デジタル版「実験論語処世談」(68) / 渋沢栄一

『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.610-617

原壌夷俟。子曰。幼而不孫弟。長而無述焉。老而不死。是為賊。以杖叩其脛。【憲問第十四】
(原壌、夷して俟つ。子曰く。幼にして孫弟ならず、長じて述ぶるなく、老いて死せざるは、是れを賊となすと。杖を以て其の脛を叩く。)
 本章は、孔子が原壌の人生を害することを責めたのである。
 原壌は孔子の旧友、夷は両足を投げ出して坐つてゐること。孔子の旧友である原壌が、孔子を立つて迎へもせず両足を投げ出して待つて居た。孔子は原壌のまだ礼を重ずることを知らぬを見て、幼時は長者に対して従順でなく、長じても述ぶる程の事功もなく、而も長生きをして居るから、世の良風醇俗や倫常を害すのみである。こんな者を賊と云つてよいと、其の脛を軽く叩いたといふことである。
 茲に言ふ「老而不死」は長生きをしてはいかぬと云ふのではなく、長生きをして居つても、世のためになるやうなことは少しもなく、却て害毒を流すやうなことをすれば世の迷惑になるから、賊のやうなものだ、こんな者であつたら、早く死ねばそれ丈害毒が少くなると云ふ意味である。
闕党童子将命。或問之曰。益者与。子曰。吾見其居於位也。見其与先生並行也。非求益者也。欲速成者也。【憲問第十四】
(闕党の童子、命を将《つた》ふ。或る人之を問うて曰く、益する者かと。子曰く、吾其の位に居るを見る。其の先生と共に並び行くを見る、益を求むる者に非ざるなり、速に成らんを欲する者なり。)
 本章は、童子の小生意気なやうな態度を誡めたのである。
 闕党とは、郷党などに用ゐるやうに、党の名である。童子とは冠をせない者、将命とは、主人と賓客との言を相伝へるを言ふ。
 闕党の童子が将命の役をなしたので、或る人は此の状態を見て、此の童子は益を得ようとして居る者であらうかと、孔子に問うた。孔子は、童子は傍に居ればよいのに、長者の列位に居るのを見た、肩を並べて行くのを見た。之れでは童子の礼と云ふものでないから、彼は益を求めようとする者でなく、早く成人になり度いと云ふ小生意気な者であつて、長者に対する礼を知らぬものであると言つた。
 集註に、此の童子を孔子の家に在るものとしたけれども、佐藤一斎は之れを非とし、此の童子は闕党にありて命を行うて居るから、或る人の問に孔子が其の目睹する所を挙げて、益を求むる者でないことを証したのである。若し此の童子が夫子門内の事であれば、之れに教へて、唯その位に居る、先生と並行して居ると見たとのみ言ふ訳がないと言つて居るが、尤もな説のやうである。
衛霊公問陳於孔子。孔子対曰。俎豆之事。則嘗聞之矣。軍旅之事。未之学也。明日遂行。在陳絶糧。従者病莫能興。子路慍。見曰。君子亦有窮乎。子曰。君子固窮。小人窮斯濫矣。【衛霊公第十五】
(衛の霊公陳を孔子に問ふ。孔子対へて曰く、俎豆の事は則ち嘗て之を聞けり。軍旅の事は未だ之を学ばざるなり。明日遂に行《さ》る。陳に至るまで糧を絶つ。従者病んで能く興つことなし。子路慍る。見《まみ》えて曰く、君子も亦窮する有るかと。子曰く、君子固より窮す。小人窮す、斯に濫す。)
 本章は君子は窮して濫に至らないことを説いたのである。陳は軍隊の組織を言ひ、俎豆は祭器、在陳絶糧は、楚の国で孔子を聘した時、陳、蔡の大夫が之を疾《にく》み、兵を出して孔子を囲んだので、行くことが出来ず困つたことを言うたのである。
 衛の霊公が、孔子に軍陣のことを問はれた。すると孔子は、俎豆を陳設することは学んだこともあるが、軍陣の事は未だ嘗て学んだことがないと言つて、其の翌日直に去つた。そして楚の国に行かうとして陳の国を過ぎるとき、陳、蔡の大夫は之を疾み、兵を出して囲んだから、糧食を得ることが出来ず、随行の者共皆飢疲れて起つことが出来なくなつた。子路は此の有様を見て少し不愉快の面持ちで、孔子に見えて、君子も窮するかと言つた。孔子は、君子は固より窮するが、如何なる艱難、困窮に陥つても身を正しくし道を守るものである。けれども小人はそれが出来ず、遂にみだらな行動に出づるものであると言つた。
 衛は魯の国の隣りにある。衛公は行ひの修まらない人であり、又夫人南子も器量人ではあつたが、行儀の悪い人で、色々非難があつたので、家来の中にも優れた者も居たが、余り振はずに了つた国である。
 衛公は、孔子の戦ひを好まぬことを知つて居ながら、戦ひのことを聞いたから、孔子は、衛の国は民の為に善政を布かうと云ふ考へもなく、唯自分の力を頼んで他国を虐ぐることのみを考へて居つて、言はば好戦国だと思つたから、この問ひに対して、このことは知つて居るが、そのやうな乱暴なことは知らぬと軽くあしらつた。丁度、毛織物会社に行つて紡績糸はないかと云つたから、私の処には毛糸はありますけれども、紡績はありませんと対へたと同様である。
 この一行が途中で糧食を絶たれ苦しんだ時に、君子も窮するかと云ふやうなことから、子路のどんな人か、ありありと判る様に思ふ。又春秋の諸侯が如何にも好戦国民だとも頷かれるし、孔子は、君子は窮するが、小人は窮すると濫に至ると答へたなどは、孔子らしい言ひ現はし方をして居るので、この短い章句の間に二人の挙動が十分に窺はれ、又その時代も見える様である。
子曰。賜也女以予為多学而識之者与。対曰。然。非与。曰。非也。予一以貫之。【衛霊公第十五】
(子曰く、賜や女《なんぢ》は予を以て多く学んで之を識る者となすかと。対へて曰く、然り、非なるかと。曰く、非なり。予一以て之を貫く。)
 本章は、孔子は一の忠恕を以て万行を貫いて居ることを説いたのである。
 孔子が子貢に、汝は予を以て多く学んで之れを識つた者と思つて居るかと言ふと、子貢は、さうであると思ひます、さうでないでせうかと云つた。孔子は、さうでない。予は一の忠恕によつて万事に応じて居るのであるから、多く学んで識る者でないと対へた。之れは子貢が多く学んで識ることに努めるが為に上調子になる病があつたので、学の本づく所を知らしてその病を去らんとしたのである。
 事に徹底する一つのものは忠恕である。この忠恕の語は里仁篇にあつて、「吾道一以て之れを貫く。曾子曰く唯。」とあるから、曾子は孔子の言を直ぐに悟つたけれども、他の門人どもは判らぬので、何の事を言ふのであるかと曾子に問うた。曾子は、夫子の道は忠恕のみであると言つて聞かした。故に茲に言ふ一以て之れを貫くは忠恕である。
 忠恕は大変に必要なものであるから、もつと丁寧に説明する必要がある。忠恕は至誠と博愛が程能く働くことによつてその効果がある。至誠がなければ忠も恕も出来ない。即ち至誠のみで博愛がないと軟みが出来ない。又、博愛のみで至誠がないと一方に偏する。人には学問も知識も必要だが忠恕がその根本にならないと之を正しく活用することが出来ない。故に人は学んだからそれでよいものでなく、之に至誠と博愛とが必要である。人は至誠と博愛とさへ有つて程よく働けば学ばんでもよいやうなものであるが、学問知識がないと事物の正邪を鑑別するに偏狭になつて、正しき判断にならぬ。学問、知識にも、至誠と博愛が必要ではないか。そしてこの至誠と博愛とが練れて行つて程よく行はれることを忠恕と云ふのである。至誠あり之に博愛があつて人に情愛を作るから、人には至誠と博愛とが必要である。之は私の考へであるが、世に処するにはこの至誠、博愛―忠恕を拡張する必要があると思ふ。
 此の間インドの詩人タゴール翁が来て頻りに説いたことも、私の此処に言ふ忠恕に外ならないものと思ふ。丁度六月十一日の晩である、工業倶楽部に来て講演をしたが、その中に日本は昨年自然の力による災害を受けたが、その災害に遭つても意気が沮喪せず、却〻の勇気を以て復興に努めて居る。其旺盛なる元気を喜ぶものである。然るに今年は又人為による大なる打撃を受けたが為に、厳しい感じを国民の頭に与へて居る。併しながら、国民は至つて温健なる考へを以てこの厭ふべき彼の処置に対して如何に処理するかに努めて居る、と云つて、日本が自然と人為との災害に対して転回すべく努力をして居ることを称揚して居る。
 そして更に、強い力と富とを有つて居る者は暴戻な行動になり勝ちなものである。個人としてはそれ程でないけれども、国家となれば猛然としてその力を現はして来るものであると云つて、米国今回の行動を隠に誹謗した。
 国が大きく、富も大に人も多いと、どうしてもその様な事に傾く。之も個人間であればそれ程でもないが、国になると一層その甚だしきを見る。斯くの如く無理をやることは世界の通弊である、と説いて居る。タゴール翁の此の言は真理に当て嵌つて居るとは思はぬが、近来の事実象からしてこの感想を述べられたことは尤なことと思ふ。
 翁は翌日私の宅へも来られたから、私は翁の印度哲学の考へを有つて居ると信じたので、問を発して見た。即ち人文を進める為に教育を重んじて居る。貴国はどうか知らぬが、他の世界各国は押しなべて斯の如き考へを有つて居る。そして教育によつて知識を進めて居る。知識を進めるには教育がよいから、時代の進むに従つて知識が進んでゐる。故に単に知識と云ふ点から云へば、親より子供は知識があり、孫はそれよりも尚進んで居る。
 この知識は法制、経済などの基礎となつて種々なる進歩を促して居る。又この知識により事物が進歩すれば富を作ることが出来る。即ち労を少くして能率を挙げれば富が出来る訳である。この富は色々の働きをして力となるが、この力は良い方にも働き、悪い方にも働く、良い方に働けば言ふことはないが、悪い方に働けばその結果自己満足を図ることの為に得手勝手な態度に出る。これが強暴不遜となつて人の行動を抑圧し、偏に自己の慾を増進せんことを努めて飽を知らなくなる。
 斯の如き結果を生じた所以を考へると、国民に教育を与へたのでこの罪悪が出来たから、結局は教育は罪悪を作ると云ふことになる。然らば教育を与へなければ、国家の太平無事を実現するものかと云ふにさうでもないが、併し教育を施したことにより罪悪となる。尤も今日の状態も良くないが、教育の当然齎すこの弊害を如何にして除くかは世界の等しく要求して居る点であると思ふ。故に教育により金を増し知識を増しても罪悪とならぬやうにするにはどうするか、翁の考へを伺ひ度いと云つた。すると翁は、知識があつても富をなすことの出来るものは、出来る丈けその弊害を出さぬやうに努力するより外はないと言つた。
 この結論から言へば、君子の道は忠恕に帰すると云ふことになる。そしてこの忠恕は、至誠、博愛の情を以て人に当ればよい。さうすれば富と力を増してもその弊害がない。他国に於ても亦之に倣つて正しいことをやるから段々に弊害がなくなる。
子曰。由。知徳者鮮矣。【衛霊公第十五】
(子曰く、由、徳を知る者鮮し。)
 本章は、真に徳を知るものは少いと言ふことを言つたのである。
 ある時孔子が子路に、当今は本当に徳を知るものは少いと歎じた。この徳を知ると云ふことは、徳を行ふ者が少いと云ふことで、陽明の所謂知行合一のことを言ふのである。
 この語は、孔子の当時に於て歎じたのであるが、今日孔子になつて現在の社会を見るならば、矢張り徳を知るものなしと言ひ度い。若し今日孔子をこの東京に在らしめたならば、渋沢、徳を知る者少しと云ふに違ひない。しかし現代は殊に甚だしくはないかと思ふ。彼の政治家にしても実業家にしても徳を知つて居るものはない。或は宗教家、教育家などにもないかも知れない。
子曰。無為而治者其舜也与。夫何為哉。恭己正南面而已矣。【衛霊公第十五】
(子曰く、無為にして治むる者は其れ舜か。夫れ何をか為すや。己を恭しうし正しく南面するのみ。)
 本章は、舜は場当りのことをせぬことを言うたのである。
 孔子は、能く天下を治め静平なるを得たのは舜であると称めたが、然らば舜は何をなしたかと云ふに、唯己を恭しうして正しく南面して政を為して居るのみであると教へた。
 舜は真直で曲つたことをしない人であるから、国を治めるにも権謀術策を用ゐるやうなことをせず、至誠を以て懈怠なくやつたので、孔子の称めるやうな国をなしたのである。茲に云ふ正しく南面するのみ
 と云ふのは、天子の位にあつて正しき政治、多数国民の利益幸福の為に一定の方針を樹て之れを行ふことを言つたもので、単に南面しても居て何もしないと云ふ意味ではない。
 翻つて今日の政治の状態を見るに、廟堂にある者でも野にある者でも、その主義方針が一定をして居ない、言はば南に向いて居るか北に向いて居るか決つて居らぬ。あつちを見たりこつちを見たりして居ると云ふ有様である。彼の支那に対する態度にしてもさうではないか。南か北か少しも極まつて居ないから、ある時は南に向いて居たかと思ふと北に向いて居つたりする。又対米関係にした所で、日本に一定の方針が確立しその方針の下に事を運んで居つたならば、今日のやうな不幸を見なくて宜かつたと思ふ。之れなどは概括的に評論したことがあるが、国の政治なるものは、その方向―方針をはつきりして之れに向かつて進んで行かなければならない。
 処が今日の政治家を見るに、少しも自信と云ふものがないのは実に遺憾なことである。之れを見た眼で己を正しうして南面する舜と比較すると、如何にも自信が強く働いて居るかを思はれるのである。近い例として加藤(友)内閣、山本内閣、清浦内閣なりの遣り方を見ても如何にも自信がないのを思はざるを得ないではないか。
 更にその以前に遡つては、我が国に憲法政治の実施をなした伊藤公にも是等の批難は免れない。伊藤公とは特に別懇にしたから公私とも能く接触したので能くその間の消息を知つて居るが、政友会を組織する時などは随分苦心された。此の政友会を組織したと云ふことも、我が憲法政治の為に尽さんとしたのであるが、此の伊藤公でも果して確乎たる信念の下にやつて動かなかつたかと云ふに、決してさうでなかつた。況して他の碌々たる者に至つては、八方睨みのみをやつて決めることが出来なかつた。彼の山県公、大隈侯にして矢張りそのやうなもので、悪く云へば場当り仕事が多かつた。近頃の内閣などになると内閣自身がどつちへ向いて居るか知らんと云ふ有様である。自身としては知つて居る積りであらうが、その遣り方を見ると、知らんものと思はざるを得ない。
子張問行。子曰。言忠信。行篤敬。雖蛮貊之邦行矣。言不忠信。行不篤敬。雖州里行乎哉。立則見其参於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。【衛霊公第十五】
(子張、行はれんことを問ふ。子曰く、言忠信、行ひ篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行はれん。言忠信ならず、行ひ篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや。立つ則ち其前に参するを見る。輿に在りては則ち其の衡に倚るを見る。夫れ然る後に行はれんと。子張之れを紳に書す。)
 本章は、忠信、篤敬は何処にあつても行はなければならぬを言うたのである。
 子張は、事の多く己の意の如くにならざるを憂ひ、如何にせば能く行はるるやを問うた。孔子は之に対へて、其の言は忠信で、行が篤敬であれば、人も之れを信じて敬するやうになる。たとへ未開、無知の夷狄の如き野蛮の国にあつても行はれる。若しその言が忠信でなく行ひが篤敬でなかつたならば、郷党州里と雖も行はれない。故に忠信篤敬にして忘れないと、立つ時でも忠信篤敬が自分の前に参するやうに見える。車上に在る時でも忠信篤敬が衡に倚るやうに、忠信篤敬は少しも自分の側を離れて居ない。斯の如くになれば何事でも能く行はれる、と説いた。すると子張はその言に感心して、之を紳《おび》に書いて忘れぬやうにした。
 此の章句は実に現代に適当して居ると思ふ。この間銀行倶楽部に於て加藤総理を始め各閣僚を招いた。その時私も行つたが、委員長成瀬正恭氏は私に何かお礼の言葉を述べよとのことであつた。加藤総理も浜口蔵相の演説も、財政は放漫ではいかぬから之を緊縮しなければならぬし、又国民の奢侈品を禁止して人心を緊張せしめなければと云ふ決心を述べた。そこで私はその決心のある所を称讃し、そして此の奢侈品に対しては禁止同様の制度を取られたことは誠に宜いことであるが、かかる制度を実施したのは、明治維新後には未だ曾て聞かぬことである。唯徳川時代に於て幕府が之を執つたことがあるけれども、之れを今日の手本とすることは出来ぬが、参考にはなると思ふ。
 此の節約を以て上下をして実行せしめんとしたのは先には天明に於ける松平定信がある。松平は節約を単に人に責るばかりでなく自ら之れを実行した。而も之れを制度として実施するには、先づ自分自身に於て大なる覚悟を以てやつた。之れなどは、本所の吉祥院の歓喜天に納めた心願書に依て窺ふことが出来る。即ち
天明八年正月二日、松平越中守義、奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜しく格別の高値無之、下々難儀不仕、安堵静謐仕並に金穀御融通宜しく、御威信御仁恵下々へ行届候様に越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも奉懸候而必死に奉心願候事。右条々不相調下々困窮御威信御仁徳不行届人々解体仕候義に御座候はゞ、只今の中に私死去仕候様に奉願候(生ながらへ候ても中興の功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今の英功を養家の幸並に一時の忠に仕候へば死去仕候方反て忠孝に相叶ひ候義と奉存候。)右之仕合に付以御憐愍金穀融通下々不及困窮御威信御仁恵行届、中興全く成就之義偏に奉心顧候。敬白。
とあることによつて身を捨ててもその目的を達せんことを期したことを察すべきである。
 定信は学問もあり、隠退の後に楽翁と称し、花月草紙其の他の著書もある程の人である。執政となつたのは三十の時で、倹約を以て、今日の官紀の振粛、財政の緊縮を行はんとしたのであつて、この心願書によつても、定信の真実が如何に強かつたかを知ることが出来る。然るに不幸にして当時の大御所であり術数家である家斉将軍とは意見が合はず、在職僅かに七年にして退くの止むなきに至つたので、遂に所期の功を奏することが出来なかつた。
 天保に至り水野越前守忠邦が出て、寛政、天明の政治に倣つて節約政治を行はんとした。併しその行ふことは実に峻烈苛酷を極めたもので少しも仮借することがなかつた。後藤呉服の如き幕府出入の商人であつたが、禁令に触れたと云ふのでその財産を没収したと云ふ程峻厳を極めたけれども、その効果を奏することが出来なかつた。同じく節約制度をやりながら、松平の政治は人心を緊張せしむる上に功があつたけれども、水野は破れて実がなかつたばかりでなく弊害を残した。このやうに一方に功があり、他方には害をなしたと云ふことは、之を為さんとする心情の如何にある。松平は行はうとすることに忠実であつて術数と云ふものがなかつたから功があつたが、水野は之に反して術数の為に政治をやつたから、功がないばかりでなく弊害を起した。故に之れを行ふ人にして忠実であれば、その事が思ふやうに行かぬとしても功はあるが、若しその人にして術数を弄するものであれば害をなすものである。言はば至誠奉公の念を以てやれば、害があつても少いが、術数をやると害は大変に大きくなる。
 現内閣が奢侈品に対して厳しい制裁をつけたことは誠に結構なことであるが、之れをなさうとするならば、松平の如く神かけても成し遂げようとする真実と決心があつて欲しい。若しさうでなく権謀術数でやることは、その目的がよくても害をなすものもある。今やこの晩餐会に各大臣の来られて居られるのを機会に一言之れを以て御参考までに述べると言つたことがある。それ程忠信篤敬は大事なものである。
 又この章句は、私は海外へ出る人々に対して数限りなく言つて之れが実行を希つて居る。何処の国に行つても自分が此の心掛けさへ有つて居れば行はれぬことはない、世に用ひられぬことがない。行住坐臥の間にも忠信篤敬が現はれて居れば、己れの為すことが必ず行はれるものである。
 これは孔子と子弟との門答であつて、それ程六ケしいものではないが、併し論語を読むものは此処に注意しなければならぬ。人にその事の行はれんことを希ふならば、己先づ言忠信にして行ひ篤敬でなければ何にもならぬ。然るに現在の人は多くは軽薄怠慢であつて、その事に表裏がある。そして行はれぬことを云ふ。成る程言ふことを聞いて居ればその人一人は立派で、他の人は悪く、丁度悪の展覧会のやうであるが、斯く言ふ人も忠信篤敬の人ではないから、その事も亦行はれよう筈がない。
底本:『渋沢栄一伝記資料』別巻第7(渋沢青淵記念財団竜門社, 1969.05)p.610-617
底本の記事タイトル:三七一 竜門雑誌 第四三三号 大正一三年一〇月 : 青淵先生説話集 : 実験論語処世談(第六十六《(八)》回) / 青淵先生
底本の親本:『竜門雑誌』第433号(竜門社, 1924.10)
初出誌:『実業之世界』第21巻第8,9号(実業之世界社, 1924.08,09)