行へばそれ丈け天下の為になる。ある種の急激な人達は、そんなことが直つた所で仕様がないではないかと言ふかも知れない。が併し全部の人が正しいことを行はんでも、一部でも何部でも直れば直つた丈けそれ丈け善い訳である。
 今や選挙が終り、選ばれた四百幾十人の代議士が自ら国家の選良であると思つて居つても、本当によい人は四百幾十人の中四五人位のものかも知れぬ。それだからと云つて全部の代議士が悪いと云ふことは出来ぬ。又一年三百六十五日悪い事をするよりも、一日でも十日でも善い事をすれば、それ丈国家の為に善いのである。
 孔子は長い間天下の為に道を説かれたが、之れに報いられたことは至つて少なかつた。それだからと云つて、世を避けて自ら独りを善くして得たりとして居なかつた。幾らかでも道が行はれると、行はれる丈け善いとしたのは、孔子の考へのえらい所である。
 現内閣は思想善導だ綱紀粛正だなど言つて居るが、内閣自身果して之れを言ふ資格があるかどうかは疑問であるけれども、之れをやることは悪い事ではないからやるがよい。全部直らんで幾分でも直るのがよい、又自分一人でも之れを直して行くと云ふ事は善いことに違ひない。尤も如何なる善事でも一時に之れを行ふと云ふことは六ケしい。故に小なる善事を段々に積んで大なる善事をなすがよい。いかぬと知つて敢て之れを為すと云ふことは、勿論大いに非難せねばならぬ。
子撃於磬衛[撃磬於衛]。有荷簣而過孔氏之門者。曰。有心哉。撃磬乎。既而曰鄙哉硜[々]乎。莫己知也。斯已而己矣。深則厲。浅則掲。子曰。果哉。末之難矣。【憲問第十四】
(子磬を衛に撃つ。簣を荷うて孔氏の門を過ぐる者あり。曰く。心ある哉、磬を撃つや。既にして曰く。鄙なる哉。硜々乎たり。己を知ることなきや。斯に已まんのみ。深ければ則ち厲し、浅ければ則ち掲す。果なる哉、之れ難きことなし。)
 本章は前章と同じく、孔子の真意を知らぬことを云ふのである。
 磬は楽器、硜々は石の音にして、又専確の意、厲は衣を以て水を渉るを謂ひ、掲は衣を掲げて渉るを謂ふのである。果は果断、末は無である。
 孔子が嘗て衛に在つた時に磬を撃つたことがある。するとその時、偶〻簣を担つて孔子の門前を通つた者がある。そしてその声を聴いて世を憂ふる心のあるものである。(即ち世を憂ふる心があればそれが手に感じ、磬に感じてその心を知ることが出来る。)と云つたが、又曰ふには、その磬の音はかたくなで鄙しい。若し世人が自分を知らず用ゐることがなかつたならば、世を去つて一身を全うすべきである。何ぞ功果のないのに奔走して労苦する必要があらう、水が深ければ衣を持つて渉り、浅ければ衣を掲げて渉るではないかと。孔子は之れを聴いて、この人は世を見るに早速である。併し世の中をかう観て仕舞へば何でもないやうであるが、さう云ふものではない。又本当に自分の意を知つて居れば、こんなことは言はれぬ筈であると云はれた。
 荷簣の人が、孔子の天下の為に道を行はんことに労苦して居ることを笑つたのは、丁度、ある漁父が屈原の世に容れられず江〓[江潭]を彷徨して居たのを見て、聖人は万物にこり固まらず能く世と共に推移するものである。世人が皆濁つたならば、其の泥の波を挙げたらよいではないか。衆人が皆酔つたならば、その糟を喰ひ汁をすすつたらよいではないかと言つたのと似て居る。
 屈原はこれに答へて新に沐浴するものは必ず冠の埃を取り、衣の塵を払ふものである。自分の如き潔白なものは、世の中の汚きものを受けることは出来るものでないと云つた。屈原は漁父の之を容れるものでないことを知つて、滄浪の水清まば以て吾が纓を濯ふべく、滄浪の水濁らば以て吾が足を濯ふべしと云つて其処を去つたと云ふことである。此の漁父の如きも荷簣の人と同じ思想を持つて居る人で、又孔子の真意を知る人ではない。
子張曰。書云。高宗諒陰三年不言。何謂也。子曰。何必高宗。古之人皆然。君薨。百官総己。以聴於冢宰三年。【憲問第十四】
(子張曰く。書に云ふ。高宗諒陰三年言はずとは、何の謂ぞ。子曰く。何ぞ必ずしも高宗のみならんや。君薨ずれば、百官己れを総て以て冢宰に聴くこと三年。)
 本章は、古代の人君は喪にあつては政を聴かないことが礼であつたことを言うたのである。
 書とは周書無逸篇である。高宗は商王武丁である。諒陰は諒闇とも云ふ。冢宰は大宰のことである。
 子張が問うて言ふには、書に高宗喪に在つては諒闇三年、政を言はぬと云ふことは如何なることであるかと。然るに、孔子は之れに対へて、喪に在つて政を言はぬのは必ずしも高宗のみではなく、古の人は皆さうであつた。君が薨ずれば、百官は悉く己れの官職を引纏めて、命令を大宰から聴くことになつて居る。即ち大宰は君に代つて政を聴くから、国政に支障を来すやうなことはない、と言はれたのである。
 今此の章句を以て現代に当て嵌めようとしても、それは出来ない。併しながら、その精神である礼を重んずると云ふことは今も昔も変りはないが、その形式は今の世に当て嵌まるやうにしなければならぬ。周の時代は殊に礼を重んじたが為に、君薨ずれば喪にあること三年としたのである。礼記の喪服四制の中に、高宗の諒闇三年政を言はなかつたのを称すべしとしたのである。此の高宗は武丁と称し、殷の国の賢主である。世を継ぎ位に即いて喪に服したが為に、殷の国も一時は衰へたけれども、直ちに盛んになり、礼も廃れて居つたが又起つた。之れを以て国人は称して高となし、遂に高宗と称されるやうになつたのである。
 此の諒闇三年と云ふことは、孔子の言はれたやうに高宗独りの行つたことではないが、その喪にある三年の、三年と云ふのは、子供の時は三年間も親に非常に世話になつたと云ふ所から来たもので、父母を追慕する為に之を行ふことを礼とするやうになつたのである。
子曰。上好礼。則民易使也。【憲問第十四】
(子曰く。上礼を好めば、則ち民使ひ易し。)
 本章は、人の君たる者が礼を好めば効あるを言うたのである。
 人君自ら礼を好めば、民も倣うて使ひ易くなると云ふのである。そして之れを以て見ても、孔子は如何に礼を重んじたかを知ることが出来る。論語の「顔淵篇」に、顔淵が仁を問うたのに対し、孔子は、己れに克つて礼に復れば仁となる、一日己れに克つて礼に復れば天下仁に帰る、仁となるは己に由つて、而して又人に由るものである、と対へた。淵顔[顔淵]が更にその項目を問ふと、孔子は、非礼視るなかれ、非礼聴くなかれ、非礼言ふことなかれと言つたことがあるが、之れは皆礼の重んずべきを示したのである。
 総て礼を基調として行らなければ、正しきことが行はれるものでない。即ち吾々の一挙一動にも礼がなければならぬ。かう言へば、或は礼は可笑なもののやうに思ふかも知れぬが、日常の起居、動作に於て節制がなければならぬ。此の節制と云ふことが、礼に外ならぬのである。又政道にしてもさうである、国民の福利増進を図り、国家の隆昌を期すると云ふことは我慾があつては出来ぬ。即ち節制してその宜しきを得て政道が正しくなる、之れが礼である。礼楽刑政と云ふも、究極する所、礼の本体に到達せしめようとするに過ぎない。
子路問君子。子曰。脩己以敬。曰。如斯而已乎。曰。脩己以安人。曰。如斯而已乎。曰。脩己以安百姓。脩己以安百姓。尭舜其猶病諸。【憲問第十四】
(子路君子を問ふ。子曰く、己を脩むるに敬を以てす。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて人を安んず。曰く。斯くの如きのみか。曰く。己を脩めて百姓を安んず。己を脩めて百姓を安んずるは尭舜それ猶諸《これ》を病めり。)
 本章は、君子は己れを修めて人を治むることを言つたのである。
 子路が孔子に対つて、君子とは如何なる人を言ふのであらうかと問うた。孔子は、己れを修めてそして人を敬すればよいと答へた。すると子路は之れでは物足らず思つたので更に、斯の如くすればもう君子と称することが出来るであらうかと言つた。然るに孔子は改めて、己れを修めて人を安んずればよい。更に進めて、己れを修めて百姓を安んずればもう君子と称して差支ないものである。併しながら、大聖尭舜と雖も此の己れを修めて百姓を安んずることは却〻六ケしいものとして居るから、常人は猶更のことであると答へた。
 子路は直情径行で、自分の信じたことを直に行ふ勇気のある人である。その勇気の為に己れの危険をも念としないことが多いので、孔子の為に屡〻誡められたことがある。嘗て孔子は、道が行はれぬので世が乱れて居るから之れを見るのも堪へ得ぬ。故に筏に乗つて海に避けたならば、我に従つてついて行くのは子路独りであらうと言つた。子路は之れを聞いて大いに喜んだから、孔子は、それでは余りに勇気が過ぎて居ると言つたことがある。又子路が孔子に向つて、三軍の師を動かさんとする時には誰と与にするであらうと云ふと、孔子は、暴虎馮河死して悔いない者とは与にすることが出来ぬと云つて、子路を諷諫したことがある。
 子路はこのやうに勇気があつた為に、衛に仕へて居る時に戦争に出て遂に討死をした位、直進的で率直な人であつたから、君子とはそんなものかと云つた時、孔子は君子を三段に分けて之れを説明した。そして最後に、己れを修めて百姓を安んずるのは、尭舜と雖も猶之れを難しとすると結んだ所などは、能く子路の人となりを知つて、之れに当て嵌まるやうに説明したもので、誠に面白いと思ふ。文章としても優れて居る。今日でも、子路流の人が能くこれしきのことかなぞと、直ぐにでも之れを実行出来るやうなことを云ふ人もあるやうであるが此の之れしきのことが、容易のやうであつて却〻容易でない。之れを孔子が茲に誡めたのである。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.597-609
底本の記事タイトル:三六九 竜門雑誌 第四三二号 大正一三年九月 : 実験論語処世談(第六十五《(七)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第432号(竜門社, 1924.09)
初出誌:『実業之世界』第21巻第4-7号(実業之世界社, 1924.04,05,06,07)